僕が行っているインドネシア農業研修では、
座学や実習、研究などを用意してある。
それらの授業や実習のすべてに通じるのだが、
最も大切にしているのは、
『批判する』ということだ。

この『批判する』という言葉は、
一般的にはあまりポジティブでないかもしれない。
どうしても肯定される方が
気持ちは良い。
でも何かクリエイティブに生きたいと思うのであれば、
肯定は反って邪魔だったりする。
一つ断っておくが、
『批判する』は否定することと同一ではない。
その考えや行動、結果を評価することが
批判することであり、それを否定することではない。
僕はそれを
インドネシアのボゴール農科大学大学院の
農村社会学コースの教室の中で学んだ。

それまでは、
やはり僕も批判することは
とてもネガティブなことで、
それをされれば自分を否定されることだと思っていたし、
それをすれば相手を攻撃することだと思っていた。
でも、それは間違いだと
熱帯の蒸し暑い小さな教室で
多民族の人々と一緒に教わった。
批判することで、その人の意見に何かがプラスされる。
それまでその人の意見に
批判した人の視点がなかったことを
明らかにすることで、
考えのプロセスが明確化したり
その背景が見えてきたり。
ただ単に肯定しないことで、
違う意見が存在するだけで、
そこには論点が浮かび上がってくる。
そしてその批判が研ぎ澄まされていて
しかも的確であればあるほど、
そしてその批判を受け止められるその人の姿勢があれば、
その場には創造的な時間が生まれる。

批判がクリエイティブになるかどうかは
お互いのインタラクションも重要だ。
どんなに素晴らしい批判であっても
それを受け止める人間に
度量と余裕と知識と謙虚さが無ければ
その批判は無になる。

だから
僕らの農業研修では、
ちょっと慣れないかもしれないが
この批判をすることを訓練している。

1年生の時はその批判が否定に聞こえるようで
なかなか辛い時間を過ごす場合も多い。
ジャジャンが『もう帰る』と言い出したり、
イラが凹んで僕の悪口をあちこちで言ったり、
そういうことがあることも僕は承知の上さ。
もう少し丁寧に教えてあげる能力が
僕に備わっていれば、
こういう嫌な思いはないのかもしれないが、
それが無いから困ってもいる。
だから、
批判されることに慣れていない彼らには
このプロセスはやはり少々辛いのだろう。
でもこのやり方で
それぞれ個人差はあるが
卒業生たちは非常に伸びていく。
僕が熱帯の蒸し暑い小さな教室で
成長したように。
自分の視点を鍛え、相手のとの違いを見抜き、
そこにある問題をスルーせず
論点を明確にできる。
そんな人物に
研修卒業生たちは
少しずつだが近づいているようにも思う。

だから、
たとえば国会で一国の宰相が
批判を受け止めてきちんと答弁しなかったり
批判に対して答弁どころかヤジで応戦したり
そんな姿を見ると、
とてもやるせなくなる。

毎日新聞 東京夕刊 2015年2月26日
『特集ワイド:見過ごせない!安倍首相のヤジ』
さて、
JA福井市青壮年部の部長に
この前の総会で就任したのだが、
組織部長はJA福井市の経営管理委員になるのが
これまでの決まりだ。
たぶん僕も今度の総代会で
経営管理委員に推され、
承認されれば就任することになる。
それにあたって、
先日ちょっと変わった文書が届いた。
経営管理委員に対する意見書で
手書きのものだった。
ある特定の人物を名指しして
その人について否定的な文書が書かれていた。
こういうのは、僕のいう『批判』にあたらない。
まずこの手紙に書いた本人の記名がないこと。
自らは安全な場所にいて
その発言に責任を持とうとしない場合、
それは批判ではない。
しかもその否定した名前を挙げ
『その人になるとある組織が動きます
(たぶん経営管理委員の会長ということだろうか?)』
などといった文言は明確でない部分が多く
本人にその意思が無くても
脅迫と捉えられてもしょうがない。
日本語の文章作成能力に不安がある場合は
推敲を重ね、他人にも読んでもらい、
いろんな意見を聞いた上で
清書した方が良いだろう、と
このお手紙をくれた方にお伝えしたいのだが
このブログを読んでいただいていると幸いだ。
意図を伝えてこそ、それは批判になる。
その批判は、その人の目から見たら
現状がおかしいと思って
ボランタリーな精神を発揮して
その行動を起こしているわけなので、
その視点が、たぶん焦って書いたのだろうと想像する、
このやや拙い文章によって
失われてしまうのがとても惜しい。
その方の視点をきちんと伝えていただき
真っ当に議論ができれば、
とても建設的で素晴らしい時間になると
僕は確信している。

インタラクションの中で
それぞれの人間が明らかになっていて、
お互い尊重し合える空気の中でこそ
批判は生まれ、そして創造的な時間が生まれる。

もう一度言おう。
批判は、あなたを否定することではない。
創造的な時間を生み出す装置なのだ。
インドネシアの研修生たち、
安倍首相、
そして僕に文書をくれた憂いを抱く方、
創造的な時間を作りましょうよ。






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今回のもう一人の帰国者は
カダルスマン。
前回のエントリーで
やや彼の認識とのずれに
僕は戸惑ってしまったのだが、
今はその戸惑いも落ち着いて
自分では眺められるところまで来た。
だからといって
ショックがないわけではないが。

さて、彼についてもそれなりに
エントリーに書かれているので
ここでは重複もあるかもしれないが
恐れずに記録しようか。

彼は、中学高校と
それほど優秀ではなかった。
とはいえ、高校のときは
全国の農業高校の弁論大会で
優勝する実績はあった。

卒業後は成り行きで
園芸店や絵画のギャラリー、
アパレルの卸に就職した。
彼が言うには
『とくに夢なんてなかった』そうだ。
なんとなく給料が良いとか
なんとなく仕事が楽とか
なんとなく見た目が格好いい、
そんな理由だったという。
そしてそんな理由で就いた仕事は
どれも長続きしなかった。

ちょうどアルバイト程度の仕事をしていた時に
このプログラムの話を聞き参加した。

第5期生はたまたま
2名受け入れることにしていた。
毎年1名では、なかなか卒業生を
排出できないと思っていたので
地域開発の活動を
スピードアップさせるために
チャレンジ的にこの年は2名を受け入れた。
たぶん、それまで通り1名の
受け入れだったら、
候補者はイラだけで、
カダルスマンは来日できなかっただろう。
だから彼との縁は
ちょっと僕にとっても不思議なものを
感じたりもする。

来日してからの彼は
正直言って、
これまでの実習生に比べて
見劣りしていた。
一所懸命に課題には取り組むのだが、
レポート・プレゼン・試験・農作業、
どれも見劣りしていた。
能力的な差が確実にあった。
やはり2名の募集は
その分、クオリティが鈍るのだろうか。
そんな風にも思っていた。

前回のエントリーでも書いたが、
カダルスマンはとても愚直な人間で
自分の弱点も分かっている。
だから、小才が効かない分
自分の能力を過信せず
反復作業を徹底して
体や脳みそにその情報を
おぼえこませる作業は
たぶん誰よりも長けていた。
だから、実習生1年終了時に
JITCOから行うように指導されている
農業の試験では
これまでの実習生とは違って
満点をとって
周囲を驚かせたりした。

ただそれで彼が
僕の目指す考える農民に
なれるのかどうかは
とても不安があった。

だが、そんなものは
杞憂だと僕は知る。
彼がパームオイルのプランテーションで
現場監督の道を選んだことや、
帰国間際に行われた
農業とグローバリゼーションの筆記試験で
今までの実習生の誰よりも
的確にグローバリゼーションをとらえ
それに対抗する考えも
しっかりとしていた。
パームオイルプランテーションへの就職では
僕はへこむくらいショックを受けたが、
農業とグローバリゼーションの試験では
その出来に驚かされた。

もしかしたら
僕は勘違いしていたかもしれない。
彼はとても現実主義者で
しかもその勉強への行為能力も
方向性が定まれば
誰よりもその力を発揮する人間だった。
この妙を自ら捉えて
その状況に身を置き、
自分の行為能力が
自らの思う方向へと発揮できるように
自分にそれを引き寄せられるなら、
これからも彼は大丈夫だ。

新天地で外の人間として
パームオイルの地域に
彼がこれから何ができるのか、
僕にはもうどうすることもできないが
遠いここ日本から
応援していこうと思う。




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2012年に来日したイラとカダルスマン。
二人の技能実習生が帰国した。
二人ということで、
このエントリーも二つに分けるとしようか。

まずはイラソバルナから。
といってもこれまでのエントリーにあるので
それほど書くこともないかな。
これまで書いていなかったことを
ここでは記録しよう。

彼は2008年、
僕がこの研修事業を立ち上げたときに
福井農林高校へ交換留学生として来福していた。
2か月半の滞在で、
その間に何度も農園にも遊びに来ていた。
で、遊びに来たときはせっかくなので
1期生のヘンドラのために準備していた授業を
彼もいっしょに受け、ディスカッションした。
とても真面目な学生で、
また日本に来たいと語り帰っていった。
それから、4年が経ち、彼は再び
農園にやってきた。
今度は技能実習生として。

小学校から高校卒業まで
ほぼ学年で1番の成績だった彼は、
予想した通り、優秀だった。
良く勉強していたし、意欲も高かった。
研修の一学年上のクスワントを
下から突き上げる存在として
僕は期待していたし、
しばらくはその通りだった。

だが、ある時から少しずつだが変化が現れた。
それはここで彼女ができたことにもつながる。
帰国後の夢が、
日本で彼女と一緒に暮らし続けたいという想いが強くなり、
それまで議論してきたアグリビジネスのプランは
やはり力は入らなくなってきた。
それはそれで良い。
だが、日本で暮らしたいという想いの中には、
日本で起業したいという想いはなく、
彼女との暮らしの先にある、
『いつか遠い将来インドネシアに帰ったら』という
『』つきの夢に変わり、
やはりその分だけ、意識も鈍った。
だから彼のここでの研修の勉強は、
それからスピードダウンした。
これはしょうがないことだ。
誰かが悪いわけでもない。
彼の行為能力を発揮させる方向が変わってしまったのだから。
その代り、
彼は日本について、
どの研修生よりも知識は増えたように思う。
敬語はできないけど、
日本人と付き合っているだけあって
タメ口の日本語は上手だ。

人なんてそんなもんだ。
僕は彼の変化からも
自分の協力隊や修士の時のテーマだった
その人の発揮する行為能力の事例として
一つ学びを得た。

三度、彼は日本に戻ってきたいという。
その彼女と暮らしたいという想いだが、
その時は、農園に就職したいとも希望している。
もしそれが実現したら、
彼の中で止まってしまっていた
研修の続きをやり直そうと
僕は密かに思っている。
だからなのだろうか、
彼との別れの時には、
僕にはこれまでの卒業生に対する達成感はなく、
どちらかというと
彼が戻ってきてからのことを考えると
使命感の方が強かった。

いずれにせよ
この中途半端な僕らお互いの気持ちは
きちんと整理をつける時間が
今後必要なのだろうと思っている。




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妻が海外出張なので、
娘と二人きりの生活。
こういう時は、
いつも新しいボードゲームを買って、
娘と遊ぶのがここ数年の習慣。
もともと高校の時から
ボードゲームが好きだったこともあり
(結構マニアだった)、
娘がボードゲームを
理解できような年になると、
僕のボードゲーム熱も復活し
ずいぶんと買い集めたというのは余談。

今回は、
パンデミックに挑戦した。
世界のあちこちで病気の感染が進行するのを
食い止めていくゲームで、
プレイヤーは一つのチームとなって
その事態に対処するゲーム。
プレイヤー同士の対決型ではなく、
病気を防げたら全員勝ちで
防げなかったら全員負け、というゲーム。

なかなか大人向けの難しい単語が
飛び交うゲームだったが、
ボードゲームに結構慣れている娘は
そのルールを理解するのも早かった。
手番が終わるごとに広がっていく病原菌を
協力して除去したり
治療薬を開発したりと、
けっこう忙しいゲームだったが
勝負所がいくつもあって熱中してしまった。

ゲームをしながら、娘との会話も楽しかった。
娘のクラスの男の子の間で
壁ドンが流行っていて、
それを男の子同士で繰り返しやっていたら、
校舎の壁に穴をあけてしまった話や、
二日間はその話題で持ちきりだったが、
三日目にはラッスンゴレライが流行って
みんな壁ドンを忘れてしまったとか。
今でもそんなおバカな子供がいるんだねぇ~。
なんだか安心するな。

昨夜はパンデミックのゲームで
2回ほど人類を病原菌から救ってから、
本の読み聞かせで
シャーロックホームズシリーズの
『消えたカーファクス姫』で姫の足跡をたどりながら
いつの間にか二人とも眠ってしまっていた。



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研修3年生の発表もひと段落したと思ったら、
次は2年生のジャジャンの卒業研究が始まる。
休まる暇もなく
立ち止まることも許されないんだね。

ということで、
ジャジャンの卒業研究の
計画書を指導した記録。

彼の故郷はタバコ栽培と水稲の地域だ。
水量はそれなりに豊富にあるらしいが
まぁ、当然ながらその豊富な水量に
アクセスできないのが
ここに来る人間の特徴だろう。
だからジャジャンの家では
乾季のタバコ栽培が重要だった。
でもタバコの価格が下がっているので
それだけでは未来が見えてこない。
ジャジャンは、
僕の農園を見て
葉菜類の通年栽培で
市場に安定供給できれば、
価格も安定すると考えている。
で、安定的に葉菜類を栽培する技術として
彼の地方で問題になっているのが
根こぶ病だった。
連作することで根っこに発病する病気だが、
これを以下に抑えるかを
ここ半年以上かけて彼は勉強してきた。

そこで彼は今年の卒業研究として
小松菜の栽培を行い
根こぶ病の総合的防除の実践を試みている。
マルチや石灰などの資材を利用して
病害虫を防除するやり方を計画していて
たぶん、これまでの研修生の中で
一番農学的な取り組みになりそうだ。
小面積でのリレー栽培まで
取り組むかどうかは、
まだ思案中。

あれこれ考えて
実行に移そうとしているジャジャンは
なんとも頼もしく見えた。
僕もできる限りバックアップしよう。


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大学の同期が遊びに来る。
大阪出張の帰りに我が家によってくれたのだが、
深夜まで話し込み、
朝の市場への配達にもついてきて話し込み、
9時の電車に乗る直前まで
2人で話し込んだ。

13年ぶりの再会だった。
もともと大学1年の後半に
僕が大学に行かない時期があり
その時に代返でお世話になることが多く、
それから友人として付き合いが始まった。

とてもまじめな男で、
しかも酒が好きで、あと話も好きだった。
それと僕の法螺話にも付き合ってくれて
それを面白く聞いてくれたり突っ込んでくれたりする男だった。
大学ではいろんな奴に出会ったが、
一番気心が通じ合ったのは彼だったろう。
水と油のように性格が違うのに、
いつも一緒にいた。

あまりにも代返を頼んで授業に来ないものだから
彼に一度こっぴどく叱られたことがあった。
友人からあんな風に叱責された経験はなかったので
今でもよく覚えている。
それから僕は大学に行くようになった。
少しだけだが勉強をするようになり、
4年生まで1年生の授業を抱えていたが
なんとか卒業できた。
しかも修士課程に入学できるくらいの成績で。
代返をお願いしていた時は、
ほとんど成績は「可」だったから。

だから僕が今あるのは、
彼のおかげと言ってもいい。

13年の時は、
一晩で一気に縮まり、
僕はまた昔のように法螺話を繰り返す。
それに彼は
「そんなことねーろ」と
やや訛りのある言葉で返す。
それがとても心地よかった。
そういえば、卒業してからこれまで
こんな風に飲んだことってあったっけ??と思うほどに。

古い付き合いの友達は良い。
特に自分がナニモノにもなれず
あがいていたころの友は特に良い。
ダメな部分もお互いよく知っているからね。

相田よ、また飲もう。

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先月行われた
インドネシア農村スタディツアー報告会が
2月14日土曜日に
AOSSAの6階和室「あじさい」にて
開かれた。
参加者は25名。
こぢんまりとしたアットホームな報告会で、
主催は、
僕が代表を務める
Yayasan Kuncup Harapan Tani耕志の会。

発表は2部構成。
第1部では、インドネシア技能実習生の
農業研修概要と
研修生の自己紹介、
そして研修3年生の卒業研究報告をおこなった。
第2部では、インドネシア農村スタディツアーに
参加したメンバーから現地の様子や感想などの
報告があった。

この研修は、
福井農林高校とタンジュンサリ農業高校の
交流事業から派生した。
だから報告会では歴代の校長先生たちにも
ご出席いただいた。

またスタディツアーは
JICA北陸の市民参加プログラムにて
助成をいただいており、
今回の報告会でも職員の方にご出席いただいた。

他、協力隊OB会や農園のスタッフ、友人多数の方々が
報告に耳を傾けてくれた。

インドネシア農村スタディツアーを企画した当初は
これらの方々が参加してくれるようなツアーに
するはずだったのだが、
日程や旅行内容のハードルが高く、
応募は振るわなかった。
スタディツアーの主目的は、
インドネシア技能実習生たちがどういった環境から
やってくるのかを直に見に行こうというものだったので、
どうしてもインフラの整っていない農村部へ
数日泊まり込むというツアーになっていた。
僕らにとっての当然であるライフラインが
整備されていない地域への旅行は、
やはりしりごみしてしまうのだろう。
そこで最終的には村泊を1日だけとして
他の地域の農業も見るということで
バリ行も加え、ツアーを企画し直し、
8名の参加者で行った。

今回の報告会では、
参加はしなかったものの
それでも農園の農業研修にご協力をいただいている方々に、
技能実習生がどんな環境からやってきて
そしてどんな夢を持って
どんな風に現地であがいているのかを
知ってもらうのが目的だった。

だから第1部でも
3年生の卒業研究には帰国後の自分たちの進路についても
触れてもらった。
(そのプレゼンを作成する過程で、僕はダルスとの例の一件が起こったわけだが、それはリンク先のエントリーを参照されたい)。
個人的にはカダルスマンの発表が
心に残ったし、
彼の話がたぶんその地域の
土地なし農民の声に近いように思う。
彼はコシヒカリの栽培を卒業研究としていた。
だが、彼はそれを実現できるだけの土地も
施設も資金もなかった。
いくばくかの土地を買い集め
コシヒカリ栽培に乗り出すことも可能だったかもしれないが、
それで貧困から抜け出せるわけではないことは
彼は良く知っていた。
だからパームオイルのプランテーションで
働く決心をした。
彼のプレゼンの中でそこに至る
思考のプロセスと
今の考え方が明示されていて、
この研修の目的である
「考える農民」の片鱗が
少しだけうかがえたのはとてもうれしかった。

第2部のスタディツアー報告では、
まずツアー参加の大学生が、
5日間の旅行内容を数分にまとめたビデオを上映した。
卒業生やその生活ぶりが分かる映像で、
彼らを知る人間にとっては、
涙腺が緩むような絵ばかりだった。
参加者それぞれの感想も良かった。
このスタディツアーを通じて、
参加者たちは
技能実習生たちのリアリティを体験した。
その生の感覚が、
異文化の実習生たちの態度や考えを理解するのに
とてもプラスになっているのがその感想から感じられた。
そんな視点が
僕にはどこかで普通になってしまっていた
実習生たちの文化を異文化として
再び捉える機会にもなった。
たぶん、僕は、実習生たちの考えや態度に対して
判断や処理をショートカットするクセが
ついてしまっていたのだろうな。

一方で、農園のスタッフとして、
また耕志の会のメンバーとして
インドネシア実習生の座学や研究に関わってきた
佐藤の話には僕も考えさせられた。
僕は、実習生たちのリアリティを
それなりに想像できるし、帰国後も
(『たま~に』ではあるが)気軽にSNSなどを通じて
連絡を取り、現状報告を受けたり
彼らの問題についてディスカッションもしている。
だからまったくと言っていいほど、
僕は佐藤の悩みに気が付かなかった。
それは彼が一所懸命にかかわっているにもかかわらず
彼らが一体どうなっていくのかが分からないという
レスポンスがない中で、
どうやってモティベーションを維持していこうかという
悩みを抱えていたということだ。
言葉では相談を受けていたが、
僕の生の感覚にそれが無かったためか、
さほど問題視していなかった。
だが、彼の感想を聞いて、
その事の重大さと今回のスタディツアーが
その問題を解決するためにとても大きな役割を
持っていたということを
この報告会で気付かされた。
そうだよな。
僕もちょっとしたインドネシア実習生からの
レスポンスに大きく喜んだり
大きく失望したりしてるんだもんな。
そのレスポンスを感じられない立場は、
たぶん、それを感じて失望をするよりも
もっと辛いことだったろう。

最後にとても興味深い質問が出た。
その質問を投げかけてくれたのは、
協力隊OBで県の農業普及員でもある川崎君だ。
研修を受け入れる側として、
研修生たちのどういった変化が成長として大切なのか?という問いだった。
それの答えは、僕の中では明快だ。
人とは違う視点、常識にとらわれない考え方が
できるようになる、ということ。
人や周りの雰囲気でなんとなく考えるのではなく、
自分で判断し、自分で道を切り開ける人間になる、
ということ。

ここに来る子たちは皆、
学校では優等生だった子が多い。
タンジュンサリ農業高校で選考してもらうのだから、
そういう子が選ばれがちだ。
全員がそうだとは言わないが、
優等生というのは、その学校が思い描く枠に
自らをおしこめることができる人間という
場合も多いだろう。
優等生になりきれなかったから
僕は僻んでそういうことを言うわけじゃないよ!

ここに来る子たちは皆、
僕の問いに判で押したように
同じ答えをする。
なぜ?日本に来たかったのか?
『日本の最先端の技術を学びたいからです』と。
その考えは、間違い。
勘違いと思い込みが作り上げた虚像さ。
その枠から自分の思考を自由にする。
それがここでの研修中に行う作業だ。
もちろん、学びたいという技術は
僕ができる限りは教えてもいるけどね。
でも、それを覚えるのが正解はないんだ。

カダルスマンの事件があった時、
彼との話し合いで、彼は申し訳なさそうにこう言った。
『先生が教えてくれることは、言いにくいのですが何一つインドネシアでは通用しないと思います』。
そう、それ正解。
その時僕は彼にこう言った。
僕も知っているよ。
僕はそれが通用しないことも
役に立たないことも知っている。
じゃ、僕らは何をそんなに一所懸命
農業の技術について話し合ってきたのか。
実はその技術とインドネシアの実情を
一緒にすり合わせるプロセスで
君らの思考を鍛えていたんだよ。
だから君は途中で気が付いた。
だから君はパームオイルのプランテーションに投資し
そこで働く道を選んだ。
でもそれはなんとなくそれが儲かるというわけじゃなく
君なりに考えた答えだろ?
だから、それは正解だ。
ちなみに
カダルスマンの一件は、
その思考が、僕のいう正解のレベルに達しようとしていたのに
それを僕に言わずに隠したことが問題だった
(問題というか、僕が萎えたというだけのことだけど)。
それは全体の中ではごく小さいなことさ。

川崎君の問いのおかげで
僕自身もより明確に自分の中にある
答えに行きついたような気がした。
そう、この研修の目的は
自由自在に、そして常識に捉われない、
自分で困難に立ち向かえる、
自分で道を切り開ける、
そんな思考を身につけることなのだ。

いろんな気付きを得られた報告会だったと思う。
こんなダイナミズムを得られる機会は
そうそう無い。
この報告会に参加し
みんなでその場を作り上げてくれた
すべての参加者にお礼を述べたい。
また、この報告会をマネジメントしてくれた
妻・小國和子に心から感謝を述べたい。

本当にありがとうございました。



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雪が降り積もるこの時期、
白菜の畑はこうなる。
この白菜を見ているとよだれが止まらない。

さて、皆さんは
もう出荷は無理かな?
と思うだろうかな。
うん、たぶん市場流通は無理だな。
でも知ってる?
こうまで雪にあてた白菜は
びっくりするほど甘くておいしいってことを。

だから、
見た目で判断するんじゃなくて、
この美味しさを分かってくれる人にだけに
この白菜は販売している。

さて、そんな白菜。
我が家ではこうして食べている。

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白菜の間に塩を振った豚肉を挟み込み、
上からホタテの貝柱の缶詰をかけて
無水調理ができるストウブ鍋でじっくりと煮込む。

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さらに盛ってレモンを絞ったら出来上がり。
娘も妻も喜んで食べてくれる
我が家の白菜料理の定番。

とてもシンプルなだけに
白菜の甘みと柔らかさがとても大事になる。
それは雪に十分あたった
この白菜じゃないと表現できない。
畑でくたびれたような白菜でも
僕にはご馳走に見えるのは
こういうわけだからだ。


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アンビシ勉強会の記録をしよう。
今年に入って第一回目の勉強会。
発表者は、僕だ。

選んだ本は、これ。
堤 未果 著 『沈みゆく大国アメリカ』.2014.集英社.

アメリカの国民皆健康保険?を
目指したオバマケアの影に光を当てた本。
とてもよいルポで、
丁寧な記述に好感が持てる。
で、この本が示そうとしている
アメリカの医療界の市場化構造が
とても面白かったので、
それを今回の勉強会では
TPP後の農業界の市場化に当てはめて
まぁ、かなり大胆な形にはなったが
予想してみた。

ただ当てずっぽうではいけないので、
僕の考えを補完してくれる本を2冊用意した。

ジグムント・バウマン 著 伊藤 茂 訳 
『リキッド化する世界の文化論』.2014.青土社.

トマ・ピケティ 著 
『21世紀の資本』.2014.みすず書房.

さて本題。
もともとアメリカには「メディケア」
(65歳以上・障害者&末期腎疾患)と
「メディケイト」(最低所得層)の
2つの公的医療保険があった。
5000万人いると言われる無保険者に
医療保険を提供するため、
オバマ大統領は、医療保険を義務化し、
さらにメディケイトの条件を緩和した。
保険会社は既往歴や病気を理由に解約することができなくなり、
保険会社が支払う金総額の上限を撤廃する一方で、
保険加入者の自己負担額には上限(6350ドル)がつけられた。
さらに
収入が少ない場合は一定額の補助金が支給される。
そして従業員50名以上の企業には
社員への保険提供を義務化した。
なんだ、とても素晴らしいことばかりじゃないか。
だのに、なぜ、
オバマケアの影に光を当てた本なんだ?

それはこの制度の下に民間企業の競争が入ってくるから
とても素晴らしい理念も、
大きく捻じ曲げられて行ってしまう。

メディケイトのような安価な保険は、
使用できる薬剤と医療サービスに限りがあり、
本当に必要な治療を受けられない事例が
本書では紹介されていた。

保険加入者の自己負担額の上限に制限ができたため、
メディケイト保険者を医療機関が断るようになってしまった。
なぜなら保険会社が負担する分と患者の上限との差額は、
病院側の持ちだしになってしまうからだ。
また医者は保険会社にお伺いを立てながら、
マニュアルに沿って患者を診療しなければならなく、
保険申請の書類手続きで医者の業務がかなり膨れ上がっている。

さらに訴訟大国アメリカでは、
医者は常に医療ミス訴訟のリスクにさらされている。
そのため、医者は高額の訴訟保険に入っており、
裕福で勝ち組と思われた医者も
ワーキンプアのような状況におかれているという。

またオバマケアでは
一律の保険サービスのガイドラインを作り、
それに沿っていない民間保険サービスは無効になった。
一気に膨れ上がった保険市場で
民間の競争が激化し、
保険から撤退もしくは買収される民間保険会社が続出し、
一部の企業が保険事業を独占するような寡占化が進んだ。

一方で市民の負担も
軽減されたわけじゃない。
免責額は2500ドルから5000ドルで、
これを払ってからようやく保険が適応される。
また著者は、1993年に成立した資産回収法を
問題視している。
55歳以上でメディケイトを受給している者は、
死亡した時点で自宅などの資産を没収されるという。
家族が住んでいる場合は、
すぐに没収とはならないとのことだが、
借金の担保に家を当てることが多いため、
その時になって、家が自分のものではないことに気が付く。
一度メディケイト受給者として
社会の底辺層に落ちてしまえば、
その家族を含め、
リスタートを切ることすらままならなくなる。

50名以上の会社へ保険加入義務は
とても良いように思えるが、
実態としては、
保険加入義務をめぐって、
正社員数を50名以下に抑える企業が増え、
パートタイムへの降格事例も報告されている。
低賃金化と失業と資源回収法によって
中流以下層の負担は増大した。

アメリカは営利企業の病院経営が合法で、
公的病院への民間営利病院企業のM&Aが横行している。
低価格医療サービスを掲げ、競争によって地域の医療機関の買収の後、
採算の取れない分野を閉鎖してしまう。

また
労組で入れた組合保険は、
充実しすぎているとして課税率を40%にしようとしたが、
これは2018年まで延期になった。
だが廃止ではなく、延期なので2018年には
リストラと非正規化と労組保険の課税率アップによって
労組弱体化は必至だ。

著者はこの事態をリーマンショックと構造的に同じとみる。
高額な欠陥商品を強制的に買わせ、
払えない人には補助(以前に彼らから集めた税金)を出して買わせる。
保険の売り手には補てん費用を払い、
損が出ないように強力に守る。
メディケイト受給者のマネジメントを担う
センテネ社とモリナ社のCEOの報酬は
いずれも71%と140%上昇した。
政府は保険収益の8割を医療に充てるよう義務付けたが、
海外の保険会社を子会社化し利益分散は簡単に行われている。
TPP後は、日本にも病院の株式会社参入が進み、
公的保険適応範囲縮小と混合診療がやってくるだろう。

とここまで読むと
あることに気が付くだろう。
そうこういう規制緩和はなにも医療だけじゃないってこと。
同じような単語が農業界でも飛び交っているってこと。

小さな政府を目指した保守革命後(サッチャー・レーガン・小泉ら)、
僕らは民間のフェアな競争によって
より安価でより行き届いたサービスを受けるはずだった。
そうそのはずだった。
それが資本主義だとも思っていた。
でも今回の事例からは、
そんな安価で行き届いたサービスを僕らが享受することはなく、
反対に、僕らは市場化され
投資家のターゲットになってしまうだけだった。

買収による寡占化が進み、
大企業化(財閥化)した企業は
「大きすぎてつぶせない(リーマンショックの時の合言葉)」ために
問題が起きても公的資金
つまり税金をたっぷりもらって
強力に守られる。

強い資本力を持った会社がその分野を独占し、
どんな制度もその企業が
儲かるような仕組みに変えてしまう(アメリカのロビー活動)。
バウマンやピケティが指摘したように、
リッチスタンの住民はタックスヘブンに逃げ込み、
資本の増強を易々とやってのけていく。
中流は市場化され、
資本家のターゲットとなって崩壊し、
ピケティのいう資本主義は格差
(r>g:資本収益率は経済成長率を常に上回る)を
生み出すだけの装置になろうとしている。
それがアメリカ式の新自由主義のなれの果てなんだ。
そのルールに乗っかっているのがTPP。
だから、中央会解体もその眼鏡で見ると
すこしこれまでと違ったように見えたりする。
つまりアメリカ式の新自由主義のルールが
より適応しやすいように
つまりは僕らが市場化されやすいように
農業界のもろもろを変更しようとしている、といったようにね。

全農によるコメ市場独占を解体し、
地域農業もすでに集落営農の名のもとに集約化。
法人にしておけばM&Aしやすいよね。
小難しい地域に思い入れのある爺さんや婆さんを
これで農地から引っぺがすことに成功した。
農地を握っている
農業委員会も面倒だ。
農業委員会のメンバーをどう決めるかの改革も
準備した。
メンバーは首長に決めてもらうのが一番だよね!
農業委員会のメンバーにイエスマンを据えて、
地域の産業を大局から見て、
大企業の誘致もあわせてやっちゃえば?
中間管理機構もつくったよ!
ばらばらにあった農地は
簡単に集積できるよ。
株式会社の農地取得も緩和しよう。
じゃないと資本の強い企業による買収&寡占化に向かわないよね。

中央会の監査権を無くし、
単協をばらばらにしよう。
地域参入を考える株式会社は、
地域JAが持つ農業施設(赤字部門)を買収し
(そういえばJA福井市は店舗事業の譲渡案があったが、ご破算したね)、
資本力を活かして安価な米や野菜を作り続け、
価格競争で敗れた農業法人・集落営農を買収しちゃえ。
政府の補助によってちょっと贅沢に整備しちゃった
集落営農の施設と農機と農地を
二束三文のお金で買いたたけるね。
そして採算の合わない分野(農地:地区)を切り捨て、
農地の転用(農業委員会は骨抜き済み)と
その企業体の転売で儲けを出すってどう?
新しい財閥:ホールディングス化した企業が、
譲渡受けたもしくは買収した部門(農協関連施設や集落営農)を
子会社化してもそのまま売却の対象になる。
だから譲渡するときにどんなに条件を付けても
地域やJA組合員の想いはくみ取られないな。

どう?
こんだけ条件を整えれば、
かなりのお金が農業界に流れ込んでくるんじゃないかな?
いろんなものを市場化したよ。
さぁ、どんどんじゃぶじゃぶお金を投資して
マネーゲームを始めよう!
あっ失敗しても大丈夫だよ!
大きくなりすぎてしまえば、潰せないから。
公的資金で守ってあげるよ。
「地域に多大な影響を与えてるわけにはいかない」
と苦渋の顔をした政府の偉い人がそういえば、
それだけで大丈夫だよ、きっと。
これが僕らの首相が声を大にしていっている、
「強い農業」ということさ。
投資も促進されるから
ずいぶんと賑やかになるよ。
お金まわりもよくなれば、その産業に群がる人も増えるね。
あっ、もしかして高齢化問題も解決しちゃうかな?
というのは、僕の作り話。


でも
本当にこれは作り話なんだろうか。
TPP締結後の数年で、
僕らはもう農業界の主体的なプレーヤーじゃ
なくなっているかもしれない。




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カダルスマン(以後ダルス)は、
とても不器用な人間だ。
自分が不器用だと知っているから、
彼はとても真面目に生きてきたし、
何かをさせれば、必要以上に準備する奴だ。
ただ正直、センスはないと思っていた。
見下しているわけじゃない。
それはそれがあれば農業に向いていたのにな、という
親心のようなものだと理解してもらえるとありがたい。
しかも彼は貧乏な生まれだ。
農地も農業生産施設も何も持ち合わせていない。

だから、彼は自分で農業するよりも
農業関連の会社に就職した方が良いと思っていた。
地方で一番安定しているそういう業種は、
日本もインドネシアも同じで、
公務員が良いと思っていた。
一時期僕は彼に公務員試験の受験を
提案していた。

だが、僕が思った以上に
ダルスは自分のことを良く知っていたのだろう。
それはそれでとても素晴らしいことで、
不器用でセンスのない自分が
ここで得たお金をどう使って貧乏から抜け出そうかという
その創意工夫は、ある意味僕が思っていた
「センスがない」という判断は誤りだったと
今は訂正せざるを得ない。
彼は無理なことには労力を必要以上に使わないのだろう。
だから農業が無理だと分かっていれば
それにそんなに時間も労力も割かない。
なぜなら自分が不器用だと知っているから。

あと彼は小心者だったということだ。
だから何かをさせると
その準備に入念がない。
それはこんな逸話に良く表れている。

研修が1年過ぎると国の制度として
農業の技能試験を受けることになっている。
内容は大したことないし、
僕に言わせれば政府寄りの機関が作った
ぜんぜん農業のリアリティを考えていない
試験のための試験でしかないので
これまでそれほど僕自身はその試験に関心もなかったし
それほど指導もしてこなかった。
だからうちの研修生たちは皆、
ぎりぎりの点数で合格するのが常だった。
それが、ダルスだけは違った。
与えられたテキストを隅々まで覚え、
そして満点のスコアで試験に合格したのだ。

そんな彼だから、
僕以上に地域のポテンシャルを掘り下げて考えたから、
そして自分の立場と
自分の能力をよく理解していたからだろう。
だから彼はあんな行動をとったんだろう。
それは、研修で得た費用のほとんどを
カリマンタンのパームオイルのプランテーションに
注ぎ込んだということ。
その話を、僕は一昨日彼から打ち明けられたのだが、
パームオイルのプランテーションの問題がどうこう以前に
これまで僕と一緒にやってきた彼の夢についての
議論はなんだったのだろうかと、
一瞬で目の前が真っ暗になった。
今は、正常な思考が再び僕を支配し、
こうしてパソコンに向かって文章を打ち込むまでに
回復したが、一昨日と昨日は
とてもまともな思考などできない状況だった。
彼がプランテーションに投資し始めたのは
2013年の6月だという。
そんな突拍子もないことが
彼一人でできるわけはないと思っていたら、
高校の先輩でパームオイルプランテーションに就職し
そこでマネージャーをしている知り合いがいるという。
その人を通じて、投資をし始めたという。
実はその人は僕もよく知っている青年だった。

2013年6月に2haのパームオイル畑を購入。
そして2014年9月にさらに2haを購入した。
そして帰国も迫った10月、そのマネージャーから
会社がパームオイル畑の圃場管理者の募集を始めると聞いて、
さらにそのマネージャーからも
「うちに来い」と誘われた。
その誘われた話は僕も11月ごろ聞いた。
だからあれからパームオイルのビデオを見て
そこにある光と影を勉強した。
僕はある意味、ほっとしていた。
ダルスはやはりそういった大きな会社の方が
力を発揮できると思っていたから。
パームオイルの環境や社会破壊は大きな問題だからこそ
そこに飛び込んでいって僕とディスカッションをしてくれる
人間が生まれたことは、いろんな意味で良いことだったと
思えていた。

では
なにが僕をそんなに失望させたのだろう。
なにが僕の思考を止め、目の前が真っ暗になるほど
ショックだったのだろうか。
それは他人から見れば、とても小さなことなんだろうと
いまは理解できるが、
その気恥ずかしさをはねのけ
自戒を込めて記録しようと思う。

2013年の6月に彼がプランテーションに投資したころ、
僕の手元にあるダルスが提出した月間レポートでは
彼はバナナの加工についてそれなりに厚みのある計画を
書いている。
そしてそこには当時僕が書き込んだ批判と
その代替え案などが手書きで残っている。
数か月その状態が続いている。
売り先の問題、バナナをどう確保するのか、加工施設の価格、
そんな議論をその年いっぱいやっていた。
僕の資料には僕が集めたバナナの栽培から病害虫の資料、
バナナの品種の一覧、乾燥機械のカタログ、
バナナ製品の写真一覧などが添付され、
それらを彼と共有していた跡も残っている。
その一連の流れの中で
僕は彼のセンスを疑い、
そして彼の性格上、自分でビジネスを起こすよりも
もっと違う道があるだろうと思うようになっていた。
そんな手書きのメモも残っていた。

たぶん僕はそのダルスと一緒に議論した時間が
無意味のように感じられたのだろう。
正直、今も彼から打ち明けられるまでの間に
書かれたレポートを眺めていても
切ない気持ちになる。
僕はここでの研修を真面目に
そして真剣にやっていた。
自分の農業ビジネスだけのためなら、
毎日こんなに彼らの時間を割く必要もないし
僕がこんなにインドネシアのあらゆることに
勉強する必要もない。
それに経費面でいえば、
正直に言うと、彼らにかかるすべての経費を計算すれば
日本人スタッフの方が安く上がるのだ。
研修制度は低賃金の制度なんて言われるが、
まっとうに研修費を払うと
日本人の労賃の方が安い。
それだけ中間マージンが多いというわけで、
研修制度の外国人にはいるお金が少ないという
議論は、僕に言わせれば方向違いもいいところで、
その派遣産業の中間でどれくらいの人間が
美味しい想いをしているのか、こそ、
本当に批判すべき問題なのだ。
というのは余談か。

僕のモティベーションを支えていたのは
実習生たちのレスポンスだった。
僕の指導の質を高めようとしていたのも
実習生たちのレスポンスだった。
彼らの成長ぶりと
彼らの思考の発展と
彼らの分析とそれが夢へと飛躍するその瞬間が
僕のモティベーションだった。
カダルスマンは、そのすべてを
僕から奪った。
それはとても小さいことかもしれないが
僕を失望させるには十分だった。
それは僕のモティベーションを支えていたのも
とても些細なことだったからだ。

誰だって秘密はあるさ。
それにダルスの性格は分かっているだろ?
彼は小心者なんだ。
授業でパームオイル批判を繰り返す君に
ダルスは嫌われたくなかったんだよ。
あと、彼にとって君はすこし怖いんだと思うよ。
そして彼は誰よりも現実主義者なのさ。
自分の置かれた立場と自分の能力を知っていた。
そのはざまで生まれたのが今回のパームオイル畑への投資と
そこへの就職だった。
わかるだろ?
理解できるよな?
とても論理的じゃないか。
彼を誉めてやれよ。
そう、僕が言う。

だから、僕は彼を誉めようと思う。
そしてこれからも僕が
彼に寄り添うんだと思う。
彼らが僕に寄り添ってくれるなんて期待してはいけないし、
それをモティベーションにしてはいけない。
どうも僕はすこし感覚が鈍っているんだろうな。
これは僕が好きで始めたことであって
それ以上でもそれ以下でもない。

カダルスマンが何を学んだかはわからないが
彼がパームオイルのプランテーションで働くというのなら
僕はとことんそれに寄り添うことに決めた。



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2月1日の日曜日、
僕が所属するJA福井市青壮年部の
総会があった。
そこで今年度の役員改選があり、
僕が部長に選ばれ、承認された。

任期は3年だ。
青壮年部の部長に就任するにあたり、
総会では所感を述べさせてもらった。

これまで他の農業者団体の役員などを
務めてきたが
自分なりに不満はあった。
農業界に対する危機を感じながらも
ただ単に飲み会になってしまっている会ばかりで、
真面目な議論はどこかそっち抜けになっている感が
強かった。
もちろん、楽しかったさ、その組織も。
仲間と呼べるような農家に出会えたしね。
でも不満があった。
それが一番噴き出してきたのは、
やはり会員が活動のプレゼン大会で勝ち上がり、
東京まで発表しに行ったことがあったのだが、
東京会場まで応援に行った会員は
僕だけだった(しかも3歳の娘連れで)。

その活動はそれなりに手ごたえはあったし
今までにない何か作り上げた感触もあった。
その発表が
東京でとてもさみしく行われたことが
本当に残念だった。
僕はあの一件で、かなり失望した。
そして自分の想いが萎えていかないようにするために
その団体とも距離を置くようになった。
行政との距離を感じるようになったのも
たぶんその辺りからかもしれない。

その数年後、
地区のJA青壮年部に青年の主張の順番が回ってきた。
他のJAは分からないが、
ここでは実績発表や青年の主張といった
青壮年部の発表大会の順番は各支部の持ち回りで決まっていた。
そこで、河合地区にその順番が回ってきて
僕がその発表をした。
その詳しいエントリーは、すでに記しているので
ここでは割愛しよう。
詳しくはカテゴリの青年の主張を参照されたい。

で、その時の
東海北陸大会&東京大会での応援のエネルギーが
とても大きかった。
地区を上げての応援や声かけがあり、
多くの方が駆けつけてくれた。
そう、地域を何とかしたいと思った時に
必要なエネルギーがこういうエネルギーなんだ。
それまで関わっていた農業者団体は
個人個人の事業主ばかりで、
それぞれの仕事の延長上にある団体だった。
だから農業は栄えても地域は力を持ちえない。
その団体に所属するまでは、
そこに差があるとは思わなかったし、
失望してからは
そこの差が埋まるとも思っていなかった。
でも別の力学があって、それが働く場所があることを
僕は日比谷公会堂の発表ステージで
僕から見て右手上段の観客席が
JA福井市青壮年部が作った赤の半被で染まったその場面で
まさに発表しようと思ったその瞬間に、
僕は初めて気が付いた。
僕は以前から青壮年部に所属していたのに、
その力に気が付かずに
しかも東京でこれから思いのたけをぶつけようという
その場所で気が付いたという間抜けぶりだった。

それから僕は今まで以上に
JA青壮年部の活動に参加するようになった。
たしかにいろいろと批判もある団体かもしれないが
活動の先にあるものが
業種別の団体では作れない想いが
それぞれの地域に埋め込まれている。
僕はJAの組合員さんも含めてだが
農業者じゃないことは何の問題とも思っていない。
それが当たり前じゃないか。
だって、僕らの住んでいるこの地域・農村は、
いろんな業種の人たちで成り立っているんだ。
だから仕事で分断するんじゃ、地域の力になりえない。
農協という懐の深さと
そこに集まった青壮年の地域への想いが、
農協青壮年部の他の団体にない力学を生み出している。

これから3年間、
その力学を高めることに僕は集中したいと思っている。
マネジメントは下手なので
どこまで上手にできるかはわからないけど、
一所懸命やろうと思う。





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田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
taya.tアットマークnifty.com
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