娘と妻と3人で、フルーツホオズキの外皮をむく。
フルーツホオズキのジャムを作るために。
3歳にもならない娘が、僕や妻の手つきを見ながら、
上手に傷んだ実を見分け、外皮をむいていた。
3人向かい合っての作業。
「美味しい」ジャムは、この作業からもう始まっている。

そのジャムは、保育園で販売する予定。
売上は、保育園の増改築の資金に。
そんなに大量には作れないのだが、こうした取り組みが
毎日、誰かの手で行われている。
それが積もり積もって、900万円。
まぁ、ほとんどが献金なのだが。
だが、集める側にとっては、寄付と献金をお願いするだけでは、やはり辛い。
なので、こうして家族3人で、
保育園の増改築資金集めと称して
楽しくジャム作り。

フルーツホオズキは、小さすぎて出荷できないB品ばかり。
どうせ捨ててしまう物ばかり。
すこしばかりの手間を家族団らんでこなし
美味しいホオズキジャムは、買った人にも珍しいだろうし、
売上は保育園の資金にもなる。
栽培法にこだわったホオズキをベースにして作った無添加の手作りジャム。
こだわりの保育園に通わせている親たちならば、
その価値も解ってくれるだろう。

使用価値、交換価値、共に高い商品を
Win-winの関係の中で作る。
そう思えば、なお楽しい。
関連記事
以前書いたエッセイの引っ越し。
こういうことがあったから、協力隊から帰国後すぐには
研修生を受け入れる気になれなかった。

そして今年。
協力隊から戻って、8年になる今、
こういう批判もあって、そして周りの人も
そういう目で研修制度を見ているのは知っているのだが、
研修生受け入れを始めた。

批判を重ねるよりも、
とりあえず一歩踏み出そう。
とにかく走りながら考えよう。
そう思って、研修生受け入れをしている。
ここで書かれていることは、そのまま、今の僕を批判する文章。
僕はこれを忘れてはいけない。
研修生を安価な労働者として、扱ってはいけない。



1通の手紙

surat dari teman
研修生からの手紙


春になった。
これは前回も書いたか?
でも、春になった。
だから、農作業も忙しくなってきた。
家に帰れば、疲れのせいか寝る時間も自然と早くなる。
ホームページの更新もなかなか進んでいない。
アレジャンを更新するのは、実に久しぶりだ。
さて、言い訳終わり。

今回の話は3月上旬のこと。1通の手紙から始まる。

インドネシア人の知り合いから手紙が来た。
と言っても、残念ながら大親友のサッカからではない(第19話、第20話参照)。
ある事情で名前は伏せておきたいのだが、彼は福井に住んでいた。
正確にいえば、手紙をくれた当時はまだ日本に居たが、
今はきっとインドネシアに帰っているだろう。
彼が今、インドネシアで平穏な日々を過ごしていることを祈りたい。

さて、その彼だが、農業研修生という名で1年間福井の農家にホームステイしていた。
どこの機関がこの研修を行なっているかは、ここでは伏せたいが、
福井県では毎年10名ほど、農業研修生という名のインドネシア人を受け入れている。
彼は、その1人で、この3月、帰国を前にして福井県庁に表敬訪問に行く予定だった。
その表敬訪問で、彼ら彼女ら農業研修生は、日本語で挨拶をする予定でもあった。
彼は、その時の挨拶を私に日本語に訳して欲しいと、手紙を送って来たのだった。

普通、日本に1年も居ればそこそこ日本語はみにつく。
私の知っているインドネシア人は、1年半福井に居るが、
会話はもちろん漢字もすらすらと読める。
まぁ、漢字は出来なくてもしょうがないが、会話くらいであれば、
如何に難しいとされる日本語であってもそれなりに出来るだろう。
しかし、手紙をくれた彼は、まったく日本語が出来なかった。
彼の能力が劣っていたからではない。
もしそうだったら、彼はそれほど不幸な1年間は過ごさなかっただろう。
彼は農業に対して実に意欲的なインドネシア人だった。
それなのに日本語を習得できなかった。
なぜだ?彼は手紙の中でこう記していた。

『農業研修生は週に1日は最低でも休みをもらえるように、日本の受け入れ機関とインドネシア政府との間で取り決めがあった。それにもかかわらず、私は1日も休みをもらうことが無かった。朝は4時から働き、日が暮れるまで力仕事をする。仕事が終れば、疲れて寝るだけ。このような状況で、どうやって日本語の勉強が出来るのだろうか。』

彼ら彼女らは、研修所で研修していたわけではない。
各農家にホームステイして、日々の労働から日本の農業を学べ、と言うわけなのだ。
インドネシア語も英語も出来ない農家に入り、毎日農作業をする。
これは研修なのだろうか?

他の研修生からもいろいろな話を聞いている。
皆それぞれ、この研修の内容に疑問をもっていた。
当然だろう。
みんなではないが、『ただの労働力として扱われる』とこぼしていた者もいた。
ある者は、『家事までさせられる。労働が終って疲れて家に入れば、ステイ先の家族の食事まで用意しなくてはいけない。農業研修という話だったのに・・・』と言った。
またある者は、『日本で研修するって決まってから、村の連中からは、こんな事を勉強してきてくれ、とか、こんな事を身につけてきてくれ、と期待された。こんな機会はもう一生無いだろうから、しっかりと勉強する気で来たのだが、来て見たら毎日単純作業。そんな農作業なら自分たちの村で嫌というほどやってきている。もっと中身のあることを勉強したいと思っているけど、言葉が通じないし、勉強する時間や日本語の講座も無い。村の連中に何て言って良いのか・・・』と言っていた。
この話を聞いた時、私は言葉につまって、何もいえなかった。

日本に来て勉強が出来るというのは、
村人たちにとってどういうものなのか、すこし説明しよう。
今日、旅行シーズンでなければ、インドネシア‐日本間は安くて6万円程度で往復できる。
この価格は、我々にとっては何てこと無い価格だろう。
しかし、アレジャン集落の人間にとってすれば、1年間の収入にも匹敵する価格なのだ。
アレジャンはインドネシアでも貧しい農村になるが、
それでもごく一般的なインドネシア人から見ても、6万は非常に高い。
それだけ日本は遠い国なのだ。
その遠い日本で研修が出来るとなれば、
それは多くの村人がそうあるように、一生に一度あるかないかなのだ。
その日本での研修が、満足に行なわれていない。
何のために研修をしているのか?

妻の親戚が徳島にいる。
昨年のお盆に、親戚まわりも含めて徳島までドライブした。
耕作地が広がる肥沃な大地・阿波の国。
天候もよく、瀬戸内海を見ながらのドライブは快適だった。
道も良かった。
畑や水田の真ん中に立派な国道のバイパスが通っている。
まったくのドライブ日和だった。
そんな時、1枚の看板が目の中に飛び込んできた。
それは黄色の看板で、赤い字で大きくこう記されていた。
『外国のお嫁さん・外国の研修生、紹介いたします』と。
農村が点在する農耕地の真ん中で、その看板は我がもの顔で、恥ずかしげも無く立っていた。
農村の嫁不足はたしかに問題になっている。
外国からお嫁さんが来れば、それはそれで良いのかもしれない。
だが一方で、先日NHKでは、中国から来た嫁さんが、
農村を出て行ってしまって不法就労者となっている問題を放映していた。
悲しい問題である。
それはさておき、研修生?研修生って紹介されて来るものなのか?何かがおかしい。
NHKで放映していた中国から来た嫁さんの問題は、
農村でいち労働者として扱われる、
または親の世話のために呼ばれる事を事前に知らなかったことだった。
その外国のお嫁さんと並列されて書かれていた外国の研修生。
つまりは、いち労働者ということか。

福井には、農業研修生という名のインドネシア人が、毎年やってくる。
いろいろな思いを胸にやってくる。
そして、いろいろな思いをここで捨てて、国に帰る。
成果がある時もある!と言いたい人もいるだろう。
実際、農家とインドネシア人との草の根の交流はあるかもしれない。
しかし、研修なのだ。
成果があって当たり前。
研修になっていない場合があることが問題なのだ。
みんながどんな思いを持って、この国に来ているか、一度は考えたことがあるだろうか?
彼らからじっくりと話を聞いた事があるだろうか?
自分たちの都合で、労働者として扱ってはいないだろうか?
もし、これを読む事があれば、じっくりと考えて欲しい。
もちろん、反論もお待ちしている。

インドネシア人から届いた1通の手紙。
書き出しには、電話を使うと叩かれるので手紙にしました、と書いてあった。
アレジャン集落の人たちが、この研修の制度にのって日本に来ないように、と本気で思った。



書いていて『研修』の意味がわからなくなった。
岩波国語辞典第4版を引いてみた。
『研修(けんしゅう) 学術などをみがき修めること。
また、執務能力を高めるため特別に学習すること』だそうだ。
私もそうだと思う。
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家作りの話。
今週は大きく前進。

長々と申請をしていた農地転用許可に大きな動きがあった。
その一つとして、農地転用の許可をえるための農業委員による視察が火曜日にあった。
最近は、大丈夫だと言われている土地でも、
農業委員の視察でダメになるケースもある、と事前に聞かされていたので
内心、恐々としていた。

が、農業委員の一行が到着すると、
開口一番、各農業委員から「今日は田谷のせがれを見にきた」と言われる。
農業委員のほとんどが、
祖父の知り合いだったり、父の知り合いだったり。
許可がどうのこうのの話ではなく、
「せっかく農家の跡取りが、奇特にも村に帰ってこようと言っているんだから、これは気が変わる前に、すぐにでも許可をだしてしまわないかん。自治会長やら農協の役やら、これからなんでもやってもらわないかんのだから。」とのこと。
村の役や農協の役ばかりが回ってくるのは、
僕の本意ではないのだが、
とにかく視察は無事終了。

農地転用の許可と開発行為の許可がおりそうなので、
設計士さんと実施設計図面の打ち合わせを水曜日にする。
開発行為の許可を得るには、施工業者が決まっていないといけないということで、
実施設計図面を確定してしまい、来月中にも各業者の入札を行わないといけない。

実施設計の打ち合わせは、数点の変更があったものの、
概ね問題なく終了。
ただ、設計士さんから提案があった薪ストーブの型が、
僕が希望していた薪ストーブの型(ヨツール118CB)と違っており、
僕の希望の型の導入を検討してもらうことに。
出来上がった図面に入りきらない大きさだったため、
どう変更して、ストーブを入れてくるのかが楽しみでもある。
また妻からは、玄関扉や室内扉についての注文があった。
「予算額ぎりぎりでおさまるかどうか・・・」
と不安なことを設計士さんは漏らしていたが、
とりあえず入札してみないとわからないので、
とにかく今は、こちらの希望・要望は伝えた。

来週にも変更箇所の訂正があり、
そのまま入札に入る段取り。
10月末には、農地転用と開発行為の許可が下りるので
11月には着工になる。
いよいよだ。
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日曜日に、ニンジンを播く。
自家菜園に。
甘くて評判の品種と、紫色の品種の2種。
沖縄人参(黄色)も播こうと思ったのだが、
種をどこにしまいこんだか、解らなくなり、今回は見送ることに。

この頃、
白菜を播いたり、ニンジンを播いたり、
大根の種を取り寄せたり(緑・黒・赤)、
夏野菜の畑を片づけたり、と
秋の気配を農作業の中から感じることが多い。

関連記事
インドネシア研修生の話。
僕が与えた7月の課題レポートの中で、
H君は、日本の農業とインドネシアの農業を比較して、
「日本の農家は、価格交渉や契約栽培などの交渉力が強い」と評価していた。
それが、日本の農業の発展の鍵のように見ているようだった。
そこで、今日は、農家が相手にしている「市場」について
昼休みを利用して座学を行った。
毎週日曜日は、座学の日なのである。

インドネシアでは、農産物を農家が思うような価格で
販売することは、至極難しい。
僕もこの点では、かなり苦労をした。
制度化された市場がなく(あるいは少ない・もしくは遠い)、
ラジオ等で青果の相場は流れるものの、
情報は少なく、アクセスもし難い。
日本に比べたら、農家側に交渉権はほとんどなく、
商人の言い値(格安)で買い取られることが多い。
またその商人から、栽培資金を借り入れしていたり、種や肥料を借り入れたり
と脆弱な生産体制と構造の中で、交渉権というもの自体を
農家が持ち合わせていないケースもある。
「テンクラッ」と呼ばれる生産物集荷人も村の中に多くいて、
農家が直接商人と交渉することなく、テンクラッに生産物を預けて
委託販売するケースもある。
テンクラッと農家には、持ちつ持たれつの関係もあるようだが
時には、この構造が貧困を生みだすことも多い。

さて、座学。
一般的な卸売市場の流通(農協出荷も含む)以外に
マーケットや青果企業との直接契約、
直売所などへの直接出荷、
生協などの広告販売、
インターネットによる産直、
個人の振り売り(訪問販売)
などなどを説明した。

インドネシアでも青果企業との契約栽培は盛んなのだが、
それらは、大規模農家か、その企業や加工場に直接アクセスできる農家に限られてしまう。
個人の振り売りなども、昔ながらの販売方法として
インドネシアでは今でも多くの野菜がこの流通経路で消費者に届いている。

H君が驚いていたのは、その振り売りが日本でもあることであった。
僕の農園でも、暮れの時期になれば、
軽トラックに野菜を積み込み、振り売りに出かけるのである。
それともう一つ、H君が驚いていたのは
直売所のシステム。
形や量がそろわなくても、農家が自ら値段をつけて販売できるシステム。
振り売りとその辺りは変わらないのだが、
消費者の方から集まってきてくれる点と、
農家がいつでも気軽に出荷できる点で大きく異なっている。

これらの説明を必死にノートに書き留めたH君。
今月の課題レポートは、これら市場の有利な点と不利な点を説明し
インドネシアと比較して、これらの中の何の要素が
一体、日本の農家に交渉力をつけさせているのかを
彼なりに考えてもらう予定でいる。

月末のレポート提出が楽しみだ。
関連記事
青年海外協力隊の経験を元に、書いたエッセイ。
元のホームページが閉じられてしまったので、
このブログにお引越し中・・・



春になって考えたこと

tumbu tukushi


春がきた。長い冬がすぎて、春がきた。
今まで雪に覆われていた田んぼや畑が顔を出す。
雪の下になっていて、ついこの前までじっと耐えていた野草も、ここぞとばかりに花をつける。
つくしも顔を出す。鳥のさえずりも多くなる。
ああ、春だなぁ。

先日、春の陽気に誘われて、田畑にトラクターをかけにいった。
青のイセキトラクター。
20a(20m×100m)ほどの畑を1時間もかからずに耕し終えた。
読者諸君には、なかなか解って貰えないかも知れないが、
トラクターで耕すというのは、実に心地が良い。
冬の間、雪の下になっていた田畑。
表土が固くなっていて、雑草が表面をびっしりと覆っている。
そこを有無も言わさず耕していく。雑草の根を切り、硬い表土を叩き割る。
トラクターの通った後には、ふかふかの土が顔を出す。
これがなんとも言えず快感なのだ。
いかにも大地を耕しているって気になる。
青空の下、春の陽気で、トラクター。
つらい農作業の中でも、一番すがすがしい時なのだ。

torakutar.jpg
     
     イセキの青のトラクター

近所の田畑も、トラクターがフル稼働していた。
この陽気だ、みんな考える事は同じなのだろう。
しかし、そんな光景を見ていて、ふと思い出したことがあった。
アレジャンである。

アレジャン集落でも、雨季の始まる前に、稲作の準備として田起こしをする。
しかし、トラクターは無い。
鍬で起こす。
お金持ちの家は、馬で起こす。
どちらにしても、私が快感だと感じている田起こしとは、程遠い。
それどころか、アレジャンの田起こしは、かなり苦痛なのだ。
とにかく土が固い。
石がごろごろしているので、普通の鍬では、土に食い込まず、跳ね返される。
ジャワ島(首都のある島)で売られていた備中鍬を一度買って、アレジャンで使ってみた事があった。
最初の一振りで、3つある刃のうちの1本が折れ、三振り目には備中鍬は完全に破壊された。
バルの町に売られている鍬でも、十振りに一度は刃が曲がってしまうので、
石か鉄鎚で叩いて元に戻さないといけない。
それほど固い。
だからアレジャンでは、一般に売られているものよりも半分くらいの刃の鍬を使う。
その刃も一般のものよりも2倍の厚みがある。
その鍬で、『土を耕す』というよりも、『石ごと叩き割る』といった表現がぴったりの耕し方をする。
赴任して直後、村人に囃し立てられて、田起こしをしたことがあったが、
1a(10m×10m)も耕さないうちに手のひらの皮が破れ、
血がにじんできてしまい、村人に笑われた事があった。
アレジャンの農業は偉大だ、そう感じた。

今、日本にいて、トラクターに乗り、スイスイと田畑を耕している。
すこし地盤が固いところでも、ギア比を変えて、
すこしエンジンをふかし気味にすれば、難なく耕せる。
石だってほとんど無い。高速で回転するトラクターのロータリーが、
小気味良く大地をふかふかにしていく。
なんて気持ちが良いんだろう。
そして、なんて不公平なのだろう。

私が隊員の時、アレジャンでトラクターを使用したときがあった。
トラクターは、協力隊のチームの機材として買ったもので、
今現在はバル県の行政に供与されている。そのトラクターは、乗用ではなかった。
ハンドトラクターと呼ばれるもので、人がトラクターに乗らずに、歩きながら使用するタイプだった。
ロータリーという幾つも刃が回転して土地を耕すタイプではなく、
大きな鉄製の鋤を引っ張って歩くという簡単なタイプだった。
ロータリー式もあったのだが、石の多いアレジャンの土地では、
ロータリー式だと石を巻き込むごとに、トラクターが跳ねたり、
刃が折れる危険があったので、鋤を引っ張るタイプを使用する事にした。

何度も言うが、アレジャンは棚田の地である。
そして、農道が無い。
田んぼの畝伝いに歩いて、皆それぞれの田んぼに行く。
つまり、トラクターが通れる道が無い。
平地でもないので、田んぼを横切って目的の田んぼに行くことも出来ない。
一番急な場所では、田んぼと田んぼの段差が3メートルもある。
トラクターをアレジャンに運んだものの、集落から目的の田んぼまで運ぶすべが無かった。
ハンドトラクターと言っても、相当な大きさで重さも500㎏以上あった。
ラエチュ(アレジャン集落長)が『使ってみたい』というから持ってきたのだが、
やはり無理だったのだ。
『トラクターを使うのは、止めよう』と私。
『いや、使う』と強情に言い張るラエチュ。
すると、ラエチュはおもむろに村人を集め始めた。
そして、集まってきた村人たちの手には、青竹があった。
500㎏以上もあるトラクターをエンジンと本体にばらし、
村人たちは器用に青竹を組んで御輿を作った。
驚いてものも言えない私をよそに、6人がかりで田んぼに運び、
そこでトラクターをりっぱに組み上げてしまった。
『どうだ?やればできるだろ?』と得意顔のラエチュと村人。
見事田んぼをトラクターで起こせたのだが、
1枚の田んぼが2~3a(20~30m×10m)もない棚田では、
1枚の田んぼを起こすごとにトラクターを分解し、御輿にのせて次の田んぼに移動し、
またそこで組み立てるという面倒な作業が必要だった。
しかし、血豆を作りながら、それでもうまく耕せなかった田んぼが、
トラクターでスイスイと耕せるのだ。
ボンボンと力強いトラクターのエンジンの響きは、村人の耳に心地よく響いていた。

torakutor dipakai
       
    アレジャンでトラクターを使用したとき


 torakutor dipakai 2       
珍しいのか、子供がわんさかと集まってきた




それから、何年かが過ぎた。
今年(2002年)の1月、私は帰国して1年が経った事もあり、
再びアレジャンを訪れた。
嬉しそうに出迎えてくれるラエチュ。
そのラエチュの家である『100の柱の家』に上がる(高床式で、家の下は物置になっている)。
いや、上がろうとした時、家の下に見慣れぬものがあった。
そう、トラクターだった。
とても個人では買える代物ではない。
どうしたんだ?と尋ねる私に、ラエチュはにっこり笑って、
『借金して買った。田谷が持ってきたやつとほとんど同じタイプだ』といった。
7000万ルピアもしたそうだ。
ペテペテという車なら2台は買える値段だった。
さらに詳しく話を聞くと、日本からの円借款で貸与されたトラクターが、バル県にも何台か入ってきて、それを分割払いにして買い取ったとの事。
『収穫が無い年は、返済は無いんだ。返済期間も10年だか20年だかと役人は言っていた。まぁ、返さなくても良いってことだろう』と、しゃあしゃあと話すラエチュ。
円借款で貸与されているわけだから、ラエチュがきちんと借金を返さないと、
困るのは日本だ。
私は、『自分の払った税金がこういうふうに海外で焦げ付いていくんだなぁ』と思うと、
なんだか可笑しくなって、そのトラクターを見て笑った。
ラエチュは、私が喜んでいると思ってか、彼も笑っていた。
彼の耳はまだ、以前私と一緒にかけたトラクターの音を忘れていないのかもしれない。
『この前の田起こしのときは、大活躍だった』
とラエチュは嬉しそうに目を細めて、その時の様子を話し始めた。


       
 torakutor allejjang

mesin torakutor
    
ラエチュが買った(もらった?)トラクター。
エンジン部分は盗まれる事があるので、はずして家の中に保管している。



まっ平らな大地をドコドコとトラクターをかける。
棚田でもない。
石も無い。
海外からの援助が無くても、何十年もローンを組まなくても、トラクターは買える。
真っ青な空の下、春の陽気とトラクターの振動で眠気を誘われつつ、
『やっぱり不公平だよなぁ』とぼんやりと考えた。
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週末は、以前書いたエッセイをせっせとお引越し・・・



落花生考


menanang kacang
落花生を植える青年



先日ある友人からメールが来た。
『愛しのアレジャン面白いけど、田谷って本当に協力隊として活動してたの?』と書かれていた。
失敬なことを書く輩もいるものだ。
しかし、彼の言う事も解る。
なぜなら、この愛しのアレジャンだけを読んでいる限りでは、
私の活動らしい活動といえば、第7話の『冷蔵庫編』で
村人に正しい冷蔵庫の使い方を教える場面しかない。
これ以上あらぬ誤解を受けないためにも、今回はしっかりと協力隊活動について書く。
まずは、落花生についてだ。


私は、村人に農業指導をするために派遣されていた。
農業指導なら何でも良いのか?というとそうでもない。
バル県の農業局と協力するという建前があり、農業局の意向を無視した、
勝手な農業指導はあまり好ましくは無かった。
そのした中、私が派遣されてすぐに農業局から協力を依頼されたのが、落花生指導だった。
しかも、私の前任隊員も落花生指導に携わっていたため、私の意向がどうであれ、
落花生指導をする事になった。


アレジャン集落は、山村である。
無数の棚田が広がり、その斜面にへばりつくようにして、皆暮らしている。
雨季には、その棚田で稲作を盛んに行なうが、
乾季は雨量が極端に減るため、稲作はできない。
そこでアレジャンでは、乾季は落花生を栽培していた。
落花生(ピーナッツ)は乾燥に強い。
雨量の少なくなる乾季でも心配なく栽培できる。
しかも稲と豆の栽培の組み合わせは、とても良い。
専門的な言葉で説明することは避けたいので、
簡単に言うと、稲は土の中のある栄養(窒素)をたくさん吸収する。
そのため稲を栽培する前には、結構その栄養(窒素)を肥料として、畑にやらなければならない。
しかし、落花生を栽培すると、その土の中にその栄養(窒素)が増える特徴がある。
つまり、稲ばっかり育てていると、その土のある栄養(窒素)はどんどん無くなってゆき、
土地が痩せるのだが、落花生と交互に栽培すると土地は痩せ難くなる。
このメカニズムを詳しく知りたい方は、それぞれ専門書で調べて欲しい。
さて、アレジャンでは、稲作のあと落花生を植えるという理想的な栽培をしていたのだが、
問題があった。
彼らの育てている落花生の品種があまり良くない。
豆が小さく、収穫量も少ないのである。
そこで、私の前任隊員とバル県の農業局は、
もっと粒が大きくて収穫量も多い落花生の品種を普及する事にした。
前任隊員は数多くある落花生の品種から、その土地にあった品種を選定しその活動期間を終えた。私の仕事は、その品種を実際に普及させることだった。


普及重点地域となったのは、
やはり落花生栽培の盛んなアレジャンだった。
そうなるとアレジャン集落長のラエチュの理解が必要になってくる。
収穫量が多いとされる新しい品種を持ってきて、ラエチュに見せる。
『ほほう、粒が大きいなぁ』と第一声。
好印象だった。
これ播けば、収穫量もぐーんと増えるよ、と得意になって説明する私。
さっそく試験的に栽培するための畑をラエチュが準備してくれた。
アレジャンでは、落花生を植える時に、棒を使う。
棒を地面についてくぼみを作り、そこに種を入れて土をかける。
仕事の分担は、青年男性が棒で地面を突き、女性や子供が種をくぼみに入れていく。
アレジャンの土は固く、石が多いため、稲作以外ではほとんど耕さない。
私としては、しっかりと耕してから種まきをして欲しかったのだが、
『面倒だ(耕すことはあまりにも大変だ、の意味、だと思いたい)』とラエチュに言われたので、
この件は目をつぶった。
しかし、すぐに次の問題が出てきた。


アレジャンの近隣の集落では、落花生を播く時に、種に農薬をまぶす。
これは、ねずみや蟻に播いた種を食べられないようにするためのものだが、
アレジャンでは違っていた。
播く前日の話。明日はいよいよ種まきだね、とうきうきする私。
ラエチュも『あの種なら収穫が楽しみだ』と期待感を持っていた。
播く準備はできてる?と訪ねる私。『ばっちりだ』と笑顔で答えるラエチュ。
お互いのコミュニケーションにインドネシア語を使っているのだが、
お互いあまりインドネシア語に自信が無いため、何度も作業確認をしてきた。
この時もその確認をした。道具や種子の保存状態等々。
特に問題は無かったのだが、ひとつ、農薬が見当たらない。
お父さん、種にまぶすはずの農薬が無いのだけど、どこにやった?と私。
『ああ、あれなら丁度家の裏手にあるマンゴの木に虫がついたので、それに使っちまった』と悪びれる様子も無く答えるラエチュ。
えっ!?あれは明日落花生にまぶす予定だった・・・
あれがないと、播いた後に蟻やねずみに種を食べられちゃうよ!と声を荒げる。
しかし、ラエチュはいたって冷静で、
『田谷、種に農薬をまぶすのは良くない』と答える。
はっ!もしや、この親父は農薬の人体に及ぶ危険性を指摘しているのだろうか?
その予想は半ば当たっていたが、半ば違っていた。
ラエチュは続ける。
『種まきは女子供の仕事だ。そして、彼女らの楽しみでもある。子供たちは、種を播きながら、その種を食べるんだ。だから、種に農薬をまぶすと子供が死ぬ』。
・・・へ?なんで種まきしている女性や子供が、その種を食べながら播くんだ?
それじゃ減っちゃうじゃないか!
ラエチュはなおも続ける。
諭すように。
『田谷だって、小さい時経験があるだろう。美味しそうな種を播いていると、ついつい食べたくなって、食べてしまう事が』。
ない!絶対無い!それにその落花生の種は、美味しそうに炒ってあるわけでもない。
生なのだ。美味しいわけも無い。


こうして、種はみんなでおいしく食べられながら植えられ、
あまって播いた種は、ねずみと蟻とが仲良く分け合っていた。
共存を喜ぶにはあまりにも寂しい畑の状態を見て、ラエチュは
『種が美味しすぎるんだな』と本気なのか冗談なのか解らないセリフをはいていた。
それでも大部分は元気に育っていたが、
その後その畑は98年に来たラニーニャ(第15話)の影響で、水没した。
そして、私の1年目の活動が終った。





つづく
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Let’s Study English!

pete pete
走り去るペテペテ


アレジャンには様々な人がすんでいる。
今回は、おつりの計算をよく間違えて損をする、
気の良いペテペテの運転手シャムスディンを紹介しよう
(ペテペテを知らない人は、第1話生活編を参照されたし)。

シャムスディンはアレジャン生まれ。
しかし小学校を出た頃から、親と一緒にマレーシアに渡った。
出稼ぎである。
インドネシアの義務教育は小学校と中学校の9年間。
しかし農村では小学校6年生が終れば、社会に出る子も少なくない。
シャムスディンは親についていったというよりも、
彼もまた出稼ぎの働き手としてマレーシアに渡ったのだった。
そして、そこで濃厚な青春の時間を過ごした。

アレジャンに戻ってきたのは、98年の乾季の終わり。
私が協力隊として1年が経つか経たないか、といった頃だった。
長年の重労働にもかかわらず、
彼はこの辺の人たちが持つ明るさといい加減さを十分に備えた好青年として育っていた。
そして濃厚な青春の時間は、彼に大金を与えていた。
彼は車を買った。薄青いスズキの車だった。
通称ペテペテ。
エンジンは1000ccで軽のワゴンよりも少し大きめの車である。
村と村を結ぶ重要なスラウェシの足なのだ。
もともとアレジャンには1台しかペテペテが無かったので、
シャムスディンのペテペテは皆に喜ばれた。
しかも、彼は計算が弱い。
おつりを多く渡す事があるのだ。
大抵の村人は多めにもらったおつりを返すのだが、
キバタ(第16話キバタ編参照)のような連中は返さない。
シャムスディンのペテペテは、いつも若者に繁盛していた。
そんな彼だが、1つ特技があった。
それは英語である。
マレーシアで外国の木材業者と話をする機会があって、彼は英語を身につけたと自慢していた。

そんなある朝。
私は出勤のためにペテペテに乗る。
集落長の家の前で、ペテペテの来るのを待っていると、
シャムスディンのペテペテが来た。
彼がペテペテを購入してから随分経つが、私はその時彼のペテペテに初めて乗った。
すると彼は、『ハウユ?・・・・ハウユ?』と訳のわからない言葉で、話しかけてきた。
ハウユ?
ブギス語でもなさそうだ。
かといってインドネシア語でもない。
わからないまま、きょとんとしている私に、彼は嬉しそうに言った。
『なんだ、田谷も英語わからないのか。他のやつらと同じだなぁ。よし、俺が教えてやるよ』、と。
へ?えいご?ハウユ?
ますます混乱する私をよそに、彼は説明し始めた。
『ハウユ?はご機嫌いかが?の意味さ。How you?って発音するんだ』と得意になる彼。
私の知っている英語では、確かHow are you?だったような気がするのだが・・・。
彼はつづけた。
『You Go?・・・・You Go? これも知らないのか?これはどこに行くのか?って訪ねる時に使うんだ』。あのう・・・Whereがないと何のことかさっぱり・・・。
『田谷は今からバルに行くんだろ。そんなときは、Go バル!って答えるんだ。いいか、もう一回行くぞ。You Go?』。
Go バル、とつられて答える私。
彼はその後も嬉しそうに彼の言うところの英語というやつを使って、しきりと話していた。
しかし、どれ1つとっても理解できるものは無かった。
おかげで私は英語ができないと村人の間で評判になってしまった。

その後、彼はペテペテの中で英語のレッスンを村人相手に続けたようで、
村の若いやつらが、私を見ると『ハウユ?』や『ユウゴ?』と
意味不明な言葉で話し掛けてくるようになっていた。
アレジャンでは、アレジャン語があり、挨拶は『ハウユ?』である。
諸君も機会があってアレジャンに行く時には、覚えていかれると良いかもしれない。
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ある文章を読む。
地元の農業者や関係者が集まって発行し続けている機関紙の文章。
日本農業の近代化についての功罪を問う内容だった。

その文章には、著者の娘がタイに留学して帰国した時の逸話が紹介されていた。
帰国して感じたことは笑顔が少なかったこと、だそうだ。
近代化を目指し発展し、そして笑顔が廃れていく、そんな書きぶりだった。

実は、その視点は、
相手を自分たちの物差しで、貧しくて遅れた社会、とステレオタイプで
判断することとあまり変わらない。
相手を桃源郷的世界に閉じ込めてしまうのは、
貧しくて遅れている、という視点と表裏一体なのだ。
それは単線的に語られてきた近代化論の枠を出ていない。

近代化の功罪は
ノスタルジックな眼差しでは、とらえきれない。
事実、性別による地位は、近代化の流れの中で、大きく変化した。
今まで旧態的な制度や慣習の中で圧殺されてきたものに、
それらノスタルジックな眼差しは、
深く傷つけはすれども、なんの解決も与えることはない。

その文章を書いた人が
今週末からアフリカから研修視察に来る人たちに、
日本の農業近代化について、座学を持つという。
いったい何を伝えるつもりなのだろうか。

同じように、すぐに周りの人からステレオタイプによって固定化されてしまう
(近代的-伝統的:先進国-途上国:殺伐した社会-温かい助け合い社会、などなど)
「インドネシア研修生」を受け入れつつ、
近代化を賛美することなく、
はたまたノスタルジックな眼差しに陥ることなく、
暮らしと農業の本質からその発展とあり方を見つめようと
奮闘している僕には、とても気になるのである。

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ある人から、こんなことを言われた。
「毎日毎日、菜っ葉の収穫で大変やねぇ。ほんと、えらいわ。毎日、同じことの繰り返しやろ?僕やったら、耐えられんわ。」
こうはっきり言われると、言葉を失う。
「農業には農業なりの、それはそれでとても面白いことがあるんですよ。」
と答えるのが精一杯だった。

そういえば、以前研修に来ていた人も
「数日間の農作業というルーティンワークの中で、私が何を得たのかを考えましたが、これが一体なんだったのか、その答えを見つけるのが難しいです。何の意味があったのか、どういう面白さがあったのか・・・」
と言っていた。
僕には、すこぶる面白い仕事であり、生活であるのだけど、
どうもそうは見えないようだ。

確かに、僕も協力隊を終えて、実家で農業をしていた時に
自分が始めたベビーリーフの仕事がルーティンで面白くない、と思っていた。
毎日毎日収穫してパックに詰めて出荷する。
その仕事の中に、一体、何の楽しみがあるのかも解らなかった。
今日のある人と以前の研修に来た人は、たぶん、以前の僕と同じように
農業を見つめていたのだと思う。

仕事と生活を突き放して、仕事だけを切り取り、それだけを見つめてみれば
たぶん、そういう風に見えるのだろう。
同じことの繰り返しのような仕事。
仕事として見つめるから、全体じゃなく、その労働そのものに目を向けてしまうのだろう。
「つらい、きつい、きたない」労働、というように。
そして時間評価による労働の観念に現代人は囚われているため、
時給の評価と野菜の価格の安さから、その労働自体を低く評価してしまうのだろう。
使用価値と交換価値の違いも、その視点には入っていない。
さらには、とても短い時間での接触であるため、
四季の移ろいと共に感じる農の営みや自然の流れを感じることが出来ないのだろう。
それらの分断された視点から、農業の労働だけを見つめれば
確かに、面白い要素はほとんどないだろう。
周りのパートさんや母親などが、
「お金のいらないサウナでダイエット」
とその労働を評価するくらいが関の山だ。

農の営みの醍醐味は、すぐには伝わらないのかもしれない。
すぐに伝わらないものだから、皆、農業をやめていったんだろう。
殺伐としない充実した生活がそこにあるにも関わらず。

妻は農業をしていない。
が、農の営みの醍醐味は共有している。
そして、毎日の夕食。
僕らは、時間をかけて食事を作り、時間をかけて食事をする。
採れた野菜をふんだんに使って。
その毎日から、僕は農業を見つめている。
ルーティンな収穫作業の中に、食欲をそそる発見がある。
こう食べよう、ああ食べよう、妻が喜ぶに違いない、これなら娘はきっと食べるだろう。
そんな発見と評価がやがては家族だけでなく
もっと大きく大きく世の中に広がっていることに気が付く。
その関係に気が付き出したとき、
農業は別の風景として見えだしてくる。

この楽しみは
なかなか、伝わらないのだろうけど、
それが、僕の農の営みの楽しさなのだ。
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08 19
2008

知り合いの若手農家と飲む。
中学校時代の先輩と後輩。
後輩の方は、農家になるだろうとは思っていたが、
先輩が農家になったのを知った時は、驚きだった。
その3人で飲む。

若者が少ないこの業界。
そんな中、若手で年が近い3人が集まるだけでも、いろいろと触発される。
先輩は、就農してまだ間もない(僕もだけど)。
だから農業の話も瑞々しくて、僕に大きく響いてくる。

よし、僕も頑張ろう。
そう思えた夜だった。
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アレジャン創世記


sawa allejjang1



『むかしむかし、この世の全ては海に覆われていた』。
アレジャン集落長であるラエチュは、お世辞にも上手いとは言えないインドネシア語で、語り始めた。
『アレジャンだけで無く、後ろにそびえる山々も、その頂上を少し水面から顔を出している以外は、全て海の中だった。もちろん平地の村々も海の下だった。果てしない海だけが続いている世界だった』。


今回帰国してから1年が経ち、私は再びアレジャンの地を訪れた。
村人の歓迎を受け、ひとしきり再会の感動を村人と共有できた。
やはり訪ねてよかった。
そう思ったその夜のことだった。
私は隊員の時と同様にラエチュの家に宿泊していた。
その夜も多くの村人が、ラエチュに家にあるテレビを見にやってきた。
ラエチュは大の映画好きで、特にインド映画がお気に入りだった。
インドネシアでは、よくインド映画がテレビで放映される。
役者たちが筋書きに関係なく、突然踊り狂うインド映画の良さを
未だに私は理解できないのだが、アレジャンのみんなはとても好きだった。
この夜もインド映画がテレビで放映されていた。


いつもなら、ラエチュは1等席でインド映画のダンスに見入っているのだが、
この夜は私が泊まっていることもあって、彼は私の向かいに座っていた。
日本の話、私が帰ってからの集落の話とひとしきり盛り上がった。
すると、ふとしたことからラエチュは語り始めた。
それはアレジャンの昔話だった。


『むかしむかし、この世の全ては海に覆われていた。アレジャンだけで無く、後ろにそびえる山々もその頂上を少し水面から顔を出している以外は、全て海の中だった。もちろん平地の村々も海の下だった。果てしない海だけが続いている世界だった。ある時、1艘の船が後ろの山の頂上に漂着した。後ろの山の頂上は海から出ていたからだ。その船が漂着すると、海の水は急に引き出し、今の大地が海から顔を出した。船に乗っていた人々はその大地に住み始めた。これが我々ブギス人のおこりなんだ。隣りの集落のメンロンには、その時の船が今でも残っている。(その船は)もう石になってしまっているが』。

海洋民族ブギスらしい逸話で、海から先祖たちはやってきたと考えている。
ノアの箱舟をほうふつさせる話だった。
しかし、ブギスのおこりがアレジャン近辺だったという話は、少々信じ難くもあるが・・・。
そこで、アレジャンのおこりについても聞いてみることにした。


『わし(ラエチュ)のおばあさんのお父さんのときの話だ』。
ラエチュは1930年生まれ。
今年で72歳になる。
時代を正確に知ろうと、おばあさんは幾つまで生きたのかを尋ねると、ラエチュはこう答えた。
『100か200かそれくらいは生きていた。ペランの父はもっと長生きだったと聞く』。
ラエチュ曰く、昔の人は平気で100以上生きていたとのこと。
旧約聖書の創世記に出てくる人たちも、やたらと寿命が長い。
旧約聖書とはあまりにも時代がかけ離れているが、
アレジャンの創世記に登場する人も皆長寿だったという。
ラエチュのおばあさんはペラン(Pelan)といった。
その父の名前は、ラエチュは記憶していない。
ペランの父は、まだペランが生まれる前、
アレジャンからバル県境の山岳を越えた向こうにあるボネ県に住んでいた。
住んでいた集落の名は、テラン・ケレ(Telang・Kere)。
そこで青年期のペランの父に不幸が起こった。
集落内の政戦に敗れたのである。
テランケレの集落長は、ペランの父が寝ている時に突然大人数でペランの父を襲ったのだった。
ペランの父は命からがら逃げ出せたが、行く当ては無かった。
またあわてて逃げ出したために、何の財産も持たず、ただ枕1つを持ち出しただけだった。
それからペランの父はその枕ひとつで、険しい山脈を越え、今の地にたどり着いた。
その頃はまだアレジャン集落は無く、アレジャン集落からさらに山奥に、
タワン・ルル(Tawan・Luru)という集落があり、
ペランの父が今のアレジャンの地に住み始めると同時に、
タワンルル集落から6家族が移動してきて、住み着いた。
それがアレジャン集落の始まりとされている。
現在100軒を越えるアレジャン集落も、その昔は7家族しか住んでいなかった。
そして、ペランの父を含めたそれら7家族が、アレジャン7名家となって現在につながっている。


7家族が住み始めた頃は、イラッコ(Ilakko)という人物が集落長を務めていた。
この人物が私の大親友であるサカルディンの血筋にあたる。
かつてのその地の名家も、今ではマレーシアに出稼ぎに行かなくてはならなくなっている。
盛者必衰とはこのことか。
さて、イラッコは難病にかかって、100歳前後で死んだらしい。
その後に集落長になったのがイラッコの息子ソロである。
そしてこの時代に、バルの王様が引き起こしたある事件がきっかけで、
『アレジャン』という名が付いたという。
その事件というのは、王が領内を視察していた時だった。
王は土を踏んではいけないというしきたりがあったため、
領内の視察には常に駕籠を用いた。
もし駕籠から降りる場合は、敷物をしき、じかに土に触れないようにしたという。
しかし、アレジャンでは違っていた。
厳しい山岳地帯。急斜面の道。当然当時は舗装技術なんて無い。
王の視察は困難を極めた。
そして、その時事件は起きた。
王が駕籠から転げ落ちたのである。
土を踏んではならないと言われていた王は、これでもかと土を踏んでしまった。
その場所が今のアレジャンなのである。
アレジャンの語源は、アッレッジャ。
ブギス語で踏むと言う意味がある。
このアッレッジャがなまって、アレジャンとなりそれが集落の名となった。
王が踏んだ土地、これがアレジャンの由来だった。
由緒が正しいのかどうか良く解らないが、
幾つものコメディーを持つアレジャンらしい由来である。


この晩は、こうして更けていった。
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親愛なるサカルディンへ

なぜ彼が、アレジャンを出て行ってしまったのかを説明するには、
少々時間をさかのぼって、説明しなくてはならない。
それと同時に、ブギスの習慣にも触れる必要があるだろう。

私の隊員生活が1年を過ぎようとしていたとき、サッカ(サカルディンの愛称)の父親が亡くなった。
原因はわからない。
ただ、突然亡くなったと聞く。
医療のいの字もないこの山村では、そうめずらしい事ではない。
しかし、サッカにとっては大変なショックだった。
父親の葬儀がおわると、2週間以上彼はアレジャンを離れた。
どこへ行ったのかは、誰も知らなかった。今をもっても誰も知り得ない。
そのため、父親の死後にとりおこなわれた遺産分与にサッカはほとんど関わらなかった。
サッカの家は、アレジャンの名家である。
アレジャン集落の起源は、7つの名家が関係しているのだが、その1家がサッカの家だった。
余談だが、ラエチュの家もその7名家に入る。

もともとサッカの家は、代々アレジャンの集落長をしていた家である。
たとえ今落ちぶれたと言っても、それなりに財産はあった。
山間の土地は、灌漑の水が一番多く入る位置にあり、
多くのアレジャン住民から羨ましがられる土地として有名だった。
しかし、しかしである。
サッカの父が亡くなったあとに、それらの土地を相続したのは、
サッカではなく、彼の叔父、つまり亡くなった父親の弟だった。
しかも、その弟はアレジャンには住んでおらず、40㎞離れたバルの町に住んでいる。
では、誰がその土地を管理するのか?
それは、サッカの妹や姉の夫たちであった。
サッカは幾ばくかの日当たりが悪く、しかも水の入りの悪い土地を相続しただけだった。
彼の兄弟に、男は彼1人だったにもかかわらず。

この辺の集落では、夫は妻の家族と共に暮らす。
つまり、サザエさんのますおさんのように。
そのため、男の子供はいつか出て行く、というように見られていて、
女の子供のほうによりお金をかけたり世話をやいたりしているように見受けられるのである。
サッカの場合、決定的な事は、彼は結婚をしていなかったということだった。
家族の中でも、(結婚をしたら)サッカはいつか出て行く、
と考えられていた節があったことは否めない。
こうして、サッカは日当たりの悪い土地をすこしだけ相続した。

この時点で、サッカには出稼ぎの話が来ていた。
彼の従兄弟からである。
マレーシアに住んでいて、海老の養殖をして荒稼ぎしている。
読者諸君の食卓に上る海老の大半は、こうした南方での養殖ものなのである。
従兄弟の事業もそうだった。日本向けの海老を養殖し、輸出で稼いでいた。
日本人が海老に飽きない限りすたれることの無い事業だった。
しかも、98年から巻き起こった東南アジアの通貨危機は、輸出産業をドル箱産業に変えた。
ドルレートで値段は変わらなくとも、自国の通貨レートが落ちたことにより、
その分稼ぎが多くなったのだった。
インドネシアでは1ドル=2000ルピアから1ドル=12000までレートが変化した。
つまり、1ドルの海老が、突然2000ルピアから12000ルピアと値を上げたのである。
従兄弟の仕事は一気に増えた。
養殖池も増やした。
人手が要る。
そしてサッカが呼ばれた。
しかし、このときサッカは行かなかった。
アレジャンを離れたくなかったからだった。
それから3年後の現在。
サカルディンは出稼ぎに行こうとしている。

若者が出稼ぎに行く大きな理由のひとつに、結婚がある。
私の住む福井では、『娘を3人持つと家が傾く』ということわざがある。
これは嫁入り道具と結婚にかかる費用が莫大なものであるため、
3人も娘を嫁にやるとその家が破産するくらい大変だという事らしい。
では、アレジャンはどうか?その逆なのだ。
もともとお嫁さんの実家に住むので、嫁入り道具はほとんど無い。
結婚式の費用はかなりかかるが、そのほとんどを男性側が負担するのである。
つまり、結納金がべらぼうに高い。
家の家格にあわせて結納金がかわり、
アレジャン集落長ラエチュの次女、エルナの結婚の時には、
かなり高額の結納金だったと村の中で噂になっていた。
つまり、結婚適齢期の若者たちは、結婚資金を稼ぐために出稼ぎに行っている場合も多いのである。
サッカは今年で31歳。
未だに独身だ。アレジャンでは、彼は結婚資金を稼ぎにいったと噂する人が多い。

サッカが出稼ぎに行く理由がもうひとつある。
昨年(2001年)暮れに一番下の妹が結婚したからだ。
サッカには5人の妹がいるが、一緒に暮らしているのは、一番下の妹だけだった。
しかし、いまその妹に夫ができ、同じ家に住み始めたとなると、
ますますサカルディンの居場所は無くなってくる。
長男であるにもかかわらず。
幾ばくも無い土地は、現在一番下の妹のだんなが管理しているとの事だ。
つまり、サッカは出て行くしかないのだった。

このようなケースは決して特別な事ではない。
アレジャンの周辺の村々では、ごく日常的な出来事になっている。
そのため、私が今回アレジャンに行った時も、
サッカが出稼ぎに行った事を知らない村人がたくさんいた。
マレーシアにもブギス人のコミュニティーがあると聞く。
村人曰く、ブギス語で会話してルピア(インドネシア通貨)で買い物をし、
インドネシアのタバコを吸って生活できるとの事。
アレジャンと関係の深い出稼ぎ村もあって、
100人以上アレジャン出身もしくは血縁関係者がいると聞く。
それほど生活は辛くない、と若者たちは口をそろえて言う。
そうあって欲しいと願うかのように。

サカルディンにあてた手紙の返事はまだ無い。
それ以前に、彼の手元に着くかどうかもわからない。
きっとそうこうしているうちに、
私の食卓に彼が養殖した海老がのるほうが先なのではないか、
とくだらない事を考えつつ、この稿を終えたい。
サッカへ、美味しい海老待ってます。
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親愛なるサカルディンへ

『サッカ(サカルディンの愛称)元気にしていますか?
見知らぬ土地で、君が頑張っている事を思うと心配になります。
良い仕事は見つかりましたか?
出稼ぎでは、重労働が多いと聞いています。君に向く仕事があるのかどうか、心配です。
先日、君がマレーシアに旅立った事も知らず、アレジャン集落を訪れました。
僕が帰国して1年が経ちますが、アレジャンは当時と同じでほとんど何も変わっていませんでした。
ただ、サッカがいなかっただけでした。
君に支えられた3年間。
活動が辛くて、君に愚痴をこぼした3年間。
意見が合わなくて、喧嘩した事もあった3年間。
それでも最後には、私と共に活動してくれた3年間。
アレジャンのみんなは、そんな僕たちを見て、『兄弟』と言ってくれていたね。
本当にサッカの事を『兄』だと思っていた。
僕がどんな活動をするにも、サッカは常に手伝ってくれたし、参加してくれた。
本当はサッカが少ない土地でも、うまくやっていけるようにと、
当時の僕はいろいろな活動を作ってきたのだけど、
結果として君の手元に何を残せたのか、今の僕には解りません。
以前から、サッカはよく言っていたよね。
マレーシアの従兄弟が出稼ぎに来いと誘ってくるって。
そして、君は言っていた。アレジャンを離れたくない、アレジャンで生活していきたいって。
僕もそれを聞いて、いろいろ考えて、当時の僕ができることをいろいろやったつもりだけど、
結局君は出稼ぎに出て行ってしまうのだね。
でも、それで君の生活が成立つのなら、それが良いのかもしれない。
僕はあまりにも無力です。兄に何もしてやれなかった。ごめんなさい。

サッカ。もしこの手紙をどこかで読む機会があれば、連絡ください。
君が行ってしまった場所は、僕には解らない。
もう二度と会えないなんて考えたくない。
それから、サッカ、これは約束だ。
君がどこへ行こうとも、僕はそこまで尋ねて行く。
だから、サッカもどこかへ行く前には、僕に行き先を連絡してください。
君の事をいつも考えています。

君の弟、田谷より』


2002年、新年が明けると、私はアレジャンに行きたい思いでいてもたってもいられなくなった。
思い立ったが吉日。
すぐさまチケットを予約し、1月30日インドネシアの地に降り立った。
アレジャン入りを果たしたのは、2月2日土曜日。
太陽もだいぶ西に傾き、日中の日差しの強さが幾分かその緊張をなくした夕暮れ前だった。
私がこの地を離れて1年以上が過ぎている。
当然アレジャンの様相も変わっていた。
石鹸とインスタントラーメンとタバコだけは山のように置いてある売店も
何件か新しく出来ていて、見覚えのある売店のいくつかは跡形も無くなっている。
帰国する前に村人が作っていた灌漑施設も、
ここ最近の大雨で土砂が入り込み、水が溢れ出している。
私が入村した当時には、まだまだ苗木だったパパイアの木も、
たわわに実をつけていた。少しずつ変化していた。
1年。
短いようでも、私の知らないアレジャンは、確実に増えている。
寂しさと頼もしさが交じり合った複雑な気持ちで、
わが家、『100の柱の家』ラエチュの家の前に着く。
私の姿を見ると村人が『田谷が帰ってきた!』や『お土産はどこだ!』と歓迎してくれた。
私のことを覚えていてくれて、しかも突然やってきた私を温かく迎え入れてくれた村人の態度に、
目頭が熱くなった。
小さな変化はあったが、やはり村人は変わっていない。
そう思いながら、ラエチュ氏の家に上がる。
丁度ラエチュは田んぼに出ていて、家にはいなかったのだが、
家にいたムルニィ(ラエチュの長女)とエルナ(ラエチュの次女)が温かく出迎えてくれた。
私が3年いた部屋はそのままになっていて、
当然のようにその部屋へ通してくれた。
当時のままだった。
新しく買ったハンドトラクターのエンジンが、ベッドの横に我が者顔で横たわっている以外は。
当時のままという安心感と当時の懐かしさで胸がいっぱいになる。
ムルニィがお茶を入れてくれた。
当時と同じ。
この家では、大事な客にはミロを出す。
この時もミロが出てきた。
そして、味も同じ。
ミロになぜか砂糖を入れて出す。
ただでさえ甘いミロがさらに甘く、当時はウザッタイとしか思わなかったその味も、
懐かしさでいっぱいになった。
ああ、何もかも変わっていない。
同じだ。その同じさが嬉しかった。
私はムルニィに尋ねる。
みんな元気か?
『みんな元気にしてるよ。でも、エルナの夫はまだサンダカン(マレーシア、ボルネオの街)に出稼ぎに行っていて、帰っていないけど』。
私が帰国する前に、エルナは結婚した。
密月の時間はたったの2ヶ月しかなく、彼女の夫はマレーシアに出稼ぎに行っていた。
この前のイスラム新年には、一度戻ってきていたようだが、またすぐに出稼ぎに戻って行ったらしい。
エルナもどこか元気が無い。
アレジャンのように、恵まれない山村では、出稼ぎは重要な金銭獲得の機会だ。
仕様が無い話で、この地域のだれもが持つ悲しみの側面である。
サッカ(サカルディンの愛称)は元気かな?
彼にはお土産があるんだ、早く会いたいけど、この時期だと田んぼに出てるかな?
と尋ねる私に、ムルニィの顔が一瞬曇る。
『田谷、サッカは3日前の水曜日に、マレーシアへ行ってしまったよ』。
え?マレーシア?3日前の水曜日といえば、1月30日。
私がインドネシアに着いた日である。
そう、サッカもまた、ここの地域の平均的な若者がもつ宿命を背負っていたのだ。
彼は、出稼ぎの仕事を探しにマレーシアに旅立っていってしまった後だった。
何も変わらないアレジャンで、ただ彼だけがいなかった。
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お盆の間、市場は休み。
なのだが、野菜は育つ。
特に、おくら等は、毎日収穫してやらねばならない。
しかし、市場は休み。
なので、直売所に持っていくことに。

僕の野菜はマイナーなものが多いため、直売所ではあまり販売していない。
マイナーなものだからこそ直売所、などと書かれた雑誌の記事を見かけることもあるが
それはその直売所の客層次第だろう。
昨年、フルーツホオズキや西洋トマトを直売所で販売してみて
ほとんど売れ残った経験から、そういう結論に至った。

だが、市場が休みのお盆の時期。
大量のオクラを抱えた僕には選択肢はなかった。
こうして、お盆の間だけ、オクラを直売所に持っていくことに。

直売所では、農家自ら値段を付けることができる。
直売所では、出荷物はお店が買い取るわけではないので、
売れ残れば、そのまま、農家が損をかぶるシステム。
なので、この値札付けは、とても重要な作業になる。
この時期、どこの農家も少量ずつではあるがオクラを栽培している。
なので、直売所はオクラで溢れている。
そんな中で、少しでも売れるようにするには、
包装にこだわるか、他の農家よりも価格を下げるしかない。
だからといって、極端にお金のかかる包装や、低価格に設定すると
売れたとしても、儲けが少なくなってしまうというジレンマもある。

そこで、適正かつ儲けが出る価格を見るために、少しリサーチをする。
近くのスーパーでは、オクラは130円で販売されていた。
直売所では、130円で販売している農家もいたが
大多数は120円で、スーパーよりも10円安く販売していた。
品物は、スーパーの物は、県外産が多く、大きさは揃っていたが
運送中にできる「擦れ」と呼ばれる黒点が多い。
輸送中に傷がつきやすいのは、オクラの致命的な欠点でもある。
数量は10本。
では、直売所の物は?

直売所の物は、長距離輸送ではないので、当然輸送中にできる擦れはない。
が、大きさが不揃いのものが多く、見た目が悪いものが多い。
個人による包装なので、農協出荷とはやはり違いはあるのだろう。
数量は、9本のものが多かった。
細かく稼ぐなぁ、という印象。

僕はべつに直売所でやっていくわけではないので、
ここで少し実験してみようと思い、
数量10本で、擦れなしオクラを100円の価格で
直売所に出荷してみることに。

当然だが、僕のオクラは余ることなく完売。
すると次の日、ちょっとした変化があった。
これまで、120円で出荷していたある生産者が
次の日、100円の規格で出荷してきたのだった。
ははは、よく人の価格をみているなぁ。
この日は、ほかの生産者も何人かは値段を下げて出してきていた。
結構、周りが付けている値段には敏感なようだ。

直売所では、こうした戦いが水面下で繰り広げられているのである。
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突然の来客あり。
僕にではなく、インドネシア研修生のH君に。
H君と同期で福井にやってきたインドネシア研修生のA君と
その先輩にあたるI君の2人が、自転車に乗ってうちの農園まで遊びに来たのだ。
A君は派遣時に数度、H君の住居に車で同乗しただけだったのだが、
道に迷いながらも、なんとかたどり着いたとのこと。

A君とI君は、6キロほど離れた食品加工所に研修生として派遣されている。
おもに鶏の精肉が仕事。
これまでH君とは、連絡のやりとりもなかったのだが、
A君は同期ということもあって、
お盆の休みを利用して、遊びに来てくれたのだった。
さっそく明日は、H君がA君とI君の家にお泊まりに行くことになった。
こういう交流がこれからも増えていけば、と願うのだがどうだろうか。

今から5年ほど前のことなのだが、
僕がインドネシアに留学に行く前まで、福井にインドネシア人の集まりが定期的にあった。
僕も参加したし、その集まりのリーダーからはインドネシア語講座も受けていた。
たいていの週末に、国際交流会館に県内在住のインドネシア人10名前後が集まって、
情報交換していたことを思い出す。
その時は、国際交流会館内にインドネシアでメジャーな新聞も置かれていた。
それから、数年たって、僕がインドネシアから帰国すると、
リーダーの県外移動により、その集まりは自然消滅してしまっていた。
そして、インドネシア語の新聞もなくなっていた。

同国人による集まりがないため、情報交換の場がなく、
H君が来た当初から、彼の生活は苦労が多かった。
たぶん、他のインドネシア人もそうなのだろう。
できれば、こういった集まりが発展して、
福井インドネシア人会の設立につながれば、と僕一人思う。
研修生として数年ではあるが、福井で暮らしていくのである。
少しでも暮らしやすいように、集まって情報交換したり
時には運動をして、公共機関に自国語の新聞等の便宜を要求することもできるだろう。
各種団体のイベントに参加して、インドネシアのことや
研修生のことを世に広めていくのもできるだろう。
それらすべては、彼ら彼女ら研修生の生活改善につながっていくだろう。
コミュニティとして自治を得ることは、とても大切なことで
それにかかわるすべての人に、とても重要な経験となるだろう。
研修生の派遣もとの協同組合の方に、何度かこの話はしているのだが、
いつも面倒くさそうに、僕の話を聞いているのみである。
研修生の派遣をしているわりには、
インドネシア人そのものに対する興味が薄すぎるのが不満。
所詮は、金儲けでしかないのだろうか。


さて、これから遊びに行くH君に、こういった話を少しした。
まだまだぴんと来ていない様子だったが、
彼がいる間に、この集まりが発展することを、僕は夢想する。

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なんとか、かんとか、
お盆用の注文をすべて出荷。
朝から晩まで鳴りやまない携帯電話。
次々と入る容赦のない追加注文に応えながら(かわしながら?)
なんとか日没前に、予定出荷量を準備できた。
ここ3日間ほどは、売って売って売りまくった。
ベビーリーフに吉川ナス、オクラ3種、西洋ナス、白ナス、フルーツホオズキ、つるむらさき、モロヘイヤ、スイスチャード、ルッコラ、ミズナ、トマトなどなど。
これら野菜を、かなり強気で売りまくる。
それも僕の農業の一つ。

今日から3日間は、売る農業はしばらくお休み。
娘の発熱もあり、どこへも行く予定がないお盆。
自家菜園でとれた野菜をおいしく食べることに時間を使おうと思う。
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お盆前のこの忙しい時期、
祖父が体調不良で入院。
祖母が付き添いで病院通い。
集落の親戚に不幸があり、父母共にお通夜とお葬式でてんてこ舞い。
さらに、日曜日の田んぼイベントで疲れたのか、
娘が39℃近い熱でダウン。
それでも注文はこなさないといけない。
まったく、なんというお盆だ。

そんな中、インドネシアの研修生H君の誕生日だった。
11日がその日だったのだが、プレゼントを渡せたのは昨日だった。
何を送ろうかと、さんざん迷ったのだが、
以前ラジオから流れてくる演歌を聴いて、
H君が気に入っていたのを思い出し、
演歌のCDを贈ることに。

インドネシアの歌謡曲の代表である「ダンドゥッ」というジャンルの音楽がある。
ポルトガルの民俗歌謡である「ファド」の影響を受けた音楽。
人の情緒を歌い上げるという点で、演歌との接点も多い。
たぶんそれで演歌が、H君にとっては耳に心地よかったのかもしれない。

さて、演歌のCDを贈るのは良いとして、
誰のCDを贈るかでまた悩んだ。
ご当地ソングでも良いし、福井ゆかりの五木ひろしでも良い。
が、あえてジェロのカバーズを贈ることにした。

黒人演歌歌手で一世を風靡しているジェロ。
日本人じゃないと演歌は歌えない、と言われてきた中で
見事に歌い上げているジェロ。
そのカバーズアルバムを誕生日プレゼントとして贈った。

異国の地で、あれこれぶつかり躓きながらも
演歌を歌い上げるジェロ。
その姿から、H君が感じ取るものは多いだろう、と思ってのことだった。

1曲目に入っていた氷雨をH君と聞く。
「この歌、いい歌ですね」とH君。
歌詞の内容は良くわからないようだが、それでも何かは感じるようだ。
黒人演歌歌手とH君。
普段の僕らの暮らしの中では、違和感のある存在。
僕らの常識との差異と違和感という存在が
その対象となっているもの(ジェロの場合は演歌)の存在を際立たせる。
そのものとは一体何なのか?それを僕らに突きつけてくる。

ふむ。
どうやら僕にとってH君はジェロなのだろう。
彼が見て、彼が感じる僕の農業に、僕は差異を感じるのだろう。
その差異は悪いことじゃない。
むしろ良いことなのだ。
その差異の中から、僕はもう一度改めて自分の農業を見つめなおせるのだから。

だから、僕はH君にジェロのCDを贈ったのだろう。

さぁ、これから畑へ行くか。
今日もタフな1日になりそうだ。
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08 12
2008

さあ、いよいよお盆の週。
この時期、僕の農園は忙しい。
今日、明日で4日から5日分の野菜の注文をこなさないといけないのだ。
なので、パートさんは1時間早く出勤体制で、
かつ、いつもより2時間多めの残業でお願いしている。

先週は、研修の受け入れが2件、
レストランのシェフなどの農園見学が3件、
さらには日曜日に保育園の田んぼ体験などなどが重なり
何かと慌ただしかった。
さらに先週は、うだるような暑さだったため、
ベビーリーフに立ち枯れの病が出て、
さらには害虫もずいぶんとひどく、
ほとんど収穫できずに廃棄するしかない圃場も出た。
お客や病害虫の対応に追われながらも、
それでもなんとか、お盆の需要を満たせるだけの
ベビーリーフを準備できた。
あとは、ひたすら収穫するのみである。

立秋を過ぎ、
赤とんぼが田んぼにちらほらと降りてきたこの頃は、
夜には涼しい風が吹くこともあるのだが、
それでも日中は、まだまだ暑い。
ハウスの中は、11時頃には46℃にも達している。
それでもこの忙しい時期は、12時までハウスの中で作業し、
昼休みをはさんで、1時半にはまたハウスの中で作業。

先日マンゴーを送ってくださった沖縄の農家に
電話でお礼をした。
その時、その農家の方は、
「ハウスに入るのはせいぜい11時までですよ。お昼は入らないで、夕方4時からまたハウスの中の作業にしています」と言う。
普通ならそうだろう。
しかし、このお盆の週は、そう言っていられない。
これを乗り越えれば、お盆休み。
もうひと頑張りだ。
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保育園の田んぼ祭り第2弾。
虫追い祭りをする。
参加者は100名以上。
今回も若手農業者クラブと保育園共催でのイベントだった。

虫追いとは、
鳴りものや松明で虫を追う昔からの行事で、
七夕からお盆にかけて行われていることが多い。
九州や東北などの各地では今でも行われているそうだが、
福井では若狭地方で一部残っているのみで、
僕の住んでいる辺りでは、絶えて久しい行事。
祖父母世代に聞いて回っても、誰も知らないという状況なのだ。
明治ごろに、弊習としてお上から禁止されたという経緯があるので
それで絶えてしまったのだろう。
実際に、松明などで虫を追っても、
松明の炎に虫が寄ってきてしまい、逆に増えてしまうらしく
また、年貢の減免という習慣とつながっていた行事でもあったので
近代化の流れの中で、切り捨てられてしまったのだろう。

ただ虫供養の意味合いもあり、農の意識の中に虫との共生的思想が
宗教行事とつながって体現していた行事でもあったので
現代のような防除という意味合いで、虫と敵対する視点ではなかったのかもしれない。
科学技術的な考察による事象の結果だけでは
読み取れない人々の農への眼差しを感じる。
以上は余談。

さて、その虫追い。
若手農業者と保育園で作る実行委員会で何度か話し合い、
現代版、かつ、保育園版虫追いを企画した。
虫がいなくなるかどうかよりも、
田んぼの虫に園児や父母の意識が向うようなイベントにしようと企画した。
さらに、体験田んぼは、除草剤以外に薬剤散布を行わないことになっている。
ので、害虫防除は神頼みしかないのだ。
こうして虫追い祭りをすることに。

さてさて、虫追い祭りの実際。
実際に練り歩く前に、クラブ員から虫の説明があったのだが
その時に、普及員が、害虫がどれくらいいるか、実際に虫網をふって
取って見せてくれた。
数え切れないほどのカメムシやウンカたちが、確認できた。
さて、これを追い払いましょう、とみんなで鳴りものを手に
行列になって田んぼを練り歩く。
先頭の軽トラックに太鼓を乗せて、そのあとを保育園の手作り御神輿が続く。
園児たちは、大きいクラスの子が御神輿を担ぎ、
小さいクラスの子は、おもちゃやお手製の鳴りものを鳴らしながら後に続く。
保育園のクラスごとに作成した「かかし」を父母が持ち、
若手農業者クラブの会長は、クラブのかかしを持って先頭の軽トラックに乗り込み
数名のクラブ員と共にお囃子を盛り上げていく。

うんとこどっこい、どっこい、どっこい、
ツマグロヨコバイ!
カメムシ、すっとんとん!
ウンカ、とことん!
いもち、とーんとことん、そーれ!

と、保育園の夏祭りの太鼓囃子の歌詞を少し変えて
害虫や病気の名前にして、皆で田んぼの周りを練り歩く。
田んぼを一回りして、かかしをそれぞれのクラスの区画に立てて、終了。
最後に、若手農業者クラブで用意したトウモロコシとトマト
そして保育園が用意したスイカと一口ゼリーを配って、みんなで食べて
無事終了した。
イベント終了後、あるお父さんが、しきりに虫追いについて聞いてきた。
虫や農に対して意識が少しでも向いてくれたのであれば、
それだけでやった甲斐があるというものだ。

しかし、意外な数の害虫だった・・・。
本当にこの虫追いで居なくなってくれればいいのだが・・・。

この次はいよいよ収穫である。
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先日。
マンゴーが届く。
沖縄の知り合いの農家から。
昨年、11月に沖縄を訪れた時に、見学させてもらった農家。
お礼に、うちの農園の一番の自慢の品物「ごんぼ」(ごぼう)を送ったら、
春にはパッションフルーツ、
そして夏にマンゴーを送って頂いた。

送っていただいたマンゴーは、香りが高く、
箱を開ける前から、その香りが部屋に漂うほどだった。

妻がネットで6個入りの沖縄マンゴーの価格を調べると
\10,000円也。
その農家の方は、地元の農協でもトップクラスの農家。
となると、価格はそれ以上なのだろう。
お礼に電話をすると、
「あれほどみごとなごぼうを見たことがなかったものですから」
と、話してくれた。
よほどうちのごんぼ(ごぼう)に感動したらしい。
またごぼうを送ります、と言って電話を切った。

パッションフルーツとマンゴーに対してごんぼ(ごぼう)。
価格で考えれば、明らかに僕の得なんだろうけど、
それは交換価値での話。
どんなに交換価値(価格)が高くても、
その人にとってどれだけ有用であるかは、
比例しないのでわからない。
つまり、沖縄の農家と僕の交換は、使用価値の交換。

マンゴーを沢山いただいたので、
1個をインドネシアの研修生H君にあげた。
さぞ、懐かしむだろう、と思っていたら、
「あんまり甘くないね」とあっさりの感想。
マンゴーの産地出身のH君には、
それほど使用価値は高くなかったようだ。
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以前書いたエッセイを引っ越し中・・・



アタックナンバーワン


男性の体であるにもかかわらず、心は女性であるという人がいる。
その反対も然り。
この悲しい矛盾に日々悩み、戦っている人も多いと聞く。
時には、『オカマ』などという心無い言葉に傷つきながらも。
今回は、アレジャン集落の山向こうにあるダチポンという集落で、
健気に生きる1人の女性(男性?)について書こうと思う。


読者諸君は普段、休日や空いた時間をどのように過ごしているだろうか?
読書。音楽鑑賞。ショッピング。映画や演劇。ドライブ。
スポーツで体を鍛えている人もいるだろう。
私も、読書や水泳などといろいろ趣味を持っている。
その中でも最近お気に入りなのは、ラジオ体操である。
ラジオ体操?と思う人もいるかもしれないが、これはこれでなかなか侮れない。
まぁ、今回はラジオ体操の話をするつもりは無いので、この話はまた別の項にしたい。


さて、いろいろな趣味をお持ちの皆さんに、1つ質問をしよう。
テレビが2台、CDプレイヤーがあるかないかで、
電気もろくに通っていないアレジャン集落の若人たちは、一体何を趣味としているのだろうか?
解りますか?
読書?本が入手困難で、文字を解さない人もいる。
ショッピング?タバコと石鹸だけは、豊富に売っている売店が村の中に3軒ほどあるが、
とてもショッピングを楽しむ雰囲気ではない。
ドライブ?村にある車は、全部で4台なのに?
映画鑑賞?映画館までは、80㎞離れています。
となると、そう!スポーツ。体があれば、スポーツは出来る。
お金もかからない。
インドネシアでは、バトミントンとセパタクロー、そしてサッカーが人気のスポーツであった。
アレジャン集落でも、男はサッカー、女はバレーとそれぞれチームを持っていた。
練習も気が向けば、きちんとしていた。
村人たちにとって、大切な余暇の過ごし方の1つであった。


サッカーとバレーのグランドは、
きちんと整備されたものではない。
特にサッカーは、広い平面の土地を必要とするので、
山村であるアレジャンには適当な土地が少ない。
そこで、稲の刈り入れの済んだ田んぼを利用して、グランドの代わりにしていた。
当然、田んぼのあと地であるため、稲の切り株が残っており、まともにボールは進まないのであるが。
その一方で、バレーは広い土地を必要としないため、専用のコートが村の中にあった。
村人が如何にスポーツに熱中していたかという逸話があるので、少し紹介しよう。


私が赴任する前の話である。
私の先輩協力隊隊員が、これらの村々に村おこしのプロジェクトとして入った当初、
各村で村人のニーズと発展の方向性を探る会議を行った。
当然、アレジャン集落でもその会議は行なわれ、
村人を集めて今困っている事ややってみたい事などを発言してもらい、
それらに優先順位をつけてもらった。
それらの意見は、これからの村おこし活動の重要な指針となるものであった。
会議では、百論百案が提言され、村人たちのニーズを聞き取る事が出来た。
『水田の水不足に悩んでいるため、灌漑施設を作りたい』や
『学校が遠いので、近くに学校が欲しい』などなど。
次々にあげられる村人の意見を聞き逃すまいと、当時の隊員は必死にメモを取ったと聞く。
そして、最後にそれらの意見に優先順位をつけてもらった。
しかし、そのベスト3の中には、『卓球台がほしい』があげられていたのである。
…水道もガスも無い、電気もひいている家のほうが断然少ない集落で、
ニーズとして挙げられたのは、学校でもなく、農業指導でもなく、インフラ整備でもなかった。
卓球台だった。
それほどスポーツを大事に考えているかどうかは別として、
村人の考えの方向が、結構な割合でスポーツに向いていると言う事は理解できた。


さて、そのスポーツに考えが向いている村人だが、
スポーツをやるからには張り合いが欲しい。
そう、大会である。
アレジャン集落の近隣にある集落が集まって、スポーツ大会を開くのである。
種目は、男子がサッカー、女子がバレー。参加集落はアレジャンを含めて5つ。
小さな大会ではあるが、村人の多くが応援に駆けつけるため、何百人規模の観客が常にいる。
私が赴任した1998年も、雨季の雨がやむのを待って大会が開かれた。
この時、下手ではあるが私も助っ人外人としてサッカーに参加していた。
アレジャンは、山村であるため良いグランドに恵まれない。
そのためか、あっさりと1回戦で負けてしまい、肝心の私は途中で反則退場となっていた。
中学高校と武道以外に携わってこなかった私にとって、
1つのボールだけを蹴りあうと言うのは無理だったようである。


がっかりしながら引き上げてくるアレジャン若人を、
反則退場の身である私が慰めていると、ひと際大きな歓声が上がるのを聞いた。
バレーのコートである。アレジャンのチームだと思った。
サッカーは田んぼをコート代わりにしていたが、バレーは違う。
専用のグランドをアレジャンは持っていた。ネットをきちんと張ったグランドを持つ集落は少ない。
でも、アレジャンにはあった。
それに、今回参加しているチームには、
高校までバレーを得意としていたアレジャン女児が加わっている。
前評判では、優勝候補の筆頭なのだ。
あの歓声も、次々と点を取るアレジャンを応援するのものに違いない。
サッカーのメンバーと共にバレーのコートへ急ぐ。
しかし、歓声はアレジャンへかけられたものではなかった。


アレジャンの1回戦の相手は、山向こうのダチポン集落。
手を抜いても勝てる相手だと、試合前に皆言っていた。
しかしゲームは、ダチポンが2セットを連取している。
はて?どうしたのだろう。
アレジャンからのサーブが、ダチポンコートに向かう。
良いサーブだ。決まるだろう。・・・しかし、ダチポンは簡単にレシーブする。
その球を力強くトス。
高校までバレーを得意としていたアレジャン女児がブロックに飛ぶ。
私から見ても十分な高さのブロックだ。
しかし、ダチポンのアタッカーは、それよりもはるかに高く飛んでいた。
アタッカーの力強いアタック。
アレジャン女児のブロックのはるか上空をボールが通過し、
誰もレシーブの反応することなく決まった。
何か、おかしい。
なぜこんなにも簡単に、優勝候補のアレジャンが点を取られるのだ?
ダチポンのコートを見る。
確かにダチポンのコートにいる選手は、皆背が高い。
腕まくりをしていて、そこから見える腕は、筋肉が隆々であった。
足も太い。
化粧だってばっちりだ。
えっ化粧?わが目を疑った。
黒い肌を無理やり白くするために、塗り固められたファンデーション。
不自然な方向に曲がっている眉毛。
異常に長いまつげ。
無理やり女性にしているが、一目で男性だとわかった。
そう、アレジャンバレーチームは男性と試合していたのだった。


ダチポンのスパイクが決まり、
点数が入る。決まるごとに、くねくねと腰を振り、手を胸元で開いたり閉じたりして、
みんなで『やったね~』と裏声で喜んでいる。
まさか。しかし、どう見ても男たちだ。
しかも、屈強のブギス戦士だ。ただ一点、化粧をしていると言う事を除いて。
ダチポンがサーブを打つ。
返すが精一杯のアレジャン。
ボールが戻ってくると、ダチポンの選手は顔立ちががらりと変わる。
『おう!』という低い掛け声とともに、力強いレシーブにトス。
切り裂くように『チェス!』と叫びながら、鋭いアタック。
しかし、決まる度に、『いや~ん、また決まっちゃった~』と言って、
怪しく腰をくねらせながら喜ぶ。
おいおい、君らはおとこでしょ?
茫然と試合を見ていたが、傍らにいた友人に聞く。
あの人たちは男なのでは、と。
友人は
『いや、男ではない。体は男だが、心は女だ。つまり、オカマだ。だから、女子の部でバレーに参加している。いつもはダチポンにはオカマは1人しかいないのだが、今日は助っ人がきているようだな』
と何気なく言った。
なんと!途上国でしかもこのような辺境の地で、
彼女たち(彼ら?)はある意味女性として、しかも村の代表として、大会に参加していたのである。
その先進性には頭が下がる思いだったが、
屈強のブギス戦士の前にアレジャンチームは無残にも敗れ去ったのだった。


聞いた話で申し訳ないのだが、
ブギス人は元来オカマが多いらしい。
アレジャンのような辺鄙な山奥でも、彼女たちに出会う事は珍しくない。
海賊とオカマ。全く異なったイメージを持つブギス。
しかし、彼女たちは決して、蔑まれているわけではない。
女性としてスポーツ大会に参加し、彼女たちにしか出来ないと考えられている仕事にもついている。立派に社会の一員として認められている。
しかも、狭い社会性と強い保守性を持つ農村でだ。
我々は一面だけを見て、彼らを途上国と見ていないだろうか?
彼らから学ぶ事は大きい。
少なくとも人権にかかわる考え方は、日本も少し見習うほうが良いのかもしれない。
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週末は、
他のページで公開していたエッセイを
せっせと引っ越し中。


独立万歳!


 普段の通勤で使うペテペテの中では、実に多士済々の人物達に出会う。
その日も、私の期待を裏切らない人物に出会うことが出来た。
その人物はスラウェシ島の独立を願う闘士だった。


 1998年の暮れから1999年の3月にかけて、
南スラウェシ州では10年に1度来るか来ないかの大雨に見舞われた。
ラニーニャ編でも書いたが、多くの橋が流され、主要の道路のいくつかが土砂崩れで寸断された。
道路のアスファルトもはがれ、ところどころに雨の浸食による大きな穴を作っていた。
まともに車が走れる道ではなかった。
アレジャンからバル(事務所のある町)までは、ペテペテを使って1時間かかる。
しかし、ラニーニャ後は1時間半からひどい時で2時間かかることもしばしばだった。
こんな時、日本だったら早急に道は舗装しなおされ、
橋はかけなおされ、土砂崩れは取り除かれているだろう。
しかし、一部の主要道路を除いたその他の道では、
半年以上が経ったその時でも、なんら工事される事無く放置されていたのである。
当然橋もかけなおされていない。
この話は、そんなある日の出来事である。


 普段の朝。
インドネシア独特のコーヒー(フィルターを使わず、粉を直接入れて飲むコーヒー)を飲み干し、
仕事場であるバルの事務所に向かう私。
いつものように、道路沿いでペテペテを待つ。
遅い。
この国で、しかもこの集落で、
乗り物の到着が遅いことは常識なのだが、それでも遅い。
ラニーニャの影響で隣りの集落では土砂崩れがあり、
半年経った今でも、車1台分の土砂しか取り除かれていない。
そのため、ただでさえ遅いペテペテがさらに遅くなる。
当然、イライラはつのる。
日本人特有の神経質さを私が持ち合わせているからではない。
『遅い』という言語を持ち合わせていないのだろうか、
と疑いたくなるアレジャン集落の人も、
ラニーニャ以後のペテペテの遅さにはウンザリ気味だった。
ペテペテがようやく来る。
待ちくたびれてように乗る。
車内は、どこか雰囲気が暗い。
ふつふつとした不満がみなの顔に浮かんでいる。
私が今回話題に取り上げたいと思った人物は、
アレジャン集落から4つ離れたウロという集落で乗ってきた老女である。
老女はペテペテに相当待たされていたようで、
ペテペテに乗ってくると同時に悪態をついていた。
老女は運転手に、『おい!遅いじゃないかい!』と悪態をついた。
ペテペテには時刻表は無い。
どこかの会社が運営しているわけでもない。
乗客を乗せても良いという許可を取った車を運転手が勝手に走らせているだけである。
この場合、老女の悪態はほとんどと言って良いほど、いいがかりである。
運転手は、
『道がこう悪くては、速くは走れない。いつもと同じ時間に出てるのだけど…』
と弱気だ。
老女は、運転手の言葉を聞こうともせず、イライラした感情をまくしたてた。
『だいたい、何ヶ月たっても道は直らないし、橋なんてかかりやしない。いつだって、スラウェシのような外島はよくならないんだよ!ジャワ島を見てごらん。洪水があっても、土砂崩れがあっても、すぐに直しちまう。ジャワばっかりが、良い目見てるんだよ!』。
話が大きくなってきたが、確かにそうである。
ジャワやスマトラは、予算が豊富にあり発展が進んでいる。
他の乗客も、老女に賛同するように、
『そうだ!俺たちから取った税金で、ジャワばかりを良くしている!』
と言いす始末。
老女の話はさらにエスカレートする。
『だいたい、なんだいあのIMF(国際通貨基金)っていうのは!経済危機になってから、あいつらが乗り込んできたけど、銀行ばかりがつぶれるだけで、ぜんぜんこの道よくならないじゃないかい。橋だってかかりやしない』。
IMFがこの道を直してくれることは無いと思うが…
などと思っていると、さらに話は続く。
すでに乗客はその老女の話に聞き入っていた。
『それから、アメリカだ!ジャワ人はアメリカの言うことばかり、聞いている。だからだめなんだ。だからこの道が直らない。私はね。みんな聞いてくれよ。アメリカ人やジャワ人がこの地に来たら、刺し殺してやるつもりだよ!』。
完全に老女の思い込みであるが、そこまで話すと突然、運転手が、
『ムルデカ!(独立だ!)』と大声をあげた。
老女も『ムルデカ!』とつづく。
乗客の大半は叫びはしないものの、口々に『ムルデカ、ムルデカ』と唱えていた。
『スラウェシは大きな島だ。なにもジャワ人と一緒になっていなくても、十分成立つさ。今こそ独立をして、我らの英雄ハビビ(インドネシア3代目大統領:詳しくは選挙編を参照されたし)を初代大統領に迎えよう!』
そこまで話すと、老女の目的地であった市場に着き、
老女は買い物かごを大事そうに抱えて、市場の雑踏の中に消えていった。
車の中には、独立だけが残っていた。


 インドネシアは、多民族国家である。
独立をして、まだ50何年しかたっていない。国としては、まだまだ若い。
インドネシア国民として、多くの若者がインドネシア人として教育を受けてきたが、
民族意識は確かに残っている。それは普段は表には出てこない。
しかし、今回のように、何かの不満がつのれば、それはいつでも簡単に目を覚ます。
東チモール、アチェ特別自治州、アンボン島、西カリマンタン、中部スラウェシ、イリアン・ジャヤ州。
独立運動と民族闘争は、いつもどこかで起きている。
平和な昨日が、今日の安寧を約束してくれる事は無い。
たとえそれが、アレジャンのような僻地であっても。
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早稲田の学生が帰る。
2名だと書いたが、実は1名だった。
3日間、うちの農園でしっかりと働いてもらった。
なんでも9月に信州の農場で2週間インターンするらしいが、
うちでの体験が農業体験初めてだったようで、
「2週間のインターンをお願いしていることに、すこし後悔しています」
ともらしていた。
どうやら、うちの仕事が辛かったようである。

慣れない仕事をするのは、辛いものだ。
体を使う仕事は、その仕事をしながら、体を作っていくので、
僕らには、少ししんどい、という程度の仕事も
その体が出来ていない子には、物凄くしんどい、ことなのだろう。
だから、農業は大変、という結論になってしまうのは
ちょっと残念だけど。

3日間、学生さんからいろいろと質問を受けた。
面白いもので、その質問から、学生たちは農業をどうみているのかが
解ってくる。
質問は切り口。
だから、学生がどういう認識で切り込んでくるのかがよくわかる。
そして彼ら彼女らがもつ「ステレオタイプ」も。

質問から見えてくる学生の認識は、
農村は閉鎖的な空間をイメージしているようだった。
街からの新規就農者をどう思いますか?
という問いは、農村では外部からの新参者はよほど異質なものとして
考えないと出てこない質問とも言えるだろう。
村の人間だって結婚するから、養子さんだっている。
そしてその人が、その家の農業を継げば、
外からの新規就農者だ。
そんなの昔からある。
親戚の伝手で来る人だっている。
血縁だけじゃない。
友人の伝手で来る家族だっている。
それが最近では行政が間に入っているだけで、
個のレベルだと、顔見知りの普及員が
農業したいという人を連れてくるというだけの話。
閉鎖的な農村に外部からの新参者は異質じゃないか、
と考えるその思考が、すでにステレオタイプ。
農村に限らずコミュニティーは、外部からいろんなものを取り込んで、
受け入れたり排除したりしながら、変容していくものである。
固定的に捉えるのは、なんだか変だ。
農村体験の授業で、大学の先生も少しは質問票を作る時に
アドバイスしているとのことなのだが・・・。

あと、農業を生産の面だけで質問しないでほしい。
その話ばかりになると、
外国産がたくさん入ってきていて、
自給率が低くて、価格は安くて、労働は大変で、高齢化で、
って答えばかりを言わないといけなくなるので、
だんだんとこっちの気が滅入ってしまう。
農の醍醐味を生活の面から話をしても
ピンとこない顔をされると、話していても損した気分になる。
フィールドワークは、ある程度の相手へのエンカレッジが必要。

人は真面目でとても好青年だった。
質問の視点から、少なくともその授業で
農業をどう捉えようとしていたかが解ったので、面白かった。
来年も是非受け入れたい。
関連記事
船瀬 俊介 著 『悪魔の新・農薬「ネオニコチノイド」』.2008年.三五館.

最近、僕のブログに「ネオニコチノイド」というキーワード検索で訪れる人が多くなった。はてな?と思い、検索すると本書に行き当たった。僕はネオニコチノイド系の農薬を使用している。ので、これは読んでおかねば、と思い、手に取る。

本書では、ネオニコチノイド系農薬(殺虫剤)の危険性を訴えている。
特に、ミツバチに対する影響が大きく、帰巣本能を狂わし、巣箱からハチがいなくなる現象が多発していると警告する。その事例として、フランスにおいて、ミツバチの大量死とネオニコチノイド系殺虫剤「ゴーショ」との因果関係についての事例が紹介されている(第8章)。2006年4月29日、フランス最高裁は、ミツバチと「ゴーショ」の因果関係を認め、その薬剤の全面禁止の判決が出されている。

本書では、有機リン系殺虫剤の次世代殺虫剤としてネオニコチノイド系殺虫剤が登場したと紹介している。低毒性として登場したネオニコチノイドの毒性や残留性、魚毒性、さらには水質汚染の度合が高いと鋭く批判している。さらには、もっとも汚染原因になっているカメムシ防除に使われるネオニコチノイド系の農薬を無意味だと批判する。サイロ選米で光学センサーによって斑点米を弾いてしまうのであれば、1等2等3等の格付けは必要ない、と指摘している。等級が必要かどうかや、カメムシ防除自体が農薬産業との癒着かどうかは議論が残るだろうが、少なくとも、農家からの買い上げ時の等級は、かならずしも小売り米の価格に反映されていない状況なので、ある意味著者の批判は的を射ている。

著者は、受粉を媒介するハチが居なくなれば、農業収益が減少し、農業の壊滅になり、それがひいては食糧危機になると危惧する。ネオニコチノイド系に限らず、農薬の散布から脱却し、自然農法などの技にシフトすることを提案している。

数点、異論がある。
まず、ネオニコチノイド系の殺虫剤は半径4㎞四方に拡散する(通常農薬は100m)という記述について。ミツバチへの影響として4㎞四方の話をしているのだと思うのだが、それは薬剤が拡散して影響を及ぼしているのか、無味無臭でミツバチが無警戒に農薬で汚染された水などを巣に持ち帰るために引き起こることなのか、詳細な記述がない(ミツバチの行動範囲は、3㎞四方程度)。そのため、ネオニコチノイドの農薬が、あたかも4㎞四方を汚染するような書きぶりが目に付く。こういった正確ではない記述は、読者の不安感を煽るだけであり、本書の立ち位置をよく表している。僕は現場で、ネオニコチノイド系の殺虫剤「モスピラン水溶剤」を22ℓ噴霧機で使用しているが、数メートルも離れていない圃場の無散布区は、害虫の食害にあっている(放っておくと、作物は全滅)。薬剤が4㎞四方も拡散するのであれば、こうした事態もあり得ないはずではないだろうか。拡散するのはミツバチが運ぶからなのか、それとも薬剤がそこまで飛ぶのか不明なまま。散布の仕方の説明も無く、情報の出し方が正確ではない。

次に、海外の論文を引用してネオニコチノイド系の農薬の毒性を鋭く非難している記述について。海外の論文で取り上げられているのは、ネオニコチノイド系の一つの化学物質である「イミダクロプリド」。その毒性を引用しながら、ネオニコチノイド系すべての化学物質の毒性を語るのは、あまりにもお粗末としか言いようがない(p128の箇所)。イミダクプリドでの結論を引用し、本文において、さりげなくネオニコチノイドに言葉をすり替えて批判しているのは、意図的なのであろうか。それとも著者が化学系の知識に乏しいからであろうか。英文の専門書から毒性を考察する力があるところをみると、著者はわざと議論をすり替えて、読者の不安感を煽っているようにも読めてしまう。悪意を感じる。

さらに、有機リン系農薬からネオニコチノイド系農薬への転換について、ある専門家の意見を紹介し、除虫菊成分のピレスロイド系というすばらしい農薬への転換の方が重要と紹介している。しかし、合成ピレスロイド系農薬はすでに90年代にかなり登場していて、どちらかといえば、有機リン系→合成ピレスロイド系→ネオニコチノイド系と進んできたといえるのだ。しかも、過去の合成ピレスロイド系殺虫剤は、害虫による抵抗性獲得がかなり進んでしまっている。なぜいまさら合成ピレスロイド系なのか、不可解でもある。農薬の開発にかなりの資金が投入されており、そのため企業は毒性をあまり公表せず、農薬の販売を優先させる、と農薬開発の構造的問題を著者はとりあげているが、もしかしたら、著者がインタビューをした合成ピレスロイド系の農薬を紹介した農薬専門家は、合成ピレスロイド系農薬の利権にかかわりがある立場かもしれない、と逆に勘ぐってしまう。情報の出し方が偏っているため、読者に不信感を与えており、憶測が絶えない。

また、2006年以来ネオニコチノイド系殺虫剤「ゴーシュ」を使用しなくなったフランスでは、ミツバチへの影響は改善されたのかどうか、その点も現状を紹介すべきであろう。すでに禁止になって1年以上経つのだ。その経過報告と因果関係が気になるのだが、それについての記述は一切ない。

本書の終わりには、農薬会社や農水省へのインタビューが書かれている。そこでは、都合の悪い情報をひた隠しにする農薬会社や無知な農水省役人という具合に、描かれていて非難されているだが、本書においても、著者にとって都合の悪い情報については一切記載されていないのだ。僕から見れば、著者も同じ穴のムジナである。

ネオニコチノイド系の毒性について、考えるきっかけにはなる本だけに、公平な記述が無いことに、ますます怒りを感じる。都合のよい個所を批判するだけの書は、なにも生まない。もっともっと勉強と研究を重ね、農家の農薬について考える書となるようなものを書いて欲しい。また農薬の毒性だけを取り出して、それを批判し、自然農業の提案だけでは、現代の農業か抱えている構造的問題の解決にはならない。もう3,4歩踏み込んで議論してほしい。それができないのなら、不安を煽るだけの情報が偏った本は書かないほうが良い。
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今週は、お客が多い。
まず、今日から娘の通う保育園で一緒に通園させているあるお母さんが、
5日間ほど、僕の農園で「社会体験研修」という名目で
お手伝いに来てくれる。
なんでも、学校の先生を10年ほど勤めると、
社会体験研修として、どこかの企業などで5日間ほど
研修をしないといけないらしい。
どうしてうちなのかは、よくわからないが、
とにかく、5日間農作業研修。

さて、今日から義父が遊びに来る。
諸事情あり、なかなか遊びに来られないのだが、ようやく来られることに。
娘が一番大好きな「じいじ」。
しばらくは、娘も機嫌がよかろう。

そして、火曜日からは、
早稲田の大学生が2名来る。
農村体験のためだとか。
2泊の予定で、僕の農園で農作業をする。
なにもこんな一番暑い時期に、農家の中でも一番暑い仕事場に来なくても良いのに。
昨年来た子たちからは、いろいろやり取りができておもしろかった。
QRコードのアイディアもその子たちの意見があって実現した。
さて、今年、街からくる子たちは、ここに何を残していくのだろうか。

そして日曜日。
(正確にいうと来週なのだが・・・)
保育園の田んぼイベントを開催予定。
弊習とされ、すっかり消えてしまった「虫追い」をする予定。
今週、保育園でかかしを作り、
保育園の夏祭りで使った山車とかかしをもって
田んぼの周りを練り歩く。
太鼓と鳴りものを持って、虫を追う。
来客予定数、90名。

千客万来。
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ヴァンダナ・シヴァ 著 山本 規雄 訳 『アース・デモクラシー』:地球と生命の多様性に根ざした民主主義.2007年.明石書店.

本書は、シヴァの思想の集大成と呼ぶべき書であろう。多岐にわたって論じられてきたこれまでの論文(単著・共著も含む)が、地球生命体の民主主義という多様性への肯定思想の下に、本書に収斂されている。その根底には、生きるために必要な最小限の資源の利用自由の確立がある。

シヴァは、生命中心の「経済」「民主主義」「文化」を訴えている。その中でも、種子、食糧、水に焦点を当て、一部の大企業や利権者による囲い込みにより、多くの人々が貧困に追いやられ生命の危機に瀕している、と訴えている。しかしそれらは、どちらに利用権があるのか、といった2項対立的ではなく、一方的な囲い込みによるモノカルチャー化していく現状を批判しつつ、多様性の中でこそ我々は存在するのだ、とするパラダイム転換をシヴァは促している。

生命中心の経済の章では、市場経済・生命維持の経済・自然の経済の3要素のバランスが崩れ、市場経済優先になっていることを批判する。資本と労力の投下により、市場経済価値が生まれるとしているが、市場経済は自然の労力を認識していないため、本来は自然の労力に大きく頼っているはずの水などの資源を、資本が囲い込みすることを可能にしている批判する。「水を山から降ろし、海までの何千キロもの道のりを運び、蒸発させ、再びそれを地球に戻している自然の労力を認めようとはしないのです。」(p85)とシヴァの批判は明快だ。その批判の中でシヴァは、自然の経済が基礎となし、それを優先する経済のあり方を提案する。そしてその自然の経済を決定的に壊すことなく営み続ける生命維持の経済、つまり、小農的な営みを市場経済よりも優先させるべきだ、とシヴァは指摘している。

さらにシヴァは、生命中心の経済の章の中で、ハーディンの共有地の悲劇を偽りの悲劇と批判する。ハーディンに見えていないものは、それは、「共有地の存在そのものが、じっさいの共同管理と所有を前提としている、ということです」(p103)という。競争が社会の原動力となっているわけではない、という批判をしている。これは社会心理学者の山岸俊男氏の著書『社会的ジレンマ』:「環境破壊」から「いじめ」まで(2000年)の結論と合わせて考えると、より世の中について解るであろう。山岸は、社会を構成するほとんどの人が、「みんながやるから自分もする」(みんなが主義と山岸は名づけている)という態度で行動をしていると指摘している。つまり競争が社会を動かす原理ではなく、一部の人間が共有地の法を破り、資本の投下を重視し、自然の経済を貪るかたちで競争を生み出したため、現在のような狂喜な競争が、みんなが主義の中で蔓延しているのかもしれない。だとしたら、われわれが本当に目を向けなければいけないのは、市場の経済ではなく、自然の経済であり、それを維持し育む多様性の中で生きる小農の営みであろう。

生命中心の民主主義の章では、これまで人類が長きにわたり選別してきた種子の利権を、一部の大企業がパテントを取ってしまっている現状をするどく非難している。遺伝子組換え等の技術により、子孫を残すことのない種子が登場したことで、農民の多様性は失われ、モノカルチャー化していくと批判する。そしてその単一化された農業が、安定性の面でも、生産力の面においても、在来の小農的な農業よりも劣ると指摘している。市場や一部の大企業が中心となる制度よりも、民衆の生命中心の民主主義を訴えている。

生命中心の文化の章では、小農的な有機農業が、近代的な農業よりも生産性が高いことをシヴァは指摘している。食糧生産というカロリーや量的な問題だけでなく、それを生産する視点にもシヴァは考察する。家父長主義によって作られた資本主義により、生産を司る女性的な部分が排除されていると指摘している。生命の持続と分かち合いを保証していた女性中心の世界観、知識体系、生産体制を取り戻すことが重要だと、シヴァは語っている。

私が、自家菜園と食をつなげて農を考える時、シヴァのいう「人間としての女性」を感じる。それは性ではなく、その眼差しなのであろう。生産と再生産の繰り返しの中で、持続させつつも育んでいく小さな菜園とわれわれの生命との関係が、男性的なものではないことを私も感じることがある。シヴァは、そうした眼差しについて端的に語っている。伝えるための言葉を与えてくれたという意味で、至極重要だと思う。

シヴァの思想は多岐にわたる。が、その根本は、多様性を認め合うその眼差し、に収斂されるのではないだろうか。良書。
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少しずつ、移動させている。
協力隊の時のエッセイを。
これもその一つ。
こんなこともあったなぁ、と今では懐かしい思い出。


キバタ編

 最近、困っている。
パンテル(長距離の乗合タクシー)に乗せてもらえない。
マカッサル(アレジャンから120㎞離れた大都市)で、
休日ビールとしけこんだ翌日、
バル(アレジャンのある県の県庁所在地)に帰ろうとターミナルに行っても、
パンテルの運転手連中から乗車拒否にあう。
それどころか、多数のパンテル運転手に囲まれて、脅された事さえあった。
なぜ?
原因は、数ヶ月前までさかのぼる。

panter.jpg

『パンテル』

 休日にどうしてもビールが飲みたいと思う私は、
120㎞をおんぼろバスで移動しマカッサルに行く。
アレジャンやバルではお酒が手に入らないからだ。
マカッサルほどの大都市であれば、気のきいたレストランには必ずビールがある。
日本の生活で、毎日のように晩酌を習慣としていた私には、
たとえ1週間の禁酒でも耐えがたい苦痛である。
痛飲し、翌日アレジャンに戻る。
帰りは、バスを使う事は少ない。
なぜなら、アレジャンへ行く途中のペッカエ(老兵のいる町)で
バスを乗り換えなければならないからだ。
乗り換えたバスはすぐには出発せず、時として2時間や3時間待たされる。
そのため、マカッサルの帰りは、パンテルを使う事が多い。
幸い、パンテルはアレジャン集落を通過する路線があるのだ。
マカッサルから待たされる事無く、直接アレジャンに帰れるため、重宝していた。

 ある日、いつものように休日ビールの翌日、ターミナルへ行き
アレジャンを経由するパンテルに乗り込む。
バスやパンテルといった乗り物は料金表が無く、
目安でいくらいくらと運転手と話をつけなければならない。
特にアレジャンのように利用者が少ない場所は、
運転手によって言い値が違う。
語学力と交渉力の見せ所である。
また、外国人と見るととかく高値を言ってくるので、
それを現地人の価格まで下げる事は、かなりの根気がいる。
旅行者では、まず値下げは無理だろう。
しかし、この環境にすでに半年以上いる私は、
運転手の言ってくる法外な値段をたやすく値下げすることが出来るのだった。

 アレジャン行きのパンテルを見つけ、値段交渉をする。
運転手は8000ルピア(当時のレートで80円)と言うが、相場は4000ルピア。
4000ルピアで嫌なら、乗らない!と強気で押すと、
運転手はあっさりと4000ルピアで乗せてくれた。
車のシートが埋まるまで、何時間か待たされたが、
出発してからは特に何のトラブルも無く、アレジャンに向かう。
途中の町ペッカエを通過。
パンテルはアレジャンの集落を通過するため、直接アレジャンに帰れる。
実にスムーズな乗り物だった。
アレジャンに着く。
集落に入り、降りたい場所を運転手に告げる。
車が止まる。アレジャンに到着。
運転手が降りてきて、お金を精算する。
4000ルピア。
最初に合意した値段だ。
しかし、お金を手渡すと運転手がごね始めた。
『おい!足らないぞ!10,000ルピア払え!』。
は?
4000ルピアで合意したではないか、なぜ今になって10,000ルピアも要求するのだ?
訳もわからず、まごまごしていると、運転手は今にも殴りそうな勢いで、
『10,000ルピアだ!さっさとよこせ!』と怒鳴り始めた。
困った事になった。

 アレジャン集落には若者が多い。
日頃懇意にしている若者も当然たくさんいる。
村の中心で怒鳴られる私の姿は、当然目立つ。
その怒鳴り声を聞いて、アレジャンの若者がそのパンテルを囲むように集まりだした。
彼らの顔は決して友好的な表情ではなかった。
その中の1人の若者が、
『おい。なにをもめているんだ?田谷、何があった?』と聞いてきた。
私はあるのままのことを説明し、運転手が突然高く値段を請求してきた事を皆に話した。
それをきいてある若者が、運転手に言った。
『田谷は、俺たちの仲間だ。俺たちはキバタに所属している。
田谷に文句をつけるのなら、キバタに文句をつけているのと同じだぞ』。
話し声はごく普通の感じだったが、どこか威圧感のある声だった。
運転手の顔がみるみる青ざめる。
『キ…キバタ…!?』。
運転手は急いで車に乗り、お金も受け取らずに急いでアレジャンを出て行ってしまった。

 キバタ。
少し説明を要する。
インドネシア語のKipas Baru Tanya の略語で、
とりあえず殴ってから事情を聞くという意味がある。
武闘派で鳴らした権太集団の名前で、
マカッサルを拠点に多くの若者を抱えている。
バルにもその支部があり、運転手にとって運悪くも、
バルの支部のヘッドを勤めているのが、アレジャンの若者だった。
自然とアレジャンの若者の多くは、キバタに所属している。
警察でもどうする事も出来ない存在で、バルでの大乱闘事件後、
警察の介入で一時解散する騒ぎも起こしている。
運転手風情では、逃げるが勝ちだったのだろう。
この日はキバタに助けられる形となった。
しかし、後日問題となる。

 そう、パンテルの運転手の間で、私がキバタの一員だと言う誤解が生じ、
パンテルに乗せてもらえなくなってしまったのだ。
実に困っている。
この前、パンテルに乗ろうとした時などは、
例の運転手に鉢合わせになり、
彼の呼びかけで大勢のパンテル運転手が私を囲むと言うひと騒動もあった。
今後パンテルは乗れないかもしれない。

 その後の話。
問題を起こした当時私はひげを蓄えていたのだが、
その後ある事情でそのひげをきれいに剃ってしまった。
それからと言うもの運転手には、私とキバタの一員と烙印を押された日本人の区別がつかず、
パンテルに乗れるようになった。
揉め事よりも少々ぼられても良いと考え、
あらかじめ少し高めに払うようになったのも効いたのだろう。
しかし、しばらくは私が降りた後に、アレジャンの若者が、
『おい、今回はぼられていないか?』と尋ねていた。

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田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
taya.tアットマークnifty.com
です。
(アットマークを@に置き換えて送信ください)

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