一昨年から、圃場でアブラバチを増やせないかどうか、試している。
アブラバチとはアブラムシの天敵の虫。
これを自在に増やせれば、アブラムシ関係の薬剤散布は
減らすことが出来るのである。
といっても、なかなかうまくいかないのだが。

アブラバチは農薬登録されていて(アブラバチAC)、
それを買って、増殖させてもいいのだが、どうせそういう虫は
周りにも居るだろうし、在来種の方が何かと都合が良い。
(お金かからないし、環境にも適合しているし、それにいくら天敵だからといって、そこに在来していない虫を人為的に増殖させるのは本意ではない)。

ということで、僕の農園に在来しているアブラバチが
寄ってきて、繁殖しやすい状況を作ることに。
方法は簡単。
圃場にアブラムシを増やして、アブラバチがやってくるのを待てば良い。
アブラバチは、アブラムシに寄生して増えていく。
なので、アブラムシをまず飼わないといけない。
ただ、そのアブラムシが、商品作物につくアブラムシだと、
非常に都合が悪い。
僕の主力商品はアブラナ科の葉野菜。
なので、これにつかないアブラムシだけを増やさないといけない。

そこで、
麦を圃場の一部(ハウス)に植えるのである。
麦には、ムギクビレアブラムシがつく。
このアブラムシは、麦にしかつかない。
なので、幾ら増殖しても、圃場内の商品作物には、それほど影響がない。

次にどうやってムギクビレアブラムシを増やすかだが、
アブラムシのつきやすい環境下で麦を育てれば良いのだ。
つまりは乾燥下で生育させればよい。
アブラムシが飛ぶ時期までに、麦も大きくしておく必要があるだろう。
そう考えると、麦を播く時期も自ずと決まってくる。

その結果、
今年、アブラバチによるアブラムシの壊滅状態を観察できた。
一時はアブラムシが多すぎて、アブラバチの寄生が追いつかない状況だったが
4月に入ると、アブラバチが盛り返し、現在では、アブラムシの方が劣勢である。
まだまだ自在に増やせるわけではないが、
天敵利用で、間違いなく、害虫防除が出来るという例を
自分で作り出せたことに満足。
このアブラバチを、このまま通年、僕の圃場にとどめる工夫が、
これからの課題である。


写真は、アブラバチに寄生されたアブラムシ(マミー)
マミー

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04 27
2008

早朝から、苗の出荷。
それがこの時期、僕の農園での風景の1つ。
苗と言っても稲苗ではなく、野菜の苗や花の苗。
出荷先は、スーパーマーケットの苗市テント。
農家が出荷生産用に買う苗ではなく(中にはそういうお客も居るが)、
猫の額ほどの畑で家庭菜園を楽しむ人たちが、主なお客さん。
ナスやトマトなどの苗を1本や2本ずつ買うお客さんばかり。

うちの農園にも直接苗を買いに来るお客さんも多い。
やはり苗を1本や2本ずつ買っていく。
僕は直接接客にはつかないのだが、
それでも、会話がもれ聞こえてくる。
「とれたら、子供や孫に送るさけ」とトマトの苗を抱えて嬉しそうに話す老婆。
「去年は、枯らしてもうたさけ、今年は接木苗にするわ」と
キュウリの苗を吟味している初老の男性。
「去年もおととしも食べ切れんほど成ったでぇ~、今年もこれがほしかったんや」と
米ナスと長ナスの苗を大事に抱えている年配の女性。
「畑の脇に植えておいたら、おぶったん(仏壇)の花には困らんかったわ」と
金盞花だけをごっそりと買った近所のお婆ちゃん。

みんなみんな、それぞれの農をそれぞれに営んでいる。

接客につく僕の祖母は、このときばかりは元気だ。
僕の目から見ても、祖母の畑作りはそれほど上手じゃない。
が、祖母は得意気に、それぞれの作物の作り方を説明しているのである。
お客も農家の婆さんの話すことを、熱心に聞いている。
ははは、お客さん、うちのばあちゃんの話は半分に聞いておかないと、枯らしますよ。

近くのホームセンターでは、うちよりも安い苗が年中並んでいるのに
うちにくるお客さんは、この時期しか苗を作らないうちの農園に
また次の年も買いに来てくれるのである。

忙しくなるだけなので、もう苗は止めよう、とこれまで僕は父に言い続けてきた。
以前は、大口もあり、かなり利益も出ていたのだが、
ホームセンターや大規模の農家に押されて、
またうちの苗を買ってくれていた市場構造の変化により、
今では、小規模の苗作りになってしまっている。
利益もそれほど出ないし、買いに来るお客は小口ばかり。
小規模の苗づくりは、労ばかりで益なし。
それが、僕の苗作りに対するイメージであり、答えだった。
だが、僕自身が自家菜園を始め、
小さいながらも生活に密接した農を深めてきた中で
今ではお客さんたちの話の内容に、共感を覚えるようになっている。
どんな形にせよ、お客さんそれぞれの生活の中に農が溶け込んでいる。
そして、それをうちの農園が、ほんの一部だが支えている。
「ホームセンターの苗は、味気ない」
ある老人がそう話していた。
それは苗の質もあるだろうが、
売り場の雰囲気もあるのだろう。
遅れたように見えるうちの小規模の苗づくり・苗販売は、
苗だけでない何か違うものも販売しているようだ。

最近、僕はそれを「大切なもの」と感じとれるようになった。
生活に農を取り込もう、という人がいる限り、
僕はそれを支えていこうと思う。
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インドネシア人のH君。
来日してから、週4日は日本語研修と称して
長期海外研修制度の協同組合が主催する語学訓練に、
朝から晩まで参加している。
だのに、あまり日本語が上達しない。
来て2週間ちょっとなので、出来ないのは当然なのだが、
語彙数が一向に増えない様子。
一体、どんな日本語研修をしているのだろうか?

使っているテキストは、
ごく一般的な日本語教育に使われているものだった(「みんなの日本語」)。
会話形式だし、すぐに使える表現が多い。
でも、それらの表現をH君は理解していない。
なぜ?
H君曰く
「先生が、間違いだらけのインドネシア語で説明したりして、意味がよく解らないことがあるんです」とのこと。
日本語研修の先生役は、協同組合の代表理事の人。
以前、ある企業で働いていて、そのときに数年インドネシア赴任を
経験した、という人である。
「インドネシア語は出来ますよ」
と、初めて会った時に、その代表理事の方はそう語っていたが、
ジャカルタの飲み屋にたむろしていた企業戦士たちは
僕が知る限り、あまりインドネシア語が上手ではない。
(中にはびっくりするほど流暢なイ語を話す人もいたのだが)。

H君が言うには、
「よく解らないインドネシア語で説明されて、しかも出来る子に合わせてどんどん先に行ってしまうのでストレスなんです」だそうだ。

インドネシア語が出来るか出来ないか、のまさにそのことよりも
妻は、教授法に驚いていた。
「日本で日本語教えるのなら直接教授法でしょう」
と妻は言う。
直接教授法とは、その語学を、その言葉で教えるというもの。
つまり日本語を日本語で教えるということ。
僕も協力隊でインドネシアに派遣されたとき、
1ヶ月の語学訓練を受けたが、それらはすべてインドネシア語での
説明だった。
外国語を外国語で学ぶのは、なかなか大変なのだが、
その方が、生きた、すぐ使える言葉を身につけることが出来るのである。
これは経験上、まちがいない。

長期海外研修制度として、
派遣後すぐに、日本語の語学訓練を受けることになっている、らしい。
それは別にかまわない。
その方が、研修生にとっても良いことであろうから。
だが、中身が問題だ。
形ばかりの語学訓練にどんだけ時間をかけても
日本語はできるようにはならないだろう。

知人から何人かのボランティアの日本語教師を紹介してもらっている。
名前ばかりの語学訓練が終わったら、
直接教授法で、日本語が学べる機会を
H君には作ってやろうと思っている。
ただし、費用はH君もち。
週2回レッスン(1回約90分)で月4000円。
H君にとって、月謝がすこし高いようで、
今はまだ、通うかどうかを迷っている感じだ。
4000円をこっちで出してあげることは簡単なのだが、
あえて、僕が負担してあげるよ、なんて言い出さなかった。

なぜなら、主体的に学ぶ姿勢がなければ、外国語なんて身につかないのだ。
身銭を削って習う語学は、まちがいなくH君のためになるだろう。
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保育園で、財務部のクラス別総括と体験田んぼの打ち合わせがある。
まず、財務のクラス別総括。
保育園の増改築資金を1000万集めよう、という中での話。
今回のキャンペーン(12月~3月)で、
全体目標の700万には達したものの、クラス目標の60万には
あと、23000円ほど届かなかった。
クラスごとの総括を出してほしいということで、
役員2名と担当保育士1名の3人で、話し合う。

今回のキャンペーンでクラス別の活動をしたのだが、
前回書いたとおり、それをノルマと感じる父母も多く
何かと問題も出ていた。
数字として、各クラスに「60万円を集める」という数字を押し付けたのは、
やはり反省するべきであろう。
活動としては、小さくまとまった活動にならなければ、
役員と一部の有志のみが大変な思いをしてしまうので、
結果としてクラスごとでの取り組みの路線はよかったと思う。
集めた金額を数字的に表示するかどうかも微妙な問題だろう。
数字があれば達成感もあるし、次のやる気にもなる、という意見もあったが、
今回のキャンペーンを見ていると、単に競わせているだけにしか
見えない。
それを「押し付けられたノルマ」と感じた父母も多いはず。
「参加」のあり方まで、押し付けられる観はやはりぬぐえない。
ただ、だからといって、有志だけで集めていたら
とてもじゃないが700万円には達成しなかっただろう。
そこの塩梅が難しいところでもある。
次のキャンペーンでは、クラスの目標金額を設定することは
僕は、はっきりと反対した。

保育士が
「このクラスで60万円達成できなかったのはどうしてですかねぇ」
と言っていたが、答えは簡単。
先に全体目標である700万円が達成してしまったから、だろう。
700万集める便宜上、クラスごとの目標を設定したのだから。
これで総括はおしまい。

そのまま保育士と役員が入れ替わり、
体験田んぼの打ち合わせになる。

現在参加人数は15家族+職員。
60数家族いるのだから、思ったよりも少ない人数。
それでも40名ほどはいるだろう。
予定している田植えの日が、地区の運動会と重なっていることが多く、
何人かは、運動会を優先しているので、この参加人数なのだろう。
ただ、父母の会主催で開いた「話そう会」も影響しているのではないだろうか。
今回の増改築キャンペーンで、父母は心身共に疲れてしまった。
不満が飛び出し、増改築への猪突猛進にブレーキがかかった観がある。
それ自体は、僕は賛成の立場。
ただそんなムードの中、体験田んぼが最後の米の販売の段で
増改築の資金となるため、活動自体を増改築と活動と見られていて
それで参加する家族が少ないのではないか、とも思えてしまう。
まぁ、とにかく、やり進めるより他は無い。

田植え日は5月18日の午後からに決定した。
運動会の後に駆けつけられるよう、午後設定となった。
今日のお昼に保育士と僕とで、会場となる田んぼを視察したので
危険箇所等をもう一度確認しあう。
体験田んぼは、増改築の資金になる予定をしているが、
この活動自体は、増改築からは離して考えようということで
この集まりに
「ゆきんこ米をみんなで作ろう実行委員会」
という名を付けた。
なんだか役ばかりが増えていく気がする・・・。

最終的な参加確認は連休明けの7日。
どこまで参加人数がふえるだろうか。
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パッションフルーツが届く。
沖縄の農家からだ。
昨年の暮れに、沖縄へ学会参加と農家視察の旅に行ったのだが、
そのときに視察させてもらった農家から、パッションフルーツをいただいた。

視察した際に、その農家にいろいろとお世話になり、
しかも、お土産も貰ってしまったので、
福井に戻ってから、うちの自慢のごんぼ(ごぼう)を送った。
そうしたら、今頃になってパッションフルーツになって送られてきてしまった。
箱を開けると、あまーい独特の香りが部屋中に広がった。
インドネシアに協力隊で赴任していた時、
僕がいた地方は、パッションフルーツで有名なところだった。
だから良く食べたし、その手のジュースを良くお土産で人にあげていた。
日本に戻ってまで、このフルーツを口にするとは思っても見なかった。

さて、こんなものを頂いてしまって、
お返しには何を送ろうか。
他県の農家に農産物を送るほど難しいことは無い。
相当の自信作でなければ、送れないからだ。
下手な物をおくれば、相手が農家だけに
こちらの技術レベルや手の内を見透かされてしまうようで、
なんだか嫌なのだ。
農家から貰う農産物の贈り物は、
どれもこれも大抵、ものすごい一級品なのだ。
うちでは何十種類と野菜を作っているが、そういう絶対の自信作となると少ない。
やはりごんぼだろうか。
九頭竜川が気の遠くなるような時間をかけて作った沖積土の畑でつくるごんぼ。
人為的に作るにはまず不可能な畑で、5年に1回のサイクルで作るうちの自信作。

とりあえずは、礼状を送ろう。
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うちのむらは、農村と呼ぶには農家比率が昔から少ない。
約150戸中、70戸ほどが農家(農地を持っているという点で)。
大きな川の合流地点なので、流通の要所でもあった。
周りの集落に「市」という字がつく名前の集落もいくつかある。
川下にある三国には、北前船がついたという事実も大きく影響している。
川を利用した輸送が頻繁だったころは、うちの集落にも芸者がいる
船宿があったらしい。
3階建てだったので、「おしろ」と呼ばれていたとか。
輸送や馬の売買をする博労もいた。
今ではすっかり寂れたむらなのだが、
そういう背景もあって、昔から非農家がうちのむらは多い。
余談だが、僕が幼いころは、機屋が20戸ほどあった。
今では中国に押されまくって、3戸あるのみ。

さて、そんなうちのむら。
川沿いということもあり、漁師も多かった。
以前は20戸ほどあったという。
前にも書いたが、5戸1組になって川の地引網が組織されていた。
川に対する近代的な思想と制度が浸透し、
川に対する権利を主張していた人たちがいなくなったり、排除されたりで、
(昔は河川事業が多くて、金銭がらみでの悶着が多かった)
今では、漁業権という形で
むらの中に残っているのは、10数株のみ。
その1株を、ようやく取得した。
という今日のお話。余談ばかりですみません。

取得にかかった金額は、公にはできないのだが、
昔から考えたら、かなり格安だった。
仲介の労をしてくれた半漁半大工の棟梁は、
「おれが若い頃に取った時は、100万以上はかかった。株(漁業権)をゆずってもらうだけじゃなくて、株を取得したら、漁業権持っている連中を連れて、一晩飲みにつれて回らなきゃいかんかったんや。これから仲間に入れてもらいます、どうかよろしくお願いしますってね。株よりもその飲み代の方が高くついたくらいなんや」と言っていた。

今では、そういう会を用意しなくてもいいとか。
ほっと安心するのだが、顔見せの会がないのもどこかさびしい気もする。

株は、いったんうちの集落から出てしまったものを
僕が買い戻した形となった。
株を持っていた家とは、江戸時代までさかのぼると、
親戚になる家(といっても数代さかのぼると、親戚意識は強かっただろうけど)。
なので、いろんな意味で、今回の漁業権の取得は感慨深いものとなった。

これで雑魚は釣りたい放題。
サクラマスもOKだ。
それにその棟梁が
「夏の終わりから秋にかけて、鮎をとるさけ、お前もついて来いや。網の使い方、教えてやる」と誘われている。
うちのむらに脈々と受け継がれている、農ではない、もう1つの営みの形に
僕は、ようやくエントリーできた。
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ハウスで取れる野菜(葉野菜)がすこしおかしい。
葉の色も悪いし、生育もよくない。
明らかに、肥やしが切れている。

他の農家よりも大量に有機質肥料を投入しているのだが、
それでも、肥やし切れがおきるなんて・・・。
明らかに原因はひとつ。
ベビーリーフの連作だろう。
需要拡大と特売企画のために、売り上げは上々なのだが、
かなり土にダメージを与える作物なのだ。
根を深く張る前に収穫してしまうので、
根圏の微生物相はそれほど豊かにならないだろうし、
収穫対象が、その作物自体なので、
圃場からの有機物持ち出しの割合が高い。
しかも生育回転が速いので、連作も可能だ。
その分、土に対するダメージは大きい。
つまみなも土を荒らすが、それ以上じゃないか、と僕は見ている。

自家菜園では、「作りまわす」ことで、
肥料の投入は最低限に抑えることが出来る。
守田志郎が以前、土の中の肥料分はごはんに例えられる、と言っていたが
まさにそう思う。
ある作物は、白米ばかりを食べるし、
ある作物は、味噌汁ばかりを飲む。
作りまわす(連作しない)ことで、あるおかずだけが欠乏するのを防ぐのだ。
しかも、根圏の微生物相から考えると、ある作物は、肥料として漬物ばかり食べるが、
その代わり、その作物に寄生する微生物が、白米を作ったりもする。
だから、ハウスの中も、作りまわせればいいのだが、
「市場」が絡んでくると、そうもいかない。
売れるものがやはり優先されてしまうからだ。
そもそもでかい借金をして、建てたハウスなので、
市場性を無視して作りまわすことは不可能。

だからといって、このまま有機質肥料を大量投入しながら、
連作を続けるのも、違う気がしている。
特に、肥料切れを起こすようなことが続いてくると
強くそう思う。
市場も見据えて、それでもなお、作りまわせるという技術。
そんな農家に慣れるといいのだが。
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加藤 剛 編著 『国境を越えた村おこし』:日本と東南アジアをつなぐ.2007年.NTT出版.

インドネシア人研修生を受け入れるに当たって、今後この活動をどう広げていこうかを考え、手に取った本。

本書では、六つの村おこし活動の記録が収められている。地域は東南アジア。活動内容の多くは、植林や入会などの環境保全系である。地域研究者が研究としてだけでなく、それぞれのフィールドで、村おこしをしていくという関わりを記録している。

それぞれのエッセイの中で、フィールドワーカーとして求められる資質の鍵が散りばめられている。東ティモールでコーヒー栽培による村おこしのエッセイでは、著者は文化や歴史・風土が違う地域の「つなぎかた」にこだわり、その中で、対象フィールドの村人のエンパワーメントにつなげている。価格よりも、自分たちが生産したコーヒーがどう飲まれているか、どう評価されているかを村人が知ることが重要だと指摘している。
島上のエッセイでは、日本とインドネシアという異なった地域ではあるが、入会を通じての経験の交流が描かれている。その中で、近代的土地所有と伝統的なむらの自治(入会も含む)とが相容れないものであると指摘し、近代的思考の中で辺境に置かれてしまったむらの自治を、ローカルなお互いの交流を通じて、自らを中心にもってこようという試みである。
これら六つのエッセイに通底していることは、対象者である村人を「何もできない可愛そうな人」と捉えず、関わりの中で外部者も大きな変化や成長があることに目を向けている点である。外部者が一方的な援助者として村おこしをするのではなく、村おこしの活動を通じて、外部者と村人との成長や発展が描かれている。

ただ、本書の帯に「東ティモール、インドネシア、ベトナム、タイ、ラオス、フィリピンと日本の田舎同士をつなぎ」と書かれているが、日本の田舎が、これらの活動を通じてどう変化したのかの記述は殆んどない。これらの活動を通じて、日本の田舎の自治や意識はどう高まったのか、それが知りたかった。関係に目を向けて、一方的な援助者としての国際協力を否定する立場ならば、関わった人間や日本の地域の意識の変化に、もっともっと目を向けるべきであろう。そういう意味では、これまでの開発系活動本の域は出ていない。
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普通、「春」というと、
どういう食のイメージを皆さんは持っているだろうか?
芽吹きの頃で、
つらい冬も終わり、食材も豊富になる。
と思っている人も多いかもしれない。

実は今、一番食べる物がない。
自家菜園(露地)で、自分の家族の野菜を賄おうとすると、
僕の地域では、3月下旬頃から5月頭くらいまで、
食べる野菜が乏しくなる。
冬よりも春のほうが、食べる野菜に困るのだ。
その代わり、山や川辺に出れば、
山菜や野草などの採取物はそれなりにある。

僕の自家菜園を見渡すと、
とうが立った冬からの残り菜(まかなかった白菜など)や
クキタチ菜(折り菜)があるくらいで、
他に食べられそうな野菜はない。
香菜やハーブなどは少しずつ豊富になってきているのだが、
メインの食材として腹を満たしてくれる物ではない。

折り菜ばかり食べても飽きてしまう。
もう少したてば、ソラマメなどの豆類がとれるのだが、
どうもそれまでは我慢するしかないようだ。
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突然の来客。
デンマーク人が3人。
家具職人の夫と医者の妻、そして高校生の長男の3人。
村のある人が、国際交流のある団体に所属していて
それでその3人をホームステイさせているのだとか。
むらの農場がみたい、ということで、僕の農園に来る。

通訳として、むらの現役高校生(進学校)が数名ついてきていた。
が、農業関係の単語は殆んどわからなかったため、
しかたなく、僕がつたない英語で説明をする。

「えー、あー、うちの農園では、有機肥料しか使わず、うー、極力化学物質の投入を控えています」と、
インドネシア語混じりの英語で説明をすると
デンマークの夫婦の目の色が急に変わった。
「私たちも、25年も前から、有機農業グループを作っています!」
とデンマークの夫婦は言う。
初めは少人数で有機農業の勉強グループを作ったらしい。
そして、そのよさが波及して、今では700haの面積と
メンバーの農家が80人までになったという。
有機農業について、いろいろと聞かれたのだが、
僕の英語力の無さに、殆んど答えることができなかった。
僕としても、先日読んだフランシス・シャブスーの本「作物の健康」を
読んだことがあるか?と問うたのだが、それも伝わらなかった様子。
フランス人であるシャブスーが、実際に有機農業をやっているヨーロッパのグループから
どういう評価を受けているのか、それが知りたかったのだが、
英語力の無さから、議論にならなかった・・・。

訪問はたった30分。
話し足りなさそうな顔で、デンマークの3人は次の目的地に向かっていった。
丁度、今日からインドネシアのH君が、研修として僕の農園で仕事を始めていた。
彼との話、そしてデンマーク人との話から、やはりあることに想いが巡る。
それは「文化の三角測量」である。
人類学の川田順三が提唱しているもので、かなり大雑把に言えば、
日本と調査フィールドの2点だけで考えてもだめだ、というもの。
異なった地域3点を調査することで、それぞれの地域がより浮き彫りに
なるというものである。
自国文化中心主義からの脱却と、地域間比較における二元論的比較からの脱却が
可能となるが、地域の複雑なものをデフォルメ化してしまうという
批判もある。
しかし、僕の農園(福井のある地域)とH君(西ジャワ州のある村)との
農業の比較になれば、そこに潜む近代化への賛美につながりかねない。
もう1点、比較検討することで、僕らはきっと、もっと健全な意見の交換が
できるのかもしれない。
デンマーク人は、その1点になりえたのかもしれないが、
英語力の無さに、その機会を逃してしまった。

来るべきその日のために、英語力を高める必要があるようだ。
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むらのある人が逝った。
脳梗塞の突然死。
僕の母親と同世代の人。
農家組合などの寄り合いで一緒になると、いつも若輩者の僕に
いろんなことを教えてくれる人だった。

親しい人が居なくなると、
自分だと思っていたものの一部が、喪失してしまった感覚に襲われる。
人は関係で生きているのだから、それも当然か。
その人が逝ってから、僕の中にもぽっかりと穴が開いた。
もう続けられない、その人との関係の部分に、ぽっかりと穴が開いた。
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やっと来た!
インドネシアの研修生。名前はH君とでもしておこう。
スンダ人で、線が細く、穏やかな感じ。
さっそく日本語で接するも、解るとも解らないとも言わない。
そこで、日本語で自己紹介をしてもらった。
「わたしは、Hです。インドネシアの、です。よろしくおねげぇします」
だけだった。
まぁ、そんなもんか。
僕がインドネシアに協力隊で行った時と余りかわらない。
1ヶ月ちょっとの語学訓練だったので(お金の関係で)
それは仕方ない。
なので、しばらくはインドネシア語も併用して、コミュニケーションをとることに。

自炊してもらう予定なので、何か料理はできるか?と聞くと、
「職場では寮だったので、なんでもできる」とノタマフ。
インドネシア人にありがちなインスタント麺の料理ばかりは、
体に悪いからダメだよ、と釘を刺す。
連れて行ったスーパーでは、開口一番、「卵はありますか?」と
えらく卵に執着していた。卵料理が得意だ、という。

口に合う調味料が無かろうと、次の日、彼の部屋にそっと調味料を持っていった。
インドネシア風チリソースの調味料(手作り)。
彼は、来日してすぐの1ヶ月は、施設で語学訓練があるため不在。
調味料を冷蔵庫にしまってやろうと、冷蔵庫をあけると・・・・
上から下まで、びっしりと「Mie Goreng」(焼きそば)のインスタント麺で
いっぱいだった!!
大きなトランクで来た割には、
服が少なかったり、日用品がすくないなぁ、と思っていたのだが、
どうやら中身は、インドネシアのインスタント麺だったようである。
卵料理というのは、焼きそばの上にのせる目玉焼きのことか。
(インドネシアでは、焼きそばに目玉焼きがつくのがスタンダード)。
なるほどねぇ。

しかし、冷蔵庫を使ったことがない、と言ってはいたが、
インスタント麺を入れて置くとは・・・。
冷やさなくても、長持ちするのに。

なにはともあれ、こうして異文化交流はスタートした。
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なんとかこの3月末で、700万円まで集めた。
保育園増改築の話。
残り、300万円。
ご協力いただけた方、本当に有難うございました。

さて、この活動、順風満帆にみえるのだが、
そうでもない。
特に今回のキャンペーン(12月から3月)では、400万円集めたのだが
父母にとっては、疲労困憊のキャンペーンになってしまったのだ。
そのため、不満も続出。
外部からの募金も多いのだが、
それでも多くの部分を、父母(その親族・友人)に期待する感じになっている。

そんな中、先週、父母の会主催で、ある会が開かれた。
新園舎の完成をみんなで喜べるために、と銘を打って
今の増改築に対する不満や保育の変更に対する不安をみんなで共有しよう、
という会だった。
誰かが我慢して、誰かがその影で泣いては、新園舎が建っても喜べない。
みんなそれぞれに不満があるのだから、それを吐き出してしまおう
というのがこの会の主旨のように思えた。
(この会が開かれるまでの経緯を断片的にしか関わっていなかったため、正確な主旨は不明)。

毎週のように財務担当の保育士や父母が玄関に立ち、
募金を集められていない(もしくは出していない)父母に声かけをするのだが、
それが、父母には苦痛のようである。

「取り立て屋みたい」
「募金の数字が個人ごとに一覧表になっていて、管理されているようで嫌だ」
「クラスごとの募金合計が表示されていて、クラス間での競争のようで嫌だ」(僕も同意見)
「増改築が始まってから、保育士の連絡帳の記入がおろそかになっているような気がする。忙しくなった分、保育がおろそかになっていないか心配」
「生活が厳しい中、なんとか自分で出資したのだけど、もっとしてください、と言われるのが辛い」
「とにかく不安です」
「総会で理事は、外部からの募金もあるから大丈夫、って言っていたのに、結局父母に大きな負担がかかっている。うそつきだ」
などなど。
この不満は、「お金の集め方」の問題なのだろう。
これは財務部役員としての、僕への不満でもあった。
僕は隅に座り、これらの意見をただただ真摯に受け止めるだけだった。

この会を開くこと自体に反対していた人もいた。
「不満をこそこそ言い合って、せっかく頑張って募金を集めて、あと少しで終わりなのに、雰囲気を悪くするだけだ」
とその人は言う。
だが、不満をみんなが我慢していても、
それで新園舎が出来上がったとしても、
やはり素直には喜べない。
モノは出来上がっても、ヒトは離れていってしまうだろう。
僕はこの会があってよかった、と思っているし、
これからもどんどんやって欲しいと思う。
それでよりよい増改築へ向けて、みんなで一歩踏み出せるからだ。

ただし1つだけみんなで共有できるように主催者は努力をして欲しい。
それは、増改築をみんなで喜ぼうという意思の確認・共有、である。
不満を述べ合うだけでは、
「やっぱり増改築なんてやらなかった方がいいんですよ」
と僕に話してくれたある父母のように、
そもそもの根底が崩れ去ってしまう可能性もある。
やらなかった方がいい、とみんなそう思っていたら
お金は集まらない。
現実に、700万円も集まったのだ。
この会で、あるお母さんが言っていた。
「募金の催促は嫌なんですけど、今回のキャンペーンで総額が700万になったって聞いて、素直に、すごいなぁ!と感動しました」
こういう気持ちも
「やらなかった方がいい」に取り込まれてしまえば、
不満を溜め込んで猪突猛進を続けてきた財務のやり方と
なにも変わらないのだ。
みんなが互いを認め合う姿勢。
誰も否定されない場所の設定。
それが大事なのだ。

財務の先頭に立って旗を振り続けてくれたあるお父さんは、
みんなからの攻撃を1人で受け止め、辛そうにしぼんでいた。
僕は、そうあってはいけない、と思う。
賛成か反対かの2項対立ではいけない。
総論として、新しい園舎を皆で祝おう、は共有しつつ
各論として、お金の集め方について、不満や疑問を述べ合い、
改善に向けていくべきなのだ。
だからその場は、みんながみんなを認め合い、誰も否定されてはいけない。
ファシリテートする難しさ、もあろうが、
主催者はそれを目指して努力しないといけない。

蛇足だが、この会で気になった意見。
「新園舎と言っても、子供が卒園してしまえば、関係ないですからねぇ」。
と、あるお母さん。
そうなのだ。
この保育園の決定的な欠点。
それはコミュニティとして、期間限定での参加なのだ。
僕の実家がある村では、小学校が今年100周年を迎える。
その式典に400万かかるのだが、それを町内会費という形で
全戸が負担することになった。
その話し合いにかかった時間は15分。
町内会の総会では、みんな反対無く、賛成!の声が大きくこだましていた。
卒業しても、我が学校であること、うらが村の学校であることには変わりない。
だから、みんな無造作にお金をだす。
全戸負担も簡単だ。

保育園では、運動体でありつづける、ことを理念として掲げているが、
脆弱で未熟なコミュニティの中で、その運動はつねに困難なものになっている。
人が集まり、何かを共有するコミュニティ。
それの中で、何かをやろうとすることについて
いろいろ考えさせられる、今日この頃である。
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原 洋之介 著 『北の大地・南の列島の「農」』:地域分権化と農政改革.2007年.書籍工房早山.

市場原理主義の下、グローバル化を推し進める世界。そんな中で、「農」をどう捉えるべきなのかを探る原洋之介の農業経済原論3部作の第2部が本書である。

本書では、近代が生み出した市場原理主義が浸透していく中、各地域で多様な農はどう捉えるべきか、またそれに伴って農業行政はどうあるべきか、を探る。歴史しか未来を語らない、と著者がいうように、本書ではこれまでの農業近代化の道のりと農業行政の変遷から、地域の農業がどう変わってきたかを北海道と沖縄という辺境の地の農の歴史に目を向けることで、地域の生態系と社会構造に依存して成立してきた農業という特殊な生業のあり方が、果たして欧米で形作られた市場原理主義に適応できうるのであろうか、を検討している。

多様な農は、土地・水・人を生産でどう利用するかという農の技術と経済制度の違いに起因している。原はそれぞれの要素(要素市場)を、歴史的に検討している。
北海道では、内地からの移民で農業を成立させ、畑作中心の欧米農業(アメリカ→デンマーク)の模倣から始まった。外部からの資金的インセンティブ(政府・華族等の資本家)により、大規模農場が形成されたが、小作権の売買が常態化し、流動的な土地所有・利用が形付けられていった。その中で、北海道農業の特質として逸見謙三の指摘を紹介している。「本州府県から移ってきたときに、条件が余りに違うので、故郷の営農方式も技術も駄目になった。さらに、試験場も農家も、商品としては余り価値のない、農家の自給にのみ役に立つ作物の改善には、力を注がなかった。従って、北海道の農業経営は、本州の農家のように調和を保っていないのである。」(p69-70)。また20世紀の大きな市場価格変動の中(戦争等の影響)、畑作中心(商品作物を中心とする)とした中農は、一攫千金を狙う投機的行動が生まれ、農業経営を著しく不安定化させた、と指摘している。戦後、貿易自由化と同時に1960年代はじめに開始された基本法農政下で、北海道は大規模高生産性農業の確立が最大の目標とされ、それがもっとも進んだ地域となった。しかし、「北海道農業・農村の近代化へのドラマとは、離農の激発と残った農家の「ゴールなき規模拡大」追及であったことを軽視はできまい」(p108)と原は指摘する。「急速な規模拡大は、土地・施設・機械投資のための膨大な借金となって農家経営を圧迫し、経営の専門化・単一化は、とくに畑作農業の地力低下をもたらした。(中略)近代化農業とは、結局は金のかかる農業であるが、一方で火山灰土という生態系に負荷を強いる略奪農業でもあったようである」(p109)。

沖縄では、前近代的な土地制度(農地の中心であった「百姓地」などは古くはシマといわれた村の共有地だった)が廃止され、明治政府によって近代的土地制度が導入された。しかし、「固有の土地所有観から本土のような農家は成立せず、また家産としての農地という概念も発達しなかった。そして土地所有には強く制約されることなく、小作や一時預かり(シマカ:時期・時間を限って雇用される労働力。雇用される側は、借地にともなう対価つまり小作料としてのみでなく、金銭賃借にともなう元金・利子の支払いの代わりとしてウェーキ(地主)の元で働いた)という形態で経営規模を労働力の数に応じて柔軟に増減させる、旧くからの土地利用のかたちがほぼそのまま持続した」(p89:カッコ内補足は引用者によるもの)。戦前期の沖縄では、地代と地価の水準が極めて低いため、小作と自作の区分がさしたる意味をもたなかった。「階層別での農業収支の差は、ほぼすべて「農産加工」つまり黒糖からの収入の差であり、農業生産そのものにおいては経営規模による生産性格差はほぼなかった。つまり、所有規模の差が農業のあり方を決めていたのではないので、所有規模の差が、残って農業をするか他出していくかを決めていたのでもなかったといえよう。端的にいって、個別経営は当初から自立あるいは成立しておらず、商品経済の荒波のなかでは、生産物を商品化するのではなく、労働力を直接商品化させるという容易な方向に流れた。沖縄農村の商品経済への参加は、一部上層における商品の生産をとおしておこなわれる一方で、圧倒的多数の農民にとってはまずは自らの労働力を商品化するかたちで進行した」(p79)。戦後アメリカ占領下の沖縄では、経済自由化(資本取引の自由化、貿易・為替の自由化、ドル本位制)が実践されていた。沖縄の分蜜糖が、関税なしに本土へ輸出できるようになり、国内甘味資源の自給力強化対策によって、消費税が廃止され代わりに輸入関税が賦課され、沖縄産糖に対する保護も厚くなった。これらの刺激を受け、1950年代末から、沖縄農業は、自給的な食料農産物を中心とした戦前型構造から、「サトウキビへの単一化の道」を急速に歩み始めた。しかし国際価格の変動に影響を受け、生産量は85年をピークに停滞から減少へと向かっている。また沖縄におけるサトウキビ栽培は、南北大東島を例外として、機械を梃子にした規模拡大など事実上不可能である(栽培面積にまとまりがなく、圃場も小さいため)。また沖縄では、本土と違い、ムラ・イエが欠如している。百姓にとっては耕地は一定期間ごとに割替えられ私有化できなかったため、家産を継承していくイエ成立の客観的条件は無かった。また灌漑用水の維持管理もほとんど必要なかったことから、ムラという社会的結合協力関係も強固な仕組みとしては生まれなかった。「こういう歴史的経路が現在もなお沖縄農村・農業のありようを基本的には規定しているのである」(p135)と原は指摘している。

「規模拡大路線の優等生とまでいわれた北海道では、農家の機械投資や土地改良投資ゆえの膨大な農家負債の蓄積が危機を深化させたのに比べて、規模拡大がすすまなかった沖縄では、突然おこる危機としてではなく、趨勢として農業が縮小してきたといってもよい」(p130)。近代化路線を進めてきた日本農政の中でも、それぞれの地域が持つ要素市場の構造的差異から、北海道・沖縄の農の現在を原は見事に描いている。

世界経済のグローバル化がますます進んでいく今世紀。その中で、日本のWTO戦略、東アジア経済連携・経済共同体構想のなかで貿易の自由化だけにとどまらない日本のEPA、そして戦後最大の農政改革とよばれている「品目横断的経営安定対策」「米政策改革」「農地・水・環境向上対策」、さらには地方分権化。これらの政策が相互に長期的整合性を持ちつつも、「日本」という国民国家の枠組みのみで考えるのではなく、ひとつの個性あるまとまりとしての地域から、農業の具体的なかたちの模索を、原は北海道と沖縄の事例から訴えている。「グローバル化や東アジアという範囲での広域市場経済圏の成立という流れのなかで、国民国家対国民国家という近代の国際関係が消え去ることはないが、その相互作用に加えて、地域やローカルコミュニティといった単位の間での競争と協力との関係が主流となっていくであろう。東アジア経済連携から経済共同体という進路は、このような地域間ネットワークの構築を軸とする方向を明示的に組み込んだ制度構築なしには不可能であろう。地域によって多様な問題を抱えている日本農業の再生は、地域農政の個性や「農業の地域性」を認めあった形態での国境を越えた地域間ネットワーク構築を連携させないかぎり、ほぼ不可能であろう」(p212-213:傍線は引用者によるもの)。

原の言う「メゾ・エコノミクス」をしっかりと確立することこそ、今地域農業の再生の中で求められていることであろう。

補足:引用はしなかったが、今後の考察のたねになる箇所
兼業農家を大量にふくむ小農制と担い手への構造改革における土地制度(p189-191)
資本主義のグローバル化とは金融の自由化であるという構造の説明。自由化と国民経済の不調和。(p204-206)。
国の農政と地域農業、WTOとの関係(p195-199)。
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新年度。
うちの家族も新しい生活に入った。
妻は、長年の希望がかない、今年度から愛知のある大学に就職した。
そして今月9日には、僕が長年計画してきた
インドネシアの研修生受け入れが始まる。

7年前。
妻と結婚した前後、僕らはよく夢を語り合っていた。
妻は、そのころ博士号をとるべく勉強していたのだが、
後進の教育に従事したい、とよく話していた。
そして僕は協力隊から戻ったばかりで、
その勢いのまま、インドネシアの農村と関わり続けたいという思いから
研修生の受け入れをしたいと言っていた。

それからお互い留学したり仕事で長期海外滞在したりと
いろいろあったのだが、
ようやく、この4月から7年間思い続けてきたことに
一歩を踏み出すことになった。

新しいことへの挑戦はとかく不安も多いのだが、
今はとにかく前向きに考えてスタートを切ろう。
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田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
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です。
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