そういえば、昨日。
保育園の増改築運動の一環として、
資金集めのために、近くの映画会に出店した。
手芸品や食べ物などいろいろと販売していたが、
僕は自分の野菜を売った。

こういうイベントに参加する場合、
僕にも何か得になることがなければやってられない。
以前にも書いたが、win-winの関係というやつだ。
今回は、いまいちブレイクしない僕の自信作、
「フルーツホオズキ」をパック詰めにして販売してみることに。
対面販売なので、直接お客の反応も良くわかるのだ。

フルーツホオズキは、昨年から栽培を始めた作物で、
値段の高さから、あまりブレイクしないまま現在に至っている。
だが、食べた人のほとんどが
「うまい!」
と答えてくれる作物でもある。
売れない理由は、値段が高い、と言うこともあるが、
それ以上に、見た目がいまいち、ということもあるだろう。
見た目がいまいちなのに、高い値段を付けられているため、
ほとんどの消費者が、手を出さないのである。
あと、「ホオズキは食べられない」という固定観念から
手を出さない人も多い。

さて、映画会。
上映前の1時間ほどが野菜販売の勝負。
これから映画を見ようという人に野菜を売るのだから苦戦した。
フルーツホオズキは、試食を促して販売。
15パック用意したのだが、20分ほどで完売してしまった。
他に何種類か野菜を用意したのだが、そちらは残ってしまったのだが・・・。

試食をしてくれたほとんどの人が、フルーツホオズキを購入してくれた。
そしてほとんどの人が、驚きと共に
「美味しい!」
と絶賛してくれた。
ある仲買から、「フルーツホオズキは売りにくい」と酷評されて、
一時期、自信喪失していたが、
やはり美味い物は売れる、と再び確証できた。
値段とパックにもうひと工夫が必要だが、
中身のホオズキの美味さには自信があるので、
それほど難しい作業ではないだろう。

保育園の資金集めとしては、僕のブースでは売り上げは1万円ちょっと。
1時間ほどの野菜の販売だった割には、まずまずの成績か。
でもそれ以上に、フルーツホオズキの知名度UPと
お客の反応からこれからの販売を考えることができたことが、
とても大きな成果だった。
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そういえば、
結局、食べた。
何を?
スベリヒユを。

先日のエントリーを妻が読んで、
「食べてみたい」と一言。
僕の書いた結論に納得しつつも、
食に対する飽くなき探究心が、スベリヒユの味覚を確認しないでは
おけなかったようである。

トマトとたこのマリネに、スベリヒユを敷いて食べた。
妻は赤い茎がポリポリして美味いと評していた。
僕はどちらかといえば、茎頂の部の葉がパリパリして好きだ。
変な癖が無く、ねばねばした汁とポリポリ・パリパリした食感が
意外に美味い。

P7230002.jpg


だが、妻も僕も
「この時期だと、わざわざ拾い集めてまで食べないね」
先日のエントリーの結論を再認識して終わった。
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土曜日は野止め(農作業の休み)なのだが、
あまりに仕事が詰まってきたので、今日は仕事をする。
保育園の田んぼに穂肥えをやったり、
余りにも大量に取れて、粒が小さくなってきたフルーツホオズキを
少々剪定し追肥をやったり、
雨が少なすぎて、元気の無いオクラや吉川ナス(福井の伝統野菜)に潅水したり。

このまま野止めの日を終えるのは寂しいので、
夜、最近お気に入りのレストランへ行く。
地元野菜を想像しなかった形で使ってくれるレストラン。
サレポアへ。

今回の食事での驚きは、
「根セロリのシュー」だった。
根セロリと牛乳でピューレを作り、
シューの中に、生ハムと一緒に挟んだ物。
余りのうまさに、もうすぐ3歳になる娘も
ぺろりと1つ食べてしまった。
僕の根セロリを使った料理だったのだが、
そんな使い方があったとは、驚きだった。
外食をするのなら、自分たちの想像を超えたものが食べたい、
と常々思うのだが、ここはそれを満足させてくれる。

根セロリの美味さが、もっと周知されると良いのにね、と
シェフと帰り際に言葉を交わす。
美味い物を美味い形で食べる人との関係は楽しい。
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ラニーニャ編

 ラニーニャ。
読者諸君は知っているだろうか?
私は良くは知らないが、エルニーニョの反対の現象とだけ認識している。
さらに、ラニーニャの怖さも…。1
999年のインドネシア・南スラウェシ州は、
年明けからラニーニャの恐ろしさを身をもって知ることになる。

 ラニーニャの年になると、インドネシアでは雨季が長引く。
例年であれば11月から雨季に入るのだが、
98年は9月の後半から雨季に入ってしまい、いつもよりも雨の多い雨季を迎える。
熱帯の雨季の雨はすごい。
スコールのように一時的に降るだけではない。
朝から晩まで、スコールだと想像してもらっても、まだその雨を想像する事は出来ないだろう。
特に99年の年初めの雨は、想像を絶するものだった。
私が愛用している50メートルの水深でも耐えられるダイバーウォッチの秒針に、
カビが生えるくらいの雨だった。

 1999年のある日、いつものようにアレジャンで起居していた私は、
いつものように出勤するために朝食を取っていた。
家の屋根がトタンであるため雨が激しく降ると、
家の中でも会話は不可能となる。
その朝もそうだった。
集落長ラエチュの奥さんが朝食を作ってくれて、
それを知らせに私の部屋をノックした音も聞こえない朝だった。
バチバチバチバチバチバチバチバチバチバチッ。
大粒の雨垂れが、トタンを叩く。
どんなお金持ちの家でも、この時期、雨漏りは欠かせない風物詩であった。
ラエチュの家も例外ではなく、よく雨漏りする。
日ごとに雨漏りの場所は変わるのだが、
トタンを直接釘で柱に打ち付けていて、
その打ち付けた後を接着剤やゴムで処理しないため、
その場所から雨漏りがする。
この朝は運が悪く、私の朝食の上に雨漏りがしていた。
そんな最悪の朝でも、私は仕事に行く。
今日は大事な会議のある日だった。
バルの事務所に向かうために、家の前でペテペテを待つ。
傘は何の役にも立たない。
道は川になっていた。

 ペテペテが来る。
乗り込んで、運転手にバルの中継地ペッカエ(老兵の町;詳しくは老兵編へ。)までと告げる。
ここまでは、いつもの朝と同じ。
ただ、雨が激しく降り、ペテペテのシートが全て水浸しだったのを除けば。
…いやっいつもと違う。
人が乗っていないのだ。
どうしてなのかを運転手に尋ねた。
『ペッカエに行く途中の道が水没したんだ。村1つ飲み込まれたらしい。だから、こんな日は誰も外に出ないんだよ。』と運転手。
ちょっと待て。
アレジャンのような僻地からバルの町に行く道は、2つ。
1つはペッカエを経由していく道。
もう1つは、カエレンゲと言うアレジャンから山一つ越えた麓のある集落を経由する道。
ただ、99年正月から続く大雨で、カエレンゲに続く唯一の橋は、流されてしまって、無い。
ペッカエに続く道までも村1つと共に水没したと、この運転手は言う。
つまり、私は閉じ込められたと言うこと?

 結局、ペテペテの運転手に無理を言って、水没した村の前まで行く。
のどかな田園風景が広がっていたその川べりの村は、
椰子の木が何本か顔を出すだけで、後は大きな川の一部と化していた。

 私が生まれ育った村にも、ちかく九頭竜川という一級河川がある。
幼い頃はよくこの川が氾濫したものだった。
堤防のぎりぎりまで水位が上がり、街に通じる橋が流された事もあった。
ただその時は、堤防が決壊すれば、学校休みかなぁ、などと馬鹿な事を考えていた記憶がある。
それは子供らしい発想で、災害で危害を被ることなく、
災害よりも大人の力がまだ強いと信じていた時の話だ。
今、水没して椰子の木だけが頭を除かせている村を見て、大人である自分の無力を強く感じた。

 力なく、帰宅する。
するとさらに災害が起こっていた。
アレジャンのお隣り、ラエチュの弟が集落長をしているメンロンという集落での出来事だった。
土砂崩れだった。あまりの豪雨で山が崩れたらしい。
もう、驚く気力も無かった。

lonsor tanah


 幸い、雨はその後弱くなり、次の昼には一時的におさまった。
ラエチュ氏がメンロンの土砂崩れをしきりと心配していたので、一緒に見に行く。
山の斜面が大きく崩れていて、道と集落の一部を飲み込んでいた。
被害にあった家は道を挟んで3軒。
家がどこに埋まっているかも解らない。
土砂が家を崖下まで押し流してしまったらしい。
災害現場を見た後、メンロンの集落長に会う。
ラエチュとメンロン集落長は、沈痛な表情で今回の被害を話していた。
現地ブギス語をほとんど解さない私には、話の内容はわからなかったが、
どうもひどい被害らしい事はわかった。
そうだろう。
3軒も家が流されたのだから。
ラエチュが帰ると言ったとき、私は彼に尋ねた。
どれくらい被害があったのかと。
ラエチュは力なく、
『養鶏をやっていたやつの鶏が50羽、土砂に巻き込まれたらしい』と語った。
へ?あれだけの災害だったのに、みんな無事だった?
ラエチュは言った。『あれくらいでは人は死なん。でも鶏50羽は痛手だ』と。

 99年のラニーニャはその後3月まで豪雨を呼び続け、
気が済んだのか、その後嘘のように雨季が明けた。
バルでは主要な橋が流され、私たちのチームリーダの家が1m床上浸水した。
私はダイバーウォッチの秒針にカビが生え、メンロン集落は鶏50羽を失った。
熱帯の雨季の怖さと、ブギス人が予想以上に頑丈に出来ている事を知った。

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そういえば、先日のこと。
保育園で会合あり。
若手農業者クラブの役員もそろっての会合。
そう、体験田んぼのイベントの打ち合わせである。

5月中旬に田植えをしたきり、
田んぼでのイベントが無い。
稲刈りまで、基本的な作業はうちの農園で行うのだが、
園児たちが楽しめるような作業は、ほとんど無いのである。
しかし、稲刈りまで何も無いのは寂しいと保育園から要望があり
何かイベントは出来ないか、と7月頭からなんどか打ち合わせをしていた。

そして保育園関係者からあるアイディアがでた。
それは「虫追い」だった。
全国で昔からおこなわれている行事の一つ。
民間伝承や地域の信仰と結びついて、各地で今でも行われている。
しかし、近代化の過程でこの虫追いは「弊習」とされ、
途絶えた地域も多い。
そして、この辺りでも絶えて久しく、
年寄り連中に聞き取りをおこなっても誰も知らないという状況だった。

県の機関やネットなどで虫追いを調べ、
この日の会合で、どういう虫追いをやっていくかを話し合った。

福井でかつて行われていた虫追い行事は、
夜に、藁で作った松明を持って、田んぼを練り歩く、というものだった。
さすがにそれは園児には無理。
ということで、伝統なんかにこだわらないで、
園児に出来る「虫追い」を皆で考えた。

皆で考えた虫追い祭りは、次の通り。
各クラスでかかしを作ってもらい、
それをもって太鼓や笛などで囃しながら、田んぼを練り歩くというもの。
若手農業者クラブの会長が、虫追い大明神に扮して、
行列を先導し、最後に体験田んぼに
適当な祝詞(本人曰く、ここで笑いを取る)をあげて虫送りをして、
園児たちがかかしを立てて終了の予定。
虫追いの行事や田んぼの生き物(害虫)の解説などもして
父母共々、田んぼへの関心を高めてもらおう、という予定である。

みんなで何かを作り上げていく過程は、本当に楽しい。
僕は特にそういうのがすきなのだ。
当日も楽しくなると良いなぁ。
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今週は、妻が週末まで出張が無い。
そして、今、根セロリの収穫を迎えている。
だので、根セロリを使ったいろんな料理を作ってくれた。
毎日が特別でとても贅沢。


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根セロリのカツ


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根セロリのハンバーグ


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根セロリと福井ポークのソテー
(バルサミコとルバーブジャムのソース)


P7200054.jpg
フェンネルのピクルスとトマトをふんだんに使ったリボンパスタ


どう作ったのかも、ここまでくるとよく解らないが、
とにかく美味かった。
根セロリは冬の方が栽培しやすい、と他人からアドバイスを受けたが
そんなの百も承知。
夏に食べたいから、今、作っている。
そして、食べたい形で妻が料理をしてくれた。
どうりでワインが何本も開くわけだ。
これ以上の幸せを僕は知らない。
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毎日暑い。
こうなってくると、
スベリヒユが圃場に大量に生える。
この辺りでは、“ずべろ”などと呼ばれている草で、
かなり厄介な草の1つ。

どう厄介か、というと、
例がこの写真。
スベリヒユ


近くの農家の圃場だが、
菜っ葉の圃場にスベリヒユが繁茂してしまい、
すっかり菜っ葉が隠れてしまっている。
これじゃ、どっちを栽培しているのかわかりゃしない。

スベリヒユは繁殖力が強く、
小さいうちから花をつけるため、圃場に種が残ることも多い。
さらに厄介なのは、
このスベリヒユ、ひとたび土が乾燥すると、アブラムシがわんさかと群がるのである。
そして、アブラムシの体液で、すす病やかび病を発生させ、
圃場の栽培野菜にも影響がでるのである。
スベリヒユは多肉植物のCAM植物で、
抜いても、体液を駆使してか、必ず花を咲かせ、種を圃場にこぼすのである。

なので、見つければひたすら抜き、
圃場の外へ必ず持ち出さないといけない。
今日は、忙しい中、ひたすらスベリヒユを抜いた。

額に汗しながら、ひたすら除草をしていたら、
以前、知人のフランス料理コックが、
「スベリヒユは食べられるよ」と言った事を思い出した。
フランスではプルピエなどと呼ばれて、サラダに出てくるらしい。
そういえば、山形では山菜として食べられている、と聞いたこともある。
たしかに、多肉植物なので、ぷりぷりとはしている。
雑草だと思えば、なんだかまずそうにも見えていたのだが、
食べられる草、だと思ってみてみると、なんだか美味そうにも見えてくる。

そこで、1つ手にとって、頭から齧って見た。
プリプリ・こりこりとした食感で、美味い。
すこし独特の酸味もあったが、ねばねば・ぬるぬるとした汁が口に広がり
それはそれで美味であった。
意外な発見だった。
これって、オリーブオイルと酢であえたら、意外に美味いかもしれない。
そう思うと、目の前の雑草が、宝の山に見えてくる。
不思議だ。

なので、収穫袋を持ち出し、抜き取ったスベリヒユを大量に袋に入れた。
持って帰ってサラダにするために。

社会的に雑草にカテゴライズされていたため、これまで口にしなかったのだが
食べてみると意外に美味しいものは他にもあるのかもしれない。
野菜と雑草の差なんて、所詮そんなものなのかもしれない。

大量に収穫したスベリヒユは、予冷庫に入れて帰りに持って帰る予定だった。
だが、その後、自家菜園で大量のトマトやパプリカ、万願寺トウガラシ、
ナス、ズッキーニ、サボイキャベツなどが収穫されると、
スベリヒユは、やはり元の雑草に見えてきてしまった。
だので、収穫したスベリヒユは雑草の捨て場に捨てた。
野菜と雑草の差なんて、所詮そんなものかもしれない。
美味しい食べ物が沢山あれば、その辺の草が幾ら食べられるからといって
それを取って食べたりはしないだろう。
スベリヒユが、冬草で、初春に生えてきたなら、
ふきのとうやからし菜、つくし、と並んで、春の味覚となっていたのかもしれない。
美味い果菜類が大量に取れる夏場に繁茂するスベリヒユは、
やはり「ただの雑草」なのであろう。

まぁ、スベリヒユが美味しそうに見えたのは、
作業をしていたハウス内の温度が、46度もあったからかもしれないけど。
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NHKスペシャルを見る。
「インドの衝撃~貧困層を狙え~」である。
巨大企業が、インドの貧困層をマーケットに変えていく、という話なのだが、
これをどう解釈すればいいのか、すこし混乱する。

従属論的に見ていけば、
巨大企業による農民の消費者化であり、
自給できていた存在から、ただ単に消費するだけの存在へと変えていく話でもある。
しかし、番組の事例として出てきたユニリーバの石鹸指導では、
内容的には公衆衛生指導であり、村の生活改善につながっている。

ITCによる農産物取引の事例では、
公設市場を介さないで、ダイレクトに農家と取引をするケースが紹介されていた。
農家はより高く農産物を売り、
ITCはより安く農産物を買うことができる。
さらに、ITCが主催するショッピングモールでの農産物の換金によって、
農産物を売った農民が、その現金を消費できる場所を提供しているという巧妙な商売が
紹介されていた。
このケースで危惧されることは、
農民の農地構造である。
アジアの多くで見られる地主‐小作の土地関係がインドでもあるとしたら、
(僕はインドの農業構造には詳しくない・・・)
ダイレクトでITCと取引できるのは、誰なのであろうか?
番組で紹介されていた「農民」とは、農民のどの層のなのであろうか?
ITCの望む規格と品種は(地主が望む品種と規格)、
小作の望む規格と品種が一致することは無いであろう。
小作は多収で耐病性に優れた品種を望むだろうし
そういったものの多くは、食味が悪かったり加工に適さないことが多いのだ。
電信の発達によって(パソコン・インターネット)、
このシステムを通さないで直接ITCとやり取りを出来るシステムは、
流通の近代化であろうが、農業構造自体が近代化されるわけではないため
マーケットの欲求をすべて小作がかぶるという悲劇が生まれることは
たやすく想像できる。
公設市場の機能として、農産物の質の均一化があるのだろう。
そしてそれは地主にとっても小作にとっても益することはないのだが、
どちらかに負担がかかることでもない。
流通システムの変化によって、地主と小作間の利益に変化が生まれることには
先日読んだ守田志郎も指摘している通りであろう。

巨大企業による消費者化と言う構造的問題も
内容的には生活改善運動とみることも出来る。
また、農業構造(特に土地構造)に注視しないで行われる流通改革は
その企業とそれにアクセスできる農民にとって利益となるであろうが、
零細農家や小作にとっては不利益になることが想像できる。
(このことは放送内では指摘されていないが)
この2点について考えさせられた。
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こんなこともあった。
『異文化理解』。
すばらしい言葉で、言うは簡単だが、
実際の中身には、恐怖と痛みが常にある。



kepala dusun
私と集落長(入村当時)

田谷が死んだら…

ふとしたことから、私が初めてアレジャン集落に入った時のことを思い出した。
どうも私の記憶は、時間配列とは関係なく出来ているらしい。
いつも突発的に思い出す。
今回の話も記憶の中に埋もれてしまわないうちに、書きとどめる事にする。

1998年1月20日。
私は、初めてアレジャン集落に足を踏み入れた。
協力隊による村おこしプロジェクト
(正式名称:バル県地域総合開発実施支援プロジェクト)の一員として赴任したのは、
昨日の事だった。
村の実情をすばやく把握するために、
新米の隊員は1ヶ月間プロジェクトサイト内の村に寝起きしなければならない。
私には、アレジャン集落が選ばれた。
そして、赴任して次の日には、アレジャン集落に投入されていた。

私の上司であるチームリーダーと共に、アレジャン集落に向かう。
ところどころ舗装されている道を揺られながら。山を1つ越える。
まだつかない。
一体どこにおくられるのか?
不安で硬くなる私。
約1時間車を走らせた先に、ようやくアレジャンが見えてきた。
私を受け入れてくれる家は、アレジャン集落の集落長ラエチュ氏の家だった。
大きな家だった。
『柱が100本ある家』と村人からは呼ばれていた。
私たちがその家に着いた時は、ちょうどラエチュ氏は不在だった。
家の人が出てきて、リーダーは簡単な挨拶を済ますと、
『じゃ、田谷君頑張って』と言い残し、そそくさとバルの町に帰っていった。
置き去りにされた気分だった。
その頃は、まだインドネシア語もろくに話せない。
知らない民族語を話す、知らない民族の家。
事前情報で、『ブギス人はもともと海賊として名をはせた民族で…』
とレクチャーを受けた事を思い出す。
みんなの顔が海賊に見え出した。怖くなってきた。

私が寝起きするはずの部屋に通して欲しい、
とりあえず部屋に行きたかったのでそう伝えた。
しかし、集落長の家にいた家人は不思議そうに私を見ているだけだった。
インドネシア語を解さないのか、私の言う事が通じないらしい。
居心地の悪い時間が流れる。
どうしたら良いのだろう?早くも日本の平和な日常が恋しくなった。
結局、その家人は私を30分あまり見つめていて、私もその場にただ力なく座っていた。
その間、会話は無かった。

その恐ろしい沈黙を破ったのは、ラエチュ氏だった。
帰宅したのだった。
ラエチュ氏は、背が高く体格がしっかりしていた。
眉間には、深々としわが刻まれていて、
黒く日焼けした肌は厳しい農作業と彼の人生を物語っていた。
船の上に乗せさえすれば、そのまま海賊の頭領で十分通る。
その彼は、私の前に座り、開口一番にこう聞いてきた。
『おい。お前が死んだら、どうすれば良い?』。
…私は、いますぐ日本に帰ろうと決心した。

ラエチュ氏は、何も答えない私に、さらに質問をしてきた。
『ここでは、墓を作って土葬している。しかし、聞くところによると、お前はイスラムではないらしいな。だとしたら、お前が死んでからどうして良いのか、解らん。死んでからでは遅いので、生きているうちに教えろ』。
なんでそんな事を聞くんだ?
今はじめて、このアレジャンに来て、
これからここで生活…つまりは生きていこうと思っている人間を目の前にして、
お前が死んだらどうすれば良いか、なんて聞けるのだ?
日本からお土産だって持ってきた。
自分の日本での生活も写真にして持ってきた。
当然、この場はお互いの習慣の違いや生活の違いなどで盛り上がるはずなのに。
それが交流と言うものではないのか?
しかし、私とラエチュ氏は、埋葬の習慣の違いから交流をはじめていた。
『答えろ。お前が死んだらどうして欲しい?』彼は続けた。
仕方なく私は、
『火葬してください』
とだけ、力なく答えた。
ラエチュ氏は、火葬という言葉にしきりに驚いていたが、
『火葬か…。よし分かった。お前が死んだら火葬してやろう』と答えると、
満足したように家の奥へと消えていった。
その後、私はようやく部屋に通された。
明日ここを出ようと決心していた。

結局、この集落、この家に3年住んでしまった。
居心地が良かったわけでもない。
楽しかったわけでもない。
飯が美味かったわけでもない。
通勤のことを考えれば、片道1時間は辛かった。
しかも、楽な道ではない。
ここだったら火葬してもらえる、そんな安心感があったわけではない。
しかし、毎日この家に戻ってきていた。
愛しのアレジャン集落は、これからも書き続けるだろう。
私が毎日アレジャンに帰っていった答えが見つかるまでは。

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老兵編

 以前、財宝編で戦争について少し触れた。
読者諸君は覚えているだろうか?
アレジャンのような僻地であっても戦争という傷を抱えていると言う話だった。
その話を書いている途中に、私の頭の中で訴えかける人物がいた。
それはひとりの『老兵』である。
『わしを書け!』としつこくささやくので、今回書くことにする。
『老兵』はかつて、大東亜戦争において日本軍に強制的に軍役につかされた人物で、
私に会うたびに最敬礼をすることが癖だった。
ちなみに、今回はアレジャン集落から少し遠出して、この話を語りたい。
場所は、アレジャン集落から20km離れた小さな町ペッカエでの出来事である。

 『老兵』との出会いは突然だった。
それは、通勤のために通過するペッカエという小さな町だった。
この日も暑く乾いた日だった。
スラウェシの足であるペテペテと言うミニバスに乗り、出発を待っていた。
いつまでたっても出発しないペテペテに少々腹立たしくなりながら、
何気に外を覗くと、その老人がいた。
彼は、しゃんと背筋を伸ばし、最敬礼をしながら、遠巻きに私を見ていた。
いきなりの敬礼におどろき茫然としている私に向かって、
彼は『ありがと』と、やたら『あ』を強く発音する日本語を発した。
インドネシアでは、日本軍の占領時代があったために、
お年寄りで日本語を片言ながら話す人は、そう珍しくない。
彼もその1人だった。
彼は私が乗り込んでいるペテペテに近づいてきて、窓越しに私に話し掛けてきた。
『久しぶりに日本人をみた。おまえさんの階級はなんだい?』と老人。
どうやら老人は、私を日本軍人と間違えているようだった。
おじいさん、僕は軍人ではないよ、この国に技術協力に来ているんだ、と説明する。
すると老人は、私の話が終らないうちに、『タケダ隊長は元気にしてるかね?』と尋ねてきた。
タケダ隊長?誰だそれ?だから、おじいさん、僕は軍人ではなくて…。
『タケダ隊長はいい隊長だった』人の話を聞かず、遠くを見る老人。
早くペテペテ出発しないだろうかと、誰もいない運転席を恨めしく見ている私に、老人は話し続けた。
『わしは、戦争の時日本軍の手伝いをしていた。その時わしの上司だったのが、タケダ隊長だった。日本軍人は、なにかあるとすぐにわしらを殴り倒したが、タケダ隊長は、そうではなかった』。
少々興味深い話しだ。
するとタケダ隊長は現地人には手を出さなかったのかい?
老人はまだ遠くを見ている。『いや、飯をくれなかった』ぼそりと言った。
何が言いたいのか解らず、老人を見つめる私。
老人は話を続けた。
『でも、タケダ隊長にもいいところがあった。日本軍はならず者が多くて、多くの若い女性が日本軍にひどい事をされたと聞く。しかしタケダ隊長の隊はそんな事は無かった』。
従軍慰安婦の話だ。日本では、韓国や中国のケースが注目を浴びているが、
インドネシアの片田舎でも、その様な事があったのだった。
飯はくれなかったみたいだが、タケダ隊長を少し見直した。
タケダさんはいい人だったんですね、と私。
老人は、『いや、タケダ隊長は隊員には厳しく、女性にひどい事をさせなかったが、タケダ隊長は毎晩のように女性を抱いていたよ。なんせわしがその女性を準備していたのだから』と、やはり遠くを見ながらつぶやいた。
老人の目は澄み切っていたが、その目の奥には当時の凄惨な日々が焼きついているのだろう。
私たち、日本人が忘れてはいけない過去をこの老兵が教えてくれた。
老人は遠くを見ながら日本語で歌い始めた。
『セレベスの~、山を越えて~…』、それはスラウェシ島にちなんだ軍歌だった。
スラウェシ島は、かつてセレベス島と呼ばれていた。
ダイビングで有名な北部の街マナドは、当時連合艦隊に足止めを食らわすための要塞があり、
日本軍の重要な戦略拠点だった。
多数の日本軍がおり、きっと老人もそれらの日本軍人からその歌を教わったのだろう。
歌が終わり、不意に老人は私を直視し、こう言った。
『しかし、日本は残念だったね。戦争に負けてしまったのだから。あと少し持ちこたえたなら、勝っていただろうに』。
いや、あの戦争はどう転んでも負けでしたよ、と話す私に老人は、
『いや、それは解らん。わしらはここから70km先のパレパレと言う港町で軍艦を作っていたんじゃ。途方も無く大きな軍艦だった。しかし、完成する前に日本が負けてしまったんだ。あれが完成していたら負けなかっただろう』。
そんな話は聞いたこと無いぞ、とにわかに興奮を覚える。歴史に埋もれていた新事実なのだろうか?おじいさん、その軍艦の話、詳しく聞かせてください。老人は意気込んで、話してくれた。『そりゃ~大きな軍艦さ。あんなに大きな軍艦は見た事無いよ。なんて言ったって、数え切れないほどの木材を組み込んで作っていたのだから。ここら辺にある漁船なんかよりも…えっ?鉄?使ってないよ、そんなもん。でもとにかく大きな船だったさ。…』。
長々と続く老人の話はそれ以上私の耳には届かなかった。

 ペテペテの運転手が出発を告げる。
老兵は、すこしペテペテから離れ、口早に『タケダ隊長に会ったら、約束を守れと言っておいてくれ。日本の女性を紹介してくれる約束だったんだから』と言った。
70を優に超えている老兵は、満面の笑顔でそう言った。ペテペテが出る。
老兵は、見えなくなるまで、最敬礼をしていた。

 その後、老兵とはペッカエに行く度に良く会ったのだが、同じ話以外はしなかった。
周りのインドネシア人は『彼は少々ボケているから』と言っていた。
それでも、未だにタケダ隊長との約束を待っている。タケダさん。
もし、これを読んでいたら、彼との約束を守ってやってください。
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今日もまた業者来園。
酒屋がやっているスーパーの担当者。
あちこちのスーパーで、農家の直売コーナーが出来る中、
このスーパーでも、直売コーナーを作る事になったらしい。
そこで、うちの野菜も分けてほしいとのことだった。
直売所や直売コーナーが、本当に流行っているのを実感する。

商談は20分で成立。
このスーパーにどれくらい販売能力があるのか、
まだまだ解らないので、出荷量の話は販売実績をみながら、
ということになった。

今日来た担当者は、ボジョレーヌーボーの販売も毎年企画している。
僕があまりにも多くの品目を栽培している話を聞いて、
「田谷さん、ボジョレーと合う野菜って無いですかね?」
とたずねられた。
スーパーの食品と酒を合わせて売ろうという考えらしい。
ボジョレーヌーボーと合う野菜は解らないが、
今、栽培しているフルーツホオズキは、白のスパークリングワインと
(中でもドイツのフォンブール社のワイン)
至極合うという話で盛り上がる。
まぁ、ボジョレーヌーボーの頃にはフルーツホオズキは無いのだけど。

時間があれば、ボジョレーヌーボーに合う野菜を考えてみても面白いかもしれない。
ボジョレー地方の特産野菜を調べて、福井で解禁日あたりに作れる野菜を
チョイスして栽培しても面白いかもしれない。
なんせ、「食べることから考える」が
今の僕のキーワードなのだから。
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守田 志郎 著 『米の百年』.1966年.御茶の水書房.

守田志郎の「農業は農業である」以前の書。
「農業は農業である」以降は、守田は思索的な書を書き続けるのであるが、それ以前に、学術的な研究本を数冊書いている。本書はその1冊と言っても良いだろう。
自由で、それでいてブレが無く、農民のすぐそばで思索を続けた守田の思想的基礎が、ここに読み取れることが出来る。

本書は、江戸後期から明治大正昭和、そして戦後までの米に関する書である。農業の技術形態だけでなく、農業構造や農業政策の変遷、そして流通、消費地、銘柄、品種等、ありとあらゆる米に関することを、マルクス主義の視点から考察している。本書の大半は、明治から戦前までの、大名による領有を否定した地租改正を行いながらも、地主による土地支配を公認した歪みある社会制度の中で、農業の近代化を推し進めた悲劇を考察している。

各時代の農業構造と米の価値の変化を、それに関わる国家、地主、小作、米商人といったアクター間の関係を分析することで、米の全体像を浮かび上がらせている。小売や商人の価値感、地主の利益、国家政策と戦争などが複雑に絡み合って、実際の生産者である零細自作農や小作たちは翻弄され続ける。

米の品種選びでは、自作農にとっては、作りやすいこと、多収穫であること、味がよいことなどであるが、米商人にとっては、消費地段階での流通の中で、それまでは玄米で買った米の容積にたいして、どれだけの容積の白米がとれるかが基準となっていたのである。明治30年以降には、流通の近代化に伴い(地方銀行による手形決済・鉄道網による陸路輸送への転換・電信網発達による情報取引関係の敏速化)、銘柄取引が確立し、米商と地主の利益に不一致が生じ始める。市場の発展による米銘柄の確立の中で、地主による銘柄米への働きかけも、小作の価値観としては、小作料を米で取られる制度の中で、市場での価格が高い安いは関係なく、耐病・耐肥のつくりやすくしかも多収の品種を選ぶ傾向があった。さらに消費者にとっては、値段と食味もさることながら、炊きぶえする米が好まれていた。市場と流通だけが近代化していく中で、国家制度によって支えられた前近代的な生産体系(地主による支配を公認している点)は、農業の正常な近代化を著しく妨げる結果となったことを守田は指摘している。これらのアクター間での価値観の差異が、大正以降に盛んになる小作闘争へとつながっていく。

戦争によって、国家によって支えられた地主の権力は崩壊し、小作闘争も戦争期間中に潰されてしまうのだが、敗戦を契機に、農地解放が行われるのである。流通と市場に対し、自作農家がようやく直接前面に立てるようになるのである。本書では、戦後の米事情の中で、稲作の機械化への批判を繰り返している。それらの批判の多くは、現在ではあまり通用しないものばかりなのであるが、それは逆に、その頃の批判が知らず知らずのうちに、すでに現代では共有された価値そのものとなっているのかもしれない。ただし、機械化が進む中で、それに合わせた価値の平準化が進み、小農の離農が進んだ、という批判は、ある程度当てはまるだろうが、それでもなお、第2種兼業農家として農外セクターでの収入を農業セクターに投資しながらも機械化を続けてきた大多数の農家個人が持つ農へ価値については、守田の指摘では、捉えることができない。戦後の機械化と農家の兼業化とその価値観を考えるのであれば、暉峻衆三の「日本の農業150年」(有斐閣)が適当であろう。

本書の真価は、農業構造の歪みが是正されていない場合、農業の近代化政策は、零細自作農・小作農の農の営みに歪みを生み出すという指摘である。もはや日本的問題ではないのかもしれない。しかし、食糧危機を煽るこの時代に、海外への農業援助の重要性を声高に唱える人々がおり、それらの多くが農業の生産性向上による近代化を推し進めようという論調なのである。そして途上国と呼ばれる多くの国では、農業構造は国家に支持され、歪められた形で存在しているのである。かつて緑の革命によって、多くの農民がマージナルに追いやられた経験も、本書はそれ以前に書かれていたので、歴史に学ぶことさえできれば、あるいは回避できた悲劇だったのかもしれない。第2の緑の革命的な悲劇を生まないためにも、ただ単純な農業生産性向上を目指すべきではないだろう。多くの人に、本書と守田の眼差しに学んで欲しいと愚考する。
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業者が遊びに来る。
フルーツホオズキ(食用ホオズキ)を買いたい、
と言ってくれている業者だ。
昨年から手を出したフルーツホオズキ栽培なのだが、
なんとか量はとれるようになったが、
売り先がなかなか無いので困っていた。
まさに「渡りに船」とはこのことだろう。

今年はフルーツホオズキだけで4種類栽培した。
去年は1種類だけの栽培で、出荷期間が短かったことや
色や形、さらには糖度などの点で、業者から指摘を受けた。
なので、今年は、色や形、糖度とそれぞれに特徴を持つ3つの品種を探し出し、
昨年栽培した1種を加えて、4種類栽培している。
今は、糖度に特化した品種が出荷最盛期。
遊びに来た業者も、そのホオズキが見たくてやってきた。
ただ、糖度に特化した品種は、色が悪く、形も小さいのが難点、と
その業者からは指摘を受ける。
これは来年の品種選びの課題だろう。

そういえば、今年からナスもすこし力を入れている。
もともと米ナスや大長ナスなども栽培しているのだが
ある業者から言われて、今年からは、福井(鯖江)の伝統野菜である
吉川ナスを栽培している。
煮込むと果肉がジューシーで美味いとのこと。
ただ、果肉のなめらかさから言えば、西洋ナスも美味いだろうと思い、
何十種類もある西洋ナスの中から1種を選び、
今年から試験栽培している。
あちこちで試食してもらっているのだが、
なかなか良い反響なのだ。
来年は、これをすこし多めに栽培しようかと考えている。

最近よく思うのだが、
要は品種選びが肝心なのであろう。
米ナスや長ナスだって、何種類も品種があり、
その中から売り先が求める特性を掴んで
品種選びを行うのである。
スーパーに並ぶときは、
消費者が良く知っている「米ナス」などの品目カテゴリーに
おさまるのであろうが、
同じ品目カテゴリーであっても、品種は全然違っていたりするのだ。

農家の技能の1つには、品種選びの上手下手が入るだろう。
星の数ほどある品種の特性を見極め、
それと買い手が求める特性に合うものを選び抜ける力
(買い手が求める特性を敏感に感じ取れる力が前提条件だが)。

僕にはまだ無いが、いつかは、そういう技能を身につけ
自在に品種選びが出来るような農民になりたい。
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忙しい。
とにかく忙しい。
朝から晩まで、無駄なく動いているのだが、
やろうと思った仕事が片付かない。

どうしてここまで忙しくなったのか?
主な理由としては、ベビーリーフの栽培と害虫防除が本格的になってきたからであろう。
だが、春に仕込んだ野菜の収穫が、ここにきて同時に始まってしまった、
ということもあろう。
フルーツホオズキとオクラ、吉川ナス、西洋ナスなどなど。
さらに、保育園での増改築財務役員として、
週に2回は保育園に呼び出されるということもある。
8月に保育園と若手農業者クラブとで共催している体験田んぼの
イベントを企画しているのだが、その話し合いにも行かねばならない。
4月から妻が週に2~3日出張することになったので、
その間の子育てと家事があるため、どうしても妻がいる間に農作業を詰めて
やりくりをしなければならない。
それとインドネシア人研修生との議論。
先月留学生を預かってから続いているのだが、
こちらから日本の農業構造の変遷をペーパーで渡したきりで
それについての議論が、まだ出来ていない。
先月の報告書の議論も出来ていないし。
来客もここのところ増えてきた気がする。
などなど・・・。

ちょっと、なんでもかんでも盛りだくさんにしすぎたかなぁ。
そういえば、TVに出ませんか?って言われて
二つ返事で承諾したのだけど、また忙しさを増やしただけかもしれない。
ある知り合いから、
「田谷さんは、カツオやマグロみたいな回遊魚ですね」と言われた。
動いていないと死んじゃう魚。
死ぬまで動き続ける魚。
それが、僕だという。
うーん・・・。
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やはり今年も満杯になってしまった。
自家菜園の収穫物で冷蔵庫が満杯なのだ。
とても食べきれない。

今年は、インドネシア人の研修生Hくんと大学の後輩であるIさんにも
自家菜園の収穫物を積極的に分けていたのだが、
どちらの冷蔵庫も、すでに満杯状態。
二人とも、すでにギブアップ。

長ナス、米ナス、吉川ナス、西洋白ナス、王様ナス(知り合いのシェフがそう読んでいた西洋ナス)、万願寺とうがらし、大甘長トウガラシ、パプリカ、ズッキーニ、ニガウリ、ブロッコリ、トマト5種、フェンネル、キュウリ、ピーマン、シシトウ、食用ホウズキ4種、ルバーブなどなど。

とうもろこし、カボチャ3種、枝豆(茶豆・黒豆)、エシャロット、根セロリなどなどは
もう少しで収穫。

肉や魚は自給が難しいのだが
(それでも漁業権はあるので、川魚であれば何とかなるのだが)
野菜の自給は、こんなにも簡単なのだ。
一年通して、この状況を続けるのは、すこし技術がいるのだが、
この時期だけ見れば、とても簡単なのだ。

溢れてくる野菜を目の当たりにすると、
なんとか保存しようと知恵を働かせる。
先週で終わりになったフェンネルで、最後の最後にピクルスを作った。
少々厚めに切ってしまったので、すこし硬くもあるが、
「それは来年の課題だなぁ」と僕が言うと、
妻は、「来年は覚えていないんじゃない?」と茶化す。

うーん、確かに。
いや、しかし、不思議なことにこういうことは忘れないのだ。
物覚えは良い方ではないのだが
(小学校の九九を覚えるのは、クラスで一番最後だった・・・余談)
自分なりに会得した何十種類もの野菜の栽培ポイントや調理法は、
毎年増え続ける作目にも関わらず、
その時その時になると思い出すのである。

渡植彦太郎は、知識を技術知と技能知に分けて説明したが、
まさに、僕の場合は技能知なのだろう。
実践を繰り返す中で身につく知識。
手や体が記憶する知識ともいえるかもしれない。
技術知は、ある事象を科学技術的に細分化されて検証された知識であり
僕はこういう知識を頭に詰め込むのは、どちらかというと苦手なのだ。

混乱無く自家菜園を作りまわす知識は、
僕の中で最近になってようやく、技術知から技能知へと変わりつつある。
『知っている』ことの中身が、ちょっと違うことのようにも思えるのだが、
それらは、全然同じではないのだ。
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昨日のつづき・・・


『異国の紙幣』 下

彼には借金だけが残った。
しかし幸運なことに彼は、全財産は失っていない。
また、彼は暗く落ち込むよりも、行動を起こす事を愛する。
換金性の高い落花生の種を購入し、持っている土地一面に播いた。
天もそうそう1人に不幸を与えやしない。
栽培は順調に行き、少ない土地ながらもかなりの収量を得た。
落花生の相場は、収穫が早ければ早いほど高い。
アレジャン集落の中で彼は、最も早い時期に収穫をした。
彼は成功した。
大丈夫、こうやって稼いでいけば、借金は返せるさ。
そういう明るい兆しが、見え出していた。
さぁ、肝心なのはこれからだ。
どこまで高く売れるかだ。
アレジャン集落に来ている落花生商人は何人もいる。
商人によって買値が異なる。
サハルディンはいろいろな商人と商談をした。
慣れない仕事で根気も要ったが、
その甲斐あってか今までに聞いたことも無い高値で買ってくれるという商人に出会った。
たまたまアレジャンに寄った商人だった。
しかし、彼が支払いの段になったときに、

『残念な事に、今はルピアのもちあわせがない。しかし、キミは幸運だ。私は外国の紙幣を持っている。これでよければ、これで払いたいのだが。もし、この外国紙幣が気に入らないのなら、あとでルピアを持ってくるよ。問題は無い。でも、ルピアで払うなら、もう少し安くしか買えないなぁ』

と言った。
要するに、どこの外国かもわからない紙幣で、
彼の努力の結晶落花生を買おうと言うのだ。
ルピアでは安くしか買えないと言う。
サハルディンは迷った。しかし、少しでも高く売りたい。
彼は、こうして南アフリカの紙幣を手に入れ、落花生の収穫物は全部その商人に売り払った。
そういうことがあってから、何ヵ月後かにサハルディンは私を訪ねてきた。
南アフリカのお札を持って。
彼は
『田谷。このお金はどこの国のものなんだ?どこで換金できる?』、
そう唐突に聞いてきた。
私には何のことだかわからない。
説明を求めた。
彼は、今までのいきさつと商人から得たそのお金をバルの町で換金しようとしたが
出来なかったことを言葉少なく、語ってくれた。
手渡されたその紙幣は、手垢で汚れふちがちぎれていた。
多分この数ヶ月、何度となくこの紙幣を眺め、
はじめの内はこのお札が如何に大金になるかを夢見、
そして今は見るたびに考えたくない絶望を想像していたのではないだろうか。
彼はこう言った。
『きっと、バルみたいな小さな町では、このお札の良さがわからないのだと思う。だから換金できないんだ。田谷がジャカルタ(インドネシアの首都)に行く機会があれば、このお札を換金してきてくれ。ジャカルタなら外国人も多いだろうから、きっと換金できる』。

なぜ、彼は南アフリカのお金で落花生を売ってしまったのか。
これは、インドネシアの不況とアレジャンの辺境性が絡んでいる。
ルピア大暴落の時、テレビやラジオでは、
米ドルと比較した現在のルピアの相場を連呼していた。
それまで、自国のお金に不動の価値があると信じていた村人には、
暴落といわれてもピンと来ない。
しかし、何度となく聞く相場のニュースに、
『そうか、今1ドル何ルピアなんだ』とぼんやりと想像するに至る。
こうして彼らは米ドルという単語を知る。
その認識の多くは、『米ドルは高い。不動のもので、ルピアより良い』といったものだった。
村に2台しかないテレビから得られる情報なんて、完全なものではない。
そんな折に現れた外国の紙幣、南アフリカのお札。
サハルディンは無条件にルピアより高くて良いものだと思ってしまったのだった。
無理も無かった。

機会を得て、ジャカルタに行く。
もちろん、南アフリカのお札も持っていった。
私は不安だった。このお札にどれくらいの価値があるのか分からないが、
はたして換金できるだろうかと。
しかし、1人の青年の夢がこれにはかかっている。
きっと換金してみせる。
早速銀行に直行した。
カウンターに並びながら、両替の順番を待つ。
カウンターの後ろにある看板には、その日のレートが乗っている。
相変わらず低迷したままのルピアが目に付く。
ドル、円、マルク、バーツ、ドン、元、ユーロ、各国の通貨レートが記載されていた。
ずーっと下まで見ていくと…
!あった!南アフリカ!なんだ、あるじゃないか。
サハルディン、待ってろ!今すぐ換金するぞ。
両替の順番が来る。
意気揚揚とカウンターに向かう私。
すこし手垢で汚れているが、サハルディンの努力の結晶であるお札をだす。
換金してください。
店員は少し苦笑気味にそのお札を眺め、
『これ換金できません』と冷たく言った。

それから間もなく、サハルディンは結婚した。
婿養子のような形で、アレジャンから一山超えた向こうのソッペン県にある集落に、行ってしまった。
その結婚の多くの理由に、借金があったと聞いている。
そして、私の手元に南アフリカの紙幣だけが残った。
ジャカルタから帰ってきて、彼に換金できなかった事を伝えると、彼は、
『…そうか…。えっ?紙幣?いや、もうその紙幣は要らない』
とため息をついた。

二度とこのような青年を出してはいけない。
この青年だけではない。
アレジャンはいつもだまされる側にまわっている。
きちんとした情報が少なかったり、たとえ情報がしっかりしていても、
受け手が理解できない事が多いからだ。
この様な事を少しでも無くすために、私がここにいるのだ。
そう自覚し、農業指導の活動を本格的に展開した。
しかしその頃には、サハルディンはもうこの村にはいなかった。

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この悲しいエピソードが、僕の原動力となっていた。
その紙幣は今でも大切にしまってある。
協力隊の時や留学時にどうしても行き詰ってしまった時に
よくその紙幣を眺めて、改めて自分の出発点を確認することも
たびたびあった。
今、研修生を受け入れているのも、やはり原点はここなのかもしれない。


uang afrika selatan

南アフリカの紙幣

『異国の紙幣』上
 
ここに一枚のお札がある。
手垢でぼろぼろになった、南アフリカの紙幣だ。
ある青年はこの紙幣を命のように大切に持っていた。
今回はこの紙幣にまつわる不幸な青年の話をしよう。

1998年の3月。
アジアの経済危機が猛威をふるい、
インドネシアの大手銀行が軒並み倒産した。
ルピア(インドネシアの通貨)は大暴落し、失業率は天井知らずの上がりっぱなしだった。
物価も上昇した。スーパーの表示等が目まぐるしく変わる。
この経済危機は、国民に銀行離れを引き起こし、『たんす貯金』を流行させるにいたる。
資金の少ない我らの集落アレジャンでも、
『どこどこの銀行が危ないらしい』と、
預金など無くうし銀行以外の銀行に足を踏み入れた事の無い親父たちでも
騒いでいるくらいであった。
空前絶後の大不況。
ある者は、金を買い込んだ。
ある者は、銀行から預金を下ろし家のたんすにしまいこんだ。
あるアレジャンの者は、うしを買い足し、うし銀行に預けた。
皆、資産をどう管理すればいいのか、必死だった。

そんな時、南スラウェシ州(アレジャンのある州:州都はマカッサル)で、
けったいな金融商品が登場した。名前はKOSPIN(コスピン)である。
その内容は思いっきり眉唾もので、
3ヶ月たつと掛け金が1.5倍になり、6ヶ月たつと掛け金が3倍近くになるというものだった。
私の記憶が確かなら、1年たてば掛け金が10倍になるという。
この大不況下のインドネシアにあって、
金利のべらぼうに高い定期預金のような金融商品が出てきたのである。
さらにこの商品が眉唾なのは、『お友達紹介』があるというところだ。
何人かは忘れたが、掛け金を出した当事者がお友達をコスピンに紹介して、
お友達もこの金融商品を買うと得点がつくという代物。
このお友達紹介は、殆ど義務に近かったと聞く。
こういうものを、日本では『ねずみ講』や『闇銀行』などと言う。
しかしこの不況時に、ねずみ講などを知らない愛すべきブギス人たちは、
ほとんど狂乱した様相で、コスピンに参加していった。
それはまるで、ハーメルンの笛に酔いしれて海におぼれていくねずみのようだった。
そして、それから半年もしないうちに、当然のことなのだが、コスピンは弾けた。
800億ルピアの被害だった。
コスピンの主催者は、1人は逃げ、1人は捕まったが刑務所の中で姿を消した。
しかし、800億ルピアは、1ルピアたりとも被害者に戻る事は無かった。

何故こうもみんな危ないコスピンにはまっていったかは、また別の項を用意しよう。
ここでは、南アフリカの紙幣にまつわる青年に話の焦点をあてたい。

さて、800億ルピアの被害は、あろうことかアレジャン集落の人間まで巻き込んでいたのだった。
それも1人や2人ではない。
掛け金の大小はあるが十数人が被害を受けていた。
ただでさえ、お金が無い集落なのに…。
さらに驚くべき事は、その1人はなんと1000万ルピアも被害にあっていたということだった。
その青年の名は、サハルディン。
温厚で冗談ばかり言っていて、音痴だったが歌が好きだった明るい青年。
家は決して裕福ではない。むしろ貧しい。
農業を営んでいるが土地は広くなく、日陰になりがちの土地が多いせいか、
毎年の収量もぱっとしない。
自作の収穫物では食べていけないので、
アレジャン集落で裕福の家の小作をやって、食いつないでいる。
母と弟の3人暮らし。父は前年に他界している。
相続の関係で叔父たちに土地を取られてしまったという、
全くスタンダードな(どこにでもいる)アレジャンの青年だった。

父が死んで、幾ばくも無い土地を相続し、
インドネシアが不況になり、コスピンが登場したとき、青年は考えた。
『これで俺もお金持ちになれる』と。
それからの青年の行動は鬼神にまさるものがある。
親戚を回り、知人を訪ね、時には家財の一部を売るなどして、大金を作った。
1000万ルピア。
この当時の公務員の初任給が30万ルピアくらいだった事と照らしてみても、
いかに大金だったかが解ってもらえよう。
そして、サハルディンはコスピンに全額を預けた。
1年満期のコースを選んだ。
10倍になるはずだった。
小作から抜け出せるはずだった。
相続でもめた叔父たちを見返せるはずだった。

しかし、コスピンは弾けた。

つづく
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野菜を売る。
娘が通う保育園で。
目的は、園舎の増改築資金のため。

7月に入り、昨年から続いている保育園の園舎増改築運動の最後の山を迎えた。
現在750万円集めた。
残り、250万円。
それを、7月から9月までのキャンペーンで集めようというもの。
いろいろと不満や問題が表面化してきてはいるが、
それでもなんとかここまでお金を集めた。
残り250万円の山を登りきれば、1年間務めた増改築の財務役員とも
おさらばなのだ。
人から憎まれる・疎まれる役は、ほんとうにしんどい。
早く終わらせたい。

さて、今回のキャンペーン。
やはり今回もクラスごとに目標額が割り振られ、財務の役員である僕が
クラスの集金に頭を悩ますこととなった。
9月末までに30万円。それが目標額。
寄付と募金が中心となるのだが、
それだけじゃ、つまらないし、集まるわけも無い。
そこで、微々たるものなのだが、野菜の販売を企画した。
僕の野菜をただで提供は出来ないが、市場出荷よりもすこし安めならば
提供してもかまわない。
直売なので、一袋100円均一で販売しても、30円から40円の利益はでるのである。
買う方も新鮮な野菜が安く手に入るので、
売る方も買う方も、みんなが得をするwin-winの関係というわけだ。
何かをするのなら、必ずこのwin-winの関係(誰も損をしない)になるように努力しなきゃいけない。
それが、僕がかつてインドネシアの農村で学んだ最も大切なことの1つでもある。

販売は、夕方、クラスの父母で玄関立ちをして売ってもらった。
水菜やモロヘイヤ、つるむらさき、ベビーリーフ、ワサビ菜などなどを
約60袋完売する。
儲けにしたら、本当に少ない金額なのだが、毎週やればそれなりのお金になる。
僕も6時ごろから30分ほど、店番をする。
実は、今回の野菜販売、僕にとっても何か実のあるものにしたかったので、
兼ねてより考えていた、ベビーリーフの包装フィルムバージョンで販売を試みた。
いつもは、高価なパックでの販売なのだが、
規格を変えて、安価なフィルム(袋)にかえて販売してみた。
リサイクルやエコバック運動が盛んなご時勢でもあるので、
高価で無駄が多く、ゴミとしてもかさばるパック形式から
フィルム形式に販売をシフトしたいと考えていた。
今回、保育園のお母さん相手に試して感想を聞いてみたところ、
概ね、良い反応だった。
内容量が減ったように見えるという欠点を上手く克服できれば
フィルム形式の販売の方が、コストも下げられるので、良いかもしれない。
来週も野菜販売はするので、それに向けて、包装形態をいろいろと変えて
試してみることとしよう。

園舎増改築の財務で始めた取り組みなのだが、
僕にとっては消費者から意見を聞けるまたとないチャンス。
いろいろ試して、父母から話が聞ければ、この活動は僕にとってもwin-winの関係なのだ。

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いろいろなリアリティの中で過ごしていた事が、
改めて思い知らされるエピソード。
真実が何かを探求し、それを押し付けるよりも
ある事象を多くの人が多感に認知しあうのが、
この世の中だ、ということが、なんとなく気がついてきたエピソード。
異文化で過ごすことはすばらしい。
が、異文化で過ごすことは、痛くてつらい。


財宝編

『田谷!お前いい加減にしろよ!』。
その男は突然怒り出した。
『お前の魂胆はわかっているんだ!さっさと白状しろ!』。
それはある休日の昼下がり。
私は家で(アレジャン集落長の家)のんびりとコーヒーを飲んでいる時だった。

その日は、農閑期の休日で、村人たちものんびりと昼寝や賭けドミノを楽しんでいた。
私は普段、休日はアレジャン集落から120㎞ほど離れた都市(マカッサル)で過ごすことにしている。
自由にお酒を飲むためだが、この日は気分が乗らずアレジャンで休日を過ごしていた。
と、そんな日のけだるい午後、1人の若者がアレジャン集落長のラエチュ氏を訪ねてきた。
名前は忘れてしまったが、アレジャン集落の人間ではない。
アレジャン集落の北西にある山を越えた麓に、バンガバンガエという名の集落がある。
アレジャンと同じような寂れた農村だ。
その若者は、そのバンガバンガエ集落長の息子だ、と名乗っていた。
ラエチュ氏に用事とのことで、コーヒーを飲みながら読書をしていた私の横で、
ラエチュ氏とその若者はなにやら話しこんでいたが、
現地語(ブギス語)を解さない私は、内容もわからないし興味も無かった。
ここまでは日常のなんてことないひとコマだった。

ラエチュ氏との話にひと段落したようで、ラエチュ氏は昼寝のために、家に入っていった。
が、その若者は帰ろうとしない。私をじーっと見ている。
なんだか不気味だった。
何か用なのか、と尋ねる私。
すると彼は
『日本人が珍しいから見ていた』
とそっけない答え。
そして、なおも私を凝視している。
凝視されるのは、あまり気持ちが良いものではない、やめてくれないか、
と伝えると、彼は自分のことを話し始めた。
『俺は、マカッサルにある教育大学に通っている大学生だ。だから、何でも知っている。かつてこの地を制圧した日本軍についてもだ。父や祖父からも聞いたし、大学でも勉強した。どうだ』
と不敵な笑みを見せる。
そうか、それは良かった、二度と不幸な戦争を起こさないためにもしっかり勉強してくれ、と私。
期待した答えを得られなかったのか、彼は仏頂面で語りだす。
『日本軍は本当にひどい事をした。俺たちから財宝を奪い取っていった。』
今から50年以上昔にこの農村に財宝があったかどうかは、甚だ疑問ではあるが、
日本軍が財宝を奪い取ったという言い伝えがあるという事をここかしこで聞いている。
真意は別として、事実当時の日本軍はインドネシアに対しいろいろな形で干渉している。
まことに申し訳ない、と謝る私。
それを聞いて、彼は
『それなら、いますぐ財宝を返せ』
と言葉静かに、しかし凄みのある低い声で言った。
財宝を?返せ?なんだか話が飲み込めない。
日本軍が奪っていった財宝は、私は良くわからないから、返せといっても…と言葉に詰まった。
当然だ。私は当時そこにいたわけでもないし、生まれてもいない。
血縁者がその地にいた事実も無い。
第2次大戦で、日本軍が行なった悪行ひとつひとつを正確に調べたわけでもない。
大まかに日本軍がおこなった事実を知っているのみである。
彼は、私の答えにいらいらしている様子だった。
しきりと貧乏ゆすりをし、髪をかき上げている。
『お前は政府が送った人間なんだろ!』。
語尾が強まる彼。協力隊事業は国の政策の一つなので、
日本政府が送ったといっても間違いではない。
そうだ、と答える。
しかし、誤解を避けたいため、
協力隊について、そして自分が農業の指導でここにきていることを説明した。
すると、私の言葉半ばで、彼は立ち上がった。
『田谷!お前いい加減にしろよ!お前の魂胆はわかっているんだ!さっさと白状しろ!』。
彼の目には明らかに怒りが読み取れる。
『さっさと財宝の位置を示した地図を出せ!日本軍は敗戦の時、大慌てで逃げたのは知っているんだ!財宝をここの山のどこかに隠したのも知っている!お前は政府からその財宝を見つけて来いと命令されて来ているんだろ!』。
その大声を聞いて、近くで賭けドミノをしていた、私の大親友サカルディン(アイス好き)が駆けつけてくれる。
私と彼との間に入り、なんとか彼をなだめようとしてくれた。
すると彼は少し落ち着きを見せ、
『わかった、わかった。俺も乱暴は好まない。ここは話し合いで行こう』という。
サカルディンは、私と一緒に農業指導の仕事をしている。
そこで、サカルディンからその若者に、私の活動を説明してもらい、
彼が考えているような事(財宝探し)は全く無いと説明した。
彼は一通り私の活動、そして世界中で活躍している協力隊の話に耳を傾けてくれた。
彼は大きくうなずき、
『俺も大学まで進学していて、馬鹿じゃない。田谷の立場は良く解る。それじゃあ、半分を田谷が持ち帰っても良いので、もうそろそろ財宝の地図を出せ。お前は農業指導と言って、田畑や森をくまなく歩き回っているのは知っているんだ。財宝を探すためだろ?』。
…あんた、なんにも解ってないよ。
呆れてものが言えなかった。
ここに来て既に1年と半年が過ぎている。
勿論この若者のいるバンガバンガエ集落へも何度となく足を運んで活動している。
サカルディンも呆れている様子だった。
バンガバンガエ集落長の息子を名乗る彼は、
『また来る。今度来る時は地図をもらうからな』と捨て台詞を残し、去って行った。

次の日、バンガバンガエの若者の噂は村中に広まっていた。
出勤のために乗り込んだペテペテの中でも、話題はその話だった。
私は少々大げさにその時の話をすると、皆はなんて間抜けなやつだ、と大笑いをした。
1年以上一緒に過ごしたアレジャン集落の人なら私が何しに来ているかは、百も承知である。
『農業指導の援助と日本軍の回し者を区別できないとは!』
と私の横でひとしきり大笑いしていたおじいさんが、
『でも、本当はどこに財宝があるんだ?』とペテペテを降りがけに密かに聞いてきた。

3年間アレジャンにいて、ついに日本軍の財宝にはお目にかかっていない。
勿論探してもいない。その後彼とも会っていないし、村人もそれ以上財宝の噂をしなかった。
が、しかし、アレジャンに財宝はあったのだ!
それは、3年間という時間。それは、少々粗暴で純粋な彼らとの出会い。
それら全てが、今私にとってかけがえの無い財宝である。

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洞爺湖サミットが始まった。
これが終われば、まっているのは解散総選挙。
それに想いを馳せながら、
かつてアレジャン集落で行われた素朴でありながら民主的な選挙を紹介したい。


選挙編

pemilu memberi suara


 1998年初めインドネシアで1つの政変があった。スハルト元大統領の娘婿のクーデター未遂事件である。この事が契機になり、同5月長年独裁を続けてきたスハルト政権が倒れた。このときからインドネシアの混乱と激動が始まる事になる。

 スハルト政権が倒れた後、大統領になったのが“ブギスの星”ハビビだった。彼はインドネシア独立後初めてのジャワ人ではない民族出身の大統領だった。ブギス人の山村、我らがアレジャン集落は、このブギス人の大統領誕生に沸いた。なにかあると二言目には『ブギス人だから・・・』と蔑まれてきた彼らにとって、自分たちの歴史や伝説の英雄と同じように、ハビビの登場をみていた。ハビビは不況と混乱の中にあるインドネシアで、つぎつぎと政策を発表した。科学部門と重工業発展の政策が多かった。自分が大臣の時から手がけていた採算の合わない航空機開発にも、多額の税金を投入して周りを苦笑させたりしていた。そんな時でもアレジャンでは、航空機の必要性を声高々に説き続けるおっさんがいたりもした。しかし、彼らの殆どが飛行機など乗った事もないし、見た事も無い。

 98年は食糧難の年でもあった。干ばつと大雨が97年と98年にインドネシアを襲い、米不足になり日本からも多くの援助米が届けられた年でもある。そんなとき、ハビビ大統領は、『週に2回断食をすれば、この食糧難と経済危機を乗り越えられる』とテレビで国民に対して演説し、周りを呆れさせていた。アレジャン集落では、ハビビの断食論に賛同するものが多かった。しかし彼らの殆どが、断食の季節でもほとんど断食をした事が無い。今まで政治には無関心だったアレジャンだが、自分たちと同じ民族の大統領の登場で、政治議論の流行がうまれていた。そんな政治的加熱の中で、1999年の国民総選挙はおこなわれた。

 日本では、総選挙が行なわれても残念な事に国民の関心は低い。政治なんてどっかの誰かがやってくれるだろう、という一種の民主政治の堕落がそこにはあるのかもしれない。しかし、長年独裁政権で民主的選挙が四十数年ぶりのインドネシアでは、民主主義の若々しさを残していた。大々的な選挙キャンペーン、政治家のみえすいた多額の寄付、過熱しすぎて政党同士の喧嘩もたえなかった。政治的加熱が進んでいるアレジャン集落では、選挙に登録するためにわざわざ外国へ出稼ぎに行っていた人までが帰国する有様だった。アレジャン集落では、ブギスの星ハビビが所属するゴルカル政党を応援するものが大半だった。この頃は、村人の会話の中に、ハビビやゴルカルといった単語が入らないときは無かった。

 こうした中で選挙は行なわれた。選挙形式は比例代表区で、投票は集落ごとに行なわれた。アレジャンでは屋外バレーボール場に仮説の投票場を作り、行なわれた。選挙実行委員は村人から選出され、街から来た選挙管理委員が選挙の手順について指導にあたっていた。投票率はアレジャン住民の99%であった。高い得票率だが、驚く事は無い。これが本来の民主主義の選挙なんだよ、日本人の皆さん。投票は記述式ではない。アレジャンでは文字が書けない人も多い。これはアレジャンだけが特別なのではなく、インドネシア全体でも言えることなのだ。そのため、A4の紙に登録されている48政党のシンボルマークが印刷されており、自分の支持する政党を釘や石でシンボルマークの真ん中に穴をあけるという方法で行なわれた。これなら文字を解さない人でも、政治に参加できる。

tempat pemilu

    バレーボールコートの選挙所

投票後、即日開票というか、みんなが集まっている仮説投票場(バレーボール場)で開票が始まる。村人が見守る中、選挙委員が投票用紙を一枚一枚広げて、政党名を読み上げていき、黒板にその数を記録してゆく。ちょうど学級委員長をきめる選挙のようにだ。『ゴルカル!…ゴルカル!…ゴルカル!…』。ゴルカルの政党名が開票ごとに呼ばれていく。いちいち歓声をあげる村人。たまに『PDIP!(闘争民主党;メガワティの政党)』と呼ばれると、一斉にブーイング。それでも開票は順調に行っていた、途中までだが・・・。

buka suara

読み上げられる、投票結果

buka suara 2

皆、結果に注目する

『ゴルカル!…ゴルカル!…ゴルカル!…』。呼ばれる政党名は圧倒的にゴルカルが多かった。連呼されるゴルカルに少々飽きていた私は、選挙観戦はこれくらいにして、家に帰ろうとしていた矢先だった。『ゴルカル!………無効!…ゴルカル!……無効!』。無効票が出始めたのだ。投票用紙を見せてもらうと、無数の穴が空けられている。支持政党1つを選んで、1つだけの穴をあけなければ、無効となる。しかしその類の無効票はこの後も続いた。どよめきが村人の中で起こる。開票の結果、アレジャン集落の選挙は、ゴルカルが7割の得票率で勝利。そして第2位が…なんと、無効票で2割以上を占めていたのだ。

選挙終了後、選挙委員と村の主だった人物が、無効票について話し合いを持った。場所は、もちろんアレジャン集落長ラエチュ氏の家である。ラエチュ氏の顔もかなり険しくなっていた。なぜ無効票がこんなにも出てしまったのか?問題は投票用紙にあった。投票用紙には、A4版の紙に48政党のシンボルマークが印刷してある。このマークをひとつだけ穴をあければよいのだが、アレジャンの無効票は、無数に穴が空けられていた。投票用紙は4つ折になっていて、折り方は屏風型であった。ゴルカルのシンボルマークは、始めの折り目を開くと顔を出す。そう、お気付きの読者もいよう。アレジャンの2割を超えた無効票は、投票用紙を開ききらないで穴をあけたため、折り目の下の紙にまで穴をあけてしまった結果だった!

tempat suara

トイレではない!この中で投票用紙に穴をあける。

ゴルカルに入るはずの2割の票。これが無効に終わってしまった。この様な事がインドネシア全体であれば、選挙結果が変わってしまう。そう私は思い、村人も危惧した。翌日、私は朝一のペテペテに乗り込む。行き先は、街にある選挙管理委員会事務所。街にゆくペテペテの中で、私は激動の時代の中にいた。もし、インドネシア中でアレジャンのようなことが起こっていれば、当然選挙は無効になる。荒れるに違いない。多くの人がまた戦火に飲まれるかもしれない。のんびりと進むペテペテの中で、手に汗をかき気持ちだけが先行していた。街につき、選挙管理委員事務所を尋ねる。アレジャン集落の選挙の話をする。これから起こるだろう混乱と騒乱を予想し、顔がこわばる私。しかし、選挙管理委員事務所で取り次いでくれた役人は、冷ややかな目で、『それ、アレジャンだけです』と言った。

こうして1999年四十数年ぶりに行なわれた民主的な国民総選挙は終わった。メガワティ率いる闘争民主党が勝利し、ゴルカルは第2党となった。たとえアレジャンの無効票がゴルカルに入ろうとも、体勢は変化しないほどの差だった。ハビビが大統領になって以来、政治熱が高かったアレジャンでは、選挙後一気に冷め、選挙結果については語りたがらない人も多い。再び、村は山村らしい静けさにもどったのだった。

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地元の農林高校へゆく。
昼食を兼ねて、インドネシアの農林高校との交流事業のこれからを
話し合う会に参加するために。

交流事業は今年で13年目。
その間、学生派遣団を7回インドネシアに送り、
約10名のインドネシア人を短期で日本に受け入れている。
今日の昼食会では、歴代の校長や
派遣団でインドネシアに行ったOB・OGなどが集まり
これからの交流事業について話し合った。
僕は通訳兼アドバイザーとして参加。

正直なところ、交流事業の現状は停滞気味といっていいだろう。
受け入れも派遣団もマンネリ化してしまっている。
初期の頃は、インドネシアへの派遣においても
学生の応募が殺到する中、弁論と面接で選考を繰り返し
10名程度を送り出していたのだが、
今では、放って置くと、応募がほとんど無いため
関心を持ってくれそうな学生に声をかけて、
なんとか派遣団を組織している有様なのである。

学生からも先生からもよくこういう風に言われるのである。
「インドネシアなんて途上国に行っても、何も学ぶものなんて無いんじゃないですか」と。
うーん、このご時勢にこの台詞がどこからひねり出てくるのか
僕には皆目検討もつかないのだけど、
そういう現状なのだ。
そこでそれを打破するため、
現校長が声かけを行い、昼食会を開くこととなった。

昼食会に参加したOB・OGからは、積極的な意見が聞かれた。
「あの派遣団に参加したことが原点です」と語ったあるOBは、
それから毎年のようにインドネシアに旅行に出かけているという。
「今の仕事に直接関係はしていないですが、それでもあの経験は今でも忘れることは無いです」
と語るOGもいた。
辛い時や理不尽な事があると、派遣団で経験したことを思い出し、
やり過ごしています、という人も多かった。
なかには、それがきっかけとなって留学した人や
学生国際会議に参加するようになった人、
青年海外協力隊に参加した人まで様々だった。

この事業を立ち上げた元校長は、
「血気多感な若者には、こういった交流事業で派遣しても、あまりにも多くの影響を受けすぎて、すぐに効果は見えてこないものです。でも、何年も経って初めてその成果が、じわじわと見えてくる。そのためにもこの事業を継続することが大事です」
と締めくくった。
僕も同感だ。
目に見える成果だけを追い求めすぎる結果が、
今の交流事業を萎縮させているのかもしれない。
問題なのは、今の教育現場での評価のあり方なのかもしれない。
そんな話を、元校長とする。

通訳以外に僕に出来そうなことは余り無いのだが、
この交流事業がきっかけで、僕はあちらの農林高校の実習助手であるH君を
研修生として受け入れる事ができている。
僕の研修事業とこの高校の交流事業。
もう少し交わる点が多くなると良いのかもしれない。
そう思った。
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そういえば、彼らは今、どうしているのだろうか。
不意にそんなことを思い出す。

狂犬病編

 狂犬病。犬の伝染病。病原体は神経系をおびやかすウィルス。
狂暴化して全身麻痺で死ぬ。犬にかまれることで人や家畜も感染する。
水を飲んだり見たりするだけで呼吸困難になるところから恐水病とも呼ばれる(岩波国語辞典第四版より)。

 読者諸君は狂犬病をご存知だろうか?
日本では殆ど見かけなくなった病気だが、海外では発症する犬はめずらしくない。
インドネシアの片田舎、我らのアレジャン集落もそうである。
そう、いたのだ。狂犬病の犬が。
正確な日時は残念ながら、覚えていないし、なぜだか記録もされていない。
しかし、赴任して1年も経たないうちだったと記憶している。
 
 ある夕方、いつものようにペテペテに揺られながら帰宅した私。
家の前でふと立ち止まる。なぜだか村の中が騒がしい。実際に人々が外に出て、話し込んでいる様子ではない。なんとなく雰囲気がいつもと違って、騒々しいのだ。夕暮れ時、農作業に疲れた男どもが帰宅して、一日の疲れをとるために甘いお茶をすする。女たちはおしゃべりをしながらも、せわしく夕食の準備にかかる。そんな日常の夕暮れではない。どこか殺気立っている。家のテラスから私を呼ぶ声がある。『田谷、急いで家の中に入れ!』。そう呼びかけた男もどこかおびえた様子だ。何があったんだ、と私。彼は言葉早に、『犬が来る』、とだけ言った。

 訳もわからず、たたずむ私に家の中から我らの集落長ラエチュ氏が出てきて、無言のまま私を家の中に引きずり込む。その表情から見ても、ただ事ではない。理由はラエチュ氏から聞いた。『田谷、狂犬病の犬がでた。それもこの家から2軒隣りの家からだ。犬は何人かを噛んで、山に逃げた。今、若い男たちが山狩りの準備をしている。危険だから、外には出てはいかん』。恐ろしい話だ。狂犬病の犬なんてまだいるのか、と尋ねた。『何年か前にオランダの人が来て、狂犬病のワクチンを打っていったのだが・・・』とラエチュ。事態がうまく飲み込めなくて動揺する私に、『大丈夫、犬はすぐに殺す。ただしばらくは森や畑には行かないでくれ』とラエチュ氏が言った。その晩、ラエチュ氏は夕食が済むと村人たちと出て行ったきり戻ってこなかった。普段は1時間も働いたら、3時間は休む村人が、狂犬病の犬を一晩中追いかけていたという。しかし、犬はつかまらなかった。

 狂犬病狩りを始めて、2日が経とうとしていた。しかし、犬は見つからない。その間、村の若者が丸太を持って村内部の巡回を努めた。集落のはずれにある小学校を休む子も少なくは無かった。ただ、私の家に居るソンという子は、『狂犬病の犬捕まらなかったら、ずっと小学校に行かなくても良いね。どうせならうちの犬が狂犬病になればいいのに』などと不謹慎なことを口にしていた。うちにも犬がいる。老犬だ。名前はバンバーン。この犬の話はまた別の機会にしよう。さて、2日経っても見つからなかった犬が、3日目の朝、(正確には4時ごろだったと思う)、2軒隣りの家に戻ってきた。寝ずの番(正確には賭けドミノをしていた)をしていた村の若者たちは、一斉に包囲網を敷く。近所の犬もぞくぞくと集まってきた。もちろん、うちの犬バンバーンもその先陣にいる。私も現場に急行しようとしたのだが、ラエチュ氏にさえぎられて、テラスの上で見守る事にした。熱帯の朝は遅い。赤道付近というのは昼夜がなかよく12時間づつ支配している。そのため日の出は6時。しかもアレジャン集落のように真後ろの東に2000メール級の山々を備えた村では、お日様にお目見えできるのは7時から8時ごろとなる。時は午前4時。まだ真っ暗な中、なぜか犬を追い詰める村人。もともと海賊で鳴らしたブギズ人である。インドネシアの3大強暴民族にも選ばれていて、シンガポール辺りでは言うこと聞かない子供に『ブギズ人が来るよ!』と叱り文句になっているくらいの民族である。組織的行動と個人の戦闘能力の高さがなせる技であった。しかし、追い詰められた犬には、相当のダメージを与えたものの、取り逃がしてしまった。それだけではない。新たに2名の若者が犬に噛まれた。

 その後、懸命の山狩りにもかかわらず、狂犬は姿を見せなかった。うし銀行では2頭のうしが犠牲になったらしい。また、元本が減ったわけだ。噛まれた人は全部で5名。私はその人々皆を病院に連れて行くべきだ!と主張したのだが、通らなかった。噛まれた彼らは村のまじない師(ドゥクン)の家に行き、伝統的まじないの治療を受けただけだった。狂犬病とは発症すれば、ほぼ100%死にいたる。有史以来、発病して助かった記録が残されているのは、たった1件である。しかし、私がアレジャン集落に居た最後の日まで、彼ら5名は普段と変わらず元気に農作業をさぼっていた。狂犬病発病に耐えたのは、屈強の戦士を生むブギズ人がなせる業なのか、それともまじない師のまじないは本当に効くのか、今の私にはわからない。ただ、アレジャンには私の常識は通用しないと、この時はっきりと悟った。

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留学生を預かって3日目。
最終日。
初日に与えた課題
「日本の農業(僕の農園)とインドネシアの農業(留学生の地元農業)を比較して、良い点と悪い点を3日目の昼休み終了までにレポートにまとめなさい」
を提出してもらった。

レポート用紙として与えたA4の紙に
小さな文字で表裏にびっしりと書かれていた。
一所懸命考えて書いたのであろうことが、一目で解るレポートだった。

レポートを読んで、
二人の留学生の共通点が1つ。
それは、日本の農業の現状を良い点として書き、
悪い点としてインドネシアの農業の問題点を書いていたことだった。
詳細に差はあるが、どちらのレポートも、
インドネシアの農業は遅れていて、
日本の農業は技術的にも生産量的にも素晴らしい、
と書いてあった。
これはこのままにはしておけない、と思い、
今日の午後は留学生と仕事をしながら、
レポートの課題について、議論をすることに。

彼・彼女の語る、日本とインドネシアの農業の比較はこうだった。

「日本の農業は売り先があり、しかもインドネシアのように損が出ない」

「機械化が進んでいて、生産性が高い。インドネシアは、まだまだ伝統的で、しかも作付けをする時は、あまり市場を考えなかったりする」

「インドネシアでは、とにかく農産物が、中間業者によって買い叩かれてしまう。農家側に交渉権はほとんどなく、損ばかりしてしまう。でも日本は違う」

などなど。
日本でも中間業者に買い叩かれるケースは、よくあることなのだが、
インドネシアのそれと比べると、そこまではひどくは無い。
買い叩かれるかどうかは、程度の問題でもあろう。
交渉権があるかないかは、どのチャンネルで販売するかによるだろうが、
インターネット産直や直売所などがほとんど無いインドネシアでは、
零細個人農家は、日本のそれよりもひどい状態であることは間違いない。

ある意味、留学生たちが言っていることは、正解なのだろう。
ただ、その比較から、次のステップに進んだときに問題を感じる。
それは、

「インドネシアの農家は、学校教育をしっかりとは受けていない。また、イノベーションの機会も少なく(普及員等による)、頭が凝り固まってしまっている。教養がないため、商人との交渉力も無く、いつも買い叩かれてしまう。若い世代は、そういった現状に嫌気が差し、農業から離れていってしまっている。農業の担い手世代は、ほとんどが年寄りになりつつある。インドネシアの農業を救うには、農家の若い世代への教育向上と機械化による生産性向上だと思う」

と結論付けていた。
高校生なので議論が荒く結論に急ぎすぎる。
ワンクッションおくために、こちらから質問をする。
「インドネシアの悪い点は良くわかったけど、日本の悪い点はなんだろう?」と。

留学生は、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしていたが、
しばらく考えて、二人とも
「無いと思います。日本農業は完璧に見えます」
と答えた。
そこで日本農業の問題点として
農家人口の減少と高齢化、
国内自給率が4割を割り込む状況を
説明した。
留学生が、農業発展の鍵としていた高学歴化と機械化が
直接的・間接的に日本の農業を衰退させたことは間違い無い。
それらの要因は、単独で日本の農業を衰退させたわけではないので、
それだけを抽出して議論しても、問題はあるのだが、少なくとも
その要因が起こり得る社会状況の中では、農家人口の減少と高齢化が起き
そして自給率の低下が日本では見られたのは事実であろう。

インドネシアが日本を真似ても
たぶん、日本がアメリカを真似て失敗したようなことが
単純に考えても、起こりえるだろう、と予測できる。
そのことを留学生に話すと、困惑していた。
「では、僕たちは何を目指せばいいのですか?」と。
それは、僕にもわからない。
2ヶ月の留学と僕の農園での研修で、留学生たちは、
機械化と学校教育に、自国の農業の発展の鍵があると見えていたのであろう。
しかし、それならば、日本の農業の発展史に目を向けなければいけない。
丁度、僕が留学していたときに、日本の農業の発展史を
インドネシア語でまとめたことがあり、それを彼・彼女が帰国するまでに
渡すことを約束した。
そして、さらに1つ課題を与えた。
「いつでも良いので、自国農業の発展が、テクノロジーと教育の発展以外に見出せたら、それをレポートにして僕に送って下さい。そうしたら、僕の農業の発展に関する考えも、インドネシア語にして書いて送りますから」と。

こうして、留学生の3日間の研修は終わった。
留学生には伝わったかどうか解らないが、
農業の発展について、僕なりに考えることが出来、とても面白い研修だった。
僕の方が、勉強になったと言ってもいいだろう。

もし留学生がレポートを送ってきたら
インドネシア語で伝えなければならないことがある。
それは、
アメリカのように、農地のあり方がアジアのそれとは違うということ。
社会の形成と経緯が違うということ。
そして、農への思想と歴史が違うということ。
インドネシアも日本も小農思想の中で、
農を発展させて社会を作ってきた。
もちろん、その両方にも大きな差異があるのだが、
小農思想こそが、僕には農業の大きな発展の可能性を感じるのである。

まぁ、でも、インドネシアの農業の場合、
もう1つ乗り越えないといけない大きな問題がある。
それは、農地へのアクセス権の確立。
農地改革を行った日本と違い、
インドネシアでは農民の農地へのアクセス権は限られている。
それも、インドネシアの農業発展の1つの大きな課題だろう。
その話が、留学生から出てこなかったところを見ると、
彼・彼女は、まだまだ勉強をしないといけないだろう。

さて、レポートは送られてくるだろうか。
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インドネシアの留学生を預かっている。
今日はその2日目。

地元農林高校で留学の担当をしている先生から、
この農家研修中に、
「留学プログラムについて、留学生にヒヤリングをしたい」と
言われていた。
そこで、今日は、農林高校で留学の担当をしている先生を呼んで、
H君と留学生の3人が、インドネシア料理を昼食として振舞うことにした。
ランチタイムをかねて、ヒヤリングもしてしまおうというのが
僕の考え。
なにせ、毎日、目が回るように忙しいのだ。

留学生たちが作った料理は3品。
鶏肉と野菜のスープ
イカンゴレン(焼き魚)
ミードック(麺を卵で閉じた食べ物)。
どれも見た目はインドネシア料理だったのだが、
調味料は日本のものを使ったので、味はどれも日本風ではあった。
留学生の女の子が陣頭指揮をとって作ったようで、
いつもH君が作ってくれるインドネシア料理よりも
味に幅があり、美味かった。
(ちなみにH君は、今のところ、野菜スープしか作っていない)。

さてヒヤリング。
留学のプログラムでの不満や良かった点などを留学生に自由に話してもらった。
一番にあがったのは、「言葉」だった。
留学期間が2ヶ月と短いこともあり、日本語で意思疎通が出来るまでに達せずに
留学が終わってしまうのである。
学校の座学も理解できない様子で、テキストも漢字が多用されており
留学生には、まったく読解不可能なのだ。
ただ、言葉の問題は、本人の努力次第なのだろうし、
そもそも学位をとる留学ではなく、交流事業の一つとしての留学なので、
親睦が深まれば、それでいいのではないか、と僕は考える。
担当の先生も同意見だった。
ただ、インドネシアの子たちにとって、留学は少ないチャンスなんだろう。
それを少しでも活かしたい、と強い思いがあることは、
ヒヤリングから汲み取れた。

次にあげたものは、学校での実習だった。
農場での作業実習なのだが、毎回作業ごとに圃場が変わり、しかもその実習以外には、
その圃場と関わらない、という地元の農林高校の実習システムに
留学生たちは、疑問を抱いていた。
彼・彼女曰く
「おもしろくない」
だそうだ。
技術的には、インドネシアのそれとは違うので、実習内容はおもしろい
のだが、作業ごとにしか、その作物に関わらないため、
作物の全体像が解らない、とのことだった。
「私たちがやっている実習の方が面白いですよ」と留学生は言う。
留学生の農林高校では、期間は限られているが(1月から4月まで)、
その期間内、学生たちでグループを作り、学校が貸し出している圃場を借りて
農業をするという実習がある。
Swakaryaと呼ばれるプログラムで、少なくとも西ジャワ州の農林高校であれば
どこでも、このプログラムをしているとのこと。
面白いのは、グループのメンバー(学生)が、種代から肥料代・農薬代といった
必要経費をみんなで出し合うことである。
学校は圃場を無料で貸し出すのみで、他の準備はしない。
学生たちで何を植えるか決めて、それに必要な資材を自分たちのお金で購入するのである。
もちろん、販売も自分たちで行うとのこと。
儲けが出れば、グループメンバーで分けるらしい。
損をしても、だれも補てんはしてくれない。
かなりシビアなプログラムである。
1グループにつき、2名の担当教諭がつき、栽培指導から市場調査までアドバイスをする。
担当のグループに損がでれば、教諭の恥になるらしい。

何を作るのも自由なので、学生たちは思い思いの市場調査を行い、
そして栽培も試行錯誤で行い、収穫できた作物には、それぞれで値段をつけて
市場で売ったり、住宅地をふり売りして歩くこともある。
もっとも実践的で、農家を育成するには、なんとも素晴らしいプログラムではないか!
留学担当の先生と僕は、留学生やH君の、そのプログラムの話に聞き入っていた。

「売る時になると、朝2時に起きて、市場の場所取りをするんです。それくらい早く起きないと、いい場所が取れないし、いい場所じゃないとお客が少なくて、高く売れないんです」

「swakaryaのプログラムの時も、学校は通常の時間割です。なので、休み時間や放課後、そして早朝、みんなで集まって農作業するんです。面白いですよ。」

「儲けが出たグループは、みんなで旅行に行ったり、いい服を買ったりしています。でも私のグループは、今年は損がでて、何もできませんでした・・・」

などなど。
Swakaryaプログラムについて話す留学生たちは、とても輝いて見えた。
こんな面白い実習をしている子たちに、地元の農林高校の細切れ実習は
さぞ、つまらなかっただろう。
留学をしなきゃいけないのは、僕ら日本側ではないだろうか。
市場を知り、栽培品目を決め、その品目の栽培技術を習得し、そして売る工夫をする。
このなかに、販売農家としてやっていくための技術のほとんどが含まれている。
なんと実践的なのだろう。

留学の担当の先生は、
「うちの学校でも、栽培して販売していますが、生徒主体ではないです。何を栽培するかは、学校側が決めますし。それに販売と生産は分けられてしまっています。生産は、生物生産科が行い、販売は流通科が行います。だから、生物生産科の学生は、自分たちが作った野菜がどれくらいで売れるか感覚的に解らないし、流通科の学生は、この野菜がどういう想いで作られたのかを知らずに売ります。遅れているのは、私たちの方かもしれません」
と言っていた。

日本の僕たちの方が、勉強になった2日目だった。
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地元農林高校のインドネシア留学生が来る。
この時期、どこの学校でも期末試験があり、
農林高校でも、例外ではなく、それがあるために
インドネシアの留学生をその期間、地元農家の研修として
うちで預かってほしいと、依頼されていたのである。
期間は、今日から金曜日までの3日間。

インドネシアの留学生は、うちのインドネシア研修生のH君の後輩でもある。
それにH君と留学生は、あちらの農林高校では
先生(圃場助手)と生徒の関係でもある。
なので、H君にその二人を預け、「チームIndonesia」なるものを作って
一緒に動いて研修してもらうことにした。

研修と言っても、なにか特別なプログラムがあるわけじゃない。
うちはただの農家なのだ。
普段の農作業を一緒に行ってもらうのだが、
ただそれだけじゃ、面白くなかろう。
そこで、留学生に1つ課題を与えた。
それは、
「日本の農業(僕の農園)とインドネシアの農業(留学生の地元農業)を比較して、良い点と悪い点を3日目の昼休み終了までにレポートにまとめなさい」
というもの。
比較する視点を持ちながら、仕事をすれば
普段の農作業もぐっと変わって見えてくるはずなのだ。
おかげで、昨日一日はH君も僕も、留学生からの質問攻めにあった。

さて、3日目にどんなレポートが出てくるだろうか。
楽しみである。
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県民生協の新店舗で料理講習に参加する。
「参加」といっても、受講者ではなく、
どこでどう間違えたのか、「講師」として参加。

と言っても、
人に料理を教えられるほどの腕なんて、全然無く、
ただ、妻の出張中(週に3日ほど)に、娘が飢えない程度に
料理が出来るだけなのだ。
なので、僕に求められていたのは、料理の技術ではなく、
農への解説だった。

僕の農園でとれた野菜を元に、その野菜の話や畑の話、
さらには大量生産大量消費の現場(出荷用の畑)と
それはまったく違う次元にある自家菜園の話を紹介した。
(詳しくは、「ブロッコリ畑 妻の驚きから考える」を参照されたい)
そして、それらの野菜を簡単に調理して皆で食したのである。

調理した野菜は、
ルバーブ
ベビーリーフ
フェンネル
新玉ねぎ
モロヘイヤなどなど。
どれも僕の農園でとれたものばかり。

調理の助け役として、妻も参加してくれた。
また内部勉強会ということで、
参加された方々も普段はあちこちで料理の教室を開いている人もいて、
僕の不可解な料理手順の説明でも、ほとんど混乱無く
料理は時間内に作ることが出来た。

作った料理は、
ルバーブのジャム
新玉ねぎとフェンネルのピクルスとサーモンを添えたベビーリーフのマリネ風サラダ
モロヘイヤと新玉ねぎのエジプタンスープの3種
あらかじめパンを準備しておいて
それらを皆で試食した。

一番盛り上がっていたのは、ルバーブのジャム。
この野菜を使ったことのある参加者はいなかったので、
みな珍しそうにしていた。
ルバーブの説明の段で、妻が合いの手で
「スカンポの味に似てますよ」
と言ってくれたのだが、参加者のほとんどがスカンポを知らなかった。
堤防や野道にいくらでも生えている雑草で、
学校の帰り道に、あれをすいながら僕も帰ったものだが、
それを知らない人が殆んどということで、ある意味驚いた。
参加者から見れば、僕ら夫婦はえらい田舎者に見えたことだろう。

農の話がどこまで参加者に響いたかは解らないが、
参加者の中には、家庭菜園をしている方も多くいて、
野菜作りの話題で盛り上がれた。
身近に農を置いて暮らしている方が何人か居たことが嬉しかった。
大小を問わず、農の営みとその中で得る実践的な感動を共有しあえることが
やはり大切なんだ、と確認が出来た料理講習だった。

僕にとっては、
とても楽しい料理講習会だった。
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冷蔵庫編

 今回は冷蔵庫について少々書こうと考えている。
その前に、読者諸君の中にはもうすでにお気づきの方もいるかもしれないが、1つここで断っておきたい。
愛しのアレジャン集落は、時間軸に必ずしも忠実ではない。
そのため話が前後したりするのは、やむを得なくなっている。
私がきちんと順番に思い出せれば良いのだが、なにかの拍子に思い出す事が多い。
今回、冷蔵庫について書こうと思うが、前回までのエッセイの中に、少々時間軸的にずれている事があるので、確認しておきたい。
生活編では、『家のファシリティーとして冷蔵庫がある』と書かれているが、一方で酒談話では『冷蔵庫は無い』となっている。
これは酒談話の方が古い話で、私が住んでいるうちに、アレジャン集落長のラエチュ氏は冷蔵庫を買った。
そのため、その後を書いた生活編では冷蔵庫があることになっている。
今回の話はそれらの話の間である。つまり、冷蔵庫を買ったときの話だ。


 アジアの通貨危機をご存知だろうか?
その構造を私はよく知らないため、ここでは言及しないが、
1998年にインドネシアでも一般的にそれとわかる社会現象がおきた。
通貨価値が下がり、一般に不況と呼ばれている状況になった。
それは現在でもインドネシア経済を圧迫しており、次から次へと変わっていったインドネシアの政権も、この不況をどう乗り切るかが最も重要な政策の1つだった。
しかし、1999年不況の真っ只中で、ラエチュ氏は人生の冒険をしたのである。ある意味、大きな賭けだったのだろう。そう、彼は冷蔵庫を買ったのだ。

 1994年に初めてアレジャン集落に電気が来た。
テレビは1995年に集落長のラエチュ氏のいとこマラ氏がはじめて購入した。
私がこの村にやって来た1998年当初は、200~300人いるこの集落にテレビは、
壊れたものも含めて5台あった(内こわれたものが3台。それでも大切に飾ってある)。
このような状況で冷蔵庫は、村人にとって夢のまた夢である。
私の友人のサカルディンは、齢30になるいい大人だが、
なんてことないジュースを凍らせたアイスが何よりも好きである。
しかし、街まで行かないと食べられない食べ物であるため、
彼は時々であるがそのアイスを食べるためだけに街までいく事がある。
ちなみに街までは40㎞離れており、ミニバス(ペテペテ)で1時間以上かかる。
実際、私も休日にサカルディンからアイスを食べに街まで行こうと誘われて、
断るのが大変だった記憶がある。
冷蔵庫の無い生活では、このような類の話は日常茶飯事なのだ。
そんな中、集落長のラエチュ氏は、どこかで大金を手に入れ、冷蔵庫を買ってきた。
しかも不況の真っ只中に。彼が何を意図して冷蔵庫を買ってきたのかわからないが、
村人は狂喜した。これで、氷が村の中で買えると。
サカルディンは私を見て、
『田谷が羨ましい。これでいつでもアイスが食べられる。』
と本気で羨ましがっていた。
村人の予想に反さず、ラエチュ氏はアイスキャンディーの製作にいそしむ事となる。
これによりしばらくの間は、私の下宿つまりラエチュ氏の家の前に
アイスを買う村人で行列が出来たのだった。

   
 そんなある日。私は何気なく冷蔵庫をあけてみた。
冷蔵庫は現在のように3ドアや4ドアのようなハイカラなものではない。
2ドアでもない。
1ドアなのだ。
どういうことかお分かりだろうか?
冷凍庫が冷蔵庫の内部に申し訳ない程度あるだけのものなのである。
そんなものみた事も無いという人がいれば、
近くの電気店でカタログを見せてもらえば、あるはずである。
しかし現物がおいてある可能性は低い。
アレジャン集落ではその1ドアの冷蔵庫が一番の最新式なのである。
その1ドアの冷蔵庫の内部冷凍庫ははじきれんばかりのアイスで一杯だった。
が、しかしそれ以外の冷蔵庫の内部には何も入っていないのである。
いや、ペットボトルの水が申し訳なさそうに冷やしてあるだけだった。
野菜も魚もお肉も入っていない。冷蔵庫の横にあるテーブルの上には、
ハエの集った魚としなしなになった野菜があった。
ちなみに、その魚はその晩、私の夕食として美味しく胃袋に収まる事になる。

 この状況に見かねて、私はラエチュ氏に冷蔵庫の使い方を指導する決意をする。
冷蔵庫の使い方に問題が…、と切り出す私。
すかさずラエチュ氏、『わかってくれたか。私も問題だと思っている』。
なんだ、彼も問題をわかっていたのか。それならば話は早い。
私が冷蔵庫の使い方を説明しようとした矢先だった。

『冷凍庫が狭すぎて、アイスが思うように作れない。
田谷、冷蔵庫の方でアイスを作れる方法があれば教えてくれ』

とラエチュ氏。
精神的ダメージを受け、何もいえない私。
しかし、そんな私が見えないのか、ラエチュ氏はさらに熱くアイスクリーム事業を語りだす。
生温かい熱帯のある夜はこうして過ぎていった。

 では、何も冷蔵庫の使い方を説明しなかったか、というとそうでもない。
別の日を選んで、話がアイスにならないように、
ドアのポケットのくぼみには卵を入れるということを伝えた。
その時のラエチュ氏とその家族の目はまさにうろこが落ちた、という観だった。
今現在、彼らがどう冷蔵庫を使っているか解らないが、
私がいた最後の日まで、冷蔵庫には一杯のアイスとドアのポケットに卵が入っているだけだった。
私が協力隊としての成果を問われれば、その1つに
『村人に冷蔵庫のくぼみは卵を入れるためだ、と教えた』
が入ることは間違いない。

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田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

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