新しい人材を採用することになった。
新規就農を希望している方で、もともと福井の出身の方。
まったく別の業種にいて、外資系の企業で英語も出来て、高学歴。
給料もさぞや高かったのだろうと思うのだが、
あえて、この道に入ってきた方。

たぶんなのだが、彼が目指すところは
僕らのような土臭い
それでいて、地元からしか物事を見ようとしない農業では
ないのかもしれない。
でも、とりあえず、うちで1年研修することになった。
まったくの別業種を生きてきた彼の視点が
僕の農業観を大きく揺さぶってくれそうで
それはそれで、とても楽しみである。

実は、青年海外協力隊の帰国隊員対象に
求人情報も出していたのだが、彼を採用することに決まったので
それは取り下げることにした。

とにかく、
今、僕らにとって
そして、この地域にとって
まったく新しい視点が必要なのである。

4月から研修生でくるインドネシアの子も決定した。
その子と別業種から新規就農を目指して飛び込んでくる彼。
そして、セネガルのI君にインドネシア研修生のH君とイル君。
少しにぎやかになるが、
ここに集まってくるこの力を
僕は、この地域の農業を大きく揺さぶる力にしたい。

僕が留学から戻ってきてから、心の中で描いていた「場」が
どんどんと出来つつある。
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前回のエントリーで、長文のコメントをもらった。
現場からの生の意見。
それに答えるために、書いていたら、
こちらも長文になった。
どうせなので、そのままエントリーとして載せることにした。

以下、コメントへの僕の答え。



ベジータさん、コメントありがとうございます。

現場からの生の意見だけあって、
とても難しく、僕が上手く答えられるかどうか
解らず、コメントが遅くなってごめんなさい。

当時の自分を思い出すに、
ベジータさんとの状況が違うので一概には言えないと思いますが
僕も、技術移転先は農家であれば十分だと思っていました。
行政との連携に煩わされることなく
農家への指導に力を入れていました。
だから農家の方も、僕個人を普及員として高く評価してくれました。
最近まで僕はそれで良い、と思っていたのですが
同じ頃に、畜産で活動していた女性隊員(同期)の
牛のレボルビングシステムが、
当時からのカウンターパートの頑張りで発展的に持続していることを
目の当たりにして、
僕の姿勢は果たしてそれでよかったのか、と思うようになりました。

技術的には各農家に沈殿している部分があるのでしょうし
みんながみんな、野菜を作って経営を成り立たせる必要はないと思います。
それぞれの経営体の中で、畜産や他の換金作物を生産することもあるでしょう。
ましてや、それが活動を終えてから10年という歳月が経ってしまえば
その間の様々な経験や状況の変化によって
当時の面影はなくなってしまうことも多いにあります。
僕は、今回のエントリー(愛しのアレジャン集落 第38話第39話)で
問いたかったのは、
野菜はなぜ消えたのか、ではなく、
牛はなぜ消えないのか、だったのです。

僕の活動した地域が
野菜作りの盛んな地域になる必要もないですが
それを推し進めるのも
それを維持して発展していくのも
当時の僕は、農家次第だと思っていましたが、
どうもその考えが甘いというか
そんなこともないというのが、今回のことで見えてきました。

Farmer to Farmerの波及効果はあると思います。
エントリーでもでてきたM氏の養鶏が何よりの証拠です。
それを支えるものが行政でなくても良いのは、
それからも解ります。
ただ、生産を持続させていく中で、
市場の刺激や外部からの刺激が常になければ
それらは持続していかないし、持続させる必要性もないということです。
M氏は野菜ではなく養鶏を選び
行政ではなく、民間資本を選び
そして持続的に市場からの刺激を受けて、
自身の養鶏を大きく発展させています。
牛の活動は、
行政官の頑張りと携帯電話の普及で
市場と行政からの刺激を受けやすい形になることで
持続していると言えるでしょう。
だから、そういう刺激を受ける構造が
出来上がっていれば(それに乗っかる形で)、
もしくは自ら作り上げることができれば
僕らは、個々の農家への技術移転だけで考えれば良いのかもしれません。
自分が普及させようとしているもの
力を入れようとしているものが
その地域のなかで、どういう価値の位置づけになっているか
市場や行政・民間から評価を持続的に受けていけそうかどうか
そこに鍵があるような気がします。

僕が地元で農業をして
売れない・変わった野菜を延々と作っていますが
それらにしても、徐々にですが市場で評価を受けるようになっています。
妻が以前こういうことを聞きました。
「変わった野菜はみんな作るけど、売れなくてやめていく。どうしてあなたのだけ、結果として売れていくの?」と。
答えは簡単です。
売れるまで作り続けるから、です。
変わった野菜を作る、あいつに言えば何でも作ってくれる、
そういう評価が市場内で僕に対してある程度付いてきました。
それが僕の販売戦略の一部にもなっています。
そういう市場の刺激を狙って
僕は僕自身の経営を考えていますが
それは、振り返ってみれば、僕の任地での農家と同じことだと思います。
刺激を受けられる状況にあるかどうか
それが大切なんだということに、いまさらながらですが
気が付いた次第です。

ベジータさんたちが推し進めている有機農業の農家への普及は
隊員が帰国後は、農家はどこから刺激を受けていくのか、
それが見えていれば、その刺激に合わせて活動の形は変わるかもしれませんが
その路線で持続すると思います。
ただ、僕の場合のように
隊員の存在自体が刺激となって活動が続いているのであれば、
それは、結果は僕と同じになるかもしれません。
歳月の中で、周りの状況も変わっていきますから
今の時点では言いきることはできませんが。

隊員は置かれた状況が、G to G(政府と政府)でもあるので
行政の中で、思考が固まりがちですが
いったん離れてしまえば、
僕の場合ですが、どうしてもっとビジネス的に出来なかったのだろうか
と疑問に思うこともありました。
むら全体の平等性なんかにもずいぶんと気をとられていましたし。
身近な市場や人間の関係性(行政や民間)からの刺激を
常に受けられるような真っ当なビジネスとしての社会企業の視点が
もっと必要なのかな、と僕は最近思っています。

ベジータさんの問いに答えられているかどうか
甚だ疑問ですが、これが今、僕が持っている答えです。
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タイの民間資本でブイブイいわせているMさんの発言には
僕らのやってきた活動に、いわゆる落とし穴があったことを意味している。
それは、野菜指導の深度が浅かったことではない、と思っている。
手前味噌で、こういうことを書くのもどうかと思うのだが、
Mさんをはじめ、他の農家グループから
僕が帰国する時にこう言われていた。
「うちら農家でお金を出し合って、お前に給料を払ってやるから、タヤはこのままここに留まれ。」
青年海外協力隊として、これ以上の褒め言葉を僕は知らない。
僕がやってきたことは、村人にとって大きな損害を与えたものもあり、
その社会が持つ価値からもかけ離れたものもあったにも関わらず、
僕個人を農家のおっさんたちが雇いたい、と言ってくれたのである。
これはそのまま、僕の活動の評価だったと僕は今でも思っている。
とても誇らしく思っていたし、
とても大事な思い出になっている。

しかし、だ。
実はこの言葉が意味していることは、他にもあった。
それは10年経ってみて、初めて見えてくる社会の変化の中に。

僕らが現場で活動していた90年代の後半は
ある考えが、至極当たり前のように、
また、それでなければ正当性が無いかのように語られていたものがある。
それは「参加型開発」。
これから現場に行こうという人間には、
誰しもロバートチェンバースの本を勧めたし
分野を超えて、みんなとりあえず持っていたような気がする。
(僕も持っていったのだが、積読のままだった)
その本に何が書かれていたかの詳しい説明は割愛するが
要は、村人に目を向けようというものだった気がする。
村の中の強者弱者を知り、
その中で貧困となっている人をできるだけ前に、
そして持っている人(金持ち)を後ろに、しようという考え方だった。
だから僕は、任地の地元行政が普及対象農家として認めようとしない農家にも、
村内の、もしくは農家グループの推薦さえあれば、
どんどん普及の対象者として、研修に連れて行ったり、
農家グループのメンバーに入れて、一緒に活動したりした。
それは、
読み書きのできない人
土地の少ない人
若者などなど
だったりした。
(当然、女性も入るのだが、その当時の僕はそこには踏み込めなかった)

そんな僕の目からは、
任地の地元行政と一部の村内の権力者が結託しているようにも見えた。
だから、僕はできるだけ行政とつながっていない人と
活動を共にするようになっていった。
そうして、僕は表面上は地元の農業事務所からの要請で
各事業を行ってはいたが
中身は、僕と農業事務所との連携・連絡はほとんどなく、
どちらもお互いにサイトを持ち、不可侵な関係を作り上げていった。
そうした考えと活動の結果が、
上記の農家からの言葉
「タヤを雇いたい」
につながるのである。

協力隊は、技術移転がその存在の大きな意義になっている。
だから、僕にとっての技術移転先が、当然、地元行政官の中に
カウンターパートとして存在していた。
農業事務所に1人。
そして僕の活動につきっきりの人が1人の計2人。
そのうち農業事務所のカウンターパートとはほとんど行動を共にしなかった。
雨が降れば、村の巡回を嫌がるし
指導が必要な畑までの道が泥まみれだと行かない。
公務時間内でも、帰りが遅くなりそうな場合は、
一緒に村には行ってもらえない。
そんなことが続いたため、僕は農業事務所のカウンターパートを
完全に見限っていた。
これだけだとフェアじゃないので、
もう1点、理由がある。
それは僕がインドネシア語で上手に意思疎通ができなかったこと。
だから、カウンターパートと深く議論することは出来なかったので
表面的な相手の態度だけで相手を判断していたことは否めない。

さて、もう一人のカウンターパートはどうだったのだろうか。
つきっきりで行動を共にしたカウンターパートは、
行政から一時的に雇われている、いわゆるアルバイト的な立場だった。
その不安定な立場から、僕らの活動よりも
自分の給料が少ないことばかりが気になっているような人だった。
自由に村に入ってもらうために貸与したバイクは、
「怖くて乗れないから、妹のだんなが使っている」
と言い、彼は自力では村に入ろうとはしなかった。
また汚れる仕事を嫌い、
「僕はデスクワークの方が向いています」
などと言っていた。
そういうこともあり、僕はだんだんと1人で村を巡回するようになっていった。
僕のカウンターパートは篤農家だけ、という意識が
任期途中からはあった。
技術移転先は、直接、農家であればいい。そう思っていた。
たぶん、その頃に一緒に活動した野菜指導の隊員も
同じような理由で、1人で活動していたように思う。

ロバートチェンバースの斜め読みと
地元行政官との関係から
野菜指導は、僕ら日本人だけで推し進めていたのである。

では、牛はどうだったか。
牛隊員が畜産事務所と具体的にどう連携していたのかは解らないが、
彼女につけられたアルバイト的カウンターパートは優秀で真面目だった。
彼は頻繁に畜産事務所に赴き、連絡をやり取りしていた。
そんな彼を牛隊員の彼女はずいぶんと頼りにしていたように見えた。
牛のレボルビング活動も一緒に村に入り、指導していたようだし
彼を日本の地元の畜産試験場へカウンターパート研修にも行かせていた。
そういうこともあってか、彼は情熱を表にするタイプの人間ではないのだが
牛のレボルビングシステムについて、熱く語るようにもなっていった。
そして、協力隊員のプロジェクトが終わると同時に
彼は、アルバイト的な立場から
正式な公務員の立場に変わり、
現在まで、牛のレボルビング活動を続けているのである。

牛が残り、
野菜が消えた理由はいくつかあるのだろう。
だが、その1つに、
僕ら隊員のアプローチの仕方に違いがあったことは否めない。
それは個人的な能力の差なのかもしれないが、
その時の状況だったりもする。

今回の任地調査で
公務員になった牛のレボルビング活動をしている彼とも話をする機会があった。
どうして牛が増えたのか?という僕らの問いに
彼は、
「携帯電話の普及が大きいかもしれません」と答えてくれた。
以前は、牛を好条件で貸与するといっても、
「いらない」という村人も多かった。
それは、牛を飼ったことがない、という理由もあったのだが
多くは、どう売ったらいいのか解らない、
また、売るために牛を市場までは連れて行けない、
商人と連絡を取ったことがない、などの理由でもあった。
それが、携帯電話が普及することで
「電話一本で、買い取り商人が村に来てくれるようになりました」
と公務員になったその彼は話してくれた。
また、牛が病気になっても
わざわざ町まで知らせに行かなくても、携帯電話で指導員に連絡できるので
病気の対応も楽になったのだとか。
携帯電話の普及が、牛を飼うこと・売ることのハードルを下げてくれたようでもあった。
僕の親友であるアレジャン集落に住むサカルディンも
「おれも今年は、JICA牛のレボルビングシステムに登録して牛をもらいたい」
と話してくれた。
村の中では、ずいぶんとブームになっている様子だった。

なるほど、携帯電話の存在が
いろんなハードルを下げてくれるのだろう。
いろんなところへのアクセスがそれだけ容易になることで
中間搾取からも逃れられる。
では、同じような理由で、なぜ野菜は普及しない?
育苗所に勤めているある所員が答えてくれた。
「せっかく大きな育苗所があるのに、JICAが活動した地域では、野菜作りが盛んじゃない。注文はあるけど、本数が少ないんだ。自家消費のために野菜を植えてるんじゃないかな。JICAが力を入れてきた農家も、もう野菜は作っていないみたいだし。その代り、他の地区で野菜作りは盛んで、そこからの注文でここは大忙しだよ。数千本単位で注文が入るからね。もともとその地区は野菜作りをしていたけど、最近はもっと盛んだね」
と話してくれた。

牛のように、携帯電話が商人や指導員との距離を近づけ、
輸送や買い取り、病害虫の対応などの問題を解決してはくれなかった。
ひとつには、僕ら野菜指導をした隊員が行政との連携を怠ったからかもしれない。
だが、それだけではなく、
もともと牛は、その社会的に価値のある存在であったのだが
野菜は、まったくの新規事業で、社会的な価値・評価は曖昧だった。
そして、僕ら野菜指導をした隊員、その中でも特に僕なのだが、
生産的な指導は出来ても、流通・販売に関してはほとんど素人同然で
当時の僕では、流通経路の確立にまで至らなかったのである。
農業経営の刺激となる市場や販売が曖昧なまま、
僕らは生産に力を入れていった。

そうして僕が帰国するときに
「タヤを雇いたい」と言われて
僕は舞い上がっていた。
だが、その言葉は褒め言葉でも何でもなく、
僕のアプローチの失敗を言い表していただけだったのである。
行政との連携、販売の確立、そして社会的に価値のあるものだと認められること。
そのすべてにおいて、
僕は失敗したのだ、と、はっきりと見えてきた、
そんな調査旅行だった。
関連記事

今年早々インドネシアに行った。
その時のことを少し書こう。




愛しのアレジャン集落 第38話 牛と野菜



廃れるんじゃなかろうか、と思ったものが、発展しており
これからこれが発展する、と思ったものが、いつの間にか消えていた。
それは牛と野菜。


2006年を最後に、僕はかつての任地に足を運ばなくなっていた。
僕と任地を結んでいた絆が、それだけ弱くなったわけではなく、
僕がかかわっているインドネシアが、かつての任地だけでなくなったこと。
そして、家族が増えたことで、
思ったよりも身動きが取れなくなったこと。
さらに、僕自身が農民として、その深度を深めれば深めるほど
僕はどこへでも自由に行けなくなり、
また行く必要性も、自分の中で前よりも少なくなってきたこと。
そんな理由で、僕は協力隊終了後、毎年のように通っていた任地に
行かなくなっていた。

だが、2010年の正月。
僕は、再びかつての任地「バルー」を訪ねることにした。

僕がかかわっていた協力隊のプロジェクトが終了したのは1999年12月。
それからちょうど丸10年が経った。
10年間の社会変容と僕らの活動は一体どう社会に埋め込まれているのか、
それが知りたくて、僕は妻と娘と3人でバルーへ向かったのである。

10年くらい経っていると、
僕らが協力隊で活動したことは、とっくに消え去っているものだと思っていた。
それは一部では、内面化されて、
すでに任地の村人たちの日々の生活の一部になっているに違いなく、
そしてまたある一部は、完全に自分たちの生活スタイルに合わなくて
放棄されてしまったものもあるだろう。
だから、僕らが力を入れてやってきたことなど
昔話の中で語られるくらいで(それも個人名などは忘れ去っているに違いない)
表面的に見えているものは、ほとんどないと思っていた。
だからこそ、こういった変容をみる調査を
どのようにデータをとれば良いか、行く前から考えていたが
まったく案もないまま、とりあえず任地に行くしかなかった。

しかし、だ。
任地に入る前に、以前カウンターパートとして
一緒に活動をした人から、話を聞く機会があり
その人から
「あの時の活動で配った牛の頭数は増えてますよ」
と聞かされて、愕然とした。

少し説明が必要だろう。
僕が派遣されたころに、一緒に1人の女性隊員が派遣された。
彼女は家畜飼育指導の隊員だった。
前任の隊員から、牛の活動を引き継いでいた。
そして前任からあった計画として、住民に牛を貸与して
子供が産まれたら返してもらい、その牛を他の住民に貸し付けるという
牛のクレジット活動を行っていた。

以前書いたように(牛銀行を参照)、この地域では牛をよく野放しに飼っている。
牛は富の象徴であり、
まさに「歩く金」(ある行政官の言葉)だった。
お金に余剰が出来れば、牛を買い、
そして放牧(野放し?)していた。
いたるところに牛が歩いていた光景を今でも思い出す。

しかし、牛隊員の彼女の活動は平坦な道のりではなかった。
貸し付けた牛がなかなか子供を産まなかったり
病気になったり、と順調には数が増えなかった。
1年に上手くいって1頭しか生まない牛は、
2年間しか活動の期間が無い隊員には、合わない活動のようにも
当時の僕からは思えた。
毎日村に入って牛の状況をチェックして歩いていた彼女だが
「牛が増えない」「牛が生まない」「牛が病気になった」
などなどを1人こぼしていたのを、僕は今でも覚えている。
だから彼女が任期を終えて帰るまでに、
何頭の牛が本当に返却されて、それが次の住人の手に渡るのか
甚だ不安な活動に見えた。
折しも、僕らがいた時代は、インドネシアの大不況。
協力隊のプロジェクトが終了して、僕らが居なくなれば、
どうせ“ただ”でもらったものだから、
みんな一斉に牛を売っぱらってしまうんじゃないか、
そんな雰囲気に満ちていた時代でもあった。

それがなんと10年経ってみて
ちゃんとレボルビングシステムとして機能していたのである。
徐々にではあるが、確実に頭数を増やしながら。

一方、僕ら農業指導隊員の活動はどうだったか。
2006年までの調査でほとんど答えは出ているのだが、
今回も確認までに話を聞いてきた。
僕らが力を入れて、野菜の篤農家にしようとした農家が数名いる。
それぞれの集落でリーダー的存在で
影響力も大きい。
その人が野菜栽培で成功すれば、他の農家へも波及するに違いない。
そう考えていた。
野菜栽培のバックアップとして、大規模な育苗所も建てた。
良い苗が潤沢に行きわたれば、野菜栽培も盛んになると考えてのことだった。
育苗所は、建設から地元行政による施設運営まで
さまざまな問題を抱えてはいたが、
僕が帰国するまでには、予算もつき、ある程度動き始めていた。
これからこの地域(任地)の野菜栽培を支えるために。
今回の調査でも、育苗所は機能していた。
というよりも、さらにレベルアップして、運営面でも技術面でも
大きな前進をしていた(苗の品質に少々難を感じたが)。

だのにである。
僕らが活動した野菜栽培は、今、跡形もなく、
その痕跡を見つけることすら難しい状況になっている。
僕らが力を入れた篤農家も、野菜栽培を止めて久しい状況で
1人は、牛の肥育事業に熱心になっており
1人は、タイの民間資本で養鶏事業をやっており、
1人は、農業はそこそこに、村の行政官になり、
サラリーと海外からの援助事業で生計を立て
そして1人は、僕らが来る前の米と落花生を作る農家に戻っていた。

僕らが見込んだ通り、それらの人物は他の農家への影響力を発揮して
牛の肥育事業や養鶏事業は、周りの農家へ大きなインパクトとして波及していた。
それらの事業は、その地域ではちょっとしたブームを起こしていた。
だのに、野菜栽培は継続されず波及しなかったのである。
あんなに投入したのに。

どうしてなのか?
その答えの一つは、養鶏事業でブイブイと鼻息の荒いMさんから聞くことができた。

「野菜は、もう作ってないよ。全く作ってない。タヤが帰ってから、しばらく作ったけど、県の農業事務所から誰も来てくれないし、フォローアップもなかった。県の会議でも言ったさ。『俺はJICAのPembina sayur(野菜栽培の指導者)だ』って。だけど、県側は誰もこの技術を活用しようとしなかった。野菜のプロジェクトは何にもなかったよ。だから、こっちから見限って、タイ資本の民間事業で養鶏をやることにしたんだ。すごく儲かるしやりがいもある。周りにもどんどん勧めているよ」

との答えだった。
事実、彼の集落の周りでは、以前は全く見られなかった養鶏場が
あちらこちらに散見できた。
本当ならば彼が普及を推し進めていくはずだった野菜作りは、
養鶏場が普及していればしているだけ、
その普及しなかった現状を、より印象的に際立出せていた。

つづく

関連記事
世界農林業センサスの説明会に参加。
今年、むらの農家組合長を仰せつかっており
その関係で、うちのむらでは、僕と前組合長とが
世界農林業センサスの調査員になってしまっている。

昨年秋に、市役所から農家組合に対して、
世界農林業センサスの調査員を推薦してほしい、と通知が来たのだが
こんな面倒な仕事、若輩者である僕らが、ほかの年寄に頼めるわけもなく
(うちのむらでは、農家組合は若い者がやるむらの役のひとつ)
仕方なく、僕と前組合長とで調査員をやることになった。

さて、夜に公民館で行われたセンサスの説明会。
僕はとある事情で、自分の地区の説明会には出席できず
他の地区で行われた説明会に出席。
膨大な資料を渡され、
いかにも農水省が作りましたという感じの調査説明ビデオを見ることになった。

一応、これでも社会学をかじってきており
かつ、自分で農業もしており、
また、むらの耕作状況もある程度は解っているので
調査員となってもそれほど難しくはないのだが、
一般の人が調査員だと、すこし“しんどい”作業になるのではないかと感じた。

実際に、僕の近くに座っていた会社員風のおっさんは
「こりゃぁ、わかんねーな」を独り言のように連発して
説明の途中から携帯電話をいじっていた。

僕の調査対象者は35名。
これを1週間ほどで回る。
市役所からの説明では
「個人情報でもありますし危険がありますので、夜は回らず、明るいうちに回ってください」
とのこと。
うちのむらだと昼に回れば、
耕作状況は解らなくて、適当なことばかり言う婆さんばかりが
応対してくるだろうけど、それで良いんだろうか?

とにかく、ひとつ面倒な仕事を押し付けられたようである。
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週末、知人が来福。
昔からお世話になっている方と
協力隊時代に一緒に仕事をした友人とその奥さん。
蟹を食べつつ、お酒を飲みつつ、
それぞれの話を聞いた。
どの人も、今年が大きな挑戦の年のようである。
かつて、バルー(協力隊時代の任地)に集まっていたみんなが
どんどん偉くなっていくのを聞くと
自分もうかうかしていられない気になってくるのだが、
ここで僕が出来ることを精一杯やるだけのことだ。
以前あったような焦燥感は、今はあまりないことにも気が付いた。
まったく焦りがなりと言えば、うそだけど。

さて、
知人たちは皆、インドネシア関係の研究をしており、その話も聞けた。
やはり、先日、僕と妻が農村調査をして感じていたように
今、インドネシアは大きく力をつけているようである。
10年前に僕らが活動したインドネシアと
今の状況とでは、まるで別の国のようなのだ。
お金の流れも良く、行政のやる気や行動力もあり、
末端の村行政まで鼻息が荒いくらいだ。
1か月前に、高校生のスタディーツアーで西ジャワに行ったのだが
その時から感じていたインドネシアのパワーは
果たして、本物だったようだ。

3人の訪問者から、大いに触発される二日間だった。
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01 14
2010

大雪。
朝から晩まで雪かきに追われた日。


ハウスには、一応融雪設備が施されているのだが、
パイプの不具合や一時に降る雪の量によっては、
その設備の能力で間に合わない時がある。

そんな時に
融雪パイプよりも上に雪が積もってしまえば、
ハウスの屋根にどんどん雪が積もってしまうのである。
それが続けば、作物に光が当たらなくなるし
最悪、ハウスが雪の重みでつぶれてしまう。

そういう時はどうするか。



P1140006.jpg


答えは写真の通り。
そう、ひたすら雪かきをして、
融雪パイプの上に積もった雪を降ろすのである。

ちょっとでも作物に光をあてるがために。
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01 12
2010

昨年、政権交替で少しもめていたとある助成金。
年末になんとか機械の納入も行われ、新年に検査も受けて晴れて今日、
その機械を稼働させた。

何を買ったかと言うと、
小さなトラクターとそれに着ける畝立てマルチのアタッチメント。
今日稼働させたのはトラクターだけだが
春になれば、畝立てマルチのアタッチメントをとりつけて
そこら一帯の畑を畝立てしてまわるつもりでいる。
これまでは、露地はあまり手掛けてこなかったのだが
(自分の担当してきた露地の畑は30a程度)
手のかからず、かつ面白い、それでいて他と競争が少ない野菜を選び
それを露地でガンガン作っていこうとたくらんでいる。

実は、昨年は、むらの蔬菜組合が持っている
マルチがけのハンドトラクターを借りて
露地のマルチをしていたのだが、
その組合の年寄りがうるさいことを言うので
助成金を利用して自分で機械を購入することにしたのである。

うちの村では、露地の白菜やキャベツ、レタスなどが
昔らから盛んで、その組合として蔬菜組合がある。
だが、うちは父の代から露地のキャベツも白菜も作らなくなっており
名ばかりの組合員でしかなかった。
そして名ばかりの組合員が、昨年からマルチの機械をさんざん使うようになったので
それで文句を言う年寄りがでてきたというわけ。
まぁ、みんなで使うとメンテナンス等に不安もあり
(事実、○○さんの後にその機械を使うと、どこか壊れていたりもする)
また、自分が使いたい時に使えないこともあり
結局は自分で持っている方が良いと判断して
機械を買ったのである。
グループでの機械所有は、そのグループのメンバーの意識にもよるが
少なくともうちのむらのような緩やかな関係の組合の場合、
やはりメンテナンスと
使用の調整等で、難しいと感じることが多い。

今日稼働させたトラクターはすこぶる調子が良かった。
春、転作田や河川敷の畑をマルチがけするのが楽しみである。
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新年早々、インドネシアへ行き、そして昨日帰国した。
目的は調査。
協力隊時代に赴任していた任地へ、
プロジェクト終了から10年経った今の変化を見るために。
とても興味深い調査結果とそこから出てきた仮説があるが
それはまた別の機会に書くとしよう。

とりあえず、謹賀新年。

毎年年末に書いていた我が家の10大ニュースなのだが
昨年は書く間もなく、新年を迎え、
今年の目標を書く間もなく、慌ただしくインドネシアへ調査旅行。
そう、これが象徴しているように、
昨年は、とにかく“慌ただしい”一年だった。
今年は、地に足をつけて、もう少し自分のやっていることを見定めて、
やれることだけをやるようにしたい。

作って食べるという単純な行為を中心においた
農の生産と生活の営みを核として
その中で受ける様々な刺激を、地元の食への提案として提供していきたい。
自分の農園の経営的にも販売的にも安定・発展を目指すことは当然なのだが
それと同時に、インドネシア関係のことにも
もう少し力を入れていこう。
多分、これらのことだけで、僕は手一杯なのだろう。
今年はこれらのことだけを中心にやっていこうと思っている。

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田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

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