週末は、他のサイトで書いていたエッセイのお引越し。
もうすぐ完了。




不完全な取引 その2



アレジャンではないのだが、私が活動をしていたチェンネという村がある。
アレジャンは山の中に在るが、チェンネは町に近い平野に位置していた。
そのためかこの村の住民の意識はアレジャンよりも先進的だった。
とは言え、それは些細な違いでしかない。
たとえば、テレビを持つ家庭がアレジャンより多かったり、
ペテペテ(ミニバス)がアレジャンより多かったりという程度である。
この村で私が懇意にしていた農民がいる。
ムハマッド氏(仮名)。
今年49歳。
先進的な考えの持ち主で、人よりも一歩先を進みたがる人物だった。
時には人が当然試さない事でも試したがるところもあった。
『落花生考』でも紹介したのだが、落花生畑に除草剤を散布して雑草駆除をしたのも彼だった。
人一倍やかましくて、人一倍へこむ。
どこにでも顔を出し、ときどきみんなから嫌われる。
そんな彼を他人のように思えなかった私が、彼と活動をともにしたのは自然な事だった。

協力隊活動の3年目、私は困っていた。
1年、2年と生産重視の農業指導を行ってきたにもかかわらず、
結局最後の販売の段階で価格暴落や市場が見つからず、
農民に迷惑をかけてしまう。
大きな市場は近くにはない。
100キロ離れたところにある都市マカッサルがその対象となるが、どうにも遠い。
マカッサルの商人は、農産物の交渉をするたびに
『いいよ、いつでも取りにいくよ』と景気良く答えるのだが、
村まで取りに来てくれた試しはなかった。
そして私は困っていた。
そんな中、今まで活動で中心的な人物になってくれた農民を集めて、何度か勉強会を開いた。
テーマは販売だった。
100キロ先の大消費地についつい目が行き、
会議では100キロの距離を問題にするばかりで何の進展もなかった。
実は私には、祖父や祖母がやっていたような移動販売をしてはという案があったが、
私自身それにはあまり乗り気ではなかった。
簡単に言えば、それは『格好悪い』からである。
しかし何度勉強会を開いても、いい案が浮かばないので、
とりあえずということにして、移動販売を提案してみた。
案の定、農民のほうもあまり乗り気ではなかった。
近くの町じゃ量がはけない、という意見が多かったが、
野菜栽培の販売開拓の一案として取り上げられた。
村の野菜は流通に乗りにくい。
熱帯では保存も効かないし、冷蔵車もない。
町の野菜需要は近隣の小さな農家が持つ猫の額ほどの畑で、
ほとんどまかなわれてしまう。
それに大抵の町の家には簡単な菜園があり、市場での野菜需要はそれほど高くない。
町自体も小さかった。
先輩隊員からの指導のおかげで、なんとか村では野菜栽培が多くなってきたのだが、
殆どが流通に乗せるのに苦慮している状況だった。
爺さん婆さんがやってきた移動販売は、どこまで成果があるか不明だったが、
多く農民はそれほど期待をかけていなかった。

町には公務員婦人会という組織がある。
公務員の女性で構成されていて、料理教室や栄養改善教室などを開いていた。
移動販売はそことリンクさせる予定だった。
ただ売り歩くよりも構成員の人数と家族を知り、
消費量や好みの野菜の傾向を聞き、それに合わせて野菜栽培をしていくという、
こうやって書いているとたいした活動だ、と思える内容に農民とともにアレンジをした。
しかしそう簡単にはいかない。
構成員や家族は多いのだが、やはり菜園を持っていたり、
親戚が農家だったりして野菜需要が高くない。
その上、販売範囲が広く効率的でもなかった。
そこで、婦人会の会長は、婦人会会合の時に販売しては?と提案してくれた。
なかなかいい案ではあったが、会合は月一回しかなかった。
月一回しか販売の機会がないのでは困る。
こうしてすったもんだとしているうちに、町の役場や病院の前で販売をすることになった。
ムハマッド氏の車が使われることになった。
農民リーダーの中で彼だけが車をもっていたのである。
ただ、雨が降るとなぜだか動かなくはあったが。

販売当日。
ムハマッド氏の車に、山のように野菜を載せた。
他の集落にも車を回し、つぎつぎと野菜を載せていく。
サスペンションが殆ど効いていないため、車がやや後ろに傾いていることと、
押しがけしなければエンジンがかからないことを除いて、すこぶる順調だった。
役場や病院の前での販売は好感触だった。
爺さんや婆さんの時のように少々どんぶり勘定だったことと、
すぐに値下げしてしまうこともあり、好評だった。
そして完売だった。
儲けも大きかった。
なんだかうまくいきそうな感じだった。

しかし、そうはいかなかった。
販売の回を重ねる毎に、直接販売に関わる農民が減っていった。
まっさきに外れたのはアレジャンだった。
ムハマッドの車ではアレジャンまで登れなかったからだが、
その他の村でも参加する農民が減っていった。
販売する野菜がないからというのが理由だった。
府に落ちない。
そして、ムハマッドだけが残った。
それでも彼は、人がやらない事をやるのが好きという性格が幸いしてか、移動販売をやめなかった。


帰国近くなった頃、ムハマッドが私に話してくれた事がある。
『田谷が移動販売をしようと提案した時、本当は俺も乗り気じゃなかった。みんなだってそうだった。でもやる事にした。田谷が言うんだしやってみようって。みんなが辞めた理由はよく分からないけど、野菜売りが恥ずかしかったからかもしれない。野菜売りは一番卑しい仕事だから。でも俺のかみさんは学校の先生だ。野菜を買いに来たお客さんにその話をすると、みんな驚く。野菜売りの奥さんが学校の先生?って。だから俺は恥ずかしくない』。

なんて答えて良いのかわからなかった。
3年も村にすんでいて、誰よりも村を知っていると思っていた。
野菜売りは一番卑しい仕事?
はじめて聞いた。
ショックだった。

帰国後、自ら農業をして販売のあれこれを考えた。
実践もした。
インドネシアでの移動販売につまずき、それを否定してあれこれ試したが、
結局爺さん婆さんの移動販売にショックを受ける。
手法の問題ではない。
なにを売買しているのかという事と、どういう関係を築けているかという事。
量と信頼は必ずしも反比例するとは思えないが、比例させる事もむずかしい。
道半ば。
不完全な取引。
そして今年の8月から留学をする。
ムハマッドの『野菜売りは一番卑しい仕事』が心の奥にひっかかっている。
長くいるだけでは、彼らと同じ価値観を得る事は難しい。
それを見る視点が欲しい。
そう思い、またインドネシアに行く。

結局、私はまだアレジャンの夢の中にいるのかもしれない。


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田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
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