今日は朝から地盤調査。
家を建てる敷地に地盤改良が必要かどうかを測定する。
軟弱な地盤だと判定されれば、良質地盤までコンクリートの柱を
打ち込む工事が必要になってくる。

最近村で家を建て直した人の話では、
「軟弱地盤だって判定されて、100万くらいかけてコンクリートの柱を打ち込んだよ。まったく予定外の出費や。今までもそこには家が建ってたんだけどねぇ」
と、ぼやいていた。

今回の調査は
超音波による地盤調査。
このあたりで、よくおこなわれているスウェーデン式サウンディング試験ではない。
超音波の測定棒を何箇所かに差し込み、本体に備わっているおもりを地面に落とし
その振動の伝わり具合で地盤の固さを調査するというもの。
調査を担当してくださった人の話では、
もともとトンネル掘削の工事に使われていた方法で
それを住宅用として小さくしたのが、今回の測定器らしい。

PA310008.jpg



また同行していた工務店さんによれば、
地盤改良の業者が自ら測定する場合、どうしても軟弱地盤と判定されやすい、と教えてくれた。
業者としては、工事はできるだけ大掛かりになった方が、得だからであろう。
専門的なデータを見せてもらっても、僕ら素人にはさっぱりわからないので
専門家を信用するしかないのだ。
ブラックボックス化されている場所で、僕らは少しずつ搾取されているってわけか。

今回の調査では、地盤改良を実際に行っている業者ではなく、
調査が専門の業者に、地盤調査を依頼している。
なので、地盤の判定は利益とはニュートラルな立場で行えるので
ある程度は、信頼できるものになるだろう。
その判定をもとに、地盤改良の業者に、地盤の工事を委託するのである。

測定の結果は、すぐには出ないらしいが
調査に来てくださった方の話によると、
「このデータですと、軟弱地盤じゃないのでコンクリートの柱は必要ないと思いますよ。表層改良で済むと思います」
とのこと。
おおお、予定通りコスト削減ができた。
スウェーデン式サウンディング試験に比べたら、調査費用は高くつくらしいが
それでも、調査結果が軟弱地盤じゃないと解れば、
地盤改良の予算がかからない分、トータルでは安くなるのである。

ちなみに、道路向かいの2年前に新築した家は、
地盤改良業者によるスウェーデン式サウンディング試験で
軟弱地盤と判定されて、コンクリートの柱を何本も打ち込んでいた。

調査結果がでれば、表層改良の準備とそれに合わせて土留めのL溝の注文をする。
L溝は、設計士さんの知り合いの工場に直接発注し(ほぼ原価で購入予定)
施主支給としてコスト削減をする予定。
こういった細やかな対応をしてもらえるのが、
建築家による家づくりの利点なのだろう。
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ミツバチ

寒空の下、

一匹のミツバチと会う。

足には、たくさんの蜜を携えていた。

越冬の蜜を必死に集めているのだろう。

それにしても、ニホンミツバチを見つけるのは久しぶりだ。

来年には、蜂蜜ために巣箱でも置いてみようかしら。

そんなことを考えていたら、

いつの間にか、ミツバチはいなくなっていた。

浅はかな人間に付き合う暇は、ミツバチにはないようだ。

ああ、もうすぐ冬が来る。
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先週3歳になったわが娘。
ずいぶんと成長した、とここ最近感じることが多い。
今日も妻は愛知なので、ぷち父子家庭なのだが、
僕が家事をしている間、ずいぶんひとりで遊ぶことができるようになった。
今晩も晩御飯の準備をしていると、
ひとりでお絵かきの道具を出してきて、何やら話しながら絵を描いている様子。

娘が遊んでいたのは、義姉からもらった(と思う)ひらがなの練習ボード。
水のペンで書くと、書いたところだけ色が変わるというもの。
何度でも書けるので、最近重宝している。
ひらがなが何たるかを娘は理解していないのだが、
塗り絵感覚で、ひらがなの文字やボードに書いてある絵をペンでなぞって遊んでいた。
絵をなぞるたびに、娘のコメントが家事をしている僕の耳に飛び込んでくる。

「これはパパとママのレモン」
グリル料理などレモンやかんきつを使うことが多い我が家。
レモンを絞る作業を娘もしたがるのだが、
あれこれと理由をつけて絞らせないものだから、
そんなコメントなんだろう。

「これは蜂蜜」
絵はインク壷と万年筆なのだが、あの形で娘が知っているのは
毎朝食べる蜂蜜なんだろう。

「これはソフトクリーム」
一度も食べさせたことがないのに、名前だけはなぜだかしっかりと覚えてしまっている。
不思議なものだ。

「そしてこれは、ヘリトクパー!」
自信満々に大声でこたえていたのだが、
残念ながら娘よ、それはヘリコプターだ。
ほとんど言い間違えがなくなってきたのだが、
これだけは、今でも間違えてくれる。
あまりにも愛らしかったので、食事の準備もそっちのけで
娘に駆け寄ると、
「パパ、もうご飯できた?早く作って!」
と催促されてしまった。

今年の1月ごろまでは、海を「ゆみ」と言っていたのに。
ごく最近まで、すべりだいは「するべだい」だったのに。
娘よ、大きくなるのが早すぎないかい?
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今日は朝から別の業者くる。
ハウス専門の業者。
土地の関係上、ハウスの真ん前に家を建てる予定で
家の広さを確保するために、ハウスへの進入路まで削って敷地にした。
その結果、ハウスの入口をふさぐような形で家が建つことになり、
出入りが難しいということで、
ハウス業者に来てもらい、入口の移動をお願いした。

PA290004.jpg


よく周りの人から
「ハウスの真ん前に家を建てるなんて、よくやるね~。仕事と生活の区別がつかなくなるんじゃないの?」
と、言われるのだが、
最近はその心配はしていない。
自分のライフスタイルを鑑みると、
農業の中でも、お金を得るための農業だけが僕の農業ではないというのが
ある程度しっかりしてきているので、
仕事場と生活の場の距離が近くなることは、
僕が考えている農の営みの中では、至極まっとうなことのように、最近は思える。
また、仕事ではなく、農の営みとしての時間の中で
子供や妻と過ごす時間が増えることは
僕の望むところなのである。


さて、夕方からは工務店さんも来て、
現場で縄張りをしていた。
写真の青い線が、実際の家の基礎部分。
31日に地盤調査をするための縄張りだと説明してくれた。
それが終われば、いよいよ宅地造成だ。

PA290010.jpg


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いよいよ家もたつということで
先々週、斧を購入した。
というのも、新築の家には薪ストーブを入れる予定でいるからである。
薪の乾燥は最低でも1年というので、
今のうちから、暇を見つけては、来年の冬のために薪割りをしようと
斧を購入。

斧


斧は、ヘビーモウルGF。
3.6kgもある破壊力抜群の斧。
斧選びでは、あれこれ迷ったのだが、
やはり自分の性格と体力に合っているこの斧を選んだ。

刃は鋭利ではなく、どちらかと言えばハンマーに楔がついたような斧である。
破壊力は抜群で、30cmに玉切りした原木(柿)は、いとも簡単に薪となった。
硬くてほとんど乾燥されていないケヤキ(直径25cmで45cmに玉切りした原木)も、
何度か斧を振るうと、亀裂が入り、割ることができた。

薪ストーブは人を三度温めるというが、はたしてそれは本当だった。
一度目は、薪用の木を伐採時に。
二度目は、薪作りの時に。
そして三度目は、ストーブを炊いた時に。

薪割りをしていると、近所のおんちゃんやおばちゃんが通りかかるたびに
「今時珍しいことしてるねぇ」と声をかけてくれた。
昔は、どこでもあった風景らしい。

斧を振るっていて気がついたのだが、
このヘビーモウルGFという斧は、餅つきの杵に似ているということ。
斧自体に重さがあるので、引き上げ時に力はいるものの、
振り降ろす時は、ほとんど力をいれなくてもいい。
重心をやや低くとりながら、
まっすぐ落とすことだけに気を使えばいいようだ。
無理に力で振り降ろそうとすると、まっすぐ振り降ろせないばかりか
重心も不安定になり、怪我につながるだろう。
下っ腹の丹田あたりに力をこめて、右手は添えるだけ、が
良いように思える。
出来ることなら、体全体で振り降ろすのもいいだろう。
その方が破壊力は増すし、重心がしっかりしているのであれば、まっすぐ振り降ろせる。
とにかく、腕の力だけで振ろうとすると、かならず失敗するようだ。

まぁ、なんでも振り下ろす系の道具(斧、鍬、杵、竹刀などなど)は
そうできているんだけど。
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本日、工事が始まる。
ああ、家が建つ。
ああ、家が建つ。
土をならし、コンクリートがはつられる。
村の会う人会う人からは
挨拶代りに、
「やっと家が建つねぇ」。
ああ、家が建つ。


重機
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日曜日の講義の話。
直売所の講義が終わると、この日はそのまま次の講義へ。

「農業の構造」という講義。
題目通り、農業を構造的に捉えようという学問。
目的は、見た目の発展に惑わされず、それぞれの農業の個性を掴み取ることにある。
インドネシア人と日本とインドネシアの農業を比較し議論する時、
いつも不満に思うのが、結論が必ず
「日本の農業は近代化されて発展しているから出来るのであって、インドネシアは遅れているので出来ません」
と、両者の農業の比較の中で、それぞれが個性として捉えられることなく、
単線的発展の経緯の中での、どちらが前でどちらが後ろにいるのか、に
帰結してしまうことである。
このロジックから脱却しなければ、
それぞれの地域での自立した農(それが果てには自治につながる)の確立には
つながらない、と僕は考える。

日本とインドネシアの農業を比べ、その差異に気がつくのは素晴らしいことだが、
それが近代的発展の前後で捉えられるのは、
それ自体が、近代化信奉と言う大衆言説に惑わされているとしか言いようがない。
(最近では伝統的なものの方がいいという大衆言説も作られてきて、これはこれで危険なのだが)

さて、農業の構造では、
農を支える要素をミクロからメソ、マクロの視点に分けて分析をする。

ミクロでは
自然資源
人的資源
インフラ
技術
社会(慣習・評価・集落構造等)

メソでは
文化
金融(クレジット)
市場(アクセス可能な市場)

マクロでは
金融(世界的な)
市場(世界的な)
政策
人口
外交

を、それぞれ分析をする予定。
僕の手には負えない所もあろうが、僕自身も勉強しながら、この講義を進めていきたい。

今回は、自然資源について議論をした。
事前に宿題として、H君や僕が農業をしているこの村の自然資源を
時間のある時に村の内外を見回って、書き出すように、と言ってあった。
H君があげた答えは

太陽(インドネシアと違って日長が変化する)
水(この村は水が豊富。よく雨がふる。)
風(風の強い日が結構ある)
土(インドネシアより肥えている)

と、なんだかギリシア哲学の要素のような答えをあげてくれた。
まぁ、間違いじゃないが、それでおしまいでもない。
自然資源をみるなら、やはりこの村の地形を理解しないといけないだろう。
「土」なんて漠然な答えではなく、農地の高低によってそれぞれの特徴の変化もある。
大河がそばを流れている関係上、沖積土の農地があり、
うちの村では、その農地が20ヘクタールある。
そこでは稲作は行わず、完全な畑作が行われている。
うちの村の農業をもっとも大きく特徴づけている自然資源が
その農地の存在なのだ。
他の近隣の村では田んぼばかりで、そういう沖積土の良質な農地を持ち合わせていない。
この農地があったからこそ、うちの村では、野菜の生産が昔から盛んだった。
自然資源が、思いっきりミクロな話だが、その場所の農を形作っているのだ。
まぁ、こういう視点は、講義だけで身に付くものでもないのだろうけど。
その地域や村の自然資源をみるなら、
その場所で一番高いところにのぼって眺めてみないといけない。
宮本常一の受け売りである。

ということで、次回、川向かいの山に登ることになった。
講義はやはり実践的でなければ。
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日曜日は講義の日。
インドネシア研修生のH君のための講義の日。
前回からの続きで、直売所についての講義。

前回、H君が理想とした販売方法は、
その後、日記には書かなかったのだが、
先週の講義で議論をした時に、H君が言うには
直売所ではなく、
農家がスーパーマーケットと契約して販売する方法だった。
H君は
「直売所はやはり地方や村にある市場とシステム上変わりがなく、たぶん、それで今でも日本のような直売所がインドネシアには必要ないと思います。」
と結論付けていた。

ふむ。
その結論では、僕は満足はできない。
そこで今回、土曜日を利用して、
H君と一緒に卸売市場と大型直売所を見学して回った。

大型直売所では、ついでなので、うちの野菜も出荷することにして
朝一で、直売所の出荷者用シャッターの前に陣取って
最も過酷とされる直売所の青果陳列棚の場所取りもH君に体験してもらった。
ちょっとでもシャッターが開けば、顔を地面にこすりつけてでも
少しでも早く中に入ろうとする老婆。
陳列棚めがけて野菜を放り投げて場所取りをするおっさん。
どっちが早かったかで、口論になるおばちゃん達。
みんな少しでもお目当ての場所を取るために、
直売所の朝は阿鼻叫喚の巷と化すのである。
そんなものを目の当たりにして、H君はすっかりビビっていた。
ちなみに、シャッターが開く前に、待っている生産者たちの間で
だれだれはどこの場所、だれだれはあそこの場所、などと勝手な談合を
取り仕切るおっさんも居て、
その話し合いなどどこ吹く風で、その場所を取ろうものなら、彼ら彼女らから
「その場所はだれだれさんの場所って決まってるんやー!」
と怒られるのである。
ちなみに直売所の利用規定にはそんなルールはない。
毎日顔を突き合わせている生産者の中で勝手に出来上がったローカルルールのようである。
以上は余談。

H君が最も驚いたのは、それぞれが持ってきた出荷物である。
明らかに葉っぱが黄色く変色してしまった菜っ葉を
山のように出荷しようとしている老婆を見て、H君は
「あれは売り物ですか?」
と僕に聞いてきた。
直売所では、それが売り物かどうかを決めるのはお客さん。
売れれば、それも売り物だ。
商人やお店の人が売り物かどうかを決めるわけじゃない。
そこが直売所の面白いところだろう。

これらを見学して、日曜日に講義。
それでもH君は、
インドネシアの地元の市場や村の中にある市場と直売所の差がないと結論付けた。
表面的にしか見なければ、そこにあるものはどちらも差はないように見えるのだろう。
そこで僕の考えも紹介することにした。
講義の中では、以前、
なぜ直売所なるものが最近もてはやされるようになったかを
90分かけて説明した。
90年代後半からたびたび報道されるようになった中国野菜の残留農薬問題。
そして今世紀に入ってかららは、立て続けにBSE問題や偽装問題。
さらには中国冷凍餃子事件のような犯罪まで、
食に関して多種多様な問題が噴出してきている。
その背景を受けて、履歴が解る物、地元の物、に脚光が浴び始めている。
そしてそれらを手に入れられる(もしくは手に入れられるというイメージをもつ)
直売所がもてはやされているのではないか、と僕は見ている。
インドネシアの村の市場とシステム的に同じように見えても
(生産者から直売という意味で)
そのマーケットの成り立ち・発展の経緯が違うのである。
直売所と同じようなものをインドネシアに作り上げることは
H君の言うように、ある意味ナンセンスかもしれない。
でも、インドネシアでも中国からの食品汚染問題(ミルク)が大きく報道されており
また、インドネシア国内でも添加物の問題として、
政府が使用を認めていない薬品の利用が社会問題にまで発展している。
食の安全が脅かされているのは、なにも日本ばかりじゃないのだ。
そんな社会状況の中で、消費者の需要の方向性は
どのように動いているのか、それに敏感になり、消費者レベルで差異を感じられるような
売場をプロデュースすることが求められているのではないか、と僕は思う。
ここの地域の場合、消費者の需要の方向性を捉えた形として直売所があったのだが、
それがインドネシアでは、別に日本型直売所である必要はない。
ただ、同じものを植え付けようとか、表面的な差異があるかないかで
必要性を論じることは、少なくとも僕の講義の中では避けたい。
直売所の講義で僕が言いたかったこと、そしてH君にも分かってほしかったことは
そういうことだったのである。

H君は解ったような解らないような顔をしていたが、
直売所の講義はこれでおしまい。
表面的な差異でしか差異を捉えられない視点と
その裏にある偏見をこれからの講義で少しずつ変えていくしかあるまい。
まぁ、それが講義を受ける意味なのだから。
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青沼 陽一郎 著 『食料植民地ニッポン』.2008年.小学館.

本書は、海外に食料を依存している日本の現状(61%の海外依存)についてのルポルタージュである。本書では、アメリカ型食生活への変化(肥満)、BSE問題、世界分業化される日本の食卓の状況、中国野菜問題を通して、日本が食に対して主権を失うと意味での「植民地」化している現状を記している。

国家間外交の優劣と国内産業構造の変化によって、さらにはそれによって生じた農業の衰退から、海外依存の日本の食料事情が作り上げられていった。BSE外交では、アメリカのなし崩し的な市場再開の圧力とそれを認めるためだけに立ち上げられた国内委員会のやりとりには、この国に主権はあるのか、と考えさせられた。また中国問題では、その国では食べない食品を加工することから生まれる不信感などが記されていて、読者の背筋を凍らせるような事例が満載である。

本書の本筋としては、それらの事例を並べ、中国やアメリカを批判することではない。海外に61%の食料を依存しながらも、もっとも注文が多いといわれる日本人が、いずれは食料争奪で買い負ける日がくる、と批判していることが本筋であろう。外交的に欧米に追従しながら、国内では中国の食品批判を繰り返すが、自分たちの食卓の構造を鑑みないそれらの追従と批判を、本書は批判しているのである。アメリカについで食料輸入で第2位になった中国に依存しながら規制をしようと言う日本の姿を本書は取り上げている。

しかし、事例のみは満載なのだが、その食料依存と規制の構造についての考察は深くない。ポストハーベスト問題で、アメリカで収穫後に使用される農薬の規制は、普通に使用する農薬の濃度より何倍も濃くても、問題がないように制度的に変更されているのだが、あれほど依存している中国には、農薬の原体は同じだが製品名が違うだけで、残留濃度0.01ppmの厳しい規制がかかっているケースがある。その差はなんなのか。ただ単に外交的問題なのか。それとも日本の深層に潜む心理的・言説的な何かがあるのだろうか。僕は、意図的に形成されていく大衆言説に大きな問題があるとみている。が、本書では、そこには踏み込まず、問題の表面をなでるばかり。

また本書の基幹をなすはずの農業についての記述はお粗末。戦後の近代化の流れの中で、農業から工業へ、小規模専業から兼業化へと農業は変化していったのは事実であるが、その記述の仕方が、農家が制度に乗っかって時流の変化から取り残されたような書きぶりが目立つ。果たしてそうだろうか。21章の農業の記述では、農業の歴史的背景や土地へのこだわりを持つ古い日本の農家が、経営戦略に長けたアメリカ型農業にやられていく、とされているが、では、その日本の農業はどうあるべきなのだろうか。著者は批判はすれども答えはしない。アメリカ型農業や中国の安い農産物に押されているのは事実だが、その自由市場経済の構造や補助金によってしか成り立たない輸出産業としてアメリカ農業が、日本の農業構造にマッチするとでも思っているのだろうか。原洋之助の『北の大地・南の列島の「農」』や暉峻衆三の『日本の農業150年』などを参考によく勉強すると良いだろう。

事例が多く、知らない事実が書かれている点で、面白くは読めるが、そもそも著者の眼差しに疑問を抱く。アメリカや中国との関係で、それらの追従や規制を批判しているが、片方で、日本の農業の在り方については、その自由市場の歪には触れず、アメリカ型の経営農業に凌駕されると書かれている。批判し散らかした後に、一体筆者は何を読者に問いかけようとしているのか、メッセージが不明瞭。また批判の視点も分野間で統一がなく(著者の定見の無さが露呈した結果だろうが)、ただ批判するだけで終わっている。なんとも後味が悪い本。
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妻が出張中なので、娘と2人で漬物を作ることに。
毎週、3日ほど妻は他県へ出張する。
これまでこの間、僕は通常の農作業にプラス家事でてんてこ舞いだった。
だから、時には娘の面倒もそっちのけになることも多かった。
が、これじゃいかん。
ポジティブにこの状況を考えれば、娘とべったりとできるまたとない時間なのだ。
妻がいれば、娘はやはり妻にべったりなのだから。

そこで先週は、一緒に凧作りをした。
そして今週は、一緒に漬物を漬けることにした。

娘の離乳食用に、と始めた自家用菜園で大根の間引きをした。
ひと冬分の大根を播いていたので、結構な量の大根菜が採れた。
それをこれまでは菜飯にして食べるくらいだったのだが、
今年は、それじゃ食べきれないくらいあるので、漬物にして保存することにした。
どうせ漬物を作るのなら、妻がいない間に娘と楽しもう、ということで
今晩一緒に漬物を漬けることにした。

大根葉は5kg。
塩は250g。
それを交互に入れていくだけの作業だったのだが
(個人的にはトウガラシを入れたかったのだが、娘が食べることを考慮して入れないことにした)、
これが娘には大ヒット!
塩を振る役を娘に与えたのだが、普段は触らせてもらえない調味料を
鷲掴みにできるとあって、とてもうれしそうに塩を振っていた。
ただ、性格なのだろうか、豪快に塩を振ることはなく、
ちろちろとすこ~しずつ塩を振っていた。
石橋をたたいても渡らない性格だな、こりゃ。

重しの重さは漬ける物の2倍の重さ。
適当な重しがなかったので、米びつを重し代りに。
ちょっと異様な感じだが、それでも2人でおおはしゃぎ。

出来上がった漬物は、塩抜きをして、細かく切り
ひき肉などと一緒に炒めると、それだけでご飯が何杯でも食べられるおかずになる。
この冬、ちょっとした楽しみが増えた。

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イチジク カラス

もう1日たてば完全に熟すだろう
と、取らずにおいたイチジクは、
次の日には、必ずこうなる。

もう1日経たないと、美味しくないやつは
カラスは絶対に手をださない。

だから、僕が食べられるのは、
いつも「あと1日で熟すはずの熟し切っていないイチジク」なのだ。
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小さな凧揚げ大会があった。
地元の公民館や青年会主催で。
うちの村も毎年参加しており、凧を作るのは青年会の役目。
今年、村の青年会の役員をしている関係上、凧を作って
凧揚げ大会にでることに。

地元の小学校では、昔から凧揚げ大会をしている。
その関係上なのか、公民館では地域のお祭りとして、
大人から子供まで参加できる凧揚げ大会を企画実行している。
うちの村では、2メートルを超える凧を2枚作って参加(1枚は試し揚げの時に壊れる)。
それ以外にも、娘と一緒にひし形の凧を1枚(1メートルほど)作って、娘も妻も参加した。

先週、妻が出張中に娘と2人で凧を作った。
日曜日に凧揚げ大会にでるということで、妻が図書館から凧の絵本を借りてきており、
その絵本に影響されるように、ひし形の凧を作った。
凧に絵を描いたのは娘。
絵本の凧のように、面いっぱいに顔を描いた。
途中から、僕は作るのに夢中になってしまい、娘をそっちのけで作っていたら
「もうパパとは凧作らない!」
と娘に怒られる一幕もあった。

さて、凧揚げ大会。
朝から村の役員は集まったのだが、村の凧は昼から揚げるということで、
それまでは村のテントの中で、飲み会になっていた。
僕は娘と妻と3人で、自分たちで作った凧を揚げることに。
が、風がない。
それでも参加した子供たちは、一所懸命走って凧を揚げようとする。
しかし、疲れて立ち止まれば、凧は失速。

それを見て僕は、もう少し待たないと、と言ったのだが
ぐずる娘と凧揚げがなんたるかを理解しない妻は、
走ってあげようと言ってきかない。
そんなことをしても、失速して下に落ちて凧が壊れるだけなのに。
大会委員の人が、何とか走り回って凧を揚げようとしている子供たちに
「風がでるまで待ちなさい」と言い聞かせているのを
妻がきいて、ようやく僕が言うことを納得したようだ。

あとは村のテントにもどり、風がでるまでビールを飲んで待つことに。
それを見て妻は、
「なんともゆる~い大会ね」と言っていた。
が、凧揚げなんてものは、そんなものなのだ。
風がしっかりと吹くまで待つ。それ以外にない。
学校の行事での凧揚げの時も、
凧を揚げている時間よりも木陰で友達としゃべりながら
風を待っていた時間の方が長かったのだ。

ビールも程よく飲んで、村の役員が持ち込んだ鉄板で焼き肉もして、
ほろ酔いになったころ、風が本格的に出始めた。
それでも大凧にはまだまだ不十分だったので、娘の凧から揚げることに。
左右のバランスが悪いのと尾っぽの長さが足りなかったため、
揚がるのは揚がったのだが、8の字を描きながらの暴れ凧になってしまった。
風が強まると、そのまま急降下してしまい、破損。
それでも娘が喜んでいたので、よかった。

風が本格的に強まったので、村の大凧を揚げることに。
事前の糸張りにずいぶんと調整をしたためか、試し上げよりも高く飛んだ。
が、凧の角度が悪く、風を受け止め続けることができず、風が少しでも弱まれば
失速して落ちてしまった。
そんなことを何度か繰り返した後、凧が破損してしまい、村の凧揚げはおしまい。
それでも、凧の調整や凧を揚げようとしているときは、
老いも若きも皆、子供に戻っているような眼をしていた。
かつて、それぞれが経験した小学校の行事で6年間凧を作った時間が
それぞれの中でよみがえっているようにも見えた。
みんな同級生というわけではなく、世代もまちまちなのに
同じような時間を同じような場で過ごした人々には
蘇る時間が、地域的普遍なものではなく、時間的普遍なものして現われてくる。
そんな時間を村のみんなと一緒に過ごすのは、なんとも贅沢だった。
娘と凧を作ったとき、娘そっちのけで凧を作ってしまったのは、
僕だけが、あの頃の時間に戻っていたからかもしれない。

風が出るまで風待ちをして、
風が出たら凧を揚げよう。
凧を揚げたら、それぞれの時間が、それぞれに巻かれて
あの経験したかつての時間へと戻っていく。
そんな凧揚げ大会だった。
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エッセイの引っ越しはこれで最後。



遠く困難な道のり


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友人のバニラ


久しぶりにアレジャンに住む友人からメールが来た。
メールと言っても携帯メールなので、文章は短い。
『今何してる?そっちの季節は何?こちらの落花生はあまり育っていません』とだけ。
私が隊員時に、落花生栽培の普及を行っていたからなのか、
彼は時々自分の栽培している落花生の生育状況を携帯メールで送ってくる(第23話参照)。
こちらからももう少し詳しく聞こうと思い、折り返しのメールを送る。
どうして落花生の生育が悪いのか?と。そして彼が取り組んでいたバニラ栽培も聞いてみた。
数分後、メールが来る。
『乾季がすごくて、6月からまったく雨が降らない。バニラはほとんど枯れたし、落花生も実がはいらない』。



アレジャンは山間の村なので、他の村に比べれば水が豊富だと言える。
だのに、時々、その水があってもどうにもならないほどの乾季がやってくる。
以前ならそれは10数年に1回程度だったのだが、
最近は2年から3年に1回、このような乾季がやってきているようだ。
バニラは植えてから3年目に実がなる植物。
実は今年でその3年目だった。
だのに、この乾季でそのバニラは全滅してしまった。
特別な期待が込められたバニラだったのに。
その期待とは結婚だった。



彼は今年で36歳。
未だに独身。
あちらのスタンダードで考えれば、その歳まで結婚しないなんて考えられないことだった。
アレジャンでは大抵、親同士で話をまとめ結婚させられる。
若者たちはそれまでは自由に恋愛をしたりするのだが、
結婚する相手はその恋愛相手とは限らない。
私の常識では受け入れ難いことなのだが、それでアレジャンの若者は結婚していく。
それはなぜか。



婚資がべらぼうに高いのだ。
とてもじゃないが若者個人で払えるものじゃない。
ブギス民族(アレジャン集落の民族)は、
新郎が新婦側の親もしくは叔父に多額のお金を払うという習慣がある。
さらに結婚式の資金も新郎側がもたなければならない。
私たちの社会ではやっているじみ婚なんてない。
新婦側はこの結納金が安ければ、面目丸つぶれにもなる。
というか、まとまる結婚話もまとまらないのである。
家格にあわせて結納金の相場がある程度きまっており、
また結納金次第で家格があがったりさがったりもする。
結婚が決まると、『おめでとう!』というお祝いの言葉の後には、
『で、いくらだった?』とひそやかに噂になるのである。
では具体的に幾らするのだろうか。



2000年に結婚したバルー県(アレジャン集落がある県)の知事の娘は、
結納金は1億ルピア(当時1円=80ルピアほどだったか)、
結婚式資金が1億ルピア、さらに県知事に車がプレゼントされた。
同じ時期にアレジャンの集落長の娘も結婚した。
結納金は1000万ルピア、結婚式資金は2000万ルピアだった。
インフラ傾向にあるインドネシアだが、現在でも大体相場はそんなものらしい。



どうしても自分で相手を選びたいという人は、
出稼ぎに行くしかない。
若いうちにマレーシアやカリマンタンなどに出稼ぎに行けば、
森林をばんばん伐採して日本を含む外国にばんばん売っている会社があり、
そこで働くことが出来る。
実際にアレジャンやその近辺の村々の若者の多くは、よく出稼ぎにいく。
3年から5年頑張って、贅沢をしなければ(タバコを吸わないなど)、その資金はたまるらしい。
だが、労働はそうとうきついと言う。



さて、私の友人の話に戻そう。
この愛しのアレジャンでもなんどか取り上げた彼(第19話・第20話参照)。
出稼ぎには行っていない(行ったと思われた時期もあったのだが、結局は行っていない)。
親が何度か結婚話をまとめようとしたのだが、彼は親が決めた相手をよしとしなかった。
そして今、彼には結婚したいと思う相手がいる。
2006年の4月、私がアレジャンを訪れたときに、彼は頬を赤らめながらそう話してくれた。
だが、金が無い。
向こうの親が言うには、結納金は1500万ルピア。
結婚式資金まで含めると最低でも3000万ルピアは必要だと言う。
しかし彼の1年間の現金収入は約300万ルピア。
現金を全く使わないで、すべて貯金したとしても結婚まで10年ほどかかってしまうのだ。
しかし、それまで向こうが待ってくれるとも思えない。



で、彼は考えた。
考えられる道は5つ。



1つ目の方法。
駆け落ちをする事。
これはあちらの社会ではたびたびある。
高すぎる結納金が払えずに
駆け落ちする若者がいたりもする(不倫のカップルもこの方法をとったりする)。
しかし、これはリスクが高すぎる。
なぜなら、死を覚悟しなければいけない。
ブギス民族はSirihという独特の価値感をもっている。
日本語に無理やり訳せば、面子があるいは適当だろうか。
駆け落ちされることは、この面子を丸つぶれにする出来事なのだ。
だからその娘の兄弟や叔父は、駆け落ちした二人を血眼で探し出し、
見つければ時には相手の男性を殺してしまうこともある(時には娘さんも殺されてしまう)。
無事に逃げ果せたとしても、生活基盤をすべて捨ててしまう駆け落ちは、
その後の生活は不安定なものになるだろう。
だからよほどのことが無ければ、駆け落ちはしない。
私の友人は、この方法を取らなかった。



2つ目。
コミュニティ外で結婚してしまうこと。
これは駆け落ちとは違う。
両方の親の同意をとる必要がある。
だから結納金は払う。
だが、結婚式資金がかからない。
トータルの資金としては、半分ですむのだ。
偶然、友人の彼女はマレーシアに出稼ぎに行っていた。
なので、マレーシアで結婚式を済ませてしまえば、
呼ばなければいけない親戚も周りにはおらず、安く式を行うことが出来るのだ。
しかし、彼女がOKしなかった。
人生に一度の晴れの舞台である結婚式。
彼女は、きちんと結婚式がしたい、と言った。
この方法が一番すぐに結婚できるはずだったのだが、彼はあきらめざるを得なかった。



3つ目。
これは彼女からの提案だった。
彼女の父は少しばかり土地を持っている。
なので、彼の持っている土地や家をすべて売り払って、それを婚資にあて、
結婚後は彼女の父の土地で働けばいい、というのだ。
こういうことは珍しいことではない。
ブギス民族では、結婚後、新婦側の家で新婚時代をすごすカップルは少なくないし、
その後も新婦側の土地で暮らす新郎も少なくない。
サザエさんのマスオさんだと思えば、大方あっているだろう。
しかし、友人はそれをよしとしなかった。



彼にはそれなりの野望がある。
2005年に行われた県知事選では、現在の知事の選挙参謀から早くから見込まれて、
アナバヌア村(アレジャン集落のある村)で票固めのために活躍してきた。
選挙後、知事の党であるゴルカル党から、アナバヌア村支部長に推薦されている。
ゴルカル党の村支部長と言えば、その地域では村長になる人物が任命される地位である。
つまり私の友人は遠からず村長になると約束されたようなものなのだ。
ただ彼は村の中の政治的な関係から、村支部長を辞退し副支部長に就いた。



もし彼が彼女の申し出通りに彼女の住む土地(別の県)に行けば、
アナバヌア村でせっかく固まりつつある彼の政治的なポジションはなくなるのである。
向こうの土地では基盤がないのだ。
しかしこの申し出は、まだ断っていない。
結婚だけを見れば、もっとも可能性があるようにも思えるからだ。



なんとか、今ある土地で工夫を凝らし、結婚できないものだろうか。
彼はそう考えている。

そして4つ目。
今ある土地を担保に村人からお金を借り、自分の土地で農業労働者になること。
アレジャンではこういうことはよくある。
お金が必要になった場合、自分の土地を売り払ってしまえば、
その後の生活がさらに苦しくなり貧困の輪から抜け出せなくなる。
そこでアレジャンでは、他の村人がその人の土地を一時買い取り、
その人は自分の土地で農業労働者となり、生活に最低限必要な給料で働くのである。
売り払った土地での売り上げが貸した金の分に達した時、土地はその人に返されて、
その人はまた自作農として農業を営むことが出来るのだ。
こうすることで厳しい環境の中でも、貧困の輪に陥らずにすむのである。
だが、農業労働者の生活は、かなり厳しいものになる。
新妻に苦労をかけたくは無い。
だから、できるだけこの方法はとりたくない、と彼は言う。



5つ目。
今ある土地で換金性の高い作物を栽培して一儲けすること。
そしてその作物がバニラだった。
バニラは以前に比べたら換金性は高くないが、それでも魅力的な作物の1つである。
しかも彼の持つ土地(山の斜面)を活かすことが出来る作物なのだ。
だが、結果は冒頭で説明したとおりだった。



バニラがだめになってしまった現在、考えられる道は、3つ目か4つ目。
どれも彼としては、納得はしていない。
これら以外としては、できちゃった婚(今はおめでた婚・さずかり婚というのか)があるが、
これも1つ目と同じで、リスクが高い。
子供ができてしまえば、婚資は少なくて済むのだが。



メールでは、『結婚はしばらく考えられなくなったよ』と。
ことあるごとに私に、お金を貸してくれ、と頼んでくる他の村人と違って、
彼は絶対そういうことを私には言わない。
今年の春にアレジャンを訪れて、この話を夜な夜な聞いたときには、
私たちの間には微妙な空気が流れていた。
私は毎年アレジャンに訪れている。
彼はそれにどれくらいのお金がかかるかは、だいたい知っている。
だから私が数回のアレジャン訪問を我慢して、そのお金を彼に貸すことができれば、
彼はいとも簡単に結婚できるだろう。
彼の婚資は、私にしてもたいしたお金だろうが、
彼ほど苦労なく手に入れることは可能だろう。
しかし、彼は私に貸してくれとも言わなければ、私も貸してやるなどとは言わない。
貸してしまえば、また借りてしまえば、
私たちの関係が今のとは微妙に違ってしまうことを私たちは知っているからだ。
ミーバッソ(ラーメン)をおごってやるのとは話が違うのだから。



私にできることは、彼がこれから取り組もうとする農業の相談に乗ることくらい。
だから、アレジャンでは夜更けまで話を聞くし、時々こうして携帯メールで状況を話しあっている。
せめてバニラが収穫できていれば、それを少しは買いたいと思っていたのだが・・・。



自由な恋愛を貫き通したいアレジャンの若者たち。
その結婚への道のりは、遠く、そして厳しい。

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三箱のタバコ



ちょっとしたきっかけで、再びアレジャンに行くことになった。
といっても、せいぜい3日間ほどの滞在予定なのだが。
それでもアレジャンの連中とここ最近連絡を取り合っている。
宿の都合とか食事の準備など、3日間の滞在を快適にするために。



新聞も手紙も届けられないアレジャンとどうやって連絡を?と思われるかもしれない。
私が住んでいた時代からその点については全く改善されていないが、
それでも時間はアレジャンにも等しく流れていて、
携帯電話が使えるようになっているのである。
携帯電話のメールを通じてあれこれとやり取りが出来るようになったのだ。
まったく便利な時代だ。



そんなこともあり、日々アレジャン集落について思いをめぐらすことが多くなった。
思いをめぐらせば、あれこれと思い出すこともある。
普段は読み返しもしない自分の書いたアレジャンエッセイも読み返したりもする。
そこでふと気がついた。
伝説の男を書いた以降にも、アレジャン集落を訪ねていたことを。
今回訪ねていく前にその話だけは書き留めておかなければ、と気まぐれに思い、
こうして再び筆をとる。以上、つまらなく長いイントロでした。



2005年4月。私はまだ学生だった。
ボゴール農科大学大学院の2年生で、丁度その頃妻は妊娠中だった。
そして私は修士論文を書くために南スラウェシ州を調査中だった。



修論のための1ヶ月半の調査後、
かねてからの約束通り私はアレジャンを訪ねた。
4月も半ばごろだったかと思う。
いつものことだが、アレジャンの風景はあまり変化がなかった。
変わった事と言えば、訪れるたびに気がつくのだが、
タバコと石鹸ばかりがやたらとそろっている売店が数店、新しくオープンしており、
同じような売店が数店、店じまいしていたくらいである。
それと、ラエチュ(アレジャン集落の長)がインドネシア語を忘れていたことくらいだった。
普段は民族語のブギス語ばかりを話している集落なので、
外国人である私が帰国してからは、
ラエチュはあまりインドネシア語に触れる機会もなかったのだろう。
毎回訪れるたびに彼との会話が難しくなっていたのだが、
今回は全くといっていいほど通じなかった。



そうそう忘れてならない変化は、友人のサッカだった。
相変わらず結婚もしないでぶらぶらしていたが、少しだけ偉くなっていた。
彼はある肩書きを得ていた。
それは『バルー県知事選アナバヌア村選挙参謀』である。



2005年はバルー県知事の選挙の年だった。
選挙は6月に行われる予定で、現職を含む3人の候補が立候補を表明していた。
アレジャンを訪れた4月はまさに選挙戦真っ只中だったのある。
サッカはその選挙において現職陣営につき、
アナバヌア村(アレジャン集落のある行政村)での票まとめを一手に任せられていたのだった。



選挙にお金はつきもので、バルー県みたいないなかでも相当なお金が動く。
選挙の前の年あたりから、あちこちで道路が建設されたりもする。
市場が整備されたり、橋のリハビリが行われたり。
しかし、悲しいかな、アレジャン集落。
あまりお金は回って来ない。
今回、選挙戦であれこれ建設されたという話ばかりを聞いたが、
アレジャンの風景で変化したのは上記のものだけだった。
それでもサッカは『現職の知事が再選を果たさないとアレジャンの明日は無い』といった調子で
選挙戦について熱く語ってくれた。



知事候補について少し説明しよう。
3人の候補がいるが、実質は現職と新人の一騎打ちの様相だった。
現職は私が協力隊隊員の頃に知事になった人で、実はよく付き合いのあった人でもある。
インドネシアでは政治家は皆偉そうに振舞ったりするものだが、この現職の知事は違っていた。
人の話を良く聞くし、実行力もあった。
そしてこれまでの知事とは違い、村落部に対して多くの政策を打ち出してきた人でもある。
それまでの知事は、町のインフラ整備ばかりに手をかけていていたので、
彼が知事になった頃は、私たちの同僚の間でも評判の知事だった。
そして、サッカ曰く、その傾向は今でも続いており、
今回の知事選でも村落部の開発重視をマニフェストとして掲げている、とのことだった。

一方、そんな知事が面白くないのは町の人。
特に教育関係者と医療関係者の間では評判が悪かった。
病院建設や学校設備に対する政策が弱いと非難囂囂だった。
そこで今回の選挙戦では、医療関係者と教育関係者は、
近くの大都市在住の医学博士だったバルー県出身者を担ぎ出し、対立候補として擁立をした。
当然この候補、町のインフラ整備(特に病院・学校)の充実をマニフェストとして掲げていた。
こうしてバルー県の世論は町対村で真っ二つになっていた。



さて、私。
気分的には現職を応援したかった。
一応はかつて村落開発のプロジェクトをその現職の知事と推し進めてきた経験があったから。
しかし日々の勉強と調査に疲れ、それを癒すためにアレジャンに戻ってきていたので、
選挙戦自体にかかわるのが煩わしかった。
そもそも選挙戦に関わろうにも、こちらは一介の大学院生。
傍観の体であった。
しかし、アナバヌア村選挙参謀はそれを許してはくれなかった。



アレジャンに戻ってから2日目昼下がり。
サッカは私が泊まっているラエチュの家にやって来た。
『タヤ、少し付き合ってくれ』。
どこへいくのかと訪ねても、彼は『いい所だよ』としか答えない。
のんびりとベランダのテラスでコーヒーを飲んでいた私としては、
かなり面倒だったのだが、サッカに押し切られるように家を出た。

サッカのバイクの後ろに乗り向かった先はバルーの町だった。
4月はまだ雨季の雨が残っている。そのときも小雨が降っていた。
ずぶぬれになりながら町に着く。
サッカは数軒の家を訪ねて、誰かを探しているようだった。
何軒かまわり、私もサッカもすっかりずぶぬれになり、私の機嫌も最悪になった頃、
ある大きな家に身を寄せた。
しかし家の中には入れてもらえず、テラスで待つことになった。
一体誰に会うつもりだ!とかなり不機嫌になっていた私に
サッカは『バルー県の県議会副議長だよ』と答える。
そして、『その副議長が現職陣営の選挙参謀長なんだよ』と言う。
話が見えない。
なぜ、ずぶぬれになりながら私が選挙参謀長に会わないといけないんだ?



その選挙参謀長は昼寝の最中とのことで、
サッカも私もずぶぬれになったままテラスで待っていた。
家人があまったるいコーヒーを出してくれたのが唯一の救いだった。
そして待つこと2時間が経過した。
すっかり弱りきった私の前に、でっかくて引っ込みのつかない腹を抱えながら、
その選挙参謀長は現れた。
サッカの低姿勢から見て、その人がずいぶん偉い人だとはわかったが、
こちらはずぶぬれで2時間待たされたこともあり、当然ぞんざいな態度。
『君がサッカの友人の日本人かい?』との問いも、『あぁ』と生返事のまま黙り込む。
その様子を見てか、家の中からタバコを取り出してきて、ぽんと私の前においた。
私が吸っていた銘柄(インドネシアの銘柄)と同じタバコだった。
『まぁ、吸いたまえ』。



妙なもので、人から物をもらうと人間気分が良くなるらしい。
それ以後は、現職の知事について私の知る限りの良い点を話し合っていた。
副議長はそれをいちいちうなずきながら手帳にメモしていた。
これも妙なことだが、自分の話を人が一所懸命にメモをとりだすとすこぶる気分がよくなったりする。
だから小1時間もその話を続けてしまった。
最後に副議長は、『君の話は明日議会で話そう。とてもいい話をありがとう』と
お礼を言われてしまった。
またまた妙なもので、人から有難うと言われるとつい調子に乗ってしまうものである。
なので副議長から『最後に、現職を推薦します、と君のサイン入りでここに書いてくれるかい?』と
手帳を渡されたら、ほいほいとサインをしてしまった。
しかも副議長の言われるままに私の所属をJICAということにして・・・。



その後、副議長から同じ銘柄のタバコをさらに二箱手渡された。
タバコを三箱もただで手に入れたことでホクホク気分だった。
が、アレジャンに戻ってから、自分の行動が軽率だったと反省した。
三箱のタバコ如きでおだてられた後味の悪さが相俟ってか、
同じタバコなのに、その煙は苦い味だった。



同年6月、サッカから携帯でメールが届いた。
私の書いた1枚の紙切れがはたして通用したかどうかは知らないが、現職が勝利、とのこと。
サッカは大喜びだったが、私は後味の悪さを思い出し、タバコの銘柄をかえることにした。



あれから約1年が経とうとしている。
そしてこの4月(2006年4月)、私はまたアレジャンに向かおうとしている。
現職の知事が再選を果たさなければ、アレジャンに明日は無い、とサッカは言ったが、
果たしてアレジャンは変わっているのだろうか
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日曜日が、村の祭りだったので、
インドネシア人研修生の授業ができなかった。
なので、今日が振替え日。
今回は、宿題のレポートの議論から。
前回の講義で説明した直売所の形態それぞれを
インドネシアの社会で実施しようとしたとき、
どういう利点と問題点が浮かび上がるか、をレポートとして出していた。

インドネシア研修生のH君が、もっとも将来性を見出したのが
スーパーマーケットなどの一角に、地元生産者の直売コーナーを設ける
という形の直売所だった。
といっても、誰でも参加できるものではなく、スーパーと契約した農家しか
出荷できないものがいいだろう、とH君は言う。

講義では、近所のスーパーの取り組みを説明した。
そのスーパーでは、登録をすれば誰でもスーパーの直売コーナーに品物を
置くことができるのであるが、
H君はそれをよしとはしなかった。
「誰でも品物を置けるようにしてしまえば、インドネシアの場合、近くの市場と同じになってしまいます」という。
インドネシアの市場では、大野の七間朝市のように
生産者が敷物などを引いて、露天形式で直接販売している。
H君が言うには、
「スーパーの中で誰でも置けるような直売コーナーを作っても、メリットを感じない」
とのことだった。
そういう農家なら誰でも置けるようなコーナーであれば
消費者は市場で買い物をするんじゃないだろうか、というのがH君の考えだった。
なので、
珍しい野菜や栽培が難しい野菜、またクオリティが高い野菜を生産できる生産者だけが
スーパーの直売コーナーに出荷できる方がいいだろう、と考えたようである。

日本とインドネシアとでは、社会的文脈がまったく違う。
日本でもスーパーやデパートなどによっては、客層がちがうのだが、
インドネシアでは、その違いがより一層大きい。
金持ちばかりが通うモールやスーパーもあれば、
そういう人たちはあまり足を踏み入れない市場もある。
(金持ちの使用人が代わりにアクセスしている場合が多い)。
そういう市場では、より大衆的で、同じ野菜でもスーパーのそれより値段も安い。
H君曰く、
「スーパーで野菜を買うのは、金持ちです」
だそうだ。
だから、値段が高くなるような生産が難しい野菜を出荷できる農家限定の
直売所の方がいいと思ったようだ。

なるほど。
そこで、1つ質問をした。
なぜ、金持ちはわざわざ高い金を払って、同じ野菜をスーパーで野菜を買うのだろうか?
H君は、市場は汚いし人が多くてごみごみしているし、などなどの理由をつけたが
僕が思うに、それはそのスーパーに対する「信頼」ではないだろうか。
H君は経済的な理由で、スーパーの直売コーナーは、
インドネシアの一般的な市場と差別化をはかるためにも
技術力の高い生産者に限定するべきだ、としていたが、
消費者の視点から見れば、それはそのスーパーに対する「信頼」が
そのスーパーでの買い物をする行動の原理のようにも思える。
だから、僕もH君の答えは否定しない。
品質管理ができない農家の出荷を認めれば、
そのスーパーの信頼を大きく損ねることにもなろう。
結果としては、僕の答えもH君の答えも同じ解なのだが、
その導き出し方には大きな違いがあるようだ。

直売所の講義はここまでにするつもりだったのだが、
経済的な視点なのか、それとも食の安心安全(信頼)の視点なのか
もう少し議論を交わしてみる必要があるようだ。
来週の講義は、もう少しその辺りを突っ込んで議論をしてみようか。
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さつまいもを掘る。
セネガル人のI君とインドネシア人のH君と共に。
どちらも、さつまいもは大好きとのことで、
つるにイモがたくさんついていると、2人とも大きな歓声をあげていた。

さつまいものことを
セネガルでは、「パダス」
インドネシアでは、「ウビ(正式にはウビジャラール)」と呼ぶ。
3人で、それぞれの国の呼び名で、楽しくイモ掘り。
ちなみに今日掘ったイモは、安納イモ。
中身がオレンジ色で、種子島の品種だとか。
なんでも日本に伝わったサツマイモの原種にちかいらしい。

イモを掘ったら、洗わなくちゃいけない。
大規模のサツマイモ農家じゃないので、機械じゃなくて手洗い。
セネガルのI君は、力がありすぎて、どうしてもいもの皮までむけてしまう。
彼は日本語がまだまだわからないので、
何度も「やさしく洗って」と言葉で支持しても、なかなか通じない。

が、コミュニケーションは何も言葉だけじゃない。
それならば、ジェスチャーだ。
芋を女性に例えて、それを優しく愛でるように洗う仕草をすると
I君もH君も大爆笑だった。
不思議なもので、たったそれだけで、I君は芋の皮をむかないで
きれいに洗うようになった。
言葉に頼らないコミュニケーションを長年異国で続けてきた経験が
こういうところで、意外に役に立つ。

こうして無事収穫洗浄作業を終了した。
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週末は以前書いた青年海外協力隊のエッセイのお引越し。
これを含めてあと3話でおしまい。




伝説の男

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『行政が作るものはすぐに壊れちまう。このアスファルトの道は、雨季が来たらはがれるのがおちだ。でもよ、ただひとつ壊れないものがある。なんだか解るか?』

これは、ひさしぶりに私がアレジャンへ里帰りした時に、
ペテペテ(ミニバス)のなかで聞いた台詞。
村の親父が、すぐに壊れるアスファルトの道にケチをつけていた時に、
ぽっと出てきた台詞だった。


読者諸君、お久しぶりである。
長らく書かなかった、いや、書けなかったこのエッセイを再び書けることに喜びを感じている。
読者諸君に、再びアレジャンそしてその周辺の人々の暮らしを紹介できることに喜びを感じている。
大学にはいり、もう少し頻繁にこういったものを紹介できると思っていたが、
個人的な能力の限界もあり、全くできていなかった。
また、私に筆をとらせようという人物もしくは出来事がなかったことも一因している。
そして今回、アレジャンへの帰郷の際、ある男の話が私に再び筆をとらせることとなった。
やはりアレジャンには、何かある。
そう、うずうずしてみんなに知らせたくてしょうがない何かが。



2004年9月3日、大学の長期休みを利用して私はアレジャンへと里帰りをした。
雨の街という名をいただいているボゴールの街は、乾季でも毎夕雨が降る。
そのためか、涼しく、また緑も深い。
そんな街に慣れ親しんでしまった私には、スラウェシの乾季は体にこたえた。



暑い。
暑い。
とにかく暑い。
スラウェシの乾季は、全てを焼き尽くすかのように暑い。
草は枯れ、木は葉を落とし、大地は酸化鉄を含む赤い土をむき出しにする。
そして、その上に暮らしを営んでいる人間も、真っ黒に焼かれている。
季節柄、アンギンケンチャンという強風が吹き、椰子やバナナの木が大きく揺れていた。
そんな殺伐とした風景の中で、私はペテペテに乗り村へ帰ろうとしていた。
そう、わが故郷アレジャンへ。



夕方にバルーに着いたこともあり、村へ向かうペテペテは数少なくなっていた。
聞けば、アレジャンまで行くペテペテは無いとの事で、
少し多めに払ってアレジャンまで行ってもらうことにした。
同行していた妻は、私とアレジャンには向かわず、途中の村で降りた。
彼女も私にとってのアレジャンと同じくらい思いいれのある村がある。
彼女はその村で降りた。
その村はケレンゲという。
話は横にそれるが、ケレンゲという集落には、
アレジャンまでを含む地域一体に強い影響力を持つ一族が住んでいる。
かつてバルーに王様がいた頃、その王様に任命されてそれらの地域を開拓した子孫だ。
この話の詳細は、妻が書いた『村落開発支援は誰のためか』(明石書店)に
詳しく書かれているので、そちらを参考にしてもらいたい。
余談だが、その一族の長は
『アレジャンは、悪党が住んでいる』とほとんど名指しで、
アレジャンの集落長ラエチュの悪口を言う。
もともと地域的に繋がりのうすいアレジャンは、
ケレンゲの意向を無視することが多かったからだろう。



さて妻がペテペテを降り、一路アレジャンに向かう途中だった。
スイスイと進むペテペテに、何か違和感がある。
なんだろう。
うん?スイスイ?
そう、ペテペテがスイスイと進んでいくのだ。
普通ならケレンゲを過ぎた辺りから、がたがたと揺れながら進むはずが、
今回はスイスイと進んでいく。
道がきれいに舗装されていたからだ。
もともとケレンゲを含む地域は、道が悪い。
アスファルトがひかれていても、それは所々で、
ペテペテなどの車両は大きな穴や窪みをよけながら進むのが普通であった。
そのため雨季などは10キロかそこらの距離を30分以上もかかる場合もあった。
それがどうしたことだろうか、きれいに舗装されているではないか。
いや、舗装自体は驚くことではない。
私が2000年にこの地を離れる前に、すでにこの地域は舗装されていた。
しかし、それは4年も前の話。
日本ではあまり考えられないが、これらの道は1年と持たない。
工事が突貫だから、とか、
手抜きだから、とか、
資材をケチっているから、とかの理由で。



道がまだきれいなことに驚いていると、
ペテペテに乗り合わせていた親父がこういった。
『舗装しなおしたんだよ。アレジャンまできれいに舗装されているんだ』と教えてくれた。
へぇ、また舗装しなおしたんだ、と私の言葉を合図に、親父達の愚痴が始まった。
『そうさ、また舗装しなおしたんだ。まただよ。1年と持たない道を毎回毎回作り直す。お金の無駄さ』と後ろの親父。
するとペテペテの運転手が
『アスファルトが薄すぎるんだよ』と一言。
最後部で灯油の詰まったポリタンクを抱えていた親父は
『知っているか?アスファルトをひく時に、工事のやつらは土を混ぜていたぜ』と
ほんととも嘘ともわからないことをいう。
その横の男は『アスファルトの道路にすぐに草が生えてくるんだ!信じられるか?』とぼやく。
『行政が作るものはすぐに壊れちまう。おい、日本人。このアスファルトの道は、雨季が来たらはがれるのがおちだ。でもよ、ただひとつ壊れないものがある。なんだか解るか?』と再び後ろの親父。
なんだ?コワレナイモノって?
そんなものがあるんですか?という私の問いに、彼はにっこり笑って
『トールの灌漑だよ』と答えた。
鳥肌が立った。



私もトールという名前をもっているが、私には灌漑を作る能力は全く無い。
そうこれは私のことではない。
私より少し早い時期に、この地で協力隊員として派遣されていた、
灌漑が専門のトールという青年のことだった。
トールはその当時かなり苦労をして、そしていっぱいいっぱい悩んで
村人と一緒に、それまでその地域では見ることの出来なかった近代的な灌漑を作った。
とても立派な施設で、私が赴任してきた時、その施設を見て彼の偉大さに敬服したものだった。
しかしそれとは裏腹に、住民達の手による開発という謳い文句のプロジェクトであったため、
必要以上に住民達にも苦労をさせていたことは否めない。
見たことも無い施設を、灌漑の素人である村人が作るのだから。
それでもトールの人柄とそれに関わった村のリーダー達の努力で完成までこぎつけた。
すこしファール気味の手段もあったが、それは全体の中で至極小さなことだと今は思える。
その当時の苦労話をまとめたものは、
やはり妻の書いた『村落開発支援は誰のためか』(明石書店)を参照していただきたい。
・・・なんだか宣伝の多いエッセイだ。



さてその親父。
『トールはな、妥協しなかった。灌漑の施工に使われた石は、どれでも良いってわけじゃなかった。トールが選んで、いいってやつだけを使った。セメントに混ぜる砂は、一度洗ってから使ったんだ。信じられなかったよ、そんなことは。行政のする工事は、下手をするとセメントに入れる砂が無くて、土を混ぜる事もあるのに』。
トールのその当時の工事には、トールがいいと思う資材だけを厳選して使用した。
業者が使用する資材でも厳選して使用したと聞く。
ただ、それが当初村人には理解されなかった。
なぜそんな手間をかけるのか、と。
そして、それから時は経ち、トールの灌漑が出来てから7年の月日が経とうとしている今日、
村人からトールの事業の評価を聞いた。
バルーには、これまで30人近くの協力隊が入っている。
日本人がいるっていうのは、村人は知っているが、
普通一人一人の名前まで覚えちゃいない。
それが、トールは覚えられていた。
伝説の灌漑と共に。



トールの灌漑は、完成後から順調に使用されていたわけじゃない。
むしろその逆だった。
97年に完成し、その後2作ほどその灌漑が使用されたが、
98年にあった大雨で、山崩れのため土砂に埋まってしまっていた。
トールの後任で来た隊員は、その状況を見て『村人では直せない』と判断した。
私もそう思った。
水路は土砂で埋まり、堰の水門は壊れて使用不可能だった。
後任の隊員はなんとか修復に努めようとしたが、
苦労して作った灌漑が1年も持たなかったことに愕然とした村人は、
出来るだけ自分達が負担を軽くなるように交渉し、
結果として協力隊側と物別れに終わっていた。

その時、私はそこにいたのだが、『ああ、これでこの灌漑は使われなくなる』と正直そう思った。
しかし、事態は違っていた。
私が帰国する2000年まで特別な動きは無かった。
でも、その後今日までの間に、何度も何度も住民達で少しずつ灌漑が修復されていった。
土砂を取り除いたら、頑丈に作られたトールの水路が顔を覗かせた。
土砂が押し寄せてきた堰は、
その土砂の重さにも耐え壊れることなく水を堰き止め、水路に水を流すことが可能だった。
こうして土砂に埋もれたトールの灌漑は少しずつ修復され、
そしてそれごとに改めてトールの技術への畏敬の念に変っていったに違いない。



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      トールが作った水路

アレジャンでは、今年、落花生が壊滅的な被害を受けていた。
もともと水の豊かなアレジャンでは、トールの作ったような灌漑は必要ではない。
しかし、今年の乾季は厳しく水も少なく、
その結果害虫と病気が発生しアレジャンの落花生は全く収穫の無い状況だった。
アレジャンに住む親友のサッカ(サカルディン)は
『ケレンゲの(トールの作った)灌漑の所だけが、(落花生が)青々としている』
と本気で羨ましがっていた。



トールの後任の隊員が修復しようとした時の住民側代表だった男は、
『20人くらい村人を集めて(トールの灌漑を)直しているよ』と誇らしげに語った。
後任の隊員が直そうといったときは渋ったくせに!


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    頑丈な堰

今年トールの灌漑のすこし下流の方で、
新たに行政から援助が入り、ポンプ灌漑の施設を建設していた。
それらを含めて、ケレンゲで強力な影響力を持つ長は言う。
『外からの援助はいつもそうだ。村に合わない。ポンプの管の太さ、知っているか?あんな大きな管じゃ、水をすえるはずない。それくらい水があるのは雨季の時だけだ。だからあのポンプは、水がふんだんに空から降ってくる雨季に使うんだろう。意味が無い』と。
トールが当時灌漑を作ったとき、正直言って私はあまり賛成できないでいた。
灌漑が、じゃなくて、そのやり方に。
長の言う『村に合わない』ものだとも思った。
そして壊れた時に、村人が直さない姿を見て、やはり『村に合わない』ものだと思った。
しかし、それから月日が経ち、『村に合わない』と思ったものは、
村人達の手でしっかりと管理され、そして尊敬されていた。
未だにトールの手法には諸手を挙げて賛成は出来ないが、トールの技術は素晴らしい。
妥協しない彼の姿勢が、土砂に押し寄せられても頑丈にそれを支える堰の姿とだぶる。
行政がひいたアスファルトの道に、早くも草が生え始めているその横で、
人口に膾炙するトールの灌漑は
今日もその青々とした畑に水を送り続けている。

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外国人研修生問題ネットワーク 編 『外国人研修生 時給300円の労働者』:壊れる人権と労働基準.2006年.明石書店.

本書は、JITCO(国際研修協力機構)による研修制度について、その制度と研修内容を批判している本。
僕の農園では、まさにJITCOの研修制度により、二次受け入れ機関として外国人研修生を受け入れている。現行の研修制度で何が問題として議論されているのかを知るために、本書を手に取る。

題名からして解るのだが、本書で取り上げられているもっとも根幹の問題点は、研修生は労働者なのか研修生なのか、であろう。JITCOの研修制度では、来日1年目は研修生として扱われる。支払われるのは、労働に対する「給与」ではなく「研修手当」である。そして制度上では、研修内容として実務研修以外に非実務研修(座学)として、実務研修の1/3の時間を座学の時間として研修生のために用意しないといけない。2年目からは技能実習生となり、在留資格も研修から特定活動に変更し、労働に対する給与が支払われる。

本書で主に問題として挙げられているのは、研修生である1年目から残業や休日出勤といった労働者として扱われることである。また座学も時間的に不十分で、なかにはまったくしていないケースもあると批判している。
また二次受け入れ機関内での研修や労働が表には出てきにくいため、不当な給与や不当な残業、時には暴力などの温床となっていると批判している。たしかに、二次受け入れ機関になるには、研修に対する特別な資格は必要なく、多くが人手に困っている中小企業なのである。その面から考えても、外国人研修生は「安価な労働者」と捉えられていることも否定はできない。経営的にも余裕がなく、外国人研修生を安価な労働者と考えている二次受け入れ機関で、まっとうな研修が行われるはずはなかろう。

本書では、研修と技能実習が一つの制度のなかにあることが問題だとしている。そして政策提言として、純粋な技術移転に関する外国人研修制度は活かしつつ、別個に外国人労働者の導入を検討し、労働ビザで入国させるべきだとしている。2つの目的を持った、ある意味、人手不足の中小企業救済としか思えないような現行制度を改め、別々の2つの制度(研修制度と労働者制度)に分けるべきだとしている。

では、本書に問いたい。
外国人研修制度として必要なものはなんだろうか?
本書では、研修制度を受け入れる企業の条件として、従業員数20人に対して1人の研修生としているが、従業員数が多ければ、まっとうな研修が行われると言いたいのであろうか。本書の提言通りいけば、僕のケースでは、従業員数は10名となり、研修生の受け入れはできない。僕ではまっとうな研修ができないというのであろうか。企業体の大きさが研修ができるかどうかの判断基準ではないであろう。
また研修制度に求められるものは何であろうか?
本書では、「大手企業などが中国で新しい工場を立ち上げるときに、その生産ラインのキーポイントに就く人たちを日本に呼んで、事前に研修させることはある。そういう人たちは、正真正銘の研修生と言えよう」と書いているが、自国の生産体制を強固のするためという意味では、国内で安価な労働者として扱われる研修生と、海外で安価な労働者をもとめて企業が出ていくという2つのケースの間に、どれだけの差があるのだろうか。甚だ疑問を感じる。研修生たちの自国の発展や開発に対する自治を強化うるための研修でなければならないと、僕は考える。結局、本書は国内の法律と制度の差を突っつくだけで、相手国の発展や開発については、それほど気を配っていないのが読み取れる。国内だけではなく、研修制度の延長上に存在する相手国での開発にまで踏み込んだ議論をし、それを反映させるような形で、研修制度に対する提言を行ってほしい(批判をするなら、とことん議論してほしい)。
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県のシルバー人材派遣の研修で、
うちの農園に参加者が見学に来る。

県がシルバー人材を活用して「援農」をしようと企画しているもので、
見学に来た参加者は、30名ほど。
参加者は、農業経験がほとんどないような感じの人ばかり。

「他人を雇って農業している人が少なく、こうやって人材派遣の制度を作っても、農家に受け入れてもらえるかどうか」
と県の担当者は心配していた。
また、ただ単に小間使いになってしまうのではないか、とも心配していた。
雇用しても、同じ目線で農について話が出来るわけでもなく
ただただ単純作業できついルーティンワークなってしまうことが多い、
と県の担当者は言っていた。
「人を雇う、ということはどういうことかがわからないといけない」とも。
県では、今、農業での雇用を促進しようと動いている。

これまで農業は、産業でありながらも生業でもあった。
だから、それを支える生産体制は「イエ」であり、
その延長上のコミィニティとしての「ムラ」だった。
他人を雇用するということは、
つまり、この「イエ」に他人を入れるということになる。

家族で内々に決まってきたある種の仕事上の慣習などは、
雇用することで、一度ばらばらに分解させられ、再構築を迫られる。
農業分野において、使用者と雇用主がぶつかる面も、そこにあるように感じられる。
生産体制に他人が入ってくれば、
家族から労使関係へと、それまでの関係も再構築しなければいけない場面も出てくる。
家族協定などで、これまでも家族内での仕事担当分担などをドライに決めるように
行政が進めては来ているものの、雇用となるとより一層の明文化も必要となろう。

また、生業だから許された農閑期と農繁期の労働投入の差も
雇用となると安定的に給与を払う必要が出てきて、農業の形態の変化も迫られる。
「今月は仕事ないから来なくてもいいよ」とはさすがに言えなくなる。
家族内労働の場合、年寄りがその労働投入の差を埋める役割をしていた。
「ばあちゃん、明日からしばらくは畑に出んでもいいよ」
で済まされていた労働調整は、
雇用となると、そうもいかないだろう。

会社組織にしてしまった農業団体であれば、
こうした人材派遣の制度をうまく利用することは出来るかもしれないですね、
と、県の担当者とも話になった。

また派遣される側には、農業のサイクルが理解できず、
一般的な雇用として期待していると、そのギャップで仕事が務まらない人も多い。
だから、かつてうちで雇った街の人は、
ビジネスライクに事を進めようとして、そのギャップでうちらとぶつかり
辞めていった人もいた。

明文化されない作業が多く、
気がついた時に誰彼となくこなしていく作業がおおい農業に、
家族で培った農の息遣いの中に雇用を導入するというのは
雇用する側も雇用される側も
至極、しんどい作業を突きつけられることもあるのである。
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農地転用と開発行為の許可がようやくおりる。
そして、建設業者と契約を結んだ。
これで家が建ち始める。


朝から市役所へ行き、農地転用の許可と開発行為の許可を受け取る。
昨年の11月に申請を出したので、本当に1年かかった。
長かった・・・。

許可証を受け取ると今度は、そのまま設計事務所へ行き、
入札で決まった建設業者と契約を交わす。
高額の契約書に判を押すのは、なんとも緊張する。
近代化資金といい、今回の新築といい、このところ借金ばかりが増える気がする。

契約を交わすと、その足で銀行へ。
契約の手付金として、建設業者に1割支払いをする。
当然、設計事務所にも支払いがあり、それも合わせて支払う。
銀行での待ち時間に、傍にあった雑誌を読んでいたら、
30代の給料についての特集があった。
僕の自由になるお金(事業資金は別)は、平均給与の半分しかなかった。
別にいまさら驚きはしない。
農業なんてそんなものだ。
ただ、30代の借金部門では、僕がかかえている借金が、
平均をものすごく大きく上回る額だったので、なんとなく満足。
借金も財産。
そう自分に言い聞かせている。

入金後、JAへ。
住宅ローンの申し込み説明と申請に必要な書類を取りに行く。
事前審査で、JAの住宅ローンを借りられることが解っていたので、
今回は、いつ申し込みをして執行をいつにするかを話した。
来年の1月から金利が変わるため、その金利が上がりそうか下がりそうかで
申込みの時期を考えることになりそうだ。

さて、一気に物事が進んだのだが、肝心の着工はいつになるのか
今現在ではわからない。
工務店さんの準備もあるのだが、
それ以前に、建設予定地にうちが置いてあるあるものを移動させないといけないのだ。
そのあるものとは、園芸用の土。
それが建設予定地に大量に盛ってあって、
それを別の場所に移さないことには、着工出来ない。
そして、その土の移動先には、大量の雑木の剪定枝や原木が置かれており
まずそいつらを始末しないことには、園芸用の土の移動もままならない。
その剪定枝や原木は、新築に導入する薪ストーブの薪に、と集めたものである。

そこで夕方から、チェーンソーを使ってそれらの原木や剪定枝を
次々と玉切りにする作業に取り掛かった。
慣れないチェーンソー作業で、
チェーンの弛みや切れが悪くなるためチェーンの目立てなど、
なかなか手間がかかったのだが、2時間ほどの作業で、すべてを片付けた。

今週中には、重機を使って土を移動させよう。
いよいよ家が建つ。

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日曜日の昼休みは、座学。
インドネシア人研修生のプログラムの話。

8月下旬から数回にわたって、
日本の農産物市場について授業をしてきた。
特に、H君は直売所に興味があったので、
ここ3週間ばかりは、直売所についての座学。
今日はその最終日。

直売所の発展の経緯や背景の考察や
実際に、僕がアクセスしている直売所の利点や問題点を一緒に考察した。
食の安全やトレーサビリティといった消費者の意識の向上が
直売所を大きく発展させた要因であろう。
また、農家が少量多品目を手軽に出荷できるという、
既存の市場には対応不可能な農家の環境すべてが商品になりうるという
柔軟性と総合性も直売所の大きな魅力であろう。
そして何より、H君が注目をしたのが
「農家自身が自分の商品に値段をつける」という
直売所独自の販売システムである。

インドネシアでは、大抵の農家は自分の野菜に値段をつけるという
イニシアティブを持ち合わせてない。
ほとんどの農産物が、商人主導の交渉の中で値段が決まっていく。
H君の言う
「どうして日本の農家は、市場において交渉権をもつのか?」という疑問も
インドネシアのそういった背景から出てくるのであろう。

直売所について座学が進むと
H君はあることに気がついた。
スーパーの中にある直売所コーナーが直売所だと思っていたのだが、
福井の大野にもある七間朝市のように、道路の脇に野菜を並べて販売するケースや
個人的な建物を建てて、道路わきで販売するケースなども
いわゆる「直売所」なのだということに気がついたようである。
そしてそれらのケースはインドネシアにも多くある。
一般的にインドネシアで市場と呼ばれる場所には、その外側を取り巻くように
農家が道の脇に野菜を並べて直接販売したりする。
また道路わきにKiosと呼ばれる掘っ建て小屋を建て、そこで野菜を販売する農家もいる。
日本でも元々はそうだったのだ。

ただそれが、日本では自給率の低さやそれに関連しての輸入食品の事件が相次ぎ、
消費者の食の安全にたいする意識が高まり、
その一方で、スーパーマーケットの出店競争の中で
必要経費を抑えることができ、かつ、消費者のニーズにこたえるような形で
スーパーの店内に直売所コーナーが設けられるようになった。

ただ、それが最良の形ではなかろう。
直売所のスーパーマーケット化は、もともと直売所が機能として持っていた
消費者と生産者の交流の場は失われつつある。
なぜなら、スーパーの直売所コーナーは、
スーパーの野菜コーナーと何一つ風景が変わらないのだ。
そこはもはや消費者と生産者の交流の場ではなく
販売のためのツールの一つでしかない。
定期的に行われるファーマーズマーケットといった機会も
やはり農家には重要だと思う。
先日、料理講習をした時、自分の野菜を食べてくれている消費者との交流は、
自分の農業へのモティベーションにとっても、とても重要なことだった。
そういう機会を維持しつつ
直売という経済面での利点も活用していけばいいんじゃなかろうか。
そういう議論になって、市場を考える座学はここで一旦終了となった。

次回は、農業ビジネスのサクセスストーリーを漫画仕立てにした本があるので、
それを題材にケーススタディする予定。


そうそう、直売の座学の中で無人販売所の説明もしたのだが、
「その無人販売所はインドネシアでは無理ですね。たぶん、その販売所ごと翌日までには盗まれていると思います」。
と、にこりともしないでH君は答えていた。
公衆電話が、電話機ごと盗まれる国なので、そういうこともあろう。
社会的ジレンマという大きな問題が、あの国にはあるのである。
それもどこかで議論しなくては。
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親子料理教室に参加する。
といっても、参加者じゃなくて、
何がどう間違えたのか、講師としての参加。

以前、その道の方々が集まって、何か食育活動ができないか、
と話し合ったことがあったが、それが具体的に形になって
僕を含めた何名かの人で、親子料理教室をやっていくことになった。
なので、これから3ヶ月に1回は、
僕は料理教室をやることになるらしい。

さて、その1回目。
参加家族は、当日キャンセルが2家族あり、4家族8名。
そのうちの1家族は、どこでどう聞きつけてきたのか
わが娘と同じ保育園に通っている家族。
知り合いがいると、「料理講師」として前に立っている自分が
なんとも照れくさい。
ただ僕に求められているのは、料理の腕や知識ではなく
素材として使う野菜たちを農家の視点から話をすることなので、
その意味では、まぁ、僕が講師として前に立っていても
それほど違和感はないんじゃないだろうか。
などと、勝手な解釈で講師として振る舞ってきた。

メニューは4品。
生協料理教室


有機米のおにぎり
オクラのスープ
ベビーリーフのサラダ
さつまいも(安納いも)のココナッツミルク煮
である。
これらすべて、僕の圃場でとれた米や野菜ばかり。

作る前に、野菜を箱に入れて、中身を当てるゲームをしたり
調理作業しながら、野菜のうんちくや農業の話を織り交ぜた。
ただ子供目線で、農業の話をするのは、なかなか難しいと実感。
また子どものスピードで作るので、農業の話が長くなると
時間が足りなくなり、焦ることも・・・。
料理教室をお手伝いしてくれた方々が、とても優秀だったので
最後には、時間の帳尻が合い、なんとか予定時刻に試食ができた。
お手伝いしてくださった方々、本当にありがとうございました。

参加者からは、農業に対する関心や食に対する高い意識などが
感じ取られ、僕にとって本当に良い刺激となった。
今、何が求められているのか、それが僕の野菜を食べてくれている人たちから
聞ける機会があるというのは、本当に大切なことだと思う。

次回は、12月か1月。
ごぼうやカブ、大根などをつかった料理教室をしようかと考えている。
僕にとって楽しみな活動が、またひとつ増えた。
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週末は、青年海外協力隊のエッセイのお引越し。
もうすぐおしまい。



ロティ マロス


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一言で言えば、名物。
しかし、お世辞にも美味いとはいえない。
かすかすのパンにやたらめったらあっまい独特のジャムを挟んだだけのもの。
地元の人は、愛着を持ってそれを呼ぶ。
『ロティマロス』と。


州都マカッサルから州街道を北上すると、マロスという町にでる。
マロスから更に80キロほど北上するとバルになる。
そのマロスの町に入りかかる街道沿いに、ロティマロスは売られている。
日本語に訳すなら、『マロスパン』と言ったところだろうか。
味はとにかく甘い。
そして独特の味。
南国のフルーツをつぶして入れたような味がするが、
そこの店主は『味は秘密だよ』といって教えてくれない。
別に真似するつもりはなく、ただ食べ物として真っ当な物なのかどうか知りたくなる味だった。
しかしそれも初めのうちで、食べなれてくると美味く感じてくる。
舌が麻痺したのか、味覚がむこうになじんだからなのか。
とにかく、これはそんなお話。


アレジャンに住み着いてしばらくたった頃、私は味に飢えていた。
毎食殆ど定番となったインスタントラーメンとご飯、
たまに出る魚料理は生臭いかターメリックで同じように味付けされているかで、
どれも私の味覚を刺激しない。
一度市場でいろいろと食材を買ってきたことがあったが、
下宿先の若奥さんは何を勘違いしたか、
その食材を家族に食べさせ、私には定番のインスタントラーメンとご飯だけを食べさせた。
ミスコミュニケーションだったと反省はしているが、
まったく察しない下宿先の家族にも苛立ちをつのらせていた。
そんななかだった、私がロティマロスに出会ったのは。


それは、村から出稼ぎに出ていた若者が帰郷してきた時の事。
山のように持ち帰ったお土産の中に、くしゃくしゃの新聞紙にくるめられたものがあった。
子供達はそれが何物かを心得ていて、しきりにはしゃいでいる。
若者は集落長の親戚に当たる者らしく
(といってもアレジャン集落の住民の殆どはお互いに親戚なのだが)、
ラエチュやその家族にもお土産を持ってきていた。
そして例の新聞紙にくるめられたものもあった。
『田谷も食べるか?美味いぞ』とその彼。
食べ物?といぶかしむ私を横目に子供達は、新聞紙を開き中に在るものを食べ始めた。
見た目にはパンだった。
勧められるまま一つを口の中へ。


まずい。


百歩譲って甘いのは我慢しよう。
しかし鼻に残る匂いがきつかった。
砂糖を飽和状態になるまで混ぜ、
ドリアンやジャックフルーツをつぶして美味くないエキスだけを加えたような、
そんな味だった。
なんてやつらだ!何て味覚だ!
ターメリックは口に合わないし、川魚は泥抜きしていないため生臭い。
インスタントラーメンはぬるいお湯をかけただけで、ばりばりと歯ごたえがある。
我慢ならなかった。


そんなある日、定期健康検診のため首都ジャカルタに行くことになった。
ジャカルタは日本人も多く住んでおり、日本食も多い。
洋食の種類も豊富で、私の味覚は充分に満たされ、そして刺激された。
次の定期検診までしばらく、我慢のアレジャン生活になる。
検診は半年に1回。
半年分の食糧は持って帰れないが、
せめて我慢できなくなった時に食べられるようにと、
ここぞとばかりに日本の缶詰や保存食を買った。
そして村人にも一つお土産を買った。
スラウェシ島ではまだ食べられなかった『Dunkinドーナッツ』だった。
私はそれほどこのドーナッツが美味いとは思わないが、
それでもロティマロスよりははるかに良かった。
まってろよ、みんな。
教えてやる。
美味い菓子パンとはこういう物の事をいうんだ。
そして20個ほどのドーナッツを持って村に帰った。


不評だった。
かなり不評だった。
というか食べてさえもらえなかった。
ひと口やふた口味を見るとすぐに、『美味くない』といって食べてもらえなかった。
あれほど甘い物好きにもかかわらず、
砂糖をまぶしてクリームが入っていて、
チョコレートがコーティングされているDunkinドーナッツは、
村人の口に合わなかった。
そして食べ残されたドーナッツにハエと蟻だけが集っていた。
ロティマロスの10倍以上の値段がしたのに・・・。
食べ残した子供は『今度ジャカルタに行ったら、
ロティマロスを買ってきて』と無邪気に笑う。
ジャカルタのお土産にマロスのパン。
なんだか釈然としなかった。


そして月日がたち、魚の生臭いが美味いに変わり、
インスタントラーメンのバリバリという食感が癖になった頃、
ロティマロスは私の良く食べる食べ物の一つになっていた。
以前も話したが、週末はマカッサルという100キロ離れた街までビールを飲みに行く。
その帰りに、マロスでロティマロスをお土産に良く買った。
暑い国なので甘いものが無性に欲しくなる。
そんなときロティマロスは丁度良かった。
その場所で広く支持されている食べ物は、やはりそこの風土や文化によく合っている。
ダンキンドーナッツも美味いけど、ロティマロスもそれはそれで美味いと感じる。
『相手の価値観を理解して頑張ります!』などと
協力隊出発前のローカル新聞の取材で答えていたが、言うは安し行うは難し。
そんなことを実感させてくれたロティマロス。
読者諸君も、もしスラウェシに行く事があれば、是非食べてみて欲しい。


しかし、最後まで魚のターメリックの味には慣れなかった・・・。
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そういえば、
今日はイドゥル・フィトリ(イスラム教の断食明け大祭)だった。
インドネシアのH君も、セネガルのI君も
どことなく嬉しそうだった。

ちょうど、今日はサツマイモを掘ったので、
それを使って、断食月によく食べた「kolak」を作ってみた。
インドネシアのお菓子。
これをよくステイ先の家族と味わったものである。
(一般的には、カボチャやバナナを使う)

さつまいものココナッツミル


『サツマイモのココナッツミルク煮』
レシピ4人分

さつまいも  200g
砂糖  大さじ2
水  1カップ
ココナッツミルク  1カップ
クローブ(丁子)  2,3個
シナモン  1本

①さつまいもを1~2㎝のさいの目に切る。
②水1カップ・クローブ・シナモンを加えて、さつまいもを煮る(中火)。
③煮だったところに、砂糖を加え、弱火にする。
④さつまいもに火が通ったら、ココナッツミルクを入れ、ひと煮立ちさせたら火
を止めて、できあがり。


使った芋は、安納芋。
種子島の伝統野菜だとか。
今年はこれを少しばかり栽培してみた。
味もよく、色も面白い。
Kolakによく合う味だった。

「伝統」を内面化してそのイメージして味わうんじゃなく、
記憶や出来事、人とのまさに実体験による関係の中で食する。
たぶん原田津がいう「食べごと」とはこういうことだろう。
それで良いと思う。

伝統野菜といわれる安納芋はKolakとよく合う味だった。

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田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
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