ごんぼの種を播いた。
結局、あれから土地に関してはほとんど進展が無いまま。
ただ耕作禁止の境界を示すものが、膝丈程度の杭から僕の背丈以上の棒に変わっていた。しかも、ご丁寧に棒の先端にはピンクのビニールテープがついていた。集落の蔬菜組合の仕業だろう。この件では、まだまだもめそうな予感。

さて土地のことは置いておいて、今日はごんぼの播種の労働について考えてみる。5年ほど前は、ごんぼの播種作業は一家総出だった。祖母が種を播き、祖父がこまざらいで土をかけていく。父が種を播くための座を作り、母が播いた種を落ち着かせるためにその上を踏みつけてまわった。これが5年ほど前のごんぼの播種風景。余談だが、こまざらいとは熊手のこと。うちの集落ではこまざらいと呼んでいる。

しかし今日は違っていた。昨年から導入したと言う播種機を使っての種まきだった。だから作業に人手はいらない。父と2人で十分だった。播種機は、祖母の種まき、祖父のこまざらいの土かけ、そして母の踏みつけの3つを一気にやってしまう。確かに楽だ。それに早い。便利だなぁ、としばらくは眺めていたが、やがて、それがとてもつまらないものだと気がついた。

3人の仕事を一気に片付けてしまう播種機はとても便利だが、だからといってそれが何につながっているのかが良くわからない。母や祖父や祖母は、播種機が代わりに仕事をしてくれるからのんびりしているのかと言うと、そうでもなく、違い仕事に汗を流している。そして、その3人はごんぼの時間から遠ざかる。祖父などは今日ごんぼの種まきをしたことすら知らなかった。

作業風景も味気ない。ただただ2人で種を播く。5年前は、それこそごんぼの種まきは一大イベントで、お菓子やお茶などを畑に持って行って作業をしたものである。仕事自体はつらかったが、それでもごんぼを通じての時間を共有している生な感覚が確かにあった。今日はそれがない。

感情的なだけ、感傷的なだけ、と言われればそうかもしれない。しかし、確かにあった生な感覚は、播種機を入れることでなくなってしまった。便利なことは良い事だと思うが、それが一体何ほどのものなのか、僕にはいまいちわからない。
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本当かうそか、うちの集落ではエンドウは12年ほど期間をあけないと、同じ土地で栽培は出来ないという。連作障害を避けるために。祖父、祖母、それに近所のおばちゃん連中も口をそろえて、『できんのやざぁ』と言う。

で、いろいろ調べてみると、6年から7年というのがどうも農学的見地での意見。まぁ、そんなことはどうでもいい。

そもそも輪作とは何を目的としたものか。連作障害を避けるというのが、その主目的。では、それは何のためか。増収?それともリスク回避?

少なくとも祖父・祖母の言う輪作はリスク回避なのだ。土地が痩せすぎたり、収量が極端に少なくならないように、輪作の周期を作物ごとに決め、それを受け継いできている。その流れの中で、エンドウは12年だったのだ。つまり、エンドウが同じ土地に戻ってくるまで12年の歳月が必要になる。その歳月で、祖父と祖母は農業を営んでいた。農学的に、自然科学的に、エンドウの輪作周期が何年だろうとあまり重要に感じない。

その地域の農業の時間は、こういうところに少しずつだが垣間見ることが出来るのである。だのに、時々、そういった時間は『技術的に間違っている』ということで、無視されたり、脇にやられたり、はたまたカイゼンさせられたりする。

良かった。僕がそのエンドウの時間を知るまで、祖父や祖母がその時間を守っていてくれて。
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yogyaで地震があった。それを知ったのは昨日の昼。

それからインドネシアのメディアサイトを見て回るが、どこもmacet...
仕方なく、ボゴールの知り合いに国際携帯メール。

IPBの時の同級生にyogya出身の人が居たが、彼女のお婆さんと叔母さんは、残念ながら犠牲になってしまった。

yogyaにいる妻の友人とは、未だに連絡がつかない。電話回線がパンクしているからということもあるけど。

死者数はどんどん増えている。あの数字の中に、これ以上知り合いが含まれない事を望む。いや、そもそもこれ以上死者数は増えて欲しくない。
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集落の若手の人たちと飲む。といっても、僕が一番若かったけど。過疎化予備軍の我が集落では、40代は若手になる。

場所は、またいとこの家。またいとこと言っても、普通のまたいとことは違う。うちの祖父の姉がまたいとこの祖父の妻となり、またいとこの祖父の妹が僕の祖母なのだ。かんたんにいえば嫁交換。だからまたいとこと言っても、関係はすっごく近い。

今晩集まった若手は、村の行事によく顔を出す面々ばかり。そんな中に呼んで貰えたのは、村の中ですこし浮いているなぁ、と常々感じていただけに、すごくうれしかった。ある程度は、村の中で認められているのだろうか。
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05 26
2006

今日、ほんの少しだけだが、はとむぎを播く。

先日、母の実家に遊びに行ったときに飲ませてもらったはとむぎ茶が美味しくて、自分でも作ることにした。はとむぎを播くと知って、祖父や祖母、それにパートで来てくれている近所のおばちゃんは懐かしそうにしていた。『昔は、この辺でもたくさん播いたんやざぁ』と。

30年以上昔の話だが、うちの集落でも結構はとむぎを作っていたらしい。自家用として。なので、祖父や近所のおばちゃんから播き方や管理のしかたを習いながら、播いた。懐かしそうにはとむぎの種を眺める祖父やおばちゃん。今まで戻ってこなかった時間が回帰しているようだった。

僕にとっては初めてのはとむぎだが、この集落には、はとむぎと共に生活した時間があったのだ。自分もその時間を紡いでいこう。
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内山 節 著 『貨幣の思想史』:お金について考えた人びと.1997年.新潮社.

内山節の哲学をどうにか理解したい、そういう思いに駆り立てられて手に取った本。

『「創造的である」ということ』の中で、彼は使用価値を共有できる産直が重要だと書いていたが、そのあたりが私には良くわからなかった。使用価値なんて面倒な言葉をもちださなくても、儲かるか儲からないか、そういうことではないのだろうか、とただ単純に考えていた。しかし、ここ何冊か彼の著書を読んでみると、私の捉え方が不十分なのではないだろうか。そう思えてきた。

彼の言う『使用価値』を彼と同じ地平で眺めることができないものだろうかと思い、この本を読む。

本書は、経済について考えてきた学者の中から13人を紹介しつつ、貨幣について考察をいれた本。ウィリアム・ペティ、フランソワ・ケネー、おなじみのジョン・ロックやアダム・スミスから始まり、マルクス、ケインズまでを一気に紹介する。それぞれの価値に対する考え方、貨幣に対する態度が紹介されている。

私たちは貨幣が当たり前に存在している社会に生きている。だから価値についても貨幣を基準に考えがちになったりもする(例えば、某テレビ局では、いろんなお宝(芸術品・おもちゃなど)をお金に換算する番組を作っている)。だがそれは、ちょっと考えたらとても妥当とは思えない。

価値には使用価値と交換価値がある。本書で紹介されている例で説明してみよう。水にはそれと交換できるものはあまりないだろうが、無くてはならないほど有用性を持っている。しかしダイヤモンドなどの宝石は、それ自体にあまり有用性はないが、それと交換できるものは多くある。つまり水は使用価値は高いが交換価値は低いとなり、宝石は使用価値は低いが交換価値は高いということになる。そんなことは当たり前ではないか、と思われるかもしれないけど、この使用価値と交換価値が一致しないところが、現代の資本主義の歪として表れている。

本書が特に優れていると思うのは、最終章の第3節だと思う。1章から11章までは、これまでの貨幣・価値に対する西洋思想を紹介しているのだが、最終章である12章では、そもそもこれまでの西洋思想の中で前提であった「すべてのものには固有の価値がある」こと自体を批判している。筆者は、使用価値は関係的価値で関係のなかに成立する有用性だという。
商品の価値を作り出しているものは使用価値においても、交換価値においても、その価値実体を作りだしているものは、それとともにある関係的世界であるという。ここでは価値は価格に等しく、価値両は労働時間量に等しいとみなすことによって成立する商品経済の構造が価値実体を成立させる。その結果、商品の価値はその価値実体が価格としての貨幣量をさだめるのではなく、貨幣化された価値が逆にその商品の価値実体を生じさせていると指摘する。

筆者は最後に、『私たちが創造しなければならないものは、使用価値を実体化しうる関係であり、そのことをとおして貨幣を実体化しうる関係を縮小していくことであろう』という。これが彼のいう産直ということであろう、と理解した。

貨幣には価値がある、と当たり前に考えている人には是非読んでもらいたい。価値について深く考察できる良書。この本を強く推薦します。
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農薬を散布する。
ブロッコリーの畑にヨトウムシが発生したから。やりたくは無い。出来ることなら、無農薬で済ませたい。すっごく嫌々ながらの農薬散布。

帰ってきてから、すぐさま風呂に入る。娘をお風呂に入れるのは僕の役目だったのだけど、今日は娘と入る前に、自分の体を良く洗う。よく洗ってから娘を風呂に入れた。

自分の娘に直に接することが出来ないと思っているような行為(農薬散布)を、なぜ僕はやるのだろう。誰かの口に入るものなのに、ほかの匿名の人たちなら僕は平気なのだろうか。

農薬を散布した日は、落ち込む。
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今朝、うちの集落の区長さんがすっ飛んできた。

ごんぼのことだった。作らないでくれ、と。
今の区長さんは農家ではないので、河川敷のことは良く知らないはずなのだが、うちがちゃくちゃくと作業をしているのをどこかで聞きつけたらしく、今朝すっ飛んできた。

多分、まわりの農家の誰かが区長さんに言ったんだろう。うちが耕作禁止の畑で作業をしていると。

まわりの農家も、作りたいのはやまやまけど作らないようにしている。だから、うちのように作り始めているルール違反は、許せないのだろう。その気持ちは良くわかる。

真っ向から喧嘩してもはじまらないので、その辺は父がうまい具合に区長さんと話をつけていた(どのように話をつけているのかは、公では話せないので、内証です)。

父曰く、『まわりの農家にも話をつけてくる』とのこと。

なにも相手は役所だけじゃない。多層的に関係が入り組んでいる中で、ごんぼはもめながらそれでもなお、うちはごんぼを作る。

うちはここで200年以上農業をしていて、その流れの中で集落の農家や役所(昔は藩)と関係を作り、そしてその流れの中でごんぼを作ってきた。だからその流れの中で、今年もごんぼを作る。ルール違反自体がどれくらい悪いことかはよくわからないけど、その大きな流れの中では、それすらも風景の一部のように感じたりもする。そんな今日この頃。

それって、不謹慎かなぁ。
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05 24
2006

今日は田植え。
曇りの天気で、暑くも無くそれでいて雨も降らない、田植えの絶好の天気。やはり先日田植えを遅らせてよかった。農業とは待つべきものと悟る。

ASANGさんからのコメントにもあったが、段付けをしているので、うちの田植えは遅い。段付けとは、ほかよりも遅らせて植えるという意味。収穫時、農協のライスセンターに一時に米が集まるのを防ぐというのがその主目的。つまりすこしずつ時期をずらして植えなさい、という意味。

昨年まではこの段付けを行うと、農協から補助金が出て、稲の苗がかなり安かった。今年からは出ないとか。それでもうちは段付けをする。5月の頭が忙しいというのもあるけど、やはり寒いうちは植えたくない。

田植えは父と二人仕事。いろいろな話をした。昔の田植え風景について沢山聞いた。今は区画整理されていて田んぼの広さは皆、25a~30a程度になっている。しかし、父が若い頃は5aだったとか。うちはそのころから1町歩の田んぼを持っていたが、すべて5a程度だったので、全部であちこちに20枚以上あったとか。

そんなことで農道なんかもなかったという。機械を入れるには田越しにいれたとのこと。だから田んぼは上から順に田起しをして田植えをしたらしい。だからライスセンターに言われなくてもみんな段付けだった。

田植えもにぎやかだったという。親戚縁者・一家郎党が集まっての田植えだったとか。田起しから田植えまで一気にやるので、猫の手も借りてでも田植えをしたとのこと。自分の田んぼが終わらないと隣の田んぼに迷惑がかかったりもするからだとか。今では機械があれば一人でも出来る田植え。ただ一人で黙々とする田植えは、かなり寂しい。そう、現代の農作業はどれも孤独なのだ。

むずかしいことは未だに良くわからないのだが、農業を取り巻く風景の中で、社会資本が機械化によって他に向けられて『発展した』という人がいるが、個人の楽しさや孤独さ・関係性の豊かさなどが社会資本にも入ると考えると、なんだかプラスマイナスゼロのようなきがする。

そんな田植えの日だった。
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健康診断に行く。

長期間海外に住んでいたためか、昨年帰国してからずいぶんと体調が悪かったこともあり、健康診断に行く。

3年前の健康診断結果と比べて、身長は2センチほど縮んでいたが、肺活量は1000もアップしていた。ここ2年ほどは寝ているとき以外は本を読みまくる生活だったのに、なぜ肺活量がアップしたんだろう?

読書と肺活量の関係(もしくは読書と身長の関係)を研究されている方がいたら、教えてください。
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05 22
2006

今日は『さんにょ』のあわない日だった。

『さんにょ』とは福井弁で、計算や計画のことを指す。今朝は昨日から晴れが続いていたので、田植えをしてしまおうとさんにょしていたのだが、あいにくの強風。

強風でも田植えを強行しようと思えば出来ないことも無いが、やはり適さない。せっかくの晴れで、しかも明日からしばらく天気が悪いというのに・・・。

あれ?今頃田植え?と思われる方もいるだろう。最近では連休中に皆田植えを済ませるのだが、うちは段付けをしていて、時期が遅い。連休中は他の仕事で忙しいというのが、主な理由だが、そもそもうちの集落では昔から5月20日以降に田植えをしていた。そういうこともあってか、連休の寒いうちは田植えをする気がしない。

さて、今日は強風。なので田植えは中止。代わりに、父はごんぼの穴掘り(ごんぼを播く前に穴掘る。ごんぼの根がまっすぐ伸びるようにするため)をし、僕はブロッコリーの土寄せをしていた。どちらも晴天の中でやればすこぶる気持ちの良い作業。この地域では、田んぼよりもやはり畑作の方が面白い、そう思えた日だった。
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05 21
2006

川沿いに竹薮がある。
たぶん昔なら、だれだれさんちの竹薮だったのだろうけど、今はだれのものでもない。厳密に言えば、国のものかも。

で、今日。その竹薮から竹を切り出す。自分の菜園の支柱にするために。きゅうりの支柱にはそこの竹が一番だと祖母は言う。祖母が言うには『きゅうりのつるがもたくさにならんから』だそうだ。資材屋に売っているきれいな支柱では、きゅうりのつるはもたくさになるらしい。

うちの集落で畑をしている人(大規模ではない)は皆、そこの竹薮の竹を支柱に使っている。そして皆、『きゅうりのつるがもたくさにならんからいいんやざぁ』と口をそろえて言う。

だから僕もその竹を使おうと思った。
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05 20
2006

いまさら?と思われるだろう。
今日、たけのこほりに出かける。母の実家にはトトロの出そうな山があり、そこに採りに出かけたのだが、あいにく雨。竹やぶにも行かず、母の実家で従兄弟や叔母などと雑談。

話によると、竹やぶはずいぶんと手入れしていないようで、入ることさえ大変だとか。それならば、夏ごろに一度整理に来よう。雪がなくなる3月終わりにも、整理に来よう。

たけのこだけにかぎらないが、そういうものは、その旬だけに思いをはせるものではなく、1年という時間をかけて楽しむものだから。

だから今日は雨だったのかもしれない。
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今日はつるむらさきと空芯菜の移植をした。

これらの野菜は、うちの農園では夏場の主作物となる。近所の農家が田んぼを減反するということで、その田んぼを借りて、そこに座をつくって移植した。全部で1反(10アール)ほどなのだが、これが手作業なのでなかなかに大変なのだ。1反とはいえ近所の農家からみたら、それでもたいそうな面積。

つるむらさきも空芯菜も出荷時は一束100円にもならない。仕事量をお金に換算したら、やっていけないと感じるときも正直あるが、夏場に力強いあの味が好きだ、という人がいるかぎり作り続けると思う。
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父とさしで飲んだ。
大学の頃は、ときたまそういうこともあったが、最近では記憶に無いくらい久しぶりのことだった。

インドネシアで仕事の誘いを受けた話をしたが、それを黙って聞いていた。僕の答えを聞く前に父は、

『どこでやっていこうと思うかの問題だな』と一言。


まさにそう。

決心なんてあまり長続きしない性質なのだが、ここでやっていこうと思うと伝えた。久しぶりに感情的にならないで親と話ができた夜だった。
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内山 節 著 『時間についての十二章』:哲学における時間の問題.1993年.岩波書店.

『里という思想』に出会ってからここ最近、立て続けに内山節を読んできた。が、これまでの著書は散文的に書かれており、いまいち彼の思想が解らないでいる(散文的に書くのは多分意図的だろうけど)。たぶんに、自分の読解能力の無さが問題だとは思うが。

そこでこの本。タイトルにもあるが、まさに時間について考察を入れた本。
著者は、近代を労働や価値から捉えようとしているのだと思うが、その流れで時間についてじっくりと考察したのが、この著書だと思う。

留学中、少々現象学に触れる機会があり、そこでは時間をその人その人の意識としてとらえている。が、著者は時間意識としてとらえるのではなく、『時間を主体との関係によって変容する存在』と捉えている。全体にわたって、この時間に対する考えを解説しているのだが、この部分が解らなければ、たぶん、著者の見ている地平を一緒に見ることはできないと思う。ちなみに僕は、なんとな~く解った気になった気がするかなぁ、だめかなぁ、といった程度の理解。

この著書が優れているのは、なぜ時間の考察が必要なのか、という部分をはっきりと明示してくれたこと。近代をどうとらえられるのかという議論の中で、これまで読んだ他の著者の本では、合理性などを通して理解されてきたが、その根っこの部分では、時間は普遍なもので、独立して存在しており、その刻まれる過程に変容がないことを指している。だから基準となる時間が短縮されることで、合理化がなされるという理解にもつながる。また現象学では時間をその主体がどう意識しているかということを問題として取り上げているが、それもまた、時間が時間として存在していて対象化できるものという考えが根っこにはある。はたしてそうだろうか。

著者は群馬の山村での生活の中から得た経験から、時間は関係の中で存在するものだという。川の時間、森との時間、森林経営の時間、山里の時間。著者は、そこに存在する2つの時間に気がつく。縦軸の時間と横軸の時間である。直線的に進んでいく(もしくは発展していく)縦軸の時間と、円環の回転運動をしている横軸の時間である。横軸の時間は季節と共に円環運動を繰り返す。去年と同じ春が戻ってくれば、山里の人々は、回帰してきた春と共に1年前と同じ世界に回帰する。

筆者は、この横軸の時間がうすれ、縦軸の時間が大勢をしめるようになったことを近代と捉えている。戻ることの出来ない縦軸の時間の中では、時間はかけがえの無い価値を持つものに変わる。そして時間価値の合理性が生まれてくる。労働が時間で計られるようになり、労働が経済的価値を生むことになる。その価値の中では、小規模な森林経営も山間地(小規模)の農業も意味の無いものに変わっていってしまう。

労働と貨幣、そして商品の持つ価値を時間の視点から解いた良書。読みこなすのにはずいぶんと苦労したが、それでも読まれたい。
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本日、ごんぼの畑に元肥となる肥料を入れる。

ようりん・石灰・タブレットになった有機肥料の3種。ようりんはいらないと思ったのだが、父が入れるというので入れる。

さて、この畑。以前も書いたが、畑の半分が耕作禁止地。最近立てたれた耕作禁止を意味する杭を横目に、何も無いかのように肥料を入れた。耕作しないようにと先日、国土交通省から通達があったが、肥料を入れた。来年は、その畑は使えないかもしれないが、今年はそこ以外ないから、仕舞いがどうなろうともそこでごんぼを作るしかない。

じわりじわりやっていこうと思う。既成事実は大事だと思う。
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どうでもいいことかもしれないが、鍬は完成された道具だと思った。

何百年もまえから、いや何千年も前から、鍬の形はほとんど変化が無い。ずーっと昔から、同じなのだ。使い方もあまり変わっていない。

現代は、こんなにもいろいろな物がものすごいスピードで変化していくのに、鍬はやはり昔のまんま。

昔のまんまなのに、腰痛になるのは改善されないんだよなぁ。

延々と鍬で土上げをしていると、ふとそういうことが頭をよぎった。
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本日、娘(生後7ヶ月未満)を湯船に落とす。

水を大量に飲み込んでむせる娘。一瞬固まった後、大泣きかと思ったが、意外にもあまり泣かないでくれた。

一昨日、ブロッコリー畑の中耕と土寄せを鍬で丁寧にやっていたせいか、今日になって体のあちこちが痛い。1日遅れての筋肉痛。こういうところで歳を感じてしまう。だからというわけじゃないけど、娘を湯船に落としてしまった。

最近は娘の要求も大きくなってきた。抱っこして揺らすだけでは足りないようで、ヒンズスクワットぎみで揺らさないと許されない。しかも30分以上。時には1時間以上。もちろん、途中で座ったりするのは、絶対に許されない。

育児と農作業、この両立はなかなかに大変だ。
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内山 節 著 『「創造的である」ということ 下』:地域の作法から.2006年.農文協.

『創造的であること』の下巻。2000年から2004年までに行われた勉強会や会合で、筆者が発表した事をまとめたもの。上巻が1994年と1997年の勉強会で発表した事をまとめたものであったことから、上下巻通して、筆者のここ10年の思考の流れが大まかにわかるシリーズ。

副題にもある通り、地域の作法の考察から近代の合理性を批判考察していこうと試みた本。

筆者は近代思想の表現方法としての論理的な記述には疑問を呈している。そして思想表現の方法として地域の作法に注目する。作法の背景には思想があるとし、知性で合理的に捉えられない思想も、作法を通して感じることが出来るとする。そういったものは科学的に明らかにされていたのでもなく、論理的に明らかにされていたわけでもない。『(それらは)文化の領域でつかみとられていたのではないか』と筆者は考える。

文化の領域というなかで、筆者は『総有』という言葉を用いる。共有という言葉に似てはいるが、総有という言葉は誰がメンバーなのかがぼやけている状況をいう。共有という言葉は、共有林というように使われ、その反対語として私有という言葉がある。これらの言葉は所有者がはっきりともしくはある程度限定できる状況の場合用いられる。しかし、総有の中には、はっきり私有のものとわかるものでも、メンバー(誰がメンバーかははっきりしないが)間で総有されているものがある(例えば、その地方の文化財や森の大木など)。つまり、その文化の中で生きている人々が、その文化を緩やかなコモンズとして総有している状況である。さらに筆者は、伝統社会には総有関係を壊さない作法があったと述べている。

本書のさわりになる1節があるので、長くなるが紹介する。
『世界を概念的にとらえようとするような思考方法に邪魔されるより、「作法」のなかに表現されているその地域で暮らした人々の思考を考えたり、「総有」の世界がつくりだした人間たちの思考を考える。そこにある論理化できない思想をつかむ。合理性だけではとらえられない思想を、自分のイメージのなかに取り込んでいく。そんな思想的な営みのなかに、これからの自然と人間の世界をみつけだしていきたいと思っています』。

本書では市場経済についても批判考察している。信用できる実体経済とはなんなのか、という問いに、筆者は有用性にもとづく関係性の確立だろうと答えている。そのために商品が『半商品』である必要があるとしている。半商品とは、市場で売買されているけれど、それを作る側も購入する側も商品であることを越えた使用価値をみいだしている、そういう商品を指す。そこには総有関係が見られる。総有関係というゆるやかなコモンズであるため、生産者と利用者、両者をつなぐ人々が、思想的共有性によって結ばれているのを理想とはしていない。筆者は、総有的関係があるが故に生まれる慣習を媒介して、それぞれの人々が結ばれていくとき、そこに強さが生まれると考える。その中で、農業の場合、産直をイメージしている。上巻では、私の読み込み不足か、産直にたいするイメージが良くわからなかったが、下巻では、産直を通して関わっている人々の間で総有関係を作り上げようという産直に対する考えが良くわかった。

ただ、作り手とそれを使用する人々(消費者という言葉はあえて使わない。なぜなら半商品はただ単に「消費」されるものではないから。)の間に存在する流通業者も、その総有関係の中にいるのであれば、産直でなくとも良いとは思う。産直はやはりただの手法であって、それ自体が一人歩きすれば、市場の合理性に巻き込まれていく結果になるであろうから。
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05 08
2006

うちの農園で、もっとも自慢できる品目だった『ごんぼ』(ごぼう)が、作付け出来ない危機に陥っている。

以前エッセイでも紹介したが、ごんぼは昔からうちの集落の河川敷で作られてきた。昔は多くの農民がごんぼを作っていたらしいが、今では家庭菜園程度に作られているだけで、うちだけがすこし多めに作っている。

もともとうちの集落の農民が代々守ってきた川辺の畑だったが、河川敷が建設省(現在の国土交通省)の管轄する土地になり、農民に土地所有権は無くなり、国土交通省から単年度契約での耕作権を与えられている現在、ごんぼをつくるのに適した畑はすくなくなっている。

2004年夏。福井は50年に1度という大雨に見舞われた。そして街中心部で多くの家屋が浸水した。それを受けて現在、福井では河川工事が多い。それが直接関係しているかどうかはよくわからないが、河川敷の耕作許可地の境界も厳しくなっている。

今年ごんぼを作る予定だった畑は、厳密に言えば耕作禁止地だった。だが、そんな境界はあってないようなもので、これまで何十年もその土地は耕作されてきた。それが突然、5月の頭に、『耕作しないように』と通達があり、境界に杭が打たれた。

そこは、4月には炭を入れた畑だった。ごんぼの出来がよくなるようにと。

もうすこし早く通達してくれたら、ごんぼのために他の土地を探しただろう。しかしこの時期、周りの農家も作付けを始めており、空いている畑は無い。苦労して入れた炭も無駄になる。

国土交通省にとっては、我が土地のことなので、あまり気遣いもないのだろう。しかし、もっと早くから通達があれば、他の選択肢もあったのに・・・。悔やまれてならない。土地の権利を持たない小農とは、所詮こんなものか。
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05 07
2006

暖かくなってきた、というよりも、暑くなってきたこの頃。野菜が良く育つ。が、それにあわせて消費が伸びてくれるわけではないので、当然野菜はあまる。今日、つまみなを大量に捨てた。

4、5月はどうしてもこうなる。まだまだ寒い日もあるので、それを想定して野菜の種(葉野菜)を多めに播いているので、どうしてもあまる。そういうロスはしょうがないと思うし、これをどうしようかと合理的に考えるもの、あるいは合理性の罠にはまるようで怖くもある。

さて、野菜のあまりを見続けてきた父と母は、今日こう言ってきた。
『ベビーリーフを東京に出荷しよう』と。

地産地消などとすこし古ぼけてしまった言葉を持ち出す気は無いが、ローカルに生産することという点では、父の農業と僕の農業は一致していた。が、東京に出荷するとなると、ずいぶんと志向が違ってくる。100歩譲って、今は野菜があまっているから出荷するでも善しとしても、それの道の先には出荷量の安定からくる規模拡大や効率性を求めた作付け計画が待っているように思われてならない。

目の前の捨てなきゃいけない野菜はもったいない。と、僕も思う。しかし、地域の市場にしか出荷していない現状でも、ロスを考えて大量に廃棄しなければいけない。そういう今の作付けを考え直す方向に志向するべきだと思う。ロスを利益にするのではなく。

野菜を捨てながらそう考えた。
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内山 節 著 『「創造的である」ということ 上』:農の営みから.2006年.農文協.

最近お気に入りの哲学者・内山氏の新刊本。ただ上巻である本書の内容は、1994年と1997年に行われた東北農家の勉強会で著者が発表したものをまとめたもの。

本書の初めでは、農の思想について触れている。150年ほど前のフランスの政治社会学者トクヴィルの思想をもちいて、農の営みについて考察している。トクヴィルは、社会を分析するにあたって重要視したのが『精神の習慣』であり、これはウェーバーの言う『エートス』(倫理的態度、ある時代の人々の行動を決定する倫理・精神)と同じものである。本書では、現代の農業について『精神の習慣』について言及している。

著者は、農業が市場経済重視になることを批判している。その中で、農業に携わっている人々の精神の習慣として、農業そのものに感動するのではなく、農業によって上げた利益を創造した自分自身に感動していると指摘する。個人が発展・創造されていくと考える近代的思考を批判し、相手(人・自然)との間で関係を創造(生産・再生産)されていくものだと述べている。その中で著者は、相手との関係性を含む半商品としての農産物の産直をすすめる。ただ著者がイメージする産直については具体的なものは示されていない。産直という言葉の中にも、利益を最大化することを目的とした近代性を含むものもあるが、それに対する指摘はない。

それ以外に興味深かったのは、近代への考察である。近代の特徴を空間的普遍性であるとし、それ以前からあった時間的普遍性を否定するものだと考察する。つまり場所が変わっても通用するものを近代の中で作り上げてきたが、その場所の時代を通しての普遍性は否定されてきたということ。時間的価値の概念を含む今後の近代への考察に重要な考え方であろう。

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ジョージリッツア著 正岡寛司 監訳.『マクドナルド化する社会』.1999年.早稲田大学出版.

本書はマクドナルドそのものについて言及した本ではない。脱人間化がすすんでいく近代化の過程をマクドナルド化と名づけ、厳しく批判した本。

リッツアの言う近代化は、合理化されていく社会を指し、次の4つの特徴をもつ。効率性・計算可能性・予測可能性・制御である。そしてこれらの4つの特徴を持ち合わせるものの象徴として、マクドナルドがあげられており、それをもってマクドナルド化とよんでいる。

マクドナルド化(合理化)を追い求めた先に一体何があるのか、人はあまり考えないまま合理化を善しとして突き進んでいく。脱人間化につながるマクドナルド化だが、僕たちはこの中で息をすることに心地よさを感じてしまうことが多い。たとえば予測不可能なレストランで食事するよりも(例:メニューに書いてある料理が作れないレストランなど*インドネシアに多い)、予測可能なレストラン(初めて行く店でも食べようと思ったものが食べられる店)で食事をするほうが快適に感じるだろう。しかしリッツアは、合理化は自らの行動に制限を設ける檻に他ならないと指摘する。

リッツアの批判が卓越しているのは、ウェーバーが鉄の檻と表現した合理化を、その中で生きる我々個々の視点に合わせて、ビロード製の檻とゴムの檻を付け加えたことにある。合理的な社会をもはや心地よく感じるようになった人には、ビロード製の檻に感じるだろう。また合理化が持つ弊害を知りつつも、そこから簡単に脱却できると考える人は、合理化をゴムの檻を感じるだろう。そういう人達は、たまに手料理をしたり、休日に野外活動を楽しんだりすることで合理化した社会から簡単に脱却したと感じつつも、結局は休日明けには合理化した社会に戻っていく。この指摘は、まるで自分の事を指摘されたようで、ドキッとした。

本書の最終章では、合理化の檻から脱却を提案している。簡単に要約すれば、次の通りだろう。『日々の生活に関わるすべての活動を出来る限り自分の手で行うこと』。料理を作り、人との関係に時間をかけ、自分の乗る車は自分で整備し、自分の住む家を自分で建てる(もしくは設計する)。毎日を丁寧に、手間をかけて生きる事を提案している。僕たちは、はたしてどこまでそれが出来るのだろうか。生きる方向性について、考えさせられた良書。
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今日は憲法記念日。だから憲法についてちょこっと考えてみた。
最近、憲法改正などの議論を耳にするが、どうもいまいちピンと来ない。

僕の好きな詩にこういうのがある。

日出而作,
日入而息。
鑿井而飮,
耕田而食。
帝力于我何有哉。

ほっておけばよい、ということではない。執政側は、その地域住民の生活の中でくりひろげられる活動に控えめにコミットするべきだと思う(インドネシアやカンボジアの場合は、もっとまじめにコミットすべき)。

憲法は国家が国家として存在するためにある決まりごと、と僕は理解している。
だから、憲法問題で引っかかるのが、国家のその主張ぶりである。戦争をするもしないも国家のもとで決まるのだろうか?よくわからない。ただ自分の生活世界に越境してくるものがなんだか気に入らない。

お国のために銃をとる気にはさらさらなれないし、どっかの国のために銃をとる気もしない。武力に対して武力で答えること自体、賛成できないのだが、ただ、自分の愛すべき人々や地域が強大な権力に侵されていくような事態になれば、僕はもしかしたら銃をとるかもしれない。理性ではいけないとは思うが、そういう意味でテロリズムを真っ向から反対はできないでもいる。

近代に入り、まるで当たり前のことのように国民国家という制度が受け入れられている。そのこと自体に疑問を持ち始めると、憲法改正の議論の前提になるもの自体が気に入らなくなる。

今日は憲法記念日。だから憲法についてちょこっとだけ考えてみたが、やはりよくわからなかった。
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田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

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