司馬 遼太郎(著者代表) 対談集『土地と日本人』.1980年.中央公論社.

歴史の流れの中で、その時代その時代の本質を掴み取ることに卓越している著者が、当時の知識人たちと土地に関して対談したものを一冊にまとめた本。

司馬の土地に対する意見は、『日本は土地を公有にしなきゃどうしようもないと思う。農業問題もなにも解決が不能だと思うね。地面そのものに途方もない値段がついていて、地面をころがすことによって金が儲かる。自他ともに加害者・被害者の一人二役を演じていて、電子レンジの中にいるみたいです』(p13)に収斂されるであろう。

この意見だけをみると、共産主義か、と思われるだろうが、そうではない。司馬は土地に対する歴史的経緯を的確に読み取り、日本人にいちばん欠けているのは、地面に対する思想だと指摘している。地価高騰と製品の価格高騰の関係、またそれによって派生する農地集約のさまたげ等々、資本主義すらも確立できていない、と批判する。『地面の思想というものがピチッとなかったらいけない。これは秀吉も見落とし、明治維新も見落とし、農地解放も見落とした。その莫大な勘定書きが、いままわってきているんじゃないでしょうか』(p48)。この本が書かれてから、30年近く経っているが、まさに現在でも、いや30年前以上に、この勘定書きを突きつけられている状況であるといえよう。

2つ目に収録されている石井紫郎(法学)との対談『所有の思想』では、律令制(班田制)から封建制度、そして明治維新・農地解放までを歴史的な制度経緯を踏まえながら、土地所有の意識変化を端的に明らかにしている。制度の変遷が、土地意識をどう変化させていったのかというダイナミズムを読むことが出来る。

ただ全編を通して、司馬や対談者たちは『むら』には一切目をむけていない。公有という考え方からみるのであれば、それを小さいながらもその対象として存在してきた『むら』の存在は外せないはずである。『むら』についての視点がないため(もしくは深くない)、土地問題の議論が、『日本』という国家による管理・制度の問題になってしまっている。司馬のいう土地に対する思想がないというのは、確かにそうであると思うのだが、それが天下国家の議論となってしまうところに、僕にはしっくりとはこない。

関連記事

お久しぶりです。

司馬さんの「土地と日本人」。 私も読みましたよ。
土地の公有化・・
私も土地を地主のかたからお借りして農業をしているので思うことがあるのですが、高齢化が進んでいることや農業で経済的に自立しにくい時代である今、本当に土地を守るということがなされていませんよね。
公有化したからどうなるというものでもないと思いますが、何よりも土地を守るという意識が大切だと思います。
そういう意味では、自分たちの住んでいる土地は自分たちで守るという意識の共有化をしていかないと、単に土地の公有化しても結果は同じでしょうね。
荒れていく土地や山、産業廃棄物の捨て場と化していく畑を見ていると、その不安が膨らんでいきます。 その裏で、政治や金が動いているのもなんとなくわかります。
この土地を守る意識は、きっとたーやんさんの言われる「むら」が大事な役割をはたしていると思います。 そういう意味でも、日本の田舎の「むら」はとても大切ですね。

おおお!ベジータさん
お久しぶりです。

土地についてですが、
現在土地に関する制度や取引方法などは、制度が先にあるわけではなく、ある程度それを受け入れられる僕達の常識的感覚(内山節はそれを精神の習慣と言いますが)があるから、その制度が制度としてなりたっています。
明治維新の地租改正や農地解放がその当時の人々にとって、あまりにも突拍子もない出来事ではなかった、ということでもあります。
僕が『むら』を強調するのは、当然事実として、土地の総有(共有)を生み出してきたコミュニティの範囲でもあるのですが、それ以上に、現在、『むら』を常識的感覚の範囲に置かない人が増えてきているからでもあります。近代化の中で、『むら』はまさに解体されるべき対象だったからかもしれません。その常識感覚で土地を論ずれば、当然、司馬遼太郎のようになるのです。宮本常一や守田志郎、そして新しくは内山節たちの論じている土地とは、ずいぶん風景が違うことに気がつくはずです。
制度が悪いということよりも、それを支えている我々の常識的感覚こそが問われているのだ、と思います。
『むら』を強調することで、少しでも常識的感覚の変化を期待したいのですが、なんだか気の遠くなる話ですよね・・・。

「むら」を常識的感覚の範囲に置かない人が増えてきている・・

なるほど・・
私自身も京都の街中出身なんで、今の伊賀のむらに来て驚いたことがたくさんありました。
まずは地域自治の「出合い」や「消防」といったものがあること。
自分たちの地域は自分たちで守るという掟のようなものがあって、地域のために皆、休みの日曜日に朝からせっせと働いている姿に感動しました。
べつに田舎じゃ当たり前のことなんでしょうが、私には驚きでしたね。
そういった習慣はめんどくさいですが、強力なコミュニティーができますよね。 まあ逆に日本の田舎は閉鎖的と言われるのも理解できましたが・・。
ですが、その中に若者の姿がほとんどないこと、それを嫌がって都会へ出て行く若者が多いということも知りました。
それが、たーやんさんの言う、「むら」を常識的感覚の範囲に置かない人が増えてきている・・ ということなのかなと思います。

今のおじいちゃん、おばあちゃんが亡くなられていけば、日本の土地を守っていく人が本当に激減しますね。 その対策として政府が政策・制度を決めていっても、基本的に無理があると思います。 
日本の「むら」のそういう精神を、街中育ちの自分もしっかり受け継いでおきたいです。
長くなってすいません。

ベジータさん
いろいろと考えさせられるコメント有難うございます。

『むら』について議論を始めると、終わりがないですね。
一杯やりながら話をしたいものです。
ベジータさんのコメントの中に、むらについて考えるのに、とっても適している言葉が幾つかありました。『閉鎖的』『都会へ出て行く若者』などなどです。これが今の我々のもつ村に対する常識的感覚ですね(僕も含めます)。
では実際にどう閉鎖的なのかを考えてみると、なかなか面白いです。
閉鎖的な気分は、むらの中に居て閉塞感を感じる人間がもつ感情でしょう。
ではなぜ閉塞感を感じるのか、それを感じる自分を問いていくと、なかなか考えさせられます。内山節の『自由論』や『子どもたちの時間』などがそれを解き明かしてくれる良書ですよ。
それを感じる僕達の価値が、何から出来上がっているのか、それが解ってくると、僕はむらが違ったものに見えてきました。
Comment
Trackback













管理者にだけ表示を許可する

Comment form

田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
taya.tアットマークnifty.com
です。
(アットマークを@に置き換えて送信ください)

プロフィール
07 ≪│2017/08│≫ 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
カレンダー(月別)
カテゴリ
月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

メールフォーム

Page Top

Powered by FC2 Blog |

FC2Ad

| Template Design by スタンダード・デザインラボ