『このままじゃ、農家はいなくなっても、農業は残る。そうなっちゃいかん』。
沈痛な面持ちで、老人はそう語った。

6月11日、僕は山口は阿武町にいた。国際開発学会が山口で開催され、妻共々出席していた。11日はイクスカーションとして、他の学会員と共に地域おこしの現場を見学に出かけていた。見学先は阿武町。4つのコースに分かれての見学。僕はうもれ木の郷という農事組合法人を見学するコースに参加していた。

前日の10日、学会のシンポジウムでは、日本の地域おこしを途上国での農村開発のヒントにしようと話し合われていた。道の駅や生活改善運動などの取り組みを紹介してもらい、それについて学会員・地元の人々共々話し合った。

日本での村おこし事例では、町の人と村の人との『交流』が強調されていたが、援助の枠ではその取り組みにさらに外部者(外国人)が入り込み、その関係も『協力』が強調されがちになる。そんな文脈の中で、日本の経験をどう活かしていくのか、はたまた活かせていけないのかなどが議論されていた。当然といえば当然だが、あまり前進が見られない議論。残り時間も少なくなってきた頃、T大学のS先生が次のような発言をした。『日本では、これまでの近代化への取り組みの結果、農村は過疎化に喘ぎ、今まさに無くなっていこうとしています。だのに、それらの取り組みがこれからの途上国での農村開発に活かせるのでしょうか?』と。

この発言には多くの反論もあろう。実際、近代化への取り組みは、それぞれの深度と程度の差があまりにも違いすぎている。土地改良などは確かに農地を整理し、機械の大型化につながり、またある意味では農地が売りやすいものに変わったのだろう。しかし家族経営協定のように、年金だけのための形骸化した取り組みとの批判もあるが、それには農業の中のジェンダーに突っ込もうという議論を内包したものもある。さらに農業外の要因も、過疎化には無視できない。

しかし、それでもS先生の発言は無視できない。確かに、僕たちの志向する方向が農村の過疎化を生んでいることも、また真実だと思う。
S先生の発言が引っかかったまま、僕は集落営農の道を歩んでいる農事組合法人『うもれ木の郷』を訪れた。

うもれ木の郷は、1997年、盆地の4集落を1つの農業法人にしてスタートした。2反の広さの田んぼを4反の広さに広げ、農地を法人が借り受け、各家が持っていた水利権を放棄させ、米作りすべてを共同で行おうと言う組織である。規模は100ヘクタール。まさに近代化組織。そう思えた。しかし、中身はまったく逆だった。

もともとその地区は深田で、明治の頃などは田植えにも非常な労力が要った。牛が田んぼの深みにはまると、時には救い出せないときもあったそうだ。竹を田んぼに渡し、それを足場として田植えをしたとも。明治の終わりから大正にかけて、すこし力のある政治家がこの地域から出る。その人の尽力により、その頃ではかなり珍しい田んぼ1つが2反の広さになる土地改良を行った(うちの集落は30年ほど前にようやく5畝の田んぼを2.5反と3反にした。一部ではまだ1反田んぼがある)。

しかしそれ以降、その地域では土地改良は行われず、周囲の機械化が進む中、農道もうまく整備されないまま20世紀の終わりを迎えようとしていた。そんな中、90年代前半からうもれ木の郷の構想は、村の中で話し合われたそうだ。それは農業の近代化を目指したわけでもなく、所得向上を目指したわけでもなく、ただただ農地を守るためだった。

再来年には70になるという組合長は、『農業が機械化などによって個人の便利がよくなると、それは農業が分断されると言うことです』という。『この辺りは最近まで農道が狭くて不便でした。だから機械を田んぼに入れるときも田越しでした。他人の田んぼを通らせてもらわないと、自分の田んぼに機械を入れることは出来ませんでした。だから村人は一線を超えない程度にしか争わなかった。これは大事なことです』。そして事務局長をされているやはり同年代のお爺さんは、『だから、うちらは個人の便利を選ばず、不便でたもっていたものを取り込む形にしたかった』と語った。さらにその事務局長は、『いろいろと個人の便利を突き詰めた農業を展開していくと、農水省あたりで言われている1人20ヘクタールの農業が理想的で、1集落に5人ほど農業をする人がいれば、国としてはそれで事足りることになってしまう。ということは、誰でもいいから、ここに5人ほど農業をする人を連れてさえ出来れば、それで農業が成り立つということになる。このままじゃ、農家はいなくなっても、農業は残る。そうなっちゃいかん』と沈痛な面持ちで語ったのが印象的だった。むらで共有された価値を残していくための試みとしての法人だった。だから、一部の人だけが農業をするのではなく、法人の組合員全員に仕事ができるように工夫されていた。

しかしこの選択自体にも問題はある。田んぼは守れても、各家族の所得を支える野菜栽培までも法人の下にあり、各農家の作付けに対する権利も法人が握ることになっている。特別指定産地などの行政政策とも相まって、各農家の新しい取り組みを法人が支援することの難しさにもぶつかっている。組合長は『とりあえず田んぼは守れた。農業の醍醐味でもある個人の新しい取り組みを、法人でどう取り上げていけるかが課題でもあります』と言う。法人を立ち上げるまでに、5年の時間がかかった。それだけ村人とじっくり話し合って踏み出した法人。その気持ちと時間を用意できるのであれば、このような問題は乗り越えていくだろう。

なかには法人に参加していない人もいる。戦後の農地改革で農地をもらった小作の家が数軒反対しているとのこと。再び農地を取り上げられる、という思いがあるのかもしれないと組合長は話してくれた。

参加した農家も皆、全員が組合長や事務局長のような考えでもないだろう。なかには、周りが参加するのならしかたがなかろう、と参加した人もいただろう。農地に対しての愛着もばらばらだと思う。事務局長は『法人前に、全世帯に農地に対するアンケートをとりました。そしたら都会にいる不在地主は、農地を守れ守れと言うけど、この辺に住んでいるものは、農地は出来るだけ高く売りたい、と言う。こりゃぁ、いかんと思いました。農業の、農村の分断だと思いました。だから共有の価値で集まる必要がある、と強く思ったのです』と語った。どのようなスタートを切るにせよ、その想いに濃淡があるにせよ、コミュニティの中でひとつの価値を維持する形を作り出した。近代的な手法を用いた村人の共有価値の維持、もしくは創出の姿は見事だった。

必ずしも所得は向上していないと言う。むしろぎりぎりで現状維持しているとのこと。なにも発展するだけが開発じゃない。何かを共有し、それを維持する形をみんなで考える。それは、あまり語られない農村開発の質的な部分であろう。その答えのようなものが、うもれ木の郷にはあったように思える。
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田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

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