09 29
2008

みず菜の芽

数日前に播いたベビーリーフの種。
大地を割って、芽が出た。

その小さな存在の中には、生命がみなぎっていて、
計り知れない力強さを感じる。
その力に比べたら、農の技はなんてちっぽけなんだろう。

僕ら農民は、ただただ、自然の力にぶら下がっているにすぎない。



(写真はベビーリーフ用水菜の芽)
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先日使用した足踏み脱穀機を返すために
近所の農家へ行く。
丁度、小屋で米を精米している最中で、脱穀機を片づける傍らに
脱穀機の話を聞いた。

僕のうちには、動力式の脱穀機しかなかったため(これもかなり年季が入って入るが)
この近所の農家から足踏み式脱穀機を借りたのだが、
どうしてこんな古い道具がまだ残っているのか、尋ねてみた。
すると、その農家は、
「動力の脱穀機もあったけど、あれやと種がとれん。足踏みでないと、実が割れたり傷ついたりする。来年の種籾をとるためには、足踏みでないと」
と教えてくれた。

田植えが機械化し、
苗が農協から来るようになり、
農家は自分で苗代をしなくなった。
だから農家は自分で種籾も取らなくなっていった。

種籾をとらなくなるということは、
種に関しての従属的な関係が出来上がると同時に、
それよりも重大なのが、農家が育種をやめるということでもあろう。
農民が圃場で直に選種選別し、優勢な株から種籾を取り続ける地道な育種活動が
戦前までの数千年数万年という農の歴史を支えてきたのである。
かつて神力や亀の尾など、
篤農と呼ばれた農民たちの地道な育種活動から生まれた品種が
この国中にあふれていたのだ。

「育種までしてたかどうかはしらんけど、俺のじいさんはやたらと几帳面な人で、いろいろと種籾を分けては取っていた」
とその農家は教えてくれた。
大事な種籾をとるための道具として、
足踏み脱穀機は、その主な役目を動力に譲った後でも
農家では活躍していたのである。
だから大事な道具として、今でも農家の小屋に眠っていることが多いのかもしれない。
またひとつ、先人の農の息吹を感じることができた。
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半年通してやってきた保育園の田んぼ祭り。
今日で最後のイベント。
収穫祭である。

収穫祭と言っても、ただ食べておいしいね、ではつまらない。
今回は、前回の収穫時にはさがけにした稲を、
できるだけ手作業で米にしようと試みた。

使う道具は、僕の父世代でも記憶があいまいなものばかり。
千歯こき
足踏み式脱穀機
唐箕
などなど。

もみすり(籾米から玄米にする工程)は、県の小型もみすり機を借りることにし、
精米(玄米から白米にする)は、近くのコイン精米所にたよることに。
この工程まですべて手作業になると、とてもイベント内に
出来上がった白米をおにぎりにして食べるところまで行けないかも知れない
と、実行委員会側で危惧があり、取りやめることに。

当日の参加者は70名ほど。
これまでのイベントでは日曜日開催だったのが
日程的に余裕がなく、仕方なく土曜日開催となり、参加人数は少な目だった。

イベントの工程は4つ。
まずは脱穀。
稲から籾米を取る作業。
これに千歯こきや足踏み式脱穀機を使用する。
千歯こきは、江戸中期に使われていた道具。
みどりクラブ(若手農業者クラブ)の会員の小屋に眠っていたものを持ってきてもらった。
足踏み式脱穀機は、大正時代から登場する機械。
インドネシアでは、まだまだ使われているシロモノ。
これは僕のむらのある人の小屋で眠っていたものを借りてきた。
これらを使って脱穀をする。

次は篩を掛ける作業。
千歯や足踏み脱穀機で脱穀をすると
どうしても稲藁が混ざる。それを取るために、2種類の篩を使って籾米と藁を選別する。
これも当然手作業。

そして次は、唐箕。
ハンドルを回して風を生み出す道具で、
籾米に含まれている実の入っていない米や細かい藁などを除去する工程。
風選の原理をつかって、風を起こし、そこへ籾米を入れることで
軽いゴミや不稔の籾は飛ばされてしまうというわけである。
これは僕の小屋の奥で眠っていたものを引っ張り出してきた。

各工程で、みどりクラブ員が、道具の使い方を園児や父母・保育士に指導するのだが、
そもそも機械化の進んだ稲作の中で育った若手農業者は、
これらの道具を学校の教科書で見たことはあっても
実際の道具に触れたことすらない。
当然、使ったことは全くない。
クラブ員の父母世代でも、「見たことはある」や「使った記憶はある」という
至極あいまいな記憶しかないのである。
何十年も途切れてしまった農の記憶を、このイベントで呼び戻そうという、
僕にとっては壮大な計画だった。

だから、脱穀機には何度も稲藁ごとを持っていかれたし、
千歯がかかりにくかったり、
唐箕で風が強すぎて米まで飛ばしてしまったり、と
四苦八苦したのだが、それでも何とかイベント内に半俵(30キロ)の米を
脱穀精米することができた。

こうして脱穀精米した米を
即、炊いておにぎりにした。
父母も園児も保育士もクラブ員もみんなでそろって食べるおにぎり。
僕の手に乗せられた小さなおにぎりを見ていたら、
なんとも言えない感動がわいてきた。
この中にすべてが入っている。
この半年のイベントの苦労もそうだが、
すべて手作業で行った米作りの技、
そして、先人たちの農の息遣いが、この中に詰まっているのかと思うと
いてもたってもいられない気持ちだった。
ある意味、このおにぎりが食べたくて、
僕はこのイベントを企画実行していたのだ。

普段は、米をあまり食べないわが娘も、ここぞとばかりにおにぎりをおかわりしていた。
他の子も父母も保育士もみんな笑顔で、とても楽しい収穫祭となった。

半年にわたって4回のイベントをした保育園の田んぼまつり。
これで終了となった。

こういうイベントをして発見したこと。
先人たちの農の息遣い(稲作)や技に触れることができたことは当然なのだが、
思った以上に園児たちがいろんな作業ができるということ。
子どもだからできないだろうと侮っていた作業もずいぶんときちんとできるじゃないか。
子どもの能力の高さも知ることができた。
それと、今回のイベントをやるにあたって、
むらの年寄りからずいぶんとアドバイスをもらうことができたこと。
昔話のインタビューにもなり、それが一番勉強になった。
道具やその技には、その当時の思い出が一緒に存在する。
道具の使い方を聞いているうちに、昔話になることも度々あった。
そこにその頃の農の営みを知ることができた。
道具や工程の変化が、僕らの暮らしに大きな変化を与えたことを
僕はこのイベントを企画する中で、学ぶことができた。

半年という長い間、企画運営に携わってくださったすべての皆様に
お礼申し上げます。
とても素敵な時間を、この半年、過ごすことができました。
本当にありがとうございました。

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09 26
2008

つるむらさき

この時期、
ひと雨ごとに寒くなる。

夏野菜もそろそろ終わりだ、と
雨は告げている。

それでも夏野菜は、天に向かって伸び続ける。
それでも農民は、黙々と収穫し続ける。

(写真:つるむらさき)
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最近、一段と自我が強くなってきた娘。
「これは○るちゃんがするの~」
と、本気で怒る。
それをさせようと、元に戻しても、機嫌は直らない。
そういうことがあってか、妻が保育園の日誌に、そのことを書いたようだ。
そうしたら、その日のお迎えの時、
担当の保育士さんからアドバイスをもらう。

この時期は、自分のテリトリー(場所だけに限らず、すべての行為)を
確認してそれに執着するらしい。
それがだんだん膨らんで、他人と重なり合っていく中で社会性を
身につけていくようである。
だから、保育士さんからは
「とにかく『だめ!』とだけは言わないでください」と言われた。
『いいよ』と言って、受け入れてあげること。
肯定的な言葉で受け入れてあげることが大事なのだという。
3歳を前にしたうちの娘は、言葉で言い聞かせれば、よく理解しようとする年頃。
なので、なにか我が出た時は、とりあえず『良いよ』と受け入れて
それから言葉でやさしく言い聞かせれば良いのだとか。

わが身を振り返ってみると
確かに、娘が我を張ると、ついつい『だめ』って答えていたような気がする。
『だめ』というネガティブな言葉は
それを発した人間もネガティブな気持ちにさせてしまうもので
そのあとは、大抵、ずるずると娘との関係やお互いの機嫌も下降気味だった。

だので、さっそく今晩(妻は出張中)から『いいよ』を使ってみることに。
実際にやりだすと、なるほど、と思うことが多い。
娘は我を出しまくるのだが、とりあえずそれは全部肯定的な言葉で受け止めてしまうと
こちらの気分もなんだか悪くはない。
娘の我もエスカレートしない。
ただいつもよりも、いろんなことに時間がかかることは間違いない。
それで焦れば、また『だめ』が頭をもたげてきてしまう。
大人の時間と子どもの時間。
そのギャップは、大人が歩み寄るしか、埋まる手はない。
冷静さと忍耐さを親に要求している。

良い感じで、過ごしていたのだが
食事中、娘が椅子の上でおもらしをしてしまい、
自分の忍耐のキャパシティを超えてしまった。
『だめ』が一度出ると、堰を切ったように出てきてしまうようだ。
とほほ・・・。

今日こそ、『いいよ』で娘を受け入れてやりたい。
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オクラ

メイガ(害虫)の卵を見つける。
オクラの実に。
虫も必死なのだ。

真夏よりも、秋が深まっていくこの時期に
よく卵を見つける。
種を残さんがために、
虫も必死なのだ。

僕に見つからないところに、産めばいいのに。
僕の収穫物じゃないところに、産めばいいのに。
そう思いながらも、潰す。

僕も必死なのだ。
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鮎漁に出る。
むらの大工で、週末は漁師となる2人と一緒に。

今年の春、念願かなって、むらの傍を流れる九頭竜川の漁業権を得た。
が、なかなか川に出る機会がないまま、時が過ぎていた。
むらの青年団の役員で一緒になった大工さんから
「鮎を取りに行くけど、行くか?」と誘われて、
さっそくついていくことに。

出発は、朝の6時。
場所は、九頭竜川の支流の上流。
「漁師は、たとえ身内でも漁場を教えん 」と半漁半大工の師匠が言うので
場所は明かせない。
川幅4~5mほどの清流が漁場だった。
昨夜からの雨で、川は少し増水していたが、それでも膝下程度。
晴れていれば、踝程度の水嵩らしい。
その川に入って、「わき投げ網」という網を
川を横断するように入れていく。
その網を、2m間隔で4本ほど仕掛けた。
「人によっては、この網を投げるもんもいるけど、わしは投げずに等間隔で置いて行くんや。そいで、あわてて泳ぎ回っている鮎が、この網に引っ掛かるのを待つ」。
網を置いて待つというので、どのくらい待つのかと思っていたのだが、
1つ目の網を仕掛けて、2つ目の網を仕掛けている途中に
すでに1つ目の網に、5~6匹の鮎がかかっているという具合だった。

途中、増水して、大量のゴミ(草や枯れ葉等)が流れてきて
網を使った漁は、一時中断したが、
それでも20分ほどで、30匹の鮎が捕れた。

大工の2人は、川の濁りが引くまで待って、漁を再開し
お昼までに200匹近い鮎を捕ってきた。
僕は、この日は仕事だったので、9時頃まで粘ったのだが、
再開を待てず、漁場を後にした。

待っている間も、2人の大工から鮎漁についていろいろと教えてもらうことができた。
この上流でのアユ漁は、9月一杯で終わりらしい。
上流の鮎は、大半が放流アユで、産卵を迎える10月には
九頭竜川の中流へと下りてくるらしい。
「10月からはさぎりが始まるさけ、今度はそっちでの漁になる」
と師匠は言う。

漁協では、漁業権を持つ人から出資者を募って
「さぎり」をこの9月上旬に九頭竜川に、何箇所か作ったらしい。
「さぎり」とは、川に杭を打ち、その杭にロープを張った漁場のこと。
産卵のために一団になってやってきた鮎は、そのロープに驚いて、
そのロープの周りを回遊するらしい。
それを網で一網打尽にとる漁をさぎり漁という。
どれも30cm級の子持ちアユとのこと。
この漁に参加できるのは、出資者と杭打ちを手伝った漁師のみらしい。
が、師匠曰く
「若いもんで、さぎりをしたいって奴はおらんから、田谷君来ても、みんなやらしてくれるやろ。その代り、来年はさぎりの杭打ちを手伝わなあかんざ」とのこと。
おおお、願ってもない話。
10月はさぎり漁に決まりだ。

師匠からは、他にも鮎について教わる。
「さぎりの一番の目的は、上流の放流アユじゃない。海から帰ってくる戻り鮎なんや。あれは美味い。産卵のために、中流へもどってくる戻り鮎をさぎりで取るのが、このさぎりの一番の目的なんや」と教えてもらう。
戻り鮎は、10月下旬とのこと。
昔は9月終わりにはさぎり漁をしていたらしいが、
温暖化の影響なのか、ここ数年は1か月ずれているとも教わる。

また九頭竜川でとれる川蟹漁も今年から再開しよう、と3人で話をした。
僕がまだ小さかったころ、この川蟹は、むらのいたるところで売られていた。
川蟹とはモクズガニのことで、高級食材とは知らずに育った。
いつしか、むらの漁師が減り、ここ5~6年は川蟹を見かけたことすらなかった。
それを今年から復活させようというのである。
「手伝いに来れば、3分の1は田谷君のもんやさけ(ものなので)」
と師匠は言っていた。

川との格闘。
そこには、うちのむらのまた別の暮らしの形がある。
僕もようやくそれにエントリーすることができた。


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週末は、他のサイトで書いていたエッセイのお引越し。
もうすぐ完了。




不完全な取引 その2



アレジャンではないのだが、私が活動をしていたチェンネという村がある。
アレジャンは山の中に在るが、チェンネは町に近い平野に位置していた。
そのためかこの村の住民の意識はアレジャンよりも先進的だった。
とは言え、それは些細な違いでしかない。
たとえば、テレビを持つ家庭がアレジャンより多かったり、
ペテペテ(ミニバス)がアレジャンより多かったりという程度である。
この村で私が懇意にしていた農民がいる。
ムハマッド氏(仮名)。
今年49歳。
先進的な考えの持ち主で、人よりも一歩先を進みたがる人物だった。
時には人が当然試さない事でも試したがるところもあった。
『落花生考』でも紹介したのだが、落花生畑に除草剤を散布して雑草駆除をしたのも彼だった。
人一倍やかましくて、人一倍へこむ。
どこにでも顔を出し、ときどきみんなから嫌われる。
そんな彼を他人のように思えなかった私が、彼と活動をともにしたのは自然な事だった。

協力隊活動の3年目、私は困っていた。
1年、2年と生産重視の農業指導を行ってきたにもかかわらず、
結局最後の販売の段階で価格暴落や市場が見つからず、
農民に迷惑をかけてしまう。
大きな市場は近くにはない。
100キロ離れたところにある都市マカッサルがその対象となるが、どうにも遠い。
マカッサルの商人は、農産物の交渉をするたびに
『いいよ、いつでも取りにいくよ』と景気良く答えるのだが、
村まで取りに来てくれた試しはなかった。
そして私は困っていた。
そんな中、今まで活動で中心的な人物になってくれた農民を集めて、何度か勉強会を開いた。
テーマは販売だった。
100キロ先の大消費地についつい目が行き、
会議では100キロの距離を問題にするばかりで何の進展もなかった。
実は私には、祖父や祖母がやっていたような移動販売をしてはという案があったが、
私自身それにはあまり乗り気ではなかった。
簡単に言えば、それは『格好悪い』からである。
しかし何度勉強会を開いても、いい案が浮かばないので、
とりあえずということにして、移動販売を提案してみた。
案の定、農民のほうもあまり乗り気ではなかった。
近くの町じゃ量がはけない、という意見が多かったが、
野菜栽培の販売開拓の一案として取り上げられた。
村の野菜は流通に乗りにくい。
熱帯では保存も効かないし、冷蔵車もない。
町の野菜需要は近隣の小さな農家が持つ猫の額ほどの畑で、
ほとんどまかなわれてしまう。
それに大抵の町の家には簡単な菜園があり、市場での野菜需要はそれほど高くない。
町自体も小さかった。
先輩隊員からの指導のおかげで、なんとか村では野菜栽培が多くなってきたのだが、
殆どが流通に乗せるのに苦慮している状況だった。
爺さん婆さんがやってきた移動販売は、どこまで成果があるか不明だったが、
多く農民はそれほど期待をかけていなかった。

町には公務員婦人会という組織がある。
公務員の女性で構成されていて、料理教室や栄養改善教室などを開いていた。
移動販売はそことリンクさせる予定だった。
ただ売り歩くよりも構成員の人数と家族を知り、
消費量や好みの野菜の傾向を聞き、それに合わせて野菜栽培をしていくという、
こうやって書いているとたいした活動だ、と思える内容に農民とともにアレンジをした。
しかしそう簡単にはいかない。
構成員や家族は多いのだが、やはり菜園を持っていたり、
親戚が農家だったりして野菜需要が高くない。
その上、販売範囲が広く効率的でもなかった。
そこで、婦人会の会長は、婦人会会合の時に販売しては?と提案してくれた。
なかなかいい案ではあったが、会合は月一回しかなかった。
月一回しか販売の機会がないのでは困る。
こうしてすったもんだとしているうちに、町の役場や病院の前で販売をすることになった。
ムハマッド氏の車が使われることになった。
農民リーダーの中で彼だけが車をもっていたのである。
ただ、雨が降るとなぜだか動かなくはあったが。

販売当日。
ムハマッド氏の車に、山のように野菜を載せた。
他の集落にも車を回し、つぎつぎと野菜を載せていく。
サスペンションが殆ど効いていないため、車がやや後ろに傾いていることと、
押しがけしなければエンジンがかからないことを除いて、すこぶる順調だった。
役場や病院の前での販売は好感触だった。
爺さんや婆さんの時のように少々どんぶり勘定だったことと、
すぐに値下げしてしまうこともあり、好評だった。
そして完売だった。
儲けも大きかった。
なんだかうまくいきそうな感じだった。

しかし、そうはいかなかった。
販売の回を重ねる毎に、直接販売に関わる農民が減っていった。
まっさきに外れたのはアレジャンだった。
ムハマッドの車ではアレジャンまで登れなかったからだが、
その他の村でも参加する農民が減っていった。
販売する野菜がないからというのが理由だった。
府に落ちない。
そして、ムハマッドだけが残った。
それでも彼は、人がやらない事をやるのが好きという性格が幸いしてか、移動販売をやめなかった。


帰国近くなった頃、ムハマッドが私に話してくれた事がある。
『田谷が移動販売をしようと提案した時、本当は俺も乗り気じゃなかった。みんなだってそうだった。でもやる事にした。田谷が言うんだしやってみようって。みんなが辞めた理由はよく分からないけど、野菜売りが恥ずかしかったからかもしれない。野菜売りは一番卑しい仕事だから。でも俺のかみさんは学校の先生だ。野菜を買いに来たお客さんにその話をすると、みんな驚く。野菜売りの奥さんが学校の先生?って。だから俺は恥ずかしくない』。

なんて答えて良いのかわからなかった。
3年も村にすんでいて、誰よりも村を知っていると思っていた。
野菜売りは一番卑しい仕事?
はじめて聞いた。
ショックだった。

帰国後、自ら農業をして販売のあれこれを考えた。
実践もした。
インドネシアでの移動販売につまずき、それを否定してあれこれ試したが、
結局爺さん婆さんの移動販売にショックを受ける。
手法の問題ではない。
なにを売買しているのかという事と、どういう関係を築けているかという事。
量と信頼は必ずしも反比例するとは思えないが、比例させる事もむずかしい。
道半ば。
不完全な取引。
そして今年の8月から留学をする。
ムハマッドの『野菜売りは一番卑しい仕事』が心の奥にひっかかっている。
長くいるだけでは、彼らと同じ価値観を得る事は難しい。
それを見る視点が欲しい。
そう思い、またインドネシアに行く。

結局、私はまだアレジャンの夢の中にいるのかもしれない。


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週末は、以前他のwebサイトで書いたエッセイのお引越し。
これが、僕が留学を思い立った理由の一つ。



不完全な取引 その1



謹賀新年。
今年も拙い物を書いていくと思うが、ひとつお付き合いいただきたい。
昨年は9月に書いた後、書いていなかったようで、
いろいろな方から催促いただいたのだが、
今日という日まで惰眠をむさぼっていた事をおわびしたい。
今年はもうちょっと定期的に書きたい なぁ。



冬、北陸、農閑期。
こんなキーワードが並べば、たいていの人は
『ああ田谷は今頃雪に閉ざされた世界で、はんてん着て、こたつに入って、ぼんやり蟹でも食べているのだろう』
と想像されることだろう。
まぁ蟹は正解だが、後は間違い。
冬はビックイベントがある。
忘年会にクリスマス、年末、新年会そして成人式。
この時期レストランは超満員。
そしてレストラン用にルッコラ、ベビーリーフを栽培しているわが農園は、
猫の手も借りたいほどの忙しさとなる。
実際にクリスマス前と年末は、パートを臨時で雇って何とか乗り切ったくらいだ。
しかし、この不況の中、ひっきりなしに業者から連絡がある。
幸せな事だ。
新しい個性的な野菜の導入と新感覚の販売が評価され、面白いほど野菜が売れた。
ホームページを見て連絡をくれた業者も10社をくだらない。
私はこの時期、自己満足の世界にいた。
新野菜、新感覚、ニュータイプ。
そして、ちょっと嫌な奴。

私の祖父と祖母もこの時期忙しい。
曲がった腰とうまく動かなくなった膝を引っ張りながら、猫の額ほどの畑へ出る。
趣味の畑だった。
夏はトマトや瓜などを作り、この時期(冬)はねぎや人参、きりいもなどを作る。
収穫された野菜は、爺さんの三菱の軽トラックの荷台に積み込まれ、販売される。
世にいう移動直売というやつだ。
冬野菜の収穫も終り、爺さんたちもどこか忙しそうに野菜を出荷するために袋詰していた。

私の中では、それは爺さんたちの趣味の世界であり、
あまり利益の高い商売ではないと理解していた。
私が携帯電話や電子メールで業者とやりとりをしている横で、
爺さんたちは規格にあわない不細工な野菜を車に載せて売りに歩く。
私には、どこかその姿がかっこ悪く見えていた。
まぁ年寄りのやる事だ、好きにさせておこう。
そう思っていた。

きっかけはなんでもない。
ただ時間があったから。
携帯電話をアパートに置き忘れて、追加注文の電話が受けられなかったから。
忙中暇ありだったから。
爺さんたちの移動直売の現場を見てみようとなんとなく思い、ついて行った。
荷台には、虫食いと霰の被害を受けたキャベツに数キロ単位で袋詰されたねぎ、ごんぼ、にんじん、
そして手掘りで大切に掘りあげられたきりいもで一杯だった。
爺さんも婆さんも往年の農作業のため、前屈運動をしているかのように腰が曲がっている。
そのため軽トラックを前から見ると、フロントガラスには爺さんと婆さんの顔しか見えない。
ハンドルが爺さんの視界を邪魔しているくらいなのだ。
法定速度をやや下回るスピードと少し遅いブレーキポイント。
何もかもが古臭かった。

penjual sayur


販売場所は、決まっている。
昔から馴染みの団地を数箇所まわる。
その1ヶ所のある場所では、団地の中にある酒屋で車をその駐車場にとめて売った。
酒屋もどこか古びている。
こんなところで売れるのだろうか?
はたして酒屋のお婆ちゃんが近所のお婆ちゃんに連絡をすると、
ぼちぼちと集まって野菜を買いだした。
数キロ単位という私からしてみれば、誰が買うのだろうと疑問を持つような野菜の袋詰が、
何袋も飛ぶように売れる。
見てくれの悪い野菜も売れる。
霰の被害にあった穴だらけのキャベツも売れる。
『今年はぁ、霰が早かったでのぅ。しょうがない。』
うちの婆さんが何も言わなくても、理解して買う客。
『田谷さんとこの、ごんぼはうまいんや。』
客が客に講釈をたれる。
『娘さんとこにも送るんやろ?多めに入れといたざ』
客ごとの好みと量を把握して販売する私の祖母。
驚きだった。
ショックだった。
そして販売は続く。
次は団地の中の何の変哲も無い家。
和犬がいた。
庭にパンジーが植わっていた。
その家の駐車場に車を勝手に止めると、婆さんはその周りの家1軒1軒まわって歩いた。
『野菜いらんかのぉ?野菜切れてえんかのぉ?』と。
客はぞくぞく集まった。集まった客からどっと笑いが起こる。
爺さんがなにか面白い事を言ったらしい。
霰にやられて白い傷が無数についたねぎも
『うちで植えてたねぎはあかんかったわ。さすがプロやの』と言われて買われていった。
スーパーには霰の降らない産地からの姿の良いねぎが山のようにあるのに。

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その後、何箇所も爺さん達はまわった。
野菜はその後完売したらしい。
ただ私はついていかなかった。
2箇所見ただけだったが、充分だった。
充分に感動し、そして充分に宿題をもらった。
自分の農業ってなんだろう。
新しく導入した野菜はヒットした。
売り方も工夫した。
ネットも少々だが活用した。
でも私は爺さんたちのような取引をしていただろうか?
値引きとどんぶり勘定の爺さんたちの商売は、儲けの点でいうとはるかに私の商売にはおよばない。
しかし、昔から変わっていない、少々古臭いと思っていた爺さんたちの商売には、
お金ではないものが取引されていた。
『信頼』。 
私ももちろん業者やレストランのシェフ等から信頼されて販売をしている。
そうじゃないとやってはいけない。
だがもっと違うレベルの信頼を、爺さん達とお客さんはやり取りしていた。



旧年、農業界は騒がしかった。
BSE、違反農薬、残留農薬等々数えたらきりが無い。
そんな中でも、ショックだったのが販売許可されていない農薬が数多く出回っていたことだった。
こうして消費者は、販売されているものに対して懐疑的になっていったような気がする。
新聞やテレビのトークでは、顔の見える販売や履歴の公開などが、
まるでそれらの問題を解決するかのように語られていた。
野菜の袋に履歴を印刷する。
インターネットで履歴を公開する。
この情報過多の時代に、人はまだ情報で現状をおぎなおうとするのか?
そこに信頼は生まれるのだろうか?
私にはわからない。
ただ、爺さんたちの商売はそれを乗り越えていたように思う。
そして、私は乗り越えられていない。
野菜にどんな履歴を載せようとも、たとえ栽培者の履歴書をつけたとしてもだ。
作り主の人柄はわからない。
どんな農薬で、どんな栽培方法で、どんな状態の土で、どんな肥料を使ったなどと記載されても、
作り主を含めた野菜の持つ全体像は見えてこない。
じゃぁ、どうやってスーパーの売り場で、安全な野菜を買えって言うんだ!
生産者がみんな街頭に立って販売するのか!
そんなの無理だ!と思われるかもしれない。
そう無理。

ではインターネットは?
これは最近分かってきた事。
ちょっと前からネット販売をままごと程度にしている。
しかし、これがどうもいまいちぱっとしない。
販売量が少ないからというわけではない。
ぱっとしないのは、私にとって向こうの顔が見えないことなのだ。
ネットは確かに農地を身近に感じさせてくれるだろう。
生産者の顔も見られる。
栽培履歴も手にとるようだ。
でも肝心な事に、画面の向こう側にいるだろう私のお客さんは、私からは見えない。
私はよく友人に野菜を送る。送る時は、いつもわくわくする。
その友人の顔を思い浮かべながら、あいつだったらこう食べてくれるだろう、や、
彼はこの野菜がすきだったなぁ、などと考えながら送る。
ネットで注文してくれる友人等には、ついついおまけの方が多くなったりもしてしまう。
でも実に楽しい。
つまりはそういうこと。
爺さん達の取引とはそういうこと。
人と人とがいて、その間で信頼をやりとりしているだけ。
野菜はただその信頼がものに変わっているだけ。
単純なことで、基本的なこと。私は爺さん達の商売を見て、
同じ農業者として消費者とそういう信頼をやりとりできている事が、羨ましかったという事。

新野菜、新感覚、ニュータイプ。
現状の販売の欠点を圧倒的に多い情報で補おうとするが、補えない。
既存の流通を抜け出さず、小手先だけの対応をしているからだろうか?
これの一体どこが新感覚?
やればやるほど見えなくなる消費者を遠めに見ながら、今日も不完全な取引の電話が鳴る。



あれ?アレジャンは? その2につづく
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週末は、青年海外協力隊の時のエッセイをお引越し。
こういうことがあったのは、たしか2002年の秋だったと思う。




僕達の失敗


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暑さの残る9月上旬。
何気に行ったごんぼ畑に、奇妙なものが生えていた。
赤白の棒。もちろん雑草ではない。
なぜなら7月、8月の暑い時期、うちの婆さんと近所の婆さん達が、
3回にわたって、一所懸命除草したから。
と言うよりも、こんな雑草はあるわけない。
それは、自然物とは思えない鮮やかな赤白の棒だった。


その数日後である。
村の区長さんがわざわざ自転車に乗って、仕事場まで来てくれた。
『田谷さん、明日の火曜日空いてるやろか?午後の3時から国土交通省の役人さんが来るらしいんやけど』。
明日?3時?国土交通省?なんのこと?
『川のしも(下流のこと)で水門の工事があるらしいんやけど、うちの村の堤防から工事用の車両とダンプを出入りさせることになったって、昨日国土交通省から連絡があったんやわ。田谷さんちのごんぼ畑に赤白の棒立ってたやろ?あれ、測量の標やそうです』。
ますます混乱した。
そこであれこれ区長さんに質問をした。
どうやら、うちのごんぼ畑に、幅6メートルの工事用の道路が通るらしい。
下流にある、うちらとはあまり関わりの無い水門を修理するためだとか。
そして、どこからか工事用の車両を入れる必要があって、
うちの村の堤防から入れることになったらしい。
明日、午後3時から区長さんに対して、国土交通省から説明をすると連絡を入れてきた。
区長さんは、その場所に畑を持っていないし、農業もしていないので、
自分だけ説明を受けても話が分からない。
そこで、村の蔬菜組合長と、道路が通る予定になっている場所に畑を持っている農民も呼ぼうと、
自ら判断し各農民に声をかけていた所だった。
その場に居たうちの父は、ぶっきらぼうに
『明日は田んぼの稲刈りや。急に言われても都合がつかん』
とだけ言った。
そこで、明日は出席できないが、
説明の内容と役人が持ってきた資料のコピーを後日いただくと言うことで、お願いした。


この話は、うちのごんぼ畑の位置が、少々事態を難しくしている。
すこし説明しよう。
私のホームページで、ごんぼ畑を見ていただいている読者諸君には、
説明は入らないかもしれない。
うちのごんぼ畑は、川辺にある。
きめの細やかな砂地の土地が良いごんぼを作るための必須条件で、
そのため川辺の土地が適している。
昔から、この辺はごんぼを良く作っていた。
しかし、いつの頃からか川の氾濫を防ぐために、堤が作られた。
そして、川の管理を建設省(今の国土交通省)がするようになり、
それと同時に堤防から川までの間にある土地も建設省の管轄になった。
しかし、一部耕作地を定め、今までと同じように、川辺の畑で耕作は出来ていた。
ただ、農民は建設省との単年度契約で耕作権が与えられ、土地の所有者は国となった。
どこにでもある話。
お上には逆らえない。
そして、畑を見にも来ない役人は、
クーラーの効いた涼しい部屋で、お茶をすすりながら、定規で地図の上に線を引く。
水門工事用の道路のために、無造作に線を引く。
罪悪感は無い。
なぜなら、国有地だから。
そして、その線の下に、うちのごんぼ畑があった。


次の日。
区長さんが早速知らせに来てくれた。
しかし、手ぶらだった。役人は配布資料を用意していなかった。
1枚の地図を見せ、すでに引いてある線を指し、
『ここに幅6メートルの道路が通ります。工事は来月10月からです』と説明しただけだったそうだ。
蔬菜組合長や他の農民は『しょうがないかなぁ』と言っていたそうだ。
それでも区長さんはがんばって、
『今日来ていない農家の方も居ます。それに今日は私だけに説明と言うことでしたので、次は農家の方を含めた会議を開いてください』
とお願いしたらしい。
しかし、役人は非積極的なポーズで決まりゼリフを吐いた、
『考えておきます』と。
区長さんは、私に『10月になれば、説明会があるかもしれないから・・・』と
か細い声で力なく教えてくれた。


 私達は全くの弱者だった。
単年度契約で、国土交通省から耕作権を与えられた農民だった。
実際には、その土地は長い時間をかけて、有機肥料や資材を投入し、
うちが作り上げてきた農地なのだ。
そこに工事用の道路ができる?
ごんぼがだめになるだけでなく、土地もだめになる。
道路をひくという事は、砂利を入れるということ。
長年かかって育てられてきた土地が死ぬ瞬間だった。


それから数日後。
区長さんが自転車にのって、うれしそうにやってきた。
この時点で、私は工事が始まれば、座り込みをしててでもごんぼとその土地を守るつもりだった。
そのせいか、自然と口調がきつくなり、顔はこわばっていた。
なんのようでしょう、と私。
区長さんはそんな私を気にもせず、
『計画が変更になったそうです』と言った。
なんでも昨晩、国土交通省から電話が入り、
『下流のほうから資材を入れることになりました。そちらの村は通らなくないましたので、通知します』
と言ったそうだ。
どうして変更になったのか、区長さんに聞いたが、
区長さんも『何の説明もなかった。私も狐につままれた感じや』と言った。
こうして、さらに数日後。
暑さも感じられなくなってきたお彼岸前。
ごんぼ畑に立ってた赤白の棒は、跡形も無く消えていた。
夏の暑さが見せた幻だったかのように。


赤白の棒が消えたごんぼ畑を前に、今回のことを思い返していた。
心の奥に引っかかっている記憶。
どこかで味わったことがある、そんな感覚。
デジャブ?いや、確かにそれは過去に犯した過ちだった。
話は、また南の島に飛ぶ。


それは私がまだ、『僕』という言葉が一番似合っていた頃の話。
当時の仲間なら、これから書くことは知っているし、同じ過ちを犯した経験があるかもしれない。
しかし、主に私の記憶の中では、私が一番この間違いに気が付いていなかったかもしれない。
なんせ、今ごろになって、ごんぼ畑の前でその過ちを身に染みて知ったからである。


僕が、アレジャンに住んでいた時。
幾つかの作物を普及させる活動をした。
市場価値が高く、直接農民の儲けにつながるはずの作物だった。
そしてその計画を僕は安易に村に運んだ。
まず村の長に説明を付け、理解を得てから村人を呼んでもらって、村人に説明をした。
しかし、村人の集まりが悪く、事業はなかなかうまくいかなかった。
努力嫌いで答えを他人に求める事に慣れていた僕は、
『来ない村人はMalas(なまけもの)だ』と断定し、
だからいつまで経っても貧しいままなんだと、
貧しいということ自体が罪悪であるかのように吹いてまわった事があった。
もちろん、今私は、全くそう思ってはいないし、
当時の僕も大病を犯してから、考えをあらためるようになった。
彼等は間違っていない。
ただ僕のアプローチが間違っていたのだ、と。


 しかし、それは事業者側の反省だった。
やられた側の気持ちは、どこまで行っても推し量るだけで、推測の行きを出ない。
ただ、今回幸運(?)にも私は、やられた側、弱者、
そして『僕』からなまけものと断定された立場だった。
会議には仕事で行けなかった。
もし、10月に事業が実行されていたら、
私はどこで自分の考えを述べることが出来ただろうか?
座り込むしか手が無かっただろう。


私が持っていた現実は、『僕』には理解できないものだっただろう。
近年農機具は高価だ。
トラクターはベンツくらいの値段がし、田植え機はホンダのフィットが2台は買える値段だ。
コンバインも相当高い。
そのため、コンバインと田植え機は、うちでは近所の農民と共同購入している。
1台のものをみんなで順番に使う。
でも田植え時期、収穫時期は同じだ。
1日の遅れが後々の仕事にひびいて来る。
皆早く使いたい。
説明会があったのは、そんな火曜日の午後だった。
誰が私の現実を理解してくれるだろうか?
『僕』が決めつけた怠け者には、こんな現実があったかもしれない。


そして、国の計画はいつも雨のように上から降ってくる。
今回はしばらく雨宿りをしたら、通り過ぎていったが、また雨は降る。
私たちの知らないところで、『僕』達は計画し実行しようとしている。
こうして『僕』達は、私たちから信頼を失い、
私たちは『僕』達に何かを言うよりも、お金をもらってしばらく耐えることに慣れていく。



赤白の棒が消え、季節はだんだんと秋めいてきた。
11月上旬には収穫ができそうだ。
今年は夏が暑く、雨も少なかったので、ごんぼが十分に熟しきれないかもしれない。
収穫は、少々早まりそうだ。
虫の音が耳に心地良いごんぼ畑で、そんな事を考えていた。
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昼間はまだまだ暑いのだが、
朝夕はすっかり秋めいてきたこの頃。
夏野菜の圃場の片付けも、ぼちぼちと始まる。
今日は、モロヘイヤの圃場の一部を片付けた。

モロヘイヤ自体はまだまだ収穫できるのだが、
5月の用意した畑のモロヘイヤは、茎も硬くて細くなってきたので
収穫をやめることにした。
今は、7月下旬に新たに播きなおした畑があるので、
そちらの茎が柔らかくて太いやつを収穫している。

さて、モロヘイヤの後片付けなのだが、
約2mに伸びたモロヘイヤの株を、引っこ抜いて運び出す作業。
根が残っていると、次の作物にも結構影響があるので、
時間がある時は、引っこ抜くようにしている。
この作業がなかなかの重労働。
そこで、期待の大型新人であるセネガル人のI君に、この手伝ってもらった。

期待通り、僕の倍以上のモロヘイヤを掴み、軽々と引っこ抜いていた。
慣れない作業のためか、後半はバテていたが、
それでも通常より短い時間で、この作業を終了した。

その夜、I君の妻であるAさん(日本人)から電話があり
日中のI君の農作業の様子などを少し話す。
その時Aさんから
「Iはモロヘイヤを引っこ抜くのになぜ機械を使わないのか、不思議がっています。」
と聞かされる。
彼がここにきて初めて見たのは、コンバインによる稲刈りだった。
大量の稲を片っ端から、どんどん刈り取るコンバインを初めに見てしまったのだから
そう思っても無理はないだろう。

モロヘイヤの後片付けにまで機械を使うようになれば、
たぶん僕はI君を雇えやしないだろう。
そしてもっともっとモノカルチャー化しなければ、
その機械の投資分もペイはしないだろう。
僕もずーっと以前は、I君のように機械化ができる作業は
機械化していくことが良いと思っていた。
が、しかし、それをすることの基本となる思想に気がついてみると
どうもそれは自分の目指す農業とは違うんじゃないかって気がついた。
I君のような視点で議論すれば、農業にも二つの路線があるだろう。
労働を集約させていくのか、
それとも資本を集約させていくのか、の二つの路線。
そして、それは農の営みにも大きく影響してくる。
労働を集約させていく路線では、作物の多様化が進んでいくが
資本を集約させていく路線では、ある程度モノカルチャー化が進んでいく。

労働の辛さだけに目を向けて、単純に機械化を目指せば
気がつけば、自分の思い描いえていた農業とは違うものになっていくこともあるだろう。
僕の農は、労働を集約させる方向へ向かっている。
だから就農した時に、まず建てたのが、研修棟だった。
多くの人が集えるように、と。

だからI君。
疲れるだろうけど、僕たちは汗をかきながら、
手作業でモロヘイヤの後片付けをするんだよ。


I君のような僕とは差異のある視点から、僕の農への考えが浮き彫りになっていく。
面白い。
だから僕は、やっぱり人を集めることに向かっていくのだろう。
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インドネシアのH君のレポートについて。
先月、日本の農家がなぜ市場に対して交渉力を持つのか?(インドネシアに比べて)
という疑問から、僕がアクセスしている市場について座学をした。
それを月末にレポートにまとめて、提出してもらい、
合間を見ては、昼休みの時間を利用して
レポートを元にして、H君と議論を繰り返している。

説明をした市場は5点。
①卸売市場
②スーパー等との直接契約
③直売所
④インターネット産直
⑤振り売り(移動販売)

細分化しようと思えば、他にも多数あるのだが
僕の実践の中で、彼に見せてあげられる範囲での市場として絞り込むと
だいたいこの5点に集約されるであろう。

結論からいえば、これらのアクセスできる市場の多様さが
日本の農家が市場に対する高い交渉権を持つ理由となる。
もちろん品質の高さや希少性なども大きくかかわるのだが、
それはインドネシアでも同じことで、
それがあったとしても、市場において農家が交渉権を持てないのが
インドネシアのケースでも多々みられるのである。
品質の高さ・稀少性・安定生産に加えて、
市場のチャンネルの多様さが、農家に交渉権を持たせていると
僕は考えている。

では、それらのチャンネルをインドネシアではどう増やしていくかが
今、H君との議論の的になっている。
それぞれ上記の市場がインドネシアではあるのかどうかを考え
無ければ、それらが実現可能かどうかを話し合ってみた。

インドネシアでは、一般的な市場はあるものの、
日本のように品物が競りにかかることはない(農産物によってはある)。
農家個人が市場に店を出している商店等に、個人で交渉し販売をしないといけない。
なじみの店があれば、それなりに売れるのだが、
それがない場合(一見さん)は、安く買いたたかれることもしばしば。
まぁ、それは日本でも同じだろうけど。
市場に自らアクセスできれば、まだ良い方で、
作物を運ぶ手段をもたない農家は、村の内外にいる中間集荷業者に販売を委託する。
この場合、農家の手取りは、悲しいくらい少なくなるケースもある。

大手のスーパーや企業との契約栽培は、インドネシアでも盛んにおこなわれている。
大規模農家ならば個人で契約しているし、零細農家の場合でも
大規模農家の契約に付随して、その流通にのせて農産物を出荷しているケースもある。

日本で最近流行の直売所は、インドネシアにはまだない(僕とH君が知る限り)。
H君はこのシステムに、関心があるようであった。
「農家の組合を作って、スーパーと交渉すれば、店舗内に直売コーナー等できるかもしれないです。このシステムをもっと勉強したい」
とH君は語っていた。
なので、今月は直売所について座学をやる予定。

インターネットは、利用者が限られていることと、
宅急便による青果物の流通の面で心配が残るので、
現在のインドネシアでは、あまり有効ではないかも知れない、
と結論に至った。
ただ、「目立つ」「話題になる」という意味では、有効なので
これも利用しない手はないね、と話し合った。

振り売りは、インドネシアでもっともスタンダードな販売形式。
これについては特に議論はなかった。

これら全般を話し合ってみて、僕とH君が気がついたことが1点。
それは、運搬力である。
日本の農家が、自分の生産物を自由自在に運搬することができることである。
インドネシアでは、車はまだまだ高嶺の花で、
バイクでもかなり高価。
なので、農家の多くは、バスや自転車を利用して農作物を出荷しているのである。
自由に農作物を出荷できる運搬力。
どうやらこれも「日本農家が市場に対して交渉権を持つ」理由の一つであるようだ。
運搬力があることが、自由に市場を選ぶことができる理由の一つでもあろう。
そういえば、協力隊の時にかかわった農家は、
車を1台手に入れただけで、それまでの生活とはガラリと変わって
農業をビジネスのレベルまで引き上げていたっけ。
H君もインドネシアに戻れば、ここで稼いだお金で
車の1台でも買えば、それだけでも大きく変わるであろう。
それに向けての貯蓄も大事だろう。

さて今月は、議論の中から話題になった直売所について座学の予定。
ここからどう発展するのか、僕も楽しみである。
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セネガル人のI君の初仕事の日。
I君の妻であるAさん(協力隊OG)が通訳をする中、
とりあえず、うちの農園での作業全般をやってみることに。

インドネシア研修生のH君とは違って、
セネガルのI君は、母国で農業を生業としていたわけではない。
それでも両親は半農生活で、それなりに家の手伝いはしていたので
農の体使いは心得ている感じではあるが、
H君のように細やかな鎌使いや、立ち姿が様になるような鍬使いはできない。
ベビーリーフも収穫してもらったのだが、
普段、そういうものを食べないからだろうか、
なかなか規格通りには収穫できなかった。
菜っ葉を握る力も入りすぎていて、少しぎこちなかった。
まぁ、そのうち慣れるだろう。
他にもモロヘイヤやつるむらさきの収穫を体験してもらった。
調整作業(汚れた葉を取って袋詰め)も、ぎこちなかったが
それでも根気よく取り組んでいた。

半日仕事全般を体験してもらって、最後に、
この仕事で本当に良いのか?
とI君に尋ねた。
日本には、外国人に対して間口は小さいものの、他にもいろんな仕事はある。
農業に対して思い入れがなければ、辛くて安い時給のこの仕事は勤まらない。
するとI君は
「汗をかかないのは、俺の仕事じゃない。ここの作業は、俺の仕事だ」
と答える。
農業がどうとかこうとか、というのはない。
そう、ない。
僕が見てきたインドネシアの農村にすむ人々もそうだった。
生業として農があり、それ自体が生活であり人生である感じだった。
職業としての選択肢の一つしての農業。
こうとらえているのは、僕たちだけなのかもしれない。
いろんな選択肢が増えることが、農村開発だと思っていたことがあった。
その中に職業の選択ももちろん入っていた。
が、最近は、農の営みが職業の一つとして選択肢に入ってしまうことで
労働量と収入の多少によって職業というカテゴリで比較が可能になる反面
自然の流れと深いつながりを持つ、それらの労働の内容と意味が
軽視もしくは見えなくしてしまっているのかもしれない、と思うことがある。

すこし余談になってしまったが、
とにかくI君にとって、
仕事なんてものが、独立してそれぞれが並列して存在していないということだろう。
体を使って、汗かきべそかきしながら生業に励み、そしてその人生を過ごす、
ということだろう。
選択肢が氾濫するこの日本において、
他に気持ちが移るまでは、僕は彼と共に労働をしよう。
こうして彼の採用を決めた。
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今日は保育園の田んぼ祭り。
ついに収穫日を迎えることができた。
前日は午前中が雨。
また予報では明日は午後から雨。
ちょうど、この収穫日だけがすっぽりと晴れたのだ。
保育園では、先週の半ばから100個以上のテルテル坊主を作り、
当日の晴れを祈っていたとか。

収穫方法は、春に手植えをした箇所(4aほど)を、鎌で手刈り。
そして、手刈りした稲を束にして、田んぼの近くのフェンスに「はさがけ」した。
収穫に参加した父母と園児は120名。
そして主催者側として、若手農業者クラブから7名が来て
保育園児や父母の田んぼの手刈りと束にするのを指導した。

120名ほどの人たちが一列になって、稲を刈る姿は壮観だった。
4aほどの範囲を手刈りしたのだが、
当初は、結構時間がかかり、労力としても無理があるのじゃないかと思っていたが
刈り始めると30-40分ほどで、ほとんどきれいに手刈りしてしまっていた。
そんな中、ひと際目を引いたのが、
インドネシア研修生のH君とセネガル人のI君。
この2人が、競うように稲を手刈りしていったのである。
H君は、稲の手刈り収穫の本場出身で、当然早い。
I君は、米の栽培経験が無いものの、
「うちで飼っていた馬に餌をやるために、よく草を刈っていた」という経験を活かして
H君に負けないスピードで稲を正確に刈っていく。
2人とも、お互いにライバル心を燃やしながら、稲刈りをしていた。
そんな一幕もあった。

手刈りした稲を束にしたものを、園児たちがはさ場に運ぶための
軽トラックまで運んでくれた。
どの子も一所懸命運んでいて、その姿が良かった。
みんなで束にした稲は、フェンスのはさ場にかけ、このまま風乾させる。
2週間後の土曜日に、保育園の園庭で、千歯こきや唐箕など昔の道具を利用して
脱穀精米して、みんなでおにぎりを作って食べる予定。
それで、この田んぼ祭りの一連のイベントは終了予定なのだ。

今回の田んぼ祭りでは、珍しく3社のメディアが取材にきた。
ある新聞社から、このイベントを通して伝えたいことは何ですか?と質問された。
きっかけは、保育園の増改築運動だったような気がするが、
ここまでくると、なんだかそれは遠い昔にも思えてくる。
最近は、この田んぼという場を介して、ここの自然と四季の移り行きの中で
育まれていく生命とそこから得られる収穫を感じてもらえれば良い、と思っている。
だから、そう伝えた。
農作業だけを細切れにしたイベントではなく、半年を通して、一つの場で
繰り広げられていく時間の流れを感じてもらいたかった。
だから2週間に1回は、保育園の掲示板で、壁新聞形式で
田んぼの状況や、その周りに住む虫や魚、そして季節の移り変わりを伝えていた。
イベントのない週末でも、田んぼまで足を運んでくれた父母や園児もいた。
最初から、そう考えて企画したわけじゃないのだが、
やっているうちに、大切なことは何なのかに、僕も気がつかされた感じだった。
今回の収穫イベントであるお母さんが
「本当に、あの植えた苗が、お米になるのねぇ~」と
金色に輝いている田んぼを目の前に、感慨深く語っていたと、後から妻より聞かされた。
その台詞が、すべてなのだ。
それを感じてもらえたら、それでいいのだ。

次は収穫祭。
風乾させた米を、ほとんど手作業で白米にして食べる。
50年以上前、いやもっと前かもしれないが、昔のやり方で脱穀精米をする予定。
その作業の中に、父母や園児だけじゃなく、
僕ら若い農業者にとっても、気付かされることがたくさんあるに違いない。
先人たちの農の息遣いを感じられる貴重な時間になるだろう。

最後に、今回もみどりクラブ及び関係の普及員の皆様には
惜しみないご協力をいただきありがとうございました。
とても素敵な時間を、みんなで過ごすことができました。
本当にありがとうございました。
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青年海外協力隊のエッセイのお引越し。
この出来事があったのが、2003年。
あれから時が流れて、あの時の関係で今
僕の農園にそのインドネシアの高校から
圃場の技術指導の先生が1人、農業研修生として来ている。




素やきそば



『あいつら、なーんもくわんかった(あの人たちは、何も食べなかった)』そう言って酒をぐいっと飲む。
『ほんで、あいつら目の前でカップラーメン食べたんや。ほんと食べたのは具の入ってないやきそばだけやった。素やきそばや。』
遠くを見つめ、おじさんは語っていた。

これは、この前のお盆の一幕。
毎年恒例になっている一族郎党が会しての宴会の席だった。
私の母の妹のだんなという、ワードの変換で『の』が多すぎますと注意されるくらいの関係の人も来る。
その人が、先日インドネシアの高校生を数日預かった時の話だった。
その高校生達は、真心込めて作った家庭料理を殆ど食べなかったらしい。
それどころか、インドネシアから持ってきた『Pop Mie』というインスタントラーメンを
目の前で食べたという。
こっちが一所懸命もてなしているというのに・・・。
読者諸君には、もう少し遡って説明したほうが良さそうだ。



私はインドネシア語が出来る。
まぁ1年以上も使っていないので、やや怪しくはあるが。
そういうことで、先日通訳という仕事をした。
通訳と言うほど仰々しい仕事ではなかったが、
インドネシア語と日本語を互いに使い分けて、
インドネシア人と日本人の間に入ってお互いのコミュニケーションを手助けする仕事をした。

福井には、福井農林高校という立派な学校がある。
どこでどうなったのか、詳しくは知らないのだが、
インドネシアのバンドゥンという街にあるタンジュンサリ農業高校と独自に友好関係を築いている。
何年か前には友好協定を結び、互いに行き来する仲になっていた。
そして今回。
全国高校総合文化祭という大会に、福井県はタンジュンサリ農業高校を招聘したのだった。
聞きなれない単語が続き、よく事情が解らなかったと思われるが、
私もこれ以上の理解をしていないので、書きようが無い。
あらかじめ謝っておく。
全国高校総合文化祭なるものは、今年で26回目だという。
今年は横浜で開催された。全国からたくさんの高校が参加する。
文化系のクラブの大会という事なのだが、今回この仕事(通訳)をするまでは、
聞いたことが無かった。
26回と言うからには、私が高校生の時もどこかでやっていたという事か。
それは良いとして、とにかくその文化祭に、
福井県は福井農林高校と友好関係を結んだタンジュンサリ高校を招待したのだった。
横浜での総合文化祭に、タンジュンサリ高校がインドネシアの伝統芸能を披露するためだった。
そして、その通訳として、私に白羽の矢が立った。

説明が長くなったが、本題に入ろう。
タンジュンサリ高校の一行は、インドネシアから着いた後、
直接横浜には行かず、数日福井に居た。
農林高校見学や福井の文化施設を見学したりした。
その間、タンジュンサリの生徒は2~3人に分かれて、
福井農林高校の生徒の家にホームステイをした。
私の母の妹のだんなの家もその1つだった。
預かったのは2人。
女の子だった。
福井農林高校では、ホームステイのホストファミリーに対し、
事前研修を設け、文化の違いや食の違いを説明したという。
宗教の違いにより、豚は不浄(きたない)な生き物と考えられ、一切食べないと説明もあった。
そこで、当日は豚を使わない料理を考え、出来るだけおもてなしをしたという。
『そんなのに、あいつらなーんもくわんかった』
酒をぐいっと飲む。
『何にも、食わんかった。ほんと食べたのは具の入ってないやきそばと目玉焼き、白いご飯やった』
そしてまた酒をぐいっと飲む。
『それどころか、食事の後、インドネシアから持ってきたカップラーメンを目の前で食った。俺はなさけのうなった(情けなくなった)。人の気持ちがわからんのかと思った』。
私は通訳をしていた立場上、そのときの女の子2人からも話は聞いていた。
要するに日本食は塩っ辛いという事とどこかに豚が入っているかもしれないという恐怖心だった。
それを説明してもおじちゃんは納得しなかった。
『そうだったとしても、目の前でカップラーメンを食べる事はないやろう。もてなしているほうの気持ちを考えたら、普通はしない』。
そう。
普通はしない。
もう少し付け加えるのなら、普通の『日本人は』しない。
でも、相手はインドネシア人である。
もてなしたほうの気持ちというのは、もてなすほうの勝手な気持ちだ。
それも文化や言葉が全く違う相手である。
日本人のもてなしの気持ち、(ここではどこに豚肉が入っているか解らない塩っ辛い食べ物、に対し)、どうやって誠意を見せろというのだろう。

私が協力隊の時、このような類の話は、はいて捨てるほど聞いたし、経験もした。
これは日本人が陥りやすいロジックなのだ。
ある機械系の隊員は『こっちがどんなに一所懸命助言しても、聞き入れてくれない』と言い、
ある医療系の隊員は『衛生管理に不備があったから、その改善のために仕事の時間外に講座を開いたけど、誰も来なかった。みんなやる気あるのかしら』と言った。
私の場合はこうである。アレジャンに住み着いて間もなくの頃。
ある農民の畑が雑草でひどい状況だったので、草むしりを手伝ってやると、
いつの間にか畑の持ち主は居なくなってしまい、私だけが草むしりを続けていた。
その後その農民の家に行くと、お茶を飲みながらドミノというカードゲームに夢中になっていた。
私は怒って『なんで1人で帰るんだ!』というと、彼はケロリとした顔で
『だって、仕事が終ったから』といった。
勝手に手伝い、勝手に一所懸命になり、勝手な思惑で感謝されたかった、そういうことだった。
農民はごく普通に、勝手に一所懸命になっている外人はそっとしておいて、
仕事も終った事だし家に帰ろうと思っただけだった。
こっちが勝手にこうした方が良いと考えたり、こうしたら感謝されるだろうと考えたり。
そういう考え方は自己満足以外の何物でもない。
そして、その通りの反応に出会わない時、可愛さ余って憎さ100倍って事にもなる。
相手は、文化や言葉、歴史、生活、何もかもが違う人々なのだ。
自分の今までの経験や培った考えでは、相手の気持ちがわかるはずが無い。
そう、解らない。
解らないという事が解る。
これがスタートライン。
そこから、進む人もいれば、解らないとあきらめる人もいる。
でも、国際交流だの国際理解だの、聞いていてさっぱりわからない言葉が今、
日本には溢れている。
勝手な思い込みや、きらめくような言葉として使われている国際理解・そして国際交流、国際協力は、
何の理解も無く、無秩序に使われている。
そんなものより、おじちゃんが言った『素やきそば』は、
確実にインドネシア理解のスタートに立ったものだった。
『(インドネシアの女の子二人が、カップラーメンを目の前で食べ始めて)俺は、なさけのうなった(情けなくなった)』。
来年タンジュンサリ農業高校から福井農林高校へ、2人長期の留学にやってくる。
素やきそばからのスタートライン、まだまだこれからである。
おじちゃん、期待していますよ。
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週末は、青年海外協力隊のエッセイのお引越し。
家の鶏は結局1羽も絞めていない。
父のペットとなってしまっているからだ。
代わりに、野生の雉を、今虎視眈々と狙っている。



コケッコッコー!


ayam 1



先日、鶏を飼い始めた。
まったくの道楽でだ。
自分の家族だけが、その卵を楽しむためだけに、鶏を飼い始めた。
昨年新しく建てたハウス施設のそばに、猫の額ほどの土地が余ったので、
そこに鶏小屋を作ってみたのである。
鶏は、雄が1羽に雌が14羽。計15羽だ。
鶏を分けていただいた近所の農家は、
『この鶏はどこにでもいる鶏と違って、特別な系統だよ』と
自慢げにいろいろと説明してくれたのだが、愛らしい鶏を目にしていると、
そんなうんちくなんてどうでも良く、殆ど覚えていない。
ふさふさとした羽、丸々太っている体、美味そう・・・じゃなくて、可愛らしい。
早速持ち帰り、鶏小屋に放してやった。
鶏小屋と言っても、小さなパイプハウスで、
暑さよけのために寒冷紗と言う黒の日よけが掛けられている程度だ。
中は土むきだしで、何もない。手入れもしていなかったから、雑草が伸びたい放題だった。
それでも、鶏はそれほど居心地が悪い風でもなく、
仕切りと雑草についている虫をついばんだり、土の中の虫をかき出したりして、
楽しんでいるように見えた。
読者諸君は鶏を間直で見た事があるだろうか?
鶏は、バックステップをしながら、その強力な爪で地面をえぐり、
虫をかき出しては食べるのである。
そのおかげで、小屋の中に繁茂していた雑草は、
いとも簡単になぎ倒され、きれいに地面が見えるようになった。
鶏の除草能力はたいしたものだ。
愛らしい私の鶏たち。
虫をついばんでも、羽ばたいても、水を飲んだり喧嘩したり、
とにかく動いているその仕草が可愛らしかった。
しかし、まったくの不意だったのだが、愛らしいはずの鶏のバックステップを見ていると、
なぜだか記憶の奥底から、怒りの感情が湧いてくるのを覚えた。
なぜだろう?
それと同時に、前日祖父祖母と鶏の話題で盛り上がった事も思い出された。
早くも鶏糞の臭いが漂い始めた鶏小屋の中で、
私は鶏15羽と共にくだらない記憶を紐解き始めていた。

rumah ayam
      
            鶏小屋


鶏を飼い始める前日、祖父祖母と鶏の話題になった。
まだ爺さんや婆さんが若かった頃は、実家でも鶏を飼っていたそうだ。
今から50年近くも昔の話だ。
今のようにハウス施設(温室)がなかったため、
冬場の収入が無く、大変だったと語る。
しかし、そんな時家計を支えてくれたのが鶏だったとか。
生みたての卵を実家の集落から10㎞以上も離れた町まで徒歩で持って行き、
一軒一軒『卵は切れてえんかの?』と訪ねて売り歩いたそうだ。
この話を聞いたとき、私は農村が如何に惨めで貧困だったかを想像した。
そしてそれを爺さん婆さんに言うと、彼らは遠くを見るような目で、
『その反対。今よりもずっと裕福やったかもしれんのやざ』とにっこりと笑った。
婆さんの話では、1日卵を売り歩くと2000円ほどの収入になったと言う。
当時の2000円は今のお金に直すと2万円以上はしたと言う。
これを多く見るか少なく見るかは、読者諸君のそれぞれの生活レベルにもよるが、
私にはかなりの高額に感じられた。
婆さんの話では、卵の価値自体は今も昔も変わっていないと言う。
中間の業者がいない分、農家が儲かった時代だった。
さらに、冬場は別として、野菜のとれる季節にでもなれば、
卵と野菜を同時に売って歩いていたらしい。
その話になると、爺さんは目を薄め
『1等(一番)多いときん(時)は、3万以上は売ったわ』と少し興奮したように話してくれた。
3万?今のお金で20万以上にはなるとのこと。
ちょっと待って、今うちの農園で朝から晩まで収穫に収穫を重ねても
15万以上売り上げれば良いほうである。
しかもパートを2人も使ってだ。
爺さんの頃は、担げるくらいの野菜と卵の量で、
20万以上も売り上げていたとか。
それから50年。
野菜の単価は安くなり、
市場経済が隅々まで支配し、
中間でマージンを取る業者が増え、
農家が減少した。
『昔は、今よりずっとゆっくりやった』とつぶやいた祖父の言葉が印象的だった。





コケッ!
雄が雌たちに認められていないのか、
あちこちで雄と雌が小さないざこざを起こしている。
せっかくしみじみとしてたのに、鶏達に引き戻された。
そう、もう1つの記憶を紐解かねばならない。
それは、50年前の日本の農村が持っていたように、のんびりとした時間が全体を包み、
鶏が平飼いされている場所。
我らがアレジャン集落での出来事だった。





アレジャンに住み着いて1年が過ぎた頃だったか?
新しい作物を試すべく、村人の協力で、村の中に試験圃場を作った時の事だった。
いつもは何かにつけて、やる気の無い村人だったが、
大親友のサッカの呼びかけもあり、集落の中心に近い場所に、
試験圃場を借りる事が出来た。
このときは、比較的村人も積極的に試験圃場整備に参加してくれて、
新種の野菜の種まきにもかなりの人が集まってくれていた。
急にみんながやる気を出したので、驚くやら喜ぶやらで大変な1日だった。
が、なんてことはない。
後で気がついた事だが、日本から持ってきた新種の野菜の種や、
町で仕入れてきた新しい野菜の種が、すっかり無くなっていたのだった。
野菜の種目当てで村人が集まってきて、手伝う振りをしつつ、
間を見ては種を持ち帰ったようだった。


その後、それについては特に不問にしていたが、
おかげで村人の試験圃場に対する興味は大きかった。
なぜなら、種をこっそりと持ち帰ったのは良いが、
作付けの仕方が解らなかったのだろう。
その都度試験圃場を見て参考にしている風だった。
こっちも特に知らない風を装っていた。
播いたのはトマト・モロヘイヤ・つるむらさき・空芯菜・アカワケギなどなど、
日本特有のものからインドネシアでもポピュラーな野菜だった。
栽培は順調だった。
特にアカワケギの成長が良く、村人にも好評だった。
そんなある日、いつものように試験圃場に向かう私。
さて、今日はどれくらい大きくなったかな?トマトも芽かきしてやらないとなぁ。
モロヘイヤは窒素が足らないようだから追肥が要るかもなぁ、と様々なことを考えながら、向かう私。
そして圃場についた私は、息を飲んだ。
そこで見た光景は、無残にもなぎ倒されている野菜たちと、
我がもの顔で虫をついばむ鶏達だった。
強力な爪でバックステップをしながら、野菜をなぎ倒し、
掘り起こした根元についている幾ばくもいない虫を、
コケッコケッ言いながらついばんでいるのである。
茫然とする私に、通りかかった村人は、
『村の中に鶏がいるのは、当たり前。だから、おれは(試験圃場は)やめておけって言ったんだ』と
聞いた事も無いことを言って立ち去っていった。
当然、鶏に占拠された試験圃場は失敗した。
それと同時に、村人の新種野菜に対する興味も徐々に無くなっていった。
そしてその時私は、今週にでも市場で鶏を買ってきて、しめて食べようと決心していた。





そして今。
私の目の前に、我がもの顔でバックステップをしながら虫をついばんでいる鶏がいる。
彼女たちになんら罪は無いのだろうが、そのバックステップがかなり気に入らない。
卵を産む前に、しめてしまうかもしれない。
それは明日の私だけが知っている。
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女優さんが僕の農園に来る。
岸ユキさん。
皆さん、知っていますか?

正直なところ、僕は「顔は見たことがある」といった程度で、
名前を聞いてもピンとこなかった。
サインはVに出ていたらしく、
母やパートのおばちゃん世代はよく知っていた。

その女優さん。
なんでも福井県のこれからの農業を考える委員会の
外部委員になっているとか。
会議のある今日、視察をするということで、比較的街から近いうちの農園に
来ることになったらしい。
この岸ユキさん、農業に関心が高く、山梨に居を構え、自ら耕作しているとのこと。
農協系の雑誌「家の光」にもよく登場するとか。
それで外部委員を委託されているのだろう。

和やかに視察は終わったのだが、
一つ気になることが。
それは、農園の視察なのに、この暑さの残る中、
岸さんは帽子をかぶらずにやってきたこと。
そのためか、手に持っていた資料を日傘代りにしていて、
1行もメモを取らなかったこと。
だからなのか、質問が少なく、
あえて深く語らなかった僕の農業を深く掘り下げてもらえなかった。
岸さんは、この視察で何を読み取れたのだろうか。
フィールドワークの質を高めることに関心がある僕には
岸さんの視察は、奇妙な風景だった。
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母方の祖父が、新米を届けてくれた。
今年、80歳になった祖父は、心臓を少し患っているのだが
元気に農業をしている。
その祖父が、
「今年の米はうまいんや」と言って、
うちにも売るほどある米を、嬉しそうに持ってきた。

祖父は毎年、いろんな農法にチャレンジしている。
今年は水田に、海水を散布する農法に挑戦したという。
出穂頃と穂が垂れ始めた頃に、
海水を水で300倍に薄めた液を、葉面散布したらしい。
「海水にはいろんなミネラルがあって、それが効くんや」と
誇らしげに語っていた。
そういえば、現代農業という雑誌でも、そういう農法が取り上げられていたっけ。
実はこの祖父、現代農業をこよなく愛している。
そこで知った新しい農法は試してみないと気が済まない性質で
これまでも、いろんな農法を実践しているのである。
80歳にしても、自分の農法に埋没せず、日々新しいものを取り入れていこうという
祖父の姿は、僕の目標でもあるのだ。

「海水農法で、今年は1反で10俵とれたわい」と豪語する祖父。
山間の農地で、水が冷たくカメムシも多いため
反収はそれほど高くなかった祖父の田んぼだが、
10アールで10俵(600キロ)取れれば、至極上等であろう。
80歳にして、反収10俵の祖父。
僕は彼のことも尊敬してやまない。
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家作りの話。
設計士との打ち合わせも進み、
先週、ようやく業者への入札説明会があった。
入札をする業者は4社。
今月の22日に開封し、その日のうちに業者を決める予定でいる。

が、思わぬところから横やりが入った。
横やりを入れてきたのは、福井市市役所の都市計画課。
農地を宅地に変更する手続きは農政課や農業委員会なのだが、
その宅地に住宅を建てる許可を得るのは、都市計画課。
おもに、これから建てる住宅の雨仕舞を見るのがこの課の仕事らしい。
新しく建てた家に降った雨が、道路や他の住宅に侵入して、迷惑をかけないか
排水の有無やその設計を検査し、住宅を建てる許可をだすのである。
農地転用と同時にこの都市計画課にも申請を出していた。
どちらかと言えば、都市計画課は書類上の不備さえなければ
特に問題はないと考えていた。

しかし・・・
都市計画課から、提出した雨仕舞の計画について指摘を受けた。
住宅を建てる予定地は、農地だったので、行政が工事した排水路がない。
もともとその農地には、H鋼のハウスが建っており、
そのハウスと道路の空き地に、家を建てる予定であった。
そしてそのハウスの両脇には、20センチのU字溝が備えられている。
新築の排水計画では、そのU字溝に雨水を排水し、
農業用水等の排水路につなげる予定でいた。
だが、都市計画課は、「それでは不十分」と言いだしたのである。

不十分の理由は、ハウスの雨水がその排水路にも入るため、
新築の雨水と相まって、増水する、と言うのである。
増水するかどうかはわからないのだが、
そもそもその排水路が増水しても、
その農地自体は道路や近隣の住宅地より50cmも低いので、特に周りに迷惑はかけない。
両隣に面している土地は農地で、一つは僕が耕作しており
もう一つは、近所の人が持つ水田なのだ。

そして都市計画課は、
「増水した水がハウスの中に浸水する恐れがある」
と指摘してきたのである。
そのため、排水路の拡張が必要だ、と都市計画課は言うのである。
20cmのU字溝を拡張するとなると
農業用排水路まで70mあるので、何十万何百万かかるかわからないのである。
これまでも道路から50cm低く、さらに道路に排水路が設置されていないことから
道路の雨水やなにやらまで、うちの農地に流れ込んできていたのだが
今まで一度も増水はしたことがない。
それに新築邸を建てる場所の雨水も流れ込んできていたので、
その場に家が建ったところで、特に問題は感じない。

さらに言わせてもらえば、
「増水した水がハウスの中に浸水する恐れがある」と指摘を受けたのだが
ハウスで耕作しているのは、僕本人なのだ。
行政から排水路の拡張をアドバイスされるのなら解るが、
拡張を行政から命令されるのは、筋が違う。
何十万何百万もかけて排水路を拡張しなければいけないのであれば、
少々ハウスに水が差しても、その方が問題はないのだ。
そもそもその問題は、個人的な経営と営農の問題であって、
都市計画課が口を挟むことではなかろう。

もし都市計画課が、建設許可をその排水路の問題で下さないとなれば、
一度出向いて対決しないといけないだろう。
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今日、9月9日。
重陽の節句。
セネガル人に会う。
185㎝の大男で、腕が長く、手が大きく、足のサイズが32㎝で
小顔で、真黒な体、そして、つぶらな瞳にカールのかかったまつ毛が印象的だった。

畑で作業中、のっそりと現れたセネガル人のI君。
実は、僕の大学の後輩で協力隊の後輩でもあるAさんの旦那なのだ。
先週末に初めて日本にやってきたのだ。
これから福井でAさんと共に暮らす予定でいる。
5年にも及ぶ遠距離恋愛と周囲の反対を根気強く賛成に変えてのゴールイン。
周りに反対されているときから、僕ら夫婦はAさんを励まし続けていたので、
2人が仲良く並んでやってきたことに、感動を覚えた。

「アッサマリクーン」と挨拶をするセネガルのI君。
ワライクンサラーム、と返す僕。
I君はイスラム教徒なので、インドネシアのイスラム教徒の人たちと
あいさつ言葉は一緒なのだ。
他はまったく理解できない言葉だったが(ウォルフ語)、
あいさつだけでも通じたのがうれしかった。

さて、このI君。
実は来週からわが農園でスタッフとして働くことになっている。
Aさんから、I君が福井にきて職がなかなか見つからないだろう、と相談を受けていたので、
I君さえ良ければ、僕の農園で働いてみないか、と誘っていたのである。
I君はセネガルでは長距離バスの運転手をしていた。
農業とは少し縁遠い生活だと聞いていたのだが、
I君はとりあえずうちの農園で働くことになった。

農園を見学に来てI君の感想は
「畑がきれいなことと、田んぼがいっぱいあること」だった。
農業とは縁遠いと聞いていたのだが、直接農業の経験を聞くと
「雨期になれば、両親と共に豆や稗を播いていた。馬に種袋を引かせて種まきをする作業は得意だった」と話してくれる。
馬に種袋を引かせての作業は、残念ながらここにはないが、
幼少の頃より農に関わって生きてきたのであれば、
体の使い方や農の息遣いが感覚的に解るはずだ。

うちの農園で働いているスタッフにも紹介する。
みんなアフリカの人に会うのは初めてらしく、目が点になっていた。
農園の近所のおばちゃんたちにも挨拶をしたのだが
「あああ、いいものを見せてもらった」とI君を拝んでいた。

とにかく、来週からI君がやってくる。
インドネシアの青年H君、そしてセネガルの青年I君。
うちの農園はしばらくにぎやかになるだろう。
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稲刈りの季節。
老婆が一人、藁を集めていた。
村の人の田んぼで、コンバインで刈り取った藁を
肥しの袋に入れて、せっせと集めていた。
その老婆とは、祖父の姉。
近所に一人で住んでいる。

何にするのか尋ねると
「どうやら来年も命がありそうなんで、畑の敷き藁を集めてるんや」とのこと。
この老婆は、庭先の家庭菜園で少なくとも30種ほどの野菜を育てて
自活している。
昔から、そのスタイルは変わらない。
その畑で、スイカやウリ類を栽培しているのだが、
ビニルのマルチでは「スイカが焼ける」と言って、
それだけを使うことを老婆は嫌う。
夏の野菜が終わりを迎えるこの時期。
老婆は来年のために藁を集めていた。
そういえば去年も一昨年も、この時期老婆はせっせと藁を集めていた。
それは、
生活の流れが分断されない、
もしくは細分化されそれらが切り離して別々に独立して存在していない円環の時間に、
彼女が生きているということなのだ。

毎年巡ってくるものに、毎年思いをはせながら生活をする。
その流れを季節ごとで分断せず、大きな流れの中で営む生活。
混乱なく、作物を作りまわしていく技能。
それはそういう生活の息遣いなのであろう。

僕は彼女を尊敬して止まない。
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C.K.プラハラード 著 スカイライト コンサルティング 訳 『ネクスト・マーケット』:「貧困層」を「顧客」に変える次世代ビジネス戦略.2005年.英治出版株式会社.

1日2ドル以下で生活をする世界の「貧困層」を市場として開拓しよう、という本。
と、要約してしまえば、ただ単に、貨幣経済のより一層の浸透と市場主義的な発想で、書かれた新たな従属論的関係を構築させようという本にも思えてしまうが、たぶん本書の意図はそうではないだろう。

これまで多くの資金が「援助」という名の下で、貧困層解消のために投入されてきたが、ほとんど効果を上げていないと、著者は指摘し、「大企業の投資力を、NGOの知識と取り組みや、支援を必要としている地域社会に活かせないか?他にはない解決策を共創することはできないのか?」を出発点に、企業の投資力・資源・活動範囲を活かして、世界の貧困層を購買力のある中間層に変えようという試みが、本書の意図するところであろう。

貧困層と言える人々は日々の生活に追われ使えるお金がない、と見るのは先入観だ、と著者は指摘している。確かに「購買力は、先進国に住む人々とは比較にならないが、人口の多さからいえば貧困層はかなりの潜在的購買力を持っている」(p37)と著者は言う。また貧困層は、途上国ないといえども物価の高い環境で生活している傾向が非常に強く、それらは「地方での独占状態や、モノや情報を満足に入手できない状況、不十分な販売網、昔ながらの強力な中間搾取業者の存在の結果である」(p37-38)と指摘している。
確かに本書の事例におけるITCのケースの場合、インターネットを利用した農産物取引(農家はパソコンを購入)においては、既存の市場による搾取にあっている農家の構造的貧困の解消に一役買っている。またマイクロクレジットなどの小規模金融商品も、その一助となるであろう。こういった事例から考えれば、貧困の構造が解消されることにより購買力が向上し得るといえることもあるであろう。

だがしかし、自給できていたはずのものを購買させ、ただ単に消費するだけの存在に貶めてしまうケースはないのだろうか。我々のもつ先入観を払しょくさせ、途上国の貧困層こそがネクストマーケットだとする著者の主張は、その行き過ぎた先にあるであろう金銭的な価値基準のみでの発展を批判しきれはしない。その意味では、本書はバンダナ・シヴァの対極にあると見てもよいだろう。確かに、本書のケーススタディで伝えらていることは、企業側のイノベーションによりグローバリゼーションの本当の意味での恩恵を、貧困層の人々も受け取れるようになっている。前記したように構造的貧困などには、本書のアプローチも大いに有効であろう。また貧困層が抱える特有の問題にも、企業のもつ技術は大いに役に立つであろう(ヨード欠乏症事例など)。しかし、人々の生きる歓びに対して、本書のアプローチは毒にもなりえる部分があることに無批判のままである。

人々の生きる歓びとは、その基本は「自治」であろう。本書のアプローチは、構造的な搾取の解体や金融資源に対するアクセスを容易にする面で、個人やコミュニティの「自治」向上に益しているであろうが、自給できていた存在を金銭的な従属関係におく可能性があることを忘れてはならないだろう。自治の力を失わせる大きな力としてグローバリゼーションがあることも頭に入れて、本書を読まれたい。
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大根を播く。
自家菜園に。
辛みの強い黒大根(くろ長・くろ丸)、
中がほんのり赤み色になる赤大根、
甘くて美味しい青長大根(緑色の肌)
そして総太り大根。

黒大根は辛みが強いのだが、煮崩れしないことと、おでんの具に最適とのことで
今年から試してみることに。
妻の作るおでんに、この黒大根が合うに違いない。
独特の辛みなので、大根おろしにして、そばにかけても美味いかもしれない。

赤大根は、どういう味なのかはよく分からないが、
サラダで食べたらきれいだろうなぁ、と思い、播く。

青長大根は、緑色の肌で、中身も緑。
大根おろしにすると、当然緑色で、目でも楽しむことができるとか。
寒くなれば甘みも増すらしく、楽しみである。

漬物をやるなら大根は宮重なのだが、
うちはどうしても煮物が多い。
なので、白の大根は、総太り。
妻の絶品料理であるブリ大根には、総太り大根が欠かせない。
干し大根も作りたいので、近日中に宮重も少し播くか。

あと、砂糖大根であるビーツも播く予定。
甘くて、妻の得意料理の一つでもあるポタージュスープにすると
ほんのりピンク色になるので、とても楽しい作物の一つ。
本当はもう播かないといけないのだが、
お盆過ぎから、畑の近くの雑草に「シロイチモンジハマダラメイガ」をよく見かける。
この虫は、アカザ科の葉が大好物で、
このビーツはアカザ科でもあるので、うかうかとは播けない。
自家菜園は無農薬でやっているので、周りの雑草についている虫の観察は欠かせないのだ。
もう少し涼しくなると、この虫は減ってくるので
その時に播くことにしよう。
ただ、あまり播く時期が遅くなれば、
ビーツは寒くなると途端に成長が止まるので、根が太らないままになってしまうのだ。
害虫を避けつつ、適期に播く。
無農薬での取り組みには
虫や病気の観察と栽培適期の把握のコンビネーションが
とても重要なのだ。
と、偉そうなことを書いているが、
僕にはまだまだそれは身についてはいないのだけど・・・。

食べることを考えながら、
そして自然を観察しながら、
大根を播く。
自分の生活全体が、まさに自分の手中にあるという実感。
これに勝る幸せはない。
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前編のつづき。




残留農薬


農薬の勉強会を開きたい、そうラエチュに切り出した。
ラエチュは賛成とも反対とも答えなかったが、人を集めることには同意してくれた。
金曜日イスラムのお祈りの後、行うことにした。
しかし、当日いくら待っても人が集まらない。
しかも当人であるラエチュも、お祈りのために村のモスクに行ったきり、帰ってこない。
大親友のサカルディンさえ、来てはくれなかった。
こうして、勉強会は流れた。


その晩、ラエチュが何も無かったように帰ってきた。
なぜ誰も来ないんだ、と責めたてる私に、
彼は『みんなにはお祈りの後に話したさ。でも、誰も興味なさそうに帰っていった。わしもそんなことには、あまり興味は無い』とだけ言った。
私が勝手に企画した農薬の勉強会は、行われる事無く消滅した。


そんなことがあってから、2年が過ぎた。
農薬の使い方や知識については、日々の農業指導の中で伝えてはいたが、
焼け石に水のようなものだった。
相変わらず、落花生に除草剤をまく農民や魚やえびを殺虫剤で捕る若者は減らなかった。
農薬の勉強会については、その都度その都度、開こうかと村人に相談するのだが、
皆『Terserah!(テルセラ、意味:やりたいのなら、勝手にどうそ)』と言うばかりだった。


私の任期が3年目に入った時のこと。
色々な経緯があって、何人かの農民と一緒に農作物の直販を試みる事になった。
市場や商人を通さないで、村から直接町の住民に野菜を売るという企画である。
これに町の女性たちで作るある団体が参加したくれた。
どういう野菜が欲しいのか、町の女性たちのニーズを探ると称して、
農民と町の女性とが会して話し合いを行った時のことである。
そのときの女性中学校教員の一言が、その後の始まりだった。
彼女は、農民に対して『安全な野菜が食べたい』と言った。
農民は、何言ってんだ?という顔つきでその意見を聞いていたが、
何度かこのような会合を開くうちに、農民の農薬に対する意識が高まり始めていた。


そして、ある日。
大量の除草剤を落花生にまいたことのあるムハマッドは、
『田谷、農薬の勉強会を開こう』と言ってきた。
あれほど、こっちから開こう開こうと言っても乗り気でなかった農民たちだったのだが、
今度は彼らから開こうと言い出していた。
まぁ、人とはそういうものなのだろう。


私が帰国するまでに、何度か農薬の勉強会を開いた。
農民の農薬に対する理解度を聞かれるとつらいが、
それでもダマールなどは、近くの川で農薬を使って魚を捕る事に反対し、
集落の人に伝えてまわっていた。
これはこれで『以前と変わった』と言えるだろう。


何年か前に、日本でJAS法という法律が制定された。
有機野菜や無農薬野菜等々の表示についても定められている。
私の農園では、季節によっては全く無農薬で栽培している。
ハウス施設内ではすべて有機肥料を使い、一切化学肥料を使わない。
それでも有機野菜という表示は出来ない。
まる3年以上無農薬で有機肥料だけを使用した圃場で無いからである。
農民にとっては、実に厳しい法律だ。
無農薬と言うのは、よほど手間がかかりコストが高くなるばかりか、リスクも大きいのだ。
それが最近、中国などの海外からJAS法にあった安い有機野菜が入ってくるとかこないとか。
コストのかからない労力もたくさんある中国だったら可能かも知れない。
いや、可能だ。


今から6年前だったか、
ある雑誌が主催していた中国ベトナム農業視察の旅に応募して参加したことがあった。
どちらの国でも有機農業というものを見せられた。
特に中国では、上海の近くの無錫という町で、有機野菜に取り組んでいる団体を視察した。
四川からの出稼ぎ者を使い、広大な土地で有機農業に取り組んでいると言う話だった。
緑色食品という認定を当時の中国政府が出していて、その認定をとった農場だと説明された。
鉄骨のハウスの中では、青菜が栽培されており、
豚糞を肥料に使い無農薬で栽培しているとの事だった。
当時私は大学生で、まだまだ右も左もわからない、ただ勢いのみで生きている若者だった。
そんな私には、中国のお役人の話はあまりにも画一的すぎて、退屈だった。
そこで、圃場説明の時にみんなと別行動で、勝手にあちこちの畑を見てまわっていた。
よくもまぁ、こんなに広い場所で有機農業をするもんだなぁ、と感心して見てまわっていたのだが、
ある臭いが鼻につきだした。
どこかで嗅いだことのある臭い。
ふむ、人糞だ。
だだっ広いキャベツ畑だったろうか、一面に人糞を肥料に使われていて、
結構な臭いだったのを記憶している。
人糞は金肥とも言われ、肥料としては成分も高く昔はよく使われていた。
そのこと自体に特に問題があったわけでもないが、
ただそこのキャベツの葉にコンドームが張り付いていたのがショックだった。
有機であれば何でもありなのか?
ここは人が食べる野菜を作っている畑だよね?
四川の出稼ぎ者は給料がもらえればそれで良い。
農場主は有機野菜の規定に沿っていればそれで良い。
そういうことなのか?


私のホームページでは、気が向いた時に野菜のプレゼントをしている。
なかなかの好評で、今度はいつやるんだとメールが届く事がある。
当選した人からは、こうやって食べました、とか、美味しかったです、等々の
感想を寄せてくれる人もいる。
実にやりがいがある。
これを書いていて、気がついたことがある。
普段市場などにだす野菜は、それほど気を使って収穫したり、選別したりしていない。
しかし、プレゼント企画で野菜を直接消費者に送る時は、
できるだけ農薬を使っていない圃場から収穫したり、
なかでも良いものを採るようにしたりしているということだ。
市場に出している作物がいい加減なわけではないが、
特に顔が見えている人には、こちらも『食を届けている』という意識もあり真剣になる。
ムハマッドやダマールもこういう気持ちだったのだろうか。


中国産ホウレンソウの残留農薬記事の横に、エリンギ需要半減の記事が載っていた。
中国産のエリンギからも残留農薬が見つかっていたらしい。
皆さんの食べているものはなんですか?
それは誰が作ったか知っていますか?
あなたが食を通してつながっているのは、近所のスーパーまで?
それとも野菜の規格だけ?


毎日食べるものだからこそ、余計に怖い、そう感じた。
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週末は、以前書いたエッセイのお引越し。
これは2002年春に書いた文書。
今もこれを読むたびに、農薬についていろいろ考えてしまう。



残留農薬



今年もまた、ゴールデンウィークが過ぎ去って行った。
読者諸君は何をして過ごしただろうか?
農民である私には、この『ゴールデンウィーク』という言葉ほど縁の無いものは無い。
朝は4時半から夜は7時まで、つまりは日が昇る前から日が沈んだ後まで肉体労働をしていた。
前言撤回か?まさに、これぞゴールデンウィークなり。
農繁期とは、まぁそんなものだ。

そのゴールデンウィークの最中、ある新聞に目を引く記事が出ていた。
見出しは『残留農薬 やはり中国産』というものだった。
外食店が出しているホウレンソウメニューから国の安全基準を超す残留農薬が見つかった件で、
原材料はすべて中国産の冷凍ホウレンソウだった、という内容だった。
ショックはこれだけではない。
冷凍ホウレンソウは年間約6万トンが中国から輸入され、
全体の99%以上を同国産が占めている、と書かれてもいた。
99%。
冷凍ホウレンソウの殆どが中国産ということか。
99%と言うからには、コンビニの弁当や外食の時に出てくる味気ないホウレンソウもそうなのだろう。結構食べている気がする。
何気なく、毎日、どこかで食べている。



残留農薬。
今回は、農薬で思い出したことや、考えたことを勝手に書く。
あっている・まちがっているは一切考えない。
構成も考えない。
つらつらと書く。



中国の農薬事情はよく分からないが、インドネシアのことを少し書こう。
農薬という記事を読んで、自分の活動を思い出したからだ。

アレジャン集落でも、当然農薬は使われる。
落花生考で書いたように、落花生の播種の時に、豆に農薬をまぶしたりする。
また、よく使うのが除草剤。
熱帯の雑草は、バカに出来ない。
作付けの前には、必ず除草剤を撒く。
そうでもしておかないと、栽培途中で畑が雑草のジャングルになってしまうからだ。
ただ、使い方があっているのなら、それほど問題にはならない。
しかし、たいがいの場合、使い方が間違っている。
それが、途上国の田舎といってしまえば、そうなのだが・・。

インドネシアには、日本のように多くの農薬がある。
そして、安全基準のようなものもある。
しかし、それは中央だけの決まりごとで、
田舎に行けばそんな基準があることすらしらない親父たちばかりなのだ。
そもそも農薬がなんであるか知っている人の方が少ないかもしれない。
当然そういう場所には、農薬の種類も少ない。
そしてそれに相関関係があるのかないのかわからないが、
私の経験から言えば、そういう農薬が少ない場所には、必ず毒性の強い農薬ばかりがおいてある。
これは、農薬にまつわるこの地域の話。

アレジャン集落から20キロほど離れたところにチェンネという集落がある。
アレジャンに比べて比較的町に近い事もあって、
アレジャンのような神秘性をとっくの昔に捨ててしまった集落である。
そこに、ムハマッドという親父がいる。
先進的な農民で、地元の農業普及員もよく出入りしている。
県知事と一緒にとった写真を嬉しそうに見せてくれる、割と人の良い親父だ。
私もよく彼と仕事をした。
やる気があって、人よりも1歩も2歩も先を進みたがる親父だった。
ある日、いつのもように彼の家に仕事で行った時の事。
彼が家の軒先で、大量の除草剤を準備していた。
日本でも売られているランドアップという、草を根から枯らす強い除草剤である。
そんなに大量の除草剤をどうするんだ、と聞いたところ、
彼はにっこりと笑って、『落花生にかける』と言った。
落花生にかける?
落花生を枯らすために?
『いや違う。田谷は知らないんだな。落花生畑の雑草がひどくなってきたから、それを枯らすために除草剤をまくのさ』。
・・・でも、そうすると落花生も一緒に枯れると思うんだが?
『昨日よその県から来た農家に聞いたんだ。隣りの県では落花生が生えてから、除草剤をまくそうだ。落花生は枯れなくて、雑草だけ枯れると言っていた』。
それは間違っている。
確かに雑草は枯れると思うが、一緒に落花生も枯れる。
『まぁ、田谷は見てな』と自信満々な顔で、
青々と生えた落花生畑約30アール(約900坪)に除草剤を嬉しそうにまいていた。

この話の続きは、読者諸君が想像している通りの結果である。
900坪の畑は、落花生を植え付ける前の状態に戻った。
雑草は枯れた。
しかし、落花生も枯れた。
ムハマッドも枯れたようになっていた。

次はカレンゲという集落での話。
ここにダマールと言う親父がいた。
こちらも人の良い親父で、お昼頃に訪ねると必ず昼食をご馳走してくれた。
ここの奥さんが得意としていた川えびの料理が好物で、
わざわざ昼飯時を狙って訪ねて行ったりもした。
そんなある日、ダマールの弟が川でえびを取るというので、一緒に行く事にした。
うまくいけば、またえびの料理をご馳走になれるかもしれない、という下心を携えて。
さて、そのえび捕り。
道具は何を使うのだろう、と彼の準備を見ていた。
網だろうか?
電気で捕るやり方はタイでも見たことがあったので、それだろうか?
爆弾を使うほど川底は深くない。
さて、なんだろう?
しかし、彼が手にしていたのは、1本の農薬だった。
殺虫剤で、日本ではかなり以前に使用禁止になっている農薬だった。
彼は『これ、効くんだぜ。えびだけでなく魚まで捕れるんだ』と嬉しそうに笑っていた。
そう、皆さんの想像通り、彼はその農薬を上流から流し、
浮いてきた魚やえびを川沿いで拾い集めていた。
当然、その日からえび料理は食べないようにした。

 これらの話は、ごく一部。
まだまだこのような話は腐るほどある。
すべては、農薬に対する彼ら・彼女らの知識と意識の無さから来ている。
そこで、赴任してすぐに農薬の勉強会を開こうとした。
アレジャンの集落長ラエチュの家で。

つづく
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夏が終わると畑もずいぶんと姿を変える。
夏から秋へ、季節が変わるに合わせて、畑の作物も変わる。

今年の夏の主力は
茄子とフルーツホオズキだった。

ナスは販売用に3種栽培してみた(自家菜園では6種)
イタリアの茄子(西洋ナス)
白ナス
そして、福井の隣の市である鯖江の伝統野菜「吉川ナス」。
その茄子もだんだんと取り止んできた。
もうひと頑張りほしい、という人間の欲から
今日、肥しをやる。
自家菜園のナスは、食べ飽きたので、1つだけ残して後は整理した。
売ると食べるでは、こんなにも違う。

ナスの販売成績はまずまずだったが
キズものばかりでB品扱い(半値)を受けることもよくあった。
特に吉川ナスは皮が薄く傷が入りやすい。
鯖江で吉川ナスを長年、栽培・普及・種子保全に取り組んでいる農家が
いるとのことなので、一度、見学に行きたい。
西洋ナスは、上々の人気。
来年は本数を増やし、本格的な栽培に切り替える予定。
白ナスは、食感は申し分ないのだが、皮が固く種が出来やすい。
その面はなかなか栽培法では乗り切れないようなので
販路を絞って、ターゲットになる客層だけへの販売になるだろう。
白色がきれいなので、インドネシア研修生のH君は
「日本の女の子ナス」と名付けていた。

フルーツホオズキは、4種栽培。
今年もそこそこ売り上げたのだが、いまいちブレイクしないままだった。
紫色になる品種は、見た目は良く大粒だったので期待が大きかったが
とても食べ物とは思えないほど味が悪く、商品化には至らなかった。
H君が「うまい、うまい」と言うので
彼が好きなだけ消費していいことにしてしまった。
そのほかの3種はまずまずの売上成績。
ただ、収穫適期の時期が短く、収量に偏りがあった。
それをどうするかが、来年の課題だろう。

これから冬野菜の仕込みに入る。
根セロリ(根っこを食べるセロリ)
ラディッキオ
芽キャベツ
そして大根。
これらを定植、もしくは播種していく。
大根は、黒大根、赤大根、青長大根、砂糖大根などなど
6種ほど遊びで播いてみることに。

どんな味なのだろうか。
どう調理しようか。
そしてどう売ろうか。
そんな期待が渦巻く冬の野菜。
収穫が楽しみだ。
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祭りの打ち合わせがある。
と言っても、保育園ではなく、村のである。

今年は10月12日に村の秋祭りが行われる。
祭り全体を切り盛りするのは、自治会の役目だが、
夕方から出店やステージ、民謡などの準備や進行を務めるのは
村の青年会の役目。
そして僕は、今年村の青年団の役員もやっている。

打ち合わせでは、当日までの準備物の確認と
出店を受け持ってもらう村の人の割り振りを行った。
出店といっても、村の小さな秋祭り。
子供用のくじと大人用のビールと焼き鳥がメイン。
子供用のくじは、大した景品でもないのだが
祭りマジックにかかってしまった子供たちは、
ハーメルンの笛吹き男にやられてしまったかのように、
親や祖父母からもらった祭りのお小遣いを惜しげもなくつぎ込む出店。
いわゆる「ドル箱」出店で、その収益は青年会の飲み代にあてられるという
あこぎな構造なのだ。
ビールの出店は、例年、販売役が先に酔いつぶれてしまい、
途中から振る舞い酒に化してしまうらしく、毎年赤字。
今年もメンバーを見ると、間違いなく赤字だろう。
なぜなら、その販売役の一人が、僕だからである。
職権乱用で、おいしい役を自分に割り振ったのである。

さて、当日までの準備物の多さに少し辟易した。
ステージやぼんぼりの設営、村まつりの垂れ幕の設営、各出店の用品の準備などなど。
さらには、当日ビール販売の振りをして、ビールを浴びるほど飲んでいれば良い役に
自分を置いたはずなのに、なぜか、青年会の会長が
「当日のステージ進行は田谷君がしてね」と言われる。
なんでも自分で取ってきた鮎を、
新たにひとつ出店を作って販売したいらしい。
この会長、僕の鮎漁の師匠でもある。

こうして祭りの打ち合わせ1回目が終わる。
9月のすべての日曜日は、この打ち合わせが入ることになり
しばらくは忙しい日々となりそうだ。

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イスラム教の断食月(ラマダン)に入る。
インドネシア研修生のH君もイスラム教なので、
今日から断食。
日の出から日の入りまで
飲まず食わずで過ごす。
約1か月、この断食が続く。
断食月だろうが、仕事は通常通り。

インドネシアなど、イスラム教がマジョリティの社会では
断食月になると社会全体が停滞する。
僕の経験上、地方の公務員などは、早引きする人が増えるし
(そもそも出勤してこない人もいた!)
大学の教員も、授業を適当に早目に切りあげたりもしていた。
みんなが断食なので、停滞も許される雰囲気があった。

が、H君の状況は違う。
周りは誰も断食をしていない。
しかも、仕事も通常通り。
異国の地での初めての断食は辛かろう。

せめて昼休みはゆっくり休むために
昼休みを利用しての座学は、「しばらく休みにしようか?」と提案すると
「座学も通常通りでお願いします」とのこと。
彼は本当に意思が強い。

ちなみに僕は、何度かインドネシアで断食をしてみようと思ったのだが
2日ともったためしがない・・・。
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田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
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