内山 節、竹内 静子 著 『往復書簡 思想としての労働』.1997年.農山漁村文化協会.

働くということは、どういうことなのであろうか。
本書では、自然との関係で労働を考える哲人・内山と労働社会学の竹内が、お互いに書簡をやりとりするという形で、『労働』をテーマにお互いの意見をぶつけ合いながら、労働のもつ意味を深めていく。本書で議論されている『労働』の大きなテーマは、大胆にまとめれば、『価値』『関係性・相互性』『科学技術と技能』『自然に対する認識』とそれらすべてに関わる『近代性』(もしくは近代的合理主義)であろう。

まず本書では、労働を自分の目的を『自己実現』していくものと捉える考え方は、『労働を日常的な営みから切り離してしまった近代人たちが、自分の労働に意味付けをしなくてはならなくなった時代の発想』(p36)であると批判し、それはとりもなおさず、『狭義の労働』であり、本来議論されなくてはならないのはもっと幅広い労働を包括する『広義の労働』であると指摘している。ここでいう狭義の労働とは、経済的価値の生産に関わる労働をよぶ。広義の労働とは、経済的価値の生産だけに関わらず、日常の営みの中に埋め込まれたすべての労働をよぶ。その中では地域の中での関係づくりの労働も含まれる。

ではなぜ、労働は日常の営みから切り離されて、またはそう認識されるようになったのであろうか。近代的合理主義・科学主義が資本主義的生産様式と結びつき、そこでは人間労働に時間や数量が導入された。そのことで労働を市場経済の価値によってはかられるようになったのである。しかし労働の持つ価値の議論では、内山と竹内は市場経済的な『交換価値』だけにとらわれず、『使用価値』を高めていく労働もあることを指摘している。そしてそこには、市場を介して分断された人々の労働の相互性が、今も失われていないことを明示している。自己実現といった他者との関係性の欠如は、貨幣をもって消費者に変えられてしまった労働者の『精神の習慣』(p60)からくるものであろう。

日常の営みの中では、長年の経験から得た『技能』こそが労働を高めるものであった。しかし、それが近代的合理主義を土台に築きあげられた『科学技術』によって、その意味が失われつつあると批判する。しかし、本書の中では、技能と科学技術が2項対立的に議論されているように読めるが、僕はこの見方について諸手をあげては賛同できない。技能と科学技術が対立する問題点は、それぞれのそのものの技術に問題があるわけではなく、技能を持ってして科学技術を御しえないところにある。科学技術を使いこなし、時には現場に即して改良を加えたり変更したりというのは、技能のうちに入るであろう。しかしながら、科学技術が生まれてくる経緯に、それを使用する一般の人々がどこまで関われるかが問題のようにも思う(またはそもそもその技術の発意が、現場で使用する人の必要から生まれているのだろうか、という守田志郎的問題)。また技能を発揮しようにも、科学技術のメカニズムがブラックボックス化になっているのも問題だろう(常にブラックボックス化しているわけではないだろうが、とても一般人が平易に理解できるものではない場合が多い)。それらの問題が、われわれを技能でもって科学技術を、その場その場で改良し変更しようという意思を削ぎ、ただ単に市場を介して古くなれば新しい科学技術を購入するだけの消費者へと押しやっているのではないだろうか。以上は私見。

本書ではまた、労働と自然に対する関係にも議論を深めていく。近代的な労働観では、自然は人間の経済=生産活動の手段として、『人間から自然に対する一方的な交通しか生み出されない』(p109)。だが、かつて農民は、『多職の民であったという通り、その地域の自然、風土をいかした様々な労働があったわけで、そこには地域の自然、独自の風土に根ざした自然との相互性、自然の内部の相互性=生態系を維持しつくりだす技能が蓄積されてきた』(p110)。そこでの労働は自然に対して一方的な交通ではなく、人と自然との相互的な交通によって生み出されてきたものなのである、と指摘している。

また相互的な交通は何も自然との間だけではない。本来、労働とは他者を巻き込んだ『場』で相互的に行われている。そこに労働を通して得られる喜びや誇り、そして満足感があるのだろう。労働を通して得られる貨幣は、それら満足感の十分条件ではあっても、決して必要条件ではないのだ。

ではなぜ、誰もが賛同するような上記の意見があるにもかかわらず、労働が狭義の労働として捉えられ続けてきたのだろうか。内山は言う。『論理的な研究をおこなうためには、その論理の出発点になる概念が、客観的に定められる概念でなりませんでした。(中略)たとえばもっと誇りをもって働きたいとか、人間らしい労働をおこないたいというような思いを軸にして、思想をつくりだすことはできますが、その思いを軸にして論理的な理論をつくることは困難をきわめます。なぜなら、「誇り」とか「人間らしい」という概念を、客観的に表現することができない以上、客観的な理論もつくりだしえないからです』(p150-151)。これを踏まえて、内山は重要なことをわれわれに提示する。『どうやら私たちは、論理的であることを万能のものとする思考を、捨てなければならなくなっているようです。もちろん、論理的にとらえられる程度のことは、論理的にとらえてもかまいませんが、人間にしても労働にしても、存在にかかわることがらは、この方法ではとらえられないのではないでしょうか』(p152)と静かに批判する。これらは、現代の社会学や人類学に課せられた大きな課題といえよう。

労働から近代性を明らかにし、それ以上に我々の思考のあり方、また現在われわれがとらわれている『精神の習慣』をものの見事に描いた良書。論理的思考そのものを批判するくだりは必読。往復書簡という形では、テーマごとの議論が明確に絞りきれない側面は否めない。が、それでも議論のプロセスに沿って、同時思考を深められるという点では、より大きな知的興奮を得られる本である。

関連記事
Comment
Trackback













管理者にだけ表示を許可する

Comment form

田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
taya.tアットマークnifty.com
です。
(アットマークを@に置き換えて送信ください)

プロフィール
09 ≪│2017/10│≫ 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
カレンダー(月別)
カテゴリ
月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

メールフォーム

Page Top

Powered by FC2 Blog |

FC2Ad

| Template Design by スタンダード・デザインラボ