ごんぼの種を播いた。
結局、あれから土地に関してはほとんど進展が無いまま。
ただ耕作禁止の境界を示すものが、膝丈程度の杭から僕の背丈以上の棒に変わっていた。しかも、ご丁寧に棒の先端にはピンクのビニールテープがついていた。集落の蔬菜組合の仕業だろう。この件では、まだまだもめそうな予感。

さて土地のことは置いておいて、今日はごんぼの播種の労働について考えてみる。5年ほど前は、ごんぼの播種作業は一家総出だった。祖母が種を播き、祖父がこまざらいで土をかけていく。父が種を播くための座を作り、母が播いた種を落ち着かせるためにその上を踏みつけてまわった。これが5年ほど前のごんぼの播種風景。余談だが、こまざらいとは熊手のこと。うちの集落ではこまざらいと呼んでいる。

しかし今日は違っていた。昨年から導入したと言う播種機を使っての種まきだった。だから作業に人手はいらない。父と2人で十分だった。播種機は、祖母の種まき、祖父のこまざらいの土かけ、そして母の踏みつけの3つを一気にやってしまう。確かに楽だ。それに早い。便利だなぁ、としばらくは眺めていたが、やがて、それがとてもつまらないものだと気がついた。

3人の仕事を一気に片付けてしまう播種機はとても便利だが、だからといってそれが何につながっているのかが良くわからない。母や祖父や祖母は、播種機が代わりに仕事をしてくれるからのんびりしているのかと言うと、そうでもなく、違い仕事に汗を流している。そして、その3人はごんぼの時間から遠ざかる。祖父などは今日ごんぼの種まきをしたことすら知らなかった。

作業風景も味気ない。ただただ2人で種を播く。5年前は、それこそごんぼの種まきは一大イベントで、お菓子やお茶などを畑に持って行って作業をしたものである。仕事自体はつらかったが、それでもごんぼを通じての時間を共有している生な感覚が確かにあった。今日はそれがない。

感情的なだけ、感傷的なだけ、と言われればそうかもしれない。しかし、確かにあった生な感覚は、播種機を入れることでなくなってしまった。便利なことは良い事だと思うが、それが一体何ほどのものなのか、僕にはいまいちわからない。
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機械

論点ずれるかもしれないけど、
農作業を機械化することによって、機械の保守点検の時間が増えて、
機械を操作してるんだか機械に時間をのっとられてるのか、結局土いじってる時間(家畜と接してる時間)が減ってる、という状況になることってあるよね。
機械化するって孤独化するってこと・・・?

機械化がもたらしたもの

機械化による便利さが何ほどのものかは、田谷君が感じとったことに少
なからず表れているという気がするよ。

手でやる、一家総出でやると、そこには生の感覚があり、生の感覚
には大きな価値がある。でもその農法には戻らない。

大事なことは、何らかの圧力によって戻れないのではなくて、戻ら
ないことを自ら(家庭内で)選択していること。

機械化によって、便利になった。便利なことには大きな価値がある。
事実、母も祖父母もごんぼの時間から解放された。作業も早くなった。
だから戻れるんだけど、戻らない。

便利さが何ほどのものか、はっきりとはわからなくても、それがもたらす
価値が生の感覚がもたらしてきたものよりも大きいことは、薄々気づいて
いるんじゃないかな。

価値のより大きいものを取り入れる、そういう合理的な至極当たり前の選
択を、どこの国の農民もしてきている。

勉強になります

ちかばぁさん、かずさん

おふたりのコメント勉強になります。ちょっと言葉足らずで、機械化による人間のマージナル化ととらえられたうようですが、これはこれで考察に値しますね。すこし考えさせてください。そのうち僕の考えを書きます。

それとかずさん。価値や合理化についてすこし議論になりそうですね。論客のかずさんとでは、僕ではあまりに貧弱ですが、最大と最適の話も含めて、書きたいと思います。もうすこしまとめる時間をくださいまし。

豊かさ

ありがとう。気長に待ってます~。

いつの日のかの議論をしやすくするため、僕がいいたいことをあらかじめ
整理しておきますね。僕は作業工程が機械化されることがすべからくよ
いことである、とは全く考えていなくて、機械を導入することがよいと思う
人が実際に機械を導入することができる状態がよいこと、と思っている。

潜在的には機械を導入したいと思っていても、そもそも機械が手に入ら
なかったり、手に入るとしてもとても高い費用を支払わなければいけない
ような地域では、多くの農家は合理的に機械の導入を断念するかもしれ
ない。

反対に、機械の導入費用が安くて機械を導入するか否かは、経済的な
費用じゃなく、別なものとの比較-例えば生の感覚-に左右される社会
では、機械化を望む人は機械を入れるし、機械化を望まない人は機械を
入れない、という、比較的自由な選択が許されているかもしれない。

そういう後者のような社会の中で-つまり、機械を導入するもしないも
比較的自由に選べる環境で-、機械の導入によって失う価値が大きい
のに、機械を導入するなんていう非合理な選択を農家が行うはずはな
い、と信じている。

前者においても、後者においても、農民はすべからく合理的であるけど、
まわりの環境(機械へのアクセス度)によって、結末が全く異なってしまうことになりかねない。
僕は、前者のような社会から後者のような社会に移行し、人々にとって選
択可能な領域が増えていき、機械を導入するもしないも自分の嗜好に
よって決められるようになっていくことを「社会的発展」と捉えてる。

なんちゃって(><)

ふむふむ

かずさん

勉強になるコメント、有難うございます。 
ふむふむ。なるほど。機械というよりも技術ということで考えた方がいいかもしれないですね。価値と技術、そしてそれをどう選択するのか、をすこし考えてみます。
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田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
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