今年も勉強会を記録し続けよう。
昨年は、33回の勉強会を開催。
その分だけ、知識がたまり、
その分だけ、僕らは前に進んだ。
今年も立ち止まらず、
飽くなき探究心をもって、やっていこうと思う。
ちなみに参加は自由。
参加費もない。
毎週水曜日、農園たやの和室ミーティングルームで、
12時45分~13時30分の45分間の勉強会。
誰でも興味のある方は、お越しくださいませ。

さて、今年はすでに3回の勉強会を行っている。
新年早々は、タタン君の発表。
福井農林高校での本番プレゼンを前に、
練習と言う意味を込めて、
勉強会でも同じものをプレゼンしてもらった。
前回のエントリーと重複するので
ここでは記録するのを避けよう。

2回目は、福井県立大学の経済学部の学生。
農園にアルバイトに来ている子で、
勉強会には以前から参加していた。
その彼が、卒論を書き上げたので、
その卒論発表会をしてもらった。
インドネシアの農業にまつわる考察で、
短い時間にしては、それなりにまとまっていたように思う。
センサスの情報と
インドネシアの研修生たちのインタビューが
上手くリンクできていなかったように思う。
それよりも、アルバイトとして農園に来て、
それまで全く関係の無かった
インドネシアや農業の事に関心を持ってもらえたこと、
そして、勉強会で発表するということを負担に思うよりも
喜々としてチャレンジしてくれたことが、
素直にうれしかった。
こういう青年は、社会に出てからグッと成長したりもする。

さて、今回記録するのは、
先週の僕のプレゼン。
読んだ本はこれ。
アン.マクズラック 著 西田美緒子 訳 『細菌が世界を支配する』:バクテリアは敵か?味方か?

細菌に対する偏見を打ち払ってくれる本だった。
ミクロな世界での相互作用や多様性、
そして細菌と人との戦いの歴史、
人間の細菌への捉え方、
バイオテクノロジー産業の地平と課題、
などなどが説明され、
読後に細菌の世界観が変容していく、
そんな本だった。
細菌と人との戦いの歴史では、
抗生物質の出現とその抵抗性の果て無き戦いは、
人間の知恵の限界と
細菌の適応性の素晴らしさに感銘を受けた。
抗生物質をカモフラージュして
細菌に取り入らせても、
抵抗性のDNA水平伝播などで直接耐性をやり取りしたり、
体外へ排出するポンプ機能を備えたりと
あり得ない進化と行動が興味深い。

遺伝子組換え細菌については、著者は肯定的で、
すでに多くの医療品や食料品で
大きな恩恵を受けていることを説明している。
組み換えた遺伝子が、自然を汚染するという考えには
否定的で、特定の行動をするように組み換えられた遺伝子が、
細菌の複雑かつダイナミックな世界を
支配することは無いとの立場だ。

細菌はいたるところに居て、
それらは相互にコミュニケーションをとりながら、
時には協働し、
時には対立しながら、
大気や土や海、そして炭素の循環に
地球規模で関わっている。

また免疫については、
細菌との共生が少なくなればなるほど、
人の免疫に異常が出てくることも説明している。
行き過ぎた抗菌や滅菌・除菌は、
逆に僕らの身体にも悪影響を及ぼしているようだ。

細菌を敵視して排除するのではなく、
力強い友と考え、
そもそも細菌世界に僕らは住まわせてもらっていることを
自覚すべきなのかもしれない。

農業においても、
過度に殺菌剤を使用するよりも、
特定の病原菌だけでなく、他の細菌の種類が増えるような
仕組みと農法が必要なんだろうと思う。
また排除思想で細菌と付き合うよりも、
僕らはもっと身近な予防を
賢く身に付けるべきなんだろう。
それは農業だけでなく、人の健康においても
同じことだと、この本を読んで思った。


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インドネシアの農業研修プログラムには、
卒業発表として日本語によるプレゼンがある。
研修3年生は、1年間かけて、
自分の営農スタイルに合わせて、
卒業研究が出来るよう準備している。
その研究した結果を
日本語で発表する場が、
福井農林高校の3年生が行う課題研究発表の場である。
毎回、その時間を十数分程頂いて、
研修3年生が、この1年の研究を締めくくる。
研修の仕上げともいうべき、最後の大きな山場なのだ。

今年発表したのはタタン君。
2010年に来日した彼は、
実家の農業を継ぎ、
果樹農家として大きくすることを夢として
この3年間勉強してきた。
なので、3年生の卒業研究では、
日本とインドネシアの果樹流通について
比較検討をする、という課題を立てていた。

彼は、来日当初から、
日本の農家が比較的自由に
価格を決めていることに驚いていた。
直売所やインターネット上では、
農家が直接価格を決めているという、
僕らには至極当たり前の現実なのだが、
彼から見ればそれは明らかに異文化だった。

どうしてそんなことが可能になるか?
自分たちインドネシアの農家が
自分たちで価格決定が出来ないのはどうしてなのか?
それをきちんと整理するために、
彼は3年生の卒業研究のテーマを
果樹流通における日本とインドネシアの比較に定めた。

彼は両国の農家と流通と消費者それぞれを
比較検討した。
インドネシアでは、果樹販売は庭先取引が多い。
果樹の収穫時期になると農家のところに、買取人がやってきて
価格交渉をする。
1個いくらという交渉ではなく、
収穫前の木や畑を買取人が見て、いくらかを見当をつける。
どれくらいの収穫量かは、農家も買取人も
正確な数字は解らないままの取引。
しかも農家は市況が解らないので、
値段交渉もほとんどできない。
さらに問題なのは、
収穫は、買取人が連れてくる収穫労働者が行うというもの。
農家は、ただ単に栽培をするだけで、
収穫は買取人の指揮の元で行われる。
秀品や優品などの品質、また大きさや規格で選別すれば、
高くなる可能性がある収穫後のすべては、
農家の手には無く、買取人のボーナスとなる。

農家が直接収穫して市場へ持って行っても、
買取人と市場の卸はつながっているため、
直接持ち込んでも買ってもらえないことが多い。
さらに市場までの輸送手段がないのも、
農家の立場をよりマージナルにしている。

市場では、明瞭な価格が解りにくい。
市況はラジオで放送されているが、
実際の地方のローカル市場での価格はあやふやなまま。
買取人がそのまま卸をやっている場合もあり、
市場では農家からの買取価格の1.5倍ほどで
取引されている。

消費者の意識も違う。
贈答用は輸入物を選ぶ傾向がある。
輸入果物の方が、選果されており、
品質が揃っているという意識がある。
市場で売られている国産や地元産は、
選別されておらず、
混ざっていて鮮度も逆に良くないのだとか。

「小さくても良いから、直売所を作って、お客さんに直接販売したいです。」
とタタン君は言う。
観光農園やインターネットでの情報発信も
積極的に行おうと考えているようだった。
それらすべては、農家が周縁化せず、
生産と消費がまっとうなつながりを持つための
試みと言えよう。
「直接売ることで、お客さんからの意見も直接聞け、農家の品質改善にもつながると思います。」
タタン君のまとめは、
とても単純なWin-winの関係だった。
それは、国や地域が違っていても、
僕ら生産者みんなが望む関係でもあった。

見事な卒業研究の発表だった。

追記:
本発表では、テューターとして佐藤高央が
多くのアドバイスと指導を行い、
大西康彦がプレゼンテーションの指導を行った。
両氏の指導のおかげで、本研究発表が
例年になく充実していたこをここに記録しておこう。

謝辞:
本発表でモデル農家としてお世話になった朝倉梨栗園さま、
市場流通を細かくご教授いただいた福井卸売市場の小西さま、
またアンケートにご協力いただいた多くの消費者の皆様、
本当にありがとうございました。
心より、お礼申し上げます。




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この1月は記録することが多すぎる。
なのに、それに比例してか、
僕の時間はどんどん無くなっていく。
それだけいろんなことが周りで頻発しているということか。

今回は、彼を紹介しよう。
「北野正人」

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彼は、2010年の夏、早稲田大学の学生として、
僕らの農園にやってきた。
毎年、早稲田大学の農村体験の授業の一環で、
夏休みの8月に、
1~2名の学生を受け入れている。
受け入れると言っても、2泊3日程度。
その間は、散々こき使って、
しかも寝食をインドネシアの研修生と一緒にしてもらい、
異文化・ワールドワイド・田舎体験&重労働を
無理やり3日に詰め込んで、学生を混乱させることに
僕の喜びがあった。
早稲田の学生はなかなか優秀で、
音はあげない。
が、本当はどう思っているのかも良く解らない感じで、
異質なものを前にした時に、
その場しのぎ的に自分を偽っているようにも見える時もある。
賢いからなせる業ともいえるかもしれない。
そんな中でも、面白い子が何人かはいた。
北野正人は、その中でも断トツだった。

彼はそれだけ混乱させたにもかかわらず、
しなやかだった。
彼が来た時の印象は今でも覚えている。
4年生だった彼は、この時期貿易関係の商社に
就職が決まっていた。
だのに、海外旅行したことが無いという。
そもそも海外に興味がないとまでノタマフのだ。
だから、インドネシアの子たちとの共同生活で
きっと音をあげるだろうと、
根が意地悪な僕はほくそ笑んでいた。
だが、彼は逆にその生活を楽しんでいた。
そしてあろうことか、その夏休みの間に、
また農園に舞い戻ってきたのだ。
面白かったので、バイトさせてほしい、とのことだった。

あれから月日が流れ、
昨年の夏に久しぶりに彼から電話があった。
突然の電話で驚いていたのだが、
彼は
「協力隊に行きたいので、田谷さんの農園で修業させてもらえないでしょうか」
と、これまた突然の申し出だった。
一瞬答えに躊躇した。
一流大学を出て、一流貿易会社に入社。
仕事も面白くなったころに違いないはずだし、
それにそもそも海外にはあまり興味が無かったんじゃなかったっけ?
海外に行くにしても、貿易会社なんだから
嫌でも海外赴任はあるだろうし。
青年海外協力隊を選ぶ必要性は、
彼の場合、どこにもなかったのだ。
僕は彼に、青年海外協力隊はキャリアアップではないよ、
と正直に伝えた。
協力隊は僕らにとても大きな経験を与えてくれる。
だが、この経験を社会が大きく評価してくれるかどうかは、
また別の話なのだ。
マイナス評価の場合も多い。
海外で仕事をしたいと彼が言う場合、
協力隊以外にもいろんな可能性があるのだ。
だから、僕は強く勧めなかった。
それでも、協力隊に行きたいと彼は言う。
そして、実際に福井にも来て話を直接聞いて、
僕も腹をくくった。
彼を青年海外協力隊隊員として育成しようと。
もはや、僕は何を商売としてやっているのか、
自分でもわからなくなってきた。

そんなこんなで、彼はこの1月から
農園で働きながら協力隊を目指す事になった。
農業を経験しながら、
僕や妻とコミュニティ開発について
議論を交わしていこうと思う。
僕らはもう、そう長くは仕事で海外に出ることが出来ない。
だとしたら、
僕らの代わりに外に出て活躍してくれる人を
育てたらいいんじゃないか、と思っている。

この新しい試みが、
どう化学変化を起こしていくかは、
これからの楽しみとしよう。

ちなみに、
この育成活動もまったくの僕の道楽。
JICAからお金は一切出ていませんのであしからず。


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ヘンドラとイルファンの畑を回りながら、
僕の中で温めていたあるアイディアが、
むくむくと顔を出し始めた。
それは、研修と帰国後の活動の成果を
世に向かって発信すること。

研修期間外で、僕が卒業生を支援することは限られている。
僕らはすでに「Yayasan kuncup harapan tani:耕志の会」という
任意団体を作り、
卒業生への技術的インフォメーション支援や
マイクロファイナンスを準備してきた。
今回の視察で、
マイクロクレジットを活用する卒業生の可能性を
探ることも僕の課題だったのだが、
今のところ大きな投資の予定は無く、
卒業生たちにはその存在のリマインドだけにとどめた。
またFacebookを活用した積極的な
情報交換をこれからも続けていこうと、
彼らとも共通認識に立てたのは良かった。

これらの議論を聞いていて、
タンジュンサリ農業高校の先生たちの食いつきは良かった。
この任意団体のFacebookページを
生徒にもインフォメーションを流して、
一緒に情報交換はできないかという
嬉しい申し出もあった。
高校での農業教育と研修と卒業生の活動が交差する場。
そんなものを夢見てきたが、
教育現場でそういうニーズがあるのなら、
話は早い。
どういう形でコラボするのかは、
これからの課題でもあるが、
まずは第一歩というところか。

インターネットを駆使した情報交換や
マイクロファイナンス以外にも、
卒業生を支援するという意味で
僕にはもう少し出来ることがある。
それはシンポジウムを開くということ。

どこか会場を決めて、
農業高校と卒業生、僕、
そしてこのプログラムを検証してくれる
第三者が集まって、
農村発展とアグリビジネスについての
意見交換会を開きたいと思っていた。
卒業生を売り込むまたとないチャンスなのだ。

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この話を卒業生と農業高校の先生が集まっているところで
打ち明けてみると、
皆の反応はすこぶる良かった。
ぜひ、会場は高校を使ってください、と校長先生。
学生の教育にもつながると、校長先生も乗り気だった。
卒業生は活動内容をプレゼンし、
僕は研修プログラムの内容を発表する。
そして、第三者から評価と提言を頂き、
活動と研修は次のステップへと移行していく。
研修だけを切り取って、
その内容を話し合うことに全く意味を感じていない。
僕らは連続した瞬間を生きていて、
それは研修が終わったからと言って
途切れてしまうモノじゃない。
研修は、その前の人生と経験、そしてその後の活動に
連続して埋め込まれているからこそ
力を発揮するのだと思う。
そしてそのサイクルは、
検証をすることで、さらに次のステージへと
僕らは変化していける。
そのためのシンポジウムなのだ。

ここでもう一つ解決しなければいけないことがある。
それは第三者による評価と提言。
農業高校の先生からでも良いのだが、
どうせなら結構偉いところからしてもらったほうが、
卒業生の「箔」にもなるし、当然、励みにもなる。

ということで、僕はバンドンを後にし、
ボゴールへと旅のステージを移した。
ここからは、妻は別の調査地へ向かい、
僕と娘の二人旅になる。

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ボゴールは僕の苦学の地。
この場所で僕は2年間、大学院生として過ごした。
楽しい思い出より、つらく苦しい思い出の多い土地。
でも、そこには僕が尊敬してやまない先生たちが居る。
その内の二人が、メラニ先生とサティアワン先生夫妻。
メラニ先生は僕の論文指導教官でもあった。
卒業して7年が経ち、
僕のインドネシア語もレベルが落ち、
活発なディスカッションが出来るかどうか不安だったが、
先生たちは、根気よく僕のプレゼンを聞いてくれていた。
先生たちのするどい質問が度々入り、
僕は7年ぶりに、あの頃のアカデミックな感覚に
半ば酔いしれていた。
批判的な質問で切り口が鋭いのに、
切られた時に見えてくる新しい視点の発見。
ただ批判するんじゃなくて、確固たる視点を持った人の
批判的意見は、気付きが生まれ、そこはとても生産的な場になる。
こういう心地よさは、最近、経験してないなぁ。。。
約5時間にも及ぶ有意義なディスカッションは、
とても至福な時間だった。
お二人の先生は、研修やアグリビジネスそのモノよりも
ネットワーキングにとても興味を持っていた。
少し先の未来なのかもしれないが、
先生たちが取り組んでいるネットワークに
僕らも参加させてもらえたら素敵だなぁ、と思えた。

さて、メラニ先生は、
「時期を指定されなければ、評価調査には協力するわ」と
快諾していただいた。
シンポジウム開催そのものが目的ではないので、
まずはメラニ先生のような方に、
きちんと批判的評価をしてもらい、
本当に卒業生とその周りの人たちに必要なことは
何かを共有したい。
そのための評価調査。
内容はこれから詰めないといけないし、
そもそも予算すらない。
僕の道楽でやっていることだから、
たぶん僕の財布でまかなうんだとは思うけど、
その予算にも頭を悩まさないといけないだろう。
とにもかくにも、とりあえず「第三者」となる協力者は
得ることが出来た。

ボゴールを離れる前に、
この研修で、
研修候補生の地域のポテンシャル調査を依頼している
アニ女史に電話をする。
彼女は、僕の大学院時代の同級生で、
僕らのプログラムの首席だった。
その彼女は、今、東ジャワの地方国立大学で教鞭をとっている。
もちろん、彼女もその「第三者」の1人。
評価調査やポテンシャル調査、そしてシンポジウムをやるなら、
一緒に農村発展に関する書籍でも出版しない?と彼女。
いいねぇ、それ!
何か形に残すのは良いことだと思う。

まだまだ夢みたいな話ばかりだけど、
卒業生がそれぞれの地域で行動を起こし始めているのは事実。
とても小さな取り組みだけど、
それをどうつなげていけば、
ある程度のうねりになるのかは、
これからの僕たちにかかっているんだと思う。
ほとんど僕が出来ることはないが、
あとほんの少しだけは、彼ら彼女らと
協働できるスペースがあるようだと
感じ取ることが出来た旅だった。


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研修2期生のイルファンとは、
直前まで正直、会うのは難しいと思っていた。
それは何度連絡を取っても、音信不通だったからだ。
ヘンドラや学校の先生にお願いをしても、
連絡先が特定できない。
半ば、あきらめていたが、
出発四日前になってようやく
連絡がきた。
日本から持ち帰った薄型ノートパソコンが、
すぐに壊れてしまったことや、
Facebookのアカウントがいつの間にかブロックされており、
アクセスできなかったためだったらしい。
また、彼自身、営農はしていたものの、
それは実家だけでなく、帰国後すぐに結婚した相手の村でも
耕作していたため、連絡場所がなかなか特定できなかったことも
連絡がつかなかった理由の一つになっていた。
とにもかくにもイルファンには会えることになった。
よかった。

2012年4月に帰国した彼は、
すぐに結婚をした。
高校から付き合っていた彼女で、同級生だったらしい。
彼の地元は、山岳地帯でお茶作りをしていたが、
彼の妻の実家は、水田地帯。
インドネシアでは、「イエ」が日本のようではない。
結婚しても、夫と妻のどちら方でも住む場所は
それぞれの両親の承諾があれば、選ぶことはできる。
イルファンは、妻の実家に住居をかまえ、
自分の地元と妻の地元の両方で営農していた。
今回の旅は、時間制限もあり、
さらに彼と連絡がついたのが出発四日前ということもあり、
妻の実家の圃場だけを見学した。
彼の実家は、今回拠点としたバンドンから
さらに車で3時間以上離れている山岳地域で、
そこまで行こうと思うと、
旅程をあと2日ほど増やさないといけない。
そういうこともあり、彼の地元見学は断念した。

彼は帰国後、すぐに土地を買っている。
もともと高校にも進学させられなかった
貧しい親元に生まれた彼には、
営農するだけの土地なんてなかった。
研修で得たほとんどの資金は、土地購入に充てられていた。
彼の地元と妻の地元は、バイクで飛ばしても4時間以上かかる道のり。
そんな間を行き来して栽培なんてできない。
彼の地元の畑は、父に給料を払い、
父が他の人を雇って営農しているとのことで、
直接、彼自身がマネジメントしているわけではなさそうだった。
ということで、妻の地元が彼のメインフィールドということになる。

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妻の地元で彼は、良田を7a買い、山肌の畑も7a買った。
畑では、香辛料の丁子の木を植え、
そして田んぼでは、高く取引される
その地方の特産のサツマイモと
その地域ではまだ誰も
チャレンジしていないというキャベツを植えていた。
道沿いの良田での野菜栽培は、
周り中が稲作をしている中に、ぽつんと違和感を生み出しており、
それを眺めているだけで、僕には心地よかった。

彼は、農園での卒業研究で、
ダニの総合防除を研究していた。
化学合成農薬だけに頼らない防除法を勉強していたのだが、
その経験は、キャベツづくりの中にも活かされていた。
「ここの地域は結構暑いので、キャベツの害虫が多いです。だから、多くの人が無理だって思っているようですが、僕は総合防除を活かして、農薬だけでは防げなかった防除法を作って、この地域でもキャベツを作りたいです」と熱いまなざしのイルファン。
ヘンドラと違って、車も入りやすく、
また市場も近い。
立地もよく、またいい具合に地域の人たちの
「キャベツは無理」という常識を彼自身も感じ取っていた。
確かに無理かもしれないが、
今はライバルが居ない状況ともいえる。
総合防除を勉強したイルファンなら、
あるいはその無理を超えられるかもしれない。
何より、皆が無理と思っている事や、
誰も成功していないことに挑戦しているのが
僕には小気味よかった。

彼は、キャベツの生物的防除として、
使用農薬をバチルス・チューリンゲンシスという
細菌を主体とした薬剤のみで防除をしていた。
日本では一般的な薬剤だが、
インドネシアでもその薬剤を探し出し使用していた。
「他の化学合成農薬に比べると高いのですが、天敵を殺さない防除をしたいので、これを使っています」と彼。
同行したタンジュンサリ農業高校の校長や先生にも、
その薬剤や総合防除の考え方を披露して、
好評を得ていた。

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基肥は堆肥を使い、
生物的防除を行う彼。
エコシステムに寄り添って、常識を打ち破ろうとする姿に
僕は目頭が熱くなった。
彼の語る一言一言の中すべてに
彼と一緒に学び歩んだ自分の言葉が
見え隠れする。
これだから、「研修」はやめられない。

彼が課題に挙げていたのは生産ではなく、
マーケティングだった。
「自分が生産に集中すると、どうしてもマーケティングがおろそかになるんです。マーケティングありきでも、生産が出来るかどうかわからないので上手くいかないし。だから、気持ちが同じのパートナーが必要だと思います。生産とマーケティングを分担して同じ気持ちで出来る仲間が必要なんです」と彼。
彼もまた、パートナーを必要としていた。
今、研修中のクスワントは、
イルファンの妻とは又いとこの関係で、
出身地域も同じだという。
「クスワントが戻ってきたら、ぜひ一緒にやりたい」と
彼は期待を寄せていた。

雇人ならば、給料を払えば誰かは来る。
だが、給料分働くという労使のそういう関係では、
今の彼らが取り組んでいる課題は解決できない。
同じ目線で、同じ目的で、そして高いモティベーションで、
課題と成果を共有しうる仲間、
それが彼らにも必要だったのだ。
そして、面白いことに、
今の僕の周りの農業の環境でも、
同じ問題にぶつかっているケースが多い。
まさに地域開発において、
その現場レベルでは同時代的かつ共通問題なんだろう。
この考察は、また詳しく別のエントリーでやりたい。

僕がイルファンと一緒に畑に行っている間、
僕の妻がイルファンの妻に、インタビューをしていた。
研修に行く前と帰ってきてからでは、
彼のどこが変わったか、と。
イルファンの妻は、
「彼はドラスティスに変わったわ。すっごく賢くなった。」
と答えたそうだ。
イルファンの妻は、高校時代の同級生。
彼がどう駄目だったかを知り尽くしている
彼女のこういう評価は嬉しい。
僕の研修の主眼は、考える農民を育てることで、
彼はまさに自分で考え、行動を起こせる農民になっていた。

彼の取り組みは
まだまだ成功とは呼べないかもしれないが、
自分自身で課題を見つけ解決していけるだろう。
輸送面では、ヘンドラよりも有利で
車両も比較的楽に出入りが出来る。
パートナーを見つけ、販売にも力を入れられれば、
無理だと思っていた品目が新しい地域の顔となる日も
近いのではないか、と感じさせられた
イルファンの畑だった。

つづく

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ヘンドラは精悍な顔つきだった。
もともとやせ気味の彼だったが、
研修中とは顔つきが全く違っていた。
話し方も思慮深くなり、
一言一言選んで話す彼の言葉には、
彼の苦労と努力がにじみ出ていた。

僕ら一行がタンジュンサリ農業高校に到着すると、
彼はそこで待っていてくれた。
2011年の4月に彼が日本を発ってから、
初めての再開となる。
研修一期生で、僕としても試行錯誤をしながら
一緒に研修を創り上げたという意味でも、
思い出深い彼。
彼の笑顔をみるだけで、
もうただそれだけで泣けて来そうだった。

しばらく学校で先生方を含めて談笑したのち、
僕ら一行はヘンドラの村に入った。
当初は軽い気持ちでの農村見学のつもりだったが、
学校の校長や副校長、教務主任などの
お偉方6名も引き連れての大げさな一団になっていた。

ヘンドラの村は、山間にある。
それは彼が日本に来る前に届けられていた
彼の村のポテンシャル調査でも解っていた。
その調査を担当してくれた僕の友人であるA女史は、
「車では、入れないわよ」と
僕らの出発前に電話で教えてくれた。
山間を抜ける大きな州道から、
バイク1台がやっと通れる道ある。
その道を15分入れば、そこにヘンドラの村がある。
ただその15分の道が厄介だという。
A女史は、
「そうね、遊園地の絶叫アトラクションなみね。ただ違うのは、安全がまったく保障されていないだけかしら」
などと、怖いことを言う。
だから、今回の旅は、
その道を歩いて村に入る予定でいた。
歩けば40分以上はかかるらしい。
それも平坦じゃない。
アップダウンの激しいトレッキングルートなのだ。

しかし、学校での打ち合わせでは、
ヘンドラは
「車では入れます。今日なら大丈夫でしょう」
と言う。
その道は、僕も以前彼から聞いていた。
裏の山をぐるっと回るルートで、
とても時間のかかる道らしい。
その道もアップダウンが激しく、
普通の車では登れない坂も多いとか。
さらに、雨季には、
アスファルト舗装がされていないため道が滑り、
通れないらしい。
僕らが訪れた時は、まさに雨季だった。
だから当初は、トレッキングルートを
歩いて村に入る予定だった。
だが、今朝方ヘンドラが村から学校に来る時に、
その道を確認してきたらしい。
今日なら入れる。
と彼は言う。
こうして、僕ら一団は彼の村の裏手の山を
迂回するルートを選んだ。

僕は青年海外協力隊で、
かなり田舎に住んでいた。
車も入れないような道やアスファルト舗装されていない道
あらゆるオフロードも経験してきたつもりだった。
だが、ヘンドラの村に入るそのルートは
僕がこれまで経験したどの道よりも
ある意味、厳しい道だった。
まず、道幅。
対向車とすれ違うことはできないどころか、
車がぎりぎり通り抜けられる程度の幅。
僕の集落の中の道も狭いと思っていたけど、
あれの半分もないのだ。
そして坂。
四駆でも登坂が厳しい坂ばかり。
下りでは運転手はサイドブレーキとフットブレーキ両方を
使いながらゆっくり下りないといけないほどの勾配。
そんな道を延々1時間ほど走った先に、
ヘンドラの村があった。


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ヘンドラの村についたことはすぐに分かった。
なぜなら道沿いの棚田に、
銀マルチをした畝がいくつも現れたからだ。
こんなことをするのは、ヘンドラくらいだろう。
はたして、そうだった。
彼は、父親の家の隣の家を買い、
そこを少しだけ拡張と改築をして、
新妻と一緒に住んでいた。

彼は研修期間中から、
農地を確保し、すでにそれ相当の土地を耕作していた。
道沿いの棚田は7aほどだが、
そこではトウガラシ栽培をしている。
山の斜面の畑は50aほどはあるらしいが、
そこはバナナをやりたいと話してくれた。

彼は帰国して間もなく、村の農家グループの副グループ長になった。
そしてインドネシア大手のABCケチャップ社と
有機栽培トウガラシの契約を結ぼうと奔走した。
彼の村の21軒の農家をまとめあげ、
なんとか交渉まで行き着いたが、
ABC社の栽培契約で出荷量の折り合いがつかず、
話は流れてしまった。
「規模と面積、そして出荷量が僕ら農家に合わないんです」
とその時のことをヘンドラ話してくれた。
毎週9トン生産しないといけないという条件や
3ヘクタールの水が引ける農地を準備しなければいけないなど、
とても彼のような小さな村では合わない条件ばかりだった。

実は、彼は帰国後、
彼の母校であるタンジュンサリ農業高校に講師として誘われていた。
そして学校でもアグリビジネスを実践してほしいとも言われていた。
まずまずのポストだし、
そのまま試験が通れば、公務員への道も開ける。
高校の横に併設されている大学にも通えるだろうし、
キャリアアップも見込めるまたとないチャンスだったろう。
それを彼は断っていた。
「僕は地域を良くする農業ビジネスがしたいんです。僕だけが儲かるんじゃなくて、ここにいるみんなが発展していけるような農業を作りたいんです」
まっすぐに僕や先生たちを見て、彼がそう語った。
彼は今25才。
まだまだ若く、社会的にもその地位は高くは無いはずだが、
彼は村の農家グループ長になっていた。
そんな若さで集落の重職にはなかなか就けないはずだが、
それは、彼の高い意識と彼が見つめる未来に対しての、
村の人の期待のあらわれなのかもしれない。

彼が問題視したのは、
輸送手段と水の確保だった。
彼の村では、米は1作のみで、
その後、トウモロコシと落花生とキャッサバの昆作が行われている。
近年、家畜のエサ用としてトウモロコシ価格が優等生で、
村にもトウモロコシの買取人は良く来るのだとか。
でもヘンドラは何とか野菜の販売を考えていた。
価格が良いことと、毎日出荷できることが利点なのだとか。
遊園地の絶叫アトラクションなみの道を抜けて、
大きな州道まで出てしまえば、
市場までは30分圏内。
ヘンドラは日の出前に、その道を抜けて
野菜の出荷をしていた。
「暗いと坂の怖さが見えないので、逆に気楽に行けるんです」
と笑いながら答えていた。
どう?野菜は儲かってる?
と僕の質問に彼は少し間をおいて
「まぁまぁです。でもぜんぜん満足はしていません」
と答えてくれた。
まだまだ自分の規模も小さいし
周りの農家でやりたいという人も少ないと教えてくれた。

彼は牛も飼いはじめていた。
6か月前から子牛飼いはじめたのだとか。
舎飼いで肥育して肉用で販売する。
山の斜面でもバナナを植える計画をしている。
彼は、
「僕1人では、できない事が多いです。他の研修生、特にタタンが帰ってきたら、一緒に市場リサーチや販売などを協力してやりたい。」
そう話してくれた。
仲間が必要なのだ。
同じような情熱と高い意識で係ることが出来る仲間が。

彼の語る言葉の中に、
かつて僕が彼に熱く語った言葉の切れ端が
あちらこちらに見え隠れしていた。
彼の現状は決して成功とはいえない。
そして、これからもあがくだろう。
でも、彼はやっていけるだろう。
自分で考えていける力を
もう十分備えている。
あとは僕らはお互いに刺激し合える関係を維持して、
高いモチベーションで農村開発について議論を
これからも繰り返していこう。
彼の語りに触発され、
僕の中で、何か熱いものが湧いてくるのが分かった。
僕がまだ彼にしてあげられることは
そう多くないが、それでもまだ少しは彼を応援できるだろう。
今回の旅で、僕の中に秘めていたものを
やはりある程度動かして帰らなければいけない。

彼の問題を整理すれば、
それはまずインフラがあるだろう。
輸送手段と道だ。
そして栽培に必要な水。
これは、インドネシア中どこも一緒だろうな。
今一つ必要なのは、パートナー。
同じ意識で協働できる仲間。
これは、僕への宿題でもある。
そんな問題と希望を見せてくれた
ヘンドラの村訪問だった。

つづく
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さて、どこから書こうか。

今回のインドネシア旅行は、とても短かった。
が、感情の高ぶりはこれまで以上だったろう。
その高揚感は、今でもかなり残っている。
だから、どこから書いていいのか、
何から書いていいのか、迷う。

こういう時は時系列に書いていくのが一番か。

年末年始はインドネシアだった。
自分の誕生日を海外で過ごすのは久しぶりで、
そういうのも高揚感にもつながっているのかもしれない。
今回の旅の目的は2つ。

①僕らがやっているインドネシア農業研修の卒業生に会いに行くこと。
②母校であるボゴール農科大で、活動についてプレゼンすること。

2011年4月にヘンドラ君、そして2012年4月にイルファン君が
それぞれインドネシアに帰国している。
彼らは一体その後どうしているのだろうか。
彼らの活動を見ようというのが、目的の一つ。
農業研修を研修だけの活動にしたくない、
それは当初からそうだった。
研修は、それぞれがある目的を達成する手段であり、
その実行が目的ではない。
だとすると、本番は、帰国後の活動ということになる。
当然、僕らも卒業生の肩越しではあるが、
その本番を一緒に汗かきべそかきしようと思っている。
そのために今回、
卒業生のフィールドまで押しかけたのだった。

そしてもう一つ。
これはちょっとした野心。
せっかくボゴール農科大学で学位を取ったのに、
僕はその後この大学と接点を持てなかった。
一介の日本の農民が、その土地に縛り付けられている身分で、
とても大仰だとは思うが、
この大学の友人知人とまた一緒に
何かをやりたかった。
それは留学する前に、ほんの少しだけ夢見ていたことでもあった。
自分のインドネシア語の語学力低下と
十分疎遠になるだけの月日(7年間)が、
僕をこの大学から遠ざけていたが、
今回は気合を入れて、論文指導の担当教官に
コンタクトを取ってみた。
僕が今やっている活動をその先生にプレゼンする。
そこから何かが派生するかもしれないし、
しないかもしれない。
なんか化学変化が起きればいいなぁ、なんて
ちょっとよこしまな考えでのプレゼン。
それが今回の旅のもう一つの目的。

ちなみに妻は、日程の半分は一緒で、
あと半分は自分が所属している研究会の調査で
別の島へと行ってしまった。
娘と二人の海外の旅というのも、今回が初めて。

さて、これでプロローグは終わりだ。
僕の記憶もまだまだ鮮明に残っているし、
フィールドノートもしっかりと取ってある。
記憶をたどりながら、
もう一度あの高揚感を味わうとするか。
では皆さん、一緒に出掛けるとしますか。


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田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
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