内山 節 著 『自由論』:自然と人間のゆらぎの中で.1998年.岩波書店.

『市場経済を組み替える』(1999)で、内山氏が展開した自由と自在の議論について、より深く論じているのが本書。自由とは一体何か。誰もがその重要性を否定しないにも関わらず、漠然としているこの言葉を、近代性との関係の中で考察している。

著者は、近代の個人主義は、「経済の安定的拡大に支えられた程度の自由でしかなかった」と指摘している。我々は「その時代の固定観念」に支配されている。だのに、それに気がつかず、誰もが同じような「精神の習慣」をもって考え、判断し、行動しているうちに、それ以外の自由を尊重できない社会をつくりあげてはいないだろうか。もし我々のもつ「その時代の固定観念」にしたがって生まれてきたものが「自由の市民」だとすれば、近代人たちは、精神の「従順な下僕」にすぎない、と内山は指摘する。

内山は自由を2つの側面に大きく分けて議論している。社会的なさまざまな束縛や抑圧から自由になることと、人間の精神が自由なひろがりをもつことである。人間の精神が自由なひろがりをもつためには、時には社会的なさまざまな束縛や抑圧から自由になる必要があるが、必ずしもそうではない。社会的な束縛や抑圧を、我々は一体どのような色眼鏡でみているのだろうか。内山は、その時代の固定観念を明確にすべく、近代的自由の検証を行い、時間と自由の関係・自然と自由の関係・労働と自由の関係から明らかにしようと試みている。近代化の中で、僕たちは自己の自由を追い求めるために、自然を制御し、時間に合理的価値を与え、人間的な労働から効率的労働へと価値観を変えていった。そしてそれらにまとわりつく社会的制度的束縛を古いものとし一掃することに躍起になっていた。しかし、それで僕たちは自由になれるのだろうか。個人ですべてに向かい合う強さを秘めた生き物なのだろうか。

内山は最終章にて、『自由とは単なる個人の手段ではなく、自然をもふくむ他者との自由な関係のなかに、創造されるということではないだろうか』と問いかける。我々が今感じている自由を成立させている社会は、一方で貧しい人々を生み出していることも事実である。そして自由な社会のはずなのに、何となく自由には生きていない自分をみつけたりもする。自由を、個人の自由を実現させるエゴイスティックな権利として考えるのではなく、他者との関係の中に存在する事を忘れてはいないだろうか。我々のもつ「その時代の固定観念」をつねに問い直す必要性を、本書は訴えかけている。

内山節哲学の真髄が本書には詰まっているように思う。近代について深く考えたい人に、本書を強く推薦します(開発関係者にも)。
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田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

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