村田 純一 著 『技術の哲学』.2009年.岩波書店.
妻が面白い本を図書館で借りてきた。
それが本書。
これまで読書はしてきたのだが、どうにも評を書く気が起らず、読みっぱなしにしていたのだが、今回は書こう。ただ、本書は自分の専門外も良いところで、ほとんど読みこなせていない。そんな状況だが、この本から受けた感銘は記しておこうか。
技術とは何だろうか?
当たり前だが、それが本書の問い。
本書は、ギリシャ神話やソクラテス・プラトン・アリストテレスなどの哲学の巨人から出発し、現代へ向けて技術哲学の変遷を取り上げている。が、ここでは割愛しよう。特に自分にとって記すに値することだけを書きたい。
技術は、単に人々の持つ「既成の目的に新たなひとつの手段として加わっているものではなく、むしろ新たな目的を含んだ新たな目的‐手段連関が形成され、それによって新たな行為の仕方、新しい生活様式がうまれた」(p7)とし、その相互作用的な関係により現在の生活が作り上げられている。そしてその現状から、技術が自動的に社会の在り方を決定しているという技術決定論と、社会の方がどのような技術を導入するかを決定しているという社会決定論の論争が長く続いてきた。
技術決定論では、技術が社会を決定する過程を肯定的に見る(近代主義)か、あるいは、否定的に見る(反近代主義)か、で大きく見解が分かれているが、新たな技術が導入されることで、それは人々にとって新しい選択肢を一つ増やすことではなく、その技術の持つ価値論理によって選択の思考や幅を限定されることを意味する点で、この論は刮目に値する。
「とりわけエリュールやハイデガーの議論のなかでは、現代の社会のなかでの技術はたんなる中立的手段には還元できない働きをすること、また技術的論理が社会の至るところに浸透していること、などに光が当てられており、これらの点に関しては、どのような技術観をとる場合でも無視することはできないだろう」(p118)。
開発途上国での援助の文脈で、この技術決定論的な事例は日常茶飯事で起きており、また現場で関わり合う人々(援助する側される側双方)にとっても苦悩となるのは、新たに導入された技術が現地にとって一つの新たな選択肢となることはなく、それによって人々の価値や社会構造が大きく揺さぶられるからであろう。その面からも、本書は興味深い。
しかし、そのような決定論的な論争が、技術とは何かをはっきりと映し出せるのであろうか。著者は、技術があたかも社会的要因から独立して存在し、独自の論理を備えているかのように見る決定論的見方を否定し、技術と社会が密接不可分な関係であり、技術と社会の関係を解明する社会構成主義の立場を支持している。
著者は自転車と大陸間弾道ミサイルが開発されるプロセスを事例にとり、
「何が自転車であるか、何が大陸間弾道ミサイルに関する成功した実験事実であるか、といったこと、つまり、技術的製品の意味、技術的事実の意味そのものが社会的・政治的要因によって規定される」(p122)と述べている。
その中で、ラトゥールのアクターネットワーク論も取り上げている。
「多くの人間がさまざまな意図と欲求をもって行為しているにもかかわらず、社会はなぜ安定した仕方で成立しうるのかを説明しようとすると、法律、道徳、あるいは、慣習などの規則の存在と、そうした規則が個々人へ内面化されているといった要因をあげるのみでは、明示しうる規則の少なさからみても、明らかに不十分だからである。(中略)そのなかで重要な役割を果たしているのが、規則を事物の形で内在化した人工物の働きだと考えられる」(p124)。
技術によって派生した人工物をアクターとしてとらえることで、人間にとっての「共同行為者」という役割を可能にしたラトゥールの視点は面白い。
その意味で、社会的なものによって技術が構成されたり、技術的なものによって社会が構成されるというのは、その両者が別々のものがあって、相互に構成しあうというのではなく、技術と社会はそれぞれが二重に決定されているということを意味していると、著者は言う。
技術が形成されていく過程で、社会と技術がお互いに作用しあい、ある一定の妥協が成立し、ネットワークの安定性が生み出される。すなわちその技術と社会的価値の「解釈の柔軟性」は閉じられ、人工物の起源やもともとの意味は「ブラックボックス化」することになる。安定的に表面的に機能する技術が、その論理思考によって安定し支えられた社会の中に存在するのを我々が見るのである。そのためその確立したネットワークの見地に立ってはじめて、それはあたかも確定的な論理にしたがった過程であるかのように見えてくるのである。
多分、ここの部分での思い違いが、援助の技術移転の中で起きている大きな問題点にも僕には感じられる。
著者は、自転車と大陸間弾道ミサイルの事例を説明しながら、「技術の解釈学」の重要性を説く。
「現在の型をもつ自転車は、女性解放という政治的流れを支持し、またその流れに支持されることによって実現したのであり、合衆国の大陸間弾道ミサイルに関する技術的な実験事実は、国際政治の状況を構成すると同時に、その状況によって構成されたのである。技術的製品が設計され製作された社会・技術ネットワークが安定し、正常な環境の一部となると、それらが持っていた政治的性質は隠され、沈殿し、暗黙的なものとなる。しかし、このことは技術が本来持っていた政治的性質が消滅したことを意味するわけではなく、むしろその政治的役割が自明になるほどうまく機能するようになったことを意味している」(p132)。
僕は本書をインドネシア研修生との技術観の祖語や、開発現場での苦悩の経験から興味深く読めた。そこにあったのは、技術と言うものが、我々の社会である程度機能し安定している場合、その状態から見えているものがあたかもそれ自体が独立した存在として見えており、その導入が新しい手段であるかのように見えていたことによるある種の勘違いでしかなかったのである。その技術を作り上げてきたプロセスに解釈を求めるならば、それを共有する文化的な価値と、またその変遷によって常に意味付けが変化している技術という姿が見えてくるのである。
ちなみに本書ではさらに非決定性を考慮に入れた技術の設計原理にまで触れ、潜在的知性は大きいが顕在的知性は小さくなるような人工物の設計についても述べている。またフェミニズムの視点と技術に関しても1章を割いて説明しているが、ここでは割愛する。
妻が面白い本を図書館で借りてきた。
それが本書。
これまで読書はしてきたのだが、どうにも評を書く気が起らず、読みっぱなしにしていたのだが、今回は書こう。ただ、本書は自分の専門外も良いところで、ほとんど読みこなせていない。そんな状況だが、この本から受けた感銘は記しておこうか。
技術とは何だろうか?
当たり前だが、それが本書の問い。
本書は、ギリシャ神話やソクラテス・プラトン・アリストテレスなどの哲学の巨人から出発し、現代へ向けて技術哲学の変遷を取り上げている。が、ここでは割愛しよう。特に自分にとって記すに値することだけを書きたい。
技術は、単に人々の持つ「既成の目的に新たなひとつの手段として加わっているものではなく、むしろ新たな目的を含んだ新たな目的‐手段連関が形成され、それによって新たな行為の仕方、新しい生活様式がうまれた」(p7)とし、その相互作用的な関係により現在の生活が作り上げられている。そしてその現状から、技術が自動的に社会の在り方を決定しているという技術決定論と、社会の方がどのような技術を導入するかを決定しているという社会決定論の論争が長く続いてきた。
技術決定論では、技術が社会を決定する過程を肯定的に見る(近代主義)か、あるいは、否定的に見る(反近代主義)か、で大きく見解が分かれているが、新たな技術が導入されることで、それは人々にとって新しい選択肢を一つ増やすことではなく、その技術の持つ価値論理によって選択の思考や幅を限定されることを意味する点で、この論は刮目に値する。
「とりわけエリュールやハイデガーの議論のなかでは、現代の社会のなかでの技術はたんなる中立的手段には還元できない働きをすること、また技術的論理が社会の至るところに浸透していること、などに光が当てられており、これらの点に関しては、どのような技術観をとる場合でも無視することはできないだろう」(p118)。
開発途上国での援助の文脈で、この技術決定論的な事例は日常茶飯事で起きており、また現場で関わり合う人々(援助する側される側双方)にとっても苦悩となるのは、新たに導入された技術が現地にとって一つの新たな選択肢となることはなく、それによって人々の価値や社会構造が大きく揺さぶられるからであろう。その面からも、本書は興味深い。
しかし、そのような決定論的な論争が、技術とは何かをはっきりと映し出せるのであろうか。著者は、技術があたかも社会的要因から独立して存在し、独自の論理を備えているかのように見る決定論的見方を否定し、技術と社会が密接不可分な関係であり、技術と社会の関係を解明する社会構成主義の立場を支持している。
著者は自転車と大陸間弾道ミサイルが開発されるプロセスを事例にとり、
「何が自転車であるか、何が大陸間弾道ミサイルに関する成功した実験事実であるか、といったこと、つまり、技術的製品の意味、技術的事実の意味そのものが社会的・政治的要因によって規定される」(p122)と述べている。
その中で、ラトゥールのアクターネットワーク論も取り上げている。
「多くの人間がさまざまな意図と欲求をもって行為しているにもかかわらず、社会はなぜ安定した仕方で成立しうるのかを説明しようとすると、法律、道徳、あるいは、慣習などの規則の存在と、そうした規則が個々人へ内面化されているといった要因をあげるのみでは、明示しうる規則の少なさからみても、明らかに不十分だからである。(中略)そのなかで重要な役割を果たしているのが、規則を事物の形で内在化した人工物の働きだと考えられる」(p124)。
技術によって派生した人工物をアクターとしてとらえることで、人間にとっての「共同行為者」という役割を可能にしたラトゥールの視点は面白い。
その意味で、社会的なものによって技術が構成されたり、技術的なものによって社会が構成されるというのは、その両者が別々のものがあって、相互に構成しあうというのではなく、技術と社会はそれぞれが二重に決定されているということを意味していると、著者は言う。
技術が形成されていく過程で、社会と技術がお互いに作用しあい、ある一定の妥協が成立し、ネットワークの安定性が生み出される。すなわちその技術と社会的価値の「解釈の柔軟性」は閉じられ、人工物の起源やもともとの意味は「ブラックボックス化」することになる。安定的に表面的に機能する技術が、その論理思考によって安定し支えられた社会の中に存在するのを我々が見るのである。そのためその確立したネットワークの見地に立ってはじめて、それはあたかも確定的な論理にしたがった過程であるかのように見えてくるのである。
多分、ここの部分での思い違いが、援助の技術移転の中で起きている大きな問題点にも僕には感じられる。
著者は、自転車と大陸間弾道ミサイルの事例を説明しながら、「技術の解釈学」の重要性を説く。
「現在の型をもつ自転車は、女性解放という政治的流れを支持し、またその流れに支持されることによって実現したのであり、合衆国の大陸間弾道ミサイルに関する技術的な実験事実は、国際政治の状況を構成すると同時に、その状況によって構成されたのである。技術的製品が設計され製作された社会・技術ネットワークが安定し、正常な環境の一部となると、それらが持っていた政治的性質は隠され、沈殿し、暗黙的なものとなる。しかし、このことは技術が本来持っていた政治的性質が消滅したことを意味するわけではなく、むしろその政治的役割が自明になるほどうまく機能するようになったことを意味している」(p132)。
僕は本書をインドネシア研修生との技術観の祖語や、開発現場での苦悩の経験から興味深く読めた。そこにあったのは、技術と言うものが、我々の社会である程度機能し安定している場合、その状態から見えているものがあたかもそれ自体が独立した存在として見えており、その導入が新しい手段であるかのように見えていたことによるある種の勘違いでしかなかったのである。その技術を作り上げてきたプロセスに解釈を求めるならば、それを共有する文化的な価値と、またその変遷によって常に意味付けが変化している技術という姿が見えてくるのである。
ちなみに本書ではさらに非決定性を考慮に入れた技術の設計原理にまで触れ、潜在的知性は大きいが顕在的知性は小さくなるような人工物の設計についても述べている。またフェミニズムの視点と技術に関しても1章を割いて説明しているが、ここでは割愛する。
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