僕は海外での農村開発の経験を生かしながら、地元で地域を創り上げる農業をしています。5年前の31歳の時に就農し、年間50品目以上の野菜を生産し、ベビーリーフなどの西洋野菜や福井の伝統野菜などの品目を武器に、市場出荷だけではなく業者やレストランと直接取引しています。就農当時から雇用による経営を重視し、今ではインドネシアの研修生やセネガル人のスタッフも交え、10数名でにぎやかに農業をしています。

僕は農家の長男として生まれました。大学は農学部に進学し、在学中に国内外を問わず、様々な農家を訪ねて回りました。しかしそれは、実家の農業を継ぐためではなく、自分の夢であった青年海外協力隊に参加するためでした。家族の農業に対する労働の姿に尊敬はしつつも、土地に縛られ、つらい肉体労働が続く家業に、僕はあまり魅力を感じていませんでした。

大学卒業したその年に、僕は青年海外協力隊に参加し、インドネシアのスラウェシ島に派遣されました。その島のある田舎の県に配属され、貧困な地域の村おこしにつながる農業指導を担当することになりました。まずは商品作物の普及を支援することになりました。しかし活動は平坦な道のりではありませんでした。初めに着手した落花生栽培は、ほかの島の品種を「市場価格が高いから」という理由で、僕ら協力隊側が持ち込んだのですが、その土地ではうまく育ちませんでした。かかわった農家に損をさせる失敗をした僕は、やり方を変えました。農家を回り、話し合いを積み重ね、徹底的な農家目線から「何がやりたいのか」を探ることにしたのです。その結果、2年目は、地元でもつくられていた赤ワケギを栽培しました。赤ワケギは、人々が毎日食べる唐辛子ソースはじめ、なんの料理にでも使う野菜です。農家と一緒に研修参加、種子の買い付けからはじめた栽培は大成功しました。しかしその年、アカワケギの相場が大暴落し、栽培農家は痛手を負いました。当時インドネシアは経済危機の真っ只中で、IMFの提案による政府の一方的な農産物市場の自由化に翻弄されたのです。

この経験から、農家がその後、一つの品目に特化せず、リスク回避の栽培の多角化をはかっていく原動力となりました。僕が現在、多品目栽培をしているのもこの経験からです。2度の失敗を活かし、僕は農家と共に多種多様な野菜を栽培し、消費者と提携しながら直売などを行いました。そしてそれらの活動を通して、農家の収益を増やすことはできたのですが、他方では、野菜の行商は社会的地位の低い仕事、という現地の認識など、文化的な価値観の違いもあり、一筋縄ではいきませんでした。この経験から僕は、農業は個人的な栽培技術や経営として考えても、うまくいかないことを知らされました。それと同時に、海外での地域おこしの活動の魅力にも取りつかれました。海外で活躍できる人間になりたい、と思うようになったのです。

協力隊から帰国後、僕は再びインドネシアに行きました。インドネシアのボゴール農科大学大学院で学ぶためです。そこでは、農村社会学を専攻し、協力隊の時には出来なかった社会や文化から農業を見ることを学びました。それは、次の海外プロジェクトに参加するためでした。ですが、大学院の最後の課題である修士論文を書き上げる時、僕にある変化が生まれました。

修士論文の調査は、JICA(国際協力機構)がインドネシアで行っていた農村開発プロジェクトのある村で行いました。開発の政策や援助がどういった影響を及ぼしているのかを現地の住民目線で調べるのが目的でした。国家政策や海外からの大きな援助という影響を受けて、それらが主導で地域が変わっていくことを想像していたのですが、現実は違いました。住民はただ受身で流されているわけではなかったのです。たとえば簡易水道を設置する援助事業では、各家庭に水道を引くことで水汲み労力軽減を目的としていましたが、住民は水道をはずし、誰でもアクセスしやすく管理しやすい共同の水汲み場にするといった読み替えをしていました。また大豆栽培を奨励する政策では、大豆の種子をもらいつつも、近くの市場でより高く評価されるインゲン豆と種子を交換し栽培している風景もありました。そんな風にして、自分たちの地域を自分たちで作る姿がありました。こうした調査をしていて気がついたのですが、地域住民にとって、外からの援助や政策は、とても大きなインパクトです。でも、それを紡いで、自分たちの地域を創り上げてきたのは、そこに住む人々でした。調査のインタビューの時に、自分たちの地域の歩みを自慢げに語る農家の方々は、僕の目にはとても素敵に映りました。自分たちの地域を創り上げてきた自信と誇りを感じました。

そのことに気が付いた時、僕の生まれ育った福井にも目を向けてみると、やはり当然のことですが、僕の地元にも同じような人々の暮らしがあったのです。過酷な労働ばかりに見えていた農業と閉塞を感じていた地元の農村の風景が、実はまさに今、地域が創られようとしているダイナミックな場であることに気が付いたのです。僕も同じような農民として、地域を創り上げていく存在になりたい。そう思うようになり、地元に戻って農業を始めました。

地域を創り上げる、といっても、では創り上げる地域とは一体何でしょうか。主体ある地域を極めて鮮やかに表現するときに、「風土」という言葉を用いることがあります。風土とは、その地域の主体的な文化であり、社会であり、そこに暮らす人々の思想だと思います。「風土」とは風と土の文字から成っています。つまり風と土で出来上がっているのが、その地域の主体と言うわけです。土とは、地元の人間のこと。僕ら農民のことです。土地に根を張り生きている存在です。そして風は、よそ者。風が吹くように外部からやってきて、違った視点や考えでその地域に関わります。土だけでも、風だけでも風土は出来上がらない。この二つがあって、初めて風土が醸成されていきます。協力隊村の経験や大学院での調査からも言えるのですが、土である地元の人は、良く地元を知っているような気がしますが、長年住み慣れた地元を固定的に見る視点からは、新しい発想は余り生まれてきません。その反対に、その地域の常識にとらわれないよそ者は、全く新しい視点で、その地域を見るので、奇抜な発想が生まれることがあります。ただそれがそのまま地元に合うかどうかは、僕の協力隊の経験や海外援助の事例から見ても解る通り、かなり疑問もあります。地元の人間がそれを活かし、風と土の関係がうまく調和してはじめて、その地域の風土となるんだと思います。

地域を創り上げる農民になろうと決心してから、僕は自分の地域に風であるよそ者がたくさん来てくれるような場を作ろうと思っています。2002年から、福井農林高校とインドネシアの農業高校の交流の通訳兼コーディネーターをしています。2008年からは、そのインドネシアの農業高校から、卒業生を対象に農業研修生を受け入れています。現在3名のインドネシア農民子弟が、僕の農園で研修しています。この農業研修では、農業の近代化を追い求めるのではなく、僕の農業と研修生の地元の農業を比べながら、お互いがお互いから学べるような研修を目指しています。研修が3年目になる研修生には、自主研究を行ってもらっています。今年3年目の研修生は、僕が実践している堆肥にとても興味を示しており、彼は自主研究でもテーマを有機肥料に絞り、その成果を毎週のゼミを通して発表してもらっています。また研究圃場も準備し、実践的にも有機肥料について学んでもらっています。インドネシアの農村では、まだまだ化成肥料神話が根強く、そのためか土壌も疲弊しがちです。その状況に彼が新しい風となって、有機肥料の考えを広めてくれることを期待しています。

インドネシア研修生以外にも雇用をしています。青年海外協力隊つながりで、アフリカのセネガルの青年を僕の農園のスタッフとして雇用しています。さらに今年は、新規就農をしたいという日本人青年を3名受け入れています。いずれは彼らもこの地でそれぞれに独立し、一緒にこの地域を創り上げてくれる農家になってくれることを期待しています。そういった外から吹く風をこの地に埋め込んでいくことこそ、僕は地域を創り上げていくことだと思っています。

これらの風の効果は着実に目に見えてきています。僕が所属する4Hクラブでは、活動がマンネリ化し、今一つ活発に動いていませんでした。しかし、外部の人や研修生、そして僕自身が風となり関わることで、新しい活動を生みだしています。2008年に4Hクラブと保育園とで行った田んぼ体験の活動では、園児の父母や保育士が実行委員として参加する形で、できるだけ手作業での稲作に挑戦しました。収穫した米は、それぞれの集落の老農に教わりながら、昔に使われていた唐箕や千歯などの道具を使い、精米して食べる試みもしました。この活動は、4Hクラブの活動発表コンテストで発表したのですが、全国大会出場というおまけまでついてきました。それ以来、みんなで盛り上がりながら、農業体験の活動を行っています。こうした取り組みを通じて、一緒に地域を創り上げていける仲間が出来つつあります。

地域の農業発展の鍵は何なのか?そんな難しいことは解りませんが、これまでの経験から風であるよそ者と土である地元の人間が交差する『場』を作っていくことこそ大切なんだと思います。そしてその場を支えるはずの僕ら土の人間が、積極的に地域を創り上げていこうという想いが大切なんだと思います。そして、その風と土が交差する場とは、いろんな人々が訪れてくれる、また協働していける農業の現場なんだと思います。外から吹く風をいっぱいに受け止め、それを地元の風土として還元していける、そんな農民を目指して、僕は日々、土を耕し続けています。
関連記事
先週末、地元のJA青壮年部の忘年会があった。
忘年会と同時に、
僕の青年の主張全国大会出場の祝賀会も兼ねていた。
その祝賀会で、普段はあまり話さない人から
僕の青年の主張の内容について声をかけられた。
その人は
「あの話に勇気をもらった」
と言ってくれた。
兼業農家さんで、仕事の片手間に田圃をしている人で
田圃が重荷に感じていて、
そんな農業が自分に何の意味があるんだろう、と
考えることもあったのだとか。
それが、僕の主張を聞いて
「勇気をもらった」とのことだった。

僕は、経営体として農業の規模を論じるとき
時には、第2種兼業農家の
農業界からの円満退場の必要性を
感じる時があるが、
それの多くは目先の経営論にしかすぎないことも
僕は自覚している。
他産業へ移行しつつも
そこの利益でもって、農業の負債を埋めるという
一見合理的に見えないこうした農民層は
純粋な損得論では理解はできない。
土地はただ作物を生産する場だけではなく、
(時には転売期待がそこにはあるのだが)
そこにある思い入れが同時に存在しているように思う。
ただ、それが青年部で話をしていると
今の僕ら世代には、そんなものが微塵も感じられない。
今まで風土(地域)を支えてきたものが
その土に対する愛着と
実際に負債を抱えながらも、外部からの投入で成り立ってきた
兼業農家群だったのは、
まぎれもない事実だったのに、
今は、それすらも消えようとしている。
農業が経営体として語られることに、
僕はある意味で正しいと思っている。
だが、それを突き詰める先に
消えゆく地縁があることも忘れてはならない。
その地縁が、僕らの風土を創り上げて
僕らの文化を創り上げていることも
忘れてはならない。
そんなことに、僕は青年の主張の場を借りて
僕らが土を耕し続ける意味を
僕の周りの人たちに語ったつもりだった。

解ってもらえないかもしれないと思っていたが
その夜、
その人から
「勇気をもらった」という言葉をもらって
僕もうれしかったし、
僕も勇気をもらった。



関連記事
愛しのアレジャン集落
第40話

ラエチュにささぐ

僕には、父と呼んでも差し支えのない人がインドネシアにいる。
それは、アレジャン集落の集落長ラエチュ。
年齢は不詳で、政府が出すIDカードの出生が正しければ
今年で78歳になっているはずだが、
カレンダーの数字なんてあまり意味を持たない
曖昧な環境であるアレジャンでは、その数字は大抵
IDを発行するときに役人か本人かまたは誰かが決めた数字で
正確ではないし、正確である必要もないのである。

何年集落長をしていたのかも
協力隊当時に彼に聞いたのだが、
「Lama」(長い)とぶっきらぼうに言うだけで、
その年数も適当。

体格はいい。
身長は僕よりも大きかった。
出会ったころは、肉付きもよく、山賊か海賊の棟梁のような人だった。
インドネシア政府の教育を受けていない世代で
インドネシア語があまり上手じゃない。
僕は協力隊時代、インドネシア語があまり上手じゃなく
(今もあまり上手くはないが・・・)
その僕とラエチュが事業の相談を
インドネシア語でやっているのを見て
周りの村の若者(インドネシア語教育をしっかりと受けた世代)から
よくからかわれた。
「話は通じているのか」って。

僕はラエチュの家に、3畳ほどの部屋を間借りして住んでいた。
住み心地は最悪で、プライバシーなんてこれっぽっちもなかった。
隙間だらけの壁から、よくのぞかれたし、
部屋おいてあった物は、無断で使用された。
ラエチュは、僕が持ってきた防水の懐中電灯がお気に入りで
夜、田圃の水の見回りに、いつも勝手に持って行っていた。
持っていく度に、僕は苦情を言うのだが、
そんな時に限って、言葉がわからないふりをされた。
そしていつしか、その懐中電灯は返してもらえなくなり
本当にラエチュの物になっていた。

ラエチュの家に住み始める時、
僕はある嘘をついた。
それは年齢。
当時、僕は23歳になったばかりだった。
でも、あまり若いと相手にされないのではないかと思い
任地では、28歳ということにしていた。
今思えば、それはどっちでもあまり変わらないような気もするが
僕なりの幼稚な背伸びだった。
だが、外国人でひげを蓄えていると
28歳と言っても、みんな信じてくれた。
中には、「思ったより若いねぇ」と言われることもあった。
態度がでかかったのも幸いしたのかもしれない。

ラエチュにも、28歳だと伝えると
彼は、大きな声で笑い
「嘘だ!」と言った。
そして、「お前は・・・23歳だ」と
本当の年齢を当てたのは、彼だけだった。
僕は、自分のアイデンティティをその当時から「農民」に求めていたので、
僕は日本の農民だと、言って回っていたのだが、
それもラエチュに見破られてしまった。
ラエチュは、僕の手を見て
「それは農民の手じゃない」と言ったのが今でも記憶に残っている。

本当に変わった人だった。
森の長老がお前を呼んでいる、と突然告げて来たり(第2話
冷蔵庫のアイスキャンディ計画を立てたり(第7話
初めて会ったときは、僕が死んだらどうしたらいいかを
まず聞いてくるような人だった。(第14話
今もあまり変わらないが、当時の僕はまだまだ子供で
僕の活動がアレジャンでうまくいかないことを
よく彼に文句を言っていた。
そんな彼は、いつも冗談なのか、本気なのかわからない理由で
僕をなだめてくれた。(第23話
僕の部屋には電気が無かった。
1年くらいは、みんなが使っていたミロの缶で作った灯油ランプでしのいだ。
2年目に入ったころ、ラエチュが僕の部屋に電気を引いてくれた。(第3話
これ幸いと、いろんな電子機器を持ち込んで
夜中使い始めると、よくブレーカーが落ちた。
でも彼はそれについて、何も文句は言わなかった。

お互いインドネシア語が下手で、
会話がいつもかみ合わない。
そのいら立ちをぶつけた時もあった。
そのほとんどが、現地語(ブギス語)を少しも覚えようとしない僕が
悪いのだが、彼は大学生のボランティアが置いて行った
識字教育の初等教科書を出してきて
夜な夜なテラスで読書をする僕の横で、
彼はインドネシア語の勉強をしていた。
ちっとも上手くはならなかったけど。

僕が帰国してから、
時間が経てば経つほど、彼とインドネシア語で会話するのが
困難になっていった。
僕はインドネシアの大学院に留学をして
語学力を伸ばしていたのだが、
彼は、僕が居なくなるとインドネシア語の必要性が無くなったのか
ほとんどしゃべれない状態になっていた。
最後に訪問した時は、病気のこともあって
ほとんどインドネシア語を話してくれなかった。
当時は、あんなに話が出来ていたのに。

僕の父が、アレジャンまで遊びに来た時があった。
その時、父は、「徹の父です」と自己紹介を
僕のホストファミリーの前ですると、
ラエチュが、「私がインドネシアでは彼の父です」と
僕の父に自己紹介したのが、今でも鮮明に覚えている。

ラエチュは、集落長として、村人から愛されていた。
村に入ってくる事業の分配は、
僕が見ている限り、多くをラエチュが持って行ったようにも思えたが(第24話
村人からはあまり文句を聞かなかった。
アレジャン集落の歴史から言えば
ラエチュの家族は、新参者だった。
でも、それはたぶん彼のパーソナリティが
彼を集落長にしたのかもしれない。

街に近い集落の人からは
「アレジャンの集落長は、インドネシア語を理解しない凶暴な奴」と
言われたこともあった。
その人の世代から言えば、
たぶんそれは、間違いなくラエチュのことを言っているのだろう。
あの体格で、怒る時の姿を見たものならば
たぶん、そう思えるかもしれない。

強くて大きくて、冗談なのか本気なのかわからないことを口走る。
そんなラエチュが、死んだ。
アレジャンの友人に別件で電話をしたときに
今年の9月に亡くなったことを伝えられた。

僕のインドネシアの父は、もうこの世にはいない。
僕はまだ何も恩返しをしていないというのに。
何と言っていいのかわからない後悔と悲しさが
ぐるぐるとまわっている。

こんなことを書いていても意味がないのだが
書かずにはいられない。

お父さん、

ごめんなさい。

お父さん、

ありがとう。


関連記事
11 24
2010

PB240017.jpg

金時草にアブラムシが出た。
何度か、気門封殺剤を使って、防除を試みたのだが
なかなか効果がない。
込み合って生えている植物の場合、
気門封殺剤のように直接かからないと
効果がない農薬は、なかなかむずかしい。

防除の手はないのか?
アブラムシならば、これまで天敵で防除してきたが、
この時期、アブラムシの天敵である
アブラバチやヒラタアブ類は元気がない。
得意の天敵防除は、あまり期待できないのだ。
では、ほかに手はないのか?
いや、ある。
とっておきの切り札剤がある。
ネオニコチノイド系の薬剤で
収穫調整すれば、十分、規定範囲内で安全に
使用できる。
気門封殺剤では届かないところまで
効果があり、アブラムシの害は止まるだろう。

どんどん広がるアブラムシを見ながら、
気門封殺剤の限界を感じながら
僕は、その日、収穫作業をしつつ
今日、その切り札剤を1回だけ使おうと考えていた。

だが、僕はそれをしなかった。
収穫途中で、卵を産むカマキリを
金時草の圃場で見かけたから。

別にノスタルジックになったわけでも
カマキリを擬人化して同情したわけでもない。
その産卵の姿に、僕は
やはりただの虫も死なせてしまう
切り札剤は、もう少し待とう、と思いとどまった。
ここまで育んだ多様な生物相を
台無しにすることはない。

もし気門封殺剤でダメだったら
また金時草を剪定して、アブラムシの密度を下げればいい。
すこし出荷量が減り(ずいぶん減るだろうけど)
回復するまで、結構時間がかかるだろうけど。
だけど、ただの虫を殺すことはしたくない。

この日、再びアブラムシの気門封殺剤を散布。
これで止まればいいのだが。
関連記事
PB160004.jpg

中が真っ赤な
紅芯大根の出荷が始まっている。
今年は、来年の1月まで出荷できるよう
作付け量を増やしたのだが
結構、人気があるので果たしてそれまでもつだろうか。

koushindaikon.jpg

ちかくの直売所でも販売していますので
見かけたら買ってみてください。


関連記事
引き続き、日本人の研修生との勉強会。
青山浩子さんの「強い農業をつくる」を輪読して
共感できるポイント、批判ポイントを議論する。
今回は、第4章流通市場を改革せよ、と
第5章農業の「仕組み」を変えよ、というもの。

4章では、あの「みずほの村市場」が紹介されており
その直売所のシステムを、
やはり研修生たちみんなが取り上げていた。
自分たちが取り入れたい点としても
養豚農家の宮治さんが取り組んでいるバーベキューマーケティングの
ようなイベントを開いて、消費者との交流を進めたい、という
意見が多かった。
人の集まる場をつくる、そのコンセプトは
みなも大切だと思っているようだった。

では、僕はどうなんだろうか。
確かに人が集まる場を、と思ってはいるが
イベント的な取り組みには、少し慎重なのが現状である。
ただ、その人の集まる場とは、
この本でいう、農業の仕組みを変えよ、という文脈では、
僕は労働力の確保とその育成・教育の仕組みを含んだ
場を作り上げつつあると思っている。

農業で最も困難なことの一つが
労働力の確保である。
肉体労働を嫌がらず、汗と泥にまみれて
その中に労働の意味を見いだせる若者は
農業がブームとなった今でも
それはファッションの域から出ず、
まだまだ少ないのが現状なのである。
そんな中で、恒常的に労働力を確保する意味で
県内の農家でも、海外の研修生を受け入れている人たちがいる。
僕はこれまで、このような人たちとは距離を置いて
どちらかといえば、ネガティブな意見を発信してきた。
従属的な環境と関係の中で
安い労働力を酷使して、先進国と途上国の貧富の差を利用した
また国際協力を隠れ蓑にした、新たな搾取だ、
と思ってきた。

だがあるきっかけがあって
僕自身が、研修制度を利用することで
地元で農業しながら、インドネシアの農業に
貢献できることがあるかもしれない、と思うようになってからは
考え方が変わった。
それから間もなく、地元農林高校との交流事業の中で
インドネシアの農業高校の卒業生を対象に
研修生を受け入れることにした。
給料も払い、渡航費も払い、保険も払い、
さらに農業の授業と宿題・レポートと勤勉を押し付けるという
押しかけ女房ならぬ、押しかけ教師をしている。

だから研修に来る子も、
何名かの希望者の中で選ばれることもあってか
モティベーションも高く、多くの宿題をこなしてくる。
当然、圃場でも彼らの観察力も高く、どんな作業でも
強い関心を持って、取り組んでくれるので仕事の内容もいい。
それを見て、周りの農家から
「うちにも斡旋してくれ」
と言われることもあるが、
別に彼らはこちらから出す給料に対して
モティベーションがあるわけじゃない。
僕のインドネシア語での
日本とインドネシアの農業の座学に対して
高いモティベーションを持っているのだ。
だから、労働者として扱えば
たぶん彼らは、やる気をなくすだろう。
僕の提供するサービスと
彼らのニーズが合致して、
今のところ、まだやや持ち出し感があるが
なんとか研修事業を継続できている。

今回の議論を通して、僕は改めてこのやり方が
僕なりのオリジナリティであり、
僕なりの農業の仕組みだといえよう。

センスのある人たちによる様々な農業ビジネスが紹介される中
そういったセンスに乏しい僕は、
やや焦燥感があったが
こうあらためて考えてみると
僕が目指す道は、そういった農業ビジネスにはないことが
はっきりとした。
僕が目指す農業を一緒に作り上げてくれる人と
ゆっくり腰を据えて
インドネシアの農業とも付き合っていけばいい。
その専一こそが必要なのだ。
そしてこのような勉強会を主宰し続けること。
ビジネス的には、やや弱いかもしれないが
それが僕の農業の仕組みだと、今ははっきりと主張できる。



関連記事
農家組合の本盛の日。
下半期の盛(組合費)を役員で計算した。
今年は戸別所得補償制度が始まり、
加工用米で1反2万円の補償があるので
その計算が新たに加わった。

むらで減反の数字を少しでも下げるため
農家組合が加工用米の生産を大作りの農家に頼んで
転作面積を稼いでいる、ことは以前のエントリーで書いた通り。
しかし、加工用米は、コシヒカリに比べて買い取り価格が
半値以下なので、その分の差額は
全戸で徴収して、加工用米を作ってくれた農家に
補てんすることにしている。

今年、一つ問題が起きた。
春に転作を決める会議で、僕は加工用米の数量と
減反率、そして1反当たりの補てん金を一覧表にして、
どれくらい加工用米をむらで受ければ、
どこまで減反率が下げられて
補てん金はいくらになるかを説明した。
戸別所得補償制度を攻めに使って
減反率を下げようという試みで始めたのだが
今年、意外にも大きくコメの価格が下落してしまった。
毎年の価格変動の影響を避けるため、
加工用米の補てん金の計算では
コシヒカリ1等米の3年分の価格平均との差額を
計算しているのだが、
今年は加工用米の買い取り価格が大きく下落したため
補てん金の金額が大きく跳ね上がってしまった。
加工用米を例年よりも多く受けることで、
全体的に減反率は下げられ、
戸別所得補償の面でも、少しでも多くの面積をカウントできたのだが
コメの価格の下落によって、
各農家にとって、それほど得をしない結果になってしまった。
全体に落ちるお金を比較すれば
この調整をしないよりかは
むら全体では儲かったことになるのだが。

農家組合の年寄役から、
「全体では多くのお金が落ちたかもしれんけど、入ってきたお金のことを忘れて、補てん金の額だけを見て、文句を言う人もいるかもしれんな。」
と言われた。
なんとか班長会で承認を得て、
来月の総会を切り抜けたい。


関連記事
今度は日本人研修生との勉強会で
思ったことを書こうか。
今、青山浩子氏の「強い農業をつくる」を輪読しているのだが、
その第2章と第3章について、この前の日曜日に
議論し合った。
第2章は、積極的に情報発信せよ、という表題。
第3章は、「農」をブランド化せよ、というもの。
どちらも、実は差別化しろという意味で、同じことを指している。

それぞれの研修生が本の内容から、
興味あるトピックをいろいろとあげてくれた。
その中で、僕が興味を覚えるものが一つ。
中小企業診断士の林君が、ブランド構成要件を満たすことを意識して
その要件を書き出してくれていた。

ブランド訴求対象顧客(だれに)
一貫したブランドコンセプト=こだわり(なにを)
継続的な認知度向上の方策(どのように)

なるほどね。
こう書いてあると、明快だ。
だが、僕自身、この要件に対しての明確な答えはない。
販売は、市場が中心。
顧客は、仲卸や八百屋、スーパーなどの量販店。
ブランドコンセプトは、とりあえず何でも作っている、というイメージと
しっかりした土づくりから得られるしっかりした野菜。
安定供給と安定した品質での出荷。
それとプラスで、生物多様性と永続的な農業。
それはエコとはまた違うのだが、伝わりにくい部分でもあるし
安心安全とも違う。
人の健康というよりも、自然界の一部での生業としての農業が
永続的に続いていくことに焦点を当てた農の形なので
こだわりが顧客には伝わりにくい。
だから、化学合成農薬を無散布で作った野菜もたくさんあるのだが、
それを発信させてはいない。
その農業の形を、安心安全と勘違いされたくないから。

継続的な認知度向上とあるが、これはどうだろうか。
福井の市場では、それなりに名前は通っている。
また、様々な活動で、たまに新聞でも取り上げてもらっているので
それなりに知られてもいる。
(テレビ局の方々、取材拒否してすみませんでした。)
ただそれが僕の商品の購買につながっているとは思えない。
このブログも、毎日70~90人の方がクリックしてくれるのだが
この内容が、僕の野菜を買う動機になっているとは思えない。

僕が相手をしている消費者の多くは
こだわりをどうとらえているのだろうか。
スーパーに買い物に来る買い物客は、
詳しいこだわりをじっくりと理解しながら品物を選ぶ人ばかりではないだろう。
雑多な、いろんな価値を持ち合わせた人が
それぞれのこだわりで、その日食べる野菜を選ぶ。
そして、こだわっている人でも
周辺的ルート処理によってリスクを考える人が多いだろう。
食べ方がわからない、という人も多い。
みんながみんな料理が得意でもない。
顧客が量販店とレストランの両方になっている現在、
僕のこだわりは、そのどちらにもうまく伝わりにくいのかもしれない。
ある料理の協会の会合に出たとき、
あるシェフから、こういわれたのを思い出す。
「そのまま食べてまずいものを同士を調理で掛け合わすから、思いもかけないうまいものができる。うまいものを調理しても、それなりにしかならないんだよ」。
でも、そのこだわりに合わせて苦みやアクの強い野菜を作っても
それは、量販店の顧客には認めてもらえない。

最近、まぁ、これは僕も含めてなのだが
「自分のところでしか作っていない野菜です」
という農家も増えた。
だが、そんな大げさなものじゃない。
インターネットをちょいと調べれば、
外国の珍しい種は手に入るようになったし、
大手の種屋もかわった野菜を用意するようになっている。
たいていは、そんなところから種を買って
自分だけしか作っていない、と吹いて回っているに過ぎない。
でも本当にしっかりやっている農家は、
自家品種を持っていて、まさに
自分のところにしかない野菜を栽培している人もいる。
特に、トマト農家。
僕も吉川なすは自家採取しているので
これも10年くらい選別すれば、
僕のところにしかない野菜と言えるかもしれないが
味の変化がトマトほどはっきりしていないナスは
その違いは伝わりにくい。

こうした勉強会を通じて、
改めに、自分の農業経営の弱点が見えてきたきがする。
ただそれに対する改善点は、見いだせないままだが。

関連記事
インドネシアの研修生の座学。
農業構造比較論の金融的要因について。
マクロな意味での金融は扱っておらず(僕の手には負えない)、
この場合の金融とは、多くが農村での
農業資金のことを指して議論している。

その地での農業資金の貸し借りの在り様が
その地の農業を形作り、また社会関係を育んでいる。
端的に言ってしまえば、そういう話。
政策とも大きくリンクするが、政策的要因は
また別に詳しく議論をする予定。

さて、農業資金はどこから借りるのか。
研修2年生のイルファンと1年生のタタンに
宿題として、それぞれの地域の農業資金はどこで得るかを
レポートにまとめさせた。
当然、自己資金という農家も多いだろうが
イルファンのところは、
地元商人による貸し付けがもっともポピュラー。
政府系の資金もあるが、
地元の零細農家のほとんどは村内の買い取り商人から
資金提供を受けている。
1人の買い取り商人が、約100人以上の農家に資金を提供している。
マルクス主義の多い僕のいた大学院の先生たちは
これを従属関係だとして、批判と攻撃の対象として
その階級闘争に目を向けるかもしれないような関係が
イルファン君のむらにはある。

買い取り商人から資金を借りれば、
それによって作られた農作物は、すべてその商人に売らないといけない。
価格に対するネゴの余地はあまりなく、
その商人の言い値で買い取られる。
しかし、それは買いたたかれるのではなく、
唐辛子の例だが、キロ当たり100ルピアほど
市場よりも安いだけだという
調査を依頼したA女史の報告結果もある。

では、タタンはどうか。
その地域では、イルファンと違って
多くが稲作である(イルファンの地域は、稲作が無く、ほとんどお茶と野菜)。
そしてその稲作がつくっている農業資金がある。
まずはGadai(質入れ)。
田んぼを他の農家に質入れして、資金を得るというもの。
農業用の資金として借りることもあるが、
多くはそれ以外の大きな出費があった時に行われるのだとか。
これの面白いところは、金利が付かないこと。
質入れした田んぼは、お金を貸した農家が
質草として預かるが、当然その販売はできない。
そこで得た収量は、貸した側のものになるが、
場合によっては、借りた側がその田圃の耕作を続け
その手間賃を貸した側からもらうこともある。
少なくとも3年は質草として預けないといけないようで、
借りた金は、分割払いは不可。
僕がかつて協力隊としていた南スラウェシの農村は
分割払いが可だったのだが、不可なのが面白い。
金利が付かないので、貸す方もこれで儲けることは
あまりできないシステム。
まさにソーシャルセーフティネットの一つともいえるかもしれない。

さらにタタンの地域では
稲作のArisan:アリサン(頼母子講)がある。
アリサンとは、任意のグループを作り
そのメンバーから定額の金を集め、
その資金をメンバーの一人が総取りをするというシステム。
全員が1回ずつ総取りできるまで回すのが条件。
ただ、だれが総取りできるかは、くじで決める。
(胴元は、くじ無しで一番初めに総取りできる権利がある)。
インドネシアの各地で行われている。
そしてその多くが女性グループ。
でもタタンの地域では、農家のアリサングループがあって
コメの収穫後に集まり、くじを引いてその回の総取りのメンバーを選ぶ。
総取りの幸運を得た農家は、
各メンバーから、収穫された米を決められた量だけ
貰い受けるそうだ。
タタンが加わっていたグループは、
総取りできると全部で100㌔の米をもらえるのだとか。
もっと金持ちのアリサングループになると、
総取りの量が1トンを超えるのもあるらしい。
その総取りした米は、多くは農地購入資金や
農業用機械・資材の購入にあてられるらしい。

タタンの地域にも、買い取り商人からの資金提供がある。
しかし、イルファンとは違い、多くの買い取り商人が
作目まで指定してくるのが通常だとか。
つまり、トウガラシの買い取り商人から借りれば
その資金でトウガラシ以外は作付出来ないことになる。
価格に対するネゴは難しいとのことだが、
だいたい市場価格で売買される。
ただ、その売買された価格から20%の金額を
その買い取り商人が手数料としてとるのが通例だとか。

選択肢がほとんどないイルファンのところは、
作目は自由で、市場価格よりも少し安く買われていくだけで
高額の手数料はない。
この場合、どちらが自由度が高いかは
判断しがたいが、そのお金のやり取りが
その地域の社会関係を育み、その地域の農業の生産様式と
社会の在り様が、金融の在り様を形作っているのが
面白かった。

そういう視点から見れば、
買い取り商人との関係は、それぞれの地域で
ずいぶんと意味合いの違いものであることが、見えてくる。
どこから金を借りるのか。
農業をやっていくうえで、それは研修生らが今後悩む課題の一つだろう。
その関係に、自分たちの農の形も変わってくることを
忘れないでほしいと、僕は願う。


関連記事
JA青年部の「青年の主張」東海北陸ブロック大会に
福井県代表として参加。

県大会とは全く規模の違う大会で
しかも参加者は、各県の代表とあって
発表内容も態度もどれとっても素晴らしいものだった。

結果から言えば、
そんな強豪ぞろいの中、
僕が東海北陸ブロックの代表として選ばれた。
まったく幸運に恵まれたとしか言えない。

発表の内容としては
前回のエントリーで書いた
毎日農業記録賞とほぼ同じ。
ただ発表用にもっと話は短いし
内容もJA青年部に特化している部分もある。

発表は10分。
パワーポイントやフリップなどのツールの使用はダメ。
ただただ話すだけ。
しかも壇上では、時計もストップウォッチも持っていけない。
9分経った時点で、ランプで教えてくれるのだが、
全体的には
体内時計だけで話すという、
過酷なスピーチコンペ。
しかも、10分経ってから5秒過ぎると1点減点だとか・・・。

600人ほどの聴者の前で話したのだが
順番待ちをしているとき、これほど緊張したのは
ちょっと記憶にない。
しかし、壇上はとても眺めがよく、
多くのスポットライトが温かく感じ、
ピンと張りつめた空気が、心地よく
とても気分の良い場所だった。
練習以上の出来で、
自分でも驚きながら話していた。
応援に駆け付けてくれた地元の仲間の顔が
1人1人確認でき、
一緒に仕事をしているインドネシアの研修生や
日本人研修生
そして、セネガルのイブライの顔もよく見えた。
あぁ、イブライが居るなぁ~、としみじみ思った瞬間に
言い間違えてしまったのは、愛嬌。

この発表は、もちろんコンペに勝つために作ったのだけど、
本当の目的は、応援に来てくれた地元の仲間に対しての
僕のメッセージだった。
それがあのような大きな会場で
しかも、一人一人を見ながら話ができたことが
僕は何よりもうれしかった。

僕が思っていることや感謝、それが伝わっただろうか。
僕は、彼ら仲間と、これからも一緒にやっていきたい。
来年の2月、日比谷公会堂で全国大会に
東海北陸ブロックの代表として出場する。
もう一つ、大きな舞台で、
またその思いを仲間に伝えることができる機会を得たのが
とても、とても、うれしかった。


関連記事
あるきっかけあって、毎日農業記録賞に
作文を応募した。
福井の支局長が、その作文をいたく気に入ってくれて、
結果は、優良賞ということだったのだが、
福井面で全文を掲載してくれた。
全文の紹介は、全国で最優秀賞をとられた方の
作文が通常で、
優良賞に終わった僕の作文を全文載せることは、
破格の待遇と言っていいだろう。

取材に来た記者さんも
「前例のない試み」と言っていたように
4000字もある作文を、
1ページしかない福井面に掲載してくれた。
なので、
福井面のほとんどを僕の作文と記事で埋められていた。
それだけの期待に僕は応えられるかどうかわからないが
とにかく、ただただうれしかった。
良かったら、皆さんも
下のリンクから読んでください。

優良賞をとった作文の記事

関連記事
武生東高校で講演。
同校が行っている国際理解と授業の一環で
協力隊OVが、経験談を話す授業の枠がある。
今年もその枠の一人を僕が受けた。
同時に7名のOVが経験談をそれぞれの教室で話すので
事前に生徒は希望の教室を選ぶことになっている。
僕は毎年、最低人数。
協力隊の参加職種が、「食用作物」となっているので
たぶん、それで人気がないのだろうか。

さて、協力隊から帰国してすでに10年以上が過ぎた。
そうなってくると、さすがに協力隊の時の体験談だけでは
ちと辛くなってくる。
聞いている子たちが、高校1年生ということを考えれば
その子たちが、小学校に上がる前の話をするわけだから・・・。
なので、毎年、参加後の話に重点を置いて話している。

他の隊員OVの話者が何を話しているのかは知らないが、
僕は、協力隊終了後の10年で自分が積み上げてきたものを
話すことで、異文化理解や国際協力って、
どういう意味があるのか、を
話すようにしている。

異文化との交流で得るものは、
相手の価値に触れるということ。
つまり、自分の価値を疑うチャンスがあるということ。
これが一番大きい。
当たり前と思っていたことが、当たり前でなくなるチャンス。
常識が、実は常識じゃないことの気が付けば、
そこにあらゆる価値の変容のダイナミズムが待っている。
それは、そのかかわる地域にとって
変化していくためのダイナミズム。

僕らがかかわり続けることの意味は、
まさにそれなのだ。
自分の地域の変容と
相手の地域の変容を手助けしてくれる
ダイナミズムを起こす力。
その力を生み出すために、僕らはかかわり続けている。

僕は、「風土」という言葉が好きだ。
地域を風土と呼ぶが、それは
その地域が風と土で出来上がっているからである。
土は、地元の人間。
風は、よそ者。
つまり異文化の人間たちがかかわりあっていく中で
変容のダイナミズムが生まれ
そこから新しい地域の地平が開けてくる。

高校生向けにバカ話やオモシロ人類学のような話を交えながら
それを笑う自分たちの価値と
それをまじめにやっているあちらの人間の価値に
気が付いてもらい、
その違いのぶつかり合うところ(バトルフィールド)が、
新たな風土を生み出すことを
1時間30分ほどの話させてもらった。
どこまで伝わったかは不明だが、
帰りに、控室まで案内してくれた女子生徒は
やや興奮気味に
「異文化理解の先にあるものまで考えたことがなかったです!」
と嬉しそうに感想を述べてくれた。

最後の質問で、ある生徒が
民族間でもめ事はないのか、と聞いてきて、
ある生徒は、インドネシアとの友好関係を深めるために
個人でできることは何か、と質問してきた。
この2つの質問は、ある意味同質なものだろう。
個人でできることは、個人と個人の関係をたくさん作ることだ。
国際ではなく、民際。
そこにナショナリズムは、入らない。
民族なんてものが、表面に出てくるから
個人の関係がすべて吹っ飛んでしまうのである。
尖閣諸島だかなんだかわからないが、
そういう議論を始めると、そこにある種のナショナリズムが生まれてくる。
それはとても危ない。
国益が個人の利益に直結しないことは、
僕らは歴史の授業で嫌というほど学んできたのに。
だのに、国益、国益、国益なんて言葉を
使う連中が山のようにいるのが、僕には理解しがたい。
個人的に世界を見ていけば、
その国益なんて、あまり関係のないことに気が付く。
僕らがもっと個人的にやらないといけないことが
他にもあることに気が付くだろう。

風土を創り上げる。
それが、協力隊から帰って10年経った僕の
今の答えなのである。

関連記事
ある新聞社から取材を受ける。
ちょっとしたきっかけで、ある文章を書いて、
それに対して
ある賞をいただくことになった。
だが、その賞自体は、ちょっと本意ではないところもあるのだが
それはまた今度書こう。
今回は、それに関係してのインタビューを受けた話。

ある文章とは、どうして就農して、
どうして今のような研修事業を行い、
どうして今のような農業をしているかを
自分なりにまとめたもの。
なのでインタビューでは、これまでの自分の歩みについて
いろいろと聞かれた。

さて、そのインタビューで一番答えに困ったことは
「田谷さんはこれからどういう農業を目指しているのですか?」
という質問。
こうずばっと聞かれると、僕も悩む。
僕は一体何をやろうとしているのだろうかと。
研修事業では、インドネシアの農業と地域開発に
自らもかかわっていきたいという姿勢で臨んでいる。
新規就農者を受け入れるのは、地域の農業発展と
僕の農園の経営的な改善を目指して受け入れている。
多品目をつくるのにこだわっているのは
施設園芸であっても輪作を基本とした
土の肥沃化を目指した永続的な農業の可能性と
経営的には、多品目のイメージをつけることで
うちの独自ブランドを作り上げようという意図がある。
(その割には、販売は場当たり的なのだが・・・)。

一つ一つには僕なりに理由もあり、
意図もはっきりしているつもりだが、
でも、それらをひっくるめて、僕の目指す農業とは?と
聞かれると、言葉に窮する。
それぞれがゆるやかに関係はしているが
何か一つの共通した目的とゴールを持っているわけではない。

経営的に言えば、
多品目自体、あまりハウスの利用効率も良くない。
人を雇用する立場からも、経営的な計算がややこしく
儲からない作物まで作っていることを考えると、
合理的でもない。
経営にこだわるのであれば、
雇用や研修生を受け入れている立場から言えば
少品目を大量に作ることで
作業のマニュアル化が可能となり
品質の向上も図れるはずなのだ。
先日、普及員の見学を受け入れた時も
いろんな普及員から、その指摘を受けた。
たぶん、その指摘は経営学的には正しい。
雇用でやっていくのなら、絶対、その方がいい。

だのに、僕はそれをしない。
非効率で、僕ばかりが忙しくなるようなやり方で
多品目と複雑な作業に毎日追われている。

雇用の形態もよくない。
研修生ばかりで、長く一緒にやってくれる仲間が少ない。
本当であれば、長く一緒にやってくれる仲間が居て、
+αで、研修生がいるのが普通ではないだろうか。
だからいろいろと作業を教えても、
その人は勉強になるだろうけれども
僕の農園の経営としては安定しない。

それぞれの部分が、それぞれに自己矛盾をはらんでいる。
だからインタビューを受けていて、
その記者さんから
「農業の生産現場というよりも、なんだか学校みたいですね」と
言われるのだろう。
そう、ここは今、なんだか学校のような観もあるのだ。
それは僕の本意でもあるので、それはそれでいいのだが
その反面、
僕の経営面で、矛盾が表面化しているのも事実。

走りながら考えています。
そう僕は答えるようにしているが、
一見かっこいい答え方のような気もするが
その実、あまり先を考えず、とにかく場当たり的にやっているとも
言えるだろう。

僕は、トータルで一体何を目指しているのだろう。
僕もわからない。
それぞれの活動ややり方が、それぞれを批判し
お互いに矛盾し始めているのはわかっている。
だから、トータルで僕が目指すものは何かを
僕自身が見つけないといけないのだろうけど、
なんだか、ぼやけてそれはまだ見えない。
関連記事
ごんぼ(ごぼう)の収穫が始まっている。
天候が不順でなかなか掘れないのが、
頭が痛いところではあるが、
それ以上に、頭が痛いことがある。
それは、今年のごんぼの出来。

観測史上、例を見ない猛暑の影響で
夏にごんぼ畑の水が切れてしまった。
枯れることはなかったのだが、
生育が不良で、例年のような太いごんぼがとれない。
今年の畑は、場所が良かっただけに(竹林の前の畑・七字の川上の畑)
残念でならない。
収穫作業は、細いごんぼばかりで楽なのだが
その分、楽しみがない。

今年は、収量も少なく、細いごんぼばかりになるだろう。
いつもよりも早く売り切れると思いますので、
ほしい方は、早めにどうぞ。
関連記事
日本人農業研修生との勉強会。
今は、青山浩子 著 「強い農業をつくる」を
みんなで読んでいる。
この本では、農業の様々な先進事例を紹介していて
なかなか面白い。
書評は書こう書こうと思っているのだが、
まだ書けていない本の1冊。

さて、その本の
序章と1章を読んで、それぞれ採用してみたいこと
また事例に対する批判などを
簡単にレポートにまとめてもらい、
それを勉強会でディスカッションした。

この本の1章では、安全を常に意識せよ、という
表題がついているように
食の安心安全への取り組み事例が紹介されている。
天敵農薬の事例、JGAP(Japan Good Agricultural Practice)を取り入れる事例、
トレーサビリティ、硝酸濃度を考慮した販売戦略などなど多彩。
その中でも、JGAPへの興味や批判が
研修生のレポートの中で集中した。
つまり、そういう農業に関心があり、かつ、疑問もあるというわけか。
そして、たぶんそれは今の僕の農園でのやり方が
それと大きく関係しているからでもあろう。

僕の農園では、僕と父が中心となって
農作業の段取りを行っている。
僕か父が指示を出さないと、皆は動けないのが現状でもある。
それぞれが考えて、それぞれの部門で動けるようにしたいのだが
僕にはそのアイディアがいまいちない。
たぶんそんな職場環境が研修生の
レポートに反映しているのかもしれない。

それぞれの作物の栽培に関して、
作業工程の明文化は、そこまで必要なものかどうか
僕も少し迷うところはあるが、
勘と経験に頼る農業ではいけない、と
林君に指摘されるまでもなく、僕も思っている。
誰がやっても、ある程度の品質になるような
そんな作業工程というか知識の共有化が
必要なことは感じている。
そういう意味では、僕がイメージしているのは
GAPではなく、ナレッジマネジメントと言ったほうがいいだろう。
ま、呼び方やカテゴリがなんであれ、
知識と経験の共有化が、
目下、僕の農業の目指す一つの道であることは間違いない。
研修生とのディスカッションで
それに改めて気付かされた。

共有化にかんしてだが、
太田君の以前の経験から
日報などは書いても、ルーティン化されていて
あまり活用していなかった、とのこと。
ただ、月ごとの作業内容を簡単にまとめたものがあり
今月やることが明文化されていたものは
わかりやすかった、とのこと。
今月の作業として何があるのかをわかっていれば
人は自ら考えて動けるようになる。
農業の現場だけではないだろうが、
人が自ら動けるような場を
動けなくしているような足枷をどんどん外していくことこそ
大事なんだろう。
この毎月の作業内容をまとめたものは、すぐにでも採用したい。

そういえば、協力隊の時も
カウンターパートであれ、
農家であれ、
普及員であれ、
こうした知識の共有と
それぞれがそれぞれに同じ目的に向かって
動けるような仕組みが必要だと
よく議論していた。
つまり、あの時から、論点は変わっていないということか。
関連記事
うちで働いている若手と
僕の家で飲む。
セネガルの巨人、イブライ。
英語堪能で中小企業診断士の資格を持つ異才児、林君。
国際経験豊かなパラグアイの野菜隊員OBの酒井君。
弱冠24歳にして、農業経験豊富の大型ルーキー太田君。
ちなみにインドネシアの研修生はお酒を飲まないので
今回は不参加。

こう顔をそろえて飲むと
なかなか壮観。
人材不足だと嘆く農業界が
どこか別の話のようにも見えてくる。

彼らの夢はそれぞれだ。
イブライは、いつかはセネガルに農園を持ちたいと思っている。
一緒にやろう、と誘われているので
いずれはそれもいいか、と半分本気で思っている。
(ちなみにインドネシアでの農園経営も研修生から誘われており、そっちのほうがより現実的か)

林君は、就農できる農地を探している最中。
この近くであればベストなのだが、
なかなか見つからない。
担い手がいないのだが、貸してくれるところがあまりない。
僕が借りるだけでも難しい状況で
彼の土地を探してあげられない無力さをよく感じる。
ちなみに、彼は体験型の農園をやりたいと言っていた。
異才児がどんな農業を考えているのか、
とても関心がある。

酒井君は、来年の就農を目指している。
農地はあるので、あとはふんぎりさえつけば
すぐにでも大丈夫だろう。
農業技術的に問題があったとしても、
それは些細な程度でしかない。
何を目指すかは、最初から見えているものじゃなくて
走りながら、だんだん見えてくるものだから。
ちなみに、僕も何をやるべきかは
自分でもよくわかっていない。

太田君は、とりあえず僕と一緒にやろうと言っている。
いろいろやりたい農業はあるようなので
それを一緒にできれば、と思う。
僕にも仲間が必要なのだ。

かつて僕が24歳だった時を思い出す。
あの時は、僕は協力隊に参加していて
任地では、他10名程度の隊員と一緒に
チームを組んで活動をしていた。
皆年上の方ばかりで
経験も豊富な人ばかりだった。
そして何より、それぞれがそれぞれに
やる気があって夢があった。
もうあんな雰囲気の職場はないだろうな、と思っていたのだが
図らずとも、今、僕はその環境にいる。
そしてそれは、あの時のチームと同じで
期限付きの集まりでもある。
しかし、またあの時のチームと同じで
何かをやろうとする時の「力」をものすごく感じる。
僕の農園経営だけに向けられるだけでは
とてももったいない力を感じるのだ。
なにか農業界を揺さぶっていけるような
根本から変えられるような
そんな力を感じる。
それはたぶん、それぞれが持つ
未来予想図の魅力なのかもしれない。

人の集まる場所に、力が生まれる。
そう信じてきて、就農からその場を作ろうと
常々思ってきた。
それは短期的なイベントというわけではなく
協働していく農業の現場として、である。
これからも、その道を僕は歩んでいきたいと思うが
ただ、そこに生まれる力は、どの方向へ発揮していくべきなのか、
実はそれがまだ定かではない。
僕個人の農園経営にむけるべきではない、とだけは
わかっている。
もう少し、オールスターの仲間たちと一緒に走りながら
その力の方向を
考えていこうと思う。
関連記事
週末は釜山にいた。
ある団体の旅行で2泊3日の日程だった。
ツアーだったのだが、
2日目は、無理にわがままを言い、
団体とは別に、自由に行動させてもらった。
街をそぞろ歩きしながら、
スーパーや商店街を歩いて回った。

短い期間の旅行でもあるため
物価については詳しくはわからないが、
どこへいってもやたらとズッキーニを見かけたのには驚いた。
少なくとも福井のスーパーでは、
そんなにポピュラーな野菜ではないのだが
商店街の外れで営んでいた野菜の露天商でも
立派なズッキーニが売っていた。
価格は日本とほとんど変わらない(円高のためやや安い感はある)。
そして、それと対照的だったのがアボガド。
日本円に換算しても、数倍の値段だった。
ガイドに後になってから尋ねると
アボガドはほとんど食べないという。
食べないから高いのか、それとも高いから食べないのか
それは定かではないが、
それだけが日本での値段と大きく違っていた。

スーパーも商店街もやはりメインはキムチや乾物だった。
生野菜も多くあったが、
ベビーリーフは、大きなデパート以外では全く見かけなかった。
規格や価格はそれなりによかったのだが
品質が悪かった。
あまり売れていないのだろうか。

カット野菜もあったのだが
それはサラダという大きさよりも
サンチェのように肉などをまいて食べるような
大きさのものばかりだった。
その種類は多く、
ホウレンソウやレタスばかりでなく
ふだん草まであった。
セロリもなぜか同じ大きさでカットされて並んでいた。

大きなデパートにはオーガニックコーナーが充実していた。
生の野菜は少なかったのだが、
加工品とコメがたくさん並んでいた。
その中でも、一番高いコメは、日本円に換算すると
1キロ800円という驚きの値段で売っていた。
そんなコメが売れるのかどうかわからないが、
日本円に計算している間に、
若い女性がその米を買っていった。
オーガニックがそれなりにブームなのか
ホテルの地元テレビでも、
ナシの自然農法農園を取材していた番組を見た。
農薬や除草剤を使用しないナシ園の紹介をしていた。
言葉がわからないので詳しくは不明。

ガイドの話では、この異常気象の影響を受けて
一時白菜の値段が高騰したらしい。
その影響を緩和するために、緊急に中国から白菜が輸入されたのだが
消費者はあまり買いたがらないとのことだった。
農薬や寄生虫問題があるからだ、とのこと。
輸入用の野菜は土がついていないようにきれいに洗浄されている。
だからきれいな野菜が、あまり売れないとも言っていた。
地元の野菜は、土がついていてある程度汚れているほうが
売れるらしい。
きれいな野菜=輸入野菜(中国)という認識があるのだとか。

それが本当かウソかはわからないが
商店街の八百屋だけでなく、
大きなデパートの地下の食料品店でも、
地元産のホウレンソウは、プラスチックの袋には入っておらず
テープで束ねただけで、株元も土で汚れていた。
日本だったら、そういう野菜はあまり売れないだろうが
きれいな野菜に対して、そういう認識があるのであれば
きれいに袋詰めするインセンティブは生まれないだろう。
包装の技術がないのではなく、
人々のもつ意識が、包装の形を変えているのが
とても面白く思えた。
だとすれば、日本の過剰包装もまた
人々の持つ意識の表れなのだろう。

坂の多い雑多な街・釜山で、
ホトックというB級グルメの揚げ餅を頬張りながら
そんなことを思った。
関連記事

田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
taya.tアットマークnifty.com
です。
(アットマークを@に置き換えて送信ください)

プロフィール
10 ≪│2010/11│≫ 12
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -
カレンダー(月別)
カテゴリ
月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

メールフォーム

Page Top

Powered by FC2 Blog |

FC2Ad

| Template Design by スタンダード・デザインラボ