土曜日は愛知の一宮に居た。
今の愛知の県青協の委員長である
加藤秀明氏に会うためだ。
今年のJA福井市青壮年部の役員研修会は、
面白い人に会いたい、と
常々思っていて、
そこで全青協で出会った
この人、加藤さんに会いに行こうと決めていた。
だが、参加人数は振るわなかった。
いつもは6月に行う役員研修会だったが
今年は僕の事情で11月にずらした。
11月はイベント尽くしで
役員さんや支部長さんの皆さんは
忙しくて日程をやりくりできなかったようだった。
これは来年への反省。
とても面白い人だっただけに
参加できなかったメンバーがいたのは残念。

さて、加藤さん。
大学後に有名なIT企業に勤めて
そんで中国へ行き、ホリエモンショックで
日本に帰ることになって
パソナの研修で大潟村に行って
農業に出会い、
愛知でイチゴと米を栽培している。
というその足跡を並列しただけでも
これまで普通の農家が歩んできたであろう
道筋からはずいぶんとかけ離れているのは
おわかりいただけただろうか。
彼自身を紹介するのは
彼のブログを参照してもらうのが一番だろう。
(リンクはこちら)

さてさて、
香港でお菓子やイチゴ作って売ったり
愛知で作って香港へ輸出したり
他にも新しいビジネスのアイディアにあふれていた。
農業構造的に彼の営農を
聞いた話だけで読み解くと、
まず一宮はベッドタウンだ。
住宅の中に細切れになった農地が点在する。
調整区域であろうが結局は、まぁ、
神門氏が指摘するように農地の転用期待と
ざるのような農業委員会の審査で
いとも簡単に農地は宅地化していた。
その中で2畝3畝という田んぼが細切れに
委託され、集積はままならない状況らしい。
地域では彼の次に若い農業者が67歳という。
作業受託のオペレーター間での農地の
調整や集積を図ろうと思っても、
高齢化した次に若い農家は、
昔から覚えた場所が良いと言って
調整には乗ってこない。
用水にも問題がある。
1週間のうち水が回ってくるのが2.5日。
なので稲の品種も水のまわってくるのに合わせて
奥手品種を作付けしている。
東海道新幹線に乗っていると一宮あたりで
11月ごろに一面に黄金色していたのは
なぜだろうかと常々思っていたが
そういう理由もあるようだ。
こんな状況下では
まぁ、米では大規模経営の
国際価格との競争といった未来図はないね。
こういう面では、北陸の平場は
ぜいたくすぎるほど土地改良は進んでいる。
ただ羨ましいな、と思ったのは
巨大消費地が近いこと。
県全体で80万人を切る超高齢化の地域と
一宮とでは別次元だ。
空港1つない県と
国際空港を持っている県の違いも
別次元だ。
もちろん国際拠点港湾もあるしね。
この条件だと輸出も楽だし
意識のはじにそれは存在してもおかしくない。

イチゴ自体は一宮では
誰も作っていなかったということで始めたらしい。
それと際立っていたのが
施設や農機にお金をかけないことだ。
安く譲ってもらったり
自分で作ったり。
なるほどな、と思う。
自分もその時間があればそうしたいけど
結局、自分で施設を建てるよりも
業者に頼んだ方が早いからそうしてしまう。
だから僕は売り上げよりも大きな借金を
背負うことにもなっているだろうね。
借金をしないことだ、という彼の言葉はまぶしかった。
ま、これは僕には
あまり経営センスがないってことだけなんだけどね。

で、そのイチゴを輸出したり、
海外でのコンサルで収入を得ていたり、
と、そんな話を聞かされて、
青壮年部の盟友さん達は目を白黒させていたに違いない。
僕も海外に出て行って
いろいろとやりたいのは山々だが
中量(少量では無くなりつつある)多品種の
野菜栽培をし始めてしまうと
なかなか自由にあちこち行くわけにはいかない。
こういう部分は水稲は強いね。

輸出に関しては
ちょっと懐疑的。
日本がブランド化されて売れているのなら
日本から来たことに強みは出るが
もし品種的な美味さや品質の良さ程度であれば
これって簡単に他の国の産地にとってかわられるよね。
がんばってルートやブランドやそういったブームや文化を
作っても
簡単に入れ替わることは可能かもしれない。
僕らにしてみたら
インドネシアの研修卒業生の活躍の場が
輸出ブームで出来るかもなぁって思ったりもする。

盟友たちは彼のあふれるばかりのアイディアに
感心していたようだが、
僕は彼の見据える視点が気になる。
これだけいろんなこと経験してきたのに
非農家で新規参入で飛び込んできたのに
農協青壮年部が好きだという。
彼から見える彼の地域の農業の未来って
どんな風に見えているのだろう?
僕らは平場で基盤整備も進んでいて
低コスト競争に勝てる規模まで
淘汰を繰り返すのだろうけど、
そこにベクトルを向けられず
大消費地の近くで海外志向を持つ人間から
見える農業の未来図は
どんなんだろうか?

久しぶりに面白い人に出会った。
もう少し、彼の肩越しに
その視点の先を覗いてみたいなって
そう思える人だった。



農家に学ぶという題ではあるが、
この方はべつに『農家』を
意識しているわけじゃないだろう。
こちらのカテゴリ別の事情で
こういう題になっているのであしからず。

河合のJA青壮年部で
今年初めて泊りがけの研修会に出かけた。
行った先は、奥能登。
泊まったのは農家民宿。
農家が農家民宿に泊まって何が面白いんだ?
と言う人は多かった。
夜、宴会もないし、
コンパニオンもつかないし、
繁華街へ2次会で流れることもできない。
そんな研修会には参加しないよ、という人も
多かったが、
1回目の研修会にはこの春蘭の里を選んだ。
辺鄙な中山間地で
田舎をサービス化して1軒40万円を売り上げる
農家民宿の団体が能登にあるという
情報は僕には衝撃だった。
米価は落ち、転作もパッとしない。
飼料米なんてとても未来があるような品目でもなく、
徐々に田舎の稲作経営は
身動きが取れなくなりつつある。
メガファーム化しても
地域・農村を考えるに
生産効率とコスト削減が
それらの活気につながっているようにも見えない状況で
僕らはもう待ったなしの状態なのだ。
だから、
まるで僕らとは対極にある
中山間地で生産効率も上げられない地域で
農家民宿として1軒が40万の売り上げを実現している
その場を見るべきだと思った。
参加人数は
青壮年部の事務局である営農指導員を含めて
12名。
それでも結構集まったと思う。

さて、
この12名で訪れた春蘭の里を
牛耳っていたのは、
春蘭の里実行委員会の多田氏という
能登が生んだ怪物だった。
平成8年ごろから
10年後の未来が見通せないとして
自分たちの集落を何とかしようと
有志7名で会を作って議論を始めた。
当初は山菜などの農産物販売で
1億円を目指したが、
JAの手数料や運送料などで4割以上経費が
かさむことが重荷になり頓挫。
5年間の議論を重ねて
農家民宿をやろうということで
多田氏の家を第1号に春蘭の里の
農家民宿をスタートさせた。
地域のモノだけで食事を出し
砂糖は使わず、塩も地元産の高い物を使用。
食器も輪島塗のものを使った。
そんな特色を前面に打ち出したが成功し
じゃらんや楽天のネット予約も
入るようになった。
現在までに延べ11,000人を受け入れ
外国人も1,700人を受け入れている。
イスラエルから10団体がやってきており
修学旅行も5団体受け入れた。
僕らが来たその2日前にも
千葉の船橋の中学校が、
大型バス7台を連ねて210名の学生を連れて
春蘭の里に泊まったという。
40件の登録された民宿で中学生を受け入れ、
それはそれはにぎやかだったと話してくれた。
そしてその帰り際には、
来年の予約もしていったそうだ。

1軒からスタートした農家民宿は、
現在では50件近く登録を行っていて
予約が入ればそれぞれの民宿へと
振り分けて調整を行っている。
料金は一律1万円程度。
民宿にしては高いと思われる料金だが、
安いサービスを提供するのではなく、
地域の特色を徹底して押し出して
高単価のサービスを提供するのが大切だと
多田氏は力説していた。
地域で採れたものを
地域の塗り物で、
その特色を演出するような食べ物と
暮らしと風景を提供するということだろう。
こういう取り組みが成功してか
リピーターも絶えないという。

その話の中で地域の創生を目指すにあたって
多田氏なりの3つのポイントがあった。
まず地域を考えるに
全体を捉えるよりも
仲間同士でとにかく先発して始めた方が
良いということ。
全体をどうするかの議論よりも
まずは気心が知れている仲間同士で
何かアクションを起こすことが大事だという。
全体をどうするかを
考えてばかりいればちっとも前に進まない。
それよりもできる人間が先発して始めれば、
その取り組みが成功すれば
皆ついてくるという話は、
春蘭の里の成功があるだけに
迫力があった。

次に、行政に頼るのではなく、
行政が応援してくれるような
団体(もしくは個人)にならないとダメだという点。
行政からの支援を期待するのではなく
すこし成功してくれば、
行政が応援してくれることも多いので、
そういう風に考えて
行動することが大切だとか。
「行政は権限があって、責任がない」
という名言も多田氏から飛び出し、
責任がないところに頼っても
結局そこの風向きが変われば立ち行かなくなるだけなので、
頼るよりも応援してもらえるような
ビジネスにならなければならない、
というのはとても勉強になった。

3点目が特にすばらしい視点だった。
「農業再生と農村の再生は別だ」
というこれも名言だろう。
農村は農業が主産業と思われているが
もはやそんなことはない。
地域にもよるが北陸はほとんどが水田地帯で
しかも兼業農家が9割の地域だ。
農業外収入の方が断然多く、
他産業の仕事+αで農業をしている人たちばかりだ。
そんな人たちが暮らしているのが
農村だ。
だとしたら、農業の再生を目指しても
農村の再生とは必ずしも一致しないのは
当たり前のことだ。
集落営農化や地域を越えてのメガファーム化が
進んでいる現状では、
100haあっても数名のオペレーターがいれば
それで農作業自体はできてしまうような時代だ。
それだけ技術も施設も進んだということ。
だが農村は数名では再生したとは言えない。
農村に蟄居する家族が
毎月40万の収入を得られるような
そんな地域づくりの仕組みが必要だと
多田氏は語ってくれた。

それらがすべて具現化されていたのが
春蘭の里だった。
で、1日だけの滞在という限定的な時間で
見えてくることとして、
修学旅行生たちの受け入れは
集落にもインパクトがあったが
かなり無理も出ているということ。
調整は今後の課題なんだろうけど
それぞれの民宿でのサービスの差は
どう埋めていけるのだろうか。
また一般的な家庭に民宿させるのか
それとも民宿としてのサービスを全うして
田舎を演出するべきなのか。
どの家でも出来るわけではないだろうが
田舎をもっと演出する何かは必要かもしれない。
宿泊費を1万円も取るのなら。

あと、地域で採れたものでの調理は
すこし無理があるようにも思う。
前段の家庭なのか民宿なのかの
議論にもつながるが
一般の家庭料理だと別に地域県内のモノに
こだわって食べているわけじゃない。
だのに泊まる場所のサービスと
食事とのこだわりの間にかい離があった。

もう一つは、それぞれの後継者。
この取り組みで若者が増えたのかという質問に
多田氏は正直に
それは特段増えていないと話してくれた。
この取り組みが
そこに住む次の世代から
どのように映っているのか、
どのように捉えられているのか、
そこに意識しなければ
世代交代は生まれないかもしれない。

というのは、
瑣末な批判かもしれない。
そう思わせるだけ
迫力のある民宿団だった。
一度、皆さんも泊まってみることを
おススメします。


先週末は、国際開発学会の全国大会に参加した。
たまにはアカデミックな空気を吸いながら、
普段使わない脳みその部分に
刺激を与える必要がある。
そうしないと、僕らの活動も営農も
停滞してしまう気がするから。

さて、今回のエントリーは、
学会の話ではない。
恒例の全国大会開催地の農家見学について書こう。

今回お邪魔したのは、
かつて青年海外協力隊で同じ任地で、
活動していた「竜さん」が働いている
大阪は泉州の農業法人ツユグチさん。

竜さんとは彼の結婚式以来の
10年ぶりに再会をした。
同じ任地の農業隊員ということもあって、
けっこう意識した相手で、
誰よりも現地に馴染んでいるのが
当時から羨ましかった。
現地の方よりも色黒で、
それがまた羨ましかったりもした。
10年経って再会しても、
冬だというのにやはり肌は黒かった。

さて、ツユグチさん。
大阪の郊外で、水田中心に行い、
裏作で玉ねぎなどを作って経営している。
区画整理されていない
ぐにゃぐにゃに曲がった田んぼばかりを
40町ほど作っている。
1枚の田んぼが1反にも満たないものも
珍しくなく、
そんな場所で米農家で40町は
なかなか忙しそうだった。

面白いのは裏作。
泉州と言うこともあって、やはり玉ねぎが主力だった。
米を収穫した後の田んぼを起こして、
畝立てをして、そこに玉ねぎを植え付けていく。
11月まで稲刈りがあり、その後、
玉ねぎの畑を準備して、
11月下旬から2月まで玉ねぎを植え付けていくのだとか。
2月に植えた玉ねぎは
やはりそれほど大玉にはならないらしいが、
6月には収穫して、即その田んぼでは
田植えをするのだという。
そんな玉ねぎを6町ほど作っているとか。
そんなことに驚いていると、
社長の露口さんは、
「うちはまだ余裕のある方だ。近くの法人だと田んぼが終わった後で、その水田に急いでキャベツを植え付け、1月に収穫してから、その田んぼにすぐに玉ねぎを植えて、それを6月に収穫したら、その田んぼは7月には田植えをするんだ」と教えてくれた。

いやはや
太平洋側の農業は、
なんとも羨ましい。
曇天で積雪のある福井では、
とても冬の間に田んぼで
何かを作るといった発想には立てない。
どうしても物理的に無理だからだ。
ところ変われば、
こうも農業のカタチが変わるものなのだろうか。
天気の違いが、特急で2時間しか離れていない地域でも
こんなに生産様式の違いを生み出している。

大阪という巨大消費地の近くというのも
大きな特徴になっている。
それだけたくさんの米や玉ねぎを栽培しているのだが、
ほとんど直売所や給食でさばけてしまうらしい。
付き合いで卸にも出すようだが、
メインは直売と給食。
自社の直売所もあって、
小さなカーポートを改造して作った場所で、
おばあちゃん一人が店番をしている
小さな直売所だったが、
それでも毎月30万以上は売り上げるとか。

ただ良い事ばかりでもない。
都市化の波がすぐそばまで来ていて、
農地開発の圧力を感じるとか。
徐々に農業をやめていくお年寄りの農地を
引き受けつつも、
駅前再開発に伴う都市化によって
農地も同時に失っているらしい。
そういう意味では、
未来は決して明るいわけでもなさそうだった。

小面積でも利益が出せる園芸にも
一時は力を入れたこともあるようだが、
細かな作業になれないのと
最近の機械力の向上があって、
大規模の水田露地園芸を志向している。
これもこれまでの天候から生み出された生産様式の
習慣化によって、それぞれの作業で、
その気性に合う合わないが生み出されているのかもしれない。

そう思うと、
北陸のような曇天で積雪の多い
一見して園芸不利地に見えるような場所でも、
露地園芸になかなか活路を見いだせず、
しかも大規模稲作もTPPなどの時代の潮流から見たら
安定性を欠いでいるような状態を考えると、
天気が作り出した生産様式とその気性から、
僕らのような中規模園芸で多品目栽培の道は、
それほど的外れではないのかもしれないと
思う所もあった。

祖父などが、その農法がその人に合っている場合に
「手が向く」とよく表現したが、
生産の物理的な要因プラス
その人の気性がどこに向いているのかも
その農法につながっているのだろうと思う。
他を学ぶことで、
自分たちの本性も見えてくる。
これだから「農家から学ぶ」は
やめられないのだ。

週末は国際開発学会に参加していた。
学会の内容はまた次回に譲るが、
毎年、学会に合わせて、開催地の農家訪問を
今年も行ったので、記録したい。

今回の開催地は名古屋。
愛知県は農業も盛んで、見学対象の農園も多い。
僕の関心がある先進的な経営の農家も何件もあったのだが、
今回は、知り合いの農園を訪問。
彼らは、自然農法を目指して無肥料・無農薬を目指して
農業をしている。

農業にはいろんな形がある。
慣行的農業でも売り方に工夫をし、
農業を一つの産業として成長させたいという方々もいれば、
農業そのものを人と自然の共同の営みと見立て、
哲学的に思想的に深く掘り下げていく生き方もある。

そんな中で最もラディカルなのが
自然農法だろう。

友人のHさんの農園は、豊田市にある。
数名のメンバーで農業法人を構成しているようで、
米が2ha、イチゴが16a、野菜が少々という内容。

もともとこの地のスーパーマーケットの社長が
発起人となって、立てた農業法人。
なので、自然と販売はそのスーパーも含まれる。

見学をさせてもらったのは、イチゴ。
昨年から、無肥料でやっているというハウス。
僕ら農業者から見れば、
無肥料はとても勇気がいることでもある。
というか、こういう畑に立つと、
なぜ肥料を入れないのか、
それを感覚的に理解できない自分の壁に気が付く。
それほどまでに、“肥料”は農業者にとって
当たり前の大前提のものなのだ。
それを投入しない農場、僕には戦慄でしかない。

無肥料のロジックをHさんのパートナーの方が、
丁寧に解説してくれた。
このパートナーさんは(仮にTさんとしよう)、もともと
秋田の自然農法をしている農家で稲作を研修していたのだとか。
なので、愛知と秋田の違いはあったものの、
少しの技術的な手直しだけで、愛知でも自然農法の稲作が可能だったとか。
実際、農園の主は稲作のようでもあった。
イチゴは、昨年から無農薬・無肥料で、
ハウス栽培で行っているという。
当初は有機農業で堆肥を中心にした土づくりをしていたのだが、
病害虫が蔓延するので、どうにもならず、
思い切って自然農法に切り替えたという。
イチゴの自然農法は独学だとか。

Tさんの病害虫の発生ロジックを、
簡単に要約するとこうだった。
土壌中に窒素(N)が多くなってくると、
植物体内も窒素過多になる。
そのため、
窒素を体内に取り入れて体を創る虫(害虫)が、
どうしても多くなる。
だから、土壌中の窒素を減らしていけば、
害虫そのものが発生しない。
なので、無肥料。

Tさんは、そのロジックを解りやすくアブラムシで教えてくれた。
有機農業でイチゴをやっていた時は、
アブラムシが大量に発生して困ったらしい。
アブラムシは、窒素過多になっている植物が好きだ。
なぜなら、アブラムシは窒素を吸うことで、
自分の体を作り、
さらに自分の子孫も作り出していくからである。
しかし、面白いことに窒素過多になっている植物から
アブラムシがある程度窒素を吸いだしてしまうと
その後、自然に消えてしまうのだとか。
『吸いたい窒素を吸いきってしまって、アブラムシは自然に居なくなってしまうのです』
とTさんは言う。
その言葉が正しいかどうかは、反論の余地もあり
なかなか鵜呑みできない僕なりの意識の壁もあるのだが、
彼の主観に寄り添えば、そういうことになる。

彼は、アブラムシを『自然界のドクター』と表現していた。
窒素過多になって、光合成の炭水化物代謝が上手くいかず
悲鳴を上げている植物を、
アブラムシがそれを吸い取ることで治療しているというのだ。
だから、アブラムシは害虫ではないのかもしれない、という。

僕は、アブラムシをかわいそうな害虫として
認識をしている。
吸い続けることでしか生きていけず、
あまり移動も出来ず、
甘い蜜と丸々太った体のため、
多くの天敵がアブラムシを好む。
そんな悲劇の虫だと僕は思っていた。
だから、僕はアブラムシの防除は、それを好む天敵を
増やす工夫でクリアーしてきた。
でも、それを自然界のドクターだとTさんはいう。
同じ農業者でも、
この世界観の違いはなんだろうか。

アブラムシは、窒素の少ない植物体には魅力を感じないので、
そもそも付きません、とTさん。
土壌中の窒素分を減らせば、植物体内の窒素も過多にならない。
植物体の窒素が減れば、光合成代謝の炭水化物比があがり、
それで植物が元気になると、Tさんは言う。
確かに、窒素と光合成による炭水化物の比率は
先行研究の中ですでに相関があると証明されている。

Tさんの土壌中の窒素を減らす(増やさない?)営農は、
徹底していた。
イチゴを生産しない夏場はハウス内に雑草が生える。
その草の地上部はすべて刈り取って、
ハウス外へ持ち出す。
決して土壌に鋤き込んだりしない。
鋤き込んでしまえば、土壌中に窒素がたまります、とTさんは言う。
残渣も決して鋤き込まない。
そして堆肥の投入もやめた。
Tさんは、
「それでも、土壌中には“根”が残ります。根を大きく育てるような栽培をしているので、根量もずいぶんあると思います。土壌の物理性を保つのは、この根だけで十分だと思います」と話してくれた。
根だけが唯一の有機物。
その根が土壌を作るという。
根量を多くし、その有機物の有効活用は、僕も同意見だが、
それでもそれ以外に一切堆肥や有機物を投入しないスタイルには
驚かされた。
はたして、それで何十年も何百年も土を維持できるのだろうか、と。

彼らは、とてもよく研究をしていた。
その話しぶりからは、経営者というよりも研究者に近い。
販路は、さまざまあるとのことだが、
法人の出資が地元のスーパーマーケットということもあり、
そのスーパーのイチゴ売り場で、
そのこだわりのイチゴは売られている。
安い慣行農法のイチゴが並ぶスーパーで、
一般の日々の買い物を行うお客さん相手に、
何も投入しないそのこだわりのイチゴは、
一体、いくらで売られるのだろうか?
そして、その値段で果たして経営的にやっていけるのだろうか。
そこに一抹の不安を感じた。

こだわりのある農法であるならば、
それが科学的にどう評価されるかは別として、
そのこだわりに共感してくれるお客さんを見つけないと
コストばかりがかかってしまい、
経営的には上手くいかなくなる可能性がある。
「なにも投入しないと、ゆっくり育つので、味だけは絶対おいしくなります!」
と自信満々に語っていただいたTさん。
その美味しさは、値段に跳ね返ってこなければ、
僕ら農業者はやっていけない。

真摯に自然に向き合うTさんの姿は、
僕の目には清々しく映ったが、
同時にその経営に一抹の不安も感じた。

今回の訪問で、僕らの立ち位置の違いから、
把握される世界の在り様が大きく変わることが
改めて意識させられた。
農業に対する世界観の違いは、
どちらが正しいわけでもないが、
少なくとも僕らがつつましく幸せに暮らしていくには、
その世界観を共有できるお客さんが
ある程度居なければ始まらないことだけは
解っている。
どう発信し、どう共感し合うか。
もはや農法うんぬんの問題じゃないのかもしれない。


追記:
忘備として少し書き加える。
植物体内の窒素が低下すれば光合成による炭水化物が多くなる、
というのは事実だが、それで植物体が元気になるのかどうかは、
疑問が残る。
過度な炭水化物の生産は、植物の老化を進め、
結果として植物体の健康を損なう。
植物内窒素量と炭水化物のバランスが
炭水化物に偏った場合、老化が発現するという研究結果もある。
極端な低窒素状況で植物の健康を保てるわけではないので、
Tさんが言うように植物の葉色を見ながら、
判断しないといけないのだろう(土壌分析をしても解りにくい)。



週末は、国際開発学会に参加。
そして、僕が勝手に1人で毎年恒例にしている、
学会開催地の農家見学。
今回は、東京都で市民農園を営むSさんを訪問。
今や都市農業の第一人者的存在で、
普通なら、なかなかあってもらえないのだろうが、
実はSさんとは、
かれこれ15年以上前から付き合いがあり、
忙しい中、時間を作ってもらい、訪問が実現した。

Sさんは、僕が大学生のころ、度々遊びに行った農家の一人。
僕が師匠と勝手にあがめている人の一人。
協力隊から帰国後は、少々疎遠になっていたが、
今回10年ぶりに、農園にお邪魔をした。

Sさんは、市民農園がまだまだ市民権を得る前から
農地を整備し、市民に貸し出してきた。
ただ単に貸すだけじゃなく、
年間15回の座学を設け、栽培技術等の指導もしている。
現在、200名の市民が、Sさんの農園を利用している。
さらに、その市民の一人として参加していたシェフが
Sさんの農園の一角にレストランを建て、
毎日とれたての野菜を使った料理を提供している。
35人がMaxの小さなレストランだが、
3年経った今でも、昼夜問わず、予約なしでは入れないほどの人気ぶり。

農園では、鶏や牛(1頭)まで飼っている。
食農教育として毎年1000名を超える学生を受け入れているのだとか。
Sさんは、
「食農教育を行うことは、こういった都市での農業の一つの役割なんじゃないかと思っている」
と語ってくれた。

これらの取り組みが認められて、
平成20年度には、日本農業賞の大賞を受賞している。
さすがはわが師匠。

そんなSさんから、今回、面白い話を聞けた。
都市での体験農業の会長をしているらしいのだが、
最近、遊休地を第3者が借り受けて、それを市民に貸し出すという
新しいモデルの市民農園が出てきていることについて
意見を交わした。
そのモデル自体は、新たな農業の可能性として
今の農業に対する文脈の中では、とても好意的にとられている。
だが、それに対するSさんの考えは
世間で受け止められているのとは、少し温度差があった。
それは、たぶんSさんが目指している農業の発展と
少々食い違っている点があるからであろう。

Sさんの目指す地域全体の農業のカタチを
僕なりに要約すれば、それは
個々の農家がそれぞれ独立して
市民農園を運営していくことであり、
それら個別の運営の緩やかな連帯の実現
なのではないだろうか。
それは取りも直さず、地域を創り上げていく主体的アクターとしての
農民の存在を重視していることに他ならない。

「どういった団体でもいいんだけど、遊休地を一括で借りて、それが事業として行っていくよりも、個々の農家がそれぞれに集まってやる方がいいと思っている。その地域や場所が持つ雰囲気というか、そういうものも大切だと思う。個々でやっている方が、ぎすぎすしないし、ある種の余裕が生まれると思う。その余裕が、人をひきつけたり、個々の農かも地域のことも考えられるんだと思う」
とSさんは話してくれた。
たとえ、利益追求が最重要ではないことをうたっていても
会社という経営体は体質上
利益を追求し続けなくてはいけない。
個人農家でもそれは経営体である以上
その点は変わらないのだろうが、
それでも生活に軸を置いた農の営みの中に
会社にはない余裕と時間があるのは僕も認める。
僕の経営体が、雇用を中心として考えている以上
地域づくりのような活動の部分で
自給・給与を払いながら、社員や研修生を
その活動に投入しようとは、なかなか考え難い。
うちの経営体が、人を抱え込めば抱え込むだけ
僕の思う理想とは違ってくることが
薄々とはわかり始めていたのだが、
師匠とのやり取りで、その点が明確になった。

農業外企業や団体の農業界への参入は、
農業界への刺激として、当然歓迎すべきだろうし、
農家の減少に伴って、個々の農家の緩やかな連帯による
地域づくりが非常に困難になっている地域もあり、
その部分での、そういった団体による
農業振興は、今後、僕ら農民との相互補完的な関係を
作っていくのかもしれない。
また集落営農や農業の法人化によって、
それら空洞化の問題を、農地利用や農業生産の面で
解決できるかもしれない。
しかし、それだけでは、空洞化した農村と地域の文化を
新たに生み出す力にはならないのじゃないだろうか。
農外企業や団体の参加で、「風土」の風ばかりが強くなり、
また小農をまとめて、集落営農化や法人の一人勝ちで
「風土」の土の生産性が上がったとしても
土の人(農民)の数が絶対的に減るのは目に見えている。
コミュニティを支えるものは、地縁なのだ。
地縁とは、農地という土地に縛られた生産環境と
その生産環境に居住する特殊な形態、
つまりむらの関係から生み出されるものである。
その地縁はかかわり続ける人々で支えられてきたのだが、
それを支えてきた人そのものが減り、
地縁関係が希薄になったむら社会に、
あたらしい社会への変容と独自の文化を生み出す力はない。
待っているのは、都市に飲み込まれるか、
自然消滅するか、
はたまた新興住宅のようなただ食う寝る所と化すか、
いずれにせよ、むらの安楽死でしかない。

Sさんとのやり取りの中で
見えてきた地域開発のある一つのモデルを
僕は大切にしたいと思う。
それは独立した自作農家(限りなく農の営みに重点を置いた)の
ゆるやかな連帯。
個人的な農業経営だから、生産面では余裕は少ないかもしれない。
でも、個々の経営だからこそ
自分の労働の投入を
かならずしもすべてを生産性アップに注ぎ込む必要もない。
それが、Sさんのいう「余裕」なんだと思う。

研修生や雇人が増えて、
僕の農園は格段に生産性を上げた。
だが、その生活になってから、妻から
「余裕がなくなった」と指摘されるようになった。
僕は、雇用人の仕事をつくる仕事に追われるようになった。
給与を払い続けることに、その力の多くをそがれるようになった。
僕らがかかわる産業(農業)は、確かに他の産業に比べて
とても未熟に見える時もある。
だから、農外企業や団体が入ってくると、
一気に利益を上げたりもする。
それを僕は凄いと羨望のまなざしで見る時もあるが
今は、あまりそれはない。
僕らの産業は未熟なんかじゃない。
僕らの産業は、他産業では図りえない
とても遠大な地域と文化を生み出す活動に
自分たちの時間と生産力を投入するからこそ
時には、経営学から見れば、未熟にうつるのだろうと思う。
農外企業や団体が、都市の消費に合わせた
農業のサービスを展開するが、
地域の文化にどれほど力を注いでくれているだろうか。
むら自体が消費社会に陥っている状況下では
なかなかその差は見えにくいかもしれないが
少なくとも僕ら農民は、
むらの文化をつくり続ける主体として
生産外活動に、多くの時間を割いている。

10年ぶりに師匠のSさんに会うことで、
雇用をしながら
そうした経営体が、むらをつくり続ける主体になれるのかどうか
僕は、ある種の方向転換を迫られたような気がした。


先日、ある研修会に参加。
農業の研修会で、施設園芸で大規模にやられている
にいみ農園の新美康弘さんが講師として来られていた。

1.5haの施設(ハウス)で、ミニトマトの水耕プラント栽培のみを行っている。
売上げは、1億円。
そのうち、6000万円を直売(消費者との直接取引)でさばいている。
ミニトマトだけを年中作っていて、
その単品だけを直売して、
それで売上げの6割は、消費者との直接取引。
何もかもが、セオリーから外れていた。

父親の代からほそぼそとした水耕栽培はしていたという。
10a程しかなかった、その水耕のハウスを
大学を卒業後引き継いで、ミニトマトを始めたという。
ミニトマトを選んだ理由が
「大学の研究でミニトマトを使っていて、初めて作ったわりには上手に作れたから」
という、とても気軽な理由だった。
それから、ミニトマト専一で規模拡大をしてきた。

農業を始めて今の段階で20年という43歳の方なのだが
10年ほど前から、価格や雇用についていろいろと考えるようになったらしい。
それまでは、ただ単に市場出荷だけだったのが
韓国で安いミニトマトを作るようになってからは
市場価格が安定ぜず、赤字になることもあったとか。
雇用でいえば、規模拡大を続けていく中で
集落の人や知人・親戚の方にパートとしてお願いしていたのだが
こちらからお願いする分、仕事に関して強く言えなかったり
なあなあの関係の中で、仕事上のミスや管理が曖昧になっていたりしたという。
そこで、販売先を多角化し、
雇用は出来るだけ広告を出して広く募集するようにしたらしい。

他業種では当たり前の話かもしれないし
農業をやられている方にとっても、そんな当たり前の話、と思われるかもしれないが
この話が、僕には一番大きく響いていた。

販売の多角化は、書けば6文字程度の事で
もはやそれを強調して語る講師も少ないくらいに
当たり前になっているのだが、実際にやってみようとすると
これがなかなか難しい。
うちも父の代から、多角化を続けてきていて
僕もそれを受け継いでいる。
が、現実にはなかなか増えていかないものである。
少しは新しい取引先を探し、そのおかげで今こうして
安定して経営出来てはいるのだが、
新しい取引先を見つける難しさは、常に実感している。
新美氏は、その中でも、直売に目を付けた。

多品目な野菜のセットならば、あるいは直売は可能か、と
常人は考えがちなのだが、
新美氏はミニトマト一本で勝負しているところがすごい。
顧客は約6000人いるのだとか。
チラシをまめに作り
農園新聞を顧客に配るという。
大量生産をしている割に
販売が細かくて、まめに対応しているのが常人ではないと感じた。
話だけを聞いていれば、なんてことない、と思うような話しぶりなのだが
実際に考えてみれば、ミニトマトを6000万円分
しかも業者ではなく、消費者に直接売るという技は、
とても真似できない。

さらに重要なのが、新美氏が言う
「自分で価格を決めて売る」である。
決して安売りはしない、とも話していた。
直売が中心だから出来る芸当であり、
実はこの、農家自身が価格を決める、というのは
農業を産業として捉えた時に、もっとも重要な要素なのだと最近よく思う。
余談になってしまうのだが、
途上国においても、先進国においても
農民自身が生産コストと自分の生活に必要なお金と
そして次の生産にかかる資金を計算して、
自分の農産物の価格を、自分で決められることは
ほとんどない。
このことが、農民を貧民に追いやり、かつ
農業離れを生んでいる状況の1つなのだ。
当然、土地の所有問題、国家予算の分配問題、法整備の問題(労務・土地等)、
価格変動を大きく左右する投資の問題等々
それ以外にも大きな問題を含んでおり
その大小の差でいえば、
途上国と呼ばれている国では、価格を自分たちで決められない以上に
それ以外の構造的搾取も大きな問題にはなっているのだが、
それでも価格を自分たちで決めることができない農民は
世界中のほとんどの農民と言っていいだろう。
幸い、僕は自分の農産物の価格をある程度のイニシアティブを持って
自分で交渉することができる立場にあるが、
だからこそ、僕は農業をしているわけで、
これが出来ない立場に追いやられていれば、
僕は、僕の集落の他の若い人たちと同じように
今頃、農業以外に生活の糧を探していることだろう。
新美氏のいうことは至極まっとうであるが、
それがいかに難しいことか、日本の農業の現状だけならず、
世界の状況を見れば、良くわかるはずである。
ちなみに、自分で自分の農産物の価格を決めることさえできれば
多くの農民が、農の営みを捨てずに済むというわけなので、
今後も考えていかなければいけないことの一つだと思う。
以上は長い長い余談。

では、次に雇用。
外から広く応募するというのは、
普通の会社では、当たり前のことだろう。
だが、きつくてつらくて低賃金の割に、
最良の品質管理に適する手の器用さを持ち合わせている人を
雇用しようと思うと、ついつい僕らは近所で探してしまう。
というのも、もともと農作業に慣れ親しんできたお年寄りを雇用する方が
町の若い人を雇用するよりも確実だったりもするからだ。

農業は、特に園芸だが、手の器用さと農作業で作り上げた体が必要になる。
腰を曲げて長時間の作業に耐えることができ、
細かい作業を手早く行える手の器用さがないと務まらない。
これは特殊能力だと、僕は最近思うのだが
町の人でも数カ月がんばれば、なんとかそういう体が出来上がるのだが
うちに来た町の人は、その数カ月がきつくて辞めていく人も多かった。
そういうこともあり、近所で雇用を探すようになっていた。
近所での雇用を
Community based part-timer などと洒落で言っていたのだが
高い意識を共有して生産に励む、と言うわけにはいかず、
慣れ合いの関係の中で、目的意識は有耶無耶のままであった。
和気あいあいと仕事をするのは良いのだが、
それと慣れ合いの関係はまったく別ものでなければならない。
良い物を他人と一緒に作るには、
良い物を作る意味を共有していないといけない。
まぁ、近所の人だと、それが出来ないわけじゃないだろうが、
広く公募することで、
もう一段、プロ意識を強く持てる人を迎え入れたい、と
最近考えることが多くなっていた。
事実、最近まで青年海外協力隊OVを対象に
農園で働きたい人を募集していた。
新美氏だけでなく、これまで会ってきた篤農家のほとんどが
家族経営から抜け出し、
自分の右腕とも呼べる人材を抱えていたことを思えば
そういった人材を、呼び込めるかどうかが、
僕にとっても大きな通過点になるような気がしている。

また地域の、集落の、農業発展を考える上で
「よそ者」の存在は必要不可欠で、
自分の経営体が成長するというよりも
むしろ、自分の経営体にある程度体力をつけさせ
外部の人間、つまりは「よそ者」を受け止められるようにしたいと
常々思っている。
もともと、僕は規模拡大路線には大反対であったが
2008年に広島の中川農園を見学してからは
僕は、自分のポリシーに反する規模拡大路線に切り替えていた。
(ちなみに、今も規模拡大路線には反対で、個人として矛盾を抱えたままである)
それは、今後ういてくるであろう集落や地域の農地を
よそ者が入り込んでくることによって、
集落や地域の農業が、もう少しにぎやかになることを夢想してのことである。
そして今年、新たに外部から研修生(日本人)を受け入れることになっている。
そういうこともあり、
この時期に新美氏から労務管理や雇用について話を聞けたことの意味は
とても大きかった。

新美氏は
今、僕が付きぬけなければいけない目の前の壁を
すでに突き抜けた人であった。
僕は彼のような突き抜け方はできないかもしれないが
僕なりに、突き抜けてみようと思う。
先週の連休、国際開発学会に夫婦で参加。
毎年のことなのだが、学会が地方で行われるごとに
その地方の農家を視察して歩いてもいる。
そして、今回は大分。

地元の農業改良普及員に
“大分で面白そうな農家を紹介して”
と頼んだら、
ある若手の農家を紹介された(T氏とでもしておこうか)。

そのT氏。
この2009年から、とある農業法人でベビーリーフ事業のすべてを任されて就農した人。
経験年数こそ少ないが、農業に対する眼差しは鋭く
とても研究熱心な方だった。

年は僕よりも一つ下の34歳。
もともと建築業界で働いていたのだが、大学の友人に誘われて
農業界に飛び込んできた人。
その大学時代の友人だった人は、2004年より農業法人を立ち上げ
主に米や麦などの栽培と作業受託をしていたのだが、
このT氏を加えるにあたって、新しく施設園芸部門を立ち上げて
ベビーリーフ栽培に乗り出したのだとか。

まず驚いたのが、ベビーリーフの圃場が完全無農薬で
栽培がおこなわれているということだった。
僕もそれを目指してはいるが、
虫の生物相をコントロールすることの難しさにぶつかったままで
なかなか抜け出せないでいる。
彼らの圃場が、それまでアブラナ科(ベビーリーフの主となる野菜の科)の
栽培履歴が少なかったこともあるのだろうが
それでも害虫発生を農薬に頼らないその姿勢と視点は
学ぶべきものが多かった。

T氏が言うには
「トラクターで耕起されるのは、せいぜい10cm程度。その10cm程度にしかいきわたらない量の肥料しか投入しないことです。多投になれば、必ず虫や病気が出ます。そうならないために、徹底した土壌分析と一作一作ごとに太陽熱による土壌消毒を行います」
とのことだった。
一作一作ごとに土壌分析を行い、足りない分だけを足す。
そして徹底した土壌消毒。
この二つが、病害虫の発生を抑えると氏は言う。
栽培年数がまだ1年程度なので、
今後もそのやり方で病害虫の発生を押さえ続けられるのかどうか
また生物多様性の方向を目指している僕としては
1作ごとの土壌消毒の在り方にも少し疑問も残ったのだが、
彼の話からは、研究熱心な姿勢がうかがえることができた。

肥料も様々なものを試していた。
豚糞を4年寝かせた堆肥や竹パウダーの使用、
生ぬかを投入して土ごと発酵など、様々な取り組みをされていた。
「土壌の物理的構造も気になるんです」と氏。
土の団粒化にも気を配り、
徹底的に土づくりに励んでいた。
その多くを小岩井農法から学んだという。

ここ最近、僕は土壌分析を少し軽視してきた。
土壌中の化学的な分析を行ったとしても、それで生物相の多さは測れないことから
どちらかといえば、化学よりも生物学的に土壌を捉えたいという想いが
強かったことも背景にあった。
一作ごとの土壌の化学性よりも
輪作による多様性を重視したかったのだが、
T氏の姿勢に、僕は、やもすると
生物多様性などという言葉でお茶を濁しがちになる
どこか詩的で情緒的な農業観に支配されていたのかもしれないと
改めて、自分の姿勢を正された思いであった。
何かを捉えようと試みるとき
人はもっともっと真摯になるべきなのだ。

確かに、最近は農を取り巻く僕らの生活すべてを
文学的・詩的に捉えることの方が、僕には重要だった。
作って食べる、という単純な行為を中心とした生活の中に
ややこしい議論が入り込んできて(地産地消・安心安全etc.)
その議論を徹底的に突き詰めようとすると、
化学的に、また人間と昆虫の神経経路などの生理学的世界に
陥っていく自分がいた。
その議論に、自分の中で軟着陸点を設けるためにも、
食べるという行為や、畑での生物相の捉え方、
また農村という社会そのものに焦点を置いて
もっと農業全体を文学的に捉えたい、と思っていた。

しかし、繰り返しになるが、
何かを捉えようと試みるとき
人はもっともっと真摯になるべきなのだろう。
土壌分析の果てに何があるのか、結局多様な生物相を捉えきれない
などと、ほとんど初学者にも関わらず、あきらめきっていた面もあったのだが
T氏の姿勢に、大いに触発された。
土を、農を捉えようとするならば
たとえ、その手法が、ある一方向しか照らさないやり方であっても
それによって掴みとれるものはあるはずなのだ。
僕も初心に戻ろう。
そんな気にさせる方との出会いだった。

T氏のベビーリーフは、機械刈りで、
1時間に刈ろうと思えば100キロは刈れるとのこと。
1年ほどしか作っていないにもかかわらず、生産は安定していて
今年の売り上げ見込みは、3000万ほどだとか。
市場は、農業法人の社長が地元の人間だということもあって
販路としていろんなところにつなげてくれた、と話してくれた。
僕も地元の人間だが、そこまで一気には販路を広げられはしない。
その社長も人間的に周りから随分と認められた存在なのだろう。

「休日なんかも飛び込みで営業に行きますよ。うちのベビーリーフ使ってくださいって。だいたい3割くらいの人は買ってくれるようになりますね」と話すT氏。
そう、こういう営業が農民には難しいのだよ。
良いもの作ってりゃ、そのうち誰かが認めてくれる的な
職人気質が多く(最近の僕はこれになりつつある)、
飛び込みで、7割だめだという営業はなかなか出来やしない。
農民の持つ1つの習慣的行為として共有されてしまっている
「良いもの作ってりゃ、いつかは誰かが認めてくれるさ」は
T氏は、共有していなかった。
売る、という姿勢も勉強になった。
なんだかかつての僕が、そこにいるような気がして
長居をする気はなかったのだが、ついつい話し込んでしまった。
僕の失いつつあるいろいろな情熱のすべてを
ふんだんに持っていたT氏との出会いは
僕には刺激的だった。
農業視察に参加する。
福井市の若手農業者クラブが企画した農業視察。
行先は、お隣の石川県。
加賀野菜見学と白山市にある株式会社六星を訪問した。

今回は、この六星について書こうと思う。
応待していただいたのは、会長のKさん。
約1時間半、六星について説明を受けた。
六星は、現在120haの田圃を作付し、野菜や加工も手掛け、
また直営の直売所も経営し、
1万件の顧客を抱え、それらに直接販売も行っている。
年商は6億円にもなる企業である。

もともと六星は、昭和52年に近隣のレタス栽培農家5戸で集まって、
生産組合を作ったことが始まりだった。
それから農事業組合法人(S54)になり、ハウスでのトマトや
農産物加工まで手掛けるようになった。
そして平成元年に有限会社六星生産組合に組織を変えた。

「仲のいい農家連中が集まって組織を作っても、10年くらいでうまくいかなくなる」
と北村さんは自身の体験を振り返って話してくれた。
メンバー内での軋轢やずーっと将来まで見渡しても先が見えてこない現状であったため
このまま組織を続けるか、それともいっそやめてしまおうか
とまで議論になったそうである。
ただやめるにしても農地をかなり借りていたため、
それをそのまま地主に返すわけにもいかず(地主にも叱られたとKさんは話す)
それなら、この地でずーっと農業を続けていける形を作ってしまおうと思い
後継者作りのために有限会社の形にしたそうである。

平成5年ほどから若い人材を雇い始める。
雇い方にもKさんの哲学があるようで
「新入社員のほとんどは大卒しかとらない」とのこと。
初任給は19万円。
Kさんの話によると、
全国の有限会社の平均初任給が12万から14万ほど、とのこと。
「うちでは、他よりも高い給料を払っている。それはいい人材を採りたいということと、農業であっても、普通の生活ができるようにしなければ、本当にいい仕事はできないからだ」
と語ってくれた。
農業というのは、いちいち仕事を指示していられないところがあり
「1を聞いて、1しか出来ないやつはいらない」とKさん。
1を聞いて、3,4もできるやつを採用しようと思うと
大卒になってしまうのだとか。
まぁ、大卒というくくりが、仕事ができる人間のカテゴリとして
適当かどうかは、はなはだ疑問も残るのだが、
Kさんはそう信じている様子だった。
また採用には、地元の人間かどうかは全くこだわらない、とKさん。
社員の半分以上が県外の人間だとか。
実際に役員は現在7名いるのだが、創業者の4名の役員以外は
全員県外の人間だという。
現在の社長も創業者とは縁もゆかりもない東京出身の人だとか。
農業に対して素人な人材でもあるためか、
既存の考えにとらわれない自由な発想をする社員も多いという。
会社としてはそれらアイディアをできるだけ汲み取り、
事業化できるかどうか、社員間で協力させてやらせているという。
「できるだけやりたいことはやらせてみる」とKさんは語る。
そういう社風だからだろうか、加工は餅に始まり、お菓子、弁当、さらには和菓子までと
多彩なラインナップであった。
地元情報誌にも積極的に売り込み
独自の情報誌もつくり、インターネットも最大限に活用し
直売所のレイアウトも社員のアイディアが隅々まで反映されていた。
「一人で農業していると、その人ひとりのアイディアだけしかない。でも、大勢でやれば、いろんなアイディアがどんどん出てきて、いろんなことを事業化できる」
とKさん。
だから、良き相棒を探しなさい、と
僕ら若い農業者に語っていた。

Kさんはこれからの地域農業についても考えていた。
「まわりに20町(ha)ほど田圃を作っている農家が、何件もあるが、そこの高齢化が今後問題になってくる。うちでは、そういう地元の有力農家が高齢化でダメになるちょっと手前で、うちでその面積を引き取れるように準備している」
と語ってくれた。
六星のある地域には、田圃が160町(ha)ほどある。
その田んぼの6割の作付けを、六星が請け負っている。
今後はどんどんそれらを取り込んでいきたいようであった。
すでにそれらを取りまとめるための法人が別に立ちあげられており
そこが地元の地権者と六星との間に入って、田圃を取りまとめているようであった。

Kさんが危惧するのは、それは土地の所有は認められているが
耕作権が法律上、弱いということ。
地権者が定年になったから田圃をしたいと言い出しても
耕作者である六星は、嫌ともいえず、すぐに返すしかないのだ。
六星がある集落には、片側2車線の国道バイパスが走り
大きなショッピングモールやファミリーレストランなどが立ち並ぶ。
まだ六星が、50haほどの耕作しか請け負っていなかった時代に
大型ショッピングセンターがやってくるということで
ショッピングセンターの予定地に田圃があった地権者たちが、
田圃を返してくれと突然言ってきたことがあった。
その面積が7ha。
土地が大きな資本である農業事業において(特に田圃は)、
次年度の耕作面積が、いきなり14%ダウンになったことをKさんは経験している。
その経験からであろうか
耕作権というものをもっと強く主張できるような法律の改正を望んでいた。
(地権者が返してくれと言っても、ある一定期間は耕作権を認めてもらえるような権利)

Kさんのやり方は
ある意味、これから衰退していくであろう地域農業を
支えていく一つの枠組みの事例であろう。
新しい考えを取り入れていく組織を作り、
外部の人間でも参画できやすいように組織の透明度も高くし、
そして、豊富な資本力と販売力で、
高齢化になって耕作できなくなってきた個人農家の農地を
次々と請け負っていく。
これはある意味、これからの農業の形なのかもしれない。
ただ、僕には引っかかることがある。
農業は産業なのだから、儲けがないことには始まらない。
当然、儲けを出していける組織が、耕作放棄になるような農地を
次々と耕作して、そして農家じゃなければ農業ができないような
参画し難い現在の農業ではなく、受け入れ口として透明度の高い株式会社が
それらの地域に存在し、どんどんと若手を吸収していければ
ある意味自給率も向上するだろうし、
資本や若い力も効率よく農業という産業に投入されていくのだろう。
だからKさんの話には引き込まれたし、素晴らしいとも感じた。
だが、僕にはひっかかることが、一つあるのだ。
それは「むら」(農村)の存在なのである。

六星は、地域の田圃を個々の農家に代わって作付しようとしている。
それは高齢化や閉塞感がある農業界にとっては一つのモデルであろうし
今後、農業を担っていく重要な存在になるであろう。
だが、六星は、生産手段組織であって「むら」ではないのだ。
農村とは、その生産様式と居住空間とが空間的に一体になった
地縁血縁が入り混じった特異的な空間をさす。
農地を生産手段と捉えるとともに、そこには生活空間も存在しているのである。
だから「むら」は、個々の生産が向上するようにも機能するが
時には、生活空間としての利便性を優先し、生産の向上を抑えるようにも機能する。
「むら」はその二つの間で、バランスを取り続けてきた組織なのである。
六星が、生産として農業をとらえるのは、それが産業である限り
とても真っ当なことなのだが、
だが、六星はすべての農地を耕し始めたとしても
「むら」にはなれない。
その生産手段である田圃と生活空間を一つにしている「むら」の居住者の福祉には、
現時点の組織では、一切なんの益も与えることはないのである。

かつて読んだ本に
生産者組合と集落営農を比較して、
その社会がもつ「むら」と「いえ」の価値感の違いによって、
法人化の進む道がかわることを考察していたものがあった。
「いえ」が強い地域では生産者組合になる傾向が強くなり
「むら」が強い地域では集落営農になる傾向が強いとあった。
ただうちの集落やその周りを見ても、
たとえ生産者組合の形をとっていても、その構成員が「むら」を軽んじることは少なく
「むら」のつながりを大切にし、その中の組織維持に努めているケースが多い。
まだ書評を書いていないのだが
先日ようやく読み終わった「地域開発と開発」では
集落や地域といった「むら」などのつながりのなかで得てきた経験値が
政策の変化や農を取り巻く情勢の変化の中で
個々の農を守り、それらの舵取りに寄与していると考察されていた。
それは保守的なものではなく、よりよい生活のために欠かす事が出来ない組織なのである。
国家と個人の関係においては、
僕らは一人でそれらに立ち向かえることはない。
その間に入る組織が、その調整を行い、個々の生活を成り立たせつつも
国家の介入を緩やかなものにするような機能が働いているのである。
それは哲学者・内山節も「自由論」のなかで指摘している。
とくに、農村という生活と生産とが空間的に一つになっている特異的な場所においては
これらの考えが、そこに住む地縁の集まりにとっては
今後も色あせることなく、むしろこんなご時世だからこそ
輝きを増していくように、ぼくには見えて仕方がない。
そうであるからこそ、僕は、
六星は、はたして「むら」になれるのかどうか、
その気があるのかどうか、が気になってしょうがなかった。
株式会社として豊富な資金を用意し、
外の人間をたくさん入れ、活力ある農を目指す。
僕はそれに全く反対はしない。むしろ僕も目指したい。
だが、その社員は、地縁的に結ばれていない農村の構成員たちの福祉をどう考え
それに対して、どういうアプローチをとるのか、
それが気になってしょうがなかった。
株式会社は、その構成員の福祉は考えるであろうが
農地と一体になったむらを、営利目的で存在する組織が
どう考えるのか、それを知りたかった。

今回は若手農業者での団体での訪問ということもあり
皆の関心が経営に集中していたため
僕が以上のことを質問に出せば、場が白むのではないかと
ひとりで危惧し、僕は口を閉ざしたままになってしまった。
今一度、訪問する機会があれば、僕はKさんに問いたい。

社員は耕作している農地があるむらの活動に参加していますか?と。

広島滞在二日目は、高速道路を飛ばし、広島北部へ。
ハーブガーデン4haと併設されているレストランを営んでおられるYさんにお会いした。

新規で4haの農地を買い、ハーブを育て始めたのは18年前のことだった。
「私はただの主婦だったの。ここを始めたのは夫。」と
Yさんは人をひきつけるような笑顔で話してくれた。
お昼から大口の予約がレストランにあり、その準備に大忙しの中
それでも福井からわざわざ来てくれたということで、対応してくれた。

Yさんの夫は整体師だったという。
有名な整体師だったようで、有名なプロ野球選手や相撲の力士などをみていたらしい。
大朝町に土地を購入したのは夫で、
夫の友人の気功師や瞑想の先生などが仲間になって、大朝町に、
「入院するほどではないが慢性的な病気の人や心の病の人をケアする場所を作りたかったようだったわ」とYさんは話してくれた。

農地を購入したO町には、町営の温泉や運動公園、施設等が充実していた。
Yさんの話によると、それらの施設とリンクさせて、
街の人々がリフレッシュできるような保養地を、夫や仲間たちは目指していたようだった。
しかし、相次ぐ仲間の不慮の死に合い、
計画は頓挫してしまった。
その時期から、夫は整体師の仕事で東京に移ったが、
Yさんは「東京はいやだったから、ついていかずに、ここでハーブガーデンをやろうときめたの」と話してくれた。
それから彼女の奮闘がはじまった。

ハーブガーデンに中古のバスを持ち込んで、
それをキッチンにして、来園者に簡単な喫茶ができるサービスを始めた。
バス内部をキッチンに改装して、そとにテントを張り、
バスの窓から外のテントにコーヒーやお茶を提供するという
簡単なものからのスタートだった。
その内に、客から何か食べたいという要望も多くなり、
自分たちで現在のレストランを建てた。
夫が代表のときは、行政もいろいろと補助をしてくれたのだが、
彼女が切り盛りを始めると、女だからなのか軽視されるようになり
行政の援助を受けるのは難しかったという。
「だからうちは、できるかぎり手作りでやろうって決めたの」と
Yさんは笑って話してくれた。
薪で調理できるようかまども作った。
ピザが焼ける窯も作った。
多い時で、1日100枚のピザの注文があった。
しかしあまりにも多忙になりすぎたので、ピザは現在、提供していない。
「そのかわりうどんを始めたわ」とYさん。
O町で何か特産は無いかということで、
昔、O町では麻の栽培が盛んで、麻の実を「おのみ」と呼び、
山向こうの日本海で取れたサバで作った押し寿司に、
そのおのみを入れて食べていたという。
そこで、そのおのみをうどんに入れて、現在、特産化を目指している。
僕が訪ねて行った日も、30名の団体客が
うどん薬膳ランチを予約していた。

ハーブガーデンの周りには、何名かの新規就農者がいる。
いずれの方も自然農を目指しており、無農薬有機にこだわっていた。
ハーブガーデンとの出会いの縁で農業を始めた人ばかりだった。
併設されているレストランでは、それらの農家からも野菜を提供してもらうと共に
自家農園もあり、次男が現在、耕作担当をしているとのこと。
訪問した時は大根を収穫する予定で、
冬野菜の収穫が一段落したら、そこに春からの来園者に向けて
カモミールを播くという。
ハーブとの輪作による無農薬栽培。

経営は、家族経営が主体。
レストランは長男夫婦。
そして農場は次男が担当。
農作業には、ボランティアで手伝いに来る人たちがおり
作業が忙しい時に来てもらうのだとか。

YさんもNさんも独自の農のかたちを持っていた。
両者を見ることで、市場(販路)、農法、労働といったカテゴリで
農が特徴づけられていくことが見えてきた。
Nさんは徹底した手間省き農法で、卸売市場に数量で圧倒する販売を行い、
研修生を次々と独立させるが、それが魅力となってか労働力には不安はない。
Yさんは、ハーブとの輪作による無農薬栽培とそれによる固定客をつかみ
商品アイディアと固有の販路を持っている。
Yさんの場合は、雇用はほとんどないのだが、
固定ファンが労働力としても働いてくれるため
労働力の不安も少ない。
そして、これはNさんYさんどちらにも言えることなのだが、
どちらも固定的な観念にとらわれず、あらゆることに挑戦し続けていた。
Nさんは「やんちゃや」と言いながら
カベルネ種のブドウを20a栽培し、ワインを造っていた。
Yさんは、レストラン内にハーブを使ったあらゆる商品を並べ
今も、その研究に余念がなし、麻の実うどんも独自の考えで販路を広げつつある。
まったく違う方向性をもつ二つの農を見学したが、
農業の課題としてあるキーワードを
それぞれが独自に編み出したやり方でクリアーしていた。
二つの確立された農を見比べることで、自分が越えないといけない課題が
はっきりと見えてきた今回の視察の旅だった。
つぎは「市場」。
「雇用」「研修」と驚くような話が聞けたので、
Nさんならば、何か驚くような売り方をしているに違いない、と期待があった。

「出荷物全部、卸売市場にだしているけん、あとはあっちでさばいてる」
とNさん。
各スーパーや仲卸からと直接取引するのは、『やねこい』とNさん。
数量注文を個別に取り付けるのは面倒だとして
すべて卸出荷をしている。
これは僕のやり方とはまったく逆。
「いちいち数量の注文なんて聞いてられんけん。そんなことより、効率よく出荷量を増やすことと効率よく仕事量を増やすことが大事」とNさん。
細かい注文対応と手間はかかるがこだわり野菜、そして高品質・高価格で
やってきた僕や父のやり方とはまったく逆であった。

Nさんは1袋コスト100円の菜っ葉をコスト80円にまで下げるのは簡単だ、という。
「おまんならどうする?」とNさん。
僕は、「包装材等の資材価格の見直し、パートの人数と労働時間・時給の見直し、出荷数量の見直しですかね」と答えた。
Nさんはにやりとしながら
「そうや、100円を80円にするのは意外に簡単や。ただ周りのもんに泣いてもらって、自分が得するという計算や。だからわしは、100円を30円にするような考えでいくんや。誰も泣かない、みんなが笑えるようなやり方で。」と答えた。
そんなやり方があるのだろうか。

「市場」のキーワードと関係してくるのが
次のキーワード「農法」である。
Nさんは、100円の菜っ葉を誰も泣かせないで30円にする方法で
一気に規模拡大をしてきたとも言えよう。
「100円を30円にするには、根本的に考え方を見直さないといけん」とNさん。
目を付ける場所は、一番手のかかる作業。
その手間を無くしてしまえば、100円は30円になる。

案内されたハウスの中に、大きな自走式のベルトコンベアがあった。
小松菜の収穫途中で、インタビューに訪れた日は土曜日ということもあり
作業はしていなかったが、Nさんが詳細に説明してくれた。

7.5mの幅に8人が収穫人として秤と鎌をもって一列に並ぶ。
その後ろに自走式のベルトコンベアがついて行き、
収穫されて、量り終えた小松菜がベルトコンベアに次々と乗せられる。
それをコンベアの両側に配置された4人が、
自動で包装材の口を開ける機械を使って袋詰めし、またコンベアに乗せる。
コンベアの一番後ろで、箱詰めするために1人が待機しており
次々と箱詰め作業を行う。
ハウスの外には保冷車を待機させておき、次々と梱包された小松菜を乗せて
時にはそのまま市場へと出荷される。
一時間で60ケース(30袋入り)の小松菜が出来るという。
7.5m間口で60mの長さのハウスならば、2時間から3時間で
収穫し、袋詰めし、箱詰めし、保冷庫に入れてしまえるとか。

僕の周りの農家では、収穫された菜っ葉は、そのハウス内では袋詰めされず
一度作業場に持ち帰り、汚れた葉っぱやいたんだ葉っぱを取り除き、
その後、袋詰めされるのだが、
ここでは、すべての作業がハウスで、しかもコンベアでの流れ作業だった。

コンベアはNさんの自作だとか。
「市販の機械は、役に立たんけん、自分で作るようにしている」とNさん。
市販のものは、普段使わない余計な機能が多い割に、
農家の作業の中で本当に必要としている機能がない、とNさんは言う。
だから、機械はできるだけ手作りだという。
今回見せてもらったベルトコンベアの収穫機は、
オーストラリアのカボチャ農家の機械をテレビで見て
考案したという。
できる人は、普段僕も見ているだろうものから、多くを学びとる。

今はベルトコンベアなので、一人の手が止まるとライン全体に影響するため
ターンテーブル式に変えて、一人の手が止まってもラインが止まらない工夫を
している最中だとNさんは教えてくれた。

訪ねた日は、暖かな日でもあったが夕方になっても
ハウスを閉めて回らない様子であったので、それを尋ねると
「ハウスの開け閉めなんて、しないよ」とNさん。
そんな手間なんてかけてられるか、とでも言わんばかりだった。
それをすればもうすこしましなものがとれるかもしれんけど、と豪快に笑い飛ばしていた。

100円が30円というマジック。
それは僕や父がこれまでやってきたことのまったく逆のやり方だった。
品質だけでいえば、
Nさんの農業から学ぶことは少ない。
だが、『良いものさえ作れば売れる』と思い込んで、
家族経営で頑張る農家が多くいる中で、
Nさんは別の次元で農業を展開しているように、僕には見えた。
Nさんの周りには、新規就農者が10名近くいる。
山間の谷沿いに広がる緩やかな棚田の地域。
決して恵まれている環境ではない。
にもかかわらず、彼の周りには新規就農者が多い。
そのほとんどが、彼の農園で研修して独り立ちした人たちだった。

Nさんの農業を際立たせているキーワードとして
「研修(新規就農)」があろう。
今回はそのお話。

N農園では、新規就農を希望する人を受け入れている。
受け入れを始めたのは、平成3年からとのこと。
県が新規就農者の研修をNさんに持ちかけたことから始まったという。
現在N農園で行われている研修期間は2年半。
1年目はパート従業員と同じ作業をしてもらい、
2年目からは、1年目と同様、従業員として農作業に従事するのだが、
50mのハウス(7.5m間口)一棟をタダで貸し、研修生に好きなように耕作させる。
そのハウスの栽培管理・収穫・調整はすべて研修生がする。
そして、そのハウスの売り上げは、すべてその研修生のものとしている。
Nさんや他の従業員が手取り足取り教えることはないという。
「1年間一緒に働くんやから、そこから盗め、と言っている」
とNさんはいう。
相談されれば、指導もするそうだが、
基本的には研修生が汗かきべそかき、そのハウスを切り盛りするらしい。
そして、この任せたハウスでの作業内容を見て、
Nさんは、研修生が独立できるかどうかを見極めている。

上にも書いたが、研修期間は2年半。
つまり、ハウスを一人で切り盛りするのは1年半の間ということになる。
この1年半で、Nさんは研修生が農家として自立できるかどうかを見る。
Nさんが注目するのは、収穫適期。
研修生が収穫適期にきちんと収穫しきれているかどうかを見ている。
病害虫の発生などで、収穫できなかったり、
他の技術的な要因で収穫に至らなかった場合は、Nさんはまったく咎めない。
しかし、収穫適期にもかかわらず収穫されず
そのまま放棄されるようなことがあれば、
Nさんは迷いなくその研修生を首にする。
「それは、そいつが怠慢やったってことや」
とNさん。
農業はやる時にはやらなあかん、と言う。
N農園の就業時間は、朝の7時から夕方5時。
そして土日祝日は休み。
なので、研修生は夕方5時以降、そして土日祝日に
自分が任されたハウスの管理収穫を行う。
「収穫が大変だと、夜10時頃まで仕事していた奴もいた」。
農業は一時仕事が多い。
動く時に動けない奴には務まらない。
こういう経験を経て、農家出身じゃない奴が農業のサイクルを覚える、とNさんは言う。
厳しいかもしれないが、この試練を乗り越えた者には
Nさんは援助を惜しまない。

研修生の間の待遇は、月10万円の手当。
住居は、研修生のために建てた研修施設。
ガス・電気・水道はタダ。
米も支給。小麦も支給。塩もタダ。
食料品を買う以外に、基本的にお金を使うことはない。
そして、2年目からはハウスでの収入がある。
「貯める奴は、独立するまでの間に300万は貯めるよ」とNさん。

さらに、独立することになった研修生には
20~30aのハウスを用意してやる。
これはタダというわけにはいかないが、
Nさんが県や国の事業をとってきて、ハウスを建て
研修生に渡している。
研修生がどこかの金融機関からお金を借りてハウスを建てるのではなく、
Nさんがハウスを建てて
研修生が分割してNさんに支払う形式をとっている。

農地は、高齢化が進んできている地域なので
毎年50aほどの農地がういてくるという。
Nさんにその農地の耕作話が持ちかけられると
「借りる時に地主に、『初めの年は米を作るが、次の年は保証せんよ。野菜作るかもしれんし、ハウス建てるかも知れん。あと、うちの若いもんが耕作するかもしれんけど、それでも良いのなら』と念押しだけはしておく」とのこと。
こうして借りた土地で、新規就農者たちは農業を始めるのである。

新規就農者たちの出荷物は、
頼まれればNさんが市場に出荷するときに一緒に持っていっている。
荷賃はひと箱30円と格安。
販売経路を持たない新規就農者でも、すぐにでも売り上げがあるようにと
Nさんの心遣いは細やかだ。
ひと箱30円の運賃でも、新規就農者が何人にもなれば
それなりに売り上げがあるという。
「今年はだいたい160万くらいになったかな。なんで、その金で若いもん(新規就農者)の家族を連れて、来週末富士山の温泉に旅行に行くことにしてるんや。忘年会やわ」
とNさんは豪快に笑った。

こうして独立した就農者の何人かは
年間の売り上げが1500万円を超えるようになってきたとのこと。
農園に訪ねた今回、新規就農者の3家族が
その集落に新しく家を建てたということで、見せてもらった。
行政が躍起になって新規就農者を募り
研修をさせて、補助を与えて、お金を貸して、とあらゆることをやっているが
なかなか独り立ちできないし、定住できない。
ましてや、住宅ローンを組んで新築に住むなんて
そんなサクセスストーリーを僕はあまり知らない。
だのに、N農園のまわりでは、あまりにも日常茶飯事な出来事のようだった。
どうやら僕は、とてつもない人にインタビューをする機会を得たらしい。
聞く話、聞く話、すべてが別次元だった。
Nさんは、
昭和59年から、JAのあっせんで住んでいる集落から車で5分ほど離れた地区に
まとまった農地を借りることができた。
そして、従業員を通年で安定して雇えるように、
昭和62年からは、葉ねぎの周年栽培を始め、一気に規模拡大路線を目指した。
平成3年には、女性パート従業員10名に男性従業員1名の体制になり、
この年、初めて従業員を連れて海外へ慰安旅行に出かけた。
行先はハワイだった。
その後、毎年、従業員をつれての海外慰安旅行は続けている。

「そんなに従業員に金を使っておまんはあほや、と周りは言うが、わしはそう思わん」と
Nさんは豪快に笑いながら言った。
現在では26名の従業員を抱えている。
そして海外慰安旅行で使う金額も300万円近くになるという。
「気持ちよく働いてもらうのに、300万は安いもんや」
そうNさんはいう。

26名の従業員がいるのだが、
そのうち2名がNさんの片腕として農園を切り盛りしている。
一人は、Nさんがブラジルの農園で働いていた時に
一緒に働いていた人の息子。
日系二世。
もう一人は、アルゼンチンに家族で移住していたが
日本に戻ってきた方。
どちらも、Nさんの農園ですでに16年ほど働いている。
葉菜類の周年栽培による雇用安定と規模拡大路線を目指し始めた頃に
雇った2名が、今では
「わしがおらんでも、農園の仕事はまわっていく」
とNさんが評価する存在にまでなっている。
その2名も、ただ単にNさんに雇われているだけではなく、
自分の園芸施設も持ち、独立して農業も営んでいる。
「うちの仕事は、朝の7時から夕方5時まで。残業は一切ない。あと土日祝日も仕事はしない。そうじゃないと、自分のハウスを持っている従業員が、自分の仕事をする時間がないけんね」。
Nさんに雇われるだけでなく、自らも独立した農家として
圃場を切り盛りしている従業員がいる。
そんな労使関係が、従業員の自立性を生み、
うまい具合にNさんの農園にも
従業員の農園にも相乗効果を生み出しているようにも見えた。

Nさんは米も3ha作っている。
「米は従業員が食べる分や」とNさん。
最近では中国の研修生も受け入れているので、米だけじゃなく小麦も始めたという。
製粉機も購入して、従業員だけのために使用している。
従業員が休憩する施設も建て、
毎日30分はそこでミーティングをする。
その施設には、温泉地の露天風呂のような大きな岩風呂があり、
仕事が終われば、従業員はそこでお風呂に入って帰るのだという。
その岩風呂に、
「夢は実現するためにある」
という言葉が、石に刻まれていた。
Nさんの言葉とのこと。

惜しみなく従業員にお金を投資するNさんの姿が、
僕には異色に映った。
Nさんへのインタビューから、
彼の農を際立たせているキーワードが見えてきた。
それは、「雇用」、「研修(新規就農者)」、「市場」、そして「農法」である。

まずは「雇用」。
N農園では現在26名雇用している(そのうち、中国の研修生が5名)。
彼の家族は、まったく農業に従事していない。
彼自身も、家族で経営する農の形をはじめから目指してはいなかった。

Nさんの出発点は、ブラジルにあった。
彼は学校を出たばかりの若いころに、「コチヤ青年」というプログラムで
ブラジルに移住を試みている。
そこでは、南米一のジャガイモ農家のもとで、農夫として働いた。
そのブラジルの農家は雇用中心の大規模農業で、
それがNさんの農業のモデルとなった。
諸事情あって、ブラジルからは5年で日本に戻った。

ゆるやかな棚田が狭い谷あいに広がっている、
決して恵まれているとは言えない故郷の農地で、
彼は露地でナスを栽培し始める。
家族でやる農業は目指さず、はじめから雇用ありきの農業を夢描いていた。
ナス栽培は最大で1haに達した。
雇用も地元に関係なく、3~4人を雇った。
しかし、露地のナス栽培は、夏季に農作業が集中し、
冬季には農作業がほとんどないため、雇用が安定しなかった。
冬季の間だけ、雇い人に休んでもらうと、仕事のできる人に限って
次の年にまた働きに来てくれるように頼んでも、
別の仕事に就いていることが多かった。
Nさんは、雇用でやる農業は人材確保と人材教育が大切だと考えている。
そこで、雇用でやれる農業にするには、
作目を、一時に忙しさが集中する果菜類ではなく、
通年で安定出荷が見込め、安定して農作業がある葉菜類に切り替えることにした。
目を付けたのは「葉ねぎ」。
昭和62年のことだった。
連休は広島だった。
広島修道大学で国際開発学会があり、それに家族で参加してきた。
ただ、学会で聞きたいセッションが日曜日の午後だったため
土曜日と日曜日の午前中は、例の如く農家めぐり。

今回おじゃました農家は2件。
1件は大規模園芸施設を持つ雇用中心の農業をされているNさん(男性)。
もう1件は、20年前に新規で就農し、
無農薬有機で農家レストランも経営するYさん(女性)。

まず訪れたのはN農園。
4.5haの園芸施設(ハウス)を切り盛りし、26名の従業員を抱えて、
年間売上1億5千万円の大規模農家。

訪問は、土曜日の午後のことだった。
広島駅でレンタカーを借りて、娘を連れてN農園に向かった。
N農園は広島市S町なのだが、広島市街地から車で1時間ほど離れた山間部。
S町に入ると、棚田がほそぼそと広がっていて
山の谷あいを進むように道が作られており、道はどんどんと細くなるばかり。
ついには対向車とすれ違うことすらできないほど細い道となった。
耕作放棄の棚田も散見され、いたるところで虫食いのように住宅地になっていた。
ハウスはほとんど見られず、こんなところに大規模園芸農家がいるのだろうか、
と不安になった。
しかし、N農園のある地区に入った途端、
道の両側に数え切れないほどのパイプハウスが出現した。

待ち合わせ場所に迎えに来てくれたNさんは白髪ですこし丸みを帯びた方だった。
農作業でお忙しい中、ありがとうございます、とお礼を言うと
「どうせ、土日は仕事せんけん」とNさん。
土日祝日は従業員もすべて休みにするという。
「休みに出勤させると、給料を倍払う約束にしてあるけん、休みに仕事をすると損なんじゃわ」と豪快に笑った。
ハウスすら見に行かん、と言うではないか。
普通の園芸農家じゃ、いや、少なくとも僕の常識では考えられないことだった。
作物は生き物。
それの管理には、休みもへったくりもない。
それが僕の常識だった。


つづく
この前視察に行った沖縄の農家から、学ぶことは本当に多い。
またしても1つ勉強させてもらった。

このまえ見学させてもらった沖縄の農家に、
お礼として、うちの自慢のごんぼを送った。
そうしたら、間に入って視察先を紹介してくれた普及員さんから
電話があった。
なんでもごんぼを貰ったその農家さん、さっそく普及員さんに
電話をしてくれたとか。
立派なごんぼをもらったと言う話かと思えば、そうじゃなかった。
「もらったごんぼについていた土!すっごくいい土だった!」
と言ったとか。
うちのごんぼは土付きで、出荷している。
なので、畑の土がついていて当然なのだが、
あちらの農家さん、その土がどんな土なのかまでよく見ていたらしい。
そしてそれを褒めていたとのこと。

農に対する鋭い感性と観察力。
ただただ、脱帽。

送ったごんぼで、また1つ勉強させてもらいました。
若手農業者クラブが明日から東京へ視察。
あちこちと行くらしいが、その1つに、
僕が大学時代に大変お世話になった農家のところにも行くらしい。
「お世話になった」どころか、
僕の農業に対する眼差し(特に市場との関係)の多くを、
その方から学んだ、と言ってもいいだろう。
(ちなみにもう1人、大学時代にお世話になった農家が伊豆にいる。その方からは農業に対する哲学を学んだ、ということは余談)

本来なら僕も視察に行きたいところなのだが、
なんだかんだと忙しくて、行くのを断念した。
が、連絡もしないのはあまりにも不義理だ。
そこで電話をする。
直接、声を聞くのは、なんと7年ぶり。
ははは、十分不義理じゃないか。

この方、名前は白石という。
10数年前から市民農園(と言うよりも体験農園)を始めている。
若手農業者の視察ではこれを見学しに行く予定でもある。
しかし電話で話をすると、
なんと体験農園だけでなく、その一角に、レストランまで建ててしまったらしい。
体験農園に通ってきていたシェフと一緒に立ち上げたとか。
いやはや、なかなか追いつけない人だ。

お互いの近況を簡単に交わした後、
僕は白石さんに、最近の市場や農業政策、
農業の今後についての疑問などを率直にぶつけてみた。
大学生の時のように。

大きく叩くと、大きく響く人、が世の中にはいる。
おかげで30分以上の長電話になってしまった。

買い手からの刺激を十分受けられるような場所に自分を置くこと。
そう、白石は言っていた。
まさに、僕が沖縄の農家から学んだことでもあった。
大量生産も良いが、これからの時代に果たしてそれは沿っているのだろうか、
とも言っていた。
値段がどこか知らないところで、知らない形で決められているにもかかわらず
数量だけに没頭し、それだけで市場と勝負するような農業は危うい、と指摘していた。
また農業政策についても、
「自分の農業の中で、絶対にぶれない北極星を持たないと危ないよ。農業政策は時の流れの中で、右にも左にも大きくふれちゃうもんだから。それに乗っかっているだけでは、危ない。自分の中の北極星と農業政策が一致しそうなときだけ、それを利用すればいい。あっちがぶれたら、しばらくはお付き合いしない。その程度の付き合いにしたほうがいいよ、政策とは」と、言っていた。

まだまだ聞きたいことも山のようにあったのだが、
電話ではそうもいかなかった。
時間があれば、近々尋ねていかねばなるまい。
2軒目に訪問した農家は、TファームのSさん。
鉄骨ハウス約3000坪の農家。
うちの農園と同程度の規模。
だのに驚くべきことは、この広さを女性5人(パート4人)だけで
切り盛りしているということだ。
(ちなみにうちの農園では、労働力は10人。しかも働き盛りの30代前半の男性2名を含む)。
作物は、ゴーヤ(ニガウリ)・キュウリ・インゲン・パッションフルーツ・マンゴーなどなど。

この農園でも切り盛りをしているのは、奥さんのSさんだ。
夫は週末のみ農業を手伝ってくれるとか。
Sさんが農業を始めたのは、平成8年のこと。
補助事業で鉄骨ハウスを3000坪建て、インゲンを生産したのが始まりだった。
それまでは保育園で働いていて、農業の知識は全くなかったという。
周りからもずいぶんと心配する声があったらしいが、
「大変さも知らなかったし、農業のつらさも解らなかったからできたのかも」。
とあっけらかんとSさんは答えてくれた。

販売はすべて農協出荷だという。
農業を始めた当時、JAの営農指導員に徹底的に絞られたという。
品質管理にうるさい人で、周りから「鬼課長」と呼ばれていた。
その人のしごき(?)に耐え、品質向上に努めた。
今では、農協の部会で出す生産番付で、東の横綱にランクされるほどの
品質と出荷量を誇るという。

情報収集にも貪欲である。
知人農家と共に模合(頼母子講みたいなもの:沖縄独特のシステム)をくみ、
毎月少しずつではあるが、積み立てをしているという。
目的は、他県への農業視察。
新しい作物にも積極的に取り組み、
パッションフルーツやマンゴー栽培でも指導的立場だとか。
経営感覚もさることながら、勢い良く新しいことに取り組む
その力は素晴らしかった。

2件の事例を1日で見て回り、興味深かったことは、
Sさんの事例とKさんの事例は、まったく逆のことが多いにも関わらず
それぞれが地域でリーダーとして活躍しているということである。

たとえば、
Kさんは農家出身であり、Sさんは非農家。
Kさんは自己資金で施設を建て、Sさんは補助事業で施設を建てた。
Kさんは市場を自ら開拓したが、Sさんは生産物のすべてを農協に出荷。
つまりKさんが否定していた要素で、Sさんは成功しているのである。

この2つだけの事例からでも言えることだが、
外部要因(補助事業・市場等)は、農家に大きな影響を与えることは確かだが、
こうでなければ成功しないということでもないのだ。
ただKさんのいうサトウキビ畑とサトウキビの工場の関係は、
Sさんと農協との関係にそのままは当てはまらない。
鬼課長と呼ばれる営農指導員の存在が、
農協の市場開拓力を高めていたことは間違いない。
鬼課長は、沖縄の冬に出来る施設野菜作りという武器を活かして、
県外輸出を積極的に進めていたという。
その中で「本土並み」の品質管理については、
良い意味でも悪い意味でもルーズな沖縄の人は、
ずいぶんと叱咤されたそうだ。
作っただけ買い取るサトウキビ工場との関係では
そのようなことはない。
さらに、Sさんの話からは、その鬼課長の厳しい品質管理と品質向上指導を通して、
市場動向に対する敏感な目を養っていったようにも見うけられた。
僕も常々思うのだが、
関わっている市場から刺激を受けられない、ということが、
どんなに農家にとって不幸なことであるか。
ただ単に、「売れた」という数量的な情報だけでなく
どのように売れたのか、
各地の卸で品余り状態なのに、とりあえず引き取らせたのか、
中卸や小売に無理やりねじ込んで売ったのか、
小売ではどんな評判なのか、
買った人はどう思っているのか、どう食べているのか、
そんな声が届かなければ、農家と買い手(消費者・業者)の関係において
これほど不幸なことは無い。
少なくともサトウキビ工場と農家の関係は、それだろう。

Sさんは、そこまで細かくは伝わっていないにしても
自分の出している野菜の市場動向は、的確につかんでいるようだった。
農協との関係の中で、そういった情報がフィードバックされているのだろう。
(この場合、その情報のフィードバックは、鬼課長とのやり取りの中というインフォーマルな形で行われていた)
Kさんの場合は、直接市場から刺激を受け、さらには直売所を通して、
それこそ直接消費者から刺激を受けている。
「みんなね、おいしい、おいしい、って言ってくれるんさ」とKさんはいう。

今回の視察で得たもの。
外部刺激を多くすること。そしてそれに敏感になること。
これこそが篤農への第一歩である。

せっかく沖縄まで行ったのだ。
学会に参加するだけじゃ、もったいない。
そこで、知り合いの生改(妻の知り合い)さんに頼んで
沖縄の農家を訪ねることにした。

訪ねた農家は2軒。
どちらもその地域を代表するような農家。
生改さんが紹介してくれただけあって、
どちらも元気な女性農家だった。
ただその2軒の農家。
とても対照的なのだ。
それぞれの地域で篤農が生まれる条件というか要素が、
それぞれの農家の話の中には盛り沢山だった。
それを忘れないうちに記録しよう。

1軒目は、SファームのKさん。
12m間口のH鋼ハウスをそのまま直売所にして、
生産から加工、そして販売、さらには体験学習までを一手に行っている農家である。
ハウス面積は4000坪。
規模でいえば、うちの農園よりも大きい。

昔から農家をしていたのだが、
沖縄の本土復帰前に、舅が大量に土地を買い込み(約1000坪)、
そこで野菜を作り始めたのが、今のSファームの基礎になっている。
その頃、その地域での農業は、ほとんどがサトウキビ生産だけであった。
サトウキビは、栽培期間が長く、2年間かけてようやく収穫ができるそうだ。
ただし、粗放栽培で良く、労働力をかけず栽培できる。
さらには、近くにあるサトウキビ工場で、生産されるサトウキビを
すべて買い取ってくれるため、市場を探す必要とリスクが無かった。
そのため、その地域の農家は、安値安定であっても
経営的にも安定でき、楽に生産を続けることが出来るサトウキビ生産を続けていた。

そんな中、Kさんは違っていた。
決まった市場が確立されていないというリスクがある中、
野菜栽培に取り組み始めた。
初めは、近所の小さな卸売市場に出荷していた。
売り上げは1日に3ドル。(復帰前はドルが通貨)
ただし、夫のその当時の給料は、月20ドル。
Kさんは
「1日3ドルだってね、10日も行けば、ほら、夫の給料よりも上になっちゃうのね」
と沖縄訛りで話してくれた。
これが全てではないだろうが、少なくともこれらの販売の経験が他の農家とKさんとを大きく分ける経験の一つではなかっただろうか。

Kさんの挑戦はまだまだ続く。
次は近所の女性2人と共に始めたラン栽培である。
サトウキビの10倍の収益を上げることが出来るラン栽培を手がける。
補助事業でハウスを建てる事にしたのだが、
そのために開かなければいけない農協口座も
女性グループ名で口座を開くのも大変だった。
それほど女性だけで活動をするのは大変な時代だった。
Kさんは、その時の大変さに懲りて、以後、補助事業をとることは無かった。

訪問した12m間口で約40mのH鋼ハウスの直売所は、自己資金で建てたという。
商売している人にとっては、あるいは当たり前の話かもしれないが、
農家の場合、全くの自己資金のみで、その規模のハウスを建てた人は、
相対的に少ないだろう。
しかも沖縄は補助事業王国なのだ。
事業主1割負担で行政が9割負担なんていう負担率がまかり通る所での話。
Kさんはよほど負けん気の強い人なのだろう。

直売所では、地元の野菜だけを販売しているという。
実際に、僕が見てもわからない野菜ばかりだった。
(米もあったが、それが福島産だったのは、ご愛嬌だろう)。
直売所を始めた当初は、1日の売り上げが10万円ほどだったとか。
野菜を持ってくる農家も、一番多かった時期で、100軒近かったという。
ただ1km四方に、公設の直売所が相次いで開店したことにより、
現在では、1日の売り上げが4~5万円程度にまで落ち込んでいる。
今後の農業の展開の鍵について聞くと、
「グリーンツーリズムね。それと体験学習ね。これからの農業にはこの要素が入ってないといけないんさ」と沖縄訛りで答えてくれた。
直売所運営は、売れても売れてなくても人手がかかる。
しかし、体験学習は事前に予約があるので、それに向けて人手の確保と農作業の段取りがつけられる。
さらに体験学習は、訪ねてきてくれた人達が、
そのままお客さんとなって、野菜等を買い込んでくれるという魅力があるという。

女性ということで、お歳を聞くのははばかれたのだが
60歳は超えたように見えるのに、次を見据える力は少しも衰えていない。
素晴らしい経営感覚を持った農家だった。

聞かせてもらったライフヒストリーを分析するに、
流通や市場が確定されたサトウキビの粗放農業から、
野菜の集約的農業への転換が、大きな契機になっているのだろう。
集約的農業は舅が始めた、と話してくれたが、その経験から
するどい経営感覚を磨いていったことは、お話から見て取れた。
さらには、補助事業との決別の経験も見逃せない。
だからといって、成功の秘訣は、既存の市場や組合からの脱却でもないし、
補助事業に頼らない、ということでもない。
それらの経験から、Kさんは何を学んだのか、何に気がついたのか、
そこに目を向けてみると、自ずと答えが見えてくる気がする。

つづく

田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

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