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愛しのアレジャン集落
第40話

ラエチュにささぐ

僕には、父と呼んでも差し支えのない人がインドネシアにいる。
それは、アレジャン集落の集落長ラエチュ。
年齢は不詳で、政府が出すIDカードの出生が正しければ
今年で78歳になっているはずだが、
カレンダーの数字なんてあまり意味を持たない
曖昧な環境であるアレジャンでは、その数字は大抵
IDを発行するときに役人か本人かまたは誰かが決めた数字で
正確ではないし、正確である必要もないのである。

何年集落長をしていたのかも
協力隊当時に彼に聞いたのだが、
「Lama」(長い)とぶっきらぼうに言うだけで、
その年数も適当。

体格はいい。
身長は僕よりも大きかった。
出会ったころは、肉付きもよく、山賊か海賊の棟梁のような人だった。
インドネシア政府の教育を受けていない世代で
インドネシア語があまり上手じゃない。
僕は協力隊時代、インドネシア語があまり上手じゃなく
(今もあまり上手くはないが・・・)
その僕とラエチュが事業の相談を
インドネシア語でやっているのを見て
周りの村の若者(インドネシア語教育をしっかりと受けた世代)から
よくからかわれた。
「話は通じているのか」って。

僕はラエチュの家に、3畳ほどの部屋を間借りして住んでいた。
住み心地は最悪で、プライバシーなんてこれっぽっちもなかった。
隙間だらけの壁から、よくのぞかれたし、
部屋おいてあった物は、無断で使用された。
ラエチュは、僕が持ってきた防水の懐中電灯がお気に入りで
夜、田圃の水の見回りに、いつも勝手に持って行っていた。
持っていく度に、僕は苦情を言うのだが、
そんな時に限って、言葉がわからないふりをされた。
そしていつしか、その懐中電灯は返してもらえなくなり
本当にラエチュの物になっていた。

ラエチュの家に住み始める時、
僕はある嘘をついた。
それは年齢。
当時、僕は23歳になったばかりだった。
でも、あまり若いと相手にされないのではないかと思い
任地では、28歳ということにしていた。
今思えば、それはどっちでもあまり変わらないような気もするが
僕なりの幼稚な背伸びだった。
だが、外国人でひげを蓄えていると
28歳と言っても、みんな信じてくれた。
中には、「思ったより若いねぇ」と言われることもあった。
態度がでかかったのも幸いしたのかもしれない。

ラエチュにも、28歳だと伝えると
彼は、大きな声で笑い
「嘘だ!」と言った。
そして、「お前は・・・23歳だ」と
本当の年齢を当てたのは、彼だけだった。
僕は、自分のアイデンティティをその当時から「農民」に求めていたので、
僕は日本の農民だと、言って回っていたのだが、
それもラエチュに見破られてしまった。
ラエチュは、僕の手を見て
「それは農民の手じゃない」と言ったのが今でも記憶に残っている。

本当に変わった人だった。
森の長老がお前を呼んでいる、と突然告げて来たり(第2話
冷蔵庫のアイスキャンディ計画を立てたり(第7話
初めて会ったときは、僕が死んだらどうしたらいいかを
まず聞いてくるような人だった。(第14話
今もあまり変わらないが、当時の僕はまだまだ子供で
僕の活動がアレジャンでうまくいかないことを
よく彼に文句を言っていた。
そんな彼は、いつも冗談なのか、本気なのかわからない理由で
僕をなだめてくれた。(第23話
僕の部屋には電気が無かった。
1年くらいは、みんなが使っていたミロの缶で作った灯油ランプでしのいだ。
2年目に入ったころ、ラエチュが僕の部屋に電気を引いてくれた。(第3話
これ幸いと、いろんな電子機器を持ち込んで
夜中使い始めると、よくブレーカーが落ちた。
でも彼はそれについて、何も文句は言わなかった。

お互いインドネシア語が下手で、
会話がいつもかみ合わない。
そのいら立ちをぶつけた時もあった。
そのほとんどが、現地語(ブギス語)を少しも覚えようとしない僕が
悪いのだが、彼は大学生のボランティアが置いて行った
識字教育の初等教科書を出してきて
夜な夜なテラスで読書をする僕の横で、
彼はインドネシア語の勉強をしていた。
ちっとも上手くはならなかったけど。

僕が帰国してから、
時間が経てば経つほど、彼とインドネシア語で会話するのが
困難になっていった。
僕はインドネシアの大学院に留学をして
語学力を伸ばしていたのだが、
彼は、僕が居なくなるとインドネシア語の必要性が無くなったのか
ほとんどしゃべれない状態になっていた。
最後に訪問した時は、病気のこともあって
ほとんどインドネシア語を話してくれなかった。
当時は、あんなに話が出来ていたのに。

僕の父が、アレジャンまで遊びに来た時があった。
その時、父は、「徹の父です」と自己紹介を
僕のホストファミリーの前ですると、
ラエチュが、「私がインドネシアでは彼の父です」と
僕の父に自己紹介したのが、今でも鮮明に覚えている。

ラエチュは、集落長として、村人から愛されていた。
村に入ってくる事業の分配は、
僕が見ている限り、多くをラエチュが持って行ったようにも思えたが(第24話
村人からはあまり文句を聞かなかった。
アレジャン集落の歴史から言えば
ラエチュの家族は、新参者だった。
でも、それはたぶん彼のパーソナリティが
彼を集落長にしたのかもしれない。

街に近い集落の人からは
「アレジャンの集落長は、インドネシア語を理解しない凶暴な奴」と
言われたこともあった。
その人の世代から言えば、
たぶんそれは、間違いなくラエチュのことを言っているのだろう。
あの体格で、怒る時の姿を見たものならば
たぶん、そう思えるかもしれない。

強くて大きくて、冗談なのか本気なのかわからないことを口走る。
そんなラエチュが、死んだ。
アレジャンの友人に別件で電話をしたときに
今年の9月に亡くなったことを伝えられた。

僕のインドネシアの父は、もうこの世にはいない。
僕はまだ何も恩返しをしていないというのに。
何と言っていいのかわからない後悔と悲しさが
ぐるぐるとまわっている。

こんなことを書いていても意味がないのだが
書かずにはいられない。

お父さん、

ごめんなさい。

お父さん、

ありがとう。


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田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

俳句もしております。「雪解」「街」「いつき組」に所属しております。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
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