07 30
2006

とつぜんの来客あり。
大阪出身で我が県の農業法人に就職して農業をしているという若者だった。
5年もがんばっているとのこと。そろそろここらで独立したいらしく、いろいろな農家を回っていると言う。なんだか面白そう。こういう若者、けっこう好きだなぁ。

で、知り合いの若手農業者とうちに修行に来ている近所の若者と4人で飲むことにした。少しずつだが、お気に入りの人間もここで増えてきている。
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07 28
2006

先日から、某国際協力機構と我が県の協力隊を育てる会とで、アジア、アフリカ、南米から日本に学びに来ている留学生を対象に研修を行っている。今日で3日目。

育てる会の事務局長さんから、3日目の近郊農業視察はたやくんにすべてまかせる、とありがたいお言葉をいただいていたのだ。が、どこでどう間違えたのか、たやくんはたやくんでも僕の親父がしゃしゃり出てきてしまって、僕はどちらかというとオブザーバー的位置付けに。そして今日がその3日目。一応、講師役として留学生の一行についてまわった。父の決めたコースを回るために。

コース内容は、先日も日記に書いた直売所を皮切りに、卸売市場、中卸の配送センターをまわり、お昼は地元野菜をふんだんに使うフレンチレストランで昼食、その後JAの集荷所を見て、うちの農園の立ち並ぶハウスを見学、というものだった。

たぶん、それはそれで僕の住んでいるまちの近郊農業なのだろう。巨大な冷蔵庫に、巨大なカントリーエレベーター、そしてベルトコンベアで流れ作業をしている配送センター。直売所もバーコード管理。うちのハウス群も留学生には圧巻だったようだった。日本の農業の近代化の栄華を、これでもか!と見せ付けた内容。そして、その場その場での説明も同様。幾らの資金と幾らの補助金と、そして幾らの売り上げと。そんな説明ばかり。留学生の皆様は、まんまと近代化の栄華に圧倒されていました。

しかしそれは果たして、それで良かったのだろうか。

建物が農業をするわけではない。ハコモノは、どこまでいってもただのハコモノ。だのに、ハコモノがあれば、農業の栄華が極められるような説明は、果たしてそれでよかったのだろうか。

留学生と日本人。その関係は、発展途上国の人と先進国の人、という構造に置き換えられて、その見学は行われていた。ははは、何をもって発展とするか、誰にも自覚がないままに。

それは、この地域を説明するのに解りやすいことかもしれない。そして近郊農業として説明しやすいことかもしれない。でも、本当はもっと違うこともだいじなのに。

流通システムや生産を支える技術を学ぶことは、ある意味有意義なんだろう。しかし、その中で汗かきべそかき働いている僕や親父や近所のパートのおばちゃんやJA職員やシェフや商人やセリ人の想いや考えや関係性や繋がりは、まったくといっていいほど、伝わらない見学だった。思っているほど無味乾燥なものでもなく、もっともっとしっとりとした人間味あふれるものが、それらを支えているにも関わらず。

それが伝えられなかった。残念でならない。
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売れる野菜もあれば、売れない野菜もある。そして売るつもりも無い野菜もある。今日は、売れない野菜について。

僕が住む地域には、今はやりのJAが作った大型直売所がある。組合員だったら誰でもそこに農産物を出荷できる。手数料としての中間マージンは15%。それが高いか安いかの議論はあるが、兎にも角にも、『農家が自分の生産物に自分で値段をつけられる』という一点においては、とても画期的な取り組み。JAでは消費者と生産者との距離が近くなった、と評価するが、それはないだろう。その話はまた別に機会に。今回は、そこに出荷しているうちの野菜について。

うちの農園では、基本的に売れない野菜は作らない(売るつもりの無い野菜は沢山つくっているけど)。中卸などの中間業者とある程度話をつけてから出荷している。だから野菜の市場価格は常に安値安定。暴落も無ければ、最近の天候不良でも値は上がらない。量も中卸からの注文があって、それを市場に出荷するので、売れ残ることも少ない。とにかく安定志向の経営体系。

僕が留学している間に、うちの農園はJAの大型直売所で野菜を販売するようになっていた。留学する前から、その直売所はあったのだが、野菜の量があまりはけないと思い込んでいたので、見向きもしていなかった。でもその直売所が普通のスーパーよりも売り上げがあると評判になり、うちも10束とか20束といった程度に野菜を出荷するようになった。

さてその直売所。大規模の野菜専業農家も出荷していれば、おじいちゃんおばあちゃんが細々とやっている畑の出荷物まである。野菜を並べるのは、農家規模の大小に関わらず、各農家が場所取りをして(すごい争いらしい)自分で並べる方式。出荷物はその日1日だけ並べておけるが、翌日には裏にひかれてしまう。そしてその売れ残りは、各農家が自分で引取りに来て処分しなければいけない。この作業がなかなかつらい。出荷したすべてが売れてしまえば、その作業は無いのだけど、売れ残りが多くなると、なんだか自分のつくったものが否定されているようで、やるせなくなる。

だからというわけでもないが、農家間でどんなものが売れるのか、探り合いがすごい。そして値段。ほとんど価格破壊が起きてしまっているくらいだ。大規模の野菜農家は、どんどん値段を下げても耐えられる。年金暮らしのおじいちゃんおばあちゃん農家は、生き甲斐を第一にしていて、儲けにはあまり頓着しない人もいる。そういう連中を向こうに回して、戦いを繰りひろげている。うちは懇意にしている中卸さんに出荷する市場出荷中心の農家。だから直売所での戦いに敗れても、死活問題にはならないし、それにもともと市場であまり気味の野菜や趣味で作ってみた野菜を、気まぐれに直売所に出荷していた程度だった。だから売れ残っても、残念ではあったが、そんなに痛手でもなかった。しかし、今年は状況が違っている。

昨年、中玉トマトを栽培した。あまくて美味しい品種があったので、自家用に親父が趣味で作った。あまりにも美味しくて、かつ大量に取れたので、母はそれを直売所に出荷した。その時は、バカ売れで、すべて完売。それに味をしめた親父は、今年大量に中玉トマトを栽培し始めた。でも・・・

それが全く売れない。味は昨年同様、至極甘い。舌の肥えた義姉夫婦をも唸らす味でもある。だのに、売れない。

この時期、どこの農家でもトマトの収穫が最盛期。で、大規模農家とおじいちゃんおばあちゃん農家が、せっせと直売所にトマトを売りに来る。しかも、どちらも値段に頓着しない。だからスーパーだったら一袋300円ほどもしそうな中玉トマトが、量も倍になってそれよりも安い値段で売られていたりする。うちも160円まで下げて売りに出したが、初回の出荷では50パック中49パックが売れ残った・・・。まったくの惨敗。

しかし挑戦は終わらない。次の週には量を倍にして、同じ値段で売り出した。出荷量も減らした。しかし20パック中9パックが売れ残った・・・。

こうなってくるともう、うちのトマトにどんな価値があるのか解らなくなってくる。甘くなるように手間隙かけても、そんなものちっとも値段に反映しない。

明日、3回目の出荷。今度の作戦は、もうすこし量をふやすことにした。これからうちのトマトは出荷の最盛期を迎えようとしている。だのに売れ残って、僕らがトマトを毎日毎日食べる始末。そして食べきれない分は、どんどん近所親戚にお裾分け。

なんだか抜け出せない泥沼にはまり込んだ気がする・・・。直売所、恐るべし!
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本日のお仕事、せっせと種まき。お盆に向けて、せっせと種まき。

うち農園では、換金目的としてベビーリーフを大量に生産している。
この野菜を始めた頃は、僕がまだ協力隊から戻ってきたばかりだった。当時の僕は、『農家は野菜を売ってなんぼ』という考えだったので、精力的に市場開拓をした。ベビーリーフは時勢にも乗り、ばかばか売れた。でも、途中で投げ出してしまったのだが。

それでも市場は見捨てなかった。というよりも、逆にどんどん売り上げを伸ばして行っていた。そんで僕が投げ出してしまった分を、近所のおばちゃん達がパートで手伝いに来るようになっていた。

で、今。再び帰農して、やはり僕はベビーリーフを播いている。せっせと播いている。お盆は朝から晩までベビーリーフを収穫する。その分を今から播くのだ。こんなに大量に播いても、注文に生産が常に追いつかない。ハウスをいくら建てても追いつかない。人を雇ってやっても、儲けが出る。だから、僕は投げ出したくなったのだけど。

売ることのみを至上の目的にするのは、やはり僕にはあわない。ベビーリーフをせっせと播きながら、そう思った。
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『川せぎ』。川を堰きとめて、水位をあげること。今から40年くらい前までうちの部落に残っていた共同作業。

祖父母の昔話も最近では記憶もあやふやになってきており、聞いた度にこうして記しておかなければ、いずれは消えてなくなってしまう話。

うちの部落に西沖という場所がある。田んぼの名称の1つなのだが、昔その西沖は水が入り難かったとか。それもそのはず、今で言う『用水設備』がなかったのだから。お上が整備する用水はなかったのだが、部落でお金を出し合って買ったポンプで水を引いていたという。ただそれにしても、夏場、傍を流れる川の水量が減ってくれば、水を引くのは大変だった。そこで『川せぎ』をした。

川に杭を打ち込み、川沿いに生えている柳を利用して、川に簡単な堰を作った。それは毎年の事。村の農家総出での作業だったという。簡単な堰を作ることで、川の水位を上げ、ポンプで水を引けるようにしていた。

堰は柳のような柔らかい木じゃないとだめだったらしい。かたくて丈夫な木にしてしまうと、水の圧力に耐えられないからだとか。それと半永久的な堰ではだめだったらしい。傍の川は暴れ川として有名で、半永久的な堰だと、大水が来たときに、洪水の原因になってしまうからだ。だから大水が来れば、壊れるような堰じゃないとだめだった。

この環境は、米の品種にも影響を与えた。西沖は川せぎをしないと水が入らない。そしてその川せぎは共同作業で行われる。ということは、西沖の田んぼに水が入るのは、一時になるということ。そしてその水量はつねに安定はしていないものだった。だから、西沖に水が入る日は、村中一斉に代掻きをして、我先にと田植えをしたらしい。そのころは機械などなく手植えだったので、人集めとして嫁の実家までかりだされて仕事をしたという。

うちの部落には沖田、東沖という田んぼもある。そちらのほうはお上が作った用水設備があるので、早くから田んぼの仕事が出来た。しかし西沖には無い。だから沖田、東沖の田植えが一段落着くと、川せぎをして西沖の田んぼ仕事が始まるのが毎年のことだった。

だから西沖の田んぼは、晩生の品種しか植えられなかった。以前読んだ守田志郎の本では、田んぼにも早生・中生・晩生の品種で輪作技術がかつての日本にはあったというが、うちの部落では、それはない。なぜなら、農民個人の創意工夫で輪作はできなかったからである。共同体の中で、その環境に合わせて品種が選定されていた。だから西沖の田んぼでは早生は植えることは不可能だった。守田の話を否定するわけではないが、僕は農民個人の創意工夫があったことを過大評価はしない。それ以上に、部落という共同体を通して、そしてその共同体がつくる環境の中で、共同体としての工夫があったことを、もっと見つめていきたいと思う。まぁでも、嫁の実家までかりだされての農作業は勘弁だが。

あれから40年。うちの部落ではもう川せぎは無い。用水路が完備されているから。そしてその用水路の江掘りすら、共同作業で出来ない部落になりつつある。共同作業と言う機能だけを切り取って、それだけを残そうとしたり、新しく意味付けしようとしたりしても、結局はもとになる総有の考えがなければ、続くわけが無い。どんどん共有するものがなくなりつつあるうちの部落での農作業は、どこかやり難い。
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いつものように、作業小屋で菜っ葉を束ねる。こんな時は、いつも祖父母やパートに来てくれている近所のおばちゃんから部落の昔話を聞くのが日課になっている。今日もそうだった。

先週、うちの部落の田んぼとハウスが豪雨のためにいくつか水没した。田んぼは、それほどの被害でもなかったが、ハウスの方はこの夏は使えそうもないと、その所有者がこぼしている。

さて、その水没した場所は、以前聞いた細かく決まっていた田んぼの名称と一致しているのかどうか、祖父母に聞いてみた。ハウスのあった場所は、 『しんひゃくぶ』と言って昔地主たちが持っていた土地の場所だとか。肥えた田んぼが多かったらしく、そこでは米が沢山とれたとか。

その話を聞いて、僕はあれ?と思った。しんひゃくぶは、肥えた土地で、地主だけが持つ皆がうらやむような田んぼなのに、なぜ水が浸かりやすい位置なのか?と。すぐ考えれば解ることなのだが、僕は僕の思考の前提となるものに対して無批判だったことに愕然となる。

祖父母が若かりし頃は、今のような近代的な用水設備はない。なので、どの田んぼでも用水の蛇口をひねれば田んぼに水を入れられるわけではない。田越しに水を引いて行き渡らせていた。だとすると、田んぼの高低差はとても重要で、田んぼの高低が低い方が水は引きやすい。しんひゃくぶは低い土地だった。だから水が引きやすく、旱魃にも負けず、良い米をとることが出来た。しんひゃくぶに限らず、みずたまりや窪田といった田んぼの名称もそのことを現していた。

なのに僕は、水が浸かるという何年かに1度の災害だけで、それら田んぼの名称をネガティブに捉えてしまっていた。それは排水設備や用水設備が完備されているにもかかわらず、それらの災害を回避することの出来ない土地という意味で。

祖父母がみずたまりや窪田、しんひゃくぶという土地の名称を口にするとき、それはポジティブな価値を思い浮かべながら話をしていたのだった。災害を回避するため、といった考えが前提にあるのではない。そのあたりで、僕と祖父母との間で、自然に対する認識のギャップの大きさを感じた。そのギャップに敏感になることこそ大事だ、と僕はこれまでの経験から学んだつもりだったのだが、まだまだだった・・・。ギャップに気付かないまま、僕の思考の前提となるものに無批判なまま、みずたまり・窪田・しんひゃくぶといった言葉の価値に勝手な意味付けをしていたのだ。反省。

さて、反省しきりの中、祖母の田んぼの話は続いていた。僕が窪田の場所を聞いたから、それについて一所懸命説明してくれていた。『○○さんちの裏手にあった「くろ」の後ろが窪田やざ』と祖母。うっかり聞き流しそうになったのだが、はて?『くろ』とは一体?祖母は、『くろ』とは田んぼの真ん中にある小さな土の山のことだと教えてくれた。そしてそれは50年ほど前の土地改良で、すべて平地にしてしまった事も。

僕の思考は急回転する。ソレ、ドコカデミタゾ。

そう、カンボジアで見たのだった。田んぼの真ん中にこんもりと土が盛られている場所があった。そこに豆や野菜を植えていた。機械化を進めようとすれば、あの土の盛りはとても邪魔だ、と思ったことがある。その土の盛りが、50年前のうちの部落にもあったのだった。『くろ』という名前で。

『くろ』では、やはり豆や野菜を作っていたとのこと。木も植えてあり、作業中に一息いれる場所でもあったとか。当然、農業の近代化が進んだうちの部落では、そのくろはもう無い。無くなってから50年も経つのに、祖母の会話の中では、まるで今でもあるような、そんな雰囲気で『くろ』という言葉は使われていた。だから『くろ』を野菜をつくる畑や休憩場所といった機能的な側面で捉えるべきではないのだろう。祖父母が感じている価値を僕は間主観的にでしかないが、出来うる限り捉え直して見たい。
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内山 節、大熊 孝、鬼頭 秀一、榛村 純一 編著 『市場経済を組み替える』.1999.農山漁村文化協会.

本書は第二回「掛川哲学塾」(1998年度)の報告をまとめたもの。第一回の掛川哲学塾の報告は『ローカルな思想を創る』。『ローカルな思想を創る』では、それぞれの論者の視点の違いが気になったが、本書では統一されていたように思う。

本書では『ローカルな営みと世界市場を前提とする市場経済との間に、いかなる関係をつくりだしたらよいのか』を模索する。編者の1人の内山は、『もしも思想がローカル性に基盤をもつとするなら、経済的な営みも、その軸にローカル性がなければならないはずである』という。そのため本書第二部では、掛川哲学塾参加者によるローカルな取り組みが記されている。

前作と同様、本書においても内山節、鬼頭秀一の論考が特に光っていた。

鬼頭秀一は市場経済を支える近代システムに目をむけ、それと対極にある交換不可能性(irreplaceability)つまり「かけがえのなさ」に言及している。鬼頭は『(近代システムは)ひとやものの関係を限定された特定の使用に関連した機能中心にとらえ(中略)ある機能に着目した規格化、標準化が可能になりました。そのことは交換可能性を保証し、それによって、普遍的に使えるものを目指す近代の生産システムを可能にしました。』と指摘する。そしてその中で、環境の価値について考える。自然の価値を普遍的な価値として数量的に処理することに疑問を投げかけ、環境の価値と言うのは「いま、ここで私たちにとって」意味の在る価値であり、それは「かけがえのない」環境だという。鬼頭は、『いかに交換不可能な、かけがえのない価値というものを回復していくかというようなところが、いま重要な課題になっている』と我々に明示してくれている。農の営みを環境保護機能的にのみ評価するような人は、鬼頭の論考をぜひ読んでもらいたい。自分の立ち位置とその間違いに気付くだろう。

内山節は、群馬の山村暮らしの経験から、市場経済とそれを支えるヨーロッパ近代思想について触れている。まず『自由』という言葉に言及し、それは自在に生きることを指している、と自分の志向を明示している。ヨーロッパ近代が生み出した『自由』は、人間に与えられた権利であり義務であるが、内山が志向する『自在』は、便利さを作り出す技を身につけ、それによって自在=自由な人間になれるという。この自由と自在の違いは、市場経済と人間の関係を考察していくのに重要だと指摘する。ヨーロッパ近代の自由は、市場経済によって阻害される部分もあるが、促進される部分もある。それは同じヨーロッパ近代が生み出した産物だからでもある。しかし、市場経済の合理性に身をまかせればまかせるほど、我々は自在な生活を失っていく、と内山は批判する。内山がいう『自在さ』とは、自在な生き方を可能にする技とともにあるが、そのような生き方は誰をも納得させる客観的な合理性をもっていない。たとえ話として、薪割りについて触れている。内山は山村の生活の中で、自分で薪を作ることに満足をしているが、他の人が見たら、薪はよそから買ってきて、余った時間を他の労働に当てた方が合理的だと考えることもあるだろう。しかしこのような見方こそ、内山の感じている満足感を機能的に捉え、それを普遍化できる価値ではかろうとする市場経済的考えにすぎない。『技も自在さも、合理的なものでも非合理的なものでもない。そういう尺度でははかれない営みなのです。ここに合理的な認識をもちこむと、合理、非合理ではとらえられない営みが、こわされていくことになります』。ごもっとも。

また共同体がもつ慣習について触れ、自分たちの「世界」の持続を保障するルールであり、自在な生き方とは、自然も含めて成り立っている世界が基礎になっていると説く。つまり自由とは身勝手とは違い、私的世界に身をおくのではなく、共同体の中で、総有という考えの下で存在するものだという。内山は最後に『はたして自由という観念は私たちを市場経済から解放することができるのか。自在さの追求こそが市場経済社会の組み換えを促進するのではないだろうか』と括る。ごもっとも。

日々の市場経済生活の中で空虚感を感じる人は、必読。自分なりの、そしてその地域(風土)なりの、自在さを追求してみることで、その生活に風穴をあけられるだろう。
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自家用の野菜を栽培している菜園がある。
春、そこにキュウリを2本ばかり植えた。今、収穫最盛期。毎日、毎日、キュウリが3本から4本ほど採れる。採り忘れもあり、インドネシアのキュウリのように巨大化したものも、結構ある。この前の3連休、東京に行っていたものだから、でっかくなったキュウリは10本。自分と家族では食べきれず、お裾分けも散々したが、一部は鶏の餌に。

初めの頃は、妻はそれらの収穫物を喜んでくれたが、今ではちょっと迷惑そう。食べるのが追いつかなくて、冷蔵庫はキュウリとナスだらけ。妻は、『自家用の野菜なら、キュウリは1本だけ植えればいい』というが、病気で木がやられてしまう事を考えると、どうしても2本植えたいのが人と言うもの。無農薬で作っているものだから、そういうリスクはなおさら高いし。

そこで最近、我が家の食卓はキュウリとナスで溢れかえっている。生では食いきらないので、火を通す料理にも使っている。妻があれこれと工夫をしてくれて、イタリア料理にしたり。最近のヒットは、夏野菜カレー。キュウリ、米ナス、ナス、かぼちゃ、トマト、ししとう等々、自家用菜園で際限なく採れる野菜たちを一斉に放り込んで、妻が作ってくれた。絶品だった。

これまでもちろん自分で作った野菜を自分で食べていたが、自分が食べるためだけに野菜を作ったことは無かった。今回、娘が産まれて、それで出来るだけ無農薬で野菜を食べようと思い立ち、自家用の菜園を用意して野菜をあれこれと作っている。その菜園で取れた野菜は、売り物じゃない。ただ自分と家族が消費するためだけのもの。

で、思ったこと。食べるためだけに作った野菜は、『多収量』だと感じること。無農薬有機栽培だから、ではない。別段、量的に多くなったわけではない。それどころか、たぶん売るために作ったのなら、もっと収量がおおくないと、いわゆる『割が合わない』だろう。では、なぜ多収量?それは、たかだか2本ずつ植えられた野菜の木から成る収穫物が、食いきれないからである。菜園は、本当にちょっとした面積だけなのだけど、そこで採れる野菜が食いきれない。おかしなもので、売ろうとして栽培している野菜は、1.4haほど作っているが、時々、収量が伸びないなぁ、などと思うこともある。それは多分、一束100円にもならない菜っ葉を一所懸命束ねて、そこから得た所得で満足感を味わおうとしているからかもしれない。お金に換算してしまうと、『割が合わない』という考えがもたげてくるものである。ただただお腹を満たしてくれる野菜たちは、『沢山とれたなぁ』と思うもの。

食べきれない野菜は、どんどんお裾分け。でもこの時期、隣の畑でも夏野菜で溢れかえっている。どうしても余る野菜は、鶏に。そして卵となって手元にもどってくる。単純なことなのだが、社会的にも生物的にも循環の中に自分が在る満足感、そういうものを最近感じている。

だからといって、市場経済を否定するわけでもない。一日の労働の大半は、商品作物生産のために汗をかいている。お金がすべてではないが、お金じゃないと交換できないものもある。でも、それがすべてになっているのは、やはりさみしいし、どこか変。できれば自分の中では、市場経済にはもう少し引っ込んでいてもらいたい。

国際開発学会の発表で、タイの事例があったが、そこでは足るを知る経済の一環として、域内流通強化のために、農民が各自で自家用の菜園を作るというのがあった。商品作物ばかりを栽培していて、食料のほとんどを域外から輸入に頼るタイの農村。そこで始めた自家消費用の菜園プロジェクト。経済効果などなどの面で、プロジェクト実行側(コンサルタント)はドナーから非難を受けているらしい。

しかし、僕は思う。一般化できないし、ただの僕の想像でしかないけど、もしかしたらそのタイの農民も、僕が今感じている満足感を感じているかもしれない。そしてそれはドナーにしてみたら、取るに足らないことかもしれない。僕にとっては、『こんなにもすばらしいのに』と思うことであっても。
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土曜から降り続いた大雨。
当然と言えば当然だが、今朝方、川が溢れた。
堤防が決壊するような溢れ方ではないので、それほど心配はいらなかったのだが、ただ、提外地の畑が水没した。そう、ごんぼの畑が、である。

水がついたのは、今朝からお昼過ぎまで。堤防の上から見た感じでは、ごんぼの被害はそれほど無い。ただこの水がうまくひいてくれて、畑がかわくかどうかが問題。

ごんぼはまだいい。瓜類などは、すこしでも水がつくと全滅する恐れがある。提外地はうちの集落の大事な家庭菜園にもなっている。近所のおばちゃんやおじちゃん達は、朝からずーっと堤防に上って、自分の畑を見守りながらため息をつき続けていた。

川は氾濫するもの。だから、こういう年もあるのは当然のこと。うちのかぼちゃもうりもメロンもスイカもだめかもしれない。その1年だけを見て考えてしまうと、川の流れに手を加えたくなる気持ちがもたげてきそうだが、ここはぐっと我慢して、『これも円環のうち、土が肥えるので来年の野菜は出来がいいかも』と思うことにしよう。
冠水

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妻の仕事でこの3連休、上京した。
僕の役目は、当然、娘の世話。
義姉のマンションに泊まりこみ(義姉家族はキャンプに行っていなかった)、ただただ娘の世話をする。

妻が仕事に行っている間だけ娘の世話をしたので、実際には丸1日ほど面倒をみただけ。カンボジアで丸々2ヵ月半も娘の面倒を見てきた僕にはそんなこと朝飯前、と言いたいのだが、実はそうでもない。日本に戻ってから、僕は普通の親父になっている。娘の世話は、やはり妻が中心になってやっていて、僕の役目はもっぱらお風呂に入れたり、おむつを替えたり(それもたま~に)くらい。得意だった夜の寝かしつけも、母乳で寝かしつけるようになってからは、用無し。そんな役割になりさがってから、数ヶ月。近頃では、娘がぐずると、僕では手に負えなくなる時もあった。だから丸1日ほどだが、僕には不安だった。離乳食はうまくやれるだろうか、母乳の出ない僕でも娘がぐずったらなだめられるだろうか、大泣きしたらどうしようか、などなど。

しかし、按ずるより産むがやすし。ぐずっても得意の寝かしつけ抱っこで娘を秒殺し、離乳食は思いっきり嫌がられたが、それでもほとんど完食してくれた。普段の僕の役目では気がつかない娘の成長も見つけることが出来た。そして何より娘との絆も強まった。と、同時に、娘に時間ばかりとられて何も出来ない妻の普段の生活も再認識できた。想像力豊かではない僕は、たまにこういう具合に育児を経験しないと、すぐに自分だけの論理で物事を考えがちになってしまうので、本当に良い経験だった。

東京まで行って、居たのは義姉のマンションだったが、それでも充実した3日間だった。
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宮本 憲一、遠藤宏一 編著 『地域経営と内発的発展』:農村と都市の共生をもとめて.1998.農山漁村文化協会.

地域おこしについて、もう少し実践的な本は無いかと思っていた時期に、図書館で偶然出くわした本。

長野県佐久地域の3つの町村をサイトに、これからの地域おこし・内発的発展とは何かを、学者さんたちが寄って集って分析した本。

本書では、内発的発展を理論的に解説してはいない。が、一部の論考では記されているには、市場原理のグローバル化に対抗するため(市場原理偏重を避けるため)、4層(私的セクター・公的セクター・共的セクター・母なる自然)のバランスある発展原理・システムが要求されており、それが内発的発展であるとする。つまり経済的セクターの充実とともに、地域・暮らしにも価値が持てることを指している。

ただし、本書では全体的に経済偏重で記されている。地域や暮らしに価値を持てるという個人の具体的な記述はほとんど無く、地方自治体の財源移譲や地方財政改革などに話が終始している。批判事例として長野オリンピックを取り上げているが、議論はその延長線上でしかなく、お金を何に使うか、といった議論のようにも読める。その意味では、内発的発展と言いながらも、暮らしに新たな価値を感じさせてくれるものではない。

3つの町村を、自治体主導での地域おこし、中間組織として佐久総合病院主導での地域おこし、個人が中心となって緩やかな連携をとっている地域おこし、という具合に分け、その分析のフレームワークにはある程度興味がわく。それを一般化は出来ないが、それぞれの特性を引き出せれば、今後の地域おこしの一考にはなるだろうと思う。ただ、そのフレームワークの論考は1章だけにすぎず、十分な論述はされていない。

全体として量的調査結果ばかりで考察されており、質的調査とのバランスが悪い。地域おこしと言う場合には、主観的な『価値』にもっと目を向けるべきであるにもかかわらず、それらがほとんど書かれていなかったのは残念でならない。

また個人的は見解だが、内発的発展といえば、外発的発展の反対を意味しているのだろうが、そもそもこの言葉自体、あまりしっくり来ていない。内と外の境界があまりにも曖昧だし、またその境界を定めること自体も、意味が無いように感じてしまう。また内と外を分けることで、社会の変容のダイナミズムをそのまま受け入れられなくなる危険性もあるように思う。

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07 13
2006

キスジノミハムシ。そういう虫がいる。運悪く、人間から『害虫』と呼ばれ、大量虐殺されるの運命を歩んでいる。

数年前までは、うちにとって、この虫はなんてことない存在だった。野菜の食害はもちろんあったが、びっくりするほどの害でもなかった気がする。

しかし、販売ルートを新たに開拓し、業者が変わり、野菜の種類が変わり、業者の求めるものが変わった今、キスジノミハムシは、まさに『害虫』と呼べる存在になっている。とくにベビーリーフという野菜においては、もっとも深刻な害が出てしまっている。

一昔前だったら、きつくて強い農薬をがんがんかけて、まさに業界用語の『虫をたたく』の言葉がぴったりの農薬散布をすれば、それなりに効果があっただろう。しかし、今はそうはいかない。ポジティブリストなるものがあるからだ。

もちろんそのリストがなくても、以前から農薬の種類もずいぶん変えてきたし、使い方も気をつけるようになっている。出来るだけ無農薬を目指してもいる。

で、今。その虫をたたきたいのだが、出荷間近の野菜に農薬はやれない。今は泣く泣く、食害にあった葉をちぎりながら、ベビーリーフを収穫している。手間は今までの3倍以上。この季節、ハウスの中は40度以上にまであがるので、暑さも手伝って、気持ちが萎えるのは今までの10倍以上。

しかし萎えっぱなしにもなってはいられない。そこで収穫後の畑を太陽熱処理することにした。農薬に頼らなくても、害虫は防げるはず。輪作のローテーションを変えたり、混作したり、天敵を増やす工夫をしたり、太陽熱を利用したりなどなど。あと、そもそもその害を受ける野菜の栽培をやめるのも手だろう。

キスジノミハムシ。自然界では、ミリ単位のただの虫。ただちょこっと運が悪く、人間が栽培する作物をたまたま好んで食べるだけ。いやそれとも、人間が野菜を栽培するからキスジノミハムシが大量虐殺の目にあっても、その繁栄を謳歌しているのかも。いやいやもしかしたら、環境をいじりすぎた中で栽培される野菜だからこそ、キスジノミハムシが警鐘をならしているのだろうか。まぁ、そんなことはないだろうけど、ただでさえいじりすぎた環境なので、せめて僕は生物界の一員として、もう少しまっとうな方法で防除しようではないか。
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07 12
2006

昨日、某国営放送の取材を受ける。
ポジティブリスト施行後、農家の農薬散布がどのように変わったかを取材しに来た。

打ち合わせに1時間かかり、撮影にも1時間ほどかけていたが、流れたのはたったの10分程度。まぁ、そんなものだろう。毎日のように番組をつくり、それを流している仕事をするのは大変だろうなぁ、そう思えた。

しかしアポのとり方から、質問の出し方まで、いろいろと気になってしょうがなかった。学術的な調査とテレビの取材とでは違いも多いのだろうけど、それでも見過ごすことの出来ない問題点ばかり。アポをとる時は、明確に自分の取材意図を伝え、どういう媒体でながすのかをはっきりと伝えて欲しい。それとどれくらい取材に時間がかかるのか、も。質問は、出来るだけ予備知識を身につけ、または予備調査などを行い、半構造的な形でする方がいいと思う。取材する側が落とし所を勝手に決めたりしないほうがいい。取材を受ける側にそれらを見透かされるようでは、プロとはいえない。

追記:カメラマンは、職人気質でかなり気に入った。
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本日の獲得物。
スイカ、1/4切れ(知り合いから頂いたものを、実家と分けた)。
イチジク 7つ(父が市場で買ってきたものをお裾分け)。
ナンキン 2個(近所のおばちゃんの畑で出来た初物をお裾分け)。
トウモロコシ 3本(叔母の畑の初物をお裾分け)。
金柑瓜 1個(叔母の畑の初物をお裾分け)。
ナス 5個(自家用菜園の収穫物)。
米ナス 1個(自家用菜園の収穫物)。
オクラ 2個(自家用菜園の収穫物)。
ミディトマト 14個(うちの農園の収穫物をお裾分け)。
以上

そして僕の菜園にしかないものが、今度みんなにお裾分けされる(はと麦・唐辛子など)。自家用の菜園とお裾分けで回る経済。これが農家の経済。
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07 09
2006

知り合いからいただいた柑橘を食す。
大学生の時に大変お世話になった人で、僕が尊敬する人の1人。足るを知る人。
その人のミカンは、けっして甘くは無い。でもミカンらしいミカンを作ろうとしている。

で、その柑橘。中身は美味しく頂いたが、当然の如く、皮があまる。というか、普通だったらゴミ。でも捨てるに忍びず、今日、妻がその皮をジャムにしてくれた。

ジャムにするのなら普通、薄く皮をむかないといけないのだが、その人のミカンは無農薬なので、そのまま使えるのだ。それに風味も良いので、ジャムにしても美味い。その人のこだわりと、妻の技能で出来上がったジャム。これからしばらくは、朝食のヨーグルトにつけて食べる度に、妻に感謝し、その人に想いを馳せることができそうである。
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守田 志郎 著 『小農はなぜ強いか』.2002.農文協.

1975年に出版されたものを再刊。

本書は現代農業や地上などなど、あちらこちらで執筆したものを集めて編集した本。75年に出版されたとあり、その頃と今とでは農業政策や農業を取り巻く環境もずいぶんと変わっており、内容の古さが心配であったが、その必要は全く無かった。それどころか、今だからこそ、読まれたい本だと思う。

本書を通して、守田は常に都市の視点と村の視点に気をつけながら、農業を読み解いている。そして都市の視点で農業をみることが、現在(75年当時)の農業の問題点だと指摘している。しかし、その問題点は現在では、すでに問題点にもなっておらず、本書を読むにしたがって、我々がいかに都市の視点で物事を考えることになれてしまっているかを気付かせてくれる。

守田は用語に敏感に反応している。その用語がどういう意味を我々に与えようとしているのかを、丁寧に読み解こうとする。我々にとって、もはや当たり前になってしまっている(それどころか、それすら語られなくなっている)用語として、兼業農家・専業農家という言葉がある。守田はこれを強く批判する。農の延長上に兼業があるという。昔の農民は自分で蚕を飼い、機織をし、タバコを栽培して、それをきざみ、鍛冶をし、牛を飼い、農作物を加工していた。それらは農民の生活と生産が農的循環の中にあったことを指している。兼業と専業を分け、農民の農的営みにランク付けをするような考え方は、そのような農民の生活をまったく評価していない。それを守田は、農業的循環の断絶といい、強く批判する。

守田は『農業的な循環の生活、したがって農業的な循環の生産をおこなっていくことが、資本や都市の支配や侵害を拒んで自分の生活をたいせつにする結果になるのだ』といい、『兼業農家か専業農家ということは、農業的な農業を、つまり侵害されない農業生活を営んでいるかどうかの基準にはならない』という。

農業的循環という視点から、守田は様々な問題に切り込んでいく。農作物とは何か。機械は何を生産するのか。輪作。土を維持するのは作物自身。そしてその循環を支える部落の存在。だからこそ、食糧の自給をどうするのか、という現代の問題に対して、逆立ちの論議と指摘する。循環を守りつつ、その余剰生産されたものこそが、都市の人間が分けてもらえる食べ物であって、都市の人間の論理で農村を語ることこそ、逆立ちの論議である。

本書は、逆立ちになっている現在の農業について、気付きを与えてくれる。ただし、自然と人との関係においては、少々議論が古い観が否めない。守田は自然と人間とを対比させて論じているが、人間自身が生み出している自然もあることを考えると、その議論は深くは無い。また農法についても、農業的循環を人と作物の関係において成立する循環に強調して記述されている。しかし、実際には農法には社会的要因(部落での決まりごと)なども大きく関わってくる。最終章では循環を支える部落として社会的要因も取り扱っているが、それは循環を形作るものとしての部落ではなく、循環を支えるものとしての部落ばかりに目が奪われている。これは僕の個人的な志向かもしれないが、部落が作り上げていく自然、部落が作り上げていく農業的循環、というように部落を動的に捉えて欲しかった。
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07 08
2006

ちょっと離れた県内の中学校で、講演をした。今週の木曜日のこと。
講演とはいっても、聴者は14人ほど。なんでも選択科目の時間だったらしく、その14人が選択した国際協力という科目で話をした。総合学習ってやつだろうか。

協力隊の話となると、実に9年前になってしまう。この間、数え切れないほど小中高大学、さらにはロータリークラブ、国際交流会館などなどで講演をした。特別に僕が話し上手というわけではない。協力隊の体験談を聞いてもらうようJICAが推していること、と、農民である僕は平日に時間をとりやすいこと、この2つが僕に講演をする機会を与え続けてくれている。

ただ、話はマンネリ化している。9年も前の経験談を、何度も何度も話すからだ。きっとそのうち大学あたりで講演があると、『その話数年前に聞きました』という人が出てきかねない。だから僕は、出来れば新しく帰ってきた人に、とやんわりと断るのだが、平日に時間を作れる人は少ないらしい。

さて、その講演。中学生といっても1年生。数ヶ月前まではランドセル背負っていた連中。こういう時期の子が一番話しやすい。言葉も難しい事をそれなりに理解できて、なのにあまり恥ずかしがらないから、どんどん質問してくれたり、話していても反応が良かったりもする。今回も14人の中に1人、どんどん質問してくれた子が居た。

後になって担当の先生から聞いたのだが、その子はお母さんがフィリピンの人で、最近まで向こうで暮らしていたとのこと。普段の授業はつまらなさそうにしているのに、今日は楽しそうでした、と先生から言ってもらい、僕も満足。

さらにみんなと一緒には座っていなかったが、教室の外で聞いている子もいた。その子は、ここ数年、授業に参加できないでいる子だとか。今日は数年ぶりに授業を聞いたそうだ。担当の先生はその子の話しなると少し目に涙を浮かべながら、そしてうれしそうに、あの子が一所懸命にたやさんの話をメモしていました、とおっしゃっていたのが印象的だった。僕にはマンネリ化した話でも、聞く方は初めての話。あんな話でも良いのなら、これからも呼ばれる限りは続けたい、そう思った。

追記:本日、蝉の鳴き声を聞く。
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07 07
2006

今日は七夕。
川辺の淡竹を笹代わりにして、短冊に願いを書いて飾った。
イベント好きの妻が豪勢な食事を作ってくれた。ワインは以前、注文して買った妻の生まれた年のものを飲む。こういう時でもないと、なかなか開ける勇気がわかないので。

子供が出来るというのは不思議なもので、季節を以前よりも敏感に感じるようになった。節句を祝うからだろうか。あと昔を良く思い出すようになった。自分の子供の頃はどうだったか、などと。円環の時間を意識できるのは、すごく幸せなことだと思う。
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昨日、若手農業者クラブの例会に参加する。
3年ぶりのこと。

メンバーも見覚えのあるかもあれば、新しい人もいた。
前々からなかなか溶け込めない場所だ、と思っていたし、帰国してから例会に誘われていたが、なかなか顔を出せないでいた。協力隊参加に、農業をやめてまで留学。僕自身も他人にきちんと説明できないことだし、だからこそまわりも引いちゃってるんだろうなぁ、と思っていたから、なかなか顔を出せないでいた。

が、行ってみると、温かく迎えてくれた。何かと僕を目の敵にしていた僕より年配のクラブ員も、宗旨替えをしたのか、やさしい態度。とりあえず、ここにも居場所を作れたようだ。
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07 04
2006

掘る。ハウスの中の土を。
そのハウスは、建てられてから25年が経っている。つまり、25年間自然状態ではなく特殊な環境だったということ。その土の中がどうなっているのか急に知りたくなって、穴を掘る。

15cmも掘らないのに、土が固くなる。そこから30cmくらいまでの15cmほどがものすごく固かった。これは自然状態の土ではあまり無い。

この原因はトラクター。トラクターは普通の耕起ではぜいぜい12,3cmほどしか土をかき回せない。そしてその重みで、12,3cm以下の土を踏み固めてしまう。だから露地でも、トラクターが良く入る畑は、この固い土の層が出来ていたりもする。この固い土の層が、水はけを悪くし、夏場に立ち枯れを起こす原因にもなる。

さらに掘り進める。60cmほど掘ると、土の色が変わった。粘土の色に。
もともとそのハウスは田んぼだった場所に建てられたもので、だから粘土の層が出てきたのだろう。でもなんで60cmも下に?

うちのハウスはあまり客土(よそから土を入れること)をしない。だとすると、なんで60cmも下に粘土の層があるのだろうか。答えは、トラクターの深耕がだいたい50cmほどだからである。年に何度かは、トラクターで深耕をかける。普段の耕起では12,3cmしか土をかき回せないのだが、深耕だと50cmほどはいける。だからもともとは粘土の層はもっと浅いところにあったのだろうが、深耕のせいで、土と混ざってしまったのだろう。

その粘土の層には、微生物や小動物があけたと思われる穴が無数にあいていた。しかし、その上の層にはあまり見られなかった。粘土の層は、その上の層よりも若干やわらかいように感じたが、土の硬度をはかる計測器がないので、よくは解らない。

驚いたのは、残根。うちは軟弱野菜といって、葉物野菜ばかり作っている。しかもベビーリーフのようにあまり大きくならないうちに収穫する野菜が多い。なのに、残根は60cmの層まで見られた。

先日、農業普及員さんがうちに来て、『こんなに頻繁にハウスで軟弱野菜を作っていると、大量に肥料を入れないといけないですよね。どれくらい入れていますか?』と聞いていた。しかし、うちでは堆肥はそれなりに入れるが、ほかにはあまり入れていない。地上物だけを見ていたら、すごく土地を収奪しているように思われるかもしれないが、軟弱野菜でも残根の量はたいした量になるのではないか。それが土を支えているのではないか。

守田志郎の言葉がよみがえる。『作物は自分で自分の面倒を見る』。そうかもしれない。作物を生産している、と考えると、必要な栄養要素をNPKで考えたり、温度・水の量などなどと考えてしまうが、農業とは、作物は勝手に育つのだがその育つのを少しばかり手伝いすること、だと考えれば、そういう風にはならないのだろう。

40度を超える中で、ひたすら穴を掘り続けたので、すこし頭がおかしくなったのかもしれないが、そんなことを考えた。普段とは違う角度から物事をみると、すこし違って見えるものである。
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07 03
2006

鎌をヤスリで目立てする。
一つ一つの小さな刃を、鎌ヤスリで目立てする。
なんてことない作業だけど、至極面倒な作業だけど、それでも目立てされた鎌はすごく切れる。

これまでは、切れ味の悪くなった鎌は買い換えていた。ただかだ800円程だし。

ただその鎌に、手打ちと銘が打ってあるのに気がついた。どこの誰だか知らないけど、この鎌を手で打っている職人がいる。しっかりと鍛えられた鋼のこの鎌は、どこかの誰かが技能を使って作ったものらしい。だからというわけでもないが、だからというわけかもしれないが、捨てるに忍びず、鎌ヤスリで目立てをする。

道具が生き返る姿は、なんだかそれだけで楽しい。
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今日は、作業小屋で野菜を束ねる仕事が多かった。
ので、祖父・祖母と会話する機会も多かった。こういった機会に、ちょこちょこと昔話を聞くようにしている。あらたまって一度に聞くと、案外しゃべってくれないので。

今日は田んぼの種類について。
最近、守田志郎の本を読んでいるのだが、そこには、かつて田んぼの稲も輪作があった(早生・中生・晩生の輪作)、と記されていたので、うちのむらはどうだったのかを祖父母に確認した。実際には、何種類もの稲を育てていたのは事実だが、輪作は無かったとのこと。ただしそれは、むらの田んぼの特徴と集落で作業をするという社会性が絡んでのことだった。この辺りは、また守田志郎の本を読み終わったら、詳しく書こう。今日は忘れないためにメモまで。

さてうちのむらの田んぼには、3つの地域がある。沖田、東沖、西沖の3つ。近くを流れる川の東か西かという話なのだが、祖父母に言わせるとさらに細かく分かれるとか。西沖、東沖の両方にも水の抜け難い場所がある。西沖の場合その場所は、窪田といい、東沖の場合は、みずたまり、と読んだらしい。さらに沖田にも、雨が降ると川のようになってしまう場所があり、そこは今でも『かわ』とよばれている。実際にそこには川はないのだけど。

それらの呼び名のほかにも、隣の集落の境にある田んぼ一体は、『しんひゃくぶ』と呼ばれていた場所もあったとか。祖父曰く、新百歩と書くらしい。すごく肥えた田んぼだったらしく、新百歩に田んぼを持っていた農家は、みな地主だったとか。ちなみにうちは小作だったので、条件の悪い田んぼばかりだったという。

うちの集落は世帯数が150とすこし大き目の集落だが、とは言っても、小さな農村にすぎない。田んぼの広さもそんなには無い。だのに、こまかく名称が分かれていたのには驚いた。それにあわせて、稲の品種も変えていたし、むら全体での農作業も違っていたとのこと。今じゃ、すべての田んぼが、同じ区画になっているし、暗渠排水などの技術で、窪田やみずたまりと呼ばれていた場所も、その面影も無い。それはそれで、やりやすい農業なのだろうけど、こまかく分けられた田んぼの名称と共に失われそうになっているものはないのだろうか。人が聞いたら笑うかもしれないが、そんなことばかりが気になってしょうがない。
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昨日。
地元の大学で、話をする。協力隊の経験談の話。
募集説明会の1つなのだが、大学側では一般教養のコマの中で話をしてほしいということなので、説明会ではなく、特別講義になっていた。僕以外に2人のOB・OGが参加し、一人1時間くらい話しをした。

てっきり、協力隊に参加したいもしくは興味のある人が来ているのかと思いきや、一般教養のコマの中での講義だったので、興味が無い人も単位目当てで来ていた。どうりで80人以上も集まったわけだ。

うちの地元では、募集説明会をしても、一般参加者よりもOB・OGの方が多く参加してしまうこともある。以前僕が参加した説明会では、一人の一般参加者に3人のOB・OGが取り囲み説明をしていたこともあった。まぁ、それは余談。

さてその特別講義、やはりというか、当たり前と言うか、協力隊に興味の無い人は途中から夢の世界へ。これまであまり聴者を眠らせたことが無かったのだが、今回はちょっとミスった。協力隊に興味ある人たちが集まっていると勘違いしていて、話の内容が『開発』に重点を置いてしまったからだ。大学生だからこそ、こういう話が出来ると踏んだのが。

それでも半数の人は、話を聞いてくれたし、二人だけだったが、質問も出た。来週は中学校で講演予定。人の前で話すのはとても勉強になる。どこで反応するのか、どの話で笑うのか、などなど。また、ライブ感がなんともいえない。聴者の反応が良いと、どんどんこっちも乗ってくる。来週が楽しみ楽しみ。
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田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
taya.tアットマークnifty.com
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(アットマークを@に置き換えて送信ください)

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