ちょっと焦っている。
珍しく調整がつかない。
それは福農とタンジュンサリ農業高校の
交流事業。

僕が係ってから今年でもう
13年になるこの事業。
僕も両校もすでに慣れたもので
何がどう必要なのかは
阿吽の呼吸で分かっていた。
つもりだった。

今回、福農学生が
今度の日曜日にインドネシアに向けて発つ。
タンジュンサリ農業高校と交流するのが
主目的なのだが、
その内容がここに来て
うまく調整できていないのだ。
それは
昨日タンジュンサリ農業高校から
送られてきた日程表を見てのことだ。
さすがに我が目を疑った。
何度も電話連絡をして、
メールでも日程を送って、
で、出てきた日程が
こちらの意図と違う箇所が
いくつもあったからだ。
なんで?どうして?

急きょ責任者が集まって
本日国際電話会談の予定。

今回の顛末は
慣れ切っていた僕の見通しが
甘かったからだと思う。
この事業の本当の責任者も
僕はちゃんと確認していなかったし
僕はどこまで動くのかも
確認しなかった。
どこまで僕の責任で調整すればいいのかも
それも確認しなかった。
そして僕は部外者なのに
タンジュンサリ農業高校側から見れば
僕が最古参に見えるから
(学校の先生たちは人事異動があるので)
僕のあいまいな答えが
すべて正式なものになっていく。
僕の手元にすべての情報が集まっているのなら
これまでの交流の流れから
ある程度判断はついたことも
今回は、とにかく僕に情報が無かった。
というか知らされていない情報が
とにかく多かった。
というのは言い訳か。

ま、ウルトラCで
今日まとめるしかないね。
いい加減な仕事の仕方になっているなぁ。
クオリティが低いのは
僕のキャパを越えてしまっているから、と
もっと早くに認めないとな。
なんだかこういうのって
係る人みんなが辛いね。
自戒を込めて記録した。



今月、インドネシアから来ていた
タンジュンサリ農業高校(以下:タ農)一団は
無事帰国の途に就いた。
今回も微力であるが
通訳兼アドバイザーとして
福井農林高校(以下:福農)とタ農の
両校の交流を前に進めることができたと思う(自画自賛)。
これで殺人的に
忙しかった10月も終わる。

さて、今回の交流は
インドネシア側から農水省や西ジャワ州の
部長さんなども同行した。
インドネシアでもこうした高校レベルの友好提携は
とても珍しく
しかも、両校の交流がすでに18年という長期に
渡っていることを評価いただいた。
僕はそのうち12年間を関わらせてもらったのだが、
この出会いは僕にとっても大きなものだった。

僕が関わるようになってから、
18名のタ農の学生が福井を訪れたが、
そのほとんどが公務員や民間企業で
活躍する人材になっているらしい。
そのうちの一人は(イラ)、今、
僕が行っている農業研修事業に
技能実習生として参加していて、
僕の農園で毎日勉強に励んでもいる。
また18名の一人で、
イマンという少年もいた。
長身でメガネが良く似合う少年で、
年の割に落ち着いていて、
微笑みが印象的な少年だった。
福農に留学中は、農園で数日預かったこともあった。
実習生の授業にも混じって勉強したのだが、
なかなか優秀で一所懸命だったのを思い出す。
実はその彼、研修2年生のジャジャンの
同郷の先輩にあたる。
そしてそのイマンが、
ジャジャンがタ農に入るきっかけを作ったらしい。

長くやるといろんなことがいろんな風に、
ランダムに、イレギュラーに、
そしてダイナミックにつながってくる。
そんなダイナミズムがとても心地よい。

そしてそのダイナミズムに
もう一つ変化が生まれる点を打とうと
今、僕らの団体が主体となった
スタディツアーを計画している。
今回同行していた
タ農の先生とも
旅の内容についての打ち合わせも
無事終わった。
きっとこのスタディツアーからも
新しいつながりができてくるだろう。
どんなうねりを生み出すかは、
乞うご期待。



今、福井農林高校(以下:福農)に
インドネシア・タンジュンサリ農業高校(以下:タ農)の
一団が来ている。
それに合わせて、
農水省の部長と西ジャワ州の部長、
そしてレンバン総合職業高校(以下:レ農)の校長も
一緒にやってきていた。

「やってきていた」と書いたのは、
彼ら彼女らはすでに福井を発ってしまったから。
たった一泊だけの滞在だった。
慌ただしい日程でも
わざわざ福井まで来たのは
理由があった。
それはただ単に
福井農林高校を視察しようというものではなかった。
もちろん、それも目的だっただろうけど。

主目的は、
タ農と福農のように、
レ農も福農と交流事業を行いたい
という申し入れだった。
というか、すでに友好提携書を携えて
しかもすでにその書類に
西ジャワの教育長のサイン入りで
持ってきていた。
僕は今回初めてレ農の校長に会ったのだが、
会って1時間も経っていないうちに、
「タヤ、この書類に福農の校長先生のサインをもらえるように頼んでね」
と何かのついでに小物の買い物でも頼むような
そんな気軽さで、レ農の校長から
そのサイン入りの友好提携書を手渡された。
なんだかその時のその雰囲気が、
とても懐かしく思う自分がそこにいた。
僕は珍しく動揺も怒りも焦りも
そんな感情が湧きあがることなく
その手渡された書類を
ノスタルジックに眺めている自分が
可笑しくて仕方なかった。

経済大国になりつつあり(というかすでになっているか)、
驚くような経済成長を続け、
とても民主的な手法で
普通の人が大統領になったりするインドネシア。
もう僕の知らないインドネシアに
なってしまったんだ、と
最近はそんな気持ちを抱いていた。
ちょっとさみしい気もしていたが、
こういう所は相変わらず変わらない国なんだなぁ。

で、その友好提携書、
当然、ハイ解りました、となるわけはない。
メンバー全員で会議を開き、話し合った。
福農からの説明は明快で、
タ農との交流事業は卒業生の寄付で行っており、
県や国から財源的な支援があるわけではないので、
レ農をさらに受け入れていく予算的余裕がない、
と当然の回答だった。
レ農ももっと事前根回ししたらよかったのに、
と思っていたら、
その場に居合わせた農水省と西ジャワの部長とが
「予算が無いのなら、こちらから予算を出せば可能ですか?」と
切り込んできた。
それに対して福農は異論は特になく、
レ農の学生が福井に滞在する費用を
インドネシア側で持ってくれるのなら
受け入れは可能で、
もちろん人員的な問題やスケジュール等
些細な障害はまだまだあるにせよ、
インドネシア側の県と国が予算化に向けて
努力することで、会議は終了した。
ここを起点にして、
タ農とレ農の西ジャワ州が教育強化校に
指定している2校と福農の新しい交流を
模索して行こうとなった。
さすがにこのスピード感には驚いた。
やっぱりインドネシアは大国なんだ。
いろんなことを目の前で決めてしまえる裁量もあるし
それだけの予算もあるってことなんだろう。
あっでも、僕はそういうのちょっと嫌いなので、
できれば事前に根回ししてほしかったなぁ。

日本の教育は国際化といえば
英語教育ばかりに目を向けていて、
その弊害で、外国と言えば英語圏(先進国の)ばかりな
雰囲気が最近特に感じるようになってきている。
その偏見に少しでもくさびを打ち込むような
タ農レ農と福農の交流事業が
これから成り立つように
とても微力だが、僕も協力していこう。

さぁ、だんだん面白くなってきましたよ~♪





不思議な縁もあるものだ。
昨日から、
インドネシア・タンジュンサリ農業高校の一団が
福井農林高校にやってきていて、
その通訳のお手伝いをしている。

インドネシア大統領就任式直後の来日予定を
何も考えずにこちらが組んでしまったので、
ぎりぎりまでインドネシア側の日程が決まらず
とても焦った訪問だった。
ちなみにふたを開けてみたら、
予定していた人が来られなかったり(農水省の高官)、
1日だけの滞在になってしまったり(西ジャワ州の役人)
予定として知らされていた帰国の飛行機の時間が
まるで違っていたり。
まぁ、こういうことには特に驚いたり焦ったりはしない。

さて、不思議な縁というのは
今回の一団にくっついてきた農水省のお役人さんのことだ。
インドネシアの農水省でMagang(研修・技能実習)などの
農家の研修や教育を取りまとめる部署の
部長さんだったのだが、
雑談の中で、
僕が以前、南スラウェシのバルー県で
協力隊隊員として赴任していた話をすると、
「あああ、バルー県ならアクサンという人がいただろう」と
その彼が言うのである。
アクサン!アクサン!アクサン!
こんなタイミングで、こんな場所で、
またこの名前を聞こうとは!

僕の当時の仲間なら、
この名前を知らない人はいない。
僕らのプロジェクトに関わっていた農家の一人で
地域リーダー(当時は微妙)の一人だった。
彼の集落で活動するときには
必ずアクサンをキーマンにして
活動していた。
彼は、福井の畜産農家に1年間、
研修生として働いた経験がある(技能実習制度ではない)。
その時は牛小屋の2階に作られた
粗末な部屋で過ごした、と
ややつらい話もしてくれたが、
それ以上に日本の農家が如何にモティベーション高く
高品質な農産物を生産しているかを学んだと
とても熱く語ってくれたのを覚えている。

協力隊のプロジェクト終了後は
自分の肉牛の肥育事業が軌道に乗り、
また県や国の支援を受けて農家研修の施設を作ったりして、
経営だけでなく社会的な地位も得ていった。
そのアクサンの名前を農水省の部長さんから
聞くことになろうとは思いもしなかった。
部長さん曰く、
「彼を日本に送ったのは私だ」
とのことだった。

Magang(技能実習)は確かに問題も多い。
だが、そこから得られるものはとても大きい。
そう部長さんは話してくれた。
今回は日程がなく、僕の農園に来る予定はないまま
帰国されるのだが、
次回は必ず農園まで来てくれる約束を交わした。
いつか、僕が行いたいと思っている
インドネシアでの技能実習についてのシンポジウムにも
彼のような方に来てもらって
ディスカッションできたら良いな、と思えた日だった。







先週水曜日に、
福井農林高校で出前講座を開いた。
今年の12月に、
福井農林高校の学生さんたちが、
友好提携を結んでいる
インドネシアタンジュンサリ農業高校へ
訪問する予定でいる。
それに合わせて、
インドネシア事情の講座の講師を依頼された。

インドネシアの写真をたくさん使って
現地の様子や文化・農業について説明をしたが、
参加する学生さんの意識も知りたくて、
ちょっとだけワークショップ形式で
話をすすめた。

やはり関心が高かったのは、
インドネシアの農業についてだった。
さすがは農業高校。
どんな農業なのかを知りたい、
日本との違いは何かを知りたい、といった
意見が多かった。

そしてそれ以上に多かったのが、
あちらの友達を作りたい、という意識だった。
ちょっと意外だった。
今の学生はそうなのか、
それとも僕がそういう意識が無かっただけなのか、
まぁ、いずれにせよ、交流事業なので、
あちらの学生と友達になりたいと強く思ってくれるのは
とても嬉しい。

ただ、やはり言葉の壁はある。
簡単な自己紹介などを覚えていく予定ではあるが、
言葉を介してのコミュニケーションは難しい。
でも、それもいつも杞憂なのだ。
純粋な子たちは、なんだか言葉が分からなくても
お互いに気が合う同士をかぎ分け、
そしていつしか仲良くじゃれ合っていたりもする。

こちらが出来るとしたら、
友達になれるようなイベントを
出来るだけ作って行くことだろうか。
さて、どんなイベントがいいのかな。
これから向こうの学校とも相談していこうっと。



先週から今週まで、変則的な日程で通訳をする。
インドネシアのタンジュンサリ農業高校の一団が、
福井農林高校を訪問するに合わせて、
僕が通訳を務めた。
僕にとっても、大切な地元での活動の一つ。
僕に地元で活動するきっかけをくれた、
いわば原点と言って良い活動。

今回は、タンジュンサリ農業高校の一団は、
1週間だけ福農に滞在した。
これまでは、引率の先生は数日だったが、
学生は3か月滞在していた。
その変更の話はまた、別の機会に記録しよう。
とにもかくにも
今回は1週間だった。

さて、2009年から隔年でお互いを訪問し合っているのだが、
今回はその成果がとても見て取れた。
前年(2011年)にインドネシアに訪問した
学生が主体となった寮の歓迎式。
太鼓などの芸能に触れる時間もあり、
数年前とは全く違う交流のように見えた。
タンジュンサリの一団もただ福農側の
日程についていくだけでなく、
いろいろな共同作業できそうなツールを
いくつも用意していた。

言葉の面では、常に僕が通訳でいたわけではないので、
いろいろと苦労があったようだ。
余談だが、先生たちの泊まった宿泊所の
お湯の出し方が解らず、
2日間は冷水でシャワーを浴びていたらしい。
3日目はあまりに寒くて、シャワーを断念。
いろんな操作を試みたところ、
4日目で温水の出し方が分かったのだとか。

そんな苦労をお互いしながらも、
言葉を超えた交流があったように思う。
特に若い学生たちには。

前回まではまったく見られなかったのだが、
今回は、一団が来校した時に
有志の生徒たちが沢山出てきて出迎えてくれた。
出発の時も、寸時も惜しむように
学生たちが通じないながらも会話をしていたのが
ほほえましかった。
特に前回タンジュンサリ農業高校を訪れた
芸能部と生徒会の生徒が中心となった
交流の盛り上げは、本当に良かった。
こういう主体性をもった若者が
沢山福井に居たら、これらかの僕らの地域の未来は明るい。

こうした主体性に支えられた交流は、
両校のそれぞれの生徒の心に、
いろんな種を播いたことだろう。
それはもちろん国際協力と言う道への種かもしれないし、
そうじゃないそれぞれの分野で小さく咲かす花かもしれない。

訪問団のあちらの先生が、
「十数年前にも、福農に来たがその時は、日本の食べ物なんて食べられなかった。でも交流が始まってから、よく日本を意識するようになり、インドネシアに居ても日本食をたまに食べてみたり、日本の文化を学ぶようになった。そんなこともあってか、今回は日本で食べた食事はどれも美味しかったです」と
福井を出発する前の懇談で話していた。
それは学生間にもみられる。
10年前の交流では、どこかよそよそしさがあり、
間に入る先生が苦労していた。
太鼓などの芸能も、留学生はやりたいと言っていたのだが、
あまり快く受け入れられていなかった。
学校主導の交流と言う感じが消えず、
それもどこか業務として「こなしている」感の
残る場合もあった。

だが、この10年の交流で
経験が学生間で、そして先生間で、
また学校に確実に蓄積したのだろう。
いつの間にか、よそよそしさは無くなり、
主体性を感じられる交流となっていた。
こういう活動に係らせていただいていることに
感謝しつつ、次の10年はさらなる進化を
出来るように、僕も微力ながら尽力していきたい。
そう思えた、今回の交流事業だった。


通訳3日目。
といっても、この日は農家組合長として
集落の米の検査に立ち会わないといけない。
福井大学に留学しているインドネシア人の子を
通訳に頼んだのだが、明日から来てくれる予定で、
今日だけはどうしても都合が付かない。
ということで、
米の検査場にインドネシアの一団を連れてきてもらって
農家組合長の職責を果たしつつ
米の検査の風景を通訳することにした。

検査はコシヒカリ。
検査官が、検査用の米を手順そってサンプルをとる作業から
インドネシアの一団には珍しかったようだ。
色や形を目視で確認し、
整粒歩合を見るために1.9ミリの検査用の網で振って、
さらに食味を計測できる機械で検査する。
そんな過程すべてが珍しかったようで、
しきりに写真をとっていた。
食味は、うちの村では概ね80以上だったが
500円アップの85のスコアを出す米はなかったのは残念だった。

検査官が、インドネシアの検査はどうかと尋ねてきたので
インドネシア一団の先生がそれに答えた。
「農家の庭先取引が多いので、共通の検査はほとんどないです。それもモミを見て買います。整粒歩合や色なんかで価格が変わるというよりかは、その農家への信頼度や前作の実績などで値段が変わります。あとは産地と銘柄。そしてその時の相場。これが一番大きいかもしれません。商人は損しない価格で取引をし、精米していろいろな米を上手に混ぜ合わせることで利鞘を稼ぎます」
まぁ、最後の「精米していろいろな米を~」というくだりは
日本でも同じだな。
網下米といって、農家の段で一旦はじかれた米を
米商人が安く買い取って、
小売りの段階では上手に混ぜ直して、
利鞘を稼いでいるんだもの。

日本の食味計では測れない美味しさが
インドネシアの米にはある。
それは「香り」。
食味計は、たんぱく質やアミロース、脂肪酸、水分で測っているのだが
そこには「香り」という概念はない。
インドネシアには、特に香りが高い品種があり
時に高値で取引されていた。
その話を聞いて検査官が
「そう言えば、あっちの米は独特の匂いがしますよねぇ」
とちょっと苦手そうに話していたのが印象的だった。
米の美味さは、普遍的ではなく、
それは文化なんだと改めて認識した。

通訳2日目。
この日は、歓迎式や留学生へのオリエンテーションもあったが
メインは、インドネシアの先生と福農の先生とで
今後の交流事業の在り方をどうするか、の話し合いだった。

現在は、福農側が3年に1回10数名の一団で
1週間から10日までの日程でインドネシアに訪れ、
インドネシア側からは毎年2名の学生が
2ヶ月から3ヶ月福農で短期留学をしている。
友好提携を結んでから、9年。
交換留学が始まって、8年。
良いこともたくさんあったが、
当初は見えなかった問題もまたたくさん見えてきた。
そこで、交流のやり方にすこし変化をつけてみようという事で
今回の話し合いとなった。

今回の焦点は、訪問回数と期間。
福農側は、3年に1回という回数を2年に1回に変更したい。
またインドネシアから受け入れるのも2年に1回に変更したい。
つまり、隔年で交互に行きあう、というのはどうだろうか、
というものだった。
そこにはこんな理由があった。
3年に1回のインドネシア訪問では、
インドネシアに行った学生がすべて卒業してからしか
あちらに訪問できない。
そのためか、その学年間で交流の経験を共有できず
その交流の発展もあまり効果的でないのだ。

インドネシア側からも2年に1回に変更してほしい理由は
予算等の問題もあるのだが、
福農側の希望としては、インドネシア側も2年に1回にしてもらって
その分、2名の学生ではなく、
福農のように10数名の学生が、10日ほど滞在するような形に
してほしいというものだった。
2名の留学生が3ヶ月福農で過ごすのも、もちろん良いのだが
福農の学生にとっては、交流機会があまりなく
初めは学生の意識もインドネシアに少々向いていても
すぐにその存在を忘れてしまう。
400名の学生に2名の留学生のインパクトなんてそんなものなのだろう。
それが10数名で短期間来てくれれば
その間、インドネシアに集中して
いろんなイベントを一緒にやることで、
学生へのインパクトも大きいのではと考えていた。

さて、これらの提案。
インドネシア側(以降:イ側)の回答はどうだったか。
まず、隔年で行き合うことについては、賛同を得た。
単年度予算のなかで実現が難しいかとも思われたが
そのことに関しては、イ側の校長の裁量でどうにでもなるらしい。
イ側も3年に1回しか受け入れられないことよりも
2年に1回になる方が良いらしい。

次にイ側が派遣する人数と期間についてだが、
これには少々難色を示した。
県政府が予算を執行するので、
県政府の意向によるとイ側の校長は答えていたが
2名でも数カ月日本で勉強したという経験を重視したい感じであった。
生徒の交流というよりも、より勉学として有効な方を選びたい。
そんな姿勢を感じた。
人数と期間については、イ側の県政府の意向もあるため
2011年度中に答えをだすことで、両者一致した。

さて、この協議、これで福農側の要望は伝え
それなりに了承を得たのでこれで終わりかと思ったのだが
今度はイ側からの要望が伝えられた。
それは、共同活動を行ってほしいというものだった。
両校が一緒に行うプロジェクトを立ち上げようという提案である。
何かの作物を決めて共同栽培・研究で良いし、
一緒に加工品を開発するでも良い。
とにかく、お互い行き来するだけじゃなく、
この交流から、協働へと発展させたい、
そうイ側は強く思っているようだった。

イ側から提案された具体的な例として
2年に1回の訪問時に、福農の農業の先生が引率してきて
あちらの農業高校で特別講義を行ってほしい、と言うものがあった。
どちらかといえば、今までは
福農の農業の先生はあちらに訪問していない。
様々な諸事情があったのだが、
どうもそうは言っていられない状況になりつつあるようだ。

交流を超えて、協働への提案には、
福農側は少々面食らった感じではあったが
これも一緒にやっていくことで両者一致した。
来年度中に共同活動の案を出し合うこととなった。
とりあえずイ側は
福農が行っている構内の直売所(ふれあいマート)をまねて
構内に販売所を作る予定をしているようで、
そのノウハウや加工品でお互いのプロジェクトが
始まりそうな感触はあった。

2001年1月9日に友好提携を結んで
ほぼ9年の歳月が流れた。
よくここまで続いていると思うと同時に
ゆっくりではあるが、その関係が発展的に動いていることに
感動を覚える。
様々な問題を抱えながらも
それぞれの想いが発展的に向かっていれば
こうした素敵な交流と協働が実現していくのだと
目の前の光景が、僕に教えてくれる。
まったく微力でしかないが、
その手伝いをさせてもらえることが
自分の中でとても誇らしかった。


連休の最終日。
といっても、農作業。
連休後の注文は、いつも多い。
だから、今日もいろんな野菜の注文でてんてこ舞い。
だのに、昼には福井北商工会の関係で
観光化事業の一環として、視察一団を受け入れ、
その30分後には、インドネシアから福井農林高校に
留学生が到着するということで、隣の県にある空港へ出迎えに走った。
まさに分刻みの日程。

さて
長旅の末にたどり着いたインドネシアの一団。
先生3名に
約2カ月の短期留学をする学生が2名。
あちらの校長先生の交代と
こちらの受け入れ担当の先生の交代があり、
さらに、あちらの農業高校が、出発1ヶ月前から
農業省所轄から教育省所轄にかわるということで
学校評価のごたごたもあり、
入念な準備と綿密な連絡が取れないままの来日となっていた。
最終的な連絡もなかったので、
本当にこの飛行機に乗ってくるのだろうかと心配もあったのだが
無事空港で出迎えることができた。
今回はインドネシア大使館の担当者まで代わったので
連絡が錯綜して、出発ぎりぎりまで
いつ来るのかよくわからない状況だったのである。

今日は休みだったのだが、農林高校の寮に学生も集まり
夕食会で一団をもてなした。
例年だと、学生とインドネシア一団とが別々に固まって
食事をしている風景なのだが、
今年は、昨年の12月にインドネシアへスタディーツアーで
訪れた学生が何人も学校に居るので、
とても自然な形で交流していた。
昨年のスタディーツアーに参加していたある女の子は
インドネシアから来た女子学生とさっそく仲良くなって
手をつないではしゃいでいる光景もあった。
その光景を目にしていると
交流事業がただ単に続いていくことよりも
3年間の学生のサイクルに合わせた交流こそが
本当に両者にとって得るものが多いという実感も湧いた。
これまでの交流は、福井農林高校側は
3年に1回のインドネシア訪問だったので
学生の経験としてはとぎれとぎれになってしまい
毎年受け入れているインドネシアの一団との関わりも
どこかよそよそしいものだったのだ。

明日も早朝から夕方まで通訳。
ちなみに夕方から、集落の米検査に向けて
米の出荷があり、その荷受を農家組合長の職責で
行う予定。
明日もタフな分刻みの一日になるだろう。

16日、インドネシアより帰国。
今回は、長くかかわっている高校間交流のお手伝いとして
高校生と引率の先生の一団についていって
あちらの農業高校で、交流活動を仕切ってきた。
実は、僕自身もタンジュンサリ農業高校へ行くのは初めてだった。
農業高校に滞在したのは2日間。
その2日間と西ジャワ州の州知事表敬通訳が、僕の今回のお仕事。

タンジュンサリ農業高校では、
到着直後から歓迎式典があり、
伝統的な舞踊で我ら一団を出迎えてくれた。

式典では、インドネシアらしいなぁ、と思うのだが、
延々と続く挨拶の応酬があり、
僕はそれを延々と日本語に訳していった。
この作業はなかなか困難で、
その中に、文化的に、また文脈的に全く伝わらないジョークなどが入っていると
みんな何に笑っているんだ?日本側が気になっていても
それをいちいち説明している時間もなく、到底伝えきれない。
こういう時、格好良く、言葉短く通訳できるといいなぁ、と思うのだが
僕の語学力では、どうしても野暮ったくなってしまうのが残念だった。

懇親会では、
福井の学生とタンジュンサリの学生と、交互に出し物があった。
どちらも相手側の歌を用意していたので、
自然と、のっけから大合唱団になって、みんなで歌えたのは良かった。
福井の学生が用意していた出し物に
「アルゴリズム体操」などがあり、
実は出発前から僕はこの面白さは伝わらないのでは、と
危惧していた。
しかし、こういうものは、挨拶のジョークと違って
僕の野暮ったい通訳なんて必要なく、
面白さが伝わるまで、笑ってくれるまで、
若さと度胸と体を張って、ただただ、ひたすらやれば、
相手も面白さが解るようで、
結構、盛り上がっていた。
オトナの考える「ブンカテキ」文脈なんて
子供たちの勢いの中では、なんだかかすんだ思考でしかないようだ。
こういった一見伝わらなさそうな出し物の応酬が
最後には、大きなうねりになって
タンジュンサリ側の最後の舞踊に、両校の生徒と先生全員が
飛び入り参加しての踊りへとなっていった。
こうして夜更けまで、延々と皆で踊り続けたのである。

翌日は、ワークショップ。
福井の学生とタンジュンサリの学生でグループを作り
地域の伝統的な市場や
ショッピングモールのスーパーなど
目的地もバラバラで散策をしてもらった。
現地で食材を買い集めて、
グループごとに日本食とインドネシア食の調理実習体験。
ワークショップでは、これまで福農が受け入れてきた
短期留学生経験者が手伝いに駆けつけてくれ
それぞれのグループに入って、簡単な通訳代わりしてもらった。
前夜の交流会があったためか、
言葉を超えての交流があったように思う。

これまで福井側では、現在の2名の短期留学生受け入れが適当かどうか
議論されることが多かった。
それらの成果も良くわからないまま、
負担と多額の資金を費やすのはどうかという意見が多かった。
だが、今回、タンジュンサリ農業高校に尋ねていって初めて
前夜の交流会から次の日のワークショップまで
多くの短期留学経験者が駆け付けてくれて、
通訳のみならず、文化的な通訳も果たしてくれていた。
タンジュンサリ農業高校の校長は、
「交流が始まった当初に、日本人の一団を受け入れるのは、実は大変だった。どういうことが喜ばれるのか、どういうことが不愉快なのか、それが全く分からないままの交流だった。でも今では、短期留学生の多くが、日本について話してくれるようになっているので、我々の受け入れも、当初よりもスムーズにできているように思う」
と話してくれたのが印象的だった。

2002年に、僕が通訳として両校の交流に関わり
その時の会合で、短期留学生を受け入れる約束事を決めてから
はや7年。
すでに14名の短期留学生を受け入れた。
そして、今回、短期留学の意味の一端を見ることができ、
再び、次の交流のステップとして短期留学制度をポジティブに見直す話し合いも持てた。
どんな交流の形になっていっても
両校が、文化的に交わることの意味は、やはり大きいと感じる2日間だった。


明日からインドネシア。
早朝に出発。
高校生12名と先生2名と一緒に。
中三日で、あっちの農業高校とのワークショップおよび、
これからの両校の交流の在り方などを話し合うために
通訳兼コーディネーターとして
インドネシアに行く。

とにかく、学生さん達が、ただの観光旅行でなかったという充実感を得られれば
僕がついて言った意味があったと思っている。

明日からインドネシア。
ではまた。
地元の農林高校で説明会。
ん?何の説明会だって!?
それは、今月に予定されているインドネシア訪問の旅の説明会。

地元の福井農林高校では、
インドネシアのタンジュンサリ農業高校と交流している、ことは
以前からも書いている通り。
毎年、あちらの高校から3カ月間学生を預かるのだが、
こちらからは、3年に1度、1週間ほどの日程で訪問団を派遣している。
今年がその3年に1度の年。
そして、今年は僕も通訳兼コーディネーターとして
参加する(させられる???)予定でいる。

今まで僕は、この訪問団にはついて行かなかった。
いろいろと理由はあったのだが、
強いて言えば、その必要性がなかった、からでもある。
旅行代理店の現地通訳が付くことと
大半が観光ということもあって、
農林高校側もあちらの農業高校側も、そして僕も
この僕自身が付いていく必要性を感じていなかった。
が、今回は、少し事情が変わってきた。

今の校長先生になってから
ただ訪問するだけじゃ、生徒もあまり勉強にならない、
という意見を今年の春に受けて、
それじゃあ、あっちへ行ったら、何かやりますか、などと
無責任に言っていたら、
なんと、僕が訪問団と一緒に行って、それをやってくれという話になってしまった。
まさにこれぞ、やぶへび。

というわけで、今回の説明会。
訪問団に参加する生徒の関心事を
僕自身が把握するためにも、
ちょっとしたゲーム感覚で、みんなの意見を書いてもらった。

一番の関心事は
「食」についてだった。
やはり時流なのだろうか。
あちらの食事に関心のある子が多かった。
以前から、先生たちとの打ち合わせで、
あちらで何かやるとしたら、
日本の学生とあちらの学生との混合グループをいくつか作って、
日本料理とインドネシア料理を1品ずつ作るのはどうか
とは話してきた。
近くの市場での買い出しから調理、そして食べるところまでを
あちらの学生と一緒にやることで、文化の差異と
同年代の学生だからこそ持ち得る、
いや同じ時代を生きている人間同士だから持ち得る、
国や民族や宗教を超えた共通の感覚を
体験できるんじゃないかと考えている。

説明会後に、今回参加する先生と生徒たちが
ワークショップでやりたいことを
話し合って、メールしてきてくれた。
異文化的文脈において、
その要望がそのままあちらには伝わらないものばかりだったのだが、
それも異文化体験なのだろう。
だから僕は、出来る限り、こちらの要望は要望通りに伝えようと
今、思っている。
伝わらない、上手く出来なかった、というと
なんだかネガティブに捉えがちだが、
それが異文化交流なのだ、と僕は思っている。
それに、すべてをお膳立てして、翻訳して、それなりに見えるものを、
すでに日本的もしくはインドネシア的に加工されたものを
提供されても、両者にとって面白くないだろう。

まぁ、そうなってくると僕にとっては、
なんだかとてもしんどそうな役になりそうではある。

兎にも角にも
今月、インドネシアに行きます。
先週、火曜日から金曜日まで
インドネシアの留学生2名を農園で預かった。
地元の農林高校に交換留学出来ている留学生。
日本語がまだまだ上手ではないので、
なかなか日本の農業がどういうものなのかが見えてこないと言っていたが
今回の4日間の農園ステイで、実体験をもって解ったのではないのだろうか。
百聞は一見に如かず。
百見は体験に如かず。

最終日の金曜日に向けて、留学生に宿題を出していた。
それは、
「4日間を通じて、地元の農業とここの農業を比べて、良い点と悪い点を書きなさい」
というもの。
昨年の留学生を預かった時にも出したこの宿題。
なかなか、僕の農園の欠点というか悪い点を探し出すのは難しいようで
1人の発表は、昨年の子と同様、
「日本の農業や技術は、生産性も高くて素晴らしいです。」
この前の授業をさっぱり理解していない様子だった。
妻の心配が当たったわけなのだが、
それでももう1人の子は、
「畑で仕事をしている人が少なくて、お年寄りの方ばかり」
と答えてくれた。
きれいに整備された農地と機械が揃っているのに
農業をする若い人がいない、ことにその子は驚いたらしい。

インドネシアでも、若者の農業離れがあるという。
それは厳しい労働環境と生産性の低さからくるんだと
その子は言っていた。
だから、その子は
「機械化が進んで高い農業技術で農業をすれば、若い人が農業に戻ってくる」
と信じていたようだった。
だが、その進んだ技術と高度に機械化された日本の農業は
ある意味、彼ら彼女らの目指すべき1つの農業の形だと思っていた日本の農業は
同じように、いや、より年寄りだけによる農業になっていたのである。
僕はこれに対して答えを提供はしない。
後は、その子がその子なりに地元で考えればいい。

こうして留学生の4日間の農村実習は終わった。
通訳二日目。
インドネシアから来たご一行様は、大きく二つに分けられる。
1つは、例年通りの短期留学生とその引率の先生。
福井農林高校(福農)とタンジュンサリ農業高校(タ農)の友好提携により
毎年、この時期にやってくる。
そして、もう1つが、視察団。
インドネシア農水省の農業教育センター長を団長とした
インドネシア各島の農業高校の校長や農業大学の学長が5名ほど
福農とタ農の友好提携事業および
そこから派生した僕の農園で行っている農業研修事業の視察に来たというわけだ。
この視察団としては、
なんとか他の農業高校や農業大学でも
日本の高校などと友好関係を結んで、なんとか派遣事業を行いたい様子だった。

さて二日目。
福農で歓迎式典があった。
郷土芸能として、太鼓部の演奏があり
昨年の全国大会で最優秀賞をとるほどの実力を
皆で堪能した。
短期留学で来たタ農の学生2名も、さっそく
「太鼓部で太鼓をしてみたい」
と無邪気に話していた。

歓迎式典の後、ご一行様は二つに分かれて行動してもらうことに。
視察団には学校見学をしてもらい、
タ農の引率の先生と留学生は、福農側と会議になった。
議題は、12月の福農からの訪問団について、である。
何度か日記でも書いたが、この12月に福農からタ農へ訪問する予定になっている。
ただ今年の校長は、いつものようなまどろっこしい歓迎式典や
近くの観光地巡りは飽き飽きだと言っており
せっかく行くのだから、生徒が何か活動して学べることはないか
と以前から相談を受けていた。
そこで、思いついたのがタ農と福農の学生の混合グループを作り、
お互いの国の料理を一品ずつ作るというワークショップ。
買い物から調理までをグループで行うというもの。
誰がファシリテーターをするんだ?という問題もあったのだが、
福農の校長先生から
「田谷ちゃんがやってよ」
の一言で、タ農に訪問するであろう二日間だけ僕が引率することになった。
ほとんどトンボ帰りの状況なのだが、
いろいろと福農からはお世話になっているので
校長先生からお願いされれば、いやとは言えない。
ちなみに予算はないので、ワークショップなどの活動に関する
僕の日当はこれまでも出ていないし、これからも出ない。
まぁ、僕にとってこの活動は、
そういうのをもらってやるような活動でもないしね。

さて、そのインドネシア・タ農訪問に向けて、今回の引率の先生と
ワークショップを含めた議論を詰めておかねばならなかった。
文章のやり取りだけでは、絶対に勘違いが生まれて
お互いに、あまり建設的でないワークショップになる可能性があるからだ。

とりあえず打ち合わせではこちらのやりたい事や
イメージしていることを伝えることができた。
それほど難しいワークショップでもなく、
ワイワイと楽しく買い物から料理を一緒に出来れば問題はないので
あちらも、それくらいなら簡単だ、といった感じだった。
が、ただ今イスラムは断食中。
長距離移動で疲れもたまっていてか、
先生や生徒の集中力がほとんどない状況だった。
打ち合わせをしながらも、引率者の先生の1人は
たびたび白目をむいていたし
もう1人の先生も、打ち合わせ後半になると
「大丈夫、出来る、出来る」
しか、話さなくなっていた。
このご一行様は、福井訪問の後、群馬・茨城とまわって
東京を観光して来週にインドネシアに戻る予定となっている。
たぶんその旅程の間に、今回の打ち合わせ内容は忘れてしまうに違いない。
僕はひそかにそう思っている。

さて、打ち合わせや学校視察後、
ご一行様は福農を離れ、東京に向かうべく小松空港へ。
ただその途中で、僕の農園も視察してもらった。
農業研修事業と、生ごみ堆肥やバンカープランツなどを活用する
持続可能な農業の模索などを視察してもらった。
研修棟の視察では、視察団から
「これなら後、2~3人は受け入れられるのでは?」
と、他の農業高校からも受け入れてほしい旨を伝えられたが
僕としては、将来的には分からないが
今は福農とタ農の友好関係を大事にして
タ農卒業生だけを対象としたい、と思っている。
インドネシアの一部の地域に、うちで鍛えた研修生たちが
農民として結束をしながら、その地域おこしをしていく。
僕は今、そんなことを夢想しているのである。
地域をおこしていくには、「仲間」が必要なのだ。
1人の素晴らしいリーダーがいても、仲間がいなければ何もできない。
いや、僕に言わせれば、素晴らしいリーダーなんて絵に描いた餅でしかない。
そんなもの地域おこしがある程度進んだところで
後から付いてくる形容の1つでしかない。
一緒にやる仲間がいることこそ大事なのだ。
だとしたら、広く浅く、インドネシア各地から研修生を受け入れるよりも
何かの縁でつながったある地域から研修生を受け入れた方が良いだろう。

そんな議論をしながら、ご一行様を小松まで見送った。

こうして短い通訳の仕事を終えた。

今年もインドネシアから留学生がやってきた。
福井農林高校とタンジュンサリ農業高校の友好提携によって行われている
交換留学プログラムの留学生である。
彼ら彼女らが来ると、その期間だけは僕も
「通訳」
というお仕事をすることになる。

さて今回のインドネシアからの一団。
留学生とその引率の先生だけではなく、
インドネシアの農水省のお偉い役人や
インドネシアのあちこちの農業高校の校長先生など
計5名も一緒に来福した。

事前にタンジュンサリ農業高校の校長先生からは
「友好提携に関わる資金を、一部農水省の予算で出してもらっているので、交換留学プログラムとタヤのところで受け入れてもらっている研修事業の組み合わせを一つのモデルケースとして紹介したい」
と説明があった。
なので、農水省のお役人や他の農業高校の校長先生は
その視察に来ているものだとばかり思っていた。
だが、思惑はそれだけではなかった。

今回、お偉い役人や校長先生がたくさん見えられるということで
普段は行わない県への“表敬訪問”を行うことにした。
表敬した相手は、県の教育長。
ちょっとした雑談を交わすだけの予定だったのだが、
終了間際に、農水省の農業教育センター長であり、今回の訪問団の団長さんから
教育長に対して1つ申し出があった。

「わが国は、大きな5つの島からなっています。ジャワ島、スマトラ島、カリマンタン島、スラウェシ島、そしてイリアンです。福井農林高校とタンジュンサリ農業高校の交流はとても素晴らしく、研修事業も合わせて発展的だと私たちは評価しています。このような交流・協力を他の島の農業高校とも結んでほしく、その可能性を教育長にお尋ねします」
とノタマッタ。

要するに、タンジュンサリ農業高校だけでなく
他の農業高校からも交換留学生を受け入れてくれ、という話なのだ。
それに対して教育長が福井農林高校の校長に
「他の高校とも交流事業をするのですか?」と尋ねられ、
その答えは、当然だが、“NO”だった。
福井農林高校としてはあくまでもタンジュンサリ農業高校一本で行きたいらしい。
僕もその方がいいと思っている。
訪問団の団長さん曰く、
福井には農業高校が、福井農林高校以外に2校あるので、
その2校とインドネシアのどこかの農業高校が提携を結びたいとのことだった。
突然の話でもあったので
教育長としては、また検討しておきます、と答えるだけにとどまった。
まぁ、当然の答えだろう。

僕らの取り組みが一つのモデルケースになるのは光栄だし
インドネシア側からも注目浴びるのは、とてもうれしいのだが、
今後、このようなケースが他でも生まれるかどうかと言われると、
ちょっと難しいような気もしている。
みんながみんな、「とても良い取り組みだ」とは言うけどね。
あとは、農林高校の先生方のやる気一つだろうな。
農林高校の先生が来る。
インドネシアの農林高校との友好提携に関しての相談事。
今年の12月頃に、あちらの農林高校へ使節団を派遣する予定になっているのだが
その中身をどうするべきかを相談されに来られた。

これまでの使節団では、学校同士の交流もプログラムには入っているものの
メインはやはりインドネシア観光だった。
今の校長先生は、それではもったいない、と考えておられるようで
あちらの学校で何かしたい、と熱い想いを持っているようである。
ただ、その熱い想いだけでは何事も始まらないので
具体的に何ができるのかの相談だった。

そういうものを僕に相談されても、困ってしまうのだが、
これまで通訳兼相談役として関わらせてもらってきた関係上
何か案を練らねばならなかった。
なので、研修生のHくんにも同席してもらい
(H君は、あちらの農林高校の実習助手)
お互いの農林高校の学生同士の交流が促進され、
参加した生徒たちが楽しくなるような、
それでいて短時間で出来るイベントを
(あちらの農林高校に滞在できる時間が短いので)
みんなで考えてみた。

校長先生からアイディアがあったのは
使節団で日本食を作って、それを振舞うというものだった。
それだけであれば、かなり実現は可能だし
それほど難しいことでもない。
ただ、それで交流が促進され、参加者みんなが楽しめるかどうかは
少し疑問でもある。
あちらの農林高校に滞在する日程は、2泊3日。
それだけの時間があるのに、日本食を作って食べるだけでは
時間が余ってしょうがないだろう。
2泊もするのであれば、
1日目からインドネシア学生と日本からの使節団参加学生混合で
数グループを作って、
まずはあちらの農林高校や周りの農村、市場などの散策をしてみるのはどうだろうか。
手に入りそうな食材のイメージがついたら、
その夜には、グループ毎に料理のメニューを考えるワークショップを行い
次の日には朝から、そのグループで食材を探し回り、
インドネシア料理と日本料理を1品ずつ作って
その夕方にでも会食を開き
グループ毎にコンテストをしても楽しいかもしれない。
(豪華賞品付きにすると盛り上がる)
というのが、僕の提案だった。
そういう行事を念頭に置いて事前学習として、
派遣前にインドネシアの食材や料理の知識、
簡単な会話の練習、
あちらの農業について簡単にでも学べれば
使節団としての成果はぐっと素晴らしいものになるだろうし
知識も身につくというもの。

ただ、ここで問題なのが、
この使節団に僕はついていかない。
というよりも、仕事上、また時期的にもついていくことが出来ない。
なので、グループづくりやワークショップのファシリテーター役を
僕がかってでることはできないのである。
この行事をやろうとすると、
両国の事情に通じ、両国の言葉ができて
グループワークやワークショップなどのファシリテーターとして
ある程度経験のある人がいなければ、
そもそも成り立たないであろう。
良いファシリテーターがいれば、成功すると思うのだが
誰か良い人いないかしら???

地元の農林高校へゆく。
昼食を兼ねて、インドネシアの農林高校との交流事業のこれからを
話し合う会に参加するために。

交流事業は今年で13年目。
その間、学生派遣団を7回インドネシアに送り、
約10名のインドネシア人を短期で日本に受け入れている。
今日の昼食会では、歴代の校長や
派遣団でインドネシアに行ったOB・OGなどが集まり
これからの交流事業について話し合った。
僕は通訳兼アドバイザーとして参加。

正直なところ、交流事業の現状は停滞気味といっていいだろう。
受け入れも派遣団もマンネリ化してしまっている。
初期の頃は、インドネシアへの派遣においても
学生の応募が殺到する中、弁論と面接で選考を繰り返し
10名程度を送り出していたのだが、
今では、放って置くと、応募がほとんど無いため
関心を持ってくれそうな学生に声をかけて、
なんとか派遣団を組織している有様なのである。

学生からも先生からもよくこういう風に言われるのである。
「インドネシアなんて途上国に行っても、何も学ぶものなんて無いんじゃないですか」と。
うーん、このご時勢にこの台詞がどこからひねり出てくるのか
僕には皆目検討もつかないのだけど、
そういう現状なのだ。
そこでそれを打破するため、
現校長が声かけを行い、昼食会を開くこととなった。

昼食会に参加したOB・OGからは、積極的な意見が聞かれた。
「あの派遣団に参加したことが原点です」と語ったあるOBは、
それから毎年のようにインドネシアに旅行に出かけているという。
「今の仕事に直接関係はしていないですが、それでもあの経験は今でも忘れることは無いです」
と語るOGもいた。
辛い時や理不尽な事があると、派遣団で経験したことを思い出し、
やり過ごしています、という人も多かった。
なかには、それがきっかけとなって留学した人や
学生国際会議に参加するようになった人、
青年海外協力隊に参加した人まで様々だった。

この事業を立ち上げた元校長は、
「血気多感な若者には、こういった交流事業で派遣しても、あまりにも多くの影響を受けすぎて、すぐに効果は見えてこないものです。でも、何年も経って初めてその成果が、じわじわと見えてくる。そのためにもこの事業を継続することが大事です」
と締めくくった。
僕も同感だ。
目に見える成果だけを追い求めすぎる結果が、
今の交流事業を萎縮させているのかもしれない。
問題なのは、今の教育現場での評価のあり方なのかもしれない。
そんな話を、元校長とする。

通訳以外に僕に出来そうなことは余り無いのだが、
この交流事業がきっかけで、僕はあちらの農林高校の実習助手であるH君を
研修生として受け入れる事ができている。
僕の研修事業とこの高校の交流事業。
もう少し交わる点が多くなると良いのかもしれない。
そう思った。
通訳をする。
インドネシアの農林高校の一団が今年もやってきた。
それにあわせて、通訳をする。

地元の農林高校とインドネシアのある農林高校とが
友好協定を結んでいるのだが、
その友好協定を結んで、実際にこれまで推し進めてきた
インドネシア側の校長が、今年6月定年退職することとなった。
地元の知事選への出馬の動きもあったのだが、
資金不足で断念したとのことだった。
「たけし城」建設の夢は断たれた、というわけだ。
(2007年9月3日の日記を参照されたい)
以上は余談。

さてその校長が定年退職されるということで、
この日の夕食会には、地元農林高校の歴代の校長も幾人かは出席された。
前回の日記にも書いたのだが、
長年続けてきた交流事業も、今、見直しの時期に来ている。
そこで、夕食会の場では、今後の交流事業をどう発展させていくか、の議論になった。

これまで日本側からは10数名の生徒と先生で、3年に1回の割合で
スタディーツアーと称して1週間程度インドネシアを訪問し、
インドネシア側からは、毎年2名の生徒を約3ヶ月間農林高校へ留学させている。
ただ、このように人の行き来があっても、
お互いに見えてくるものがすくないのではないだろうか、というのが
交流事業の見直しの動機だろう。

とりあえず夕食会の場で決まったことは
日本側のスタディーツアーの見直し、
参加者を生徒だけに限定せず、
OBや保護者も参加できるようにしよう、ということになった。
またツアーの中身も、観光地へ行くのではなく、
あちらの農林高校の生徒宅や近くの農家に宿泊して、
素のままの生活を体験しよう、ということで一致した。
またインドネシア側からは、
これまで送られた留学生のその後を調査し
留学の意義を報告書にまとめる作業をすることとなった。

どちらかといえば、交流事業を継続するためには
日本側のモティベーションの維持が必要なのだろう。
途上国と交流しても得るものは少ない、といった感覚を
言葉の端々に感じるのである。
異文化交流をやっていこうと言う場合、
優劣で物事を判断してしまえば、得るものは少ないだろう。

明日も終日通訳。
その中で、交流事業の話し合いも、もう少し進むだろう。
来客あり。
地元の農林高校の校長先生。
その方、今年から農林高校に赴任され、校長先生になったのだが、
以前も農林高校で教員を務められていた。
思い出すのは2002年。
インドネシアの農林高校と交換留学制度の発足と
その一団を招聘して参加した全国高校文化祭。
僕は、文化庁事業の通訳として付き添い、
招聘の間に、交換留学制度をインドネシアの農林高校と地元の農林高校との間で
結ぶお手伝いをした。
その時の農林高校の担当者だった方が
今回、校長先生として再び農林高校に赴任されたのである。
そして今日、暇を見つけて、ご挨拶に来てくれたのだった。

交換留学が始まった2003年からは、
その方は、他の学校へと移ってしまった。
今回5年ぶりに戻られたのだが、
驚いたことがあった、と話す。
それは、交換留学制度自体が形骸化してしまっていて、
ただ単に続けるだけになってしまっている、ということ。
教員側に、交換留学制度を結んだ当時の情熱が受け継がれていない、とも。
ここ数年、僕も通訳として関わってきているが、
インドネシア人の留学生が学校に居ることによる、
日本人側のメリットが殆んど強調されない、もしくは認識されていないことを
問題だと感じていた。
受け入れ側は、面倒くさいのだが、インドネシアという途上国から人が来るから、可愛そうなので、仕方なくうけいれるか、という認識なのかもしれない。
自分たちが前で、相手方は後ろの存在。
そういう認識に立ってしまえば、相手から学ぶことは出来ない。

校長先生は、もっとお互いに利になるような制度にしたい、と抱負を述べられていた。
今年も5月12日よりインドネシアの留学生がくる。
僕も通訳として、そのお手伝いをする。

この制度自体が、今、岐路に立っているのかもしれない。
1通の手紙が届く。
農林高校の留学生が、帰国間際に持ってきてくれた。
帰国の準備をしていたら、かばんの底から見つかったようで、
慌てて、届けてくれた。
いろいろなことがありすぎて、手紙を託されたことを忘れていたとの事。
そして、それの手紙は、昨年、留学生として来ていた子からのものだった。

「日本の留学を終え、インドネシアに帰国すると、あまりにも違いすぎて、驚きました」
そんな言葉から、その手紙は綴られていた。
「インドネシア人は、公共の物を大事にできません。でも日本は違っていた。どうして日本人は、公共の物を大事に出来るのですか?それはモラルの問題なのですか?どうすれば、インドネシア人に、日本人のようなモラルを教えることが出来るのでしょうか?」
久しぶりに届いた手紙には、そんなことが書かれていた。

いきなりそんな難しい問題を僕に投げつけられても、何と答えていいものやら。

ただ言える事は、僕もインドネシアから日本に戻ったときに、
同様のことを思ったことがある。
「なぜ日本人は、インドネシアのような人の温かさを失ってしまったのだろうか」と。
「日本社会全体が、もう少し『いい加減』に出来ていたら、どんなに楽だろうか」と。

自分が帰属している社会は、それ自体が空気のようなもので、
普段の生活では、その空気自体に意識がなかなかいかない。
社会比較をしたとしても、それらは常に紋切り型のように、欧米社会との比較ばかり。
(そんなことを明治維新から続けてきて、こんな社会になったという自覚なしにだ。)
そんなこんなで、やはり『空気』は感じられない。

3ヶ月という短い時間だったが、昨年の留学生も大事な経験をしたようだ。
普段は、そこに埋没していて、意識が行かない社会の根本に少しでも目が行くようになったようである。
ただ、その根本にある文化に優劣は無い。
(ただ文化という文字で片付けるのは、好きじゃないが)。
どちらかが高くて、どちらかが低いわけじゃない。
そこを読み違えると、不幸だ。
それだけは返信しようと思う。
県内の農林高校に来ていた留学生2名。
そろそろ帰国ということで、挨拶がてらに、農園までやってきた。
3ヶ月の滞在だったが、
「もうすぐ帰ります。お世話になりました」ときちんと日本語で挨拶していた。
それなりに頑張ったようである。

引率の先生から、
「来年のプログラムに反映したいので、良かった点や悪かった点を聞いてもらってもいいですか?」とのこと。
こういう難しい日本語になると、まだまだ意思疎通は難しいようだ。

学生の感想として、良かった点は
「効率よい農作業をしていて、それが体験できて良かった」
「いろんな機械があるので驚いた」
「日本語が勉強できた」
などなど。

改善してもらいたい点としては、
「もう少し座学を増やしてほしい」
「日本語で説明されても、よく分からなかった」
などなど。

座学の件では、前年度の留学生たちが根をあげてしまったので
今年からは、座学抜きの全過程実習というコースにしていたのが
裏目に出たようだ。
しかし、日本語の読み書きが出来ない子に、座学を受けさせることが
本当に良いのかどうか、悩むところではあるが・・・。

不満があったら何でも良いので言ってください、と言っていたら、
堰を切ったように、どんどこどんどこと不満が出てきてしまった。
留学生たちは、相当、言葉で困ったようだ。
「3ヶ月もいたのに、何もわからないで帰らないといけない。」
「言葉が解らなかったから、農業の勉強もほとんど出来なかった。」
と、とにかく「解らなかった」を連発。
なので、こちらかも一言。

「じゃぁ、解らないってことが、解ったようだね。」
そう、少なくとも何を勉強しなきゃいけないかは、解っただろう。
僕も留学した身分。
言葉の壁の苦しみは解るが、それには同情しない。
やるしか道はないのだ。
留学中、ドラえもんの暗記パンがこの世にあれば、と何度も何度も何度も何度も
思いながら、ゲロを吐きながら、睡眠を削りながら、あせかきべそかき、
言葉を一つ一つひねりつぶす様に覚えたものだ。
兎に角、やるしか道はないのだ。

解らないことが解ったのなら、後は、それが解るように勉強をするだけだ。
学習の目的がわからないまま、詰め込まれていくよりかは、
それだけで幾分かは意味のある学習になるだろう。

どうやらこの留学は、受け手の学生の考え方ひとつで、
ずいぶんと意味のあるものになるようである。
インドネシア人学生2名が、泊まりに来る。
地元の農林高校に、留学生として来ている例の彼と彼女。
むらの祭りということもあり、前日から泊まりに来ている。
そして今日は、農場でお仕事体験。

普段、日本の農業について自国語で聞きたいことも聞けなかったようで、
堰を切ったかのような質問攻めに合う。
まず一番初めに聞かれたのは、うちの農場の始まりだった。
どうやって発展してきたのか、それを知りたかったらしい。
実はこの質問に答えることで、日本の、いや少なくともこの辺りの
農村と農業の変容を江戸時代から遡って一挙に説明できてしまうのだ。
土地所有の構造の変化。
単純近代化・モノカルチャー型農業の推進。
農業の産業化と過疎化。
そして、それらの反動から自然を見直す動き、などなど。
ただ、この質問に真正面から答えようとすると、とてもじゃないが、一晩話し続けなきゃ終わらない。
それでも1時間ほどは、この質問に根気良く答えていたが、
質問を発した側が、あまりの情報量にギブアップ。

それでもめげずに、
『日本はどうしてどこにもゴミが落ちていないのですか?』と質問された。
これはインドネシア人と話していると、良く話題になるトピックの1つ。
インドネシアでは、とにかくどこでもゴミが落ちている。
川はゴミで堰き止められて、それが原因でよく洪水になったりするくらいなのだ。
留学先の大学でも、日本にはゴミが落ちていない、ということがトピックになり
ディスカッションのテーマになったこともあった。
難しく言えば、社会的ジレンマの問題であり、ゴミを簡単に捨てるフリーライダーの
総数が、全体のモラルの崩壊につながらない程度であれば、周りの環境がゴミであふれることは無い。
と、たしか授業では結論付けていたような、いないような・・・。
学生さんも???な顔つきだったので、
外に設置されているゴミ箱の数が違うんじゃない、と答えておいた。
まぁ、それも事実だろう。

あまりの異文化に、問いを発する側が期待する答えは
なかなかこちらからは発せられない。
異文化であればあるほど、その説明は端的ではなく、聞く側に苦痛を与えてしまう。
僕の答え方にも問題はあるのだろうけど。

しかし、久しぶりに難しいインドネシア語を使った。
こういう時は、頭の右後ろ側が、なんだか重い。
地元の農林高校から学生が実習として、うちの農場に見学に来る。
約20人ほど。
奇しくもインドネシア人留学生がいるクラスであったので、
留学生も一緒にやって来た。

留学生がいるから、といってもインドネシア語でうちの農場を
説明して回るわけには行かない。
限られた時間内で、土作りや作物の育て方のポイントなどを
説明しないといけないのだ。
だから、留学生がいても、日本語での説明。
しょうがない。留学生には日本語になれてもらうしかないのだ。

さて、最後に『質問はありますか?』と聞いたのだが、
どこからともなく
『インドネシア人、なんか質問せい!』と野次のようなものがあがる。
すると別のところから、
『どうせ、ニホンゴワカリマセンっていうだけやろ!』とまた野次が飛び、
一同がどっと笑う。
これで留学生たちが置かれている状況がわかった。

それでも留学生の1人が、インドネシア語で農場の土作りについて
質問をしてくれた。
とても良い質問だったので、日本の学生にも解るように
日本語に約しながら質問に答えた。
だが、インドネシア人の留学生が、インドネシア語を話すたびに
どこからともなく誰かが
『ペルパレティレアペクペー!!』
とインドネシア語をまねたような音を面白おかしく発するのである。
そしてその度に、留学生の顔が険しくなる。
からかわれているのだ。
意味はわからないだろうが、留学生にもからかわれていることは
良くわかっているのだろう。

僕もインドネシアで同じようなことを経験した。
たぶん、どこへ行ってもこの手のからかわれ方はされるものなのだろう。
異国の言葉は、言葉として認識できない限り、
『聞きなれない面白い音』でしかない。

僕はそういう場合の多くは、何事もないような顔をしてやり過ごした。
反発をすれば、相手はもっと面白がるに違いないからだ。
そしてそのうちに、僕はインドネシア語が上手になり
相手と相手の言葉でコミュニケーションが取れるようになると
この手のからかわれ方は、とても少なくなった。

留学生の留学期間は3ヶ月と短い。
その短い間に、言葉を習得せよというのは酷だ。
少なくとも胸襟を開いて仲良くなれさえすれば
この手のからかわれ方は減るのだが。
しかし、こればかりは僕にはどうしようもない。
ただただ同情するだけである。
インドネシアから来た留学生が、来園。
担当の先生に曰く
『まだ日本の食事になれないみたいで』とのこと。
かねてより約束していたインドネシアの唐辛子を分けてあげた。
留学生たちは喜び、
『これでサンバル(インドネシアのソース)を作りたい』とはしゃいでいた。
なので、週明けにでも、サンバルを作る道具貸してあげ、
インドネシアの調味料も分けてあげることした。

さて担当の先生が留学生たちを僕のところに連れてきた目的は
食事についてヒアリングを行うためだった。
留学生に食事のことを聞くと、
『米が重いんです』とのこと。
日本もインドネシアも主食は同じ米。
だが米の種類が違う。
平成の米騒動のときに、タイ米を口にされた方もいるだろうが
インドネシアの米は、タイ米ともまた違う。
タイ米は長粒種、いわゆるインディカ米なのだが、
インドネシアは、ジャワ種といって、インディカ米とジャポニカ米(日本米)の
中間種にあたる。
タイ米のようにぱさぱさとはしておらず、少し粘り気がある。
ただ日本米のようには粘らない。
だから留学生にとって、日本米は『重く』感じるのだろう。
インドネシアから帰国した頃は、同じ事を僕も感じていたので、
留学生の話は良くわかる。

担当の先生は
『育ち盛りなのに食べる量が少なすぎるんです』と心配しており、
留学生は
『なんで日本人はあんなに腹にたまる米を大量に食べられるんですか?』
と不思議そうにしていた。

ま、異文化交流ってやつだな、こりゃ。
異国の地で暮らすのに、最も重要なことの1つは、『食べる』である。
どんなに屈強な体の持ち主であっても、その国の食べ物が受け付けない人間は
その地で暮らしていくのは難しい。
都会ならば、自国の食べ物や食べなれた物にもありつけるだろうが、
田舎の場合、そんな甘えは許されない。

インドネシアから地元農林高校に交換留学で来た学生。
来た当初から、日本食が合わない。
純和風の食事を提供しているわけではないのだが、留学生に言わせると
『rasanya aneh(味が変)』だとか。
特に醤油がだめらしい。
時々いる。醤油がだめな外国人。
醤油に慣れ親しんでしまった我々には、まったく感じないだろうが、
これを食べなれていない人にとっては、
『匂いが変で、ただただ塩っ辛い』
らしい。
醤油がだめとなると、日本での生活はずいぶんと厳しい。

留学生は学校の寮に入っているのだが、
入寮初日、歓迎をこめて寮のほうで、カレーライスで食事会を開いてくれた。
カレーならば、食べられるだろうと期待してのことである。
しかし結果は
『rasanya aneh(味が変)』であった。
インドネシアにもカレーはあるのだが、使う調味料がずいぶん違う。
留学生は
『見た目カレーみたいなんだけど、変な味で食べられない』とのこと。
そりゃそうだ。
あっちでは大量に使えるココナッツは、日本ではほとんど生えないし
香辛料もあちらほど大量には使えない(使わない)。

聞けば、唐辛子は好きだ、というので
僕が自家用に栽培しているインドネシアの唐辛子を分けてあげることにした。
来週に採りに来る予定。
農林高校の先生からの電話では、
『昨日あたりから、少しずつですが食べるようになったみたいです』とのこと。
異国の地で、食があわない苦しみが解るだけに
なんとか力になってやりたいのだが。
またまた電話がある。
今日は、いろんなところから電話がある日。

地元の農林高校からの電話だった。
今年もインドネシアから短期の交換留学生が来るとの事で、
その通訳の依頼だった。
9月2日と3日に、その一団が来日する。
受け入れや歓迎式、学校での規則等々を通訳する予定。
別便でメールにて送られてきた資料に目を通す。
さっそく訳そうとすると・・・
・・・インドネシア語が出てこない。

向こうの大学院を卒業してもう2年になる。
その間、ほとんどインドネシア語を使っていなかった。
大学の難しい講義でも、インドネシア語で議論できたのに・・・。
今はその片鱗さえ、自分で見つけるのも難しいくらいに
出来なくなっている。

来週頭に通訳。
はたして僕に出来るのだろうか。
地元の農林高校が、インドネシアの農林高校と交流事業をしている。これは以前も書いた。
先月まで、インドネシアから2人、高校生が留学に来ていたことも書いた。
で、今回。こちらの農林高校の学生が、インドネシアを訪問することになった。10名ほど。ただし、1週間。つまりは、旅行だ。

そして、僕にインドネシアについてのレクチャー依頼が来た。今日はそのレクチャーの日。

農林高校の学生は素直な子が多い。あちこちで講演してきたから、そう思うのだが、地元の進学校になるほど、学生のたちがわるい。何を話しても反応がほとんど無いからだ。教育現場で正解のみを言い当てる訓練に慣れ親しんでいる度合いが高いほど、学生は無口になる。正解を慎重に探り当てているかのように。だが、ある意味そういう訓練にはなじめなかった農林高校の学生は、すこぶる反応が良い。突拍子も無い方向に話がいってしまう事もあるのだが、こちらの話にいちいち反応してくれるのはうれしい次第。

さて、その農林高校生。インドネシア訪問で何が一番心配か?との問いに、『トイレ』と真っ先に皆が答えた。ほほう、よく知っているじゃないか。トイレ。まさにこれが一番の難関かもしれない。

インドネシアの一般的なトイレには、紙がない。その代わりに、桶がある。水をすくって、それでお尻を流すのだ。しかも左手を添えて。この話をしたとき、学生さん達は一斉に引いた。特に女性は。みなの反応は、ごく自然なものだった。きたない!と。

昔、協力隊で山奥の村に住んでいたとき、僕はトイレの話を村人集めてした事があった。紙で拭いた方が衛生的じゃないか、と。だが、その話を聞いた村人は、農林高校の学生と同じ反応だった。きたない!と。
村人がいうには、『紙で拭くと言うのは、汚物を紙になすりつけているだけできれいになっていない』というものだった。水で洗い流す方が、きれいになる、と言っていた。確かにそうかもしれない。

僕にはもう、どちらがきれいでどちらがきたないのかもよく解らない。ただ、その場所のやり方に自分を合わせるだけなのだ。農林高校の学生さん達は、まさにこれから、自分達の価値観とは明らかに違う場所にゆく。そこではあらゆる価値感が壊されていくはずだ。その中で、自分の価値観のみを強化するのではなく、摂取する柔軟さがほしいと願う。進学校の学生さんよりは、その柔軟さがあるように僕には見えるのだが、さてどうだろうか。
インドネシアの農林高校から地元の農林高校に留学生が来ている。2人。期間は3ヶ月。その2人、普段は農林高校の寮で過ごしているのだが、週末はあちらこちらにホームステイして歩く。昨晩は、うちの実家に泊まった。なので、今朝は卸売市場とJAがやっている直売所に連れていった。

僕が見た限り、インドネシアでは青果市場でセリは行っていない。行っている場所もあるのかもしれないが、僕は知らない。魚市場ではセリを行ってはいるのだが。留学生君達もそれが面白かったらしい。しきりにセリの様子を見ていた。彼らが不思議がっていたのは、セリに参加している中卸のバイヤーたちが結託して、不当な値の吊り上げや値下げをどうして行わないのか、と言うことだった。その利ざやでずいぶんもうけられるだろうに、というのが彼らの意見だった。

直売所でも同じ事を言っていた。直売所では農家自身が値段を決められる。だから、留学生君達は、みんなで話し合って値段を高くすれば良いのだ、という。それと、農村を回って安く野菜をかき集めて高く出荷する人や、卸売市場などで安く仕入れてきた野菜を高くして売る人は居ないのか、とも聞いてきた。

確かに。インドネシアにいる時、そういうことは日常茶飯事だった。そういうことばかりを見てきた。だのに、どうしてここじゃ、それがないのだろう。僕も頭の中がずいぶんと向こうに染まっているので、彼らの答えに満足には答えられなかった。

誰か知っていますか?教えてください。
今朝6時40分ごろ、携帯電話が鳴る。
半分寝ている頭で出ると、農林高校に来ているインドネシアの留学生が腹痛で吐いたとか。おやおや。で、あわてて病院に連れて行くことになった。

この時期、イスラム教の方々は断食月に入り、日中は何も食べない。この留学生もそうだった。断食に入ってから1週間、これくらいの時期が一番体調も不安定になるし、健康を害しやすい。そのせいだろうか。

病院は時間外だったため、救急医療ができる大きな病院だった。だからなのか、いちいち細かい検査をする。僕は大きな病院は嫌いだ。経過を観察するよりも、とかく検査に頼りがちに思える。以前、腹痛で大学病院にいったのだが、そこでは腹痛をすこしでもやわらげるよりも、その原因を探る検査ばかりをさせられた経験があるからかもしれない。

で、その留学生。吐き気を催している彼を、無理やり腹部レントゲンと採血に。当然、そのつど吐きまくる。しかし不思議と休憩をさせない。とにかく検査を遂行していた。最後に点滴をしてもらったのだが、すっかり嘔吐で体力を失っていた留学生は、血圧が下がりまくっていたせいか、点滴が入らず、3回もやり直していた。針を刺されることに慣れていない彼は、そこでも吐きまくる。治療しているのか、それとも悪化させているのか。

「留学生君、先進的な医療はこんなにも素晴らしいのだよ。」

馬鹿げてる。
今日は夕方から通訳。
地元の農林高校に来ているインドネシアの生徒さんの入寮式だった。
寮に住んでいる学生さんたちが、一所懸命にインドネシア語で挨拶文を考えていたが、緊張してか、皆結局日本語での挨拶になっていた。インドネシアの生徒さんたちは、立派に日本語で挨拶したのに。

簡単な自己紹介後、夕食に。カレーライスとシュークリームとファンタのペットボトルとう変わったメニュー。農林高校だからこそ、もう少し食育にこだわって欲しいものだが。寮の学生たちは、インドネシアにファンタが無いと思っていたらしく、インドネシアの学生さんにファンタなる飲みものについて、しきりに説明をしていた。が、当然インドネシアにもファンタはあり、さらに日本に無い味もあると解り、『インドネシアも結構すすんでるんやねぇ』と一言。その言葉の裏にある意味を深読みはしないが、まぁ、こうやって一つ一つ交流を深めてもらおう。自分の頭にあるインドネシアに対するステレオタイプを少しずつ減らせていければ、上等だろう。

田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
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