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吉川なすの最後の生産者だった
加藤さんが亡くなり、
その奥さんから種茄子を受け取ったのが
2009年のことだった。

それから3代、種を更新してきた。
昨年は種取りが上手くいかず、
今年のなす苗は一昨年の種も半分入っている。
形質の良い茄子の種を取り続ける
むずかしさとその危うさも
良く感じる。

今日、加藤さんの茄子から数えて
4代目になる茄子を定植した。
種を受け取った時から、
ずーっと後悔していることが、
加藤さんが生きている内に
どうして吉川なすの栽培について
教えを請わなかったのだろうか、
ということ。

ちょっと変わった伝統ナスがあるからと言って
吉川地区でもない人間が、
それを面白半分で栽培している、と
思われるのが嫌だったのだが、
図星、その通りだから、
その批判を嫌がってもしょうがなかったな、
と最近は良く思う。

種茄子を受け取るまでは、
ある意味、遊び半分での栽培だった。
本業の葉菜類の片手間のつもりだった。
でも、加藤さんから種を受け継いでから、
また加藤さんが居なくなった後、
市場でも期待を受けるようになってから、
僕の苦悩は始まった。

一度だけ、僕は加藤さんの茄子を
市場の業者から見せてもらったことがある。
加藤さんが不治の病に侵された後だったが、
そのなすは、
大きさも形も揃い、まるで
黒く輝く宝石のようだった。

その記憶自体も、
どこまで正しく記憶しているのかどうか
自分でも定かではない。
だが、もしかしたら美化されているのかもしれない
その記憶を
僕は毎年追いかける羽目に陥っている。
あの茄子に今年こそは追いつけるだろうか、と。

昨年の反省を今年に活かして、
若干栽培法を変更してみる。
剪定時期や種取り用の株の選定にも
もっと気を配らないといけない。


吉川なすは1400年の歴史があるらしい。
その種には2つのことを受け継いでいる。
一つは形質を伝える遺伝子。
1400年前から、僕ら農民が
何世代にもわたって、昨年よりも今年、と
少しずつ進化してきた中で、
とり続けた種の遺伝子。
そしてもう一つは、
その中に閉じ込められた物語。
僕と加藤さんのような物語が
その種にはこれまで1400年分まとわりついている。
その物語一つ一つは、忘れ去られてしまって、
僕らの手元には残っていないが、
今、まさに僕らはその物語を
つむいでいる最中でもある。

それらの想いが、
僕に今年もこのナスを作らせる原動力となっている。
歴史の中で選抜され続けた遺伝子と
それへの勝手な想いと、
全く個人的なエピソードに支えられ、
このナスは1400年の時を経て、
2013年もここで実を結ぶ。

そして、
たぶんこの作りにくいナスには、
1400年分の農民の苦悩が
詰まっているんだろう。
今年も僕の苦悩をこの歴史に刻もうと思う。


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勉強会の記録、
もうひとついっとこか!
4月24日のプレゼンは、農園のエース大西。
本はこれ。

ジェームズ・W・ヤング著 「アイディアの作り方」。

ちょっと前の本(1988年)だが、
広告業界で有名な著者が、
アイディアの作り方という手の内を
簡潔に紹介した本。
こういう本を選ぶあたりが、
大西らしい良いセンスだな、と思う。
この勉強会では、プレゼンする本を選びぬく力も
そのセンス磨きにとても大きく影響しているのだ。

さて、
アイディアはどこからか降ってくるものだと
思っている人が多いかもしれないが、
著者はそれを否定している。
自分の中に蓄積された知識の融合が
アイディアだという。
アイディアが生まれるプロセスを
著者は5つのステップに分けて解説している。

まずステップ1は、
「資料の収集」。
資料にも2種類あり、特殊資料と一般資料。
特殊資料は、自分の関心ごとに近い情報。
製品の技術や背景などなどがそれにあたる。
一般情報は一般教養。
時事問題やトレンドなどか。
これらの情報をとにかく整理して集めることが
大切だとか。
ただ単に読み捨てにするのではなく、
きちんとファイリングできるかどうかも
ポイントなんだと思う。

次のステップ2は
「資料を咀嚼する」。
意味なく並んだ資料をきちんと咀嚼し、
それぞれの関連性について考えてみるプロセス。
咀嚼して自分の血肉に変わらなければ、
自分のアイディアなんて生まれないもんね。

ステップ3は、
「考えを熟成させる」。
一旦考えるのをやめ、アイディアが頭の中で
熟成していくのを待つ必要があるらしい。
大西は、これまでこのステップを経験したことが
無いと話してくれた。
一晩寝てからもう一回考えるというくらいではなく、
一旦、その関心ごとから離れて、他のことに集中するくらい
必要だとか。
これもわかるような気がする。

ステップ4は
「発見の瞬間」。
熟成させた考えが、ひらめくという段階。
これはあまり経験がないな。

ステップ5は
「アイディアのチェック」。
他者からのチェックやアイディアが本当に
その関心ごとと有機的につながっているのか
資料化してチェック。
この段階でボツになることも多いとか。

これらのステップをすべてクリアーして
初めて新しいアイディアが生まれてくるという。
だから、ある日突然、
まったく新しく、斬新なアイディアが、
天から降ってくることなんて無い。
どこかでそれは誰かの真似だったり、
何かのモデルに良く似ていたり、するのは、
そういうことなんだろうと思う。

ただ、これで一部の天才だけが
斬新なアイディアの恩恵に
あずかるわけじゃないことも分かった。
良質なアイディアを生み出す秘訣は、
やはりステップ1の情報収集だろう。
地道な努力が、実を結ぶというわけだ。
当たり前になっている僕らの目の前の事象を
一つ一つ丁寧に掘り起し、
それを記録し続ける努力が出来る人が、
良質のアイディアを生み出すことが出来る。

僕らは、意識して記録し、
それを眺め返す日々を繰り返す必要があるのだと思う。


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有志による勉強会の記録。
毎週水曜日に農園の和室ミーティングルームで
行っているので、興味のある方は、
ぜひ、ご参加ください。

さて、今回は4月18日の記録。
酒井君のプレゼン。
本はこれ。

ニール・マーティン著 『「習慣で買う」の作り方』。

ついつい習慣で、毎回、
酒井君の野菜を買ってしまうような消費者が
スーパーや直売所にあふれている状況を
夢見る酒井君。
動機がちょっと不純な感じでのプレゼンだったが、
この本の中身は面白かった。

ビジネス啓発系のいい加減な考察ではなく、
しっかりと心理学に基づいて書かれた本で、
習慣がどうして出来上がっていて、
そしてその習慣がどう壊れて新しい習慣が生まれるのか
それを消費者心理に沿って書かれていた本。

まず、人間の行動の95%が無意識。
習慣脳と言われている部分で判断をし
行動している。
この部分で行動している場合、
人間は深く考察をせず、その行動を反復する。
これが「習慣」と言うわけだ。
その反面、しっかりと考察をし、
行動を起こす場合は、
判断脳で判断をしている。
ここでは意識は顕在で、これまでとは違う行動も
生み出される。
この部分が5%。
と言われると、自分はいろいろ考えて行動している!と
言いたくなるだろうが、
実はそんなことは無いのだ。
行動で判断をするのはほんの一部で、
あとは習慣化された行動で出来上がっている。
たとえば、本書には無かったが
解りやすくするために一例を載せよう。
車を運転する場合、すべてが判断脳かと思うが、
たぶん目的地へ行くための道順位が
判断脳で、あとは全部習慣脳だろう。
青信号で交差点に進入するとき、
本当にすべての安全を確認してから
交差点に進入するだろうか?
ハンドルを回せば車が回ること自体も
一体自分でどんな判断を下したと言えるのだろうか?
アクセルやブレーキもそうだが、
それは、「前もそうだった」とか
「そういうものだから」といった習慣と経験に
成り立ってはいないだろうか。
それが習慣脳というものだ。
さて本書は、
この習慣脳と判断脳を
マーケティングに活かそうとしている。

消費者が判断脳で考えていると
他社の製品に乗り換えられやすいという。
習慣脳で買ってもらえるように工夫が必要だとか。
また他者の製品から自社に乗り換えてもらうには、
この習慣を壊して、判断脳で考えてもらえたら
良いということになる。
酒井君のプレゼンで面白かったのは、
この習慣をオメガルールと呼び、
その習慣を壊すきっかけをデルタモーメントと呼んで
整理考察していたところにある。

オメガルール(習慣)を創りだすには、
商品に対して
シンプルな意味あるメッセージを反復し、
それが消費者の中でカテゴライズされることが
大切なのだとか。
一旦判断脳で判断してもらえれば、
それは習慣化しやすい。
自己判断を否定する行動は人間とり難いもので、
メッセージが伝わって、それを判断してもらえれば、
習慣になりやすい。
だからメッセージは出来るだけシンプルが必要だ。

ではその習慣を壊すためには、
デルタモーメントが必要になる。
新しい情報で、これまで正しいと思っていたことが
違っていたと思わせるきっかけが必要と言うこと。
価格差もこのデルタモーメントを生み出すきっかけでもある。

習慣化されている場合は、
それが壊れないように注視し、
他社から自社に乗り換えてもらうには、
デルタモーメントのきっかけを仕掛け続ける
必要があるということか。

とてもおもしろいプレゼンだったが、
しかし、酒井君がこの手の話をすると
なんだかちょっと怪しい雰囲気になるのは
どうしてだろうか???



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たまった勉強会の記録をつけよう。
4月10日開催の勉強会は、
林君のプレゼンだった。
本はこれ。

藤野 直人 著 「本気で稼ぐ!これからの農業ビジネス」。

就農2年目の林君は、
加工やレストランへの直販など
新しい取り組みをしているようで、
農業ビジネスについて何かヒントを得ようと
この本をとったのだとか。

この本では、儲かる日本の農業に必要な条件として
「自分で作って自分で売る」
「1000万円の所得を稼げる農業」
「品質・生産性・加工技術を活かす」
の3つがあるそうだ。
その上で、「中規模流通」という
ちょっと聞きなれない流通への取り組みを勧めている。
著者は、大規模流通を既存の市場やJA出荷などとし、
小規模流通を直売所やインターネット販売だと
定義している。
その中で、それらの間にあるのが
中規模流通という。
これだけでは何のことやらさっぱりなのだが、
僕の理解でちょっと書き足そう。
作り手やその野菜の情報が削ぎ落ちていくのが、
大規模流通。
想いがダイレクトで伝わる市場がインターネット。
でもこれはとても小規模。
デパートや生協のように
ある程度流通量を確保しつつも
作り手の想いや野菜のこだわりが前面に出ているような
販売経路をたぶん著者は中規模流通と
言っているんだと思う。

この本は、
なんだかうちの取り組みをそのまま
言葉にしてくれた感がある。
農園では、これまで市場出荷に重きを置いていたが、
ここ数年はそれが様変わりし、
インターネットや個別販売が伸びている。
直売部門だけでも全体の3割近くを占めている。
これらが大規模流通と小規模流通にあたるんだろう。
さらに、スーパーやデパートと一緒に
農園の特別コーナーを作ってもらって
農園のカラーで売り出していこうという
企画も始まっている。
たぶんこれが中規模流通か?
加工にも力を入れていて、
カラフル乾燥大根は昨年の倍以上を生産したのに
今年はもう完売してしまった。
インターンシップによる
農園の農産物を使った加工品の新商品開発も
これからやろうと企画中だ。

やれることは何でもやろう、という姿勢が
大事なんだろうな、と最近は良く思う。
林君も、頑張れ!



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勉強会の記録をすっかり忘れていた。
遅ればせながら、
4月3日水曜日の記録をしよう。

この日の勉強会は、僕のプレゼンだった。
本はこれ。
賴 俊輔 著 『インドネシアのアグリビジネス改革』:輸出志向農業開発と農民。

年末年始にインドネシアへ旅した時に
お供にした本のうちの1冊がこの本だった。
インドネシアの農業トレンドと
その構造を掴みたい、というのが、
この本を取った理由。
さらに、今後TPPといったフリートレードが
加速して行く時代において、
国内問題だけでなく、
これら貿易志向が
それぞれの国の農業構造に与える影響も
考察するために選んだ。

本書では、スハルト時代から現在までの
農業政策・市場・社会構造の変化を読み解き、
グローバリゼーションが進む中で、
輸出志向型の農業が農村に与える影響を
考察している。

本書は米政策やパームオイル、そして水資源問題に
それぞれ章を分けて考察していて、
その間に通底する視点としては、
国家の役割の縮小という
経済危機後IMFの介入によって行われた
構造調整政策が見え隠れしている。

スハルト時代にコメ自給を命題として
農業政策が展開されたが、
IMF介入後(1998年)は、
BULOG(食糧調達庁)によるコメ市場寡占を
撤廃し、関税も撤廃(2004年に関税復活)している。
柔軟なコメ輸入によって需要を満たす方が、
国内備蓄を進めるよりもコスト安で、
政府による市場寡占を無くすことで
新たな競争が生まれることが期待されたのだろうが、
現状では、仲介業者による投機的な買い付けによって
農家からの買い取り価格は安値安定したままで、
市場価格だけが高騰する結果を生んでいる。
市場が需要を満たす機能ではなく、
利鞘を稼ぐための投機的な側面が前面に
出てしまっている。
市場主義経済の競争の方向性が
まさに負の方向へと向かってしまっていると言えよう。

本書のパームオイルの事例考察は秀逸だった。
国営企業時代は、
小農に対する技術支援や生活物資の供与など、
農家の育成に努めてきたが、
民間企業移譲に伴い、市場経済主義に偏りだした。
政府は民間の中核農園(搾油機能あり:大規模)支援に
力を入れているが、
小農と中核農園の関係は国営企業時代とは異なり、
技術支援もなくなり、その生産性も落ちてきている。
中核農園は豊富な資金を武器に、
既存の小農農園を買い取り、自社生産向上に力を入れ始めている。
そこには小農の底上げによる産地化によっての
協同組合による地域開発の思想は無く、
投資力がある
民間企業による生産の独占でしかない。
より効率的に生産と輸出を志向する農業構造が、
農業の2極化(大規模農家と農業労働者)を推し進めている。

ただとても残念だったのが、
稲作の現場とパームオイルの現場が
事例として分断されていることだ。
投機的なコメ市場の影響と
民間移譲で進行しつつあるパームオイル農家の変遷は、
どちらも構造調整政策の結果として
繋がりはあるものの、
そこに住む人々の社会には、
あまり目を向けられてはいない。
実際に、それらの変化でコミュニティや村が
どう変わっていったのか、
その辺りが、同じ農業者としてとても気になったのだが
その辺りの記述はとても少ない。

さて、本書と最近の時事とを組み合わせて考えてみると
あまり他所事ではない事態の進行と見ることが出来よう。
借金だらけの政府の役割は
当然縮小の一途をたどるだろうし、
農業への株式会社参入や6次産業化・TPPといったフレーズは、
農業の新しい地平のようにも感じるが
そこには市場主義経済のさらなる加速と
グローバル化が見え隠れする。
何もインドネシアの農民だけが
悲劇なわけではないのだ。
小農的な生産能力では、これら資金力・技術力を持った
外からの企業体に太刀打ちはできないことを
本書の事例として示している。
これは日本でも同じことだろう。
6次産業化と言っても川下をしっかりと
抑えている加工業者相手に、
農家のおっさん・おばはんが一朝一夕で取り組む加工が
かなうわけがない。
結局は川上として生産物を安く提供するだけの
存在に成り下がるか、
それも効率が悪いと判断されれば、
資本力のある企業体に
パームオイル事例のように、
農業経営自体を買収されることにもなりかねない。

勉強会ではここまで議論しなかったが、
昨日の新聞でも賑わせていた強い農業の記事で、
農家所得倍増を謳っていたが、
こんなことはいとも簡単なのだ。
「農家」の定義を変えてしまえばいいだけなのだ。
農業にもっと企業が参入出来るようにして、
それらも含めて「農家」の定義にしてしまえば、
所得倍増間違いなしさ。
市場規模を10兆円とかも、
既存の加工市場をそもそも農業市場として
ある程度換算してしまえば、
その作業だけで市場規模は拡大することになる。
定義と統計のマジックで
数年でこれらは簡単にクリアーできる。
だって、それだけのワードやフレームは
すでにここ数年で出来上がっているんだから。
後はTPPに乗っけて、
儲かる人はさらに儲かる、その恩恵が社会に波及する
という、使い古されて、
すでにこれにはフェアな精神が無いことを
事例として沢山経験してきたはずなのに、
まだまだこの論理を信じる人が多い「トリクルダウン」方式で
論理を展開すればOKというシナリオか?

とにかく、
農民抜きの農業開発と農業発展が
今後おおきく社会を変えるパワーに
なってくるだろう。
さて、僕はどう抗おうか。


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ダニエルさん


アメリカ人の来客あり。
名前はダニエルさん。
イギリス生まれでカナダ育ちで、
アメリカの大学で文化人類学を学んだ彼は、
奥さんの仕事で来日していた。
奥さんの仕事というのが、アメリカ大使館職員。
つまり外交官。
昨年、5月にもアメリカ大使館職員が
農園を見学に来たが、
そのご縁で、ダニエルさんが農園に五日間ほど
滞在した。

今回ダニエルさん来るからと言って、
何か特別なプログラムを用意することは無かった。
五日間居ても、観光に一切連れては行かなかった。
ただ毎日の僕らの農作業に参加してもらいながら、
夜にはビールとワインを飲みながら、
お互いの意見を交換する。
それが僕らの日常で、
ダニエルさんはそれをすごく楽しんでくれた。
彼との意見交換は、
僕にとってもいろんな出発点を
再確認する上で、とても重要だった。
外から吹いてくる風は、
やはり重要だ。

まず、ダニエルさんが気が付いたのは、
僕らの農業スタイル。
彼は、外交官の奥さんと一緒に
これまでいろんな国を旅している。
そしてここそこで見聞きした農業への
知識も豊富だった。
その彼から見て、僕らの農業スタイルは
ちょっと変わっていたらしい。
というか、彼の予想とは随分違っていたらしい。
それは、手作業がほとんどだったということ。
機械化が大いに進んでいると思っていたらしいが、
農園では、ほとんど機械を使用しない。
それは、多品目を輪作形式で作るため、
機械では収穫や植え付け・管理が出来ないからである。
機械化を進めるには、
どうしてもモノカルチャー(単一作物)である
必要がある。
だが、うちはそれを良しとはしない。

それに関連してだが、ダニエルさんは、
日本の農業は収穫と作物管理に多くの時間が
とられていると思っていたらしい。
収穫物とどっかのセンターに持っていき、
調整と選別、そして輸送を行うような
分業体制が確立していると思っていたようだ。
それは、ある意味正しい。
そうしている農家も多い。
余計な手間を省き、効率よく生産する。
それが僕らの命題の一つだったりもする。
ただ、うちの農園は、それに乗っかっていない。
なので、収穫や管理作業よりも
調整や選別、パッキングや輸送に
時間やコストをかけている。
さらに多品目を出荷しているので、
それぞれ作業内容が違い、
作業も複雑かつ煩雑である。
それは、一見不合理に見えるが、
ダニエルさんからはこんな意見を頂いた。
「農業は単調なルーティンワークだと思います。ここもそうだと思うのですが、なんだか少し違いますね。それぞれのスタッフが相談しながら、話をしながら、和気あいあいと作業に取り組んでいるし、常に同じ作業をするわけでもない。もっと人間性を感じるルーティンワークのような気がします」。
ダニエルさんは、学部の頃に
自動車工場の労働者社会を
参与観察した経験から、
労働の在り方については
鋭い視点を持っていた。
その彼から、
僕らの労働に単調さを感じつつも、
それが不合理とするのではなく、
人間性のある職場だと見えたようである。

TPPでも意見を交換した。
カナダ育ちでメキシコにも滞在経験を持つ彼は、
NAFTAがどう影響したのかを
簡単にではあったが教えてくれた。
カナダやメキシコでも作られていた商品が
自由貿易圏が出来上がると
アメリカ産に取って代わられた。
彼は、
「私たちは、ただ単に安い物が欲しいわけじゃない。少しばかり高くても、それでみんなが社会が幸せになる物が欲しいんです」
と話してくれた。
僕も同感だ。
自由貿易のロジックは、行き過ぎた
「もっと多く」「もっと効率よく」のロジック。
そこに平等という考えは、
ある意味捻じ曲げられて捉えられているように
僕には見える。

そして遺伝子組換え作物(GMO)についても
意見を交わした。
彼は、一般的に言われている
遺伝子組換えの危険性については何も
言及しなかったが、
その技術によって得られている利益に
偏りがある点と、
この技術もまた「もっと多く」「もっと効率よく」が
行き過ぎてしまったようにも見える点を
批判していた。

自由貿易も遺伝子組換えも
そしてそれに対抗して生まれてくる
日本での「強い農業」も、
単なる効率性重視の集落営農の考え方も、
すべてが異常なロジックに
支配されていることを
僕らは改めて確認した。

だからこそ僕らは、よりフェアな世界を望み、
日々活動を続けている。
インドネシア研修プログラムや
野菜のおまかせ便などの直販、
そして天敵を活かしたIPMの実践と
微生物相を豊かにする土づくりに
こだわる。

しかし
僕らの仕事は、
煩雑で、そして単調で、
その連続に埋没すると、
そこに意味を見出すことが難しくなる時もある。
事実、それに失望して、
ここを辞めていった若者もいた。
だが、僕らの実践は
(農業・インドネシア研修・地域づくり)
僕らを取り巻くさまざまなモノと
対決をしながら、僕らの価値を創りだしていたことに
外から吹いてきた風・ダニエルさんによって
改めて気付かされた。

辛い労働と
想いの相違が時々生じる研修で、
心折れそうな日もあるが、
そんな僕に、ダニエルさんは、
「Go ahead!(そのまま行け)」
と力強く励ましてくれた。

人類学の視点を持つ外からの風は、
僕らにさまざまな気付きを
与えてくれた。
もう少し、僕はこのまま進もうと思う。


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タタンが帰国した。
2010年4月に来日した彼は、
3年の研修を終えて、インドネシアへと
帰って行った。
タタンが帰ることで、
僕も研修が一区切りついたように感じる。

2008年から始めた研修だったが、
初めからプログラムがきちんとあったわけじゃない。
一期生のヘンドラや二期生のイルファンと
手探りで研修内容を考え、
とにかく走りながら創ってきた
農業研修プログラムだった。
ある程度、このプログラムが
僕の想像する「考える農民」像と一致をみる頃に
タタンはやってきた。

彼はとても優秀だった。
授業でもフィールドでも
多くは語らないが、本質をしっかりと掴んで、
実現させる力があるように僕には見えた。

その反面というわけでもないが、
病気が多かったのも彼だった。
風邪をひくことは滅多になかったが、
どういうわけか、
足に膿がたまる病気に2度かかった。
入院騒ぎになったりもした。

そんな彼が、今日(14日)、
インドネシアへ帰国した。
帰国前に、寡黙な彼は帰国後のプランを
少しずつだが話してくれた。
僕はそれをここに記録しようと思う。

彼は、卒業研究のエントリーでも取り上げたが、
果樹で生計を立てる農家を目指している。
栽培する果物は、ヤシの実・ドリアン、そしてSawo。
それらはローカルマーケットを意識し、
比較的高い付加価値をつけられる果物は何かと、
3年間のプランニング学習の中で
彼が導き出した答えだった。
また、収穫の季節に
労働が集中してしまう果樹において、
その労働の分散を考えて、それらの果樹も選んだ。

ただし、果樹は植えてから数年、
収穫物が無い。
その点は、これまでも授業や月間レポートなどで
他のインドネシア研修生からも
指摘されてきた。
収穫できるまでの数年はどうするのか、
残り1年を切った辺りで
浮かんできたその問題に、彼はこれまで
あまり明確に答えられないで来た。
だが、彼はひそかにその答えを
探してきた。
最終的に彼が行き着いたのは、
果樹苗の販売だった。

彼はここに来る前、
インドネシアの山間地域の緑化政策を
請け負う民間業者に勤めていた。
ほぼ山で暮らし、
緑化のためにひたすら苗づくりをし、
緑化体験で訪れる学校関係者や
NGOの活動に場所と苗木を提供するのが
彼の仕事だった。
その時の技術とコネクションを
活かそうというのが、
今回の果樹苗販売らしい。
彼が抜けた後、彼の同僚は、
緑化用の苗生産の合間に
自分の果樹苗の生産も始め、
その販売を少しずつ伸ばしていた。

そんな時に、果樹が収穫できるまでの間を
どうするかを悩んでいたタタンは、
元同僚と協力して、
果樹苗販売ビジネスに行きついた。
緑化政策の横で果樹苗のアルバイトとは、
若干、問題もあるようにも思えるけど、
まぁ、インドネシアらしいと言えばそうなんだろう。

果樹苗はそれなりに需要もあるし、
前職の経験も活きてくる。
販売のノウハウを元同僚と共有しながら、
自分の果樹園経営にもつなげていきたいという想いだ。

さて、その果樹園経営の基盤となるのが、
農地だろう。
タタンは、来日1年目でお金を貯めて、
さらに一部親族から借金をして
新しい農地をすでに購入していた。
ここにいる間に、結構研修生たちは
農地を買い進めているのだ。
ただ、1年目に買った農地は、
車両が入ることが出来ない場所で、
帰国したら彼は、その農地を売って、
道沿いの車両が入る農地を探すと話してくれた。
これも一緒に学習を進めていく中で、
輸送の重要性を考えるようになり、
バイクではなく、車が直接入る農地を購入しようという
研修生間の雰囲気が影響している。
本当は車購入を検討してほしいのだが、
そこまではなかなか考えられないらしい。
今は、
想像できるスケールの限界値がその辺と言うことか。

果樹の販売では、
ローカルマーケット以外にも
直売所を併設して直接販売や
観光農園などの要素も含めたいと思っている。
最終年度に卒業研究で見学した
朝倉梨栗園が影響しているようだ。
価格と販売にイニシアティブをもつ
農家になりたいと彼は話してくれた。

彼との議論の時間はとても楽しく、
これがもっと続けばいいと思うこともあったが、
その時間は終わった。
さあ、タタン、
ここから先は、君が思い描いた夢の実践を
僕に見せてくれ。
次に、君に逢う日がとても楽しみだ。
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4月。
全てが新しく始まる、
そんな季節。
なので、
そのリズムに合わせて、
そろそろインドネシア研修事業も
新学期を迎える。

今週は、月間レポートの指導をした。
指導と言うと、なんだか偉そうだが、
要は、研修生たちが発表してくれる
将来の計画とその具体化に向けて
今月必要な学習ターゲットを
議論し合っている。

今年3年になるクスワントくんは、
香辛料の丁子栽培を計画していて、
日本市場の需要などを今年一年かけて調べる予定。

2年生のイラ君は、
羊の飼育と特産のサツマイモ栽培、
そして農業資材販売の複合経営を目指す。
羊飼育やコンテストで勝てる羊について
勉強するとのこと。

同じく2年生のカダルスマン君は、
バナナ栽培とその苗の販売を夢見る。
彼は、昨年1年間でいろいろと夢が変わっていった。
自分の出来ることとやりたいことの狭間で
いろいろと悩むことも多いようだ。
バナナの品種、加工、生活していけるのに必要な栽培面積、
そしてローカルマーケット可能性を課題として挙げていた。

2月下旬に来たばかりのジャジャン君は、
月間レポートは今月が初めて。
でも彼の夢はかなり具体的で、
キャベツの有機栽培をしたいとプレゼンしてくれた。
彼は、
「化成肥料や農薬ばかりを使うようになり、昔に比べて長生きできなくなったと村ではよく聞きました。昔の人は100歳以上生きていたのに、最近は70歳前後。化学薬品づけでおかしくなっているんだ、と言う人も多いです」
と話してくれた。
これに対して、ワントは笑うが、
僕はそれをたしなめる。
ここの場は、誰もが否定しないのが約束。
これはジャジャンとそして僕らの学習機会なのだ。
実際に化学薬品が人間に対する影響は、
複雑すぎて僕にも良く解らないところは多い。
彼がそれを学んでいくプロセスを
僕も一緒に歩めばいいと思っている。

今回の議論で面白かったのは、
みんなから、
「課題を終わらせるためのレポートじゃなくて、自分が本当にやりたいことを実現させていくためのレポートだ」
ということが、研修生同士のアドバスとしてあったこと。
その場しのぎや、高評価を得たいだけの
小手先のレポートはここには無い。
そして誰もが、
「3年は短い」
という。
「短い」と感じる3年の間に、
僕らはガチンコで将来の夢を
磨きあげていく。

4月。
新しいことが始まる季節。
さあ、僕らも、
もっともっと加速して行こうじゃないか!


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まだまだ朝晩は寒いが、
我が家の薪ストーブに火を入れる日も
徐々に減りつつある。

薪ストーブのおかげで、
家中が乾燥していたのだが、
それもそろそろお終いになる。

その乾燥を活かして、
家の中で作っていた干し柿も
そろそろきちんと処理しないといけないな、
と思い立ち、
大量にブランデーに漬け込んだ。

干し柿ブランデー漬け2

漬け込み具合で
出来上がりの味と期間に差が出る。
ブランデーを少なくすれば、
すぐに食べられるのだが、
味に深みがない。

だからブランデーを少なくして
早く食べられる瓶(夏ごろ)と
たっぷりのブランデーで
次の冬に食べる瓶とを作り分けた。

ブランデー漬けをやっている横で、
妻は今期最後のフェンネルを
ビネガーに漬け込み、ピクルスを作っていた。

フェンネルのピクルス

今年は、夏にフェンネル栽培をしないので、
今のうちにピクルスを作り
夏のさなか料理に備えようって魂胆である。
ちなみに夏のフェンネル栽培をしないのは、
どうしても味が良くなく、
筋張ってしまうから。
やっぱりフェンネルは冬から春が
一番おいしいね。

その美味しいフェンネルは、
アニスやクローブなどの香辛料と
一緒にピクルスになった。
夏、アジやしいらなどのカルパッチョに
このフェンネルのピクルスを合わせたら
最高に美味いだろう。

季節の変化に合わせた
生活の変化のなかに、
僕らの暮らしの豊かさがある。
それは
次の季節に想いを馳せる
その時間なのだろうと思う。

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勉強会の記録をしよう。
今回は、今年からうちの農園で研修を受けている
北野君の番。
彼は青年海外協力隊に参加すべく、
仕事を辞めてうちの農園で研修をしている
ちょっと変わった若者。

さて、その彼が選んだ本はこれ。
山下 朝史 著 「パリで生まれた世界一おいしい日本野菜」。

ちょっとまえにテレビや雑誌でも
取り上げられていて、結構有名になった日本人。
1977年に23歳で渡仏し、
様々な職業を経て、43歳より農業を始めたらしい。
核心から言えば、
その農業の始め方が最初からターゲットを
ある程度絞ったものと言えよう。
特異な販売と品種のインパクト、
それが成功の鍵だったように思える。

三ツ星シェフにしか出荷しないスタイルをとり、
自らのブランディング化に成功した事例だろう。
作る野菜も、当時のフランスでは
まだまだ珍しかった日本の野菜の品種を揃え、
そのインパクトも大きかったのだろう。
特にカブが好評で、奇跡のカブと言われたらしい。
樺太ほどの緯度で、暖流のためにそれなりに
暖かくなるフランスの気候も
カブに良く合ったのだと思う。
日本のカブは、西洋カブと違い、
筋張りにくくて柔らかく、
寒暖の差が激しいほど、
甘みをしっかりと蓄えてくれるのだ。

では、これを踏まえて、
僕らはこの事例をまねて成功できるか、と
言われれば、たぶん答はNO。

まず、日本で日本人が普通に日本の品種を栽培しても
三ツ星レストランでは扱ってもらえないだろう。
少し逆転させて、
日本でフランス人がフランス野菜を
富良野や安曇野あたりで作るのであれば、
たぶんあと時代が10年くらい前だったら
そのフランス人の野菜は、
東京の三ツ星フレンチで使われたかもしれない。

ここで大事なのは、
「ヨソモノ」ということだろう。
それも半端ないヨソモノであること。
山下氏の農業を始めるまでの様々な職歴と経験が
多様な人脈を築いたことは容易に想像できる。
その人脈と、やはり異国人というインパクトが
作用して、時にその人は、いろんなところへ
アクセスすることが可能になる。
社会的なしがらみやカテゴライズを避けることができ、
それらはその人がそのことに気が付けば、
比較的いろんな人や場所にアクセスが可能になることを
教えてくれるはずだ。
推測でしかないが、
それが彼を三ツ星シェフと出会わせたのだと思う。
なぜなら、それとよく似た感覚を
僕は5年間のインドネシア滞在で経験しているからだ。
その経験で得た人脈が、今の活動に
無くてはならないものになっているのだ。

もちろん、ヨソモノは
その地域や場所に入り込むことにかなり苦労はする。
ヨソモノであることがマイナスに作用する場合も多い。
でもそれらはもろ刃の剣で、
マイナスに作用する部分が、逆に僕らを自由にしたりもする。

次に日本の品種だろうか。
フランスの事情は良く解らないので推測だが、
山下氏が始めたころはまだまだ日本の品種は
それほどフランスには無かったのだろうと思う。
こういう事例が出てくると真似をする者も
多くなるだろうから、たぶん今はそれなりに
日本の品種も多いのではないだろうか。
ちょうどこのプレゼンの時に
県の普及員も参加してくれたのだが、
その彼曰く
「一番初めに取り組んだという利があるんじゃないですか」
とのことだった。
一番さきに思いついた人に利があったという
考えは、僕も賛成だ。
二番煎じはどうしても不利だし、
インパクトも弱い。

北野君は、
「べつに協力隊から帰国した後に農業をするわけじゃないので、今後にどう活かすか、というプレゼンフォームは考えにくかったです」と
話していたが、
実は、ヨソモノ論的に考えると
彼の成功事例はその考察によく合致するのだ。
僕らが海外や異文化、または縁もゆかりもない土地で
活動する場合に、一度は思考の中にあがってくるのが
このヨソモノ論。
僕の風土の話とほぼ同じことなのだが、
山下氏はその視点を持って
自分のビジネスを成功させた。
そして僕ら協力隊は、その視点を持って
その地域の発展に貢献するというわけだ。
だから、プレゼンフォームの「今後に活かす」を
そんな表面的に捉えちゃいけないぜ。

まだまだ勉強する必要があるね。

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3月。
農業の円環の時間とは別に、
どことなく別れの寂しさがただよう季節。
寒く暗い冬が終わり、
春めいてくるこの時期は、
自然と共に生きる僕らは、
体中の細胞が活き活きとしてくる、
そんな季節のはずなのに、
幼いころから刷り込まれた年間行事が
癖になっているためか、
それとも年度末による人の移動を
社会的に感じるためか、
3月はどことなく寂しい季節でもある。

普段でもそんなどことなく寂しい3月なのに、
今年は、本当の別れがやってきてしまった。
農園のスタッフ・イブライが
3月31日をもって退職した。

イブライが農園にやってきたのは、
2008年9月だった。
大きくて、そして美しい黒。
それが僕の印象だった。
同じ人間なのに、
まるで違う身体能力だった。
僕らのご先祖は、母なる大地アフリカから出発して、
極東の小さな島国までやって来る間に、
なぜこんなにも退化した体つきになったのだろう?
普段なら思考の端にも上らないことを、
真剣に考えてしまうほどの
インパクトが彼だった。

彼はセネガルからやってきた。
彼の奥さん(日本人)と僕は知り合いで、
そのご縁で、彼は僕の農園にやってきた。
以前のエントリーでも書いたと思うが、
彼は初等教育をきちんと受けていない。
初めは、そのことがとても不安だったが、
それは杞憂だった。
彼はセネガルで長距離バス1台を経営していた。
バス会社に働いていたのだが、
お金を貯め、そして少し借金をして、
彼は独立した。
数人の若者も雇っていたという。
その感覚が、当時の僕にはとても貴重で、
彼と一緒なら仕事をしていけると思い、
彼を農園に受け入れた。

今もそうだが、当時の僕は、
農業が家族だけで営まれることに
違和感があった。
家族の中で当たり前にできあがるヒエラルキーが
生業にもそのまま直結することに、
不合理さを感じることが多かった。
今はもうちょっと違った考えも
僕は持っているが、
その当時の僕は、その固定化された関係が
永遠に続くようにも思え、
創造的な仕事である農業をしているのに、
気分がまったく創造的ではなかった。
だから、僕は前近代的な「イエ」を
農業という分野から切り離し、
チームによる農業を目指していた。

ちょっと余談が長くなったが、
そんな時に、バス経営の経験を持つイブライが
農園にやってきたのだった。
そして、ちょうどその2008年の4月から
インドネシアから研修第一期生である
ヘンドラが農園で研修をしていた。
すべてタイミングが良かった。

当初は黒人であるイブライが、
農園のある集落で浮いてしまうのではないか、
そんな不安もあった。
彼が来た当初は、村の人から
上手く形にならない不安の声を聞いたこともあった。
だが、それも杞憂だった。
彼は良く挨拶もしたし、
村の祭りや江堀活動にも参加して、
いつしか村の中で
アイドル的な立場を手に入れていた。

彼は目がとても良いので、
随分離れていても、大きな体をゆすって
村の人に挨拶をしていた。
そんな人懐っこさも、みんなから好かれた。
力も強かった。
村の飲み会での腕相撲は無敵だった。
そして彼はお調子者でもあった。
村の飲み会で、日本酒の飲み比べに挑み、
腰が砕けるまで一緒に飲んだりもした。

インドネシアの研修生とも
仲良くやっていた。
第一期生のヘンドラは、一人だったこともあり、
同じ外国人であるイブライとよく一緒に行動していた。
休日も一緒に出掛けていた。
彼の奥さんが出産したその時も、
ヘンドラと一緒に郊外の大型家電量販店に
遊びに行っていたほどだった。

そんな彼だったが、
パスポートと本国の家族の事情があって、
中短期で帰国することになり、
退職することになった。
別れはいつも突然だ。

彼の送別会の時に、
スタッフの佐藤が、
「農業の中で、イブライが一番好きな仕事は何?」と
質問した。
イブライは、にこやかに笑って
「バスの運転手」と答えた。

ただの聞き違いかもしれないが、
それが彼を取り巻く日常を
良く指し示しているようにも
僕には思えた。

彼は、4年以上日本で暮らし、
福井という田舎のため、
彼の母国語を話す人が彼の奥さん以外に
ほとんどいない状況だった。
ほぼ100%日本語の生活だった。
だのに、彼の日本語はお世辞にも
上手ではない。
後から来たインドネシア研修生の方が
ずっと上手だった。
初等教育を受けていないからかもしれないが、
言葉を習得する道筋が
まるで僕ら(インドネシア人も含む)とは
違っているようだった。
日本語を教えてくれる先生からも
さじを投げられたこともあった。

ちょっとしたコミュニケーションの
不具合が、お互いの意思疎通を阻み、
そしてお互いに不満が残ることもある。
彼の経験(バス経営)は、
言葉の壁と僕の根気の無さと
力を入れるベクトルの違いによって
僕らの経営に活かされるきっかけを
完全に失っていた。

昨年あたりから、
僕をとりまく風景が
変化してきていることを感じている。
たぶん僕は、
農園の経営とインドネシア研修事業に
より一層集中しなければいけない
時期に来ているのだろう。
そんな僕の態度や
状況の変化も、
もしかしたら
彼の退職につながったのかもしれない。
そんな取り留めもない考えが
イブライが農園を去ってから、よく湧いてくる。
そして僕はいろんなことに気が付いた。
たぶん僕はあまりにも勝手に、
イブライに求めすぎていたのかもしれない、と。
そしてその求めたモノは
彼にきちんと伝わらなかった。
彼は、たいていは好き嫌いを別に考え、
大人として農業に取り組み、
目の前の仕事をこなしていた。
ただときどき見せる彼の満ち足りない態度が、
僕には残念だった。
それは彼が、と言う意味ではなく、
僕がそれを活かすベクトルを持ち合わせない
ことへの失望でもあった。
もちろん、この社会は
好きなことを仕事にできるわけじゃない。
でも仕事にやりがいは見つけられる。
僕のやっている営農スタイルと
インドネシア研修事業は、
十分それを与える機会があると思っていたが、
あまりにも文脈が違うイブライは、
そこでのやりがいはどう感じていたのかは不明だった。

何はともあれ、4年以上勤めあげて
イブライは退職した。
彼の退職は、
僕にたくさんの宿題を与えてくれた。
少しずつだが、その答えを探していきたいと思う。

ありがとう、イブライ。


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田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
taya.tアットマークnifty.com
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