FC2ブログ
土曜日は野止め(農作業の休み)なのだが、
あまりに仕事が詰まってきたので、今日は仕事をする。
保育園の田んぼに穂肥えをやったり、
余りにも大量に取れて、粒が小さくなってきたフルーツホオズキを
少々剪定し追肥をやったり、
雨が少なすぎて、元気の無いオクラや吉川ナス(福井の伝統野菜)に潅水したり。

このまま野止めの日を終えるのは寂しいので、
夜、最近お気に入りのレストランへ行く。
地元野菜を想像しなかった形で使ってくれるレストラン。
サレポアへ。

今回の食事での驚きは、
「根セロリのシュー」だった。
根セロリと牛乳でピューレを作り、
シューの中に、生ハムと一緒に挟んだ物。
余りのうまさに、もうすぐ3歳になる娘も
ぺろりと1つ食べてしまった。
僕の根セロリを使った料理だったのだが、
そんな使い方があったとは、驚きだった。
外食をするのなら、自分たちの想像を超えたものが食べたい、
と常々思うのだが、ここはそれを満足させてくれる。

根セロリの美味さが、もっと周知されると良いのにね、と
シェフと帰り際に言葉を交わす。
美味い物を美味い形で食べる人との関係は楽しい。
関連記事
ラニーニャ編

 ラニーニャ。
読者諸君は知っているだろうか?
私は良くは知らないが、エルニーニョの反対の現象とだけ認識している。
さらに、ラニーニャの怖さも…。1
999年のインドネシア・南スラウェシ州は、
年明けからラニーニャの恐ろしさを身をもって知ることになる。

 ラニーニャの年になると、インドネシアでは雨季が長引く。
例年であれば11月から雨季に入るのだが、
98年は9月の後半から雨季に入ってしまい、いつもよりも雨の多い雨季を迎える。
熱帯の雨季の雨はすごい。
スコールのように一時的に降るだけではない。
朝から晩まで、スコールだと想像してもらっても、まだその雨を想像する事は出来ないだろう。
特に99年の年初めの雨は、想像を絶するものだった。
私が愛用している50メートルの水深でも耐えられるダイバーウォッチの秒針に、
カビが生えるくらいの雨だった。

 1999年のある日、いつものようにアレジャンで起居していた私は、
いつものように出勤するために朝食を取っていた。
家の屋根がトタンであるため雨が激しく降ると、
家の中でも会話は不可能となる。
その朝もそうだった。
集落長ラエチュの奥さんが朝食を作ってくれて、
それを知らせに私の部屋をノックした音も聞こえない朝だった。
バチバチバチバチバチバチバチバチバチバチッ。
大粒の雨垂れが、トタンを叩く。
どんなお金持ちの家でも、この時期、雨漏りは欠かせない風物詩であった。
ラエチュの家も例外ではなく、よく雨漏りする。
日ごとに雨漏りの場所は変わるのだが、
トタンを直接釘で柱に打ち付けていて、
その打ち付けた後を接着剤やゴムで処理しないため、
その場所から雨漏りがする。
この朝は運が悪く、私の朝食の上に雨漏りがしていた。
そんな最悪の朝でも、私は仕事に行く。
今日は大事な会議のある日だった。
バルの事務所に向かうために、家の前でペテペテを待つ。
傘は何の役にも立たない。
道は川になっていた。

 ペテペテが来る。
乗り込んで、運転手にバルの中継地ペッカエ(老兵の町;詳しくは老兵編へ。)までと告げる。
ここまでは、いつもの朝と同じ。
ただ、雨が激しく降り、ペテペテのシートが全て水浸しだったのを除けば。
…いやっいつもと違う。
人が乗っていないのだ。
どうしてなのかを運転手に尋ねた。
『ペッカエに行く途中の道が水没したんだ。村1つ飲み込まれたらしい。だから、こんな日は誰も外に出ないんだよ。』と運転手。
ちょっと待て。
アレジャンのような僻地からバルの町に行く道は、2つ。
1つはペッカエを経由していく道。
もう1つは、カエレンゲと言うアレジャンから山一つ越えた麓のある集落を経由する道。
ただ、99年正月から続く大雨で、カエレンゲに続く唯一の橋は、流されてしまって、無い。
ペッカエに続く道までも村1つと共に水没したと、この運転手は言う。
つまり、私は閉じ込められたと言うこと?

 結局、ペテペテの運転手に無理を言って、水没した村の前まで行く。
のどかな田園風景が広がっていたその川べりの村は、
椰子の木が何本か顔を出すだけで、後は大きな川の一部と化していた。

 私が生まれ育った村にも、ちかく九頭竜川という一級河川がある。
幼い頃はよくこの川が氾濫したものだった。
堤防のぎりぎりまで水位が上がり、街に通じる橋が流された事もあった。
ただその時は、堤防が決壊すれば、学校休みかなぁ、などと馬鹿な事を考えていた記憶がある。
それは子供らしい発想で、災害で危害を被ることなく、
災害よりも大人の力がまだ強いと信じていた時の話だ。
今、水没して椰子の木だけが頭を除かせている村を見て、大人である自分の無力を強く感じた。

 力なく、帰宅する。
するとさらに災害が起こっていた。
アレジャンのお隣り、ラエチュの弟が集落長をしているメンロンという集落での出来事だった。
土砂崩れだった。あまりの豪雨で山が崩れたらしい。
もう、驚く気力も無かった。

lonsor tanah


 幸い、雨はその後弱くなり、次の昼には一時的におさまった。
ラエチュ氏がメンロンの土砂崩れをしきりと心配していたので、一緒に見に行く。
山の斜面が大きく崩れていて、道と集落の一部を飲み込んでいた。
被害にあった家は道を挟んで3軒。
家がどこに埋まっているかも解らない。
土砂が家を崖下まで押し流してしまったらしい。
災害現場を見た後、メンロンの集落長に会う。
ラエチュとメンロン集落長は、沈痛な表情で今回の被害を話していた。
現地ブギス語をほとんど解さない私には、話の内容はわからなかったが、
どうもひどい被害らしい事はわかった。
そうだろう。
3軒も家が流されたのだから。
ラエチュが帰ると言ったとき、私は彼に尋ねた。
どれくらい被害があったのかと。
ラエチュは力なく、
『養鶏をやっていたやつの鶏が50羽、土砂に巻き込まれたらしい』と語った。
へ?あれだけの災害だったのに、みんな無事だった?
ラエチュは言った。『あれくらいでは人は死なん。でも鶏50羽は痛手だ』と。

 99年のラニーニャはその後3月まで豪雨を呼び続け、
気が済んだのか、その後嘘のように雨季が明けた。
バルでは主要な橋が流され、私たちのチームリーダの家が1m床上浸水した。
私はダイバーウォッチの秒針にカビが生え、メンロン集落は鶏50羽を失った。
熱帯の雨季の怖さと、ブギス人が予想以上に頑丈に出来ている事を知った。

関連記事

田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

俳句もしております。「雪解」「街」「いつき組」に所属しております。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
taya.tアットマークnifty.com
です。
(アットマークを@に置き換えて送信ください)

プロフィール
06 ≪│2008/07│≫ 08
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
カレンダー(月別)
カテゴリ
月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

メールフォーム

Page Top

Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ