トマト数種の収穫が始まる。
今年は、主力のロケット型ミニトマトに、西洋トマト数種を栽培している。
ブラックミニトマト、ブラウンミニトマト、イエローのミニトマト、
マイクロトマト2種に、パプリカのようなトマトなどなど。
どれも変わっていて面白いし、単価は高い。
が、いわゆる、売れないトマトでもある。

今日から収穫が始まったのは、
ブラウンミニトマトとマイクロトマト。
ブラウンミニトマトは昨年も栽培しているので、
まぁ、感動というものは昨年ほどじゃ無いのだが、
相変わらず、茶色い色には驚く。
今年は、露地だけじゃなくハウスでも栽培していて、
糖度もそこそこにあがって、美味い。

今年から始めたマイクロトマト。
栽培法も何もわからないのだが、
トマトを小さく、しかも沢山ならせる技術なら
ミニトマトのそれと同じでいけるんじゃないかと思い、それを応用。
約1cmの実は可愛くてきれい。
なのだが、これを収穫するのは、
実が小さすぎるので、とても気が張る。
慣れないせいか、約100g取るのに、20分ほどかかってしまった・・・。
それを知り合いの農家と話していたら、
その農家曰く
「なんかの罰ゲームみたいっすよね」
だって。
たしかに・・・そうかも。

まぁ、どちらも独特の美味さがあり、また見た目も良いので、
我が家の食卓を、今年もにぎやかにしてくれるだろう。
トマトが取れだすと、あああ、夏を感じる。

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こんなこともあったっけ。
異文化の真っ只中でもがいていた日々だった。


第6話 酒談話

bintang beer

ビンタンビール。インドネシアでもっともポピュラーなビール。

酒談話

イスラムと聞いて読者諸君はなにを連想するだろう。
ラマダン(断食)、毎日の礼拝、コーラン、モスク、そして戒律。
厳格な宗教とイメージする人も少なくないだろう。
インドネシアの8割以上の住民はこのイスラム教を信仰している。
私の居たアレジャン集落もその例にもれない。
しかし、アレジャン集落は、一般にいわれているイスラム教とは少々違った感じを私にあたえたのである。この稿を書くにあたって、あらかじめ断っておきたい事なのだが、私はイスラム教をアレジャンの住民を通じて聞き知っているのみで、それ以外に独自に勉強してはいない。
そのためこの稿で、本来のイスラム教の教えと異なった部分があったとしても、それはアレジャン集落におけるアニミズムとイスラム教の融合による独特の観念であって、本来のイスラム教を非難するものではない。このことを読者諸君が念頭において、この稿を読む事を期待したい。

アレジャン集落に住み始めて3ヶ月たった頃だっただろうか、私はなかなか住民に溶け込めないでいる自分に少々苛立ちを感じていた。どこかでアレジャン集落の住民は、私のことをお客様あつかいをしていた。言葉が出来ない。
習慣が違う。
熱帯気候に慣れない。
それもあろう。
しかし、なにか根っこのところでお互いにお互いを理解できていない気がしていた。
こんな時、日本人だったら何をしただろう?
3ヶ月日本を離れた事で、日本の習慣を思い出すにも少し時間がかかるようになってしまっていた。
・・・そうだ!お酒だ。
会社や大学等々で新人が入ってきた時必ず設けられるのが、『宴会』である。お酒の力をかりて、新しい環境に入ってきた新人に心を開かせ、かつ古参の者も気さくに新人と接する事が出来る。『酒』。水の次に人類に最も慣れ親しんできた飲み物。長い人類の歴史の中で、時には成功者を生み出し、時には敗北者を多く生み出した、酒。この力を借りられれば、アレジャン集落の人とも今ひとつ理解し会えなかったことが、解決されるのではと考えた。しかし、『宴会』をするには大きな障害があった。イスラム教の戒律である。そう、イスラム教信者は禁酒だったのだ。

ある晩、アレジャンの若者連中との談話。
私は思い切ってイスラム教の禁酒について、聞いてみた。
イスラム教は禁酒と聞いたが、やはりみんなも飲まないのか?と。
若者はこう答えた。
『お酒を飲んではいけないとは聞いていない。でも、お酒を飲んで酔ってはいけないと教えられた』。
またこうも言った。
『ビールは時々みんなで集まって飲む。ただ高いのでビンビール1本を4人ぐらいでわけて飲む』。
なんとも寂しい飲み会ではないか。
それならば、私がアルコールを持って来たら?
『もしそうなら、喜んで飲むさ!酔っ払わないように気をつければ良いだけだから』。
どうもアレジャン集落の人は禁酒というよりも、お酒に酔ってはいけないと信じているようであった。
それなら話は早い。早速、街まで行き、地元のウイスキー『ロビンソン』を買ってきた。
工業用アルコールにエナメルか何かで茶色に色付けしたようなアルコール度27%のスピリッツだった。
お世辞にも美味いとはいえない。
しかし、これがこの時私が入手できる最もよいお酒だった。
酒盛りの場は、私の下宿先『100の柱の家』であるアレジャン集落長の家という事になった。
若者はいつの時代も勢いだけで生きている。お酒(禁酒の戒律)についても、自分たちの都合の良いように考えているのかも知れなかった。そのため、集落の長であるラエチュ氏の家で酒盛りをすることは、はたして大丈夫なのかと心配が残った。
しかし、若者たちは私の心配を意に介さない。車座になってコップを用意する若者。
しょうがなく、私は『ロビンソン』をついでまわった。
冷蔵庫なんて無い。だから氷も無い。
割る水はあったが、生暖かくて薄まったウイスキーは、私の趣味に合わないため、この場はストレートでゆくことにした。
注がれたコップを見て凝固する若者。中の液体をのぞきこむ者。臭いをかぐ者。コップの中の液体を光に当てて目を細める者。いろいろな反応を示すが、誰も呑もうとしない。ひとりの若者が言った。
『これはビールではないね』。
そう、彼らはビールは飲んだことあったようだが、ウイスキーは知らなかった。
それを尋ねると、若者たちは一斉に反発した。
『飲んだことある。毎日飲んでる。大好きさ、ウイスキー』。
そうこうと問答をしていると、騒ぎに気がついたのか、集落長のラエチュ氏がでてきた。彼は若者の持っているコップを取り上げ、私をにらみつける。
やばい。やはり若者がイスラム教の戒律を都合の良いように解釈していたのだ。
しかし、ラエチュ氏はにっこり笑って、
『酒は私も好きだ。飲むなら言ってくれなきゃだめじゃないか』。
早速集落長の分もコップが用意され、酒が注がれる。
しかし、彼も若者と同様、コップをにらんで固まってしまった。飲み方を知らないのかと聞くと
『知っている』と答える。
まったく強情な連中だ。しょうがない。私が飲み方を示す事にした。
いいかい、ウイスキーは一息に飲み尽くすんだ、と教え、
その場でウイスキーをストレートで一気飲みした。
それを見た集落長、知っていたといわんばかりの顔で、ウイスキーを一気のみ。

次の瞬間。
『がー、げぼっげほっげろっ』のどを焼き尽くすウイスキーにむせ、咳き込むラエチュ氏。
少々悪ふざけすぎたか。
しかし、咳き込んだ勢いで鼻からウイスキーを垂らしている彼は、
満面の笑顔で親指を立て『Enak(おいしい!)。もう一杯』。
若者たちも長に続けと、一気のみで同じように鼻からウイスキーを垂らす。
そして、『美味しい!もう一杯』。
ウイスキーを鼻から垂らした間抜けな顔々にお互い大笑い。
その夜はそれ以上お酒は飲まず、談笑して過ぎた。
どこか根っこのところでお互いつながりを感じることが出来た夜だった。

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今考えても、可笑しな銀行だと思う。
だが、放牧システムとしては、これほど労力をかけないものはないだろう。
他の地方だが、農耕馬の管理をアレジャン集落と同じようにしていたので
この方法が、それほど突飛なものではないようだ。

Banksapi 1


第5話 うし銀行

アレジャン集落には不況知らずの銀行がある。
インドネシア、いやアジアでおきた経済危機・通貨危機なんぞ屁でもない銀行である。
アレジャン集落でお金持ちの層に属している人であれば、だれでもその銀行に入っている。
その名も『うし銀行』。
この銀行は通貨や金を一切あつかわない奇抜な発想の銀行で、預けるものは、うし(牛;主に家畜として人間には親しまれている)のみなのだ。銀行のある場所は、アレジャン集落の後ろにそびえたつ山々である。白猿の長老が住む森(長老伝説参照)を突き抜けると、山の中腹から頂上にかけて巨木が無くなり、潅木や草のみの草原が広がっている。そう、そこが『うし銀行アレジャン本店』なのだ。

アレジャン集落は、棚田の村である。集落から谷底の川にかけて約100haの棚田を持つ。山岳地帯に位置している事もあり、大型の家畜を放牧する場所を確保する事が難しい。そのため、一般の村人は鶏や山羊といったそれほど大型にならない家畜をかっている。しかし鶏や山羊では家畜としての価値がそれほど高くは無い。お金持ちであれば、もっと大型の家畜を飼いたいと思うのは当然のことである。ならば、家畜小屋で集約的に飼えば良いではないか!と意見する人もいるであろう。私もそう思う。しかし、不幸な事に(貧困な地域はとかくついていないものである)この地域に在来している牛(バリ牛)は牛舎で集約的に飼うのに向いていない。私の同僚の隊員(畜産指導)が、試験的に牛舎でバリ牛を飼ってみたところ、8割の牛が舎飼いのストレスのため死亡してしまったのだ。つまり、ここの牛は自由奔放を愛し、誰からの干渉も嫌う志の高き牛たちであった。アレジャン集落の人たちは、そんな牛たちと上手に付き合ってきたのである。それがうし銀行というシステムであった。

さて、前置きが長くなったが、ここからうし銀行のシステムを説明しよう。牛を飼いたいと思ったアレジャン・ブルジョワは、買ってきた牛をうし銀行アレジャン本店まで連れて行く。預り証は無い。預けたという本人の記憶が重要である。うしを預けた後(放牧?)うしはすでに預けられているうしの群れの中で暮らし、年々子をなし利子が生まれる。預けたアレジャン・ブルジョワは、なにか大きな式典や冠婚葬祭で大金が必要な場合、うし銀行に行き預けたうしを呼ぶ。うしは市場で買われてきて銀行に放置されるまでの身近な期間しか主人を見ていないにもかかわらず、よばれればやってくるという。どこか間抜けな話しだ。さらに銀行は山の頂上部にあるため、外部からの侵入は非常に難しく、さらに預けていない人が山に登れば、その過程で誰かしか村人に会う可能性も高いため、村人曰く安全でしかも確実な銀行だと言う。私にはにわかに信じられなかった。が、実際に銀行(放牧地)も見たし、それを活用している人にもたくさん会った。つまり、共同放牧地を決め、そこに放牧しているのである。

しかし、いまだに疑問がのこる・・・。うしを銀行からおろすときである。呼べば来ると言うが、本当だろうか?私はアレジャン集落でもっとも仲の良かった青年サカルディンにその事を尋ねた。彼はこう言った。『呼べば来るのは本当だ。しかし来ないとしても、預けたうしが1頭ならば群れからどれでも良いので1頭連れてきてもいいんだ。』なるほど。では、確実に子をなして利子がつく点はどうなんだ?『確実に増えるかどうかは誰にもわからない。ただよんでやって来たうしに他のうしがついて来た場合、そのついて来たうしはそのうしの子供と考えるんだ。そう言ううしをGETできると幸運さ。』ということは、子供でもないうしが勝手について来た場合は自分のものになるのか?『そう。でも、牛のいるところはかなり環境的に厳しいから、野犬に襲われたり崖から落ちて死んでいるのもたくさん見かける。』では、銀行に預けた人が皆うしをおろしに行くと?『遅れた誰かはもらえない。』

Banksapi 2

(牛を追う青年。彼は牛を預けていないので、牛は逃げる)

厳しい環境の中、すこしでも資本を増やそうとする素朴な人々が考えた画期的なシステム、うし銀行。しかし、アレジャン集落の様な素朴な人たち以外にはこのシステムは運営できないであろう。

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一昨日の続き・・・

さて話を畑に戻そう。
出荷用のブロッコリの畑では、どうしても害虫が大量発生する。
そりゃ、当たり前だ。
自然界の中で、ブロッコリばかりが群生することなんてありえない。
だからブロッコリ畑の中で、虫や微生物のバランスは、
自然界のように保てるわけが無い。
つまりは、そもそも大量出荷用の畑は、不自然なのだ。
だから、虫や病気が、非常なレベルで発生する。
その不自然な畑を自然に戻そう、と害虫ががんばっている、
なんて、物の見方をする人も少なくないが、
そんな畑を見ていると、僕もそう思えてしまうから、不思議なものだ。
僕は、そういった人間的な物事の捉え方で自然をみるのは、
人の傲慢では無いかと思うこともあるが、
しかし、そういった人々の眼差しが、
暮らしや価値、文化を作りだす上で、もっとも重要な要素だと思う。
以上は余談。

さてさて。
すでに出発点において、ブロッコリ畑は、不自然な状態であるため
自然の力を利用して栽培を続けることは、困難になる。
(まぁ、それでも日光や降雨などの力は借りているのだが)。
ブロッコリの養分も外から投入しないといけないし、
害虫の発生は、天敵による駆逐を期待できないため、
初めから農薬散布しか手は無いのだ。

自家菜園でも、やはり不自然な状態ではある。
ただ、その不自然さの度合いが、出荷用の畑とは違うのである。
そして、方向性については、まったく逆方向と言っていいほど
この2つの畑は、別のベクトル上に存在している。
自家菜園では、できるだけ自然の力を借りながら、
といっても、ただ単に、いろんな野菜や植物を混植するだけの話なのだが、
そうすることで、農薬散布から解放される。

1日目に書いたように、2つの畑は目的も違うだろう。
自家菜園は、自家消費用だから、傷があろうが、曲がっていようが
少々虫が食べていようが、まったくかまわない。
しかし、出荷用の畑ではそうは行かない。
なぜなら、市場を通すからである。
傷があってはいけないし、曲がっていてもいけない。
虫食いがあれば、文句を言われる。
市場では、現物・品種・産地といろいろな取引要因があるが
栽培法へのこだわり取引や、
まして生産者の野菜への想いに対する取引なんて無い。
哲学者の内山節は、このこだわりや想いを取引できる市場のあり方として
産直に期待をよせているが(僕も期待している)、
一般市場流通の中ではやはりそれらは、
取引対象ではない、ということであろう。
これらの取引は、すべて見た目と品質・そして実績で、価値が決められている。
ある意味、栽培法へのこだわりは、品質向上の情報の一つとして、
市場でも生き残り、ある意味、それだけは切り取られて
スーパーマーケットなどに、野菜と一緒に飾られたりもするが、
所詮、そんなものは、小売まで行く過程で、飾りと化してしまうのである。
消費者が、
「傷があっても良いし、曲がっていても良い。虫食いだって平気だから、安全な野菜を」
と言ったところで、問題はそういうところだけにあるんじゃないのだ。
傷があったり、虫が食っていれば、日持ちはしない。
曲がっていれば、輸送に不便。
作る側と消費するだけの側との実際の距離が遠い、という問題もあるだろう。
また、見端の良い野菜から売れて、悪い野菜は売れ残るのが現実だろう。
こういった流通の中で、売り上げられた数字だけが情報として残り
蓄積され、次の売買のデータとして残る。
市場流通の過程で、
野菜のトータルな情報は、市場が価値を感じる物だけにそぎ落とされ、
それだけが、消費するだけの人に伝えられるのである。
そして、数値化された売り上げデータが、生産者側に残るのである。
作る人と食べる人の距離、そしてその間にある市場が感じる価値。
さらに、市場を通り抜けて届く情報の種類。
それら要因によって、僕は出荷用の畑の作り方を
自家菜園とは違うように規定されているのである。

などとすべてを外因にして、逃げをうつわけではないが、
そういう要因もあることは事実であろう。
ただ、すべてが市場原理というわけでもあるまい。
厳しい労働条件の改善は、常に農民が渇望していたわけだろうが、
現在の生産様式を是としていたわけではあるまい。
しかし、結果として、
石油を大量に消費することが基本となっている農法へ移行していった。
自家菜園においても、その使用量に違いはあるが
まったく石油資源を使用しないわけではないのである。
ただ、これらの生産様式であることへの恩恵は、
効率性という意味では、出荷用の畑の方が強い。

こういった生産様式と市場、そしてそれを支える思想によって、
自家菜園と出荷用のブロッコリ畑は、それぞれに存在しているのである。
無農薬で出来るか出来ないかの問題ではないように思える。
なぜなら、それらは単線的な議論ではなく、
その畑を規定する価値の要因(外因・内因)がなんなのか、の問題なのであろう。

最近、素朴にこう思うことがある。
安全な野菜を!と声高に叫ぶ人は、
消費するだけの存在から脱却して、たとえベランダであっても良いから
自分で何か作り始めてはどうだろうか、と。

僕の中で、自家菜園と出荷用の畑は完全に独立して、
別個に存在しているわけではない。
生産様式(石油資源・農薬への評価)と価値(市場的・思想的)、
さらには、目の前に広がる自然環境との付き合いの中で
それらの要因がカオス的に交じり合って、それらは同時に存在しているのである。

おしまい
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昨日の続き・・・

もともと娘に安全な野菜を、
と思って始めた無農薬自家菜園ではあるが、
実のところ、
「無農薬が安全で、農薬を使った野菜が危険」かどうかは、
これまで自分なりに勉強してきた中では、
どうもそうじゃないのかもしれない、と思うようにもなっている。
ただ、そのことに今、性急に結論付けることはしない。
今後も勉強・研究を重ねていくだけのことだ。
しかし、農薬の自然に対する作用と
農薬を散布している人間に対する作用は、
いずれも「ダメージが大きい」とは思う。
そういう意味では、耕作者である僕としては、出来るだけ無農薬が望ましい。
散布する労力もかなり大変なものではあるし。

そんな危険な農薬ならば、野菜についていたら危険じゃないか?と
思われる人も多いだろうが、出荷するまでに大抵は
酸化作用や日光による(紫外線等)作用や降雨等による洗い流し作用などで
殆んど危険なレベルで農薬なんて残らない(らしい)。
それを50年100年単位で食べ続けたらどうなるのか、は
僕にもわからないけど。

ただ、それ以外の要素で健康を害する方が大きいため、
そこまで気にするようになると、食事すら取れなくなる。
ある科学者は、
「食事は緩慢な自殺である」
と言い切る。
キャベツに含まれる発がん性物質は有名だが、誰もキャベツを食べなくはならないし、
醤油も1ℓも飲めば、人は死んでしまうのだが、それでも醤油は使い続けている。
どの食べ物にも、毒素はある。
農薬をかけないと、植物が自己防衛のために作り出す物質があるが
それも人体には有毒であるらしい。
ただ、その毒が、どのくらい摂取したらいけないのか、
その許容範囲以内で、その食べ物を楽しんでいるということであろう。
トマトのわき芽をてんぷらで楽しむ人がいるらしいが、
トマトの木に含まれる物質を利用した農薬もあり、
わき芽に多くその物質が含まれてもいる。
あまり大量に食べない方が良いらしいが、
少量ならば、それを食することを楽しんでもかまわないのかもしれない。
だから、昔から、
「いろんな物を食べなさい」といわれている所以なのであろう。
1つの物ばかりをたくさん食べ続けることが如何に危険か、
人は経験の積み重ねの中で、すでに会得していたのであろう。
無農薬だからといって、ある特定の食べ物ばかりを食べていたら、
きっとその人は、農薬漬けの野菜を多種類食べている人よりも
健康を害してしまう、と僕は思う。
無農薬かどうかの議論は、野菜の性能の議論のようなもので、
そんなことよりも、暮らしぶりの議論の方が、体の健康においては勝るのではないかと
僕は思うのである。
この視点に立ってみると、農薬の危険性だけを切り取って
それだけを議論することは、偏った議論のように思えてくるのである。
人体に影響を与える物質は、何も農薬だけではないのだ。
そもそも農薬も、自然物の作用を真似して、
あるいはそれ自体を抽出して作られたものである。
農薬登録されれば、害虫の天敵昆虫だって、「農薬」になるのだ。

食の議論において、
農薬という言葉のアレルギーを取り払い、
人体への影響を自然物まで含めた議論に進めてほしい、
そして、文化や風習をベースとした暮らしぶりへと議論を発展させてほしい、
さらには、偏食傾向になりがちな現代社会を
構造的かつ認識的にも議論すべきだ、と
いち農民として願ってやまない、というのは余談である。


またまた明日につづく・・・
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我が農園では、今
スティックブロッコリが出荷最盛期を迎えている。
自家菜園でもそうだし、
出荷するための畑でもそうである。
娘もめずらしく茎ごと
美味しい、美味しい、と言って食べている。

僕の自家菜園で取れたスティックブロッコリを
妻は、出荷用の畑で取れた余りだと勘違いして調理していた。
なぜなら、恥ずかしい話だが、
これまで無農薬の自家菜園では、立派なスティックブロッコリは
収穫できなかったからである。
大抵は、初期生育中に虫にやられて、
その後、株が大きくならないままに花芽をつけて、
茎も細くそして硬いスティックブロッコリばかりであった。
僕の技術が未熟だけだったかもしれないのだが、
ブロッコリの無農薬栽培は、結構難しいのである。

だから、持ち帰った立派なスティックブロッコリを見て、
妻は、出荷用余りだと思ったのは無理も無い。
そのスティックブロッコリが、自家菜園の物だと妻に伝えると
彼女は
「スティックブロッコリは、無農薬じゃ無理って、結婚当初言ってたのに!」
と驚いていた。
記憶に無いが、そうか、そんなことも言ったかなぁ。

確かに7年ほど前の僕だったら、そう思っていただろう。
ただし、今の僕でも、出荷用と自家用の畑の違いを
前提条件として省くことは出来ない。
つまり、僕が作る自家菜園ならば、無農薬は可能だが、
出荷用の規模の大きな畑では、試したことは無いが、
やはり無理じゃないか、と思っている。

まず2つの畑の違いについて。
自家菜園では、ブロッコリだけでなく、周りに多種な野菜が植わっている。
が、出荷用の畑では、ブロッコリばかりが植えてある。
規模もまったく違う。
自家菜園では、自分の家で食べる分だけなので、10数本の株のみ。
しかし出荷用の畑では、数千本の株が植えられている。
栽培法も違う。
基本的な耕起手順や土寄せ、施肥のタイミングは同じなのだが、
管理の仕方に、少しばかり違いがある。
自家菜園では、化成肥料は使わない。
また農薬も一切使わない。
除草も、気が向かなきゃしない。
出荷用の畑では、この逆である。

さらに大きな違いとして、
自家菜園では、生育ステージにあわせて混植をしている。
無農薬で栽培すると、どうしても初期生育中に虫にやられやすい。
そこで、初期生育の段階では、その生長が妨げられない程度まで
混植をしている。
今回は、レタスとシュンギクと混植をした。
レタスとシュンギクの方が、先に植えてあったため、
生長が早く、ブロッコリの生育に害を与えそうな大きさまでなってきた時
レタスと春菊は、収穫、もしくは畑のほかの場所に植え替えを行った。
そうしてやる事で、ブロッコリの初期生育中に、害虫の攻撃を
かわす事ができたのである。
出荷用の畑では、手間がかかりすぎて、この方法はまず無理だろう。
(畝ごとに、レタスとブロッコリを交互に植えるという方法はあるだろうけど)

さらにもっと大きな違い。
それは僕のモティベーション。
自家菜園では、無農薬でやるとどうなるのか、という実験的な動機であるが、
出荷用の畑は、生活資金を貨幣で得るため、という経済的な理由であるため、
失敗すると、生活に響くのである。
もちろん、自家菜園の失敗も生活に響きはする。
ただ、それは、その年、その時期に、その野菜が食べられない、という程度でしかないが。
出荷用の畑は、投入資金も多いので、失敗するとかなり厳しい。

これらの違いが、同じ野菜でも
自家菜園の畑では無農薬栽培を可能にし、
出荷用の畑では、ちょっと難しいかもしれない、と思わせるものになっている。

明日につづく・・・
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前回の続き。
当時の隊員機関紙に投稿した文章。
半分、ふざけた体でもあるが、まともに受け止めてしまうと
心が折れそうになる状況だった。
軽く笑い飛ばせるくらいいい加減な人間でなければ、
異文化の中で、3年は暮らせない・・・。


第4話 生活編 つづき

地雷
  この家に居て一番大変だった事を書く。過去形にしたが大変さは今も続いている。『地雷』。そう『地雷』がこの家にはあった。
  おむつとは誰が考えたものなのか?その考案者にノーベル平和賞を贈っても良いと私は思う。それと同時にオムツの考案者に、なぜ世界的にどの地方も例外なく普及してくれなかったのかと恨みを言いたい。なぜなら、この村の子供たちはおむつをしていない。おむつをしていないということは、つまり大便をもしくは小便を下に漏らさずキャッチしてくれるものがないということである。これがどういうことかは、もう気付いている人も多いと思うが、子供のいる家では、家の中に大便もしくは小便が無造作におちていて、それに気付くか踏ん付けてしまうまで処理はされない。まさに地雷と呼ぶのにふさわしい。さらに悪いことに村では誰の家でもかまわず人が出入りする。子供だってその例外ではない。この家には子供を寄せ付ける最大のアイテムとしてテレビが存在する。そのためか地雷の数も半端ではない。私も不覚にも一度踏んでしまった。ここが戦場であれば私は死んでいただろう。それ以来、自分の心を常に戦場に置き、家の中を移動するようにしている。

pemandangan allejjang


行列
  この稿に取りかかってから、私は少々困っている。すでに本題から外れた話題を提供しているのではないだろうかということである。しかし私の部屋すなわち私に生活を説明するにあたって、まわりに存在している環境を無視して話を進めることは出来ない。そこでこの稿においても、本題からは外れるかもしれないが、生活環境の雰囲気を感じられる逸話をひとつ記したい。そのことをあらかじめ読者諸君に断っておく。
  先にも記したが、我が家は山中に在る。そのためか、インドネシアの一般の物流から取り残されている面が否めない。ミーバックソウ。そんな手軽な食べ物でも村人には遠い存在だった。
  何の変哲も無い夕暮れ、一台のバイクがこの村をおとずれた。事の発端はそんなどこにでも在る風景から始まった。そのバイクは見た目普通のバイクだったが、後ろのキャリア部分に大きな箱を乗せていた。村人も不思議そうにそのバイクを見守っていた。やがて、バイクの運転手はバイクを降り、後ろの箱から金を出したたき始めた。そう。そのバイクはミーバックソウ屋だったのである。もちろん、村人はミーバックソウなる食べ物は良く知っているし、食べた経験も持っている。しかし、集落内でバックソウは食べられなかった。バックソウ屋がなかったのである。その集落に突然バックソウ屋が舞い降りた。村人は熱狂した。なんの変哲も無いバックソウにである。落ち着いて考えれば村人も熱狂はしなかっただろう。しかし、突然のバックソウ屋の出現はその思考を鈍らせ、皆に行列を作ってまでバックソウを食べるという現象を生み出した。皆が食べたし、皆がおいしいといって喜んだ。おいしいのはバックソウだったのか、それともこの集落にも一人前のバックソウ屋が来たことがおいしかったのか。私には理解しかねた。
  その喜びの風景を見ていて、私はあるデジャブに襲われた。“この光景は依然見た”。長く思い出せなかったが、最近その理由がようやく解った。私は確かにそのような光景を以前目にしている。それは生まれ故郷の小さな村落で見た光景であった。私がまだ小さい頃、その村落には自動販売機がなかった。しかしある日、その小さな村落に自動販売機がやってきた。なんて事無いダイド-の自動販売機だったように思う。しかし、村民はその自動販売機にそんなに必要とも思われない缶コーヒーを買いに行き、行列をつくっていた気がする。幼心にその時並んで買ったコーヒーがとてもうまいものだったと記憶している。そして、アレジャンの村人もそれと同じうまさを味わったのだと私は理解した。

・・・いろいろあった3年だったが、この集落での生活にはとても満足している。人の良さときれいな湧き水。それに美しい夕焼けにひっそりとしていて不動の存在感をもつ棚田の風景。少々生活は不便ではあったが、それを補ってあまりある風景がそこにはあった。それらに感謝しつつこの稿を閉じたいと思う。

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以前、ワインのあてにと作っておいた
自家製の赤玉ねぎとフェンネルのピクルス。
今日はそれで、妻がマリネを作ってくれた。

祖母が普通の玉ねぎを、自家用に大量につくるので、
僕は、今年、赤玉ねぎだけを栽培。
新玉ねぎをどうやって食べようかと思い、先々週の週末にピクルスにしておいた。
フェンネルは、レストランに出荷のために栽培したのだが、
やわらかそうなわき芽が沢山出てくるので、それもピクルスに入れた。
フェンネルの香りが、ほのかにかおるピクルス。
そして、赤玉ねぎの色が抜けて、
薄いピンク色のとてもきれいなピクルスになった。
それをどう食べようかと考えていたのだが、
妻と買い物に出かけて、妻のアイディアでサーモンとたこのマリネにすることに。

玉ねぎのピクルスに
オリーブオイルを適量入れて、
砂糖を少々
そして、昨年大量に取れて、冷凍しておいたバジルを沢山入れて
液が乳化するまで混ぜる。
そこへ、サーモンとたこを入れて、絡ませたら出来上がり。

冷えた発泡白ワインで流し込むと、
さわやかな初夏の味がした。
じめじめした梅雨時期を一時忘れさせてくれるマリネだった。

「次は甘エビを使ってみよう」と妻。
僕のトマトが取れ始めたら、それを混ぜても美味いだろう。
大量にピクルスを仕込んだので、しばらくはこれで楽しめそうである。
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当時のインドネシア青年海外協力隊の隊員機関紙に投稿した文章。

愛しのアレジャン集落 第3話 下宿編

rumah Dammar


投入
  私がバル県の任地に赴任してすぐに案内された村の下宿先は、まさに『投入』という言葉がぴったりの場所であった。家は高床式で、中はどことなく薄暗く、部屋には電気が無かった。家主はラエチュという集落長で、家族は15人くらいいたであろうか。家族の中ではラエチュ氏の長女と次女そして長女の婿以外は満足にインドネシア語を話すことは出来なかった。この家はアレジャンという集落の中央にあり、そのアレジャンはバル県の県境に位置し、バルの事務所までは40キロほど離れていた。もちろん、近くのWartel(電話)まで20キロ以上離れている。新聞はおろか郵便すら配達されない地帯なのである。これが私が投入された環境であった。
  バル県のプロジェクトには、ある掟がある。何人たりともその掟に背くことは出来ない。その掟とは、バルに赴任してから最低一ヶ月間は村の農家の家にホームステイすることであった。いち早く現地の状況を知るための方策であった。しかし大抵は事務所から出来るだけ近くて住みやすい家を準備されているものであった。が、私の場合はその例外にあったように思えてならない。
  話は語学訓練にまでさかのぼる。ジョグジャカルタで観光気分半分で語学訓練を受けていた頃、たまたまバルの先輩隊員がジョグジャカルタに遊びに来た。その先輩隊員から掟のことを聞かされ、若い私は気負い、出来るだけ僻地が良いと希望した。どんな希望もむなしいだけのインドネシアにおいて、私の初めての希望はいとも簡単にかなったのである。

2×3
  ラエチュ氏の家は相当でかい。村人から『100の柱の家』と呼ばれているくらいである。その家には常時10名ほどが住んでいて、多い時には20人以上になる。ラエチュ氏の氏族は大きく、バル県だけでなく、隣の州東南スラウェシにも家族がいて、そこには5haほどのカカオ農園をもっている。そのため、季節毎に家族がそれら各地の農地へ移動することがある。今現在でもラエチュ氏の家族とその関係を私は明確には言えない。
  家のファシリティーについて書こう。アレジャンと言う山間部の寂れた農村に住んでいるのに、冷蔵庫と車とテレビ、炊飯器、パラボラアンテナ、オーディオ等が揃っている。家のファシリティーは町のお金持ちに決してひけを取らない。家自体は木づくりの高床式で床と壁に隙間が空いている。木の板を貼りあわせただけの家であるため、隙間が多い。もちろん、外から家の中が覗ける。隙間だらけの高床式の家に、テレビや冷蔵庫の存在はうまく溶け込んでいない。  
  さて、家自体は『100の柱の家』と呼ばれるほど大きいのであるが、私の投入された部屋は狭かった。2mx3m。約2坪。その狭い部屋に我が物顔で存在を強調するベットがひとつ。無意味に大きい朽ちかけたテーブルがひとつ。それらの邪魔にならないように申し訳無い程度に私の居住空間がある。畳一帖ほどであろうか。

  いつかいつか引っ越そうと思って、3年が過ぎようとしている。はじめの一年はこの窓の無い部屋に電気が無かった。ろうそくとミロの缶で作ったランプでしのいだ。二年目に入り、ラエチュ氏が私の部屋に電気を引いてくれた。電球が灯った時、思わず歓声をあげてしまうほどうれしかった。どちらが協力隊か解らない瞬間だった。

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妙な空間
  この家の空間についてもうちょっと全般的にふれたい。さっきも書いたようにファシリティーは揃っている。普通この辺の村ではテレビのある家のほうが少ない。そのため、夜になれば村人は夏の虫の如くテレビのある家に集まりだす。私の家も例外ではない。夜になれば30人から40人くらいの人でごった返す。それは、力道山を街頭テレビで見た時代にそっくりの風景かもしれない。もちろん、私が見たいと思った番組は見れた試しが無い。
  3年も居れば、いろいろなものを目の当たりにする。それを全部書いていたら切りが無いので、この家の空間が時代的にもしくは民族的に私にとって妙だと感じた良い例を一つ挙げることにする。この家には一歳の男の子がいる。その子がある夜高熱を出した。白目をむき口から泡を出すほどひどい状況だった。近くの診療所(医者はいないが、助産婦兼看護婦がいる)まで約3キロ。当然ここはそこまで男の子をつれていくか、もしくは助産婦兼看護婦さんをつれてこなくてはならないはずだった。しかし、村人はそうはしなかった。夜もふけてしまった時分に村の長老達がこの家に集まり、香を焚いて口々にお祈りを始めたのである。そして長老の一人がもってきた動物(何の動物かは不明。中部スラウェシにしかいない動物だといっていた。)の皮を取り出し、煎じてその男の子に飲ませた。依然として男の子は白目をむいていて口から泡を吹いているのだが、一応の儀式は済んだようで、長老達はあまいコーヒーを飲んで歓談しながらテレビを楽しんでいた。その時、心配そうに子供を抱いている母親の横で、内部を冷やすためなのか、冷蔵庫がけたたましい音を立ててうなりだしていた。
  お金に不自由がなく、家のファシリティーが近代化されているこの家においても、この場合化学的な薬品より伝統的な薬が勝っていた。冷蔵庫・テレビ・車といった近代的なものが村の中にあふれだしていても、まだ伝統とその等のもの(テレビ・冷蔵庫)との折り合いがついていない空間がここにあると感じた。ちなみにこの男の子は助かった。しかし、障害が残らなければ良いが・・・。

後編につづく

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最近、忙しくなってきた。
主力のベビーリーフは、販売成績が伸び悩んでいるが、
今年から、本格的に始めた露地野菜の収穫を迎えたため、
休む間もなく働いている。

そんな中、ある一本の電話が携帯電話に入った。
同じ村の大工の棟梁からだった。
電話に出るなり、
「すっぽんを取るから来い」とのこと。
このくっそ忙しいときに、そんなことがやってられるか!
とも思ったのだが、なんせ、川で何かを取るという行為が好きなので
ついつい昼休みを利用して、川へ。

昨日、北陸も梅雨入りをした。
昨日と今日、少しではあるが、雨が降った。
この時期から雨が降ると、川にいたすっぽんが、
用水を流れる水を伝って、村の中の用水まで上がってくる、
とその大工は教えてくれた。
それを網で、まさに一網打尽にしようというのが、その大工の考えだった。
自分で殺生はあまりしない人なので、
以前にとったすっぽんは、僕がさばいた。
それは勘弁だと言うと、
「一匹3000円で料理屋に売れるんや」と嬉しそうにその大工は言う。

結局、昼休みを利用してのすっぽん漁は空振りに終わってしまったのだが
「午前中に取った 」と言う大きなすっぽんが数匹、
大工の軽トラックの荷台の上にうごめいていた。

遊び感覚のような川との暮らしが今もまだ、
村の中には息づいているのである。
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先月の話だが、うちの村でちょっとした事件があった。
警察が来て、すこし騒ぎになったらしいが、僕の耳に届いたのは、
それからずいぶん経ってのことだった。
場所は、提外地。
いわゆる河川と堤防の間の場所のこと。

うちの村では、特例的に提外地の一部を耕作地として認めてもらっている。
もともと河川の際まで耕作地だったところに、
後から建設省が堤防を作ったため、河川敷の一部が耕作地としてそのまま
認められたのである。
事件は、その耕作地付近で起きた。

うちの村の年寄りたちの楽しみといえば、
その河川敷の畑での家庭菜園であろう。
猫の額ほどの畑が幾つも連なっている場所があり、
皆、競うように家庭菜園をしている。
家庭菜園は、主に野菜だが、
仏壇やお墓に供える花も栽培していることが多い。
今回、事件となったのは、その花である。

毎日のように畑仕事に向かう年寄り連中が、
堤防の傍に綺麗な花がひとむれ咲いているのを見つけた。
真っ赤な花だった。
5月のさわやな風に吹かれて、
「気持ち良さそうに咲いていた」
と近所のお婆ちゃんは言っていた。
その花を、皆は、ポピーの花だと思ったらしい。
仏さんの花に丁度良い、と思った連中もいたらしく
「種がとれたら、畑に播こう」と思っていた人も少なくなかった。

うちの村には、その道に詳しい方がいる。
その道といっても園芸ではない。
その花が何であるかを知っている、その筋の方である。
その人が、愛犬のドーベルマンを堤防沿いに散歩させていたときに、
その花を見つけたのである。
そして、すぐさま、警察に通報した。
そう、それはケシの花だった。

警察が来て、その花は撤去された。
いろいろと調べたが、意図的に栽培されたものかどうかは不明だった。
うちの村人の中には、
そういうものを育ててもおかしくない人は何人もいるが、
鳥が種を食べて糞として落とした物だのだろう、という結論が付けられた。

「またあの村か」などと近隣から言われるのも癪なので、
そういう決着がついてよかった。
しかし、種が取れていれば、年寄り連中が、
提外地一面をケシ畑にしてしまうところだった・・・。

ある意味、産地形成の事例になりうるか?
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今もこれについては後悔している。
なぜあの時、彼について行かなかったのか、と。
アレジャン集落の若い連中も、その話は良く知っていた。
もっと聞き取りをしておけば良かった・・・。

第2話 長老伝説

kepala dusun


『田谷、今日は仕事に行ってはならない』
そう、それは突然の出来事だった。いつもの朝。いつものように朝食を終え、いつものように仕事に向かうはずだった朝。仕事場に向かうペテペテを待つ私を、アレジャン集落の集落長が呼び止めるまでは、その朝は特別なものではなかった。
『田谷、今日は仕事に行ってはならない』
彼は私に近づき、そしてゆっくりと言った。

唐突に私を呼び止める集落長に、少々面食らいながらも、どうしてなのかと私は尋ねた。彼は言う、
『今日はこの村の一番の年寄りにお前は会わなきゃならない。だから今日は仕事に行ってはならない』
どうも意味が通じない。一番の年寄りに会うのは良いとしても、何故一日の仕事をぼうにふるわなければならないのか?いつもの私だったら、適当に集落長をあしらって仕事に向かっていただろう。しかし、その朝はいつもと雰囲気が違っていた。いつものようにうまくあしらえないでいると、彼はこう言った、
『信じないかもしれないが、その一番の年寄りはこの集落内に住んではいない。集落の奥にある森に住んでいる。しかし、誰も家の場所を知らない。彼に会うには森の中で待たなければならないのだ。一日待っていても会えない時のほうが多い。が、今日は彼に会える日なのだ。』
話が見えない。なぜ私がその年寄りに会わなければならないのか?とたずねた。
『彼が田谷に会いたがっている』
不気味な話だ。

とにかく、詳しい事を聞こうと思い、集落長にその一番の年寄りについてたずねた。
『彼の年齢は800歳。あまりにも長生きしたので、髪の毛全てが白髪でしかも長い。体中がその白髪で覆われていて、目がとても大きい。顔は猿のようで、人の考えている事を言葉にしなくても理解できる。』
ここまで来るともはや妖怪の話だ。
『しかも、気をつけなくてはならないのが、決して目を合わせてはいけないということ。どんなに呼びかけられても、彼の目を見てはいけない。』
私は問う、目を見るとどうなってしまうのか?と。
『彼と目が合うと・・・食べられてしまう。』
そんなあほな・・・。

ペテペテが来る。いつものように乗り込む私。なにかを言っている集落長を横目に。私には農業指導の仕事が待っている。集落長には申し訳ないが、妖怪伝説には付き合っている暇が無い。走り出すペテペテ。それでもなお、何かを言い続ける集落長。どこか気持ちの座りどころが悪くて、走り出すペテペテの窓から、今度機会が会ったらその長老に会いに行きます、と言った。

仕事後、アレジャンに戻る。集落長に長老の話を聞きに行くが、彼はもうその事には触れなかった。3年間アレジャン集落に住んでいたが、結局白猿の長老話は二度と聞かなかった。しかしあの時の集落長の真剣さぶりは、ただの妖怪話で片付けてしまう事が出来ないものがあった。白猿の長老は本当にいたのだろうか?今となっては知る由もない。
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昔を思い出させるちょっとした出来事があり、
ずいぶんと書き溜めた「愛しのアレジャン集落」を思い出した。
他のWebサイトで公開していたエッセイなのだが、
これを期に、この日記に少しずつ移動させたいと思う。
誤字脱字については、当時のままとし、特に修正を入れないことにする(面倒だから・・・)。


第1話 生活編

私は、平成10年1月から平成12年11月まで約3年間、青年海外協力隊の農業指導員として、インドネシアの片田舎アレジャン集落に住んでいた。インドネシアはご存知の通り多民族国家であり、私の居た地域はブギス民族という海賊を祖先に持つ民族が住んでいた。その地域の中でもアレジャン集落は山の中に在り、村民は約300人という小さな村だった。広大な棚田を耕作して暮らしている。電気の無い家庭が多く、村内にテレビのある家庭は、私の入村時は2件のみだった。下の手記は、私が入村して半年目に書いたのもである。当時の生活ぶりを紹介すると言う意味で、ここに掲載したい。

<一日の始まり>

 『午前5時47分起床。特に理由があって47分という細かい時間に、起きているわけではない。ただ“6時くらいに起きたい”という漠然な考えがあって、目覚ましの時計をあわせた。だが、インドネシア来てから時間に対してルーズになっていた私には、正確に時間を合わせることがすでに無意味に感じられ、6時近くのこの時間に時計を合わせただけで満足している。それに、どうせこの目覚まし時計も、5,6分くらい早いか遅いかしていて正確ではないのだ。ただ言える事は、ここでは(インドネシア国アレジャン集落)正確な時間はあまり意味を成さない。

起床後、自室で簡単な体操をする。柔軟体操と腹筋運動。誰に言われた訳でもなく、また日本にいるときから続けてきた訳でもない。こっちに来てから、なんとなく始め、なんとなく続けている。無理に理由をつけるなら、“健康のため”という事になるだろう。私自身、こんなことで健康が維持できるとは、さらさら思ってない。しかし、不思議なもので、日課として体操をするようになってから、体操を怠った日は体調が良くない。以前ならば、体操しなくても健康だったのに、まったく余計な足枷を自分に加したものだ。そう呪いながら毎日体操している。

朝食は、下宿先の農家の若奥さんが用意してくれる。メニューは決まっていて、食べきれないほどのインディカ米と“インドミー”という即席インスタントラーメンである。これは、決して僕が蔑んで見られている訳ではない。むしろ、“豪勢な朝食だ”と、感謝しなければならない。なぜなら、“インドミーという自給できない食材が出されているから”である。最近の物価上昇により、インスタントラーメンの価格は2倍以上に跳ね上がったにもかかわらず、毎朝これが出される。これが精一杯の持て成しなのであろう。しかし、残念ながら美味くない。

食事を含めて村での衛生について少し書こう。
まず、食事について。村の食事は手をつかう。フォークやスプーンといった類はある。が、まったく使わない。衛生上、手で食べるというのは良くない。無論そんな事は知っている。しかし、手で食べるのは箸を使うより楽で、ついつい手で食べてしまう。せめて手を洗ったら、と思い水場へ行くのだが、水場の桶に時々ゴキブリが浮いているのには閉口する。手で食べる事は、衛生上悪い事ばかりではない。良い事だってある。私は元来不精な質で、爪なんかはなかなか切らない。爪が伸びに伸びて真っ黒になっても、なかなか切らない。それほどの不精者でも、手で食べるようになってから、爪はかかさず切るようになった。さすがに、黒い爪で飯を食う気はしない。
次に水だが、飲み水は村人と同じ物を飲む。水は直接山頂の水源からひいていて、それだけでも飲めそうなくらい澄んでいるが、さらに一度沸かす。それを飲み水としている。水に対してそれほど気をつかっているのか、と感心したのだが、水瓶の中をのぞくと、水を求めて溺死した蟻が、無数に浮いていた。ここの厳しい乾季には、アリ達も必死で水探しをしている。が、しかし、飲み水には近づかないで欲しい。
ついで、一日の疲れを癒す入浴びについて。アジア全般にもいえる事だが、インドネシアではお風呂に入る習慣は全く無い。水浴びをするだけである。水浴びは村内に設置された共同トイレで行なう。日本で言うユニットバスだと思ってくれて良い。勿論、バスタブなんか無い。大きな瓶があるだけである。トイレの水・水浴びの水は、この瓶からすくって使用する。水は水源から直接ひいているので、澄んでいてきれいだ。しかし、不思議な事に、水瓶の中には鯉が2匹泳いでいるのである。このことを村人に尋ねると、突拍子もない答えが返ってきた。水に毒を盛られたときに、いち早く気がつくためだ、と言うのである。鯉は、つまり、時代劇の殿さんの金魚、と言う事らしい。そこまで衛生に気をつかっているのか、とは私はもう感心しない。
衛生についてはこれくらいにして。
さて、食事後、仕事のために出勤する。農業指導事務所はバル(アレジャン集落のある地域の県庁所在地)の町にあり、私が下宿しているアレジャン集落から約40km離れている。ここの情景が少しでも解るように、ここで私の住んでいる集落について説明したい。

アレジャン集落は、山の中腹にある。バルの町から東に望むと、そこには南スラウェシの背骨がごとく山々が連なっている。アレジャン集落は、その山々をこえる州道にへばりつくようにして存在している。集落の標高は約500m。日中は気が遠くなるほど暑いが、朝夕は毛布が必要なくらい冷え込む。集落の人口は約300人。集落は、棚田で囲まれていて、住民のほとんどが農業を営んでいる。この集落を囲む棚田の面積は約100ヘクタール(集落長ラエチュ氏談)。重機が少ない途上国の片田舎で、どのようにしてそのような壮大な棚田が作れるのだろうかと不思議なのだが、人間その気になればピラミッドくらいのものは作れるのだから、と思うとなんとなく納得できる。畑は棚田だけではない。馬も登る事が出来なさそうな斜面をそのまま耕して畑にしている。この集落で、一番高い所に位置している畑の標高は、1300mである。そこへは、一度だけ村人に案内してもらって行った事がある。行きは山登り宛らの体であり、途中大岩をよじ登るといったイベントもあった。道など無い。人が歩いたからわずかに草がすくない、といった程度の道である。獣道だと思ってもらって良い。その畑では、カシューナッツを栽培している。道が無いので収穫物を持ち帰れない、と村人がその時こぼしていた。帰り道、村人と一緒にもかかわらず、途中の森で迷ってしまい、2時間ばかり森をさまようという経験をした。大蟻の大軍に襲われたり、いのししに出会ったり、と散々な目にあった。それ以来、そこには近づかないようにしている。
さて、この偉業としか言いようの無い農業を営んでいる民族は、かつて海賊であったブギス人である。粗暴で有名な民族で、この集落の人も例に漏れず粗暴である。他人との間に一線を置く日本人にとっては、何事にも馴れ馴れく粗雑感のあるブギス人は粗暴に見える。しかし、その分人間が擦れてなくて純粋な人が多い。朝は日の出と共に起き、昼は暑さを避け、昼寝をするか木陰でドミノ(トランプのようなもの・賭け事)を楽しむ。夜はテレビのある家に集まり、ワンパターンのドラマに夢中になる。いつでも、ダンドゥ(歌謡曲)を大音量で聞くのが好きで、私は夜なかなか眠る事ができないでいる。他人のそういう感情を汲むという事は全くしない。そういう民族、そういう集落である。

pemandang Allejang


<ペテペテ>

 話は戻って、バルの事務所までは“ペテペテ”と呼ばれているミニバスの交通機関を利用する。しかし、このペテペテと呼ばれている“南スラウェシの足”は、時間という座標軸から離れて存在しているかの様である。毎日ペテペテの本数はかなりあるのだが、来るときは2,3台連なって来たりする。それを逃せば1時間以上道端で待つこともめずらしくはない。さらに、そのペテペテのラッシュがいつ来るのか6ヵ月経った今でも良く分からない。時間の感覚が日本とはまったく異なっている。左手の正確に時を刻む時計がはかない.

 ペテペテの話題が出たので、それについてもう少し書きたい。ペテペテは日本でいえば軽自動車のワゴンより少し大きめの車である。インドネシアでは、このペテペテ(島によって呼び名が違う。ベモ・アンコタ・等々)が国民の足として重要な役割をしている。長距離には、大型バスがあるのだが、中距離や近距離にはこのペテペテが使用される。車の保有数が日本に比べて極端に少ない国の独特の交通機関と言えよう。とても便利なのだが、問題がある。それは定員についてだ。ペテペテはどっから見ても、せいぜい8人から9人乗りがやっとのはずなのだが、10人でも20人でも人を乗せる。私の経験した最高記録では24人が乗り込んだ。そのとき、私のひざの上に老女が座り、入り口の扉から2人ほどはみ出したまま、走っていた。ギネスに申請すれば、記録として残るのではないだろうか。日本ならば警察に取り締まられるところだが、この時出勤中の警察官もペテペテの中にいて、その時彼が言ったセリフは、狭さに悪態をついただけだった。

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昼飯は村にいれば村でご馳走になるが、バル(事務所のある町)でとる事が多い。バルには、気の利いたレストランなどないし、食べ物の種類も少ない。食べ物の種類は4種類だけで、どれもいまいち美味くない。そのためか、腹は減るのだが食欲はそそらない。昼、食べない時もある。しかし、不思議なもので、ここに来てから5キロほど太った。

<夕日>
帰りもペテペテにのる。朝と同様の苦労を経て、村の下宿先に着くのは6時くらいである。この時間になると、赤道の国だからもうすっかり暗くなっている。帰宅後、水浴びをするのだが、夕方になると涼しくなってくるので、水浴びはかなり厳しい。修行僧のように掛け声をかけて気合をためてから水をかぶる。水浴び後は、下宿先の家のテラスで、甘ったるい紅茶をすすりながら、夕日を見るのが日課になっている。セレベス海峡に沈む夕日はきれいだと聞いていたが、そうであった。夕日だけは美しい。涼しい夕暮れ時、水浴びに全身の気を使いきり、さらに甘ったるい紅茶が作用して私の思考は鈍くなる。テラスに夕日に甘い紅茶。そのとろけそうな時間が、1日のなかで一番の至福の時である。

<テレビ>
夕日が沈み終わる頃、ぽつりぽつりと人が、この家に集まり出す。お目当ては、テレビ。なにせ、この集落にはテレビは2台しかないのだから。他人を含めにぎやかに大勢でテレビを見る。多いときには50人くらいは集まる。それほどにまでテレビの需要は高いのだが、番組は実につまらないものが多い。結果見え見えの恋愛ドラマに、お涙頂戴ドラマ。笑うつぼの解らないコメディー。と、私にとっては、それほど面白いものではない。しかし、私には他の楽しみがある。テレビを見て喜怒哀楽を演じるブギスの村人である。恋愛の告白シーンにはテレビにむかってはやしたて、アクションシーンにはおばちゃんまでが奇声をあげる。私にとってつぼの解らない笑いにも、皆一斉に大爆笑する。日本ではすでに忘れてしまった日常のワンシーンが、ここでは毎晩見られるのだ。
私はいつも夜9時には部屋に戻り、ベットにもぐりこむ。夜は涼しく、寝苦しくない。ただ、夜遅くに近所の若者達が、うるさくダンドゥ(歌謡曲)をかける。時々、睡眠を邪魔されて眠れない時があり、いらいらする事もある。が、ここの人は気にならないのか、誰もその事に苦情を言う人はいない。その古臭くてダサい音楽に合わせて、眠れない夜はゆっくりとふけていくのである。』
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名残を惜しみつつ、今年の最後ということで
妻が、ソラマメベースのペンネパスタを作ってくれた。

先日の日曜日に、最後の最後ということで
未登熟の豆まですべて収穫しきったソラマメ。
今年はかなり沢山食べるつもりで、自家菜園で栽培したのだが、
株ばかりが大きくなって、それほど実をつけなかった。
品種の選択も悪かったのだろう。
(それでも、それなりには食べられたのだが・・・)
今年の晩秋に播くソラマメは、もう少し品種にこだわってみるか。

さてそのソラマメ。
来年まで、その味を楽しめないと言うこともあってか、
妻が手のかかるペンネを作ってくれた。
ワイン蒸しにしたソラマメを
昨年取って冷凍しておいたトマトで作ったソースに入れて
新ジャガイモと一緒に煮込んで作った、チーズたっぷりのペンネ。
それをすこし冷やした赤ワインと一緒に食べる。
あああ、至福の時。

今年のソラマメに名残を惜しみつつ
来年のソラマメに想いを馳せながら、食した夜。

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ある打ち合わせにゆく。
Sさんの提案で始めることになった食育活動の打ち合わせ。
7月と10月に講師として、料理教室をすることになった。
会場は、生協のスーパー、ハーツの一室。
僕が栽培した野菜を使っての料理教室で、
珍しい野菜の調理にとどまらず、
農業についても話してほしいとのことだった。

農家の野菜の食べ方などを紹介していただければ、ということなのだが、
僕は人に教えられるほど、料理は上手じゃない。
そこで、当日の料理教室は妻と二人三脚で行うことにした。
僕が農業や野菜の話をし、妻がそれを使って調理をする。
当日はそんな感じになるんだろう。

7月は、大人相手の料理教室。
13名ほどが参加だとか。
そのころ確実に収穫があって、めずらしいといえば
「ルバーブ」であろう。
なので、ルバーブのジャムを作ることに。
それと定番だが、僕の主力作物であるベビーリーフも使おう。
丁度、フェンネルなんかも収穫できるであろうから、
それをピクルスにしておいて、
ベビーリーフとフェンネルを使った、サーモンマリネのサラダを作ってみるか。
それと夏定番のモロヘイヤを使おう。
我が家では、エジプトスープなどと名づけて、
モロヘイヤと玉ねぎのスープを作るので、それを作ってみようか。
あとは、もし間に合えば、「根セロリ」を使いたい。
根っこを食べる変わったセロリで、
我が家の定番の食べ方になっている根セロリのカツが出来れば、
メインの料理になるだろう。

10月は、子供が相手の食育料理教室。
この頃取れる野菜としては、オクラがあるだろう。
僕は、オクラだけで4種類栽培しているので、
それを見せるだけでも面白いかもしれない。
八丈オクラに沖縄オクラ、赤いオクラに普通のオクラの4種。
他にも、食用ホウズキやセロリなんかも上手くいけば取れるので
子供が驚くような野菜には事欠かないはず。
打ち合わせの時に、生協の方が
「最近は、野菜を煮ることすら少ないようで、煮て食べる野菜は、あまり子供に人気が無いんですよ」と言うので、煮て食べる美味しい野菜をどんどん紹介しようと思う。

相変わらず妻は冴えていて、
子供相手ならばクイズ形式にしては?とアイディアをくれた。
ベビーリーフが詰まったかごの中から、何種類の葉っぱがあるのか
グループごとにみんなで数えて答えてもらったり、
その日使う野菜の断面を白黒で示して、
何の野菜なのかを当ててもらったり、と面白いアイディアは尽きない。

こういうのはとても好きなのだ。
当日が楽しみになってきた。
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娘が生まれてから、始めた自家菜園。
今年で3年目になる。
もともとは、農薬や化学肥料に汚染されていない野菜を
生まれたばかりの赤ん坊の母乳のため、そして離乳食のために
提供しようと始めた自家菜園。
今では、少しだけその意味合いが変わりつつある。

無農薬で無化学肥料という基本路線は変わっていない。
のだが、それにプラス、「作りまわす技術」にも挑戦している。
多品目を混作して輪作する技術。
「いや地」と呼ばれる連作障害を出さずに、途切れなく野菜を自給する技である。
今年は4月5月に野菜の自給が途切れてしまったのだが、
ここに来て、
玉ねぎ・ニンニク・ブロッコリ・ソラマメ・ニラ・
ナス・キュウリズッキーニ・シシトウ・フェンネル等
収穫物も豊富になってきた。

さらに、この自家菜園。
無農薬・無化学肥料・作りまわす技術に、
プラス珍しい品種のための実験圃場という意味合いも強くなってきた。
今年は夏作として、
ヤーコンやエシャロット、ブラックスイートペッパー、サボイキャベツ、
白ナス数種、紫スティックブロッコリー、吉川ナス、西洋トマト数種等に挑戦している。
この畑を卒業して、換金のために栽培し始めた品種としては、
食用ホウズキ、根セロリ、フェンネル、西洋トマトなどなどがある。

さて、その自家菜園。
先日、エシャロットを定植していたら、
近くで農作業をしていたむらのおばちゃんに
「あんちゃん、めずらしいもんばっかり作ってるんやねぇ」
と声をかけられた。
いろいろと試しているのだが、長年農業をやってきたおばちゃんに対して
それらの畑は誇れるものでもなんでもなく、
なんとも気恥ずかしくもあり、
「これは、もたすび(遊び)なんです」とだけ答えると、
「あんちゃんは百姓仕事が好きなんやねぇ」と言ってもらった。
いつも村の人も怪訝そうにみていた僕の畑だったが
なんとなく伝わっているものはあるようで、それが嬉しかった。

さて、ニンニクと玉ねぎの後に
セロリ・赤セロリを定植しよう。
無理なく、混乱無く、そして途切れることなく、
新しい品種も入れながら、この畑を作りまわしていこう。
食べることから出発する畑に、今年もどっぷりとその思考を埋めてみよう。

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岩田 進午 著 『「健康な土」「病んだ土」』.2004年.新日本出版.

最近、土についてよく考える。連作が続くベビーリーフ栽培の中、畑の土に疲れが見え始めている。ベビーリーフは畑の回転率も高く、換金性も高いのだが、その分、畑の土を疲弊させる。毎年、大量の堆肥を入れてはいるが、果たしてそれでいいのだろうか、と疑問に思うことがある。そこで、図書館で出会った本書を読むことに。

本書は、土について化学的・物理的な要素だけでなく、人と土の関わりについても解説された本である。また、多くの土壌関係本とは違い、難解な化学的説明を出来るだけ省き、平易な文章で書かれている。

本書は、人間中心主義ではなく、ディープエコロジー的な立場から土と人との関係を眺めている。著者は、土の研究を通して、農耕は自然の摂理から反する立場をとっている。産業革命以来の基本思想を、「人間にとっての効率性」とし、収量増加と労働生産性の向上の中で、土をただ単なる養分の器としてしか評価しない視点を批判している。「土のはたらきをより深く知り、自然の摂理に沿い、自然の力に依拠する営みへの思いを強めることが大切なのです。要は、目先の利便性、経済性のみから技術を評価するのではなく、生態系や土のはたらきに対する影響なども考慮に入れ、総合的視野にたって対策を進めることが必要なのです。日本の農業技術の伝統が、土を単なる養分の器と見なし、農業イコール養分供給という考えに偏りがちであった歴史的事実を考えるとき、このような視野にたつことは、とても大切なことなのです」(p166-167)。

本書が卓越しているのは、土の肥沃度について書かれた箇所であろう。
肥沃度に関して、ミクロな視点では、土中の生物多様性による安定した団粒構造とそれらが生み出す土粒子径のバラつきが、土の物理的・化学的なバラつきによる多様性を生み出し、肥沃度と強い関係があると指摘している。またマクロな視点では、農耕地でのバラつきとして、耕すことへの意味を再考し、不耕起栽培を取り上げ、その農法を自然の力(土の進化の過程)の助けを借りて成立する栽培法と評価している。筆者は、植生の変移を通して肥沃度を増していく土、といった土の進化の過程を解説し、その視点から、耕起することによって、土の進化のベクトルを逆転させてしまうと指摘している。耕起は土壌中の物理的・化学的・生物的単一化を目指すもので、「自然の摂理に真っ向から立ち向かい、地力の低下から脱出する道を、自然に任せるのではなく、人間の働きかけによって成し遂げようとする栽培法」(p125)と批判している。不耕起栽培において、一見土壌表面の硬さが耕起栽培のそれよりも硬いイメージで、植物の根の伸張に負のイメージであったのだが、筆者は伸張根の太さの硬度計による実験結果を引用し、決して不耕起栽培の方が土がより硬いわけではないことを証明している。「人間のスケール感覚で発芽・根ばりが困難だと判断された状態でも、実は、何らの抑制を受けることなく、根の伸張が可能であることを予想させます。”土の硬さは根に聞け”というわけです」(p120)

本書の意図とは離れてしまうのだが、均一性や単一性よりもバラつきの多い土がより肥沃であるという指摘は、内山節が指摘する「関係性のゆらぎ」にも大いに通じるところがある。モダニティ(近代性)の1つの基本思考として、効率性から生まれる均一性と単一性を批判するものは、人間中心主義からの見方から多様性への肯定へとつながるのであろう。それら多様性自体も、言説化された均一的なものではなく、それこそ「バラつき」「ゆらぎ」などにみられるそれら不安定な中の安定に求められるような気がする。

著者の基本的な座視に大変共感した。
ただ、最終章の土はみんなの宝物では、消費者と生産者といった2項対立的な描き方であり、多様な農を支える小農的考えには指摘が無かった。「農家の方々の労苦を消費者たちが実感できる社会を形成する運動に、消費者が自主的に参加し、その運動を成功させることが不可欠」(p176)と結論付けているが、価格保障や農業に誇りを感じられる社会づくりではなく、消費するだけの存在を生み出したのがモダニティの負の面だとすれば、皆が農ある暮らしをまさに自分の手の中にある実感をとりもどすことこそが、大切なのではないだろうかと愚考する。

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ニンニクとたまねぎを収穫する。
自家菜園での話。

ニンニクは我が家に欠かせない野菜の1つで、
なんとかほぼ100%自給できている。
今年も収穫は上々で、来年のこの頃までは何とか食べられるだろう。
秋になるとニンニクから芽が出てきてしまうので、
天日干しで乾かしたら、一部はスライスして冷凍保存することにしている。
そうすれば、なんとか1年、自分で栽培したニンニクを楽しめるというわけだ。

たまねぎは、赤たまねぎばかりを収穫。
普通のたまねぎは祖母が沢山栽培しているので、それを貰うことにして、
自家菜園には植えなかった。
ソフトボールより少し小さめくらいの赤たまねぎが沢山とれた。
風通しの良い軒下につっておいて、早めに食べてしまおう。
最近、夏が暑いせいか、たまねぎの保存が難しいのである。
先日、フレンチレストランのサレポアさんで教えてもらった、
たまねぎのピクルスでも作ろうか。

さて、自家菜園。
ニンニクの場所は、草生栽培を試してみた。
草生栽培とは、読んで字のごとく、除草せずに草と共に栽培する方法。
昨年、ずぼらな性格なため、ニンニク畑が草で埋もれてしまったのだが、
収穫結果は悪くなく、それどころか除草を一所懸命にやった祖母の物より
ずっと大きなニンニクが取れたのである。
なので、今年は草生栽培を、もっと本格的に試してみた。

ニンニクの畝が3箇所あったので、その畝ごとに草生栽培の中身を変えてみた。
1つは、本当に何も除草しない畝。
1つは、香菜と混播して、除草もしない畝。
1つは、カラスノエンドウのみを繁茂させて、他の草は除草する畝。
香菜は特にコンパニオンプランツと言うわけではないのだが、
冬場はびっしりと畝を覆いつくすので、草が生えにくくなるので用いてみた。
カラスノエンドウは、雑草の一種なのだが、根に窒素固定の根粒菌がついており、
土を豊かにする雑草の1つなので、それだけを意図的に残した。
僕の自家菜園では、スギナがひどいため、何も除草しない区では、
スギナが大繁茂していた。
これらの3つの畝を収量から比較してみた。

結果から言えば、カラスノエンドウが繁茂した畝が一番収量は良かった。
次に良かったのが、スギナが大繁茂した何も除草していない畝。
最も収量が低かったのが、香菜と混播した畝だった。

カラスノエンドウの畝が、一番収量が良かったのは予想通り。
土の状態もよく、ニンニクの根張りも一番良かった。

香菜は春になると花をつけるため、草丈がニンニクより高くなるので、
それが収量を一番少なくさせた原因かもしれない。

意外だったのは、まったく手を入れなかった区。
殆んど収量はないだろうと思っていたのだが、
除草をしっかりやった祖母のニンニクと同じくらい大きなニンニクが幾つも
取れたのである。しかもこの畝だけは無肥料にもかかわらずだ。
土の状態もよく、表土の目視による観察で、一番ミミズがいたのも
この畝である。

無肥料で、無除草の畝で、そこそこのものが取れたりするこの自家菜園。
僕の農に対する知識が大きく揺らぐのを感じる。
これまで学んできた農学の意味を考えてしまう。

とりあえず来年は、ニンニク栽培では、
無除草区、カラスノエンドウ区、そしてビニルマルチ区の三つで
試してみることにしよう。

さて、週末に向けて、美味しいワインを飲むために、
たまねぎのピクルスでも作ろうか。
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風邪をひく。
咳が止まらなく、夜眠れない。
医者の見立てでは、「気管支炎ですね。肺炎ではないようです」とのこと。
そして4日分の薬をもらった。

口蓋扁桃摘出手術を受けたのは、昨年の5月。
あれから1年が経った。
日記を見に来る人で、「口蓋扁桃摘出手術」や「扁桃腺、腫れ」などの検索で
見に来る人が多いようなので、
今回、風邪をひいたのをきっかけに
扁桃摘出をしてからの経緯を、少し書いてみよう。

口蓋扁桃を摘出してから、それ以前の体と比べて大きな変化があったことは、
① 風邪をひいても、高熱が出なくなった。
② 味覚の変化
③ 飲み込み時の喉の感覚
④ 睡眠の変化
であろう。

まず①について
口蓋扁桃を摘出してからは、基本的に熱は出なくなった。
切った年は、殆んど風邪をひくことすらなかった。
風邪をひいても、鼻水が少し出るくらいで、寝込んだりすることは一切無くなる。
たとえ風邪でも、仕事を休むことも無くなる。
ただ、今年に入ってからは、風邪をひく回数もすこし多くなってきた観がある。
そして風邪のひき方も、気管支炎になるケースが多い。
熱が出ない分、風邪をひいても仕事を休まないし、
体もそれほど辛くないため、医者にもなかなか行く気がしないので、
だらだらと風邪をひいてしまい、
結果として、気管支炎で夜眠れなくなるまで、ほったらかしにしてしまうのだ。
扁桃を摘出しても、基本的には風邪をひく回数は変わらない感じがする。
「扁桃腺を取っても、気管支炎になるんじゃ、どっちが良かったのか解りませんね」
と医者にも言われるのだが、
2ヶ月ごとに40度近い高熱を1週間近く出し続けていた以前に比べると、
今の状態の方が、楽ではある。
ただ、肺炎にならないよう、気を使う必要はあるが。

②について
あちこちのブログにもあるように、扁桃を摘出すると味覚が変わった。
術後、舌の両端が腫れることもあってか、
相当の間、甘味をなかなか感知出来なかった。
それでも甘味は、昨年末ごろには正常に感じるようになった。
現在は、普通の味覚だと思うのだが、
変わってしまった味覚に、自分が慣れてしまって、それが普通だと思うようになったのか
それとも、本当に味覚が戻ったのかは、定かではない。
ただ、現在でも水の味覚について、以前よりも敏感になったと感じる。
おいしい水ほど、やたらと甘く感じるのである。

③について
喉の大きな遮蔽物を取り除いたため、
ものの飲み込み時の感覚が、大きく変化した。
術前の感覚で飲み食いすると、むせてしまう。
息を大きく吸うだけでもむせることすらあった。
現在では、その喉の感覚にもなれたのだが、油断をするとやはりむせてしまう。

④について
まず、いびきをあまりかかなくなった。
以前は轟音のようないびきをかいていたのだが、現在はずいぶんとましになった。
それもあってか、睡眠の質に変化が生まれた。
数時間の睡眠でもぐっすりと眠れるようになったのである。
術前と比べて、睡眠時間に変化は無いのだが
術後は、睡眠が足りない、という感覚がほとんどないのである。
体も良く休まり、朝の目覚めも快適で、とても充実している。

扁桃を摘出して、1年。
多少の体の変化はあったのだが、
総合的に言えば、断然、摘出したほうが良かった、といえるだろう。
術後の痛みはかなりのものなのだが、それも1ヶ月程度なので、
医者から摘出をすすめられたら、僕は摘出することを考えても良いのではないか、と思う。
病気の原因を患部に求め、それを摘出・排除してしまう、という考え方には
もろ手をあげて賛成は出来ないのだが、
それでも、そういった自分の体と付き合っていくだけの
余裕がない状況の場合、摘出もやむを得ない、と思う。
僕の場合は、医者からすすめられた時には、
2ヶ月に1回は、1週間近く40度近い熱が出ていたわけで、
妻の就職や僕の仕事の独立などが重なり、
とても寝込んでいるわけにはいかない状況だったため、摘出を決めたのだ。
摘出後、風邪はひかなくなったし、何とか忙しい毎日をこなせているのだが
それで体がより健康になったわけではない。
喉が腫れないだけで、体の健康はほとんど変わらないのである。
(睡眠の質が変わったので、少しは健康になったかもしれないが)

体の異常をいち早く教えてくれていたかもしれない口蓋扁桃がないので
異常に気づきにくくなっただけなのかもしれない、と思うこともある。
口蓋扁桃を摘出・排除することで、体の健康への意識が弱まってしまうことこそ、
この手術の大きなマイナスの要因ではないだろうか。
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インドネシア研修生のH君には
毎月、報告書を出してもらっている。
それを元に、彼の得た成果と疑問点、そして今後の目標を話し合っている。

今回の報告書で面白かったことが1つ。
それは、研修後の夢について書いてもらった箇所である。
4月の報告書では、研修後の夢は、独占的な野菜の取り組み、について書かれていたが
5月の報告書では、複合的経営について書かれていた。
田んぼや野菜だけでなく、果樹、畜産、養殖(淡水)なども含めた
複合的農業を目指したい、と書かれていたのである。

これまでもH君やその家族は、
普通のインドネシア一般の農家と同様、
田んぼと畑作、そして鶏等の家禽を飼いながら生活していた。
さらには、屋敷地には、ジャワ特有の農文化であるpekarangan(庭)があり、
薬草や果樹、日常使う野菜等を栽培している。
なので、彼が言う複合的農業が何を意味するのかが、
報告書を読んだ段階で、よく解らなかった。
なぜなら、インドネシアの農民の生き様そのものが
複合的農業なのだからだ。

H君が言うには、複合的農業とは
「お互いがもっと密接にリンクしあう農業」だそうだ。
畑の余った野菜を家畜の餌とし、家畜・家禽の糞や養殖池の泥を
畑の肥料として利用したい、という。
H君は、この5月、うちの農園でハウス内に堆肥を散らす作業をした。
大量の堆肥を散らす作業をしながら、彼は、自分の故郷での農業を
考えていたらしい。
インドネシアの農業では、化学肥料の利用が中心である。
だから、インドネシアの農家に栽培法等を聞かれる時、
必ずといって良いほど、
「チッソ・リン酸・カリ(化成肥料の成分)は、どれくらい入れるのだ?」
と質問される。
大量にある稲わらや家畜の糞は、多くの場合使用されず、
大量の化学肥料を投入するのである。
H君も4月5月と良くそんな質問を僕にしていた。
どのくらい化学肥料を入れれば良いか、と。
その都度僕は、堆肥をどれくらい入れれば良いかを答えていた。
そういうことがあってか、彼は次第に、自分の畑に投入すべき有機物の量へと
関心を向けていった。
「有機肥料を自前で賄おうとすると、ある程度の家畜数が必要になると思います」
とH君は言う。
だから、農作業で必要な程度の家畜を飼うだけでなく、
養殖や畜産もそれなりの規模でやり、
畑とそれらの間で有機物の循環もしっかりとできるようにしたい、
とH君は考えているようであった。

また、彼の言う複合的農業には花の栽培も含まれていた。
インドネシアではまだまだ数少ない花の園芸も取り入れたい、とのこと。
5月は、うちの農園では鉢物の花も栽培・販売している。
たぶんそれを見て考えたらしい。
さらには、僕が実践しているコンパニオンプランツとしての
花と野菜の混植も影響を与えたようだ。
「ある程度、花もやらないと畑の周りに植えられないですし」
とH君。
害虫の忌避のために鉢花栽培を栽培するのなら、自分で利用するだけで無く、
鉢花の販売もしっかりとやりたい、というのがH君の考えだ。

何かと収入が不安定なインドネシアの小農業。
気候災害や市場の高騰や暴落が日常茶飯事なインドネシアにおいて
少しでも安定して、かつ、各部門が有機的につながる農業を目指したい、
と5月の報告書の中で、H君は考えたらしい。
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ここ数ヶ月止まっていた家作りを再開。
今週の火曜日、設計士さんと打ち合わせをする。
2月以来の打ち合わせ。
平面図も外観も決定し、
農地の宅地申請手続きも、なんとか始まったことを受け、
実施設計の段階にうつることになった。

実施設計とは、
工事内容を確定することができる設計のこと。
基本設計に基づいて、構造設計、設備設計を含めた総合設計をおこなう。
図面は平面図、立面図はもちろんのこと、断面図、矩計図、仕様書、面積表、外部・内部仕上表、建具表、建具リスト、展開図、設備図などを作成する。
また、構造図、構造計算報告書など、確認申請に必要な設計図書を作成する。

さて、その実施設計に入る前に、
設計士さんから、1点だけ確認された。
それは、断熱について。
家作りを本格的に始める前に、いろいろな雑誌や本で謳われている
「高気密高断熱」に興味があった。
これから建てるのであれば、高気密・高断熱だ!とも思っていた。
そこで、初めに設計士さんに会った時に、
高気密高断熱の家を希望する旨を伝えていた。
実施設計に入れば、断熱の設計も当然ある。
そこで、設計士さんからは、断熱をどうするのか尋ねられたというわけだ。

家作りに入って、自分なりにあれこれと本を読み、
家を建てている現場で、大工や他の設計士さんからも話を聞いて回った。
その結果、高気密・高断熱は止めることにした。
従来どおり、高性能グラスウールの断熱で設計してもらえるようお願いした。
理由は幾つかあるが、
主なものとしては、家の中での快適さは、家の性能よりも
暮らしぶりの工夫が勝るのじゃないか、と確信に至ったからである。
家の性能を伸ばすことで、楽して快適さをある程度得られるかもしれないが、
工夫を凝らす努力を省くことで、暮らすことへの関心そのものが
失われてしまうのじゃないか、とも危惧している。
暮らすことは工夫をすること、そして何よりもそのことに
密接に真剣に付き合うこと、だと思っている。
無駄と思われる努力を省くことで、
そのなかにあった暮らしぶりの知恵そのものも失われてしまいそうで、
そうであるのなら、いっそ、少々家の性能を落として、
その分、工夫を凝らさないと住めないようにしておこうと思ったのだ。

だから、
手間のかかる暖房である薪ストーブを入れることにしている。
生活との関わりを省いて、家の中ではなく、心の中に北風が吹きすさぶ生活に
なってしまった現代だが、家の中に少々隙間風が吹いても、
家族や遊びに来た友人が心温かく過ごせる家にしたいものだ。
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ある記事を読む。
6月2日付けの日本農業新聞3面にあった記事。
取材ノートというコラム記事で、
「インドネシアの食と農」という題をつけて
寺田展和という記者が書いていた。
この日記でも読めるようにと、ネット記事を探したが、
紙面のみの記事のようで、ざんねんながらここでは紹介できない。

記事の内容は、おおむね次の通りだ。
「インドネシアの農民は、穀物高騰でも購買力は下がり、なお一層、貧困化にさらされている。さらには、インドネシアでよく食べられている大豆製品の価格が穀物高騰の煽りで高騰していることに対して、輸入関税の引き下げよりも、国内の大豆増産などの自給率向上への国内議論が強く、日本も経済力を頼みうかうかしていられない」。

何点か気になる点がある。
まず、取材した米を収穫していた農家が、
現在の米価や売り先について答えられなかったと書かれていたが、
僕が知る限り、インドネシアの農家が米価に答えられない、なんてことはありえない。
たとえば、そのインタビューを受けた「農家」が
農家の田んぼを青田買いした商人に収穫人(収穫するためだけに雇われる人)として
どこからかつれてこられた人であれば、
その収穫している米がいくらで売買されているかは、わからないかも知れない。
ただそのことが、インドネシアの農家が無知で貧困だ、と言う理由にはならない。
「自分が作ったものがいくらで売れたか、くらいは知っていて当然と思っていたから驚きだ」と寺田記者は書いたが、
インドネシアまで取材に行ったのだから、その収穫していた人がどういう立場なのか、
インドネシアの農業雇用構造にどういう問題点があるのか、
そこまでインタビューすれば、そんな浅はかな結論にはならなかっただろう。

次に、米の売価は上がっても農家の購買力は下がる一途、という箇所。
地元有力記事にそう書いてあった、とあるので、
コンパスという地元有力新聞で検索してみる。
と、これを引用したのかな?と思う記事を見つけた。
http://cetak.kompas.com/read/xml/2008/04/02/02551084

確かに、地元新聞の記事の中で、米価が収穫期を迎えても下がらないことや
農家の労働賃金の向上よりもインフレ率の方が高くなってしまい、
また農家レベルでの米価が下がっていることもあり、
米の価格高騰が、直接農家の購買力を押し上げるには至っていないことが
書かれている。

しかし、地元記事で扱われているのは、農家の「upah」 (賃金)であり、
農家が他の農家に手間貸しにいった時に(buruh tani ということ)得られる賃金を
対象にしているようにも読める。
手間貸しを主流にしている農家には、穀物と石油の高騰でインフレになるのは
たしかに苦しいだろう。
しかし、すべての農家がそうであるわけではない。
僕が見てきたインドネシアの農家は、米価を見ながら手持ちの米を換金していた。
今回の高騰と購買力の関係は、もう少し観察が必要だろう。
全般的なインフレで、国民の購買力は落ちるだろうが
農家の購買力が、相対的にどうなのかは、解らない。
1999年の通貨危機のときは、都市部の失業者を農村が受け止めて
貧窮をしのいだ例もある。
インドネシアの農村には、購買力こそ都市に比べて無いが、
危機時に、それをやりすごすだけの包容力はあるのだ。

しかし、このことが、なぜか日本の農家と似たような状況とし、
「日本の農家の地位の低さをつい連想してしまう」
と寺田記者は書いたのだろうか。何を見て、何を勝手に連想したのだろうか。

3点目は、国内自給に対する主張が日本に比べて高い、と評価している点。
穀物や石油の価格高騰は、国際レベルで購買力の無い国では、悲惨な結果が待っている。
現に、インドネシアでは大豆製品の価格が
50~100%上昇してしまっているのだ。
日本で言えば、100円前後で買えた安売り豆腐が、200円以下のものが無い状況なのだ。
インドネシアの状況下でなら、男前豆腐なんて、600円以上もしてしまうだろう。
そういう状況下での、国内自給への議論なのだ。

そもそも投機的に価格を吊り上げたり、
石油代替などと称して植物油がとれる作物を作り、
油の使用を減らすことよりも、代替によってまかなおう、という発想を
お金のある側がしているから、お金の無い側が自分たちの分は自分たちでまかなおう
という発想になっているのではないだろうか。

だとしたら、このことを日本も「他山の石」などと大見出しで書いてあったが、
その状況を作り出している側の日本が、
インドネシアの状況を見て、他山の石とすることは、
一体どういうことに関してであろうか。

記事全般的に、日本の常識といういろめがねをかけたまま、インドネシアを見て
わかりやすかった部分だけを乱暴に切り取って、
無理やり日本と対比させて書かれている。
恣意的な解釈であり、インドネシアを理解しようとして取材した態度が
みじんも感じられなかった。
お金を貰って読者に記事を提供しているのだから、
こんな読者を馬鹿にしたような記事は、やめてもらいたい。
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集落の関連団体が出て、用水路の畦に芝桜を植えて歩く。
僕は青年団の役員として参加。
他に、自治会、農家組合、女性部、子ども会、老人会も参加。

活動予算は集落の環境保全隊から出ている。
農水省の農政改革の3本柱の1つ、
農地・水・環境保全向上対策。
それが平成19年度からはじまっており、毎年何百万かの資金が
集落におりてくる。

農水省のページでは、
「我が国の農地・農業用水等の資源の適切な保全管理が、高齢化や混住化等により困難になってきていること、ゆとりや安らぎといった国民の価値観の変化への対応が必要なこと、我が国農業生産全体の在り方を環境保全を重視したものに転換していくことが求められていることから、地域ぐるみでの効果の高い共同活動と、農業者ぐるみでの先進的な営農活動を支援する「農地・水・環境保全向上対策」を平成19年度から実施しています。」
と書かれている。
この予算で、むらの用排水路を掃除したり、田んぼの畦に芝桜を植えたりしているのだ。

農水省が謳っているような効果は、どれくらいあるのか疑問だが、
それでも集落の人たちが集まって活動することには、意義がある。
芝桜の定植が綺麗じゃない、と愚痴をこぼしまくる老人会の人たちにはすこし辟易したが、
それでも普段は、それほど顔を合わさない世代とも話す機会になり、
こういった活動が、むらの自治に対する経験の蓄積にもなる。

これまでむらは解体される方向だった。
今でもその流れはあまり変わっていない。
だが、ここにきて、国家も考えを少しばかり改めたのであろうか。
予算使用に制限はあるものの、活動はむら側が自由に作ればよいという
この農地・水・環境保全対策。
活動自体は、どこでもやっているようなものばかりだが、
それでも、それを集まって考えたり、みんなで実行することで、
むらの自治が向上するんじゃないだろうか。

ただ1つ気になること。
それは子供との断絶。
子ども会の参加はあったが、子供の参加数は少なかった。
みな、地区のソフトボールの大会に行ったという。
僕らが子供の頃は、集落ごとにチームがあったので、
むらの活動がある時は、ソフトボールの練習は無かった。
だが、少子化により、1集落で1チームを組織できなくなっており
小学校単位で、チームが編成されるようになった。
そうなると、むらの活動カレンダーと子供のカレンダーは
ますます接点が無くなる。
昨年のむら祭りで、子供神輿がでたが、その時大半の子どもは
ソフトボールの練習で参加しなかったのである。
うちのむらが祭りでも、同じ小学校区内のほかのむらでは祭りではないので
通常通りに練習があるのだ。
今回も、そうだった。
子ども会に所属している間は、まだいいかもしれない。
子ども会を抜ける中学生から、
青年団に所属する適齢期でもある30歳前後まで
その個人は、むらとは別のカレンダー(学校・大学・会社)で生きていくのである。
この断絶が、たぶん、現在のむらの弱体につながっているんだろう。
学校の近代的な教育。
地域と結ぶ、地域から学ぶ、などと学校教育の中でもよく聞かれるようになったが
断絶は激しくなる一方である。

芝桜を植えながら、そんなことを考えていた。
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田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

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