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今年早々インドネシアに行った。
その時のことを少し書こう。




愛しのアレジャン集落 第38話 牛と野菜



廃れるんじゃなかろうか、と思ったものが、発展しており
これからこれが発展する、と思ったものが、いつの間にか消えていた。
それは牛と野菜。


2006年を最後に、僕はかつての任地に足を運ばなくなっていた。
僕と任地を結んでいた絆が、それだけ弱くなったわけではなく、
僕がかかわっているインドネシアが、かつての任地だけでなくなったこと。
そして、家族が増えたことで、
思ったよりも身動きが取れなくなったこと。
さらに、僕自身が農民として、その深度を深めれば深めるほど
僕はどこへでも自由に行けなくなり、
また行く必要性も、自分の中で前よりも少なくなってきたこと。
そんな理由で、僕は協力隊終了後、毎年のように通っていた任地に
行かなくなっていた。

だが、2010年の正月。
僕は、再びかつての任地「バルー」を訪ねることにした。

僕がかかわっていた協力隊のプロジェクトが終了したのは1999年12月。
それからちょうど丸10年が経った。
10年間の社会変容と僕らの活動は一体どう社会に埋め込まれているのか、
それが知りたくて、僕は妻と娘と3人でバルーへ向かったのである。

10年くらい経っていると、
僕らが協力隊で活動したことは、とっくに消え去っているものだと思っていた。
それは一部では、内面化されて、
すでに任地の村人たちの日々の生活の一部になっているに違いなく、
そしてまたある一部は、完全に自分たちの生活スタイルに合わなくて
放棄されてしまったものもあるだろう。
だから、僕らが力を入れてやってきたことなど
昔話の中で語られるくらいで(それも個人名などは忘れ去っているに違いない)
表面的に見えているものは、ほとんどないと思っていた。
だからこそ、こういった変容をみる調査を
どのようにデータをとれば良いか、行く前から考えていたが
まったく案もないまま、とりあえず任地に行くしかなかった。

しかし、だ。
任地に入る前に、以前カウンターパートとして
一緒に活動をした人から、話を聞く機会があり
その人から
「あの時の活動で配った牛の頭数は増えてますよ」
と聞かされて、愕然とした。

少し説明が必要だろう。
僕が派遣されたころに、一緒に1人の女性隊員が派遣された。
彼女は家畜飼育指導の隊員だった。
前任の隊員から、牛の活動を引き継いでいた。
そして前任からあった計画として、住民に牛を貸与して
子供が産まれたら返してもらい、その牛を他の住民に貸し付けるという
牛のクレジット活動を行っていた。

以前書いたように(牛銀行を参照)、この地域では牛をよく野放しに飼っている。
牛は富の象徴であり、
まさに「歩く金」(ある行政官の言葉)だった。
お金に余剰が出来れば、牛を買い、
そして放牧(野放し?)していた。
いたるところに牛が歩いていた光景を今でも思い出す。

しかし、牛隊員の彼女の活動は平坦な道のりではなかった。
貸し付けた牛がなかなか子供を産まなかったり
病気になったり、と順調には数が増えなかった。
1年に上手くいって1頭しか生まない牛は、
2年間しか活動の期間が無い隊員には、合わない活動のようにも
当時の僕からは思えた。
毎日村に入って牛の状況をチェックして歩いていた彼女だが
「牛が増えない」「牛が生まない」「牛が病気になった」
などなどを1人こぼしていたのを、僕は今でも覚えている。
だから彼女が任期を終えて帰るまでに、
何頭の牛が本当に返却されて、それが次の住人の手に渡るのか
甚だ不安な活動に見えた。
折しも、僕らがいた時代は、インドネシアの大不況。
協力隊のプロジェクトが終了して、僕らが居なくなれば、
どうせ“ただ”でもらったものだから、
みんな一斉に牛を売っぱらってしまうんじゃないか、
そんな雰囲気に満ちていた時代でもあった。

それがなんと10年経ってみて
ちゃんとレボルビングシステムとして機能していたのである。
徐々にではあるが、確実に頭数を増やしながら。

一方、僕ら農業指導隊員の活動はどうだったか。
2006年までの調査でほとんど答えは出ているのだが、
今回も確認までに話を聞いてきた。
僕らが力を入れて、野菜の篤農家にしようとした農家が数名いる。
それぞれの集落でリーダー的存在で
影響力も大きい。
その人が野菜栽培で成功すれば、他の農家へも波及するに違いない。
そう考えていた。
野菜栽培のバックアップとして、大規模な育苗所も建てた。
良い苗が潤沢に行きわたれば、野菜栽培も盛んになると考えてのことだった。
育苗所は、建設から地元行政による施設運営まで
さまざまな問題を抱えてはいたが、
僕が帰国するまでには、予算もつき、ある程度動き始めていた。
これからこの地域(任地)の野菜栽培を支えるために。
今回の調査でも、育苗所は機能していた。
というよりも、さらにレベルアップして、運営面でも技術面でも
大きな前進をしていた(苗の品質に少々難を感じたが)。

だのにである。
僕らが活動した野菜栽培は、今、跡形もなく、
その痕跡を見つけることすら難しい状況になっている。
僕らが力を入れた篤農家も、野菜栽培を止めて久しい状況で
1人は、牛の肥育事業に熱心になっており
1人は、タイの民間資本で養鶏事業をやっており、
1人は、農業はそこそこに、村の行政官になり、
サラリーと海外からの援助事業で生計を立て
そして1人は、僕らが来る前の米と落花生を作る農家に戻っていた。

僕らが見込んだ通り、それらの人物は他の農家への影響力を発揮して
牛の肥育事業や養鶏事業は、周りの農家へ大きなインパクトとして波及していた。
それらの事業は、その地域ではちょっとしたブームを起こしていた。
だのに、野菜栽培は継続されず波及しなかったのである。
あんなに投入したのに。

どうしてなのか?
その答えの一つは、養鶏事業でブイブイと鼻息の荒いMさんから聞くことができた。

「野菜は、もう作ってないよ。全く作ってない。タヤが帰ってから、しばらく作ったけど、県の農業事務所から誰も来てくれないし、フォローアップもなかった。県の会議でも言ったさ。『俺はJICAのPembina sayur(野菜栽培の指導者)だ』って。だけど、県側は誰もこの技術を活用しようとしなかった。野菜のプロジェクトは何にもなかったよ。だから、こっちから見限って、タイ資本の民間事業で養鶏をやることにしたんだ。すごく儲かるしやりがいもある。周りにもどんどん勧めているよ」

との答えだった。
事実、彼の集落の周りでは、以前は全く見られなかった養鶏場が
あちらこちらに散見できた。
本当ならば彼が普及を推し進めていくはずだった野菜作りは、
養鶏場が普及していればしているだけ、
その普及しなかった現状を、より印象的に際立出せていた。

つづく

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田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

俳句もしております。「雪解」「街」「いつき組」に所属しております。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
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