当時のインドネシア青年海外協力隊の隊員機関紙に投稿した文章。
愛しのアレジャン集落 第3話 下宿編

投入
私がバル県の任地に赴任してすぐに案内された村の下宿先は、まさに『投入』という言葉がぴったりの場所であった。家は高床式で、中はどことなく薄暗く、部屋には電気が無かった。家主はラエチュという集落長で、家族は15人くらいいたであろうか。家族の中ではラエチュ氏の長女と次女そして長女の婿以外は満足にインドネシア語を話すことは出来なかった。この家はアレジャンという集落の中央にあり、そのアレジャンはバル県の県境に位置し、バルの事務所までは40キロほど離れていた。もちろん、近くのWartel(電話)まで20キロ以上離れている。新聞はおろか郵便すら配達されない地帯なのである。これが私が投入された環境であった。
バル県のプロジェクトには、ある掟がある。何人たりともその掟に背くことは出来ない。その掟とは、バルに赴任してから最低一ヶ月間は村の農家の家にホームステイすることであった。いち早く現地の状況を知るための方策であった。しかし大抵は事務所から出来るだけ近くて住みやすい家を準備されているものであった。が、私の場合はその例外にあったように思えてならない。
話は語学訓練にまでさかのぼる。ジョグジャカルタで観光気分半分で語学訓練を受けていた頃、たまたまバルの先輩隊員がジョグジャカルタに遊びに来た。その先輩隊員から掟のことを聞かされ、若い私は気負い、出来るだけ僻地が良いと希望した。どんな希望もむなしいだけのインドネシアにおいて、私の初めての希望はいとも簡単にかなったのである。
2×3
ラエチュ氏の家は相当でかい。村人から『100の柱の家』と呼ばれているくらいである。その家には常時10名ほどが住んでいて、多い時には20人以上になる。ラエチュ氏の氏族は大きく、バル県だけでなく、隣の州東南スラウェシにも家族がいて、そこには5haほどのカカオ農園をもっている。そのため、季節毎に家族がそれら各地の農地へ移動することがある。今現在でもラエチュ氏の家族とその関係を私は明確には言えない。
家のファシリティーについて書こう。アレジャンと言う山間部の寂れた農村に住んでいるのに、冷蔵庫と車とテレビ、炊飯器、パラボラアンテナ、オーディオ等が揃っている。家のファシリティーは町のお金持ちに決してひけを取らない。家自体は木づくりの高床式で床と壁に隙間が空いている。木の板を貼りあわせただけの家であるため、隙間が多い。もちろん、外から家の中が覗ける。隙間だらけの高床式の家に、テレビや冷蔵庫の存在はうまく溶け込んでいない。
さて、家自体は『100の柱の家』と呼ばれるほど大きいのであるが、私の投入された部屋は狭かった。2mx3m。約2坪。その狭い部屋に我が物顔で存在を強調するベットがひとつ。無意味に大きい朽ちかけたテーブルがひとつ。それらの邪魔にならないように申し訳無い程度に私の居住空間がある。畳一帖ほどであろうか。
いつかいつか引っ越そうと思って、3年が過ぎようとしている。はじめの一年はこの窓の無い部屋に電気が無かった。ろうそくとミロの缶で作ったランプでしのいだ。二年目に入り、ラエチュ氏が私の部屋に電気を引いてくれた。電球が灯った時、思わず歓声をあげてしまうほどうれしかった。どちらが協力隊か解らない瞬間だった。

妙な空間
この家の空間についてもうちょっと全般的にふれたい。さっきも書いたようにファシリティーは揃っている。普通この辺の村ではテレビのある家のほうが少ない。そのため、夜になれば村人は夏の虫の如くテレビのある家に集まりだす。私の家も例外ではない。夜になれば30人から40人くらいの人でごった返す。それは、力道山を街頭テレビで見た時代にそっくりの風景かもしれない。もちろん、私が見たいと思った番組は見れた試しが無い。
3年も居れば、いろいろなものを目の当たりにする。それを全部書いていたら切りが無いので、この家の空間が時代的にもしくは民族的に私にとって妙だと感じた良い例を一つ挙げることにする。この家には一歳の男の子がいる。その子がある夜高熱を出した。白目をむき口から泡を出すほどひどい状況だった。近くの診療所(医者はいないが、助産婦兼看護婦がいる)まで約3キロ。当然ここはそこまで男の子をつれていくか、もしくは助産婦兼看護婦さんをつれてこなくてはならないはずだった。しかし、村人はそうはしなかった。夜もふけてしまった時分に村の長老達がこの家に集まり、香を焚いて口々にお祈りを始めたのである。そして長老の一人がもってきた動物(何の動物かは不明。中部スラウェシにしかいない動物だといっていた。)の皮を取り出し、煎じてその男の子に飲ませた。依然として男の子は白目をむいていて口から泡を吹いているのだが、一応の儀式は済んだようで、長老達はあまいコーヒーを飲んで歓談しながらテレビを楽しんでいた。その時、心配そうに子供を抱いている母親の横で、内部を冷やすためなのか、冷蔵庫がけたたましい音を立ててうなりだしていた。
お金に不自由がなく、家のファシリティーが近代化されているこの家においても、この場合化学的な薬品より伝統的な薬が勝っていた。冷蔵庫・テレビ・車といった近代的なものが村の中にあふれだしていても、まだ伝統とその等のもの(テレビ・冷蔵庫)との折り合いがついていない空間がここにあると感じた。ちなみにこの男の子は助かった。しかし、障害が残らなければ良いが・・・。
後編につづく
愛しのアレジャン集落 第3話 下宿編

投入
私がバル県の任地に赴任してすぐに案内された村の下宿先は、まさに『投入』という言葉がぴったりの場所であった。家は高床式で、中はどことなく薄暗く、部屋には電気が無かった。家主はラエチュという集落長で、家族は15人くらいいたであろうか。家族の中ではラエチュ氏の長女と次女そして長女の婿以外は満足にインドネシア語を話すことは出来なかった。この家はアレジャンという集落の中央にあり、そのアレジャンはバル県の県境に位置し、バルの事務所までは40キロほど離れていた。もちろん、近くのWartel(電話)まで20キロ以上離れている。新聞はおろか郵便すら配達されない地帯なのである。これが私が投入された環境であった。
バル県のプロジェクトには、ある掟がある。何人たりともその掟に背くことは出来ない。その掟とは、バルに赴任してから最低一ヶ月間は村の農家の家にホームステイすることであった。いち早く現地の状況を知るための方策であった。しかし大抵は事務所から出来るだけ近くて住みやすい家を準備されているものであった。が、私の場合はその例外にあったように思えてならない。
話は語学訓練にまでさかのぼる。ジョグジャカルタで観光気分半分で語学訓練を受けていた頃、たまたまバルの先輩隊員がジョグジャカルタに遊びに来た。その先輩隊員から掟のことを聞かされ、若い私は気負い、出来るだけ僻地が良いと希望した。どんな希望もむなしいだけのインドネシアにおいて、私の初めての希望はいとも簡単にかなったのである。
2×3
ラエチュ氏の家は相当でかい。村人から『100の柱の家』と呼ばれているくらいである。その家には常時10名ほどが住んでいて、多い時には20人以上になる。ラエチュ氏の氏族は大きく、バル県だけでなく、隣の州東南スラウェシにも家族がいて、そこには5haほどのカカオ農園をもっている。そのため、季節毎に家族がそれら各地の農地へ移動することがある。今現在でもラエチュ氏の家族とその関係を私は明確には言えない。
家のファシリティーについて書こう。アレジャンと言う山間部の寂れた農村に住んでいるのに、冷蔵庫と車とテレビ、炊飯器、パラボラアンテナ、オーディオ等が揃っている。家のファシリティーは町のお金持ちに決してひけを取らない。家自体は木づくりの高床式で床と壁に隙間が空いている。木の板を貼りあわせただけの家であるため、隙間が多い。もちろん、外から家の中が覗ける。隙間だらけの高床式の家に、テレビや冷蔵庫の存在はうまく溶け込んでいない。
さて、家自体は『100の柱の家』と呼ばれるほど大きいのであるが、私の投入された部屋は狭かった。2mx3m。約2坪。その狭い部屋に我が物顔で存在を強調するベットがひとつ。無意味に大きい朽ちかけたテーブルがひとつ。それらの邪魔にならないように申し訳無い程度に私の居住空間がある。畳一帖ほどであろうか。
いつかいつか引っ越そうと思って、3年が過ぎようとしている。はじめの一年はこの窓の無い部屋に電気が無かった。ろうそくとミロの缶で作ったランプでしのいだ。二年目に入り、ラエチュ氏が私の部屋に電気を引いてくれた。電球が灯った時、思わず歓声をあげてしまうほどうれしかった。どちらが協力隊か解らない瞬間だった。

妙な空間
この家の空間についてもうちょっと全般的にふれたい。さっきも書いたようにファシリティーは揃っている。普通この辺の村ではテレビのある家のほうが少ない。そのため、夜になれば村人は夏の虫の如くテレビのある家に集まりだす。私の家も例外ではない。夜になれば30人から40人くらいの人でごった返す。それは、力道山を街頭テレビで見た時代にそっくりの風景かもしれない。もちろん、私が見たいと思った番組は見れた試しが無い。
3年も居れば、いろいろなものを目の当たりにする。それを全部書いていたら切りが無いので、この家の空間が時代的にもしくは民族的に私にとって妙だと感じた良い例を一つ挙げることにする。この家には一歳の男の子がいる。その子がある夜高熱を出した。白目をむき口から泡を出すほどひどい状況だった。近くの診療所(医者はいないが、助産婦兼看護婦がいる)まで約3キロ。当然ここはそこまで男の子をつれていくか、もしくは助産婦兼看護婦さんをつれてこなくてはならないはずだった。しかし、村人はそうはしなかった。夜もふけてしまった時分に村の長老達がこの家に集まり、香を焚いて口々にお祈りを始めたのである。そして長老の一人がもってきた動物(何の動物かは不明。中部スラウェシにしかいない動物だといっていた。)の皮を取り出し、煎じてその男の子に飲ませた。依然として男の子は白目をむいていて口から泡を吹いているのだが、一応の儀式は済んだようで、長老達はあまいコーヒーを飲んで歓談しながらテレビを楽しんでいた。その時、心配そうに子供を抱いている母親の横で、内部を冷やすためなのか、冷蔵庫がけたたましい音を立ててうなりだしていた。
お金に不自由がなく、家のファシリティーが近代化されているこの家においても、この場合化学的な薬品より伝統的な薬が勝っていた。冷蔵庫・テレビ・車といった近代的なものが村の中にあふれだしていても、まだ伝統とその等のもの(テレビ・冷蔵庫)との折り合いがついていない空間がここにあると感じた。ちなみにこの男の子は助かった。しかし、障害が残らなければ良いが・・・。
後編につづく
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