ブログのアナライザーを見ると
木曜日が閲覧が多くなる。
みんなも木曜日に更新されるぞって
知ってるんだね~。
ちょっと一日ずれたけど、
その期待に応えて久しぶりに書くか。

記録しないといけないことは
日々多いのだけど
今年はどうしても記録が疎かになる。
7月はたったの3回だもんね。ありえないな。
もう少し書こう。

今回は7月28日のアンビシ勉強会について
記録しようか。

毎回自分の発表ではテーマを決めて
そのテーマに沿って数冊読んで
プレゼンしていたけど
今回は準備が1か月しかなかったので
1冊だけでプレゼン。
ま、テーマは
「働くことについて考えてみよう」
ってことにした。

参考文献は、これ。

内山節 竹内静子 著 『往復書簡 思想としての労働』.1997.農文協.

あ~内山節かぁって思ったかもしれないね。
うん、このブログでも、
7、8年前にさんざん取り上げて書いてきたけど、
ある日彼の示す出口じゃ、
農村は衰退するばかりじゃないか?と思うようになり
最近は全く読まなくなってしまっていた。
心は豊かになっても財布がさみしくなるというか、
その頃の僕の主題としては(今もそうだけど)
農業が産業となり若い人材がたくさん流入してきて
イノベーションも起き、
先進国や途上国という枠がぼやけ、
外国人も現場に増え、
国内外の農村と農村がグローバルにつながり、
刺激を受けながら自らの特徴を際立たせていくべきだと
思っていた。
そうしないと農業は沈没してしまうからだ。
だから、農業の現場は思想的な統一感よりも
資本主義に則った多様な活力ある経営の集合体で
あるべきだと思うようになった。
だからもう読まないと思っていたのだけど、
全くお金にもならない地域活動に
がんじがらめになる日々を数年経験するうちに
仕事にとって必要なことって何だろうって
思うようにもなった。
こういう時こそ
思想的な手助けが必要になるってわけか。
なので、活力ある経営の集合体だろうがなんだろうが
人として人が満足を得て日々を暮すことに
哲学はやはり切っても切り離せないんだ、と
そんな至極当たり前のことに
ここ10年かけて理解した次第。

ということで、本題に入ろう。
レジュメを分解しながら記録していこうと思う。

本書は哲学者内山と労働社会学者の竹内(実はかなり年の差のある夫婦)が
往復書簡形式で労働の意味をあえて理論的に定義せず、
思想として労働を捉えようとした本。

本書の本題は、
「近代西欧思想を再検討しつつ、人間や社会と労働の関係を、その大本にまで遡って創造しなおしてみたい」ことであり、
労働の変容が、人間、家族、社会などを
どのように変えたのか、を考察している。
人間労働は技術の蓄積と継承性を失い、
マニュアルに頼っての仕事になり、
最先端といわれるような職種に就いている人たちも、
技術の進歩に置き去りにされて使い捨てられることを
恐れていると指摘する。
重要なのは、
「思考や想像力を労働に活かしてつくりだされる様々なモノや行為は、ときに他者にそれが持つ経済的価値以上の満足をもたらし、そのことによってその人に、労働の喜びや誇りをもたらすものです。人間はこうした労働の創造を通じて、社会的な諸関係と個人としての自分自身を形成しているのです」という。

そう、労働を賃金を得るためだけに
閉じ込めてしまうことが
またその関係の中でしか形成されないモノと
捉えることが
その行為自体の意味を委縮させ、
全体として賃金が発生しない、
例えば生活や地域活動のような広義の労働を否定し
さらにはコミュニティとしての
産業としての「場」の委縮につながっていくのである。
農業を多様な経営体の集合として
活力あるモノにするのであれば
その場の労働は、意味のある日々の暮らしが根底にある
生活や地域活動の活発な場として存在しなければならない。

勉強会では、いくつかの質問をしながら
進めていったので、ここでもそうしようか。

質問①さて、ここで質問です。皆さんにとって労働の目的はなんでしょうか?

著者らは、労働における「自己実現」という
目的意識を批判する。
労働は人間の生活と分離できない形で
日常に存在していたのだが、
近代化される過程の中で労働は生活と分離され、
労働は特殊なモノになり、
それに対して構えなければならなくなった、という。
労働の目的を見つけなければいけないその意識そのものが、
すでに現代社会の影響を受けていると指摘。
労働の意味を自己実現に見出そうとすると
逆に今の社会に取り込まれ「成功者」の道を
探すことになってしまうのである。
つまりは自分の労働に自分なりに意味づけを
しなければならなくなった時代の発想というわけ。
質問に自己実現だと答えた方は
もうその視点自体が狂ってきていると自覚せよ。かな。

質問②次に「仕事」と「稼ぎ」は、あなたの中で一緒ですか?それとも別れていますか?

「仕事と稼ぎ」:農業が近代化される前も
当然のごとく市場経済の中で生きていたが、
それが今のように大きな存在ではなかった。
生きていくために必要な部分での仕事を「稼ぎ」とし、
村の営みを支える労働は「仕事」であった。
賃金のための仕事や商品作りばかりがひろがってしまうと、
村の暮らしそのものが
壊れてしまう危険性が生まれてしまう。
村の営みにとって必要な「仕事」と、
稼ぐことを目的とした「稼ぎ」を分けてとらえ、
「稼ぎ」を「仕事」よりも価値のない労働と考える
精神の習慣を身につけた、と著者らはいう。
これ結構分かれていない人多いんじゃないの?
僕に地域活動を押し付けている人は、きっとそうだね。
タヤはお金にならないことを好きでやっているって
言っているようだけど、
そう言っている人たちのその視点が
その精神の習慣に捉われていて
狭義の意味の労働に埋没してしまっている。
その人たちに問いたいね。
僕に押し付けて作った余白の時間は
あなたの人生の充実に結びついていますか?ってね。

質問③皆さんはなぜ「農業」を志したのですか?もちろん複数回答で。

「精神の習慣」は19世紀中葉の
フランス政治社会学者トクヴィルの言葉。
ある時代の人々がその対象をどのように考えているのか
というその精神の習慣を分析することを提唱した人。
もともと新大陸のアメリカが
どうしてあんなに狂ったように儲け主義で
突き進むのかを分析したようだね。
伝統的ヨーロッパ社会から見れば
当時のアメリカは狂って見えたのかもしれない。
今じゃ、それが当たり前になっているのも
そう思うと空恐ろしいけどね。
さて
労働をどうとらえているのか、
その時代の精神の習慣を浮き彫りにすることで、
労働が社会の中で
どのような位置づけをされているのかが
自ずとわかる。
「たとえば今日の私たちは、経済的価値を生みだす労働だけを労働だとみなす精神の習慣を持っている。(中略)このような労働観があることによって、経済労働中心の社会ができあがってしまっているともいえます」
と内山は指摘する。
「労働は、労働者が自分の考えや想像力を注ぎこみ技能を発揮して、いわば創造の喜びを感じていくものであり、同時にそれによって他の人に様々な満足をもらたすものでもある」という著者らの指摘は、
労働とはマニュアル化されない、
実践的に直感的に経験的に培ってきた技能(技術は普遍化されていて、いわゆる近代化されたモノ:加筆)によって
支えられてきた生活と仕事の両面で
発揮されるモノであり、
その一部が狭義の労働として
金銭を得ることにつながっているにすぎないという。
この辺りから
もしあなたが見ていた風景が変わってくれば
結構カンの良い方ですな。

質問④皆さんの生産物は、交換価値と使用価値のどちらが大きいでしょうか?

アダムスミスが価値を二つに分けて分析。
アダムスミスは水とダイヤモンドを例に
水は使用価値が高いけど交換価値は
ほとんどない。
(今の水ビジネスを考えるとそうも言えないけど、それはそれだけ交換価値を高めた結果だね)。
その反対にダイヤモンドは
交換価値は抜群に高いけど、
その使用価値はあまりないって説明している。

交換価値を高めても使用価値が高いとは言えず、
その逆で使用価値が高いからといっても
交換価値につながらない。
初期の社会主義的経済学では、
この二つの価値に相関をもたせることに夢を抱いていた。
もしこの二つが正の相関を持つのであれば、
労働はここまで疲弊したものにならなかったはず。
使用価値は受け手との相互性の中に存在し、
量的に測ることができない。
しかも相互の関係の条件によっては
しぼんだり脹らんだりする。
一般的には喜びや尊敬、誇りなどに表現されることにこそ
人間労働の本質が見出されるはずだ。
結論として著者らは、
労働は技能を通じて他者との相互性を
同時に形成していくことであるとしている。
「農民の新しい試みは、(中略)生産自体が消費者との直接の交通のなかでおこなわれていくのであり、生活・地域で様々に試みられている仕事づくりは、様々な相互の関係をつくりだすことと同時なのです」と締めくくっている。

質問⑤ではでは実際の我々の農業はどうか?

新規就農者で高収益、農外から入ってきた起業家、
大手株式会社の農業法人などが成功者と捉えられ、
農業技術と農学と経営とマーケティングが
それぞれの学問や科学でマニュアル化され、
JAや市場の規格に適合することは
使用価値につながっているのかもどうかも不明で、
完全に相互性を失っているんじゃないだろうか?
労働こそ生活と生産と密着しているからこそ、
地域を場とすべしという著者らは言うが、
子供会やPTA、青年組織活動などは、
精神の習慣から見れば、
負担感のある活動に追いやられ、
その場に住む人々は
村は寝るに帰るだけの場所となっている。
地域の役漬けになり、
金銭にならない労働を増やされていくのだが、
それが喜びや尊敬、誇りにつながるような相互性は
確保できているようには思えない。
それはそれらの仕事や労働を
そのように見る今の社会の精神の習慣による
疲弊だと思うのは行き過ぎているだろうか。
生活の場を離れ、
短期的な収益と効率化の競争に勝つことが、
今の農業で成功する道なのだろうか。
おまかせ便も所詮、精神の習慣からは逃れられず、
相互性は思ったほど確保できない。
僕らの使用価値の復権はあるのか?
相互性は復活するのか?
それとも新自由主義のように
効率的に定量出来ない部分を切り捨てることが、
「成長」の競争力としかならないのだろうか。
それともその精神の習慣の中でも、
小さくても相互性を確保し
日々の暮らしを彩らせることができるのか?
さらにはその習慣さえも
変えるだけのインパクトを自分たちが
作り出すことができるのだろうか?

皆さんはどう思いますか?




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田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
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