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NHKスペシャルを見る。
「インドの衝撃~貧困層を狙え~」である。
巨大企業が、インドの貧困層をマーケットに変えていく、という話なのだが、
これをどう解釈すればいいのか、すこし混乱する。

従属論的に見ていけば、
巨大企業による農民の消費者化であり、
自給できていた存在から、ただ単に消費するだけの存在へと変えていく話でもある。
しかし、番組の事例として出てきたユニリーバの石鹸指導では、
内容的には公衆衛生指導であり、村の生活改善につながっている。

ITCによる農産物取引の事例では、
公設市場を介さないで、ダイレクトに農家と取引をするケースが紹介されていた。
農家はより高く農産物を売り、
ITCはより安く農産物を買うことができる。
さらに、ITCが主催するショッピングモールでの農産物の換金によって、
農産物を売った農民が、その現金を消費できる場所を提供しているという巧妙な商売が
紹介されていた。
このケースで危惧されることは、
農民の農地構造である。
アジアの多くで見られる地主‐小作の土地関係がインドでもあるとしたら、
(僕はインドの農業構造には詳しくない・・・)
ダイレクトでITCと取引できるのは、誰なのであろうか?
番組で紹介されていた「農民」とは、農民のどの層のなのであろうか?
ITCの望む規格と品種は(地主が望む品種と規格)、
小作の望む規格と品種が一致することは無いであろう。
小作は多収で耐病性に優れた品種を望むだろうし
そういったものの多くは、食味が悪かったり加工に適さないことが多いのだ。
電信の発達によって(パソコン・インターネット)、
このシステムを通さないで直接ITCとやり取りを出来るシステムは、
流通の近代化であろうが、農業構造自体が近代化されるわけではないため
マーケットの欲求をすべて小作がかぶるという悲劇が生まれることは
たやすく想像できる。
公設市場の機能として、農産物の質の均一化があるのだろう。
そしてそれは地主にとっても小作にとっても益することはないのだが、
どちらかに負担がかかることでもない。
流通システムの変化によって、地主と小作間の利益に変化が生まれることには
先日読んだ守田志郎も指摘している通りであろう。

巨大企業による消費者化と言う構造的問題も
内容的には生活改善運動とみることも出来る。
また、農業構造(特に土地構造)に注視しないで行われる流通改革は
その企業とそれにアクセスできる農民にとって利益となるであろうが、
零細農家や小作にとっては不利益になることが想像できる。
(このことは放送内では指摘されていないが)
この2点について考えさせられた。
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こんなこともあった。
『異文化理解』。
すばらしい言葉で、言うは簡単だが、
実際の中身には、恐怖と痛みが常にある。



kepala dusun
私と集落長(入村当時)

田谷が死んだら…

ふとしたことから、私が初めてアレジャン集落に入った時のことを思い出した。
どうも私の記憶は、時間配列とは関係なく出来ているらしい。
いつも突発的に思い出す。
今回の話も記憶の中に埋もれてしまわないうちに、書きとどめる事にする。

1998年1月20日。
私は、初めてアレジャン集落に足を踏み入れた。
協力隊による村おこしプロジェクト
(正式名称:バル県地域総合開発実施支援プロジェクト)の一員として赴任したのは、
昨日の事だった。
村の実情をすばやく把握するために、
新米の隊員は1ヶ月間プロジェクトサイト内の村に寝起きしなければならない。
私には、アレジャン集落が選ばれた。
そして、赴任して次の日には、アレジャン集落に投入されていた。

私の上司であるチームリーダーと共に、アレジャン集落に向かう。
ところどころ舗装されている道を揺られながら。山を1つ越える。
まだつかない。
一体どこにおくられるのか?
不安で硬くなる私。
約1時間車を走らせた先に、ようやくアレジャンが見えてきた。
私を受け入れてくれる家は、アレジャン集落の集落長ラエチュ氏の家だった。
大きな家だった。
『柱が100本ある家』と村人からは呼ばれていた。
私たちがその家に着いた時は、ちょうどラエチュ氏は不在だった。
家の人が出てきて、リーダーは簡単な挨拶を済ますと、
『じゃ、田谷君頑張って』と言い残し、そそくさとバルの町に帰っていった。
置き去りにされた気分だった。
その頃は、まだインドネシア語もろくに話せない。
知らない民族語を話す、知らない民族の家。
事前情報で、『ブギス人はもともと海賊として名をはせた民族で…』
とレクチャーを受けた事を思い出す。
みんなの顔が海賊に見え出した。怖くなってきた。

私が寝起きするはずの部屋に通して欲しい、
とりあえず部屋に行きたかったのでそう伝えた。
しかし、集落長の家にいた家人は不思議そうに私を見ているだけだった。
インドネシア語を解さないのか、私の言う事が通じないらしい。
居心地の悪い時間が流れる。
どうしたら良いのだろう?早くも日本の平和な日常が恋しくなった。
結局、その家人は私を30分あまり見つめていて、私もその場にただ力なく座っていた。
その間、会話は無かった。

その恐ろしい沈黙を破ったのは、ラエチュ氏だった。
帰宅したのだった。
ラエチュ氏は、背が高く体格がしっかりしていた。
眉間には、深々としわが刻まれていて、
黒く日焼けした肌は厳しい農作業と彼の人生を物語っていた。
船の上に乗せさえすれば、そのまま海賊の頭領で十分通る。
その彼は、私の前に座り、開口一番にこう聞いてきた。
『おい。お前が死んだら、どうすれば良い?』。
…私は、いますぐ日本に帰ろうと決心した。

ラエチュ氏は、何も答えない私に、さらに質問をしてきた。
『ここでは、墓を作って土葬している。しかし、聞くところによると、お前はイスラムではないらしいな。だとしたら、お前が死んでからどうして良いのか、解らん。死んでからでは遅いので、生きているうちに教えろ』。
なんでそんな事を聞くんだ?
今はじめて、このアレジャンに来て、
これからここで生活…つまりは生きていこうと思っている人間を目の前にして、
お前が死んだらどうすれば良いか、なんて聞けるのだ?
日本からお土産だって持ってきた。
自分の日本での生活も写真にして持ってきた。
当然、この場はお互いの習慣の違いや生活の違いなどで盛り上がるはずなのに。
それが交流と言うものではないのか?
しかし、私とラエチュ氏は、埋葬の習慣の違いから交流をはじめていた。
『答えろ。お前が死んだらどうして欲しい?』彼は続けた。
仕方なく私は、
『火葬してください』
とだけ、力なく答えた。
ラエチュ氏は、火葬という言葉にしきりに驚いていたが、
『火葬か…。よし分かった。お前が死んだら火葬してやろう』と答えると、
満足したように家の奥へと消えていった。
その後、私はようやく部屋に通された。
明日ここを出ようと決心していた。

結局、この集落、この家に3年住んでしまった。
居心地が良かったわけでもない。
楽しかったわけでもない。
飯が美味かったわけでもない。
通勤のことを考えれば、片道1時間は辛かった。
しかも、楽な道ではない。
ここだったら火葬してもらえる、そんな安心感があったわけではない。
しかし、毎日この家に戻ってきていた。
愛しのアレジャン集落は、これからも書き続けるだろう。
私が毎日アレジャンに帰っていった答えが見つかるまでは。

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老兵編

 以前、財宝編で戦争について少し触れた。
読者諸君は覚えているだろうか?
アレジャンのような僻地であっても戦争という傷を抱えていると言う話だった。
その話を書いている途中に、私の頭の中で訴えかける人物がいた。
それはひとりの『老兵』である。
『わしを書け!』としつこくささやくので、今回書くことにする。
『老兵』はかつて、大東亜戦争において日本軍に強制的に軍役につかされた人物で、
私に会うたびに最敬礼をすることが癖だった。
ちなみに、今回はアレジャン集落から少し遠出して、この話を語りたい。
場所は、アレジャン集落から20km離れた小さな町ペッカエでの出来事である。

 『老兵』との出会いは突然だった。
それは、通勤のために通過するペッカエという小さな町だった。
この日も暑く乾いた日だった。
スラウェシの足であるペテペテと言うミニバスに乗り、出発を待っていた。
いつまでたっても出発しないペテペテに少々腹立たしくなりながら、
何気に外を覗くと、その老人がいた。
彼は、しゃんと背筋を伸ばし、最敬礼をしながら、遠巻きに私を見ていた。
いきなりの敬礼におどろき茫然としている私に向かって、
彼は『ありがと』と、やたら『あ』を強く発音する日本語を発した。
インドネシアでは、日本軍の占領時代があったために、
お年寄りで日本語を片言ながら話す人は、そう珍しくない。
彼もその1人だった。
彼は私が乗り込んでいるペテペテに近づいてきて、窓越しに私に話し掛けてきた。
『久しぶりに日本人をみた。おまえさんの階級はなんだい?』と老人。
どうやら老人は、私を日本軍人と間違えているようだった。
おじいさん、僕は軍人ではないよ、この国に技術協力に来ているんだ、と説明する。
すると老人は、私の話が終らないうちに、『タケダ隊長は元気にしてるかね?』と尋ねてきた。
タケダ隊長?誰だそれ?だから、おじいさん、僕は軍人ではなくて…。
『タケダ隊長はいい隊長だった』人の話を聞かず、遠くを見る老人。
早くペテペテ出発しないだろうかと、誰もいない運転席を恨めしく見ている私に、老人は話し続けた。
『わしは、戦争の時日本軍の手伝いをしていた。その時わしの上司だったのが、タケダ隊長だった。日本軍人は、なにかあるとすぐにわしらを殴り倒したが、タケダ隊長は、そうではなかった』。
少々興味深い話しだ。
するとタケダ隊長は現地人には手を出さなかったのかい?
老人はまだ遠くを見ている。『いや、飯をくれなかった』ぼそりと言った。
何が言いたいのか解らず、老人を見つめる私。
老人は話を続けた。
『でも、タケダ隊長にもいいところがあった。日本軍はならず者が多くて、多くの若い女性が日本軍にひどい事をされたと聞く。しかしタケダ隊長の隊はそんな事は無かった』。
従軍慰安婦の話だ。日本では、韓国や中国のケースが注目を浴びているが、
インドネシアの片田舎でも、その様な事があったのだった。
飯はくれなかったみたいだが、タケダ隊長を少し見直した。
タケダさんはいい人だったんですね、と私。
老人は、『いや、タケダ隊長は隊員には厳しく、女性にひどい事をさせなかったが、タケダ隊長は毎晩のように女性を抱いていたよ。なんせわしがその女性を準備していたのだから』と、やはり遠くを見ながらつぶやいた。
老人の目は澄み切っていたが、その目の奥には当時の凄惨な日々が焼きついているのだろう。
私たち、日本人が忘れてはいけない過去をこの老兵が教えてくれた。
老人は遠くを見ながら日本語で歌い始めた。
『セレベスの~、山を越えて~…』、それはスラウェシ島にちなんだ軍歌だった。
スラウェシ島は、かつてセレベス島と呼ばれていた。
ダイビングで有名な北部の街マナドは、当時連合艦隊に足止めを食らわすための要塞があり、
日本軍の重要な戦略拠点だった。
多数の日本軍がおり、きっと老人もそれらの日本軍人からその歌を教わったのだろう。
歌が終わり、不意に老人は私を直視し、こう言った。
『しかし、日本は残念だったね。戦争に負けてしまったのだから。あと少し持ちこたえたなら、勝っていただろうに』。
いや、あの戦争はどう転んでも負けでしたよ、と話す私に老人は、
『いや、それは解らん。わしらはここから70km先のパレパレと言う港町で軍艦を作っていたんじゃ。途方も無く大きな軍艦だった。しかし、完成する前に日本が負けてしまったんだ。あれが完成していたら負けなかっただろう』。
そんな話は聞いたこと無いぞ、とにわかに興奮を覚える。歴史に埋もれていた新事実なのだろうか?おじいさん、その軍艦の話、詳しく聞かせてください。老人は意気込んで、話してくれた。『そりゃ~大きな軍艦さ。あんなに大きな軍艦は見た事無いよ。なんて言ったって、数え切れないほどの木材を組み込んで作っていたのだから。ここら辺にある漁船なんかよりも…えっ?鉄?使ってないよ、そんなもん。でもとにかく大きな船だったさ。…』。
長々と続く老人の話はそれ以上私の耳には届かなかった。

 ペテペテの運転手が出発を告げる。
老兵は、すこしペテペテから離れ、口早に『タケダ隊長に会ったら、約束を守れと言っておいてくれ。日本の女性を紹介してくれる約束だったんだから』と言った。
70を優に超えている老兵は、満面の笑顔でそう言った。ペテペテが出る。
老兵は、見えなくなるまで、最敬礼をしていた。

 その後、老兵とはペッカエに行く度に良く会ったのだが、同じ話以外はしなかった。
周りのインドネシア人は『彼は少々ボケているから』と言っていた。
それでも、未だにタケダ隊長との約束を待っている。タケダさん。
もし、これを読んでいたら、彼との約束を守ってやってください。
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田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

俳句もしております。「雪解」「街」「いつき組」に所属しております。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
taya.tアットマークnifty.com
です。
(アットマークを@に置き換えて送信ください)

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