毎日新聞の特集ワイドで、
「原発呪縛・日本よ!」のリレー連載で、
内山節の意見が出ていた。
読んでいて、鳥肌がたった。
これからの未来の在り方を氏は、
「文学的に考えればいいんです」と答えていた。
彼の著書はこれまでもいろんな場面と文脈で読み、
そして、ある地点で、僕は内山節を読まなくなっていた。
自分では決別したつもりだった。
しかし、まわり回って、今、僕は氏の考え方に
近いところで、自然と営農と未来を見ている気がする。

これまで氏の著作で感銘を受けたのは、
やはりその時代の精神を描き出している事だろうか。
氏はそれを『精神の習慣』と呼んでいる。
それぞれの時代の考え方・正統性・価値などは、
その時代時代によって覆われている精神が違うため、
時代によって変化することを氏は、著作の中で指摘していた。
ただ、その方向がどこへ向かおうとしているのか、
僕には読み取れなかったため、
ある時点で、内山節を読まなくなった。
氏の本からは出口が見えなかったからだ。

そのころ、僕に明快な出口を示してくれたのが
自然科学者の著作だった。
科学が描く『本当』の世界の在り様に、
僕は現代を包む精神の習慣とのずれを見つけ、
そこに出口を見たような気がした。
分子生物学や土壌学・応用化学・昆虫学・生態学・食品リスク学・遺伝子工学などの
科学は、僕らの常識を打ち破るような
自然と僕らの生活にかかわる事象を説明してくれた。
危険だと一般的に認識されている『農薬』が、
どの程度のリスクなのかを解説してくれる良書もあった。
昆虫間の相互作用を利用した防除の在り方もあり、
僕の心の根っこにあった
『農薬』=悪という概念そのものを打ち砕いてしまった。
土づくりは、化学的な捉え方よりも(N・P・K的な)、
団粒構造のダイナミズムと微生物が構成する多様性といった
捉え方が、より僕を刺激した。
遺伝子組換え作物が、
耐農薬性について考えてみると、
総合的には、どのような問題があるのか、
良く解らなくなるくらい素晴らしい解説本もあった。
これらすべては、僕らを覆っていた『精神の習慣』を
打ち破るものばかりだった。
そこにはミュトスは無く、実在論的な科学によって裏打ちされた
世界の在り様を僕に見せてくれた。

僕ら生産者は、悩みが多い。
社会的な文脈を構成している精神の習慣によって、
農業の生産現場では、さまざまな意見が飛び回り、
そしてそれが本当かどうかなんて検証もあまりないまま
その方法を僕らに越境して、その価値に同意させようとする。
『有機農産物は栄養価が高い&安全』
『農薬は危険』
『遺伝子組換えは危ない』
『硝酸塩は危険』
『伝統種は美味しい』
などなど例を挙げればきりがない。
慣行農業の現場の多くが、まったくこの精神の習慣とは
逆の立場で生産に汗を流している。
それは悪意ある生産ではなく、
真っ当で真摯な姿で。
生産物を差別化でき、カリスマ性を帯びた農家の一部は、
精神の習慣に乗っかって、自然農や有機農業という
カテゴリーの中で生産をしているが、
価格が反映されないほとんどの農家には、
そのような精神が越境してきても対応はできない。

もちろん、
全ての消費者が上記のような精神を
積極的に持ち合わせているわけじゃないが、
それでも、上記を問われれば、
多くが同意をするだろう。
「農薬ってやっぱり必要悪だと思います」と
ある消費者は僕に話してくれたことがある。
2008年に僕が安心安全について、
当時所属していた4Hクラブの発表コンペに参加するために
多くの人から意見を集めていた時のことだ。
農薬の危険性の議論の中で、
たぶん僕に寄り添ってくれた答えだったのだろうが、
それでも、やはり『悪』という意識は消えない。
怖いけど規定通り使えば、『安全』なんだろう、
という意識は誰にでもあった。
その「怖いけど」の部分が、『安心』という感情に
つながっていて、
農薬の核心の部分についての安全性の処理は、
個人的に手におえない状況でも、
2次的な周辺ルート処理によって、
作り手を信頼することで成り立っていることも
この時のインタビューで感じた。

精神の習慣によって事実として認識されている
この必要悪が、本当に悪なのかどうか、検証することもできないまま、
僕らは生産をしながら、仕方なく、
そのネガティブな思考に
支えられたその行為をし続けなければならないのかどうか、
それに良く悩んでいた。
もっと、僕は自由になりたかったのだと思う。
出口を示さない内山節を読むよりも、
新しい世界の地平を僕は見たかった。
そして、それはもっと社会に共有してもらいたかった。

しかし、それにも転機が訪れる。
科学がこの世界を説明すればするほど、
僕らの情感を傷つける時がある。
汎用性が高く、素晴らしいその普遍性をもった科学は、
地域や個人の持つ価値の凸凹を考慮しない。
正しいとされた判断の前に、
時に僕らの情感と価値は、ミュトスとなる。
僕らの中に土足で越境してくるその力は、
まさに近代性が生み出した申し子として、
すべてをフラットにしていく。
だから、一時、僕は愉快だった。
僕らの営農を支持し、大多数の慣行農業の出口にも見えた。
慣行農業と有機農業を画する一線は、どこまでも曖昧になり、
ミュトスの無い、美しい地平だと思ったこともあった。
そして、今は、それが不愉快でしかない。

科学的に正しいことは、たぶん、ヒューマンエラーが無い限り、
それは正しいのだろう。
僕はもう実在論を疑わない。
世の中は斉一性富んでおり、帰納的に出来ているから、
僕らは帰納したくなるんだと、今は理解している。
ただ、それを前にした時、
僕の中で消えゆく情感を感じた。
自然をどう捉えるべきか、その部分で、僕は不満があった。

僕の妻は文化人類学者で、
彼女から日々多くの刺激を受けている。
カルチャーを書き続ける意味を
僕は大学院の講義よりも彼女から学んだ。
そしてその文脈の中では、
地域や個人の持つ価値と情感の凸凹は、
それ自体に価値がり、そして記述されるべきものとして
取り扱われる。
まさに、その地域の、その時代の『精神の習慣』を
書き表していく作業と言えよう。
そこには、僕ら介入者も社会的文脈の中で、
一緒に精神の習慣を築き上げていく存在として書かれ、
彼女の捉えた『開発』現象は、
その習慣を動的に捉えており、とてもダイナミックだった。

そんな風にして、僕らの情感で
自然を記述した分野が無いのだろうかと探してみると、
ネイチャーライティングという分野にぶち当たった。
やや自然回帰主義的で、
とても開発人類学が持つダイナミズムを持ち合わせているようには
思えない分野だが、
それでも僕らの持つ情感を拾い上げようとしている
数少ない分野には違いなかった。
反近代の思想をもち、その部分がやはりどうしてもチープで、
現実を反映していないので不満が残る。
開発人類学のように、開発を意味なく敵視せず、
そこで行われている相互作用に目を向ければ、
反近代といったもう僕らにはどうしようもない文脈に
陥らなくても済むのかもしれない、と思うのだが、
この辺は、僕ももう少し勉強しなければならない。

こういった思考を巡らせていくと、
最近よく思うのが、実は『安心安全』という僕らの
精神の習慣によって生み出された言葉は、
僕らにより良い未来を築くようには発揮されず、
逆に僕らを罠にかけてしまったようにも思う。
すべてを『安心』と『安全』で話をしようとすると、
そこに汎用性と普遍性をもった科学が、
この斉一性にとんだ世界の中で、力を発揮する。
安全は科学が語り、
安心はその科学を信じることで生まれる。
そんな文脈になっていやしないだろうか。
たぶん、それはこの時代では間違っていないのだろう。
なぜなら、僕らは社会をよりシステマティックに築き上げ、
多くの分断された情報の中で、何と何がつながっているかも
良く解らないまま、生活することを強いられているかだ。
だから、一つ一つのつながりに興味を示しても、
時間的・金銭的・空間的なさまざまな制約を受けて、
それを僕らの感覚が掴み取ることは難しい。
そしてそのすべての制約を取り払ってくれるのが、
『安心安全』という習慣のように思う。
そこには、僕らの情感はミュトスとあざ笑われ、
科学的に正しいことが、『正しい』とされる世界。
その窒息してしまいそうな世界で、
僕らが感じる自然への想いは、どこへ行くのだろうか。

これらを考えてみると、
安心安全というのが問題じゃない。
制約を受けて、僕らが生の感覚で触れられない社会の構造に
僕は問題を感じる。
ネイチャーライティングの著者・野田研一は、
人間の原理を絶えず相対化してきた自然という他者の存在に
その意義を唱えている。
その相対化されてきた自然が、遺伝子工学や応用化学や
分子生物学や生態学などによって、
相対化されず、その科学の原理だけが独り歩きを
しているのが、現状のように思う。

内山節が、
「文学的に捉えればいいんです」と答えたその中身は、
僕らはもっと生の感覚を取り戻し、
科学が前面に出てしまっている価値基準に、
僕らの情感をもっと練り上げたモノとして加えなければならない、
というメッセージだったと僕は捉えている。
原発の議論も、その安全性に特化するのではなく、
僕らの生の感覚がつながるこの世界との関係の中で、
それぞれの情感がかけがえのないモノとして、
扱われることを期待したい。

ますます社会は
分断された情報と関係の中で発展しようと試みるだろうが、
それらの中では、僕らの価値基準は『科学』や『国家』といった
とてもそれらだけに任せておけない論理で話が進んで行ってしまうことに
僕はもっと自覚的になるべきだ。

この世界は、生の感覚がつながるように
「文学的に捉えればいいんです」。
僕もそう思う。
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田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
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