ヘンドラは、2011年4月に帰国した。
僕の彼への思い入れも、
みんなと同じだと言いたいのだが
やはり研修第一期生ということもあり、
やや特別だ。

帰国してすぐに
農家グループ長になったタタンのように、
ヘンドラも昨年の訪問の時、
すでに農家グループ長になっていた。
今回はどんなことで僕を驚かせてくれるのだろうか、と
なぜかそんな期待が常に彼にはある。

ヘンドラの地域は、へき地だ。
だが都市から遠いわけではない。
むしろタタンよりもバンドゥンにも
県都スメダンにも近い。
地図上では、とても立地が良い場所のようにも見える。
しかもバンドゥンからスメダンへ抜ける州道沿いなのだ。
だが彼の地域は、とその大きな道との間には、
大きな谷が横たわっていた。

その谷には橋がなく、
自然その谷を上り下りしなければならない。
4輪の乗り物では、そこを下っていく道が限られており、
また悪路でもあるため
よほどオフロードを得意とする車両でなければ
その道を通ってヘンドラの村に入っていくことはできない。

ちなみに急斜面を一気に下りるバイクだけが通れる道はある。
そこがヘンドラの地域の生活道なのだが、
年に何人もけが人(骨折程度)が出る道らしい。
僕が訪れた時も、ちょうどその月に村人一人が、
その急斜面で曲がりきれずに、そのまま谷の下まで
落下したらしい。
運よくほとんど怪我がなかったらしいが、
バイクは大破だったとか。
旅で訪れた人には、
その斜面を専門としたバイクタクシーなども
利用できるが、まぁ、お勧めできない。

さて、タタンの村を朝8時ごろ出て、
ヘンドラの家に着いたのは、お昼前だった。
雨季ということもあり、
何度も車がぬかるみにはまり往生したが
なんとか彼の村まで来ることができた。

到着してすぐに、
僕らはヘンドラの畑を見回ることにした。
ただ彼は、
「とても危険なところが多いので、近くの場所だけにした方がいいです」
と言ってすべてを回ることを渋っていた。
そんなんじゃ、ここまで来た意味がない、
と言い張り、無理やり回ったのだが、
彼の言うとおり、それはちょっとしたトレッキング並みで、
いや、道が整備されていない点で
それよりも悪い状況だった。

彼の村はぐるりと谷に囲まれているため、
畑は谷手前の斜面か、
谷向こうの斜面に限られていた。
平地はゼロ。
すべて斜面で、しかもなだらかな棚田ではなく、
急激な崖の所々を耕起している
といった表現があっているだろう。
急な斜面に作られた田んぼでは、
当然、地滑りも起きる。
地滑りが起きるとそのまま畑として数年利用し、
土地が動かないと確認できた場合、
また棚田に作り直して稲を栽培している。
僕が見学したときも、田んぼの数か所に
大規模な地滑りの跡があり、
ヘンドラは、
「あそこは雨期が終わればたぶんキャッサバの畑になります」
と平然と答えていた。

ヘンドラは、自分の村で水田を所有していなかった。
祖父の遺産として違う地区に水田があり、
それは他人に任せているという。
食べるための米は父の水田と、
任せている水田と妻の実家からまかなっている。
彼自身、こういう場所で水田経営することは
気が進まなさそうだった。

彼は自分たちが食べるための農業ではなく、
農業経営という意味での農業を目指していた。
それはあとで記述するが、彼の営農のスタイルから
強くそう感じられた。

彼の土地は、大きく分けると3か所だ。
まず一番先に見に行った畑は、
ヘンドラの集落よりも一つ谷の上にある集落だった。
その集落内にヘンドラは畑を所有していた。
17aほどのなだらかな斜面の畑で、
2012年に購入したという。
この土地を購入する前に彼は中古住宅を買い、
その住宅のリフォームを行っている。
それらの資金は日本で得たものだったが、
それに少し余りが出たので、
思い切ってこの畑を買ったらしい。
ちなみにこの畑を買って、
日本での資金はすべて使い果たしたとのことだった。
さてその畑の近くでは、
食肉用の鶏ビジネスを行っている人がいて、
そこの鶏糞をふんだんに使用できると
ヘンドラは言っていた。

ヘンドラも帰国直前に
この養鶏ビジネスをやろうと父から言われていた。
ただ彼は養鶏をやったことがなかったし、
リスクが大きすぎると考えていた。
紆余曲折あり、結局そのビジネスに
投資することはなかったというのは余談。
余談ついでだが、
インドネシアでは食肉の需要が高まっていて、
マニュアル化された養鶏ビジネスが盛んだ。
リスクは高いが、もうけも大きくて、
僕がかつて行った調査でも、
養鶏を始めた農家が一気に儲けのレールに乗り
規模を大きくしていたこともあった、
ということも余談。

ここでは面白い作付けをしていた。
まず赤豆(うずら豆のようなもの)を栽培し、
それが収穫される前にねぎを植え、
赤豆の収穫が終わる前に、
トウガラシの苗を植えるという栽培法だ。
Tumpang sariという名のインドネシアでは
かなりポピュラーな栽培法で、
いわゆる昆作・間作のことである。
一農家当たりの耕作面積が小さいジャワという事情と
トラクターで耕起できないこと、
熱帯という病害虫が猛威を振るう地域が背景になって、
こうした昆作が作物をリレーさせながら
行われている。
ヘンドラの場合は、
うちの農園での授業でやった総合防除を
よく覚えており、
コンパニオンプランツといった作物間の相性を
実践に取り込んでいた。

この畑のトウガラシは、
知り合いの揚げ豆腐屋に卸す予定をしている。
西ジャワは高速道路の整備に湧くが、
その高速道路のサービスエリアにお店を構えている
揚げ豆腐屋が毎週50㎏のトウガラシが欲しいと
ヘンドラに連絡があった。
高速道路のサービスエリアでは、
通常ありえない値段でものが売買されていて、
ヘンドラのトウガラシの買値も一般の市場よりも
倍近い値段で買ってくれる予定になっている。
ちなみに揚げ豆腐には必ず小さなトウガラシがついており、
それをかじりながら豆腐を食べるのが
西ジャワ(ジャワ全般)では一般的である。

2番目に見に行った畑は、
ヘンドラの集落の近くの畑だった。
ここは日本にいる間に購入した畑だった。
9aの畑で、斜面をテラス状にして
耕作していた。
ここでは、ソシンというアブラナ科の菜っ葉と
きゅうりのローテーション栽培を行っていた。
どちらも価格は安いが、
どちらもインドネシアの日常に欠かせない野菜である。
つまり、どこへ持って行っても
かならず売れる野菜なのだ。

実はこれはとても肝心なことなのだ。
野菜は生き物なので、収穫適期がある。
過ぎてしまえば商品にならない。
だから適期に収穫するのだが、
果菜類や葉菜類は日持ちがしない。
しかもインドネシアは熱帯で、毎日真夏だ。
そして流通のコールドチェーンがしっかりしていないので、
冷蔵保存なんてできないため、
葉菜類は収穫したらできるだけ早く販売しないといけない。
そんな不備も、
たぶん商人から買いたたかれる要素の一つなんだろうと
僕は思うのだが、それはまた別の機会に
議論するとしよう。

そんなわけで
収穫した野菜が必ず売れるというのは
価格が高い以上に、
農家にとっては重要な要素になったりもする。
だからヘンドラは、価格が安くても
とにかく毎日売れる野菜を作っている。
ソシンとキュウリは野菜を買い取る商人のところへ
毎日持っていくのだという。
もちろん近所の人も結構買いに来るので、
こういう野菜は足りないくらいだとか。
「小さくても、安くても、とにかく販売できるものを作り続けるのが大切なんです。」
とヘンドラは言った。
何かを決意するような、
もしくは自分に言い聞かせるような、
そんな言葉だった。
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先日、JA福井市青壮年部の総会に参加した。
この総会で、今年も役員に選出され、
今年は副部長という重責を賜った。
冒頭の佐野部長の挨拶が
皆、長すぎだと言っていたが、
僕にはいろいろと考えをめぐらせてくれた
とても良い挨拶だったように思う。

それは、今、農業の構造的変革を
その時代が必要としてるような風潮があり、
まさにTPPとリンクして、
これからグローバル資本主義とどう対峙していくべきか
それをついにこの農業の現場で強く感じる時代が
来たことにも関係している。
佐野部長の話では、
農業の規模拡大が謳われているが、
それは全員の規模が拡大することではないということ、
多くのアクターには退場してもらわないと
いけないということを含んでいることへの危惧だった。
僕らは農業を産業として見ていく必要がある反面、
その生業と生活が同じ場で行われているという
特殊な(昔はそれが普通だったが)労働環境の中で、
自分たちの生活の福祉にも大きな役割を果たしてきた。
農業人口が減る=地域の福祉力が低下する、というのは
これまでも掃いて捨てるほど議論されてきただろうが、
もうそんな議論にも力を持ちえないほど、
現在の経済システムの中では、
個々の農業の力は衰えてしまっている。
サブシステムとしての里山資本主義みたいなのもあるから、
まだまだ議論は続くだろうが、
さてその議論の先はどうだろうか。

それでも高齢化と若者の農業離れと
それを起因している現システムの中での収奪によって、
さらには経済成長の末期を象徴するような
膨れ上がりながら貪欲に人々を吸い続ける都市に、
地域を支えるアクターが奪われているのは、
僕らが一番その現場で感じていることだ。
だからこそ、
そういうアクターが減っていかないような仕組みが
これからは必要になっていくように思う。
(増えていくと言いたいところだけど)

そして、
地域にかかわる入口の一つが
このJA青壮年部だと僕は強く感じている。
その想いは、僕が東京で青年の主張の発表をしたときに
青壮年部の方々の力強い支えを感じた時から始まっている。
だから
青壮年部でも新たな部員(青壮年部では盟友という)勧誘に
上限10万円の特別活動支援金を
佐野部長の強い思いと一緒に予算に盛り込んだ。
活発な活動が人々をひきつけるというわけだ。
それがカンフル剤になるのかどうかは
それぞれの支部の頑張りなんだろうと思う。
そして
JA福井市青壮年部という
それぞれの地域に根差した支部の上部組織の役割は、
それぞれの支部が力を発揮できるように
支えたり、時には刺激したり、というものなんだろう、
と勝手に考えている。

僕に何ができるのかはよくわからないが、
今年はもう少し僕も深く考えて、
そしてこの場で行動していこうと思っている。





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そういえば、勉強会の記録がないね、と言われることがある。
勉強会やめたの?ともいわれるのだが、
ちゃんと続いている。

では、なぜ記録がないのか?
それは、勉強会に来てくれないで、
読んだだけで満足してしまう人たちが
若干ではあるがいるということだ。

なので、記録をやめていたが、
それはそれでやったことがたまっていかないので、
これまでのように詳しくは書かないが、
記録だけはしようと思う。

ちなみに
僕のプレゼンした本は、読書記録にまとめていこうと思う。
一応テーマをもって本読みをしているので、
ある程度蓄積が必要だと感じるようになったので、
あちこちに書き散らすよりも
読書記録として書いていこうと思う。

以上、独り言のような忘備録でした。

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タタンの地域に影響を及ぼしている
巨大な国家プロジェクトとは、2つある。
一つは幹線道路の拡幅工事。
タタンの村から近い街Wadoから
お隣の県Majalengkaに伸びる道が
両幅15mも拡幅する予定で、
僕が訪れた時にはすでに用地買収は済み、
一部で拡幅工事は開始されていた。
この影響を受けて、道路沿いの土地の価格が値上げし、
玉突き的に土地全体の価格も押し上げているらしい。

さらにもっとインパクトがあるのは、
巨大ダムの建設だった。
タタンの村から車で1時間も行かないところで、
そのダムの建設は行われていた。
完成すれば東南アジア最大級のダムになるらしい。
スハルト政権時代から計画があったらしく、
用地買収の一部はその時代に行われていたとか。
その巨大なダムは、多くの村と農地を飲み込んでしまう。
その人たちは移転先をあてがわれたわけではなく、
金銭のみでの補償だったらしく、
住民はそれぞれに近隣で農地を確保しているらしい。
また、そのダムに沈む場所には政府系の森林公社もあり、
その移転で近辺の森林400haを購入する予定で
すでにその一部は売買されていて、
残りの用地がどこになるのか、
村人が集まればその話題がトップニュースになっていた。
こうした土地買収の過熱により、
農地の価格は三倍以上に高騰していた。
タタンは、現時点ではこれ以上農地を増やせない、
と言っていたのは、この土地価格高騰の煽りを受けてである。

余談として、村人たちの集まりで
彼らの認識としてあった話だが、
農地を買い占めているのは、都会の投資家だという。
Majalengkaでも空港ができる話があるらしいが、
その用地買収が始まる前に都会の投資家たちが
その周辺の土地を買い進めていた、とまことしやかに
語られていた。
そして今回も森林公社が買う土地は、
その投資家たちが買い占めた土地だろう、と村人はいう。
それが本当か嘘かは別として、
それが彼らのリアリティなのだろう。

さて、農地を拡げられないという外圧は、
タタンの行動に少し変化をもたらしたように思う。
帰国前にタタンが立てた営農計画では、
果樹園経営が柱だった。
ただ果樹は植えてから数年は収穫がない。
なので、それまではその果樹園用に育苗する
果樹苗を販売して収入の一部に充てると言っていた。
その言葉通り、彼は果樹のナーセリーを始めており、
実際に販売していた。
1か月に1万円の売り上げがあり、
小規模ながらもそれなりに順調な滑り出しのようにも思えた。
実際、僕が訪問中にも、タタンの携帯電話が何度も鳴り、
果樹の苗注文の交渉をしていたのが印象的だった。

そのナーセリーについて、
帰国前と今回とではタタンの期待が変わっていた。
帰国前のタタンはそれは無収入の間のつなぎ的な意味だったが、
今回は、その果樹ナーセリーをどんどん拡大して
政府系の規模の大きい果樹プロジェクトなどにも
苗を提供できるようになりたい、と話してくれた。
たぶん思ったよりも苗の需要があったことも
起因しているだろうが、
それ以上に限られた土地の中で、
より効率よく農業ビジネスを行うためには、
こうしたナーセリーといった回転の良いもので
勝負ができるんじゃないか、と考えているようだった。
彼としては、果樹栽培の援助や普及事業に
うまく入り込んで今の何百倍もの苗を販売したいと考えていた。
その苗を準備するための技術や人員、場所などは
まだまだ未知数の部分も多いが、
熱く語るタタンの目には、ある程度未来が見えているようだった。

彼は荒唐無稽な話をする青年ではない。
彼をよく知っている人間ならば、
彼がどんな性格かはわかっているだろう。
ただ一般的にインドネシアの農家でよくある話が、
取らぬ狸の皮算用的なものが多く、
一気に規模拡大の話には、眉唾だと思う方も多いだろう。
僕もタタンがそんな話を始めるので、
インドネシアに帰国した途端に、
こちらでよく見かけるような農家になったのかと
やや心配だった。
だが、それは徐々に払しょくされていった。

僕が彼の家に到着すると、
彼はどこかに何度も電話をし始めた。
そしてしばらくして、
「今から村長に会ってもらえますか?」と切り出された。
僕は訳も分からなかったのだが、
彼が会ってくれいうのなら会ってやろうじゃないか、
ということで、村長自宅へ訪問することになった。
訪問してみると、村長もなぜこの日本人は
ここにやってきたのか要領を得ない感じで、
訪問の意味を理解していない僕との間で
かみ合わない会話が続いた。
その間をタタンが取り持って会話が進んだのだが、
ある時点でこれはタタンの政治力としての
訪問だと気が付いた。
それからは僕はタタンを褒め、
日本でどんな勉強をしたのかを話し始めた。

村長はそれまでは日本からの援助が必要だという話を
延々としていたのだが、
話がタタン個人に切り替わると、
彼も目を細めてタタンを褒め始めたのだ。
そしてタタンが帰国後すぐに、
集落の果樹の農家組合を組織したこと、
その組合長に就任したこと、
お金を浪費せず、果樹園や田んぼを買ったこと、
道普請ではリーダー的な立場で参加してくれたこと、
これからこの村の若者を引っ張っていってくれる存在だなど
もう聞いている僕が恥ずかしくなるくらい
村長はタタンを褒めていた。
2013年4月に帰国して、1年もたたないうちに
彼は村の中で政治力を発揮し、
一気に重要な人物の一人になろうとしていた。
その手腕に舌を巻くのと同時に、
僕はここぞとばかりにその彼の政治力を高めてやろうと
リップサービスをしまくって帰った。
村長と僕とがタタンを褒めまくるという
なんとも奇妙な村長宅訪問だった。

この訪問で明らかになったのだが、
タタンは帰国後に果樹の農家組合を新たに組織して、
国からの事業の受け皿を作った。
そしてその長についた。
さらにその組合には集落内にいる
果樹の仲買人もメンバーに巻き込んで組織した。
販売力や市場の情報を自分たちの組織に取り込むためだ。
組合の活動自体はまだまだ形になっておらず、
この組織をどう動かしていこうか、と
青い意見をタタンが熱く語るのが僕には面白かった。

さらにタタンの話では、
集落ではないが、郡レベルの青年会議所のような
組織にも参加しており、現在そこで果樹のプロジェクトが
持ち上がっているという。
インドネシアではもうすぐ大統領選と国会議員選がある。
それの影響で、その郡の国会議員候補者が、
私的な資金を使って、農家の所得向上プロジェクトを進めている。
もちろん、人気取りみえみえのプロジェクトなのだが、
タタンはそこにもしっかりと食い込んでいて、
彼の政治力には舌を巻く。
そのプロジェクトは丁子苗を1万本配布するもので、
その苗をその青年会議所が中心となって準備することになっている。
ただその組織は農業出身者がほとんどおらず
誰も技術を持ち合わせていない。
そこでタタンが中心となって準備を進めることになりつつある。
まだ決定ではないが、
その苗生産を自分のナーセリーで
一枚かめないかと考えている節もあり、
その配布先に自分たちが組織した農家組合が
入らないかと思案している感じでもあった。
こうした活動の背景が
彼の自信にもなっており、
そして規模拡大の難しさもあって、
果樹の苗ビジネスへ未来を見据えているようにも見えた。
それは資金や技術だけでなく、
しっかりとした政治力が発揮できなければいけないことも
示唆している。
今後、僕の研修においてもそこは議論し、
政治力を発揮させるために必要なことも
みんなで討論する必要があることを
改め気づかせてくれた。

たった1年たらずで
あの正直でまっすぐなタタンが
策士顔負けの政治力を
あのキャラクターのまま発揮させていたのが
印象的だった。

翌日、僕はタタンの家を後にし、
最終目的地、ヘンドラの村へ向かった。








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なかなか話が進まなくて申し訳ない。
いろいろと締め切りを抱えていて、
今日はようやく自由な身に。
では、皆さん、タタンの地元を一緒に訪問しよう。

イルファンのいるランチャカロンから、
車で1時間半ほど行けば、そこは県都スメダンになる。
その県都スメダンから、さらに車で2時間行った先に
タタンの住むバンジャルサリ村がある。
スメダン県とお隣のマジャレンカ県との県境にある村だ。

イルファンの村は、村といっても開けた村で、
交通量の多い道路もあって、それなりに車の喧騒があったが、
タタンの村は大きな幹線道路からは遠く離れ、
さらに奥に入ったような場所で、
とても静か村だった。
家もゆったりと建っており、敷地も広く、
一軒一軒美しい佇まいで、まわりの緑も美しかった。
とても豊かな村だった。

タタンは2013年4月に帰国したばかりだった。
なので、彼の活動はまだ始まったばかりだろうから、
ほとんど見るものもないだろうと思っていたが、
その期待は良い意味で裏切られた。
彼の実家はそれなりに裕福だ。
たぶん農園にやってくる研修生の中で、
今いる研修生も含めて、
一番裕福ではないかと思う。
タタンの父はまだ50代で若く、働き盛りだ。
大工をしていたが、ビジネス感覚に優れ、
淡水魚の養殖や投機的な米売買ビジネスで
土地を増やし、それなりに財を成した。
タタンはとても良いスタートを切れる立場にいた。
しかも彼は一人っ子だった。
これはスンダ民族では重要なファクターで、
遺産相続はいわゆる日本では「田分け」と表現されるように
すべての財産を均等に兄弟に分け与えるため、
相続を重ねれば重ねるほど、
その子孫の農地は細分化され、
農業を生業で食べていけなくなるのだ。
だから、一人っ子のタタンは、
父の農地やビジネスもすべて含めて
自分のこれからを考えていけるため、
非常に有利な立場といえよう。
事実、彼はそのように物事を考え、
農地への投資を行っていたのが印象的だった。

彼は4か所の土地を新たに買い、
農業を始めていた。
14aと21aの果樹園、
そして28aと14aの水田だ。
日本にいる間から、
土地の売買情報のアンテナを高くして、
帰国前にすでに
これらの農地のほとんどを用意していた。
トータルで77aの耕作面積で、
普通の農家よりもやや大きい。
しかもこれらはまだ父の農地や養殖池は含まれていない。

イルファンと違い
なぜこんなに広い面積の農地を用意できたのか?
その答えは、親の資金の浪費にその違いがある。
イルファンの両親はその日を暮らすのも大変な状況だった。
兄弟も多く、お茶畑の収入では全員が裕福には
暮らせなかった。
その結果、本人談で(やや感情的だとは思うが)75%の資金が
親族の日々の暮らしに費やされてしまった。
それに引きかえ、タタンの両親は裕福で
タタンの出稼ぎのお金がなくとも十分暮らしていけた。
しかも兄弟もおらず、タタンが生活費として親に送ったお金は
そのほとんどが貯金されており、
帰国後タタンの営農資金として手渡されたという。
そのお金をもとに、タタンはさらに土地を買い、
十分やっていける面積を最初から準備できた。

準備ができたといっても、帰国したのは
この前の4月。
なので、まだまだ農業は軌道には乗っていない。
1つ目の果樹園では、
それぞれ売れると考えている果樹
4種類(ドリアン・バナナ・丁子・ヤシ)と
野菜4種類(ウコン・唐辛子・なた豆・生姜)が
作付けられていた。
もう1か所の道沿いの果樹園では、
メインにSawoという熱帯果樹をメインに
胡椒とバナナを昆作していた。
イルファンの果樹園と違う点は、
粗放的な伝統果樹園ではなく、売れるものだけを限定して
昆作していたところだろうか。
彼からも「販売できるものばかり植えます」と
しっかりとその辺を区別した発言があった。

水田も2か所あった。
1か所はもともと父が持っている場所と同じ場所の水田が
売りに出ていたので、その場所を購入したとのこと。
より効率的に作業を行えるように考慮して買っていた。
その水田は、集落から離れていたが、
現在、村事務所主導で農道が整備されつつあり、
その農道の終着点がタタンたちの田んぼのある場所だという。
農道ができれば、これまであぜ道で苦労して運んでいた
収穫物も車両をつかって運ぶことが可能になるし、
肥料や資材の投入の楽になる。

さて、少し話を脱線させたい。
それはその農道についてだ。
日本でも戦後に土地改良と称して農地を整備し
農道を巡らせてきた。
国家プロジェクトであり大きな予算がついて
農道として拠出した面積は国が土地改良組合を通じて
購入した。
ちなみに農地の整備は、地権者と国の折半で、
何十年とかけて地権者は土地改良費として
この整備費を支払うことになる。
現在でも支払いは続いており、
支払いが終わったかな?と思ったころに
新たなパイプラインや基盤整備事業があったりで、
なかなか返し終わらないのが現状だ。
というのは余談。

さて、タタンたちはそんな国家プロジェクトではない。
村レベルの行政が企画した農道プロジェクトで
農道整備に少額の予算があるだけだ。
粗雑なアスファルトを引く予算だけで、
道の土台を作る労働力は
住民のボランティア(gotong royong)で賄うという。
いわゆる「サンカガタカイハツ」なのだ。
さらに驚くべきことに、
農道のために拠出する個人の農地は
買取りではないということだ。
つまり無償で拠出するというわけである。
これを寄合の話し合いで
解決したというのだから恐れ入った。
とは言っても、ずいぶんともめたらしいけど。

さて
実際に見学に行ったときは、
すでに道普請が始まっており、
拠出する農地もあらかた決まっていた。
もともと道に近い農家ほど拠出を嫌がったため、
不便でアクセスが難しい土地ばかりを
通って道が作られる計画で、
かなり曲がりくねった農道になるらしい。
でも農道ができれば、その農地の価値は上がるので、
タタンも一部農地を拠出しているとのことだった。
彼は拠出したほうが得だと考えていた。
農地の価値が上がるし、
作業効率も良くなるから、というのがその理由だった。

さて、農道ができるのは実はその田んぼだけではない。
タタンのもう一つの田んぼにも、そんな話が来ている。
日本にいる間に購入した田んぼで、
21aの小さく分かれた棚田だ。
ここには村の奥にあり、道路がまったくなく、
畦以外の道がない。
ただここは乾季でも水があり、
年に3回稲作ができる場所だった。
その田んぼの奥に別の集落があり、
その集落の人のアクセスを良くするために
村事務所からタタンの田んぼの一部を無償で拠出してもらい
そこに村道を作りたいと連絡があったという。
これにはタタンはやや消極的だった。
なぜならその田んぼも近くにはタタンの果樹園があり、
そこも村道の計画に入っていて、
せっかく植えた果樹がここ数年で道路建設のために
伐倒されるのではないかと危惧しているから。
果樹は植えてから収穫できるまで時間がかかる。
田んぼのような計算とは、また違うようだ。

十分な土地を買い、いろんな計算をしながら、
新たに農業経営に乗り出しているタタンは
とても頼もしく見えた。
ただ現在の面積では、まだまだ成功したとは言えない。
これからもどんどん面積を増やしていくかい?と
当然、そうです、という答えを期待して聞いた僕に、
タタンは、
「そうしたいんですが、それがどうも難しいです」と答えた。
ここにも巨大な国家プロジェクトの影響が
出始めていた。

つづく

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P1080013.jpg

最近、セロリが美味しい。
寒さをくぐり抜けてゆっくりと育ったためか、
すこし甘みもあって香りも高い。

このセロリは、
僕は個人的にだけど炒飯にして
食べるのが好きだ。

玉ねぎたっぷり入れて、
セロリもたっぷり入れて、
少しハムも入れて、
炊き残して冷蔵庫で余っている
昨日のご飯を炒めて作る炒飯。

セロリの香りと甘みが
口中に広がって
とても幸せ。

娘も大好物で、
妻が仕事で居ない時の
この時期だけの定番料理でもある。

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彼が
「農業では、家族を養っていけない」
と結論に至ったのは、
彼が置かれた環境やそれに付帯する要因とも
強く関係する。

前回も書いたが、彼は妻の村に居を構えている。
そして研修で得た資金で21aの土地を新たに準備した。
(前回29aと記したが、21aの間違い:前回のエントリーも修正済み)
資金的には、これ以上の規模拡大は難しかったようだ。
なので、この21aからの生産物が彼の生計の支えになる。
限られた土地で、拡大が難しい場合、
生計戦略は2つ。
一つは、単位面積当たりの収量を増えるように工夫するか、
もう一つは、単位面積当たりの収入が増えるように
生産物の単価を高くするか、だろう。
当然、イルファンはこの二つの道で2年間トライしてきた。
14aの水田は比較的水が豊富にあるため、
それを活かしてコメを2期作行い(1月~3月&4月~7月)、
8月にこの地域の特産であるサツマイモを作付する(12月収穫)。
タイトな作付けカレンダーだが、
最近はハンドトラクターを所有する耕起代行業者がいて、
14aを15万ルピアで請け負ってくれるので、
ほとんど土地を休ませない年3回の作付けも可能になっている。
つまりイルファンは、もうこれ以上土地を利用できないほど、
耕作をおこなっている。

そして前回のエントリーでも書いたが、
キャベツのように高単価の作物もイルファンは挑戦していた。
たぶん彼の希望の星は、ここにあったように思える。
既存の作物ではないものを
既存の流通とは違った方法で販売して、
今までにない高単価を実現できるんじゃないか、
そう彼が考えたのも無理はないだろう。
事実、僕は自身の事例を使って、
研修中に彼らにそれを叩き込んできたのだから。
しかし、それはどんな条件下でも成立しうるものではない。
可能性がないわけではないと、僕はまだ信じているが、
結婚して子供が生まれて、
すぐにでも一家を支えなければならない、と
イルファンらしい真面目な考えの下では、
それにちんたらと時間を費やすことはなかったのだろう。
だから、2013年のときも今回も彼は、
「一人で栽培からマーケティングは無理で、数人集まってやるのならできると思います」とそれがその問題解決の本質的な答えかどうかは別として、
彼が置かれた立場での行動の限界を
彼が語る背景になっているのだろう。

さて、
2つの生計戦略にかなり力を入れても、
彼の売り上げ(粗収入)は
年間600万ルピア(6万円)にしかならなかった。
限られた土地で収入を増やす努力は、
うまく実らなかった。
その間、栽培が失敗して収量が悪かったわけでもない。
その反対に、彼の果樹園で栽培している丁子は
2013年の収穫期(8月)の価格は高騰して
前年よりも倍の値段(1㎏15万ルピア)で取引されていた。
だから、昨年の売り上げは例年よりも
良かったと評価しないといけない状況だった。

では、そもそもなぜ21aしか土地が手に入らないのか?
その部分の要因を考えてみよう。
単位面積当たりの収入向上を精一杯やってもだめなら、
単純に考えて、耕作面積を増やすのが手っ取り早い。
だが、ここには大きな要因が彼の前に立ちはだかっていた。
まず、前々回のエントリーで記したように、
この地域には今、高速道路が建設中で、
それによって土地売買が過熱している。
高速道路ができることによってバンドゥン市内への
アクセスが良くなり、ベッドタウン化への期待が高くなり、
多くの投資家が土地を買い漁っているのだ。
また高速道路建設で俄かに成金になった付近住民も
そのお金をさらに土地に投資し、
高速とは全く関係のない土地でも、
その価格は3倍以上値上がりしている。
資金の乏しいイルファンでは、
急騰し続ける農地を買うだけの競争力がないのだ。

そしてもう一つは、研修生特有の問題でもある。
それは、なぜ彼は資金に乏しいのだろうか?
の問いの中に答えはある。
これまで研修生へのヒアリングで
日本でいくら資金を貯められるか調査してきている。
日々の生活費(家賃・光熱費・携帯電話代・食費・衣料費・交際費など)を
差し引いて、さらにあまり必要でないけど
買ってしまう電気製品代を差し引くと、
3年間で150万円以上のお金を貯めることが可能だ
(最大で200万くらいは可能)。
これくらいの資金があれば、
高速道路で高騰する前(イルファンが土地を買ったころの価格)ならば、
ちょっと乱暴だが1ha以上の農地は買える計算になる
(200万貯めれば1.5haも夢じゃない!?)。
ではなぜ彼の土地は21aなのか。
それは、親や親族への送金があるからである。
日本で研修(働く)することは、それ自体、
成功者と見なされる。
こうした言説は、住民へのインタビューの中でそこかしこに
見て取れる。
実は成功でもなんでもなく、
やや自虐的に言えば、南北問題の経済格差に乗っかった
一時的に生まれるドリームにしか過ぎない。
僕はそれを自分の中に飲み込んで、
それでもその格差で手に入れた資金で
営農基盤を準備できれば(農地を買うなど)、
あるいは篤農としてランディングできるのではないか、と
他人と家族を巻き込んで実験中なのは、余談。

資金を営農基盤につぎ込まず、
家族の生活費に使ってしまえば、当然、
研修が終わると同時に、その豪華な生活は終わり、
また以前と同じ生活が続くことになる。
だから、研修生たちには月間レポートなどで営農計画と
帰国後の夢を具体化させて、
貯めたお金が浪費されないような工夫を行っているのだが、
親との関係は個人的な問題も多く、
そこまで踏み込めていなかった。
事実、技能実習生制度では、研修受け入れ元が
研修生の預貯金を管理していたケースが
それを反対する団体から格好の標的にされることもあり、
僕自身それには触れないでおこうとしてきた。
その結果、イルファンの本人談で、
約75%のお金を親の生活費で費やしてしまったという。
その数字はやや感情的なものかもしれないが、
多くのお金を親の豪華な生活につかってしまったのは
事実だろう。
研修が終了した現在も、親からの無心は止まらず、
やや辟易したように答えていたのが印象に残っている。

こうして規模拡大への道は、高速道路と親族の無心によって
その可能性が絶たれてしまった。
インタビュー中、彼の感情が最高潮になった時に、
「これから徹さんは他の二人のところへも調査に行くと思います。たぶんみんな同じ状況です。農家はみんなそんなくらいしか儲けられないんです。年に600万ルピアでは暮らしていけないんです。どんなに頑張っても無理なんです」と
僕に言ったその言葉が、今でも僕の中でこだましている。

彼は2013年12月に契約公務員試験に合格した。
給与はいろんな役料がついて月220万ルピアだ。
彼は、
「これで僕らは、aman(安全)になった」といった。
定期的で高く安定した収入が彼の余裕にもなっている。
だが、その収入を得るために得た仕事は、
彼が愛する家族から遠く離れた任地で、
週末以外は家族に会えない単身赴任の生活が始まっていた。
営農に対する情熱は、冷めたわけではなく、
逆に彼は、
「これで給与を貯めて土地を買って増やせます」と
語っていた。
スンダ民族的な粗放栽培な果樹園の場合、
手入れはあまり必要なく、収穫期だけ手間をかければ
それなりに収入も得られるため、
この方向で投資をしようと考えているようだった。
イルファンの生計戦略は公務員給与によって、
大きく様変わりしたといえよう。

日本で学んだ技術(総合防除)が活きているのも
僕としてはうれしかった。
こういう道で研修卒業生が人生を切り開くこともあるのなら、
ここでの研修では公務員試験向けの技術的な部分を
フォローしていくのも今後の可能性の一つだろう。

イルファンとの熱い議論を交わした翌朝、
たぶんみんな同じ状況です、と言った彼の言葉を胸に
僕は次の訪問地・タタンの村を目指した。



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イルファンは、妻の実家のある村で暮らしている。
スメダン県ランチャカロン郡にある村で、
山間の村だ。
だからといって、のどかではなく、
人口密集地でもあり、所狭しと家が建っている。
一見したところ、森が広がっているように見えても、
そのほとんどは住民たちが管理する果樹園だったりもする。
棚田が広がり、すこしの隙間も逃さず
耕作しつくしている、そんな印象を受ける山村だ。
山村と言っても、村の中に主要幹線道路が走り、
その道沿いには商店が立ち並ぶ
けっこう開けた村でもある。
都会へのアクセスもよく、
ベッドタウン化しつつある。
そんな地域ならではの営農の苦労が
イルファンにはあった。
帰国後、彼がどんな営農をしようとしていたかは、
前回の訪問(2013年)のエントリーにも記してあるので、
まずこちらを参照していただきたい。

さて、
結論から言えば、
彼は契約公務員になっていた。
2013年に行われた
西ジャワ州の農業普及員(THL-POPT-PHP)の
採用試験に挑戦し、
みごと10倍以上の難関をくぐり抜けて
契約の公務員になっていた。
この役職は、主にフィールドで稲作や園芸分野において
自然環境に配慮した防除を農家グループに指導する仕事だそうだ。
彼自身、福井での研修中は、
総合防除(IPM)の研究を行い、
3年生の成果発表ではハダニの天敵防除の
道筋を実践的に示してくれた。
そういう意味では、普及員として
フィールドで農家と一緒になって
総合防除について学びあう今のポジションは
彼にもっとも向いているようにも思う。

さて、では彼はなぜ公務員を目指したのだろうか?
それにはこれまでの営農と彼のおかれた環境に
そのプロセスがある。

2013年の訪問エントリーを参照してほしいのだが、
彼は帰国後すぐに結婚している。
そして彼の妻の実家の近くに居を構え、
新しい生活を始めた。
実は、帰国前に彼は自分の地元に農地を買い求めていた。
帰国するまでは、地元でやっていこうという
ある程度の思いはあったのだろう。
だが帰国して、妻と結婚し、
そして妻の父が用意してくれた家やそこの土地柄、
彼の実家やその地域の事情もあり、
新しい生活は妻の実家であるランチャカロンで
スタートを切ることにした。
インドネシアでは、「家を継ぐ」といった意識が薄く、
特にスンダ民族では、末っ子が最後まで家に残るのが
慣習である(もしくは親の近くに住む)。
イルファン(ちなみに彼は4人兄弟の次男)は、
経済的に豊かな妻の実家の近くに住むことにしたという
至極インドネシアではまっとうな選択をした。

しかし、この慣習は時として難しい問題も起こす。
まずイルファンにとって何の基盤もない場所で
ゼロから営農をはじめないといけないということだった。
これもインドネシア的な感覚だが、
妻の父も副業的に営農をしているが、
その営農とは基本的に別経営体として運営するのが
通例である。
一家を構えれば、それぞれがそれぞれに
営農を行っていく。
もちろん親の手伝いはするし、
子供の畑を親が手伝うこともある。
だが日本のように「イエ」として婿や嫁が
その一家の営農に入ってくるといった感じとは
また別の感覚を僕は感じる。
収穫物や労働量は収穫物や金銭的に解決されることが多い。

つまりイルファンは、慣れない土地で
独立した経営体を確立しなければいけなかったのである。
彼はすでに帰国前に地元で土地を買っていたが、
それは父に預け、自分は新しいランチャカロン郡で
土地を買った。
水田が14a、そして果樹園が7aの計21a。
このあたり農家の平均所有の内が20数aなので、
標準の農家としてスタートした。
2013年に訪問した時は、
買った水田でキャベツを栽培していた。
そのキャベツは、総合防除を実践し
天敵に配慮した栽培だったが、収穫は安定しなかった。
何度かキャベツ栽培をためし、
その収穫物を新しい販路開拓のため
ブローカーには売らず、自ら市場にも運んだ。
だが、市場に店を構えている商店一軒一軒回ったが、
そこの商人からは、
「信用できない」と言われ、うまく販売ができなかった。
また商店一つ一つはとても小さく、
たとえキャベツを買ってくれても、その量はとても少なく、
その分一軒一軒回って交渉しなければならず、
たった8a分のキャベツであっても販売しつくすのは
かなり骨の折れる作業だった。
日本と違って、ローカルな市場は
小さな個人商店の集まりであって、
卸が競りを行うような場ではない。
八百屋ばかりが集まっている商店街だと思えば
あながち間違いではないだろう。
ブローカーは、大抵それらの商店をいくつも抱えているか、
さらに大きな市場にアクセスして、大量の野菜をさばいている。
個人の小さな農家が入っていく隙は、
ここには感じられない。
だが、僕らが日本で行っている営農スタイルから
マーケティングを考えると、
どうしても市場でニッチを見つける方に
考えが行くのも仕方がないだろう。
僕自身もそこにある程度の可能性があるんじゃないかと
これまで期待してきた向きはあるのだが、
今回の訪問でそこへの期待はさらに薄れた。
今後の研修の在り方にも大きく影響する事実であり、
やはり実践してみないとわからないことも多い。
ただ、まだ可能性については完全にはあきらめておらず、
もう少し違ったアプローチを誰かしてみないか、
とも思っているので、それは追々研修で彼らと議論しよう。

さてちょっと話がずれたが、
イルファンに戻そう。
彼は、自分一人では販売と栽培の両方は無理だと感じている。
現在研修中で、イルファンの同級生でしかも同じランチャカロン出身の
クスワントが4月に帰国するので、
2013年の訪問では、クスワントと一緒にマーケティングしたい、
と期待していたが、今回の訪問ではすでにそれへの期待も
ほとんどなかった。
彼は、数度にわたるキャベツの失敗で、
それはマーケティングと栽培の両方でだが、
新しい市場への期待感は
ほとんどなくしてしまったように見えた。

そして、昨年は周りの農家と同じように
特産のサツマイモを栽培し、ブローカーに販売した。
果樹園では丁子を栽培しているが、
昨年は値段が倍以上にあがり、その収入でやりくりをした。
その丁子も販売もブローカーだけで、
新しく市場を探すことはなかった。

そして帰国2年の苦悩と実践で彼はある結論を
導き出していた。
「農業では、家族を養っていけない」と。


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さて、どこから記録に落とそうか。
もっと早くに記録しようと思ったのだが、
とても幸せな記憶を何度も反芻しているうちに、
今日まで延び延びになってしまっていた。

1月最後の週に、
インドネシアの研修卒業生をそれぞれの村まで
訪ねて歩いた。
旅程は、2期生のイルファン(2012年4月帰国)を皮切りに、
3期生のタタン(2013年4月帰国)、
そして1期生のヘンドラ(2011年4月帰国)と
それぞれの家をホームステイしていった。
最終日にタンジュンサリ農業高校を表敬訪問し、
今後の展望について意見交換した。
さて、
前回(2013年新年)と違うのは、今回は僕一人で旅したこと、
そして、
村に泊まって一人ひとり時間をかけてインタビューをしたことだ。
もちろん、数泊しただけで何がわかるのか?
と自分でも思わないこともないが、
でも他に仕事をしている中で、
今回は最大限時間を割いて、そのほとんどを
村での調査に充てることができたという意味では、
ここ数年そういうことができていなかったので、
自分としてはそれなりに満足している。

さて、そろそろ本題に入ろうかと思うのだが、
その前に2点だけ整理をしよう。
まずはブログのカテゴリについて。
卒業生それぞれのインタビューは、
ブログのカテゴリ上、それぞれのカテゴリに属して
まとめていく予定だが、
旅は旅でまとめておきたい。
なんどかに分けてアップを予定しているが、
すべてをアップできたら、
このエントリーの末尾にそれらのリンクを張る予定だ。

もう1点は、彼らの営農を取り巻く外部要因として
それぞれの地域に影響する開発プロジェクトの存在を
ここに示しておきたい。
政策や市場等もあるのだろうが、
今回大きなインパクトとして
彼らからまず発せられたのは、
高速道路建設、
州道拡張工事、
東南アジア最大のダム建設、
といった開発プロジェクトだった。
イルファンの住むスメダン県ランチャカロン郡では、
バンドゥンから県都スメダンまでを結ぶ高速道路を建設中で、
そのために地域営農が大きく様変わりしようとしていた。
タタンの住むスメダン県のバンジャルサリ村では、
マジャレンカ県と県境近くで建設中の
東南アジア最大の水力発電所のダムが建設中で、
そこにあった国営の森林公社移転に伴い、
400haの土地を新たにタタンの住む村の付近で
物色中ともあり、また多くのダム周辺の住民が、
村がダム底に沈むこともあり、移転を余儀なくされており、
俄かに土地売買ブームが起きていた。
またタタンの村の近くの州道が両幅7mほど
拡張される計画で、沿道の商店や家などの立ち退きが
現在行われている。
そのため、沿道付近の土地が値上がりしており、
全く関係のない小さな村々の村道の沿道の土地まで
大きく値上がりしている状況だった。
それとは対照的に、
ヘンドラの地域は陸の孤島のような地域であるため、
そういった国家規模のプロジェクトとは無縁で、
そのため彼の営農はのびのびと行われている結果だった。
またこれはそれぞれエントリーでも考察していきたい。

さて、前置きが長くなった。
ではまず、イルファンの家に一緒に訪問しようではないか。




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田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
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です。
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