僕の好きなラジオ番組がある。
永禄輔と遠藤泰子の「誰かとどこかで」がそうだ。
その番組で、連日田舎のヒロインネットワークの話が流れている。
永禄輔の話だから、本当にそこで正確にそうやり取りされていたかは
かなり怪しいのだが、ちょっと聞き捨てならない話になっていた。

早稲田大学で、日本中の生産者が集まり、学生や消費者との連携を図っているらしい。
街と村との交流だとか。それは結構。
その議論の中で、誰が言ったか、
「どこでも栽培できるように品種改良などをするのは、自然に逆らっている。そんなことは止めて、その地域で作れる作物だけを作って、あとは流通によって交換すれば良い」
のような発言があったとか。
それを永禄輔は、なるほど、と思ったらしい。

早稲田の学生にしちゃ、勉強不足の発言だし、
永禄輔も、そんなことになるほどなんて思っちゃいけない。
さらに公共の電波でそんなことを全国に流してもいけない。

品種改良の是非はその技術(とその裏にある思想)ごとに判断が違うだろう。
遺伝子操作なのか、
交雑による品種改良なのか、
農家が圃場で栽培しながら観察し、群の中から耐性を見つけ出す選抜式なのか、
によって、判断は違うだろう。
次に自然に逆らっているかどうかの判断は、
「自然」とは何か、が決まらないと判断できない。
人の手が入らない原生のままを自然と呼ぶのであれば、
すでに地球上どこにも自然はない。
人も生き物で、その干渉を互いに与え合いながら、
その関係の中で今の自然が存在していることを忘れちゃならない。
自然と対立した人間像の描き方と、
関係を考えず、個として独立した存在として物を捉えず思考法こそ
そこの奥底に潜む近代性の負の問題なのだ。
さらに流通(貿易)による交換だが、
世の中がグローバル化し、そういったメガ潮流をなんとなく良いものと
認める風潮があるが、とんでもない。
自由化の中身は、それぞれの地域の利益追求であり
それ自体、非協力ゲームにすぎないのだ。
そんな不安定な構造の中で「街」があるのだ。
学生の発言には、そんなことにまったく危機感もない様子。
モノカルチャー的近代化農業への賛美でしかなく、
地域を考えていない。
伝統などという言葉で、それぞれの地域が固定化されるのも間違いだろう。
人々の暮らしは、もっとダイナミックで、
つねに新しいものを取り入れていく力があって
その中で新品種が伝統に変わり
そして、捨ててしまう伝統もあるのだ。
それはそれでいい。
ある一時期だけを取り、外部からかってに「伝統」などと
位をつけられて、それにしがみ付かなきゃいけなくなったとき
それは、その地域が滅ぶときだろう。

宮本常一が師匠だったという永禄輔が、
ラジオでそんなことを言っちゃいけない。
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田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

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