週末は、青年海外協力隊のエッセイのお引越し。
家の鶏は結局1羽も絞めていない。
父のペットとなってしまっているからだ。
代わりに、野生の雉を、今虎視眈々と狙っている。



コケッコッコー!


ayam 1



先日、鶏を飼い始めた。
まったくの道楽でだ。
自分の家族だけが、その卵を楽しむためだけに、鶏を飼い始めた。
昨年新しく建てたハウス施設のそばに、猫の額ほどの土地が余ったので、
そこに鶏小屋を作ってみたのである。
鶏は、雄が1羽に雌が14羽。計15羽だ。
鶏を分けていただいた近所の農家は、
『この鶏はどこにでもいる鶏と違って、特別な系統だよ』と
自慢げにいろいろと説明してくれたのだが、愛らしい鶏を目にしていると、
そんなうんちくなんてどうでも良く、殆ど覚えていない。
ふさふさとした羽、丸々太っている体、美味そう・・・じゃなくて、可愛らしい。
早速持ち帰り、鶏小屋に放してやった。
鶏小屋と言っても、小さなパイプハウスで、
暑さよけのために寒冷紗と言う黒の日よけが掛けられている程度だ。
中は土むきだしで、何もない。手入れもしていなかったから、雑草が伸びたい放題だった。
それでも、鶏はそれほど居心地が悪い風でもなく、
仕切りと雑草についている虫をついばんだり、土の中の虫をかき出したりして、
楽しんでいるように見えた。
読者諸君は鶏を間直で見た事があるだろうか?
鶏は、バックステップをしながら、その強力な爪で地面をえぐり、
虫をかき出しては食べるのである。
そのおかげで、小屋の中に繁茂していた雑草は、
いとも簡単になぎ倒され、きれいに地面が見えるようになった。
鶏の除草能力はたいしたものだ。
愛らしい私の鶏たち。
虫をついばんでも、羽ばたいても、水を飲んだり喧嘩したり、
とにかく動いているその仕草が可愛らしかった。
しかし、まったくの不意だったのだが、愛らしいはずの鶏のバックステップを見ていると、
なぜだか記憶の奥底から、怒りの感情が湧いてくるのを覚えた。
なぜだろう?
それと同時に、前日祖父祖母と鶏の話題で盛り上がった事も思い出された。
早くも鶏糞の臭いが漂い始めた鶏小屋の中で、
私は鶏15羽と共にくだらない記憶を紐解き始めていた。

rumah ayam
      
            鶏小屋


鶏を飼い始める前日、祖父祖母と鶏の話題になった。
まだ爺さんや婆さんが若かった頃は、実家でも鶏を飼っていたそうだ。
今から50年近くも昔の話だ。
今のようにハウス施設(温室)がなかったため、
冬場の収入が無く、大変だったと語る。
しかし、そんな時家計を支えてくれたのが鶏だったとか。
生みたての卵を実家の集落から10㎞以上も離れた町まで徒歩で持って行き、
一軒一軒『卵は切れてえんかの?』と訪ねて売り歩いたそうだ。
この話を聞いたとき、私は農村が如何に惨めで貧困だったかを想像した。
そしてそれを爺さん婆さんに言うと、彼らは遠くを見るような目で、
『その反対。今よりもずっと裕福やったかもしれんのやざ』とにっこりと笑った。
婆さんの話では、1日卵を売り歩くと2000円ほどの収入になったと言う。
当時の2000円は今のお金に直すと2万円以上はしたと言う。
これを多く見るか少なく見るかは、読者諸君のそれぞれの生活レベルにもよるが、
私にはかなりの高額に感じられた。
婆さんの話では、卵の価値自体は今も昔も変わっていないと言う。
中間の業者がいない分、農家が儲かった時代だった。
さらに、冬場は別として、野菜のとれる季節にでもなれば、
卵と野菜を同時に売って歩いていたらしい。
その話になると、爺さんは目を薄め
『1等(一番)多いときん(時)は、3万以上は売ったわ』と少し興奮したように話してくれた。
3万?今のお金で20万以上にはなるとのこと。
ちょっと待って、今うちの農園で朝から晩まで収穫に収穫を重ねても
15万以上売り上げれば良いほうである。
しかもパートを2人も使ってだ。
爺さんの頃は、担げるくらいの野菜と卵の量で、
20万以上も売り上げていたとか。
それから50年。
野菜の単価は安くなり、
市場経済が隅々まで支配し、
中間でマージンを取る業者が増え、
農家が減少した。
『昔は、今よりずっとゆっくりやった』とつぶやいた祖父の言葉が印象的だった。





コケッ!
雄が雌たちに認められていないのか、
あちこちで雄と雌が小さないざこざを起こしている。
せっかくしみじみとしてたのに、鶏達に引き戻された。
そう、もう1つの記憶を紐解かねばならない。
それは、50年前の日本の農村が持っていたように、のんびりとした時間が全体を包み、
鶏が平飼いされている場所。
我らがアレジャン集落での出来事だった。





アレジャンに住み着いて1年が過ぎた頃だったか?
新しい作物を試すべく、村人の協力で、村の中に試験圃場を作った時の事だった。
いつもは何かにつけて、やる気の無い村人だったが、
大親友のサッカの呼びかけもあり、集落の中心に近い場所に、
試験圃場を借りる事が出来た。
このときは、比較的村人も積極的に試験圃場整備に参加してくれて、
新種の野菜の種まきにもかなりの人が集まってくれていた。
急にみんながやる気を出したので、驚くやら喜ぶやらで大変な1日だった。
が、なんてことはない。
後で気がついた事だが、日本から持ってきた新種の野菜の種や、
町で仕入れてきた新しい野菜の種が、すっかり無くなっていたのだった。
野菜の種目当てで村人が集まってきて、手伝う振りをしつつ、
間を見ては種を持ち帰ったようだった。


その後、それについては特に不問にしていたが、
おかげで村人の試験圃場に対する興味は大きかった。
なぜなら、種をこっそりと持ち帰ったのは良いが、
作付けの仕方が解らなかったのだろう。
その都度試験圃場を見て参考にしている風だった。
こっちも特に知らない風を装っていた。
播いたのはトマト・モロヘイヤ・つるむらさき・空芯菜・アカワケギなどなど、
日本特有のものからインドネシアでもポピュラーな野菜だった。
栽培は順調だった。
特にアカワケギの成長が良く、村人にも好評だった。
そんなある日、いつものように試験圃場に向かう私。
さて、今日はどれくらい大きくなったかな?トマトも芽かきしてやらないとなぁ。
モロヘイヤは窒素が足らないようだから追肥が要るかもなぁ、と様々なことを考えながら、向かう私。
そして圃場についた私は、息を飲んだ。
そこで見た光景は、無残にもなぎ倒されている野菜たちと、
我がもの顔で虫をついばむ鶏達だった。
強力な爪でバックステップをしながら、野菜をなぎ倒し、
掘り起こした根元についている幾ばくもいない虫を、
コケッコケッ言いながらついばんでいるのである。
茫然とする私に、通りかかった村人は、
『村の中に鶏がいるのは、当たり前。だから、おれは(試験圃場は)やめておけって言ったんだ』と
聞いた事も無いことを言って立ち去っていった。
当然、鶏に占拠された試験圃場は失敗した。
それと同時に、村人の新種野菜に対する興味も徐々に無くなっていった。
そしてその時私は、今週にでも市場で鶏を買ってきて、しめて食べようと決心していた。





そして今。
私の目の前に、我がもの顔でバックステップをしながら虫をついばんでいる鶏がいる。
彼女たちになんら罪は無いのだろうが、そのバックステップがかなり気に入らない。
卵を産む前に、しめてしまうかもしれない。
それは明日の私だけが知っている。
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田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
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