08 30
2006

朝、7時前に客が農園に来る。大抵、老夫婦。
ここ数日、雨が降ることがあり、それで客が来る。うちの白菜の苗を目当てに。

口コミで広がったうちの白菜の苗は、電話予約を受け付けていない。だから売り切れたら終わり。そういうこともあってか、客は結構必死になってやってくる。買い遅れまいと。

この時期、雨が降れば、白菜を植えたくなるのが農民というもの。だから今朝も、6時半頃に数組の老夫婦と1人のおっさんがすでにハウスの中にいて、うちの白菜の苗をかってに品定めしていた。その人たちに僕が声をかけると、『見に来ただけやざぁ』という。いちいち生育状況を確認しに来ているようだ。

ある人が『農民はスローライフですよね』というが、その『スロー』という言葉が気にくわない。ゆっくりなんてしていられない。天候とにらめっこしながらの生活は、ぜんぜんゆっくりじゃない。雨が降れば、気が急く。それが農民なのだから。
関連記事
マリーゴールドを挿し木した。
自分の畑の脇に植えてあるマリーゴールドを、秋作の野菜畑に植えるために。

最近、ちょっとしたことだがうちの周りでおばちゃんたちがうわさをしている。それは、
『とおるくんとこの畑、ぜんぜん虫つかんし、どんどん収穫できるけど、なんか良い薬でもまいてるんやろか』と。

いえいえ、ぜんぜんまいていません。僕の畑は、自家用野菜栽培のため。娘の離乳食に使える野菜や妻の好物を植えている。消費者にとっては、ちょっとずるい話かもしれないが、自分の食べる野菜には、農薬はまかない。というか、大量生産しなければ、市場価値に左右されなければ、虫食いでも平気ならば、農薬なんて本当は使わなくてもいけるのだ。農薬問題で農業のあり方に苦言を呈する人は、一度自分の生活が何に支えられてなりたっているか、都市と村の関係から考え直せば、自分の間違いに気付くだろう。

さてさて、マリーゴールド。自家用の畑には、野菜を囲むようにマリーゴールドとバジルを植え込んだ。それも農学の見地から言えば、とんでもない密度で。当然、畑はバジルとマリーゴールドが繁茂し、その勢いに押されるような形で、野菜が育っている。一見すると荒れ放題の畑。でも不思議と病害虫の害が無い。だから、近所のおばちゃんたちも不思議がる。荒れ放題の畑だからこそ、虫がつきそうなものなのに、その逆だからだ。

よくよく見ると、虫は沢山ついている。ただ、害を及ぼす虫だけじゃなく、それらを捕食してくれる天敵もたくさんついている。だから害虫だけが増殖はしない。マリーゴールドには害虫の忌避効果があるし、バジルにも同様の効果がみられるが、バジルはもう少し複雑な効果もある。ナスやオクラの初期はコガネムシの食害も多い。だが、そのコガネムシ、オクラやナスよりもバジルを好む。だからバジルばかり食べて、栽培している野菜を食べようとはしない。バジルが花を咲かせる頃、蜂が結構畑に集まるようになった。それらがどれほど害虫を捕食するのかは不明だが、バジルが花を咲かせてからは、害虫がぐっと減ったのも事実。さらにバジル。昆植するとトマトなどの生長促進にもなるという。

一度も農薬をかけなくて、しかもほとんど肥料もやっていないのに、野菜はどんどんとれる。お金になる野菜か?と聞かれると、そうでもないが、市場に出す野菜より、野菜らしい味に仕上がっている。ただ仕事はやり難い。とんでもない密度で植え込まれているため、足の踏み場も無い。ごちゃごちゃしてしまっていて、ナスとバジルが絡み合っているし。収量と労働量、そして労働時間などといった野暮な事を聞かれると、この栽培法はたしかに『割が合わない』としか答えようがないが、そんな基準では解らないものが、僕の自家用野菜園にはある。

秋作にもマリーゴールドとバジルにがんばってもらおう。
関連記事
インドネシアの友人に会いに行く。彼は今、研修で名古屋に来ている。彼とはかつて協力隊の時に一緒に仕事をした。お互いひかない性格だったので、当時は農村開発のあり方について、結構激しく議論をしたこともあった。ヒートしすぎて、よく喧嘩もしたっけ。

久しぶりに会う彼は、当時と同じように自分のやっている農村開発のプロジェクトを熱く語ってくれた。こちらはインドネシア語を忘れてしまってか、うまく受け答えられない。いや、そうじゃない。彼の話が純粋に羨ましかった。僕にとっては6年前に止まってしまった任地での時間が、彼の中では脈々と流れている。それは当たり前のことだ。彼はそこで生きているのだから。でもそれがたまらなく羨ましかった。

インドネシアの留学を決めた頃、僕はその時間をもう一度動かすつもりだった。その時間の中に身を置くつもりだった。でも紆余曲折あり、結局、僕が身を置こうと思った時間に、僕自身虚無を感じるようになってしまった。だのに、今日の彼の話は僕を再び惑わす。

ただそれでも1つだけ確認できた。僕が身を置こうと思った時間は、インドネシアであればよかったというものじゃなくて、僕が汗かきべそかきした任地での時間だったのだ。僕はあそこでもう一度生きていくことはないだろう。でも、そこの人たちと距離を越えて同じ時間を生きていくことは可能かもしれない。そんなことはとても夢みたいな事でしかないが、彼と会っているとそれは夢じゃないような気もしてきた。僕はここで、彼はむこうで、やっていこう。いつか交わる地点があるかもしれない。
関連記事
キンカンウリがよくとれる。とても食べきれないほどあるので、一部をJAがやっている直売所に出荷しようと考えている。が、どこも同じで、この時期直売所はキンカンウリであふれている。1個100円という低価格にもかかわらず、大量に売れ残るとか。まぁ、今が旬なので、それも致し方ないか。

さて、これが1月程先に遡ると、事情はずいぶんと違ってくる。ハウスもののキンカンウリがちらほらと顔を出し始めた7月の下旬。あるおっさんが直売所にキンカンウリを持ってきた。ハウスで栽培されたものではなく、露地で栽培したものだった。7月の終わりは雨も多く、そのおっさんの畑も水にすこし浸かったらしい。それで、早めにキンカンウリを収穫して出荷したとか。

その頃、直売所にはキンカンウリがなかった。ハウス栽培のキンカンウリはスーパーで1個300円やら400円やらで売られている中、おっさんは1個100円の価格で直売所に並べた。当然、飛ぶように売れたと言う。そして当然、こういう苦情が多く寄せられたとか。

『甘くない!!!!』。

そりゃそうだ。実がしっかりと入っているわけじゃないもの。初物として並べられたキンカンウリは、当然甘くない。そしてその苦情には『もっと品質の管理を徹底するように!!!!』とお叱りも多かったとか。JAの直売所では、新鮮かどうかの基準はあれど、農家が直接もってくるものにいちいち食味などしないし、等級もつけない。農家と消費者をつなぐために場所を提供するだけなのだ。スーパーマーケットと一緒にされてはかなわないだろう。直売所がスーパーマーケット並みに品揃えと量を増やしてくれば、当然消費者も直売所をスーパーマーケットと同様に扱うようになるだろう。そもそも直売という意味自体もあまり考えないかもしれない。安けりゃ良い、という消費者も多いかもしれない。まぁ、僕もそのひとりではあるかも知れないが。

さて、これらの消費者。初物のキンカンウリを甘くない、と怒ったわけだが、僕に言わせれば、それは当然のこと。初物が甘いわけがない。初物信仰が行き過ぎを生み出し、それにほいほいとつられてハウスといった技術で甘いものを作ったりするから、旬がわからなくなっているのかもしれない。と、かく言う僕も、自前の菜園を持つまでは、その土地の旬など厳密には解らなかった。旬を広辞苑で調べてみる。『魚介・蔬菜・果物などがよくとれて味の最もよい時』と書かれている。

旬は、今の近代化された農民にとって実入りの少ない時期。本当は旬にあわせて作物を作るほうが、リスクは軽減されるし、味だって良いはずなのに。それなのに、行き過ぎた近代にどっぷり浸かった農民(僕も含めてだが)は、兎角旬を外して栽培することに苦心する。初物の甘くないキンカンウリを、甘くないと言う消費者を作り上げてしまったのに、これ以上何を求めるのだろうか。

大量のキンカンウリの前で、オモイにふけった日だった。
関連記事
08 24
2006

2日前に雨が降り、その日からずいぶんと夜が涼しくなってきた。あああ、秋だなぁ。

こうなると、農民は気持ちが忙しくなる。秋作の作物を植えようと、気持ちが忙しくなる。なので、どの畑に秋作の野菜を植えようか、今日提外地を見に行った。

まだまだ雨が少ないので、今すぐに植え付けというわけではないのだが、心はすでに秋作にむいてしまっている。白菜、人参、大根、かぶ、などなど。

自然と一緒に生きるというのは、みんなが思っているほど、のんびりしたものではない。いやそれどころか、仕事は常に一時になるし、作付けのタイミングを逃すことはできないのだ。だから、夜がすこし涼しくなってくると、その涼しさを喜びつつも、次の作付けに思いを寄せ、気持ちが急いだりもしてしまう。

まだまだ夏野菜がたくさんとれているというのに、農民はなんとも気が急く人種だろうか。
関連記事
白菜の種を播く。1ケースに72個播けるペーパーポットのシートを400枚播いた。うちで栽培するための白菜ではない。祖父や祖母の時代なら、100枚くらいは自家用だったかもしれないが、今では5枚くらいしか自家用では無い。では、あと395枚はどうするの?

それらは、白菜の苗として他人に販売するために栽培する。短期でお金になるので、夏場の重要な仕事の1つになっている。販売相手は、小さな農家やすこし大き目の家庭菜園をしている人たち。

28800個(400枚×72個)の種を延々と播いていると、いろいろと不思議に思ってしまう。この白菜の苗の栽培はいつからやっているのだろうか、と。そこで一緒に仕事をしていた祖母と父に尋ねてみた。

祖母の若い頃は、ペーパーポットなど無い。父の若い頃だってそうだ。でも白菜の苗の栽培はその頃から行われていた。白菜は直播でも芽は出るのだが、雪が降る前に収穫しようと思うと、8月の終わりから9月頭に播く必要がある。でもその時期は、まだまだ残暑が厳しく、雨も少ない。なので直播では芽の出も悪いし、根の活着もわるいとのこと。だから苗を育てて、それを移植するのが主流だった。雪がすくないところや自家消費用で栽培する地域は、直播が多い。でもうちの部落は昔から朝市に出荷するのが通常だったので、少しでも早く出荷したい、という思いから、いろいろな技術が試行錯誤されていた。

では肝心の苗作りなのだが、先ほども書いたが、その時期ペーパーポットはない。プラスティックのポットも無い。苗を入れておく入れ物なんて無かった。なので、『練り床』を作った。

練り床とは、田んぼの土(粘土)に藁を入れて練りこんで作った苗床で、土壁のようなものだったとか。それをナガタン(包丁)でブロック状に切り込みを入れて、その一つ一つに種を播いたという。そのままでは水持ちが悪いので、練り床の下に油紙を敷いた。今の苗床ではそれがビニールに代わっているが。苗を畑に植えつける時には、練り床のブロックを一つ一つ外し、それを一つ一つ植えたそうだ。

その時期は、苗を販売することなんて無かった。なぜなら、どこの農家でも練り床を作るか直播で白菜を播いていたからだ。では、白菜の苗が商品となったのはいつごろだろう。

父は70年の終わりから80年頃だという。その頃から、白菜の苗を分けて欲しい、という人が増え、それが口コミで広まり、今のように商品としてのみ白菜の苗作りをするにいたっている。70-80年代。その頃は、もともと兼業だった農家の農の営みが、それと断絶した仕事をするようになり、本当の意味で『兼業農家』と呼ばれる人たちが増えた時代でもある。片手間の農業が増え、そして家庭菜園をする人たちが増えた時代でもある。そして、農の営みが基本だったうちの農業も、多様に商品化していった時代でもある。『兼業』ができたから『専業』ができたのだし、『専業』がフォーカスされたから『兼業』が出てきたともいえないこともない。もともと農の営みは『業』の部分なんてほんの一部だったろうし、その意味ではすべてが兼業だったろう。

さて、練り床。先人の知恵はなかなかに鋭い。自分が協力隊でインドネシアに派遣されていた時、育苗所の立ち上げにすこし関わっていた。だが可笑しなもので、ペーパーポットやビニールのポットといった画一的な目的しか持たない資材に溢れた時代を生きていた僕は、育苗所の苗を入れるポットに苦心していた。ポットを探すために、何千キロも離れた街まで探しにいった。が、結局コストがあわないということで断念し、チープなビニールに穴を開け土を詰めた記憶がある。今思えば、この練り床の技術は十分通用したように思う。農を、人の営みを、その歴史の流れで解らない人間など、所詮そんなものか。

この歳になり、ようやくそれに気がついている。だから一つ一つの農作業も、どういう流れで今に至っているのか、それが至極気になるようになった。それに気がつくまでに、沢山のインドネシアの農民に迷惑をかけてしまったが・・・。
関連記事
約束の8月も半ばをすぎた。でも、何の動きも無い。
河川敷の耕作禁止地区の話。

強気で植えたごんぼも青々と茂り、7月に一度水がついたものの、元気に育っている。それに反して、部落の蔬菜組合の連中が立てた耕作禁止の境界線を表す杭は、傾いて元気が無い。8月までしか耕作できません、と言われていたが、8月に入っても何の動きも無い。いや、動きはあった。国土交通省ではなく、農民側に。

数日前、2つ隣の畑にうちの部落の農民が大根を播いていた。当然、そこも耕作禁止地区。それまで耕作禁止地区に作付けを行っていたのは、うちだけだったが、まわりで静観していた連中も、すこしずつだが作付けを再開している。こうやって、なし崩し的になっていく。

耕作禁止になったのは、以前も書いたが、今年の4月。そのときにはすでにごんぼを播くために、炭を入れたり肥料を入れたりして準備をしてしまっていたので、うちは強行策で作付けを続行した。部落の蔬菜組合の反発もあったが、どうせその連中も自分たちの利害には直接絡まないのだから、根回しで反発はなんとか回避してきた。

河川敷の土地はとても肥えている。特に根菜類には最適の土地。2つ隣の畑で耕作を再開した農民も、大根の播種が近づいてきたこの時期、うちの畑が文句を言われないのを考慮して、作付けをしたのだろう。

以前、インドネシアでお誘いを受けた仕事では、国立自然公園の境界を越えて作付けを行う農民に、それを如何にやめさせるか、という内容だったが、皮肉なことにいま自分がしていることは、その正反対のことなのだ。だからなのか、今やっていることがすごく面白い。この後、もし国土交通省のアクションがあれば、よくよく観察してやろう。どういう行動にでてくるのか、ははは、本当に楽しみだ。
関連記事
08 19
2006

晩飯に、むかごの炊き込みご飯を作る。
昨日、近所のおばちゃんからもらったむかごを使ってだ。これがじつに美味だった。

そのおばちゃん。実は長芋掘りの名人。うちの部落で彼女の右に出るものはいない。

長芋と言えば、僕にとっては祖父だった。僕は協力隊に参加する前に、祖父の長芋掘りを手伝ったことがあった。僕よりも非力で、当然スタミナも無いはずの祖父が、僕よりも早く、そして正確に無駄なく長芋をほりあげていた事を思い出す。その祖父も80歳を超え、もう畑には出られなくなっている。今回、部落に戻って農業をする中で、一番残念だったのが、祖父の技を祖父から受け継ぐことが出来なかったこと。父は祖父とは別の農業を志していたため、祖父の技すべてを受け継いでいたわけではない。だから長芋掘りを含めて、多くの祖父の技が受け継がれないままになっていた。

でもむかごをくれたそのおばちゃんは、長芋掘りを僕の祖父から学んだという。以前、祖父の長芋掘りの話を僕がした時に、彼女はそう話してくれたことがある。だからこの秋、おばちゃんの長芋掘りを手伝うことにした。彼女から祖父の長芋掘りを学ぶために。

おばちゃんの畑には、1年掘らずにおいておいた長芋がある。その長芋は、他の長芋同様、初夏に花が咲いた。ただ他の長芋とは違って、その花はニッキのようなにおいがした。昨日もらったむかごは、その長芋もむかごだった。だからなのか、今晩食べたむかごご飯も、つよい香りがした。秋になれば、その長芋を掘らしてやるとおばちゃんは言う。

まだまだ暑く、夏真っ盛りなのだが、一足先に秋を食した夜だった。
関連記事
夏は暑い。普通にしていても暑いのに、うちの農園はハウスが主流なため、さらに暑い中で仕事をしなければいけない。当然、体にも無理になる。

お盆前から熱を出したのを機に、あれこれと自分のライフスタイルを考えた。とても今の生活がやっていけるとは思えなかったから。

一番てっとりばやいのが、無理な工業的農業をやめてしまうこと。たっているハウスをすべて放棄すること。ただ、まだその勇気は無い。そこで妥協案。暑くない時間帯に仕事をすること。

今までは、パートさんたちが仕事に来る時間に合わせて、僕も仕事に出ていた。だから農家なのに、8時から仕事開始。なんともぐーたら。

別に会社組織でもないし、やらなきゃいけない仕事は決まっている。そして、僕は大抵1人でやる仕事が多い。なので、今日から僕だけ早く仕事をすることにした。仕事始めは朝の6時前。この時間帯だと、夏でもすずしい。ただこのままずーっと働きっぱなしでは、仕事量が増えるだけなので、10時には昼休みをとることにした。しかも出来るだけ長くとる。暑さがピークに達する午後2時までだ。4時間も昼休み。だから1時間ほど十分昼寝して、ゆっくり昼飯食って、娘と遊んでから、仕事に行く。今日はしなかったが、この時間に晩飯の仕込をしてもいいだろう。なんとも贅沢な時間。

そんな僕を見て妻は、『リタイヤした人みたい』と一言。まぁ、そんなところかもしれない。自分のやりたいように生きたい、と思っているので、ある意味全力疾走してきたこれまでの生き方から、リタイヤしたようなものかも。というか、今はまだ、全力疾走しないことを全力でやっているような感じだけど。

生活を人生の中心に置く、というのはこういう時間のとりかたをすることかもしれない、とちょこっと思った。

涼しい時だけ働く。どっかで見たような生活だ。そうそう。僕が見たインドネシアの村々の生活もそうだった。暑いときは、働かない。生活を楽しみながら働く。僕はかつてインドネシアの村人に『収入向上』をやっきになって伝えていた。が、彼ら彼女らは僕にそうじゃない部分もおもしろいよ、と伝えていたのかもしれない。収入向上を否定しないが、それだけが人生でもあるまい。

今日は暑い時間に働かなかったからか、体がつらくなかった。なので、夕方すこし多く仕事をした。提外地に半ば自生しているイチジクの木に、鳥除けのネットをつけたのだ。実がとれたら、ジャムをつくろう。あと甘露煮もつくろう。鳥除けのネットをつけていたら、近所のおばちゃんに声をかけられた。おばちゃんの畑にむかごが沢山出来ていたので、それをおすそ分けしてもらった。明日にでもむかごの炊き込みご飯をつくろう。

気持ちに余裕が出来た分、周りの風景が違って見えたりする。同じ1日でも、こんなに違うなんて!なにを1日の中心に持ってくるのか、どういう生活をするのか、そんな贅沢な選択ができるのが、農の営みの醍醐味と言えるだろう。
関連記事
今日、秋収穫予定のブロッコリー畑に、えん麦を播く。
『バンカープランツ』として。

日本に戻ってきてから、少しずつではあるが、研究していたことがある。それは、如何にして農薬散布を減らすか、ということ。極論を言ってしまえば、モノカルチャー化された工業的農業をおこなわない、ということなのだろうが、現在の僕には、まだその勇気も技術も決心もない。なので、これらをバランスよく共存させる形を探る必要があった。農薬は散布しないけど、売れる野菜を単一作付けで作る、というどうしても矛盾してしまう点のバランスだ。

そこで着目したのが、天敵。モノカルチャー化された畑では、生物のバランスが崩れてしまう。どうしてもその栽培されている作物を好き好んで食べる虫が、害虫として大量発生してしまう。もちろん、その虫を捕食してくれる虫も同時に増えたりするのだが、害虫防除という名の下で、農薬を散布すると、害虫は死ぬのだが、大概天敵も死ぬ。しかも、害虫の方が死ににくかったり、害を及ぼす密度まで固体数が回復するのも早かったりする。そしてまた、農薬を散布したりする。まさに悪循環。

春のブロッコリー栽培で、どのような害虫がどの時期に発生するか、よくよく観察した。そしてそれを捕食している天敵も観察した。1冊2万円もする天敵の図鑑や害虫の図鑑も買った。何冊も本を読み、また祖父母の話も参考にした。昔から出る害虫やその発生がひどくなる天気などなどについて。これが一番役に立ったかも。

で、取り入れたのが、バンカープランツ。横文字なのが少し気に食わないが、要するに天敵の住みかになる植物のこと。害虫は、このバンカープランツになる植物は食さないことが最低条件。僕が選んだ植物は、えん麦だった。ブロッコリーにつく害虫は、ヨトウムシやコナガといったアオムシのようなやつ。そいつらは、イネ科のえん麦は食べたりしない。えん麦には無数のクモ類が生息することになるだろう。そいつらがコナガやヨトウムシをどんどん捕食してくれる予定なのだ。ただ、これはあくまでも補助的なもの。総合防除の1つの要素でしかない。農薬散布をするにしても、農薬を天敵には作用しないものを選んだり、また害虫の発生時期をよく観察して散布することで、回数は減らせる。さらにブロッコリーの初期生育に気をつけて、害虫に負けない木をつくるようにする必要もある。

インドネシアにいた時、僕はIPMの効果をあまり評価していなかった。いまでもそういう横文字はあまり好きにはなれない。バンカープランツなんて言うが、祖父母に言わせれば、昆作だろうし、そもそも病害虫をできるだけ防除するために、祖父母たちは輪作の技術をのばしていっていた。僕は横文字の取り組みをするのではない。祖父母が確立していた農法に、すこしばかり僕なりのアレンジをしようというものである。それが、次の農法になればいいなぁ。そう思って、えん麦を播いた。
関連記事
妻と娘と3人で、近くの保育園に行く。
来月から、一時保育をお願いする保育園の見学に。

園内は開放的で、建物にふんだんに木を使用しているのが良かった。壁のあちこちに貼られている連絡には、保育園運営に対して父母の参加がずいぶんと必要な事をうかがわせていた(プールの補助員や役員会などなど)。

インドネシアで声高に『参加型』を叫んでいた自分としては、当然、ぜひとも参加したい!といいたいところだが、正直なところ、ちょっと面倒だなぁ、と思ってしまう。まぁ、人とはそういうものだろう。

なんでも出だしがネガティブに始まる僕としては、そのうちぼちぼちと保育園にも参加していこうかなぁ、と思うのが関の山。などと言っておきながら、来年当たり、うちの農園で園児の芋ほり大会なんぞ企画していたりして。
関連記事
ようやく風邪がなおった。喉の腫れもひいたし、熱も無くなった。こういう時は、いつも自分に無限の力があるように思えてしまう。

さて、我が県の代表校が負けた。結構、しっかりと負けた。勝てばベスト8だったのだが。でもO君の親族は、ある意味、胸を撫で下ろしているかもしれない。もうホームランバスを出さなくてもよくなるから。

今日の試合では、JRからホームラン列車まで出ていた。参加費は1人8000円程度。こちらはツアーのようなもの。O君の親族が出すホームランバスとは違う。

O君のホームランバスとインドネシアの誕生日会は、なんだか似ている。どちらも祝われる立場の人間が、祝ってくれるみんなをおごるという点で。
関連記事
ジョセ・ボヴェ、フランソワ・デュフール 著  新谷 淳一 訳.『地球は売り物じゃない!』:ジャンクフードと闘う農民たち.2001年.紀伊国屋書店.

1999年、フランス・ミヨ市で農民とそれを指示する市民がマクドナルドを『解体』するという事件がおこった。本書は、その事件の背景と、その後同年シアトルで開かれたWTOに対する抗議活動へと発展していく流れを、インタビュー形式で紹介したもの。

第2次世界大戦後、フランスでも推し進められた農業の近代化・工業化を批判し、自然に逆らわない農業のあり方を提唱する。しかし本書では、その農業というものがどういうものなのかは、具体的には記されていない。基本的に、機能構造的に農業の状況を捉え、その中での構造の変革を求めている。安全を自然科学的に検証し、ホルモン肥育牛やGMO(遺伝子組み換え作物)の危険性を訴え、また多国籍企業のみが勝ち残るこれらの技術に対し、強く批判している。その点に対してはある程度共感するが、農業の構造に変革が生まれたとしても、食と農とが安全という尺度だけで計られたり、そのことで食と農がつながったりするのだろうか、と疑問は尽きない。まぁ、それは本書の意図することでもないのだろうけど。

同類書をインドネシアでさんざん読まされたため、すこし過食気味な感じ。それなりに面白いが、今の僕にはあまり必要ない本かも。
関連記事
ここ3日、熱で寝込む。娘の風邪がうつったのが、主な原因だが、他の原因もありそうなので、安普請のアパートの天井を1日中眺めながら、これまでの生活を考えてみた。

まず、僕はよく風邪を引く。見た目、頑丈そうだから、よく勘違いされるが、虚弱体質。中学校あがるまで、虚弱体質改善の薬を飲んでいたし。

だから、毎年、夏と冬と春と秋と梅雨とそれぞれの季節の変わり目に風邪を引く。それも半端じゃない熱を出しながら。

昨年の9月から今年の1月までは、毎月熱を出していた。もう死ぬのだと思っていた。が、5月の健康診断では、おおむね健康、と判断された。

どうも僕自身が予防に気をつければ良いのだ、と思い、毎日外から戻ったら手洗いとうがいをし、夜更かしをしないで、早起きをする毎日を送っていた。だからなのか、今回の風邪までは、まったく健康だったし、体のキレも良かった。だのに、なぜ風邪を引く?

たぶん農作業がきついのだろう。ずいぶんと肉付きの良い体になり、それなりに体操や柔軟運動もしているので、仕事は楽に感じていた。だが、8月に入り、この猛暑。ハウスの中は40度以上。いや50度はあるかも。毎日水を2リットル飲み、服は汗でびしょびしょになるので、3度着替える。このきつさに耐えられなかったのだろう。しかし・・・

うちの農園で働いているのはパートも含めて10人。中には60を超えたパートのおばちゃんまでもいる。だのに、みんな元気・・・。一番活きの良いはずの僕が、一番先につぶれてしまった。どうしてだろう。

僕は農業に向かない体なのか?そんな思いが頭の中をぐるぐるまわっている。
関連記事
原田 津 著 『食の原理 農の原理』.1997年.農文協.

『むらの原理 都市の原理』の姉妹本。
著者は、むらの原理と都市の原理は違った原理で成り立っているが、食の原理と農の原理は同じ原理だと説く。では、その原理とは。

原田は守田志郎の思想を受け継ぎ、農の原理とは多品目少量輪作の持続だという。その中で、“作って食べて余ったら売る”を提唱する。『そういう農法でなければ、食べる事を豊かに、安心してつづけることはできない。一方、経済価値の農産物を生産する農業は単一品目の大量連作ということになる。それは耕地の荒廃と農薬多投をもたらしもするが、なにより、一軒一軒の農家としては、作る作目が減るのだから野菜も味噌も買って食べることになり、豊かさも安心も失われることになる』という。しかし、食についてもうすこし突っ込んで考えてみると、はたしてそうだろうか?

原田は一章でとても重要なことに触れている。彼はそれを、筑後の方言から『食べごと』と呼ぶ。『食べごとをする』とは、「食べさせたい人々に食べさせる役をしつづけることで自分も食べている」というかたちでの共食だ、と原田はいう。これは我々の実生活の中から、食だけを切り取り議論することの過ちを鋭く指摘している。食生活の豊かさとは、ひたすら美味と栄養と健康にちぢこまっていくものではなく、食を介して縦横に無尽に広がりをみせる実生活なかでの関係でもあるといえよう。

本書の一章では、食の原イメージとして、さまざまな例が挙げられているが、その中でもある子供の話が心に残った。離婚後食事がままならぬ父が、毎朝食にインスタントラーメンを作ってくれたという話だった。それがあまりに美味で、すべて食べきらず半分残し、学校から戻ってきたら、丼一杯にのびきった麺を食べるのが楽しみだったと紹介されていた。栄養学から言えば、なんとも『貧しい』食生活ということになりかねないが、その子供のもつ主観的な価値の中では、そのインスタントラーメンほどうまいものはなかったと認識しているのである。インスタントラーメンという食を通して、父との暖かなやり取り、そして下校後母のいない寂しさを感じられる話だった。

食について、主観的な価値にふれているにも関わらず、原田はその後、今の飽食の時代を食のファッションと批判し、ファーストフード文化・西洋料理化を強く批判している。それらの中にも、原田が一章で触れた主観的な食の価値があるかもしれないにもかかわらず、原田の議論は章を追うごとに画一的になっていく。

農の原理は、原田のいうように多品目少量輪作の持続だとしても、私は、食の原理は、それとはつながないと考える。一章で原田が紹介した『食べごと』こそ食の原理だと考えたい。その上で、ただ単に生理現象を満たすだけの食を批判すればいい。料理の西洋化やファーストフード文化は、ただそれだけでは、その範疇には入らないといえるだろう。

一章で取り上げた『食べごと』こそを議論の中心にすえ、議論を展開して欲しかった。残念。
関連記事
08 07
2006

オリンピックもワールドカップも、どこかいまいち好きになれないけど。
基本的にスポーツものの中で、これが一番好きと言えるだろう。それは、全国高校野球選手権大会。俗に言う、甲子園。

地元の代表を応援したり、昔からなんとな~く好きなチームを応援したり。最近は、地元出身者じゃなく、県外から有力選手を引っ張って来たりと、どこか合点できないこともあるが、高校野球はおおむね面白い。

別段、野球が好きなわけじゃない。地元との密着度が強いから好きなだけ。しかも今回は特別だ。

うちの部落から選手が1人出ているのだから。その子は(O君とでもしておこう)、昨年の秋まではレギュラーだったけど、春から補欠に回ってしまった。県大会ではベンチ入りさえ出来なかった。しかし今回の甲子園、なんとベンチ入りを果たせたのだった。しかも3塁コーチャーとしてグランドにも立っていた。

だから、テレビにO君の姿が映ると、うちの仕事場は俄然盛り上がる。場面としては、ランナーが3塁に到達したシーンなのだが、そこでランナーにストップをかけるO君に、みんなで声援をおくったりする。ナイスストップ!などと。

O君を応援するために、うちの村から応援バスが今朝出発した。俗に言う、ホームランバスというやつ。うちの県の代表は11時からの試合だったが、バスは朝の4時に出て行った。当然、僕も誘われていたのだが、今回は仕事の都合がつかずに断った。ラジオで戦局を聞きながら、行けばよかったと悔やんだが後の祭りだった。

結果は、8-1で快勝。ホームランバスで応援に行ったうちの部落の連中は、さぞかしうまい酒を飲んでいることだろう。なかには前日から前祝として宴会をして、そのまま4時のバスに乗ったおっさん達もいたとか。

ホームランバスは、1台チャーターすると28万円。応援に行く部落の人は、参加費1000円しか払わなくてもいい。ホームランバスに乗った人たちのお弁当や飲み物、さらにバスのチャーター代は、すべてO君の親族が負担する。なんだかんだ言って、1回に100万くらいはかかるとか。うちの県の代表校は勝ったので、次の試合もホームランバスを出さねばならない。O君の親は、うちの農園の近所の農家。さすがに田んぼを売らなきゃいけないことはないだろうが、来年はO君の親は大量にキャベツを植えることだろう。ホームランバスの出費をとりもどすために。

しかし、決勝まで間違って行ってしまったら、一体どれくらいお金が要るのだろうか。結局は、野球も金がないと出来ないということか。

いやいや、いかんいかん。唯一好きだったスポーツものも嫌いになってしまいそうだった。
関連記事
直売所で、トマトが売れている。
ちょっとしたことなのだが、それを改善したら、売れ出した。

先日、トマトがあまりにも売れなかったので、どうしてなのか、直接直売所で見てきた。結果、袋詰めされているトマトが汗をかいていたことが判明。目の前で何人ものおばちゃんがうちのトマトを手に取ってみるが、買おうとしない。そこでよくよくみたら、うちのトマト、袋の中でたっぷりと汗をかいていた。

こんなこと書くと、本業のトマト農家から笑われそうなのだが、知らないものはしょうがない。トマトは20年以上も前に、親父やその仲間が作っていたが、その時は集荷所で箱詰めにして出荷していた。だから袋詰めにするとどうなるかなど、考えが及ばなかった。

そこで改善その1として、トマトが汗をかかないように、朝どり(朝に収穫)にした。トマト農家は、普通朝どりらしいのだが、うちはトマトにそんなに時間をかけていられない。だから、時には甘みがおちると解っていつつも、夕方に取ったりしていた。しかし夕方ではトマトが熱くなりすぎてしまって、ビニール袋につめると汗をかいてしまう。

改善その2。トマトを詰める袋に穴を開けた。穴を開けることで、トマトが汗をかくことを防げるからだ。これもトマト農家が聞いたら、笑われるだろう。しかし、知らなかったものはしょうがない。

そういえば、うちは仲買や卸業者ばかりと商売してきたので、実際に消費者が買う段階をあまり知らない。直接売ることで、こういうことも解ってくる。パッケージ1つ変えるだけで、売れるものがある。それはそれで面白いのだが(怖い面もあるけど・・・)、それだけをつきつめてしまうと、やはり本道から外れてしまう気もする(たとえば、ベビーリーフのように)。自分が手をかけたものが、そこそこ消費者に受け入れられる程度に、こういう知識は必要だ、と思った。
関連記事
原田 津 著 『むらの原理 都市の原理』.1997年.農文協.

本書の構成は3章に分かれており、1章と2章の一部が、本書と同題で1983年に一度出版されている。今回その後の考えをまとめなおし、2章の一部と3章を新しくつけたし、本書を出版している。しかし、本書のさわりは、1章に集約されている。ちなみに1章は1970年代に書かれた論考である。

著者は、70年代、急速に経済発展する日本において、むらと都市はお互いが持つ原理を異にする社会だとし、お互いのすみわけを提案している。むらは義務と幇助で成り立つ自立した社会だであり、都市は権利と管理で成り立つ分業の社会だという。むらの生活の根底にある農業とは、『育てて食べて余ったら売る』を基本の原理としており、生産と生活の次元が同じであり、それは自立した生活を意味する。その一方で、都市は自給できる社会ではなく、そのため行政による管理が必要になってくる。その文脈において市民の権利とは、行政によるより良い管理を求める権利に過ぎない、と筆者は指摘する。そして、この2つの社会の関係は、都市から物事を考え始めるようになっていくことで、おかしくなっていく。

自給できない管理を必要とする都市では、農業の意味は食糧生産でしかない。都市住民が食糧を求める権利を行使し、それに国が応じる義務がある。そして国は農業を自給率という数字で計算し始める。効率よく生産するために、むらの農業は多品目少量輪作の農法からモノカルチャー化され、それによって生じる病害虫を農薬でたたき、土地は整備されて、農業の近代化による構造の改善を進めた。そして農作物汚染や環境汚染がおこり、むらが消滅していったと説く。

また第1章第2節では、原理の異なる2つの社会がいかに付き合っていくか、具体的な事例を挙げて解説している。むらに新興住宅街ができ、むらびとが都市住民をむらの慣習へと包摂し、そして都市住民へ妥協していくプロセスが面白い。その過程で、お互いの相違から新たらしい決め事なども生まれている。

著者は、むらが都市化したり近代化することで壊れていく、と単純には考えていない。むらが都市化することで、各人の生活が各人各様に分解し、自治的な組織や機能や壊れてしまったと見る人も多いが、筆者は必ずしもそうだとは見ない。むらは常に変化の中で妥協しているが、それがむらのしきたりややり方に沿っている場合があると指摘する。その関係が生まれてくる条件を筆者は、『住人みんなのコンセンサスがある限り、むらは壊れない』と指摘する。

むらの視点、まちの視点と言う意味で、守田志郎の思想を深く受け継いでいるように見える。むらと都市を2項対立的に考察しているため、解り易くはあるが、議論が画一的になりやすく、どちらの原理も少しずつ持っている社会についての議論は出来ていない。まちおこしの中で起こりつつある有機的つながりや、ネットを介して広がりをみせる市民運動など、むら対都市だけの原理では説明できない現象が、現在多数見られる。そういった意味で、原理自体が人々の外部に存在するような説明の仕方には限界を感じる。

ただ農村開発において、都市主導で行われている経済価値優先の構造を、この2項対立的視点は僕たちに明示している。僕が見てきた途上国と言われる国々での農村開発も、原田氏のいう都市の原理で行われていた。農村開発の現場で働かれている人は、必読。自分の行おうとしていることが一体なんなのか、それを考えるきっかけを本書は与えてくれるだろう。
関連記事
昨夜、若手農業者と飲む。
大阪からこの県の農事法人に勤めて、5年と言う若者を囲んで。
あまり自分の話をしない若者だったが、すこしだけ彼の考えていることに触れられた。
それは

自分の思い通りの農業をしたい、ということ。今の法人では野菜はあまり作っていない。稲作と豆が中心だとか。で、今年から園芸用のハウス管理を任されていたのだが、事あるごとに社長の横槍がはいるとか。あああ、なんだか懐かしいなぁ。協力隊から戻ってきてすぐの自分の悩みにそっくりだ。

どういう農業をしたいか、というのは漠然としかないようだったが、とにかく、思い通りにやってみたいらしい。それはそれで解るような気がする。そういう人に、『市場を考えて』とか『技術をもっと身につけなきゃ』とか『資金はいくらいくら必要だ』とかのアドバイスは、あまり意味をなさない。やりたい、という想いだけで、じゃぁ、とにかくやってみれば、と、かるく言えない事なんだろうけどさ。

通用するかしないか、それは誰にもわからない。『法人にいれば、そのうち園芸の部門を任せてくれると社長は言うんですが、僕は独立したい』と彼は言う。するかしないかを悩むよりも、することに決めて、そこへ向かってあれこれと汗かきべそかきしたいのだろう。


昔、ある言葉を知り合いの農家からもらった。やるべきかやらざるべきかでもんもんとしていた学生の頃だった。今でも僕を支える言葉の一つだ。

『井の中の蛙、大海を知らず。されど、空の青さを知る』

彼にもこの言葉を贈りたい。
関連記事
08 01
2006

上がったらしい。平均地価が11年ぶりに上がったらしい。仕事中につけているラジオのニュースで、そう連呼していた。

地価の上昇と言っても、正直僕にはよく解らない。

地価と言うんだから、土地の値段を指すと言うのは解る。でもそれがなぜ上昇したり降下したりするのかが、頭では理解できても、実際の感覚としては、やはりよく解らない。土地を買う人がいて、売る人がいて、の話なので、地価が上がったり下がったりする、というのは解る。ただ田んぼや畑を目の前にして、この『地価』について考えてみると、どうもそういうことも解らなくなっていく。

『地価』は㎡幾らで決められた土地の値段。しかし、土地は㎡幾らで価値が決められるのだろうか。うちの田んぼや畑には肥えた土地とそうじゃない土地とがある。また土が肥えるように手間をかけたりする。肥えた畑だと、そのままでたくさん美味しい野菜が収穫できるし、そうじゃなければ、結構な手間をかけて土を肥えさせる努力をしている。だのに、地価はそれを評価しない。㎡幾らの世界は僕にはよく解らない。地力に値段があるとするのなら、なんとなくわかるような気がするけど。

だから地価が上がったと言うニュースを聞いても、ぴんとこない。だって、地力が上がるわけではないのだから。
関連記事

田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
taya.tアットマークnifty.com
です。
(アットマークを@に置き換えて送信ください)

プロフィール
07 ≪│2006/08│≫ 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
カレンダー(月別)
カテゴリ
月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

メールフォーム

Page Top

Powered by FC2 Blog |

FC2Ad

| Template Design by スタンダード・デザインラボ