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涼しくなってくると
ホットコーヒーが朝の定番。
10月にも入ったことなので
ずぼらな水出しアイスコーヒーは
道具と一緒にしまい、
久しぶりにミルで豆を挽いて
ドリップコーヒーを楽しむ。

戸棚に残っているコーヒーは?と
探していると4期生のクスワントのコーヒーが余っていた。
彼が栽培して、彼が加工して
彼が焙煎したコーヒー。
ずいぶん前にお土産でもらったもので
あまりにも勿体なくて
飲まずにそのまま保管していた。
ということで、今朝はワントのコーヒーでも飲むか。

今、実習修了生たちの地域は
空前のコーヒーブーム。
栽培もブームだし、飲むのもブーム。
もともとインドネシアはコーヒー栽培もやっていたのだけど
あまり評価は高くなく
インスタント用のロブスターという品種の豆が多かった。
それが低地でも作れるアラビカの新品種が出たことや
バンドゥンの小さな農園が
世界のコーヒー品評会で世界一に輝いたことなどが
アラビカブームに火をつけた。

インドネシアの家庭でもコーヒーはよく飲む。
ダッチ式(オランダ式)の飲み方で
強めに焙煎し、細かく挽いた粉を
そのままカップに入れてそこにお湯を注ぐという
かなり荒っぽいコーヒー。
砂糖もたっぷり入れて
甘くて口にコーヒーの粉が入るのを
ぺっぺっと吐き出しながら飲むのが
インドネシア式だった。
チャイのような小さなグラスに
コンデンスミルクをたっぷり入れるのも美味しい。
これはこれでおいしく、
僕は留学中や協力隊の時は
夕方から夜の定番はこの飲み物だった。
それにセットとなるのは丁子タバコ。
香辛料が入ったタバコで、タール24ミリ。
鼻腔で飲むタバコで、その刺激と香りを
甘いコーヒーで流し込む。
いい時代だったなぁ~。

それが今や、修了生たちの地域では
王道のブラックコーヒーを飲むというのだから驚きだ。
正直、ブルーマウンテンみたいな
酸味をきかしたコーヒーは
最初の1杯はおいしいのだけど、
続くと胸焼けすることもある。

彼が飲んでいるだろうそのコーヒーを
同じように淹れて飲む。
うん、たぶん、おいしい。

でもね、
ワントよ、これ酸っぱいよ。
やっぱり。



今年はどうも大変化の年なんだろうか。
一昨日の夜中に
インドネシアのタンジュンサリ農業高校に
派遣していたスタッフ立崎から連絡がある。
それは
カルディ校長先生が異動になった、
というものだった。

カルディ校長は、タンジュンサリ農業高校の卒業生で、
教職についてこの方
ずーっとタンジュンサリ農業高校で教鞭をとり、
次々替わる政治家校長と違って、たたき上げの
校長先生だった。
しかも来年が定年で
このままタンジュンサリ農業高校で定年を迎えることを
誰もが疑っていなかった。
そのカルディ先生が7月から別の高校へ異動になるなんて・・・。

僕や福井農業高校との関係も長い。
2002年にインドネシア・タンジュンサリ農業高校からの
招へい事業にもカルディ先生は関わっていて
当時は教務主任のような役職だった。
なんどかメールや電話でやりとりをした記憶がある。

2008年から始まった
農園たやでのインドネシア技能実習生受け入れの時も
副校長先生として関わり、
同僚のユスフ先生と一緒に
その当初から尽力いただいていた。
だから校長先生に昇格された時は
本当に嬉しかった。

農園のスタッフを青年海外協力隊枠で
タンジュンサリ農業高校の
農業教師として赴任する話も
カルディ先生との話し合いから始まった。

そんな一連の活動が
名門タンジュンサリ農業高校の名を
再び高めることになった。
交流当初は500名ほどだった学生も
年々増え、
今年は1000人をいよいよ超える予定で、
時代の流れに沿って
他の農業高校は軒並み前年度割れを
起こしているのに
タンジュンサリ農業高校だけは
どんどん入学希望者を増やしているのが現状だった。

すべては彼の理解と意欲が
これらの物事を進める原動力だったと
言っても過言じゃない。

僕も長年
高校間の相互派遣事業にかかわっているが
やはりトップの姿勢が一番
その事業に影響を与える。
もちろん、担当者の熱意も大事だけど、
それ以上にトップのやる気が大きい。
そういう意味では
カルディ先生はとても大切なパイプだったし
仕事相手としては最高だった。

立崎の情報は早かった。
異動が出たその日に、
仲良くしていた教員から連絡を得て
それを僕に送ってきてくれた。
たった半年しかいないのに
すでに中枢に係わっている先生と密になっているところが
素晴らしい。
その連絡を得て、こちらでもあれこれとさぐりを入れ
カルディ先生の異動が
降格や懲罰の人事ではなく
定期異動の範疇だということ
新しく来る校長先生の名前や前歴等の
情報は確保できた。
とりあえず、カルディ先生のやってきたことが
評価されなかったわけではないらしい。
よかった。

でもやはりタンジュンサリ農業高校のような
それぞれの分野の職業系高校が
法律の施行により
それぞれの管轄省庁から教育省に
移行した影響は大きい。
ちなみにタンジュンサリ農業高校は
農業省管轄から教育省管轄に移動。
これにより校内人事を含め
すべてが教育省の定例異動の対象となり
今回初めて校長先生がその対象となって異動した。
今後、2年1回校長先生の異動があり
たぶん他の先生の異動も起こるだろう。
ますます交流事業や研修事業の
引継ぎが難しくなっていくと想像する。

新しい校長の情報は
出来るだけ早く収集するつもりだが、
今はカルディ先生との思い出に
浸りたい。
16年間、本当にありがとうございました。



インドネシア出張の成果の記録、第2弾!
②スタッフ立崎の活動打ち合わせ

ちなみに、立崎はいつき組のたちこである。

さて
事細かに読んでくれている読者には
重複する説明で
眠たいことこの上ないが
これを理解していないと
なんのことなのか?となりかねないので、
くどいけど、立崎がインドネシアに居る説明させてほしい。

農園がインドネシアの農村開発を
ほとんど無償でおこなっていることはこれまでも
記録してきた通り。
その中で、2016年より
タ農に人を派遣しようと画策していた。
それがどのような形になるかは
様々な検討をおこない
青年海外協力隊が一番いいのでは、と
タ農の校長とも合意。
それから案件を形成し
協力隊の一般募集にあがってきたこの案件に
スタッフ立崎(若干当時24歳)がアプライして
見事その案件を手中に。
案件内容としては、
隊員はタ農の農業の先生として派遣され
インドネシアの農業教育の拡充と
和食ブームに沸くインドネシアにて日本野菜の紹介、
そして技能実習生の卒業生への営農指導(これは裏ミッション)
etc.
で、昨年の12月に派遣され
今年の1月よりタ農で農業の教員として
立崎は活動を開始していた。
彼女自身は大学生時代にインドネシア留学経験を持っていて
語学はすこぶる出来るので
いきなり教員として授業を担当させられている
まさにスーパー隊員と言っていい。

だが、その立崎からすこしS.O.Sが来ていた。
それは専門以外の授業も担当させられ
かなり負担が重いこと。
そして事前に時間割をもらうものの
担当先生の授業の補完的役割かと思いきや
まるまる1コマ授業を期待され、
しかもその準備にほとんど時間が無いこと。
正直、このレベルになってくると
僕でもできるかどうかかなり怪しい・・・。
ましてや留学経験1年で
農学が専門でない
25歳の経験がまだまだ足りない彼女が
まかりなりにその毎日をこなしていること自体が
すでに異次元に思えた。
環境が人を育てるとはこのことだね。

さて、
今回の僕の役割としては
立崎の役割について学校側と協議することだが、
それは
彼女に楽に活動をしてもらうことではなく、
学校の要望と
彼女のポテンシャルのぎりぎりと間を
見つけることにあった。

そもそも1か月ごとに時間割を渡されて
栽培だけでなく農産物加工からランドスケープ、農業機械などの
授業にまで彼女にまるまる一コマ任せてしまうという
その感覚が僕にはよく解らないし
それがこなせるスーパー先生は
たぶんタ農の先生にもいないんじゃないかなって思う。

で、さっそく教務担当のTuti先生と
タ農の校長、立崎と僕との4者会議を開催。
事前に立崎へのインタビューで
一コマ任されるのは嬉しいが準備に1か月欲しい事、
1つの授業を学年のすべてのクラスを横断的に行いたい事、
外国人の目線から見た異文化的農業について授業することで
単なる技術ではなく学生の見識を広めるような授業をしたい事、
などなどを聞いていた。
ちなみに、もうこの時点で
もうすぐ任期満了の隊員のような現状分析ができていることに
僕はこっそり舌を巻いていた。
どこまで成長する気だ?この子は・・・。

で、これをそのままタ農側にぶつけてみた。
その反応は、すこし意外だった。
困惑と言うか思惑と違うというか
まさに差異を見出せる瞬間と言うか。
僕はこの瞬間が好きだ。
校長からの返答はこうだった。
「農業というのは、土を見て、肥料を計算して、種を蒔いて、水管理し、病害虫を押さえ、収穫し、市場を見て、加工もして、農業機械も扱い、畑の周りの環境にも気を配り、そういう総合的なもので、その流れの中で立崎には全部を見てもらったうえで、どの部分を日本式で改善できるかを考えてほしい」と。
なるほど、こりゃズレテルワ。

農業の過程を農学的に切り分けて
そのどこかで日本的視点が活かされないかって
これ現場レベルだとあまり意味のない話。
農学栄えて農業滅びるってまさにこれかもね。
ただ農学的アプローチとしてはそれが真っ当なのも
問題をややこしくしている。
僕らは市場があって
それは顕在的か潜在的かの違いはあるだろうが
それに反応する形で商品を作り上げていく。
コストの面と質は市場のレベルによって変化もする。
栽培としてのベストではなく、お金が回る、そんな感じ。
それを農園たやで叩き込んできた立崎には
農学的なアプローチの農業への視点は
たしかにピンと来ないのは、当然だろう。
この視点と常識の差異を数時間の会議の場だけで埋めることは
たとえどんなファシリテーターだって無理だろうね。

で、
とりあえず、授業を作る時間が欲しいこと、
ある程度テーマを決めてその月はそのテーマの授業だけをすること、
農学というよりも生徒の見識が広がるような授業をすること、
の三つを了承してもらった。
あとは立崎がその授業を体現する中で
農業とはどういうことなのか、それを先生たちにも
分かってもらえたらいいと思う。
切り分けて細分化して分析する中に、
人々の息遣いを感じる農業はなく、
農業はあくまでも人の生業、営みなのだとそれを知ってほしい。
と書くと、敵を作るかな。
ま、僕も学部程度の農学しか齧って無い身なので
あんまり偉そうには言えないけどね。

で、校長先生たちには一応
立崎の要望は認めてもらった。
これからは立崎のテーマの中で
時間割についても出来るものと出来ないものを
立崎自身が選択し、
授業づくりにも時間をある程度見てもらうことになった。
そして、僕も彼女の授業作りに
ネットを介してだが手伝っていくことになった。

正直、話し合う内容が高度で
協力隊に来たばかりの人間について
話し合っているような感じが全くない。
環境は人を育てる。
本当にそうだと思う。
よかったね、立崎、
君の今の瞬間で
ここに協力隊として参加できて。

つづく




雪害で農園が大変になっている。
普段通りの営農が続くかどうかの瀬戸際で
経営者としてはそちらに集中しないといけない。
普通なら。
でも、農園たやは、いわゆる「普通」の農園とは違う。
もともとが
インドネシアの地域開発に参加する
その手段としての農業という出発点を持っているので
自分たちの営農はもちろん
続けられるよう様々な手を打ち続けていくが
それに忙殺されて
インドネシアとの係わりを疎遠にするという
選択肢は、僕らには無い。
僕らの営農が順調で進む限り
インドネシアと日本のある局部にはなるが
それぞれの地域と農村は発展する。
そんな仕組みを作ってきたので
僕らはその歩みを
雪なんかで止めてはいけない。

ということで
僕は当初の年間計画の通り
仕事日としては三日間という
あいかわらず短期だが、
インドネシアに渡航した。

今回のインドネシア渡航の
主なミッションは以下の通りだ。

①タンジュンサリ農業高校と福井農林高校の交流活動の促進
②スタッフ立崎の活動の打ち合わせ
③実習卒業生グループの話し合い
④実習卒業生の営農相談

短い時間だったが
これらのミッションすべてで
思った以上の成果をあげられた。
出発前に豪雪の対応で
ほとんど準備らしい準備が出来ないなか、
卒業生グループの長であるタタンと
スタッフ立崎とが
それぞれに準備を進めておいてくれたおかげで
スムーズかつ有意義な議論ができた。
改めて両者に感謝したい。
そして、やはり現地に
調整してくれる人材がいることが
こういう活動の大きな支えになることを実感した。
豪雪の害で
農園の被害はとても抱えきれないほどではあるが
農園の存在意義は
インドネシアと日本の農村、両方の発展を
その交流から見出すことにあるので
これからも今の人材を雇用し続けられるよう
僕も全力を尽くそうと思う。というのは余談。

さて、まずは①。
タンジュンサリ農業高校(以下タ農)と
福井農林高校(以下福農)の交流事業。
実はここ数年、停滞気味だった。
インドネシアから日本には2年に1回のペースで
来日していたのだが、
ここ数年は、来る来ると言いながらも
実現していなかった。
しかも、数年前に友好提携の締結書も期限が切れてしまっていた。
この事態に、事前に福農側と僕とで話し合いを行い
できればどちらかが訪問して話し合いができればいいのだが
時間も予算もなかなか厳しい中で
せめてお互いが顔を合わせて話し合いができるよう
インターネットを使ったテレビ電話で会談をすることになった。

今回のインドネシア訪問は
僕の年間活動の一つでもあるので
このタイミングでテレビ電話を調整。
立崎がこの調整をしてくれたため
かなりスムーズに時間や機材の準備できていた。
ただ、やはりそこは海外とのやり取りのむずかしさか、
当日、日本との通信がなかなかうまくつながらない。
余裕をもって1時間前から準備したが
結局会談時間直前まで両国の機材の不具合で
上手くつながらないままだった。
試行錯誤の末、僕の持っていたipadで無事通信が可能に。
両校の機材でつながるよう、今後調整をする課題が残ったことは余談。

さて、会談はタ農校長と福農教頭によって行われた。
相互訪問を継続することを確認し、
今年の12月に福農側が学生を連れて
タ農を訪問することを約束した。
これでスタッフ立崎は今後
福農の団体を受け入れるための活動が一つ増えることになるだろう。
それに付帯して日本語教育や日本文化交流などの
活動もたぶん増えていくだろうな。
で、タ農側は
2019年に福農を訪問することを約束した。
後述もするが、予算的措置が厳しい中、
その約束が実行されるかどうかは不明。
期限切れとなっていた友好提携は
今年の12月に福農がタ農を訪問した時に
式典を行い、継続更新することでお互いが了解した。
また、相互訪問以外にインターネットを使って
両校の学生レベルの交流を促進する活動をしようと
取り決められた。
立崎の活動がどんどんかってに増えていく、そんな会談でもあった。
でもこれらの活動はかなり楽しい活動になるだろうから
増える分には歓迎だろうけどね。

約45分の会談はなごやかに進んだ。
やはりお互い顔をみて話すのは大事だ。
メールや電話でも良いのだけど
Face to Faceの力ってあるな、と実感。
厳しい感じの教頭先生の笑顔がやたらと素敵だったし、
やや弱気の発言が多かったタ農の校長先生の
対外的な強気の発言が、可愛らしかった。
こういう場を通訳と言う形で
参加できたことが嬉しかった。
交流の場がずいぶんと極小化していっていた中だったので
その場に温かな光がさしたような
そんな会談だった。

さて、
会談の前後にタ農の校長先生やその関係者と
これまで日本訪問が延期になっていた経緯についても話し合った。
数年前までは、タ農の来日に
予算的な問題は全くなかった。
それがここ数年は常に
決まり文句が「予算が無い」に。
これまでもインタビューして問題は解っていたが
もう一度それについてここでも整理しておきたい。
数年前までは、タ農は西ジャワ州の拠点農業高校という指定を受けており
西ジャワ州農業局直轄の高校だった。
そのような待遇を受けていたのは4校のみ。
この好待遇で日本行きの予算を優先してもらっていた。
しかし、ジョコウィが大統領になり(個人的にはこの大統領は大好き)
高校の規定がやや変更になり
すべての職業科高校はその関係省庁の管轄から、
直接県の教育局へ変更になった。
職業科高校は普通科高校と同列に
しかも専門性もなく、
それぞれの教育局一括で指導される立場になった。
それ以来、何百という高校と同じように
県の教育局を通じて
州の教育委員会へ日本との交流の予算の申請を出し続け
そして他の何百という高校と同列に均された
微々たる予算を受け取るだけに陥っている。
政治的な行動が必要な場面だろうと
僕のような素人でも思うのだが、
教育者の鏡のような今の校長には
正攻法以外の方法をよしとしない。
じつは、今回の訪問で
ごりごりの前の校長も突然ごりごりとやって来て
非公式に議論をしたのだが、
その前校長曰く
「私だったら、この学校出身の県議員2名と州議員4名に動いてもらって、前々州知事(タ農出身)の息のかかった官僚(派閥があるような感じ?)にも動いてもらって、成果をマスコミに流して、予算措置をせざるを得ないように外堀を埋めるがね」と
ごりごりと答えていた。
やりすぎだと批判を受けていた前校長だが
今のように正攻法でだめなら
ごりごりもありだろうな、と僕は思う。

ただ現校長は人間的に信頼がおけるので
その意味では、前の校長のように
僕がはらはらする場面はほとんどない。

ちなみに
インドネシアの農業高校の現状を言えば(西ジャワに限るが)
やはり農業系職業科高校の人気はあまりなく
ほとんどが定員割れの状況だ。
だが、タ農は日本人が常駐していたり
農園たやへの研修のつながりがあったり
福農とのこうりゅうじぎょうがあったりと
そういうこともあって、
300名の定員に500名以上が集まる異常事態になっているのだとか。
校舎が足りなくて
毎年毎年増設をし続けている
農業高校では稀有な存在になっている。
と現校長は自慢してやまない。
だったら、なぜ、日本行きの予算が取れない!
そこまで対外的評価が高いのなら
なぜ、それが予算措置に反映されないのだ?
まだまだ謎が潜むが
そこはうちから派遣した立崎の
状況報告によって今後推理していきたい。
腹の底を見せないという意味では
現校長も立派な政治家とはいえるが
だったら、ごりごりやって予算とってほしい。
というのも、余談か。

つづく

ちょっと前の事。
農林高校の
担当者が来園。

農園のスタッフ立崎が
来月インドネシアに協力隊として
タンジュンサリ農業高校に赴任するわけだけど
それをきっかけに
少々下火になってきている交流のテコ入れを
しようぜ!と画策している。
ま、僕の儲けにはならない話だけど。
(最近、このフレーズは決まり文句のようで知り合いから先に言われることがある)

タンジュンサリと福農は相互に
訪問活動を行っているのだけど
ここ数年、タンジュンサリ農業高校は
来日できていない。
今まで農水省から拠点高校として
潤沢にもらっていた予算が
教育省への管轄移管によって
一気に削られてしまったというのが
その理由のようだ。
だたこれはまだ詳しいことは解らないので
立崎が赴任後にリサーチする予定。

で、あちらが来なくなったからと言って
こちらが行かないという理由もないと思うのだが
なぜか福農側もあちらに赴かないまま
数年を過ごしてしまっている。
そんな状況。

福農の担当者とは
とりあえず動き出すために
両校のトップ同士が直接話し合う場を設けて
これからの方針を確かめ合う事が
必要だろうと一致した。
直接会うと言っても
予算の無いタンジュンサリや
忙しい福農の校長では
なかなか日程が決まらないまま
また日を過ごしそうなので、
僕が2月にタンジュンサリを訪問し
その時にスカイプで直接会談を手配しようとなった。

方針の土台はこれから作り上げるが
案としては、次のようなものが考えられる。
①両校で同じテーマの研究を行う。
②スカイプを通じての交流
③福農からのインドネシア訪問

①は協力隊スタッフが居るので、
グローバルな視点や同じ主食のコメなどを
テーマにしてそれぞれの違いや
グローバルな問題点を感じられるような
そんなテーマで両校の学生が研究するのは
どうだろうという話になった。
違いを理解し合うというところから入るってわけ。

②は立崎が福農に授業をするスタイルを想定。
数名の学生同士の交流にするのか
また全学年の全教室にカリキュラムとして入れるのかは
当事者で話し合うことに。

③訪問は続けた方が良いと思う。
やはりどちらかが行くような形をとらないと
交流にならない。

で、事前に両校の校長先生に対して
話し合いを進めて
2月のトップ会談でGOサインを出してもらえれば
両校の先生が自由に動けることになる。
立崎も仕事がしやすくなる。

ということで話し合いは決着。
12月に福農の校長と話し合いをして
内容を詰めることに。
立崎は赴任した後
僕が行く2月までにあちらの校長先生に
すこし話をつけておくことに。
ま、僕も1月くらいにスカイプで
あちらの校長と直接話し合う機会を
設けようとは思うけどね。

ああ、すっごく楽しみになってきたねぇ。
あ、でも、今度は
僕はあまり出しゃばらないようにします。
20年前のような
同じ轍は踏まないように、踏まないように。
そう念じながら行こう。



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来客あり。
インドネシア領事館から
8月下旬ごろからいろいろと電話で調整があり
9月6日来園が実現した。
お客さんは、
元インドネシア共和国チェコ大使。
退職されてから、
故郷であるスマトラのトバ湖の近くで
農園を経営しているのだとか。
ただ住んでいる場所はジャカルタ。
いわゆるあちらスタイルの
ブルジョワ農民ってやつね。

その彼。
新しく梅やイチゴに取り組みたいと
日本にその勉強に来たらしい。
残念ながら農園では
そのどちらも栽培品目に入っていないけど
農業経営について意見交換したいので
ということで
わざわざインドネシアから
やって来られた。
頭の良い方で
少し話せばすぐにその肝の分かる人だった。
こういう人と話をするのは楽しい。
2時間ほどのアテンドだったが
あっという間に時間は過ぎてしまった。

インドネシアの農民の貧困を
その作物の構造に着眼している辺りや
全部の問題を教育で解決できると言わないところが
気に入った。
あと盲目的な有機農業信奉者でない
自称有機農家の
インドネシアのブルジョワ農民には
初めて会ったかも。
バランス感覚も良いね。

さてその彼。
販売は海外を考えているようで
てことはやはり日本か?と聞くと
呆れた顔で彼は言う。
「おいおい、日本?まさか。インドだよ、インド。日本なんてどんどん小さくなるし、いろいろと難しいこと言うから駄目だよ。中国にもつながりはあるけど、インドへ販路を広げていく予定だ」
だって。
日本がどんどん小さくなることや
ゆっくりと落ち目になっていることは
僕らは嫌と言うほど感じるし
そうなっていくだろうという予測もしている。
でも、それをインドネシアの方から
指摘されると、かなり複雑。
もう、ここはあこがれの地でも
先進的な地でもないのだろう。
すくなくともエリート層の間では。

ここまで短時間で
本音で話せた人は少ない。
それはそれだけ彼が聡明で
適当な想いでここまで来たわけじゃないからだろうね。
ちょっとやくざの親分みたいな
そんなやんちゃなところも
気に入った。

最後には
孫からFacebookでメッセージが来て
ステゴサウルスのロボットのおねだりがあり、
後半はそれがどこにあるのかを
みんなでネット検索して終わったけど、
それはそれでインドネシアらしくていい。

こういう人と
仕事がしたいな。
最後にはあっけなく裏切られるんだろうけどね。
それも解っているけど
こういう人は僕はすごく好きだ。
どこかアレジャンの亡父や
パラッカのノールに似ているからかもしれない。


ちょっと焦っている。
珍しく調整がつかない。
それは福農とタンジュンサリ農業高校の
交流事業。

僕が係ってから今年でもう
13年になるこの事業。
僕も両校もすでに慣れたもので
何がどう必要なのかは
阿吽の呼吸で分かっていた。
つもりだった。

今回、福農学生が
今度の日曜日にインドネシアに向けて発つ。
タンジュンサリ農業高校と交流するのが
主目的なのだが、
その内容がここに来て
うまく調整できていないのだ。
それは
昨日タンジュンサリ農業高校から
送られてきた日程表を見てのことだ。
さすがに我が目を疑った。
何度も電話連絡をして、
メールでも日程を送って、
で、出てきた日程が
こちらの意図と違う箇所が
いくつもあったからだ。
なんで?どうして?

急きょ責任者が集まって
本日国際電話会談の予定。

今回の顛末は
慣れ切っていた僕の見通しが
甘かったからだと思う。
この事業の本当の責任者も
僕はちゃんと確認していなかったし
僕はどこまで動くのかも
確認しなかった。
どこまで僕の責任で調整すればいいのかも
それも確認しなかった。
そして僕は部外者なのに
タンジュンサリ農業高校側から見れば
僕が最古参に見えるから
(学校の先生たちは人事異動があるので)
僕のあいまいな答えが
すべて正式なものになっていく。
僕の手元にすべての情報が集まっているのなら
これまでの交流の流れから
ある程度判断はついたことも
今回は、とにかく僕に情報が無かった。
というか知らされていない情報が
とにかく多かった。
というのは言い訳か。

ま、ウルトラCで
今日まとめるしかないね。
いい加減な仕事の仕方になっているなぁ。
クオリティが低いのは
僕のキャパを越えてしまっているから、と
もっと早くに認めないとな。
なんだかこういうのって
係る人みんなが辛いね。
自戒を込めて記録した。



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こういうこともやっている。
から時間がないんだって言われるけど
インドネシアのことなら
どんなことでも後回しにして
やりたいのだからしょうがないね。

土曜日に金沢のJICA北陸事務所まで行く。
JICA北陸とJICA四国共同で
今年、学校の先生たちを海外に研修に送り出す事業で
インドネシアに行くことになった。
で、事前の訪問国研修を頼まれた。
僕は教育関係にそれほど詳しいわけではないが、
あっちの大学院で学生もしていたし、
インドネシアの農業高校とも
かなり密にお付き合いしているので
その範囲で、インドネシアの全般+αで
教育や学生事情について話してきた。
アシスタントとして
研修3年生のジャジャンくんも同行。

2時間の研修だったが
面白かったのはジャジャンくんの
普通の高校生の日常ってプレゼン。
朝5時に起きて、学校行って、クラブ活動して、
夜寝るまでの生活のプレゼンは
日本の高校生との違いも多く
面白かったな。

日本とのつながりも大きいインドネシアで
先生たちもこの派遣を通じて
子供たちに何か伝えられるような
グローバルで実践的なネタを
うまく拾ってこられるといいな。



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先月行われた
インドネシア農村スタディツアー報告会が
2月14日土曜日に
AOSSAの6階和室「あじさい」にて
開かれた。
参加者は25名。
こぢんまりとしたアットホームな報告会で、
主催は、
僕が代表を務める
Yayasan Kuncup Harapan Tani耕志の会。

発表は2部構成。
第1部では、インドネシア技能実習生の
農業研修概要と
研修生の自己紹介、
そして研修3年生の卒業研究報告をおこなった。
第2部では、インドネシア農村スタディツアーに
参加したメンバーから現地の様子や感想などの
報告があった。

この研修は、
福井農林高校とタンジュンサリ農業高校の
交流事業から派生した。
だから報告会では歴代の校長先生たちにも
ご出席いただいた。

またスタディツアーは
JICA北陸の市民参加プログラムにて
助成をいただいており、
今回の報告会でも職員の方にご出席いただいた。

他、協力隊OB会や農園のスタッフ、友人多数の方々が
報告に耳を傾けてくれた。

インドネシア農村スタディツアーを企画した当初は
これらの方々が参加してくれるようなツアーに
するはずだったのだが、
日程や旅行内容のハードルが高く、
応募は振るわなかった。
スタディツアーの主目的は、
インドネシア技能実習生たちがどういった環境から
やってくるのかを直に見に行こうというものだったので、
どうしてもインフラの整っていない農村部へ
数日泊まり込むというツアーになっていた。
僕らにとっての当然であるライフラインが
整備されていない地域への旅行は、
やはりしりごみしてしまうのだろう。
そこで最終的には村泊を1日だけとして
他の地域の農業も見るということで
バリ行も加え、ツアーを企画し直し、
8名の参加者で行った。

今回の報告会では、
参加はしなかったものの
それでも農園の農業研修にご協力をいただいている方々に、
技能実習生がどんな環境からやってきて
そしてどんな夢を持って
どんな風に現地であがいているのかを
知ってもらうのが目的だった。

だから第1部でも
3年生の卒業研究には帰国後の自分たちの進路についても
触れてもらった。
(そのプレゼンを作成する過程で、僕はダルスとの例の一件が起こったわけだが、それはリンク先のエントリーを参照されたい)。
個人的にはカダルスマンの発表が
心に残ったし、
彼の話がたぶんその地域の
土地なし農民の声に近いように思う。
彼はコシヒカリの栽培を卒業研究としていた。
だが、彼はそれを実現できるだけの土地も
施設も資金もなかった。
いくばくかの土地を買い集め
コシヒカリ栽培に乗り出すことも可能だったかもしれないが、
それで貧困から抜け出せるわけではないことは
彼は良く知っていた。
だからパームオイルのプランテーションで
働く決心をした。
彼のプレゼンの中でそこに至る
思考のプロセスと
今の考え方が明示されていて、
この研修の目的である
「考える農民」の片鱗が
少しだけうかがえたのはとてもうれしかった。

第2部のスタディツアー報告では、
まずツアー参加の大学生が、
5日間の旅行内容を数分にまとめたビデオを上映した。
卒業生やその生活ぶりが分かる映像で、
彼らを知る人間にとっては、
涙腺が緩むような絵ばかりだった。
参加者それぞれの感想も良かった。
このスタディツアーを通じて、
参加者たちは
技能実習生たちのリアリティを体験した。
その生の感覚が、
異文化の実習生たちの態度や考えを理解するのに
とてもプラスになっているのがその感想から感じられた。
そんな視点が
僕にはどこかで普通になってしまっていた
実習生たちの文化を異文化として
再び捉える機会にもなった。
たぶん、僕は、実習生たちの考えや態度に対して
判断や処理をショートカットするクセが
ついてしまっていたのだろうな。

一方で、農園のスタッフとして、
また耕志の会のメンバーとして
インドネシア実習生の座学や研究に関わってきた
佐藤の話には僕も考えさせられた。
僕は、実習生たちのリアリティを
それなりに想像できるし、帰国後も
(『たま~に』ではあるが)気軽にSNSなどを通じて
連絡を取り、現状報告を受けたり
彼らの問題についてディスカッションもしている。
だからまったくと言っていいほど、
僕は佐藤の悩みに気が付かなかった。
それは彼が一所懸命にかかわっているにもかかわらず
彼らが一体どうなっていくのかが分からないという
レスポンスがない中で、
どうやってモティベーションを維持していこうかという
悩みを抱えていたということだ。
言葉では相談を受けていたが、
僕の生の感覚にそれが無かったためか、
さほど問題視していなかった。
だが、彼の感想を聞いて、
その事の重大さと今回のスタディツアーが
その問題を解決するためにとても大きな役割を
持っていたということを
この報告会で気付かされた。
そうだよな。
僕もちょっとしたインドネシア実習生からの
レスポンスに大きく喜んだり
大きく失望したりしてるんだもんな。
そのレスポンスを感じられない立場は、
たぶん、それを感じて失望をするよりも
もっと辛いことだったろう。

最後にとても興味深い質問が出た。
その質問を投げかけてくれたのは、
協力隊OBで県の農業普及員でもある川崎君だ。
研修を受け入れる側として、
研修生たちのどういった変化が成長として大切なのか?という問いだった。
それの答えは、僕の中では明快だ。
人とは違う視点、常識にとらわれない考え方が
できるようになる、ということ。
人や周りの雰囲気でなんとなく考えるのではなく、
自分で判断し、自分で道を切り開ける人間になる、
ということ。

ここに来る子たちは皆、
学校では優等生だった子が多い。
タンジュンサリ農業高校で選考してもらうのだから、
そういう子が選ばれがちだ。
全員がそうだとは言わないが、
優等生というのは、その学校が思い描く枠に
自らをおしこめることができる人間という
場合も多いだろう。
優等生になりきれなかったから
僕は僻んでそういうことを言うわけじゃないよ!

ここに来る子たちは皆、
僕の問いに判で押したように
同じ答えをする。
なぜ?日本に来たかったのか?
『日本の最先端の技術を学びたいからです』と。
その考えは、間違い。
勘違いと思い込みが作り上げた虚像さ。
その枠から自分の思考を自由にする。
それがここでの研修中に行う作業だ。
もちろん、学びたいという技術は
僕ができる限りは教えてもいるけどね。
でも、それを覚えるのが正解はないんだ。

カダルスマンの事件があった時、
彼との話し合いで、彼は申し訳なさそうにこう言った。
『先生が教えてくれることは、言いにくいのですが何一つインドネシアでは通用しないと思います』。
そう、それ正解。
その時僕は彼にこう言った。
僕も知っているよ。
僕はそれが通用しないことも
役に立たないことも知っている。
じゃ、僕らは何をそんなに一所懸命
農業の技術について話し合ってきたのか。
実はその技術とインドネシアの実情を
一緒にすり合わせるプロセスで
君らの思考を鍛えていたんだよ。
だから君は途中で気が付いた。
だから君はパームオイルのプランテーションに投資し
そこで働く道を選んだ。
でもそれはなんとなくそれが儲かるというわけじゃなく
君なりに考えた答えだろ?
だから、それは正解だ。
ちなみに
カダルスマンの一件は、
その思考が、僕のいう正解のレベルに達しようとしていたのに
それを僕に言わずに隠したことが問題だった
(問題というか、僕が萎えたというだけのことだけど)。
それは全体の中ではごく小さいなことさ。

川崎君の問いのおかげで
僕自身もより明確に自分の中にある
答えに行きついたような気がした。
そう、この研修の目的は
自由自在に、そして常識に捉われない、
自分で困難に立ち向かえる、
自分で道を切り開ける、
そんな思考を身につけることなのだ。

いろんな気付きを得られた報告会だったと思う。
こんなダイナミズムを得られる機会は
そうそう無い。
この報告会に参加し
みんなでその場を作り上げてくれた
すべての参加者にお礼を述べたい。
また、この報告会をマネジメントしてくれた
妻・小國和子に心から感謝を述べたい。

本当にありがとうございました。



今月、インドネシアから来ていた
タンジュンサリ農業高校(以下:タ農)一団は
無事帰国の途に就いた。
今回も微力であるが
通訳兼アドバイザーとして
福井農林高校(以下:福農)とタ農の
両校の交流を前に進めることができたと思う(自画自賛)。
これで殺人的に
忙しかった10月も終わる。

さて、今回の交流は
インドネシア側から農水省や西ジャワ州の
部長さんなども同行した。
インドネシアでもこうした高校レベルの友好提携は
とても珍しく
しかも、両校の交流がすでに18年という長期に
渡っていることを評価いただいた。
僕はそのうち12年間を関わらせてもらったのだが、
この出会いは僕にとっても大きなものだった。

僕が関わるようになってから、
18名のタ農の学生が福井を訪れたが、
そのほとんどが公務員や民間企業で
活躍する人材になっているらしい。
そのうちの一人は(イラ)、今、
僕が行っている農業研修事業に
技能実習生として参加していて、
僕の農園で毎日勉強に励んでもいる。
また18名の一人で、
イマンという少年もいた。
長身でメガネが良く似合う少年で、
年の割に落ち着いていて、
微笑みが印象的な少年だった。
福農に留学中は、農園で数日預かったこともあった。
実習生の授業にも混じって勉強したのだが、
なかなか優秀で一所懸命だったのを思い出す。
実はその彼、研修2年生のジャジャンの
同郷の先輩にあたる。
そしてそのイマンが、
ジャジャンがタ農に入るきっかけを作ったらしい。

長くやるといろんなことがいろんな風に、
ランダムに、イレギュラーに、
そしてダイナミックにつながってくる。
そんなダイナミズムがとても心地よい。

そしてそのダイナミズムに
もう一つ変化が生まれる点を打とうと
今、僕らの団体が主体となった
スタディツアーを計画している。
今回同行していた
タ農の先生とも
旅の内容についての打ち合わせも
無事終わった。
きっとこのスタディツアーからも
新しいつながりができてくるだろう。
どんなうねりを生み出すかは、
乞うご期待。



今、福井農林高校(以下:福農)に
インドネシア・タンジュンサリ農業高校(以下:タ農)の
一団が来ている。
それに合わせて、
農水省の部長と西ジャワ州の部長、
そしてレンバン総合職業高校(以下:レ農)の校長も
一緒にやってきていた。

「やってきていた」と書いたのは、
彼ら彼女らはすでに福井を発ってしまったから。
たった一泊だけの滞在だった。
慌ただしい日程でも
わざわざ福井まで来たのは
理由があった。
それはただ単に
福井農林高校を視察しようというものではなかった。
もちろん、それも目的だっただろうけど。

主目的は、
タ農と福農のように、
レ農も福農と交流事業を行いたい
という申し入れだった。
というか、すでに友好提携書を携えて
しかもすでにその書類に
西ジャワの教育長のサイン入りで
持ってきていた。
僕は今回初めてレ農の校長に会ったのだが、
会って1時間も経っていないうちに、
「タヤ、この書類に福農の校長先生のサインをもらえるように頼んでね」
と何かのついでに小物の買い物でも頼むような
そんな気軽さで、レ農の校長から
そのサイン入りの友好提携書を手渡された。
なんだかその時のその雰囲気が、
とても懐かしく思う自分がそこにいた。
僕は珍しく動揺も怒りも焦りも
そんな感情が湧きあがることなく
その手渡された書類を
ノスタルジックに眺めている自分が
可笑しくて仕方なかった。

経済大国になりつつあり(というかすでになっているか)、
驚くような経済成長を続け、
とても民主的な手法で
普通の人が大統領になったりするインドネシア。
もう僕の知らないインドネシアに
なってしまったんだ、と
最近はそんな気持ちを抱いていた。
ちょっとさみしい気もしていたが、
こういう所は相変わらず変わらない国なんだなぁ。

で、その友好提携書、
当然、ハイ解りました、となるわけはない。
メンバー全員で会議を開き、話し合った。
福農からの説明は明快で、
タ農との交流事業は卒業生の寄付で行っており、
県や国から財源的な支援があるわけではないので、
レ農をさらに受け入れていく予算的余裕がない、
と当然の回答だった。
レ農ももっと事前根回ししたらよかったのに、
と思っていたら、
その場に居合わせた農水省と西ジャワの部長とが
「予算が無いのなら、こちらから予算を出せば可能ですか?」と
切り込んできた。
それに対して福農は異論は特になく、
レ農の学生が福井に滞在する費用を
インドネシア側で持ってくれるのなら
受け入れは可能で、
もちろん人員的な問題やスケジュール等
些細な障害はまだまだあるにせよ、
インドネシア側の県と国が予算化に向けて
努力することで、会議は終了した。
ここを起点にして、
タ農とレ農の西ジャワ州が教育強化校に
指定している2校と福農の新しい交流を
模索して行こうとなった。
さすがにこのスピード感には驚いた。
やっぱりインドネシアは大国なんだ。
いろんなことを目の前で決めてしまえる裁量もあるし
それだけの予算もあるってことなんだろう。
あっでも、僕はそういうのちょっと嫌いなので、
できれば事前に根回ししてほしかったなぁ。

日本の教育は国際化といえば
英語教育ばかりに目を向けていて、
その弊害で、外国と言えば英語圏(先進国の)ばかりな
雰囲気が最近特に感じるようになってきている。
その偏見に少しでもくさびを打ち込むような
タ農レ農と福農の交流事業が
これから成り立つように
とても微力だが、僕も協力していこう。

さぁ、だんだん面白くなってきましたよ~♪





不思議な縁もあるものだ。
昨日から、
インドネシア・タンジュンサリ農業高校の一団が
福井農林高校にやってきていて、
その通訳のお手伝いをしている。

インドネシア大統領就任式直後の来日予定を
何も考えずにこちらが組んでしまったので、
ぎりぎりまでインドネシア側の日程が決まらず
とても焦った訪問だった。
ちなみにふたを開けてみたら、
予定していた人が来られなかったり(農水省の高官)、
1日だけの滞在になってしまったり(西ジャワ州の役人)
予定として知らされていた帰国の飛行機の時間が
まるで違っていたり。
まぁ、こういうことには特に驚いたり焦ったりはしない。

さて、不思議な縁というのは
今回の一団にくっついてきた農水省のお役人さんのことだ。
インドネシアの農水省でMagang(研修・技能実習)などの
農家の研修や教育を取りまとめる部署の
部長さんだったのだが、
雑談の中で、
僕が以前、南スラウェシのバルー県で
協力隊隊員として赴任していた話をすると、
「あああ、バルー県ならアクサンという人がいただろう」と
その彼が言うのである。
アクサン!アクサン!アクサン!
こんなタイミングで、こんな場所で、
またこの名前を聞こうとは!

僕の当時の仲間なら、
この名前を知らない人はいない。
僕らのプロジェクトに関わっていた農家の一人で
地域リーダー(当時は微妙)の一人だった。
彼の集落で活動するときには
必ずアクサンをキーマンにして
活動していた。
彼は、福井の畜産農家に1年間、
研修生として働いた経験がある(技能実習制度ではない)。
その時は牛小屋の2階に作られた
粗末な部屋で過ごした、と
ややつらい話もしてくれたが、
それ以上に日本の農家が如何にモティベーション高く
高品質な農産物を生産しているかを学んだと
とても熱く語ってくれたのを覚えている。

協力隊のプロジェクト終了後は
自分の肉牛の肥育事業が軌道に乗り、
また県や国の支援を受けて農家研修の施設を作ったりして、
経営だけでなく社会的な地位も得ていった。
そのアクサンの名前を農水省の部長さんから
聞くことになろうとは思いもしなかった。
部長さん曰く、
「彼を日本に送ったのは私だ」
とのことだった。

Magang(技能実習)は確かに問題も多い。
だが、そこから得られるものはとても大きい。
そう部長さんは話してくれた。
今回は日程がなく、僕の農園に来る予定はないまま
帰国されるのだが、
次回は必ず農園まで来てくれる約束を交わした。
いつか、僕が行いたいと思っている
インドネシアでの技能実習についてのシンポジウムにも
彼のような方に来てもらって
ディスカッションできたら良いな、と思えた日だった。







P1090396.jpg


僕にはちょっとした野望がある。
それは
ここ福井の田舎に居ながらにして
インドネシアの農村開発と福井の地域づくりを
あわせてやってしまえないだろうか、
というちょっと空中戦のアクロバットのような
不器用な僕には少し(かなり?)背伸びを
しなければ出来ないような野望だ。

もともと
国際協力の現場で働きたかったのだが、
いろんな人からあれこれ話を聞いて
自分なりにあれこれ考えて
そんな時に周りの環境の変化と
そのタイミングがあって、
福井に戻ってきた。
その時のインドネシアからのお土産が
タンジュンサリ農業高校の卒業生を
農業技能実習生として受け入れる
という計画だった。
そして2008年第1期生が来日した。

あれから山あり谷ありだったが
2012年にボリビアの協力隊OBの佐藤が
農園の門を叩いたことで
僕の中で温めていたある計画が動き出した。
それは、福井の人たちを連れて、
技能実習生の地元を訪れる
農村スタディツアーを行おうっていうもの。

この計画はもともと2002年くらいに
当時の若手農業者クラブに持ちかけて以来
ずーっと僕の中で燻っていた。
ちなみにこの時は、メンバーのあまりにひどい反応に
挫かれてしまって、
せっかく資金を援助してくれる団体があったのに、
立ち消えてしまったのは余談。

あれから干支が一回りして
またこの計画が動き出した。
というか、あの時とは全く違った
いろんな人の想いが詰まった
とても素敵な計画に生まれ変わって。
「インドネシア農村スタディツアー2015」
の詳細は、リンク先に譲ろう。

そしてその計画をJICAが
後押ししてくれることになった(わーいヽ(^o^)丿)。
できるだけいろんな人に
農園に来ていた元技能実習生の生活を
のぞいてほしいと思っている。
その現場で思ったこと・感じたことを
帰ってきてそれぞれの場で実践してもらえたら
きっとここはもっといい場所になる。
と僕は信じている。
なので、みなさん、
興味のある方はぜひぜひご連絡くださいませ。





うちの農園で農業研修を受けた卒業生たちを訪ね歩く
営農調査2014はヘンドラの村を最後に終了したが、
そのあと、協力関係にあるタンジュンサリ農業高校に
表敬訪問したので、それもあとがきのように記録しておこう。

毎度のようにタンジュンサリ農業高校での
おもてなしは度が過ぎていて、
校長先生から教頭、教務主任の先生やら
えらいお役職のある方が次から次へと
校長室にやってきて挨拶を交わした。

この懇談の中で、研修卒業生たちの営農や
スメダン県ひいては西ジャワ州の農業についても
忌憚ない意見を交わすことができた。
流通網の未整備とオープンな卸売市場がないのは
小さな農家を食い物にしやすい社会の仕組みを
助長しているようにも見える。
新たな販路を、と先生たちは言うが、
そんな言葉は「マーケティング」といった
曖昧で中身が見えない呪文のようにしか、
僕の耳には届かなかった。
なぜなら僕はこの3日間で
農家がどのように生計を立て、
どのような戦略で立ち向かっているかをつぶさに
見てきたからだ。
僕もどこかで「マーケティング」という呪文を
信じていたし、もう少し具体的に輸送力の強化が
大切だとも思っていた。
でも、それは現場では絵空事に近かった。
僕も高校も、もっともっと現場で考えないといけない。

そんなやり取りの中で、
ちょっと想像していなかった提案を
農業高校側から受けた。
それは、耕志の会の事務所を学校内に設けないか?
という提案だった。
いつか、僕らがやっているこうした取り組みを
インドネシアで実際に還元していく活動を
行えたら素敵だな、と思っていたが、
日々の農作業と日常生活の忙しさで、
僕はその考えを実行に移そうとは
まったくもって思ったことはなかった。
だが、今回の視察で
やはり卒業生支援に向けて
何かやるのなら拠点が必要だなぁ、
とややぼんやりと思っていた。
そこへこうした具体的な提案を受け、
正直驚いた。
僕が知っているインドネシアの場合、
こうした申し出は僕らの方からお願いして
こちらのお金で開設するといった場合なのだが、
今回のようにあちらからこちらの活動を評価してくれて、
事務所開設にかかる経費とランニングコストの一部を
学校が負担するような形だなんて
本当に驚きだった。

卒業生のそれぞれの活動を
一つの組織としてまとめあげることに
実はそれほど僕は意味を感じていないが、
僕らのやっている活動を
広報しつつ、日本で行っているような研修の一部を
この事務所を通してこちらでやっても
面白いかもしれない。
拠点があれば、今までできなかった活動も
生まれてくるかもしれない。

ただ僕はこの事務所開設には
僕なりに金銭的には責任を持つつもりだが、
活動そのものは卒業生たちに任せたいと思う。
どういう拠点にしていくかは彼らが決めればいい。
その中で僕が手伝えることを、僕はやろうと思う。

こうして、
今年からタンジュンサリ農業高校内に
僕たちの事務所を開設することになった。

そしてもう一つ農業高校から提案があった。
それは、僕の授業をここで行ってほしいというものだった。
次に来たときは、必ず農業の授業をしてほしい、と
校長先生から強くお願いされた。
これもいつかはやりたいと思っていただけに、
嬉しい提案だった。

こうして予想もしない提案をたくさん受けて、
浮かれてしまった僕は、
ふわふわした気分で農業高校を後にした。
そして、そんな浮かれ気分の僕は、
農業高校に日本で使っている携帯電話を置き忘れてしまい、
飛行機のチェックイン直前に
農業高校の運転手が滑り込みセーフで
バンドゥンの空港まで届けてくれたのは余談。

こうして今回の調査旅行は終わった。
さて、どこから記録に落とそうか。
もっと早くに記録しようと思ったのだが、
とても幸せな記憶を何度も反芻しているうちに、
今日まで延び延びになってしまっていた。

1月最後の週に、
インドネシアの研修卒業生をそれぞれの村まで
訪ねて歩いた。
旅程は、2期生のイルファン(2012年4月帰国)を皮切りに、
3期生のタタン(2013年4月帰国)、
そして1期生のヘンドラ(2011年4月帰国)と
それぞれの家をホームステイしていった。
最終日にタンジュンサリ農業高校を表敬訪問し、
今後の展望について意見交換した。
さて、
前回(2013年新年)と違うのは、今回は僕一人で旅したこと、
そして、
村に泊まって一人ひとり時間をかけてインタビューをしたことだ。
もちろん、数泊しただけで何がわかるのか?
と自分でも思わないこともないが、
でも他に仕事をしている中で、
今回は最大限時間を割いて、そのほとんどを
村での調査に充てることができたという意味では、
ここ数年そういうことができていなかったので、
自分としてはそれなりに満足している。

さて、そろそろ本題に入ろうかと思うのだが、
その前に2点だけ整理をしよう。
まずはブログのカテゴリについて。
卒業生それぞれのインタビューは、
ブログのカテゴリ上、それぞれのカテゴリに属して
まとめていく予定だが、
旅は旅でまとめておきたい。
なんどかに分けてアップを予定しているが、
すべてをアップできたら、
このエントリーの末尾にそれらのリンクを張る予定だ。

もう1点は、彼らの営農を取り巻く外部要因として
それぞれの地域に影響する開発プロジェクトの存在を
ここに示しておきたい。
政策や市場等もあるのだろうが、
今回大きなインパクトとして
彼らからまず発せられたのは、
高速道路建設、
州道拡張工事、
東南アジア最大のダム建設、
といった開発プロジェクトだった。
イルファンの住むスメダン県ランチャカロン郡では、
バンドゥンから県都スメダンまでを結ぶ高速道路を建設中で、
そのために地域営農が大きく様変わりしようとしていた。
タタンの住むスメダン県のバンジャルサリ村では、
マジャレンカ県と県境近くで建設中の
東南アジア最大の水力発電所のダムが建設中で、
そこにあった国営の森林公社移転に伴い、
400haの土地を新たにタタンの住む村の付近で
物色中ともあり、また多くのダム周辺の住民が、
村がダム底に沈むこともあり、移転を余儀なくされており、
俄かに土地売買ブームが起きていた。
またタタンの村の近くの州道が両幅7mほど
拡張される計画で、沿道の商店や家などの立ち退きが
現在行われている。
そのため、沿道付近の土地が値上がりしており、
全く関係のない小さな村々の村道の沿道の土地まで
大きく値上がりしている状況だった。
それとは対照的に、
ヘンドラの地域は陸の孤島のような地域であるため、
そういった国家規模のプロジェクトとは無縁で、
そのため彼の営農はのびのびと行われている結果だった。
またこれはそれぞれエントリーでも考察していきたい。

さて、前置きが長くなった。
ではまず、イルファンの家に一緒に訪問しようではないか。




先週水曜日に、
福井農林高校で出前講座を開いた。
今年の12月に、
福井農林高校の学生さんたちが、
友好提携を結んでいる
インドネシアタンジュンサリ農業高校へ
訪問する予定でいる。
それに合わせて、
インドネシア事情の講座の講師を依頼された。

インドネシアの写真をたくさん使って
現地の様子や文化・農業について説明をしたが、
参加する学生さんの意識も知りたくて、
ちょっとだけワークショップ形式で
話をすすめた。

やはり関心が高かったのは、
インドネシアの農業についてだった。
さすがは農業高校。
どんな農業なのかを知りたい、
日本との違いは何かを知りたい、といった
意見が多かった。

そしてそれ以上に多かったのが、
あちらの友達を作りたい、という意識だった。
ちょっと意外だった。
今の学生はそうなのか、
それとも僕がそういう意識が無かっただけなのか、
まぁ、いずれにせよ、交流事業なので、
あちらの学生と友達になりたいと強く思ってくれるのは
とても嬉しい。

ただ、やはり言葉の壁はある。
簡単な自己紹介などを覚えていく予定ではあるが、
言葉を介してのコミュニケーションは難しい。
でも、それもいつも杞憂なのだ。
純粋な子たちは、なんだか言葉が分からなくても
お互いに気が合う同士をかぎ分け、
そしていつしか仲良くじゃれ合っていたりもする。

こちらが出来るとしたら、
友達になれるようなイベントを
出来るだけ作って行くことだろうか。
さて、どんなイベントがいいのかな。
これから向こうの学校とも相談していこうっと。



先週から今週まで、変則的な日程で通訳をする。
インドネシアのタンジュンサリ農業高校の一団が、
福井農林高校を訪問するに合わせて、
僕が通訳を務めた。
僕にとっても、大切な地元での活動の一つ。
僕に地元で活動するきっかけをくれた、
いわば原点と言って良い活動。

今回は、タンジュンサリ農業高校の一団は、
1週間だけ福農に滞在した。
これまでは、引率の先生は数日だったが、
学生は3か月滞在していた。
その変更の話はまた、別の機会に記録しよう。
とにもかくにも
今回は1週間だった。

さて、2009年から隔年でお互いを訪問し合っているのだが、
今回はその成果がとても見て取れた。
前年(2011年)にインドネシアに訪問した
学生が主体となった寮の歓迎式。
太鼓などの芸能に触れる時間もあり、
数年前とは全く違う交流のように見えた。
タンジュンサリの一団もただ福農側の
日程についていくだけでなく、
いろいろな共同作業できそうなツールを
いくつも用意していた。

言葉の面では、常に僕が通訳でいたわけではないので、
いろいろと苦労があったようだ。
余談だが、先生たちの泊まった宿泊所の
お湯の出し方が解らず、
2日間は冷水でシャワーを浴びていたらしい。
3日目はあまりに寒くて、シャワーを断念。
いろんな操作を試みたところ、
4日目で温水の出し方が分かったのだとか。

そんな苦労をお互いしながらも、
言葉を超えた交流があったように思う。
特に若い学生たちには。

前回まではまったく見られなかったのだが、
今回は、一団が来校した時に
有志の生徒たちが沢山出てきて出迎えてくれた。
出発の時も、寸時も惜しむように
学生たちが通じないながらも会話をしていたのが
ほほえましかった。
特に前回タンジュンサリ農業高校を訪れた
芸能部と生徒会の生徒が中心となった
交流の盛り上げは、本当に良かった。
こういう主体性をもった若者が
沢山福井に居たら、これらかの僕らの地域の未来は明るい。

こうした主体性に支えられた交流は、
両校のそれぞれの生徒の心に、
いろんな種を播いたことだろう。
それはもちろん国際協力と言う道への種かもしれないし、
そうじゃないそれぞれの分野で小さく咲かす花かもしれない。

訪問団のあちらの先生が、
「十数年前にも、福農に来たがその時は、日本の食べ物なんて食べられなかった。でも交流が始まってから、よく日本を意識するようになり、インドネシアに居ても日本食をたまに食べてみたり、日本の文化を学ぶようになった。そんなこともあってか、今回は日本で食べた食事はどれも美味しかったです」と
福井を出発する前の懇談で話していた。
それは学生間にもみられる。
10年前の交流では、どこかよそよそしさがあり、
間に入る先生が苦労していた。
太鼓などの芸能も、留学生はやりたいと言っていたのだが、
あまり快く受け入れられていなかった。
学校主導の交流と言う感じが消えず、
それもどこか業務として「こなしている」感の
残る場合もあった。

だが、この10年の交流で
経験が学生間で、そして先生間で、
また学校に確実に蓄積したのだろう。
いつの間にか、よそよそしさは無くなり、
主体性を感じられる交流となっていた。
こういう活動に係らせていただいていることに
感謝しつつ、次の10年はさらなる進化を
出来るように、僕も微力ながら尽力していきたい。
そう思えた、今回の交流事業だった。


Facebookをやっていると
インドネシアの大学院時代の友人からチャットが入る。
しばらくたどたどしくなってしまったインドネシア語で
彼と話していると、
どうも変だ。
なんだか僕がおぼえている彼とは違う人間のようなのだ。

そのことを書くと、
その「彼」は、何年も前から音信不通になっていた、
別の友人であることが分かった。
僕の友人である彼の家に、遊びに来ていて、
そして偶然に僕を見つけ、彼のパソコンを借りて
僕に話しかけてきたらしい。
音信不通になっていた友人(仮にマンクとしよう)は
海外に留学していたという。

え?マンクが??と驚く僕に彼は説明してくれた。
ボゴール農科大学大学院を出て、
マンクはすぐにドイツの大学院で
学ぶ準備をした。
彼は英語がほとんどできないので
英語の学校にも、ボゴール農科大学大学院時代から
通っていたようである。
それでも語学力が足りなかったので
入学はなんとかできても
今年まで卒業できなかったらしい。
5年以上という歳月をかけ、彼はドイツの大学院で
博士号を取得した。

僕が知っているマンクは、年下のやや背伸びしたがりの
負けず嫌いのジャワ人だった。
何冊かインドネシアでは本を出版している、
ちょっとした有名人ではあったが、
論理的展開に無理があり、僕はあまり認めていなかった。
成績もよくなかった。
英語ができず、課題の英語論文をスキャナーで取り込み
それをインドネシア語に訳すソフトにかけ
めちゃくちゃな訳文をそのままペーパーに張り付けて
先生から苦言を呈されることもしばしばだった。

そんな彼が、いつの間にか
5年の時間をかけてドイツで博士号を取るまでになっていた。
まったく、人の成長には驚きだ。

そして、この5年。
彼の並々ならぬ努力の間に
僕は何をしてきたのだろうか。
惰眠をむさぼったつもりはないが、
僕もまだまだ加速がたりない。

僕は、
本当に良い学友(ライバル)に恵まれたようだ。
こうして距離や時間を超えて
僕を今でも刺激してくれるのだから。

インドネシアより帰国。
今回は、それなりに下準備をして調査に臨んだため
今まで以上の話をあちらの農家から聞き取ることができた。

10数年前に一緒に仕事をした農家達は、
それぞれに自分の農の営みを見つけ
それぞれの集落の中で、その存在がひときわ輝いて見えた。

今の僕の営農の問題や考え方で重なることも多く、
多くのことを学ぶことができたと思う。

とりあえず、帰国の報告まで。
今日からインドネシア。
毎年恒例の調査旅行。
しばらく、熱帯の空気の中で
地域の農業の発展と開発について
考えてみようかと思う。

以前書いたブログで、
友人がもう少し詳しく聞き取りをしてくれ
というリクエストがあったので、
情報をさらに聞き取り、ここにアップしよう。
それは、米アリサンについて。

アリサンとは、頼母子講であり、
一般庶民が、気軽に参加できる民間金融の一つ。
多くは、現金で行われているが、
タタン君の地域では、籾米を掛け金として
このアリサン(頼母子講)を行っている。
タタン君の地域では、米の収穫が終わると
アリサンに参加しているメンバーが集まり、
くじ引きをする。
くじ引きで当たった人は、それらメンバーから
それぞれ100kgずつの米をもらうことできる。
メンバー数は、タタン君の参加していたグループでは
12人とのことなので、1回につき
自分の拠出分も含めて、1.2トンの籾米を
得ることになる。
すべてのメンバーが、等しく、くじに当たるまで続け、
一巡したら、また全員が参加してくじ引きをする。

米の収穫は、タタン君の地域では年に2回あるので
アリサンも年に2回行われる。
1回のあたりで得られる分は、自分の拠出分を含めて1.2トンだが
その籾米は、毎年同じ価格ではない。
米相場の変動が激しいので、くじ引きに初めにあたったとしても
金利分得になるという考え方は発生しにくいし
後からあたったから、その分貯蓄になっているという
考え方も、この場合は、あまり妥当ではないかもしれない。
米の場合、作柄も毎年違うので、
豊作の年や不作の年などあって、
(個人的な豊作・不作もあるだろう)
拠出する米がたとえ毎回100kgだとしても
その100kgの持つ意味が、ずいぶんと違う気もする。
ちなみに、アリサンの参加者は
ほとんどが男性。
中には、夫婦や親子で
それぞれがメンバーになっている家もあるのだとか。

当たった時は
みんなから籾米でもらうので、価格がある程度上がるまで
保存しておくのだそうだが、
高温多湿のインドネシアでは、長く籾米を持っていても
あまり良いことはないだろう。
相場を見ながらのアリサンに、
どこか博打に近いものも感じる。
このアリサンで得た籾米は、
すべて現金化され、食用になることはないらしい。
使用目的は、タタン君は農業資材や機械の購入や
土地の購入借金の返済にあてるとも言っていた。
博打な要素が満載な割に、
まっとうな使われ方をしているのも
少し驚いた。

この米アリサン。
バンドンの近郊やヘンドラ君の地域では、無いという。
潤沢な水が得られる地域では、
いつでも個人単位で田圃に水を引けるので(井戸・灌漑など)、
隣の田圃が米を収穫していても、
その隣では田植えをしているようなケースも多くみられる。
ある程度の水利を同じくしている地域で
無ければ、米の収穫期が同時期にならず
米アリサンは、発生し難い。
そこでは社会の関わり方にも違いがあるのだろうか。
(より共同性が強いとか)

以上、友人への報告終わり。

愛しのアレジャン集落
第40話

ラエチュにささぐ

僕には、父と呼んでも差し支えのない人がインドネシアにいる。
それは、アレジャン集落の集落長ラエチュ。
年齢は不詳で、政府が出すIDカードの出生が正しければ
今年で78歳になっているはずだが、
カレンダーの数字なんてあまり意味を持たない
曖昧な環境であるアレジャンでは、その数字は大抵
IDを発行するときに役人か本人かまたは誰かが決めた数字で
正確ではないし、正確である必要もないのである。

何年集落長をしていたのかも
協力隊当時に彼に聞いたのだが、
「Lama」(長い)とぶっきらぼうに言うだけで、
その年数も適当。

体格はいい。
身長は僕よりも大きかった。
出会ったころは、肉付きもよく、山賊か海賊の棟梁のような人だった。
インドネシア政府の教育を受けていない世代で
インドネシア語があまり上手じゃない。
僕は協力隊時代、インドネシア語があまり上手じゃなく
(今もあまり上手くはないが・・・)
その僕とラエチュが事業の相談を
インドネシア語でやっているのを見て
周りの村の若者(インドネシア語教育をしっかりと受けた世代)から
よくからかわれた。
「話は通じているのか」って。

僕はラエチュの家に、3畳ほどの部屋を間借りして住んでいた。
住み心地は最悪で、プライバシーなんてこれっぽっちもなかった。
隙間だらけの壁から、よくのぞかれたし、
部屋おいてあった物は、無断で使用された。
ラエチュは、僕が持ってきた防水の懐中電灯がお気に入りで
夜、田圃の水の見回りに、いつも勝手に持って行っていた。
持っていく度に、僕は苦情を言うのだが、
そんな時に限って、言葉がわからないふりをされた。
そしていつしか、その懐中電灯は返してもらえなくなり
本当にラエチュの物になっていた。

ラエチュの家に住み始める時、
僕はある嘘をついた。
それは年齢。
当時、僕は23歳になったばかりだった。
でも、あまり若いと相手にされないのではないかと思い
任地では、28歳ということにしていた。
今思えば、それはどっちでもあまり変わらないような気もするが
僕なりの幼稚な背伸びだった。
だが、外国人でひげを蓄えていると
28歳と言っても、みんな信じてくれた。
中には、「思ったより若いねぇ」と言われることもあった。
態度がでかかったのも幸いしたのかもしれない。

ラエチュにも、28歳だと伝えると
彼は、大きな声で笑い
「嘘だ!」と言った。
そして、「お前は・・・23歳だ」と
本当の年齢を当てたのは、彼だけだった。
僕は、自分のアイデンティティをその当時から「農民」に求めていたので、
僕は日本の農民だと、言って回っていたのだが、
それもラエチュに見破られてしまった。
ラエチュは、僕の手を見て
「それは農民の手じゃない」と言ったのが今でも記憶に残っている。

本当に変わった人だった。
森の長老がお前を呼んでいる、と突然告げて来たり(第2話
冷蔵庫のアイスキャンディ計画を立てたり(第7話
初めて会ったときは、僕が死んだらどうしたらいいかを
まず聞いてくるような人だった。(第14話
今もあまり変わらないが、当時の僕はまだまだ子供で
僕の活動がアレジャンでうまくいかないことを
よく彼に文句を言っていた。
そんな彼は、いつも冗談なのか、本気なのかわからない理由で
僕をなだめてくれた。(第23話
僕の部屋には電気が無かった。
1年くらいは、みんなが使っていたミロの缶で作った灯油ランプでしのいだ。
2年目に入ったころ、ラエチュが僕の部屋に電気を引いてくれた。(第3話
これ幸いと、いろんな電子機器を持ち込んで
夜中使い始めると、よくブレーカーが落ちた。
でも彼はそれについて、何も文句は言わなかった。

お互いインドネシア語が下手で、
会話がいつもかみ合わない。
そのいら立ちをぶつけた時もあった。
そのほとんどが、現地語(ブギス語)を少しも覚えようとしない僕が
悪いのだが、彼は大学生のボランティアが置いて行った
識字教育の初等教科書を出してきて
夜な夜なテラスで読書をする僕の横で、
彼はインドネシア語の勉強をしていた。
ちっとも上手くはならなかったけど。

僕が帰国してから、
時間が経てば経つほど、彼とインドネシア語で会話するのが
困難になっていった。
僕はインドネシアの大学院に留学をして
語学力を伸ばしていたのだが、
彼は、僕が居なくなるとインドネシア語の必要性が無くなったのか
ほとんどしゃべれない状態になっていた。
最後に訪問した時は、病気のこともあって
ほとんどインドネシア語を話してくれなかった。
当時は、あんなに話が出来ていたのに。

僕の父が、アレジャンまで遊びに来た時があった。
その時、父は、「徹の父です」と自己紹介を
僕のホストファミリーの前ですると、
ラエチュが、「私がインドネシアでは彼の父です」と
僕の父に自己紹介したのが、今でも鮮明に覚えている。

ラエチュは、集落長として、村人から愛されていた。
村に入ってくる事業の分配は、
僕が見ている限り、多くをラエチュが持って行ったようにも思えたが(第24話
村人からはあまり文句を聞かなかった。
アレジャン集落の歴史から言えば
ラエチュの家族は、新参者だった。
でも、それはたぶん彼のパーソナリティが
彼を集落長にしたのかもしれない。

街に近い集落の人からは
「アレジャンの集落長は、インドネシア語を理解しない凶暴な奴」と
言われたこともあった。
その人の世代から言えば、
たぶんそれは、間違いなくラエチュのことを言っているのだろう。
あの体格で、怒る時の姿を見たものならば
たぶん、そう思えるかもしれない。

強くて大きくて、冗談なのか本気なのかわからないことを口走る。
そんなラエチュが、死んだ。
アレジャンの友人に別件で電話をしたときに
今年の9月に亡くなったことを伝えられた。

僕のインドネシアの父は、もうこの世にはいない。
僕はまだ何も恩返しをしていないというのに。
何と言っていいのかわからない後悔と悲しさが
ぐるぐるとまわっている。

こんなことを書いていても意味がないのだが
書かずにはいられない。

お父さん、

ごめんなさい。

お父さん、

ありがとう。


通訳3日目。
といっても、この日は農家組合長として
集落の米の検査に立ち会わないといけない。
福井大学に留学しているインドネシア人の子を
通訳に頼んだのだが、明日から来てくれる予定で、
今日だけはどうしても都合が付かない。
ということで、
米の検査場にインドネシアの一団を連れてきてもらって
農家組合長の職責を果たしつつ
米の検査の風景を通訳することにした。

検査はコシヒカリ。
検査官が、検査用の米を手順そってサンプルをとる作業から
インドネシアの一団には珍しかったようだ。
色や形を目視で確認し、
整粒歩合を見るために1.9ミリの検査用の網で振って、
さらに食味を計測できる機械で検査する。
そんな過程すべてが珍しかったようで、
しきりに写真をとっていた。
食味は、うちの村では概ね80以上だったが
500円アップの85のスコアを出す米はなかったのは残念だった。

検査官が、インドネシアの検査はどうかと尋ねてきたので
インドネシア一団の先生がそれに答えた。
「農家の庭先取引が多いので、共通の検査はほとんどないです。それもモミを見て買います。整粒歩合や色なんかで価格が変わるというよりかは、その農家への信頼度や前作の実績などで値段が変わります。あとは産地と銘柄。そしてその時の相場。これが一番大きいかもしれません。商人は損しない価格で取引をし、精米していろいろな米を上手に混ぜ合わせることで利鞘を稼ぎます」
まぁ、最後の「精米していろいろな米を~」というくだりは
日本でも同じだな。
網下米といって、農家の段で一旦はじかれた米を
米商人が安く買い取って、
小売りの段階では上手に混ぜ直して、
利鞘を稼いでいるんだもの。

日本の食味計では測れない美味しさが
インドネシアの米にはある。
それは「香り」。
食味計は、たんぱく質やアミロース、脂肪酸、水分で測っているのだが
そこには「香り」という概念はない。
インドネシアには、特に香りが高い品種があり
時に高値で取引されていた。
その話を聞いて検査官が
「そう言えば、あっちの米は独特の匂いがしますよねぇ」
とちょっと苦手そうに話していたのが印象的だった。
米の美味さは、普遍的ではなく、
それは文化なんだと改めて認識した。

通訳2日目。
この日は、歓迎式や留学生へのオリエンテーションもあったが
メインは、インドネシアの先生と福農の先生とで
今後の交流事業の在り方をどうするか、の話し合いだった。

現在は、福農側が3年に1回10数名の一団で
1週間から10日までの日程でインドネシアに訪れ、
インドネシア側からは毎年2名の学生が
2ヶ月から3ヶ月福農で短期留学をしている。
友好提携を結んでから、9年。
交換留学が始まって、8年。
良いこともたくさんあったが、
当初は見えなかった問題もまたたくさん見えてきた。
そこで、交流のやり方にすこし変化をつけてみようという事で
今回の話し合いとなった。

今回の焦点は、訪問回数と期間。
福農側は、3年に1回という回数を2年に1回に変更したい。
またインドネシアから受け入れるのも2年に1回に変更したい。
つまり、隔年で交互に行きあう、というのはどうだろうか、
というものだった。
そこにはこんな理由があった。
3年に1回のインドネシア訪問では、
インドネシアに行った学生がすべて卒業してからしか
あちらに訪問できない。
そのためか、その学年間で交流の経験を共有できず
その交流の発展もあまり効果的でないのだ。

インドネシア側からも2年に1回に変更してほしい理由は
予算等の問題もあるのだが、
福農側の希望としては、インドネシア側も2年に1回にしてもらって
その分、2名の学生ではなく、
福農のように10数名の学生が、10日ほど滞在するような形に
してほしいというものだった。
2名の留学生が3ヶ月福農で過ごすのも、もちろん良いのだが
福農の学生にとっては、交流機会があまりなく
初めは学生の意識もインドネシアに少々向いていても
すぐにその存在を忘れてしまう。
400名の学生に2名の留学生のインパクトなんてそんなものなのだろう。
それが10数名で短期間来てくれれば
その間、インドネシアに集中して
いろんなイベントを一緒にやることで、
学生へのインパクトも大きいのではと考えていた。

さて、これらの提案。
インドネシア側(以降:イ側)の回答はどうだったか。
まず、隔年で行き合うことについては、賛同を得た。
単年度予算のなかで実現が難しいかとも思われたが
そのことに関しては、イ側の校長の裁量でどうにでもなるらしい。
イ側も3年に1回しか受け入れられないことよりも
2年に1回になる方が良いらしい。

次にイ側が派遣する人数と期間についてだが、
これには少々難色を示した。
県政府が予算を執行するので、
県政府の意向によるとイ側の校長は答えていたが
2名でも数カ月日本で勉強したという経験を重視したい感じであった。
生徒の交流というよりも、より勉学として有効な方を選びたい。
そんな姿勢を感じた。
人数と期間については、イ側の県政府の意向もあるため
2011年度中に答えをだすことで、両者一致した。

さて、この協議、これで福農側の要望は伝え
それなりに了承を得たのでこれで終わりかと思ったのだが
今度はイ側からの要望が伝えられた。
それは、共同活動を行ってほしいというものだった。
両校が一緒に行うプロジェクトを立ち上げようという提案である。
何かの作物を決めて共同栽培・研究で良いし、
一緒に加工品を開発するでも良い。
とにかく、お互い行き来するだけじゃなく、
この交流から、協働へと発展させたい、
そうイ側は強く思っているようだった。

イ側から提案された具体的な例として
2年に1回の訪問時に、福農の農業の先生が引率してきて
あちらの農業高校で特別講義を行ってほしい、と言うものがあった。
どちらかといえば、今までは
福農の農業の先生はあちらに訪問していない。
様々な諸事情があったのだが、
どうもそうは言っていられない状況になりつつあるようだ。

交流を超えて、協働への提案には、
福農側は少々面食らった感じではあったが
これも一緒にやっていくことで両者一致した。
来年度中に共同活動の案を出し合うこととなった。
とりあえずイ側は
福農が行っている構内の直売所(ふれあいマート)をまねて
構内に販売所を作る予定をしているようで、
そのノウハウや加工品でお互いのプロジェクトが
始まりそうな感触はあった。

2001年1月9日に友好提携を結んで
ほぼ9年の歳月が流れた。
よくここまで続いていると思うと同時に
ゆっくりではあるが、その関係が発展的に動いていることに
感動を覚える。
様々な問題を抱えながらも
それぞれの想いが発展的に向かっていれば
こうした素敵な交流と協働が実現していくのだと
目の前の光景が、僕に教えてくれる。
まったく微力でしかないが、
その手伝いをさせてもらえることが
自分の中でとても誇らしかった。


連休の最終日。
といっても、農作業。
連休後の注文は、いつも多い。
だから、今日もいろんな野菜の注文でてんてこ舞い。
だのに、昼には福井北商工会の関係で
観光化事業の一環として、視察一団を受け入れ、
その30分後には、インドネシアから福井農林高校に
留学生が到着するということで、隣の県にある空港へ出迎えに走った。
まさに分刻みの日程。

さて
長旅の末にたどり着いたインドネシアの一団。
先生3名に
約2カ月の短期留学をする学生が2名。
あちらの校長先生の交代と
こちらの受け入れ担当の先生の交代があり、
さらに、あちらの農業高校が、出発1ヶ月前から
農業省所轄から教育省所轄にかわるということで
学校評価のごたごたもあり、
入念な準備と綿密な連絡が取れないままの来日となっていた。
最終的な連絡もなかったので、
本当にこの飛行機に乗ってくるのだろうかと心配もあったのだが
無事空港で出迎えることができた。
今回はインドネシア大使館の担当者まで代わったので
連絡が錯綜して、出発ぎりぎりまで
いつ来るのかよくわからない状況だったのである。

今日は休みだったのだが、農林高校の寮に学生も集まり
夕食会で一団をもてなした。
例年だと、学生とインドネシア一団とが別々に固まって
食事をしている風景なのだが、
今年は、昨年の12月にインドネシアへスタディーツアーで
訪れた学生が何人も学校に居るので、
とても自然な形で交流していた。
昨年のスタディーツアーに参加していたある女の子は
インドネシアから来た女子学生とさっそく仲良くなって
手をつないではしゃいでいる光景もあった。
その光景を目にしていると
交流事業がただ単に続いていくことよりも
3年間の学生のサイクルに合わせた交流こそが
本当に両者にとって得るものが多いという実感も湧いた。
これまでの交流は、福井農林高校側は
3年に1回のインドネシア訪問だったので
学生の経験としてはとぎれとぎれになってしまい
毎年受け入れているインドネシアの一団との関わりも
どこかよそよそしいものだったのだ。

明日も早朝から夕方まで通訳。
ちなみに夕方から、集落の米検査に向けて
米の出荷があり、その荷受を農家組合長の職責で
行う予定。
明日もタフな分刻みの一日になるだろう。

前回のエントリーで、長文のコメントをもらった。
現場からの生の意見。
それに答えるために、書いていたら、
こちらも長文になった。
どうせなので、そのままエントリーとして載せることにした。

以下、コメントへの僕の答え。



ベジータさん、コメントありがとうございます。

現場からの生の意見だけあって、
とても難しく、僕が上手く答えられるかどうか
解らず、コメントが遅くなってごめんなさい。

当時の自分を思い出すに、
ベジータさんとの状況が違うので一概には言えないと思いますが
僕も、技術移転先は農家であれば十分だと思っていました。
行政との連携に煩わされることなく
農家への指導に力を入れていました。
だから農家の方も、僕個人を普及員として高く評価してくれました。
最近まで僕はそれで良い、と思っていたのですが
同じ頃に、畜産で活動していた女性隊員(同期)の
牛のレボルビングシステムが、
当時からのカウンターパートの頑張りで発展的に持続していることを
目の当たりにして、
僕の姿勢は果たしてそれでよかったのか、と思うようになりました。

技術的には各農家に沈殿している部分があるのでしょうし
みんながみんな、野菜を作って経営を成り立たせる必要はないと思います。
それぞれの経営体の中で、畜産や他の換金作物を生産することもあるでしょう。
ましてや、それが活動を終えてから10年という歳月が経ってしまえば
その間の様々な経験や状況の変化によって
当時の面影はなくなってしまうことも多いにあります。
僕は、今回のエントリー(愛しのアレジャン集落 第38話第39話)で
問いたかったのは、
野菜はなぜ消えたのか、ではなく、
牛はなぜ消えないのか、だったのです。

僕の活動した地域が
野菜作りの盛んな地域になる必要もないですが
それを推し進めるのも
それを維持して発展していくのも
当時の僕は、農家次第だと思っていましたが、
どうもその考えが甘いというか
そんなこともないというのが、今回のことで見えてきました。

Farmer to Farmerの波及効果はあると思います。
エントリーでもでてきたM氏の養鶏が何よりの証拠です。
それを支えるものが行政でなくても良いのは、
それからも解ります。
ただ、生産を持続させていく中で、
市場の刺激や外部からの刺激が常になければ
それらは持続していかないし、持続させる必要性もないということです。
M氏は野菜ではなく養鶏を選び
行政ではなく、民間資本を選び
そして持続的に市場からの刺激を受けて、
自身の養鶏を大きく発展させています。
牛の活動は、
行政官の頑張りと携帯電話の普及で
市場と行政からの刺激を受けやすい形になることで
持続していると言えるでしょう。
だから、そういう刺激を受ける構造が
出来上がっていれば(それに乗っかる形で)、
もしくは自ら作り上げることができれば
僕らは、個々の農家への技術移転だけで考えれば良いのかもしれません。
自分が普及させようとしているもの
力を入れようとしているものが
その地域のなかで、どういう価値の位置づけになっているか
市場や行政・民間から評価を持続的に受けていけそうかどうか
そこに鍵があるような気がします。

僕が地元で農業をして
売れない・変わった野菜を延々と作っていますが
それらにしても、徐々にですが市場で評価を受けるようになっています。
妻が以前こういうことを聞きました。
「変わった野菜はみんな作るけど、売れなくてやめていく。どうしてあなたのだけ、結果として売れていくの?」と。
答えは簡単です。
売れるまで作り続けるから、です。
変わった野菜を作る、あいつに言えば何でも作ってくれる、
そういう評価が市場内で僕に対してある程度付いてきました。
それが僕の販売戦略の一部にもなっています。
そういう市場の刺激を狙って
僕は僕自身の経営を考えていますが
それは、振り返ってみれば、僕の任地での農家と同じことだと思います。
刺激を受けられる状況にあるかどうか
それが大切なんだということに、いまさらながらですが
気が付いた次第です。

ベジータさんたちが推し進めている有機農業の農家への普及は
隊員が帰国後は、農家はどこから刺激を受けていくのか、
それが見えていれば、その刺激に合わせて活動の形は変わるかもしれませんが
その路線で持続すると思います。
ただ、僕の場合のように
隊員の存在自体が刺激となって活動が続いているのであれば、
それは、結果は僕と同じになるかもしれません。
歳月の中で、周りの状況も変わっていきますから
今の時点では言いきることはできませんが。

隊員は置かれた状況が、G to G(政府と政府)でもあるので
行政の中で、思考が固まりがちですが
いったん離れてしまえば、
僕の場合ですが、どうしてもっとビジネス的に出来なかったのだろうか
と疑問に思うこともありました。
むら全体の平等性なんかにもずいぶんと気をとられていましたし。
身近な市場や人間の関係性(行政や民間)からの刺激を
常に受けられるような真っ当なビジネスとしての社会企業の視点が
もっと必要なのかな、と僕は最近思っています。

ベジータさんの問いに答えられているかどうか
甚だ疑問ですが、これが今、僕が持っている答えです。
タイの民間資本でブイブイいわせているMさんの発言には
僕らのやってきた活動に、いわゆる落とし穴があったことを意味している。
それは、野菜指導の深度が浅かったことではない、と思っている。
手前味噌で、こういうことを書くのもどうかと思うのだが、
Mさんをはじめ、他の農家グループから
僕が帰国する時にこう言われていた。
「うちら農家でお金を出し合って、お前に給料を払ってやるから、タヤはこのままここに留まれ。」
青年海外協力隊として、これ以上の褒め言葉を僕は知らない。
僕がやってきたことは、村人にとって大きな損害を与えたものもあり、
その社会が持つ価値からもかけ離れたものもあったにも関わらず、
僕個人を農家のおっさんたちが雇いたい、と言ってくれたのである。
これはそのまま、僕の活動の評価だったと僕は今でも思っている。
とても誇らしく思っていたし、
とても大事な思い出になっている。

しかし、だ。
実はこの言葉が意味していることは、他にもあった。
それは10年経ってみて、初めて見えてくる社会の変化の中に。

僕らが現場で活動していた90年代の後半は
ある考えが、至極当たり前のように、
また、それでなければ正当性が無いかのように語られていたものがある。
それは「参加型開発」。
これから現場に行こうという人間には、
誰しもロバートチェンバースの本を勧めたし
分野を超えて、みんなとりあえず持っていたような気がする。
(僕も持っていったのだが、積読のままだった)
その本に何が書かれていたかの詳しい説明は割愛するが
要は、村人に目を向けようというものだった気がする。
村の中の強者弱者を知り、
その中で貧困となっている人をできるだけ前に、
そして持っている人(金持ち)を後ろに、しようという考え方だった。
だから僕は、任地の地元行政が普及対象農家として認めようとしない農家にも、
村内の、もしくは農家グループの推薦さえあれば、
どんどん普及の対象者として、研修に連れて行ったり、
農家グループのメンバーに入れて、一緒に活動したりした。
それは、
読み書きのできない人
土地の少ない人
若者などなど
だったりした。
(当然、女性も入るのだが、その当時の僕はそこには踏み込めなかった)

そんな僕の目からは、
任地の地元行政と一部の村内の権力者が結託しているようにも見えた。
だから、僕はできるだけ行政とつながっていない人と
活動を共にするようになっていった。
そうして、僕は表面上は地元の農業事務所からの要請で
各事業を行ってはいたが
中身は、僕と農業事務所との連携・連絡はほとんどなく、
どちらもお互いにサイトを持ち、不可侵な関係を作り上げていった。
そうした考えと活動の結果が、
上記の農家からの言葉
「タヤを雇いたい」
につながるのである。

協力隊は、技術移転がその存在の大きな意義になっている。
だから、僕にとっての技術移転先が、当然、地元行政官の中に
カウンターパートとして存在していた。
農業事務所に1人。
そして僕の活動につきっきりの人が1人の計2人。
そのうち農業事務所のカウンターパートとはほとんど行動を共にしなかった。
雨が降れば、村の巡回を嫌がるし
指導が必要な畑までの道が泥まみれだと行かない。
公務時間内でも、帰りが遅くなりそうな場合は、
一緒に村には行ってもらえない。
そんなことが続いたため、僕は農業事務所のカウンターパートを
完全に見限っていた。
これだけだとフェアじゃないので、
もう1点、理由がある。
それは僕がインドネシア語で上手に意思疎通ができなかったこと。
だから、カウンターパートと深く議論することは出来なかったので
表面的な相手の態度だけで相手を判断していたことは否めない。

さて、もう一人のカウンターパートはどうだったのだろうか。
つきっきりで行動を共にしたカウンターパートは、
行政から一時的に雇われている、いわゆるアルバイト的な立場だった。
その不安定な立場から、僕らの活動よりも
自分の給料が少ないことばかりが気になっているような人だった。
自由に村に入ってもらうために貸与したバイクは、
「怖くて乗れないから、妹のだんなが使っている」
と言い、彼は自力では村に入ろうとはしなかった。
また汚れる仕事を嫌い、
「僕はデスクワークの方が向いています」
などと言っていた。
そういうこともあり、僕はだんだんと1人で村を巡回するようになっていった。
僕のカウンターパートは篤農家だけ、という意識が
任期途中からはあった。
技術移転先は、直接、農家であればいい。そう思っていた。
たぶん、その頃に一緒に活動した野菜指導の隊員も
同じような理由で、1人で活動していたように思う。

ロバートチェンバースの斜め読みと
地元行政官との関係から
野菜指導は、僕ら日本人だけで推し進めていたのである。

では、牛はどうだったか。
牛隊員が畜産事務所と具体的にどう連携していたのかは解らないが、
彼女につけられたアルバイト的カウンターパートは優秀で真面目だった。
彼は頻繁に畜産事務所に赴き、連絡をやり取りしていた。
そんな彼を牛隊員の彼女はずいぶんと頼りにしていたように見えた。
牛のレボルビング活動も一緒に村に入り、指導していたようだし
彼を日本の地元の畜産試験場へカウンターパート研修にも行かせていた。
そういうこともあってか、彼は情熱を表にするタイプの人間ではないのだが
牛のレボルビングシステムについて、熱く語るようにもなっていった。
そして、協力隊員のプロジェクトが終わると同時に
彼は、アルバイト的な立場から
正式な公務員の立場に変わり、
現在まで、牛のレボルビング活動を続けているのである。

牛が残り、
野菜が消えた理由はいくつかあるのだろう。
だが、その1つに、
僕ら隊員のアプローチの仕方に違いがあったことは否めない。
それは個人的な能力の差なのかもしれないが、
その時の状況だったりもする。

今回の任地調査で
公務員になった牛のレボルビング活動をしている彼とも話をする機会があった。
どうして牛が増えたのか?という僕らの問いに
彼は、
「携帯電話の普及が大きいかもしれません」と答えてくれた。
以前は、牛を好条件で貸与するといっても、
「いらない」という村人も多かった。
それは、牛を飼ったことがない、という理由もあったのだが
多くは、どう売ったらいいのか解らない、
また、売るために牛を市場までは連れて行けない、
商人と連絡を取ったことがない、などの理由でもあった。
それが、携帯電話が普及することで
「電話一本で、買い取り商人が村に来てくれるようになりました」
と公務員になったその彼は話してくれた。
また、牛が病気になっても
わざわざ町まで知らせに行かなくても、携帯電話で指導員に連絡できるので
病気の対応も楽になったのだとか。
携帯電話の普及が、牛を飼うこと・売ることのハードルを下げてくれたようでもあった。
僕の親友であるアレジャン集落に住むサカルディンも
「おれも今年は、JICA牛のレボルビングシステムに登録して牛をもらいたい」
と話してくれた。
村の中では、ずいぶんとブームになっている様子だった。

なるほど、携帯電話の存在が
いろんなハードルを下げてくれるのだろう。
いろんなところへのアクセスがそれだけ容易になることで
中間搾取からも逃れられる。
では、同じような理由で、なぜ野菜は普及しない?
育苗所に勤めているある所員が答えてくれた。
「せっかく大きな育苗所があるのに、JICAが活動した地域では、野菜作りが盛んじゃない。注文はあるけど、本数が少ないんだ。自家消費のために野菜を植えてるんじゃないかな。JICAが力を入れてきた農家も、もう野菜は作っていないみたいだし。その代り、他の地区で野菜作りは盛んで、そこからの注文でここは大忙しだよ。数千本単位で注文が入るからね。もともとその地区は野菜作りをしていたけど、最近はもっと盛んだね」
と話してくれた。

牛のように、携帯電話が商人や指導員との距離を近づけ、
輸送や買い取り、病害虫の対応などの問題を解決してはくれなかった。
ひとつには、僕ら野菜指導をした隊員が行政との連携を怠ったからかもしれない。
だが、それだけではなく、
もともと牛は、その社会的に価値のある存在であったのだが
野菜は、まったくの新規事業で、社会的な価値・評価は曖昧だった。
そして、僕ら野菜指導をした隊員、その中でも特に僕なのだが、
生産的な指導は出来ても、流通・販売に関してはほとんど素人同然で
当時の僕では、流通経路の確立にまで至らなかったのである。
農業経営の刺激となる市場や販売が曖昧なまま、
僕らは生産に力を入れていった。

そうして僕が帰国するときに
「タヤを雇いたい」と言われて
僕は舞い上がっていた。
だが、その言葉は褒め言葉でも何でもなく、
僕のアプローチの失敗を言い表していただけだったのである。
行政との連携、販売の確立、そして社会的に価値のあるものだと認められること。
そのすべてにおいて、
僕は失敗したのだ、と、はっきりと見えてきた、
そんな調査旅行だった。

今年早々インドネシアに行った。
その時のことを少し書こう。




愛しのアレジャン集落 第38話 牛と野菜



廃れるんじゃなかろうか、と思ったものが、発展しており
これからこれが発展する、と思ったものが、いつの間にか消えていた。
それは牛と野菜。


2006年を最後に、僕はかつての任地に足を運ばなくなっていた。
僕と任地を結んでいた絆が、それだけ弱くなったわけではなく、
僕がかかわっているインドネシアが、かつての任地だけでなくなったこと。
そして、家族が増えたことで、
思ったよりも身動きが取れなくなったこと。
さらに、僕自身が農民として、その深度を深めれば深めるほど
僕はどこへでも自由に行けなくなり、
また行く必要性も、自分の中で前よりも少なくなってきたこと。
そんな理由で、僕は協力隊終了後、毎年のように通っていた任地に
行かなくなっていた。

だが、2010年の正月。
僕は、再びかつての任地「バルー」を訪ねることにした。

僕がかかわっていた協力隊のプロジェクトが終了したのは1999年12月。
それからちょうど丸10年が経った。
10年間の社会変容と僕らの活動は一体どう社会に埋め込まれているのか、
それが知りたくて、僕は妻と娘と3人でバルーへ向かったのである。

10年くらい経っていると、
僕らが協力隊で活動したことは、とっくに消え去っているものだと思っていた。
それは一部では、内面化されて、
すでに任地の村人たちの日々の生活の一部になっているに違いなく、
そしてまたある一部は、完全に自分たちの生活スタイルに合わなくて
放棄されてしまったものもあるだろう。
だから、僕らが力を入れてやってきたことなど
昔話の中で語られるくらいで(それも個人名などは忘れ去っているに違いない)
表面的に見えているものは、ほとんどないと思っていた。
だからこそ、こういった変容をみる調査を
どのようにデータをとれば良いか、行く前から考えていたが
まったく案もないまま、とりあえず任地に行くしかなかった。

しかし、だ。
任地に入る前に、以前カウンターパートとして
一緒に活動をした人から、話を聞く機会があり
その人から
「あの時の活動で配った牛の頭数は増えてますよ」
と聞かされて、愕然とした。

少し説明が必要だろう。
僕が派遣されたころに、一緒に1人の女性隊員が派遣された。
彼女は家畜飼育指導の隊員だった。
前任の隊員から、牛の活動を引き継いでいた。
そして前任からあった計画として、住民に牛を貸与して
子供が産まれたら返してもらい、その牛を他の住民に貸し付けるという
牛のクレジット活動を行っていた。

以前書いたように(牛銀行を参照)、この地域では牛をよく野放しに飼っている。
牛は富の象徴であり、
まさに「歩く金」(ある行政官の言葉)だった。
お金に余剰が出来れば、牛を買い、
そして放牧(野放し?)していた。
いたるところに牛が歩いていた光景を今でも思い出す。

しかし、牛隊員の彼女の活動は平坦な道のりではなかった。
貸し付けた牛がなかなか子供を産まなかったり
病気になったり、と順調には数が増えなかった。
1年に上手くいって1頭しか生まない牛は、
2年間しか活動の期間が無い隊員には、合わない活動のようにも
当時の僕からは思えた。
毎日村に入って牛の状況をチェックして歩いていた彼女だが
「牛が増えない」「牛が生まない」「牛が病気になった」
などなどを1人こぼしていたのを、僕は今でも覚えている。
だから彼女が任期を終えて帰るまでに、
何頭の牛が本当に返却されて、それが次の住人の手に渡るのか
甚だ不安な活動に見えた。
折しも、僕らがいた時代は、インドネシアの大不況。
協力隊のプロジェクトが終了して、僕らが居なくなれば、
どうせ“ただ”でもらったものだから、
みんな一斉に牛を売っぱらってしまうんじゃないか、
そんな雰囲気に満ちていた時代でもあった。

それがなんと10年経ってみて
ちゃんとレボルビングシステムとして機能していたのである。
徐々にではあるが、確実に頭数を増やしながら。

一方、僕ら農業指導隊員の活動はどうだったか。
2006年までの調査でほとんど答えは出ているのだが、
今回も確認までに話を聞いてきた。
僕らが力を入れて、野菜の篤農家にしようとした農家が数名いる。
それぞれの集落でリーダー的存在で
影響力も大きい。
その人が野菜栽培で成功すれば、他の農家へも波及するに違いない。
そう考えていた。
野菜栽培のバックアップとして、大規模な育苗所も建てた。
良い苗が潤沢に行きわたれば、野菜栽培も盛んになると考えてのことだった。
育苗所は、建設から地元行政による施設運営まで
さまざまな問題を抱えてはいたが、
僕が帰国するまでには、予算もつき、ある程度動き始めていた。
これからこの地域(任地)の野菜栽培を支えるために。
今回の調査でも、育苗所は機能していた。
というよりも、さらにレベルアップして、運営面でも技術面でも
大きな前進をしていた(苗の品質に少々難を感じたが)。

だのにである。
僕らが活動した野菜栽培は、今、跡形もなく、
その痕跡を見つけることすら難しい状況になっている。
僕らが力を入れた篤農家も、野菜栽培を止めて久しい状況で
1人は、牛の肥育事業に熱心になっており
1人は、タイの民間資本で養鶏事業をやっており、
1人は、農業はそこそこに、村の行政官になり、
サラリーと海外からの援助事業で生計を立て
そして1人は、僕らが来る前の米と落花生を作る農家に戻っていた。

僕らが見込んだ通り、それらの人物は他の農家への影響力を発揮して
牛の肥育事業や養鶏事業は、周りの農家へ大きなインパクトとして波及していた。
それらの事業は、その地域ではちょっとしたブームを起こしていた。
だのに、野菜栽培は継続されず波及しなかったのである。
あんなに投入したのに。

どうしてなのか?
その答えの一つは、養鶏事業でブイブイと鼻息の荒いMさんから聞くことができた。

「野菜は、もう作ってないよ。全く作ってない。タヤが帰ってから、しばらく作ったけど、県の農業事務所から誰も来てくれないし、フォローアップもなかった。県の会議でも言ったさ。『俺はJICAのPembina sayur(野菜栽培の指導者)だ』って。だけど、県側は誰もこの技術を活用しようとしなかった。野菜のプロジェクトは何にもなかったよ。だから、こっちから見限って、タイ資本の民間事業で養鶏をやることにしたんだ。すごく儲かるしやりがいもある。周りにもどんどん勧めているよ」

との答えだった。
事実、彼の集落の周りでは、以前は全く見られなかった養鶏場が
あちらこちらに散見できた。
本当ならば彼が普及を推し進めていくはずだった野菜作りは、
養鶏場が普及していればしているだけ、
その普及しなかった現状を、より印象的に際立出せていた。

つづく

16日、インドネシアより帰国。
今回は、長くかかわっている高校間交流のお手伝いとして
高校生と引率の先生の一団についていって
あちらの農業高校で、交流活動を仕切ってきた。
実は、僕自身もタンジュンサリ農業高校へ行くのは初めてだった。
農業高校に滞在したのは2日間。
その2日間と西ジャワ州の州知事表敬通訳が、僕の今回のお仕事。

タンジュンサリ農業高校では、
到着直後から歓迎式典があり、
伝統的な舞踊で我ら一団を出迎えてくれた。

式典では、インドネシアらしいなぁ、と思うのだが、
延々と続く挨拶の応酬があり、
僕はそれを延々と日本語に訳していった。
この作業はなかなか困難で、
その中に、文化的に、また文脈的に全く伝わらないジョークなどが入っていると
みんな何に笑っているんだ?日本側が気になっていても
それをいちいち説明している時間もなく、到底伝えきれない。
こういう時、格好良く、言葉短く通訳できるといいなぁ、と思うのだが
僕の語学力では、どうしても野暮ったくなってしまうのが残念だった。

懇親会では、
福井の学生とタンジュンサリの学生と、交互に出し物があった。
どちらも相手側の歌を用意していたので、
自然と、のっけから大合唱団になって、みんなで歌えたのは良かった。
福井の学生が用意していた出し物に
「アルゴリズム体操」などがあり、
実は出発前から僕はこの面白さは伝わらないのでは、と
危惧していた。
しかし、こういうものは、挨拶のジョークと違って
僕の野暮ったい通訳なんて必要なく、
面白さが伝わるまで、笑ってくれるまで、
若さと度胸と体を張って、ただただ、ひたすらやれば、
相手も面白さが解るようで、
結構、盛り上がっていた。
オトナの考える「ブンカテキ」文脈なんて
子供たちの勢いの中では、なんだかかすんだ思考でしかないようだ。
こういった一見伝わらなさそうな出し物の応酬が
最後には、大きなうねりになって
タンジュンサリ側の最後の舞踊に、両校の生徒と先生全員が
飛び入り参加しての踊りへとなっていった。
こうして夜更けまで、延々と皆で踊り続けたのである。

翌日は、ワークショップ。
福井の学生とタンジュンサリの学生でグループを作り
地域の伝統的な市場や
ショッピングモールのスーパーなど
目的地もバラバラで散策をしてもらった。
現地で食材を買い集めて、
グループごとに日本食とインドネシア食の調理実習体験。
ワークショップでは、これまで福農が受け入れてきた
短期留学生経験者が手伝いに駆けつけてくれ
それぞれのグループに入って、簡単な通訳代わりしてもらった。
前夜の交流会があったためか、
言葉を超えての交流があったように思う。

これまで福井側では、現在の2名の短期留学生受け入れが適当かどうか
議論されることが多かった。
それらの成果も良くわからないまま、
負担と多額の資金を費やすのはどうかという意見が多かった。
だが、今回、タンジュンサリ農業高校に尋ねていって初めて
前夜の交流会から次の日のワークショップまで
多くの短期留学経験者が駆け付けてくれて、
通訳のみならず、文化的な通訳も果たしてくれていた。
タンジュンサリ農業高校の校長は、
「交流が始まった当初に、日本人の一団を受け入れるのは、実は大変だった。どういうことが喜ばれるのか、どういうことが不愉快なのか、それが全く分からないままの交流だった。でも今では、短期留学生の多くが、日本について話してくれるようになっているので、我々の受け入れも、当初よりもスムーズにできているように思う」
と話してくれたのが印象的だった。

2002年に、僕が通訳として両校の交流に関わり
その時の会合で、短期留学生を受け入れる約束事を決めてから
はや7年。
すでに14名の短期留学生を受け入れた。
そして、今回、短期留学の意味の一端を見ることができ、
再び、次の交流のステップとして短期留学制度をポジティブに見直す話し合いも持てた。
どんな交流の形になっていっても
両校が、文化的に交わることの意味は、やはり大きいと感じる2日間だった。


明日からインドネシア。
早朝に出発。
高校生12名と先生2名と一緒に。
中三日で、あっちの農業高校とのワークショップおよび、
これからの両校の交流の在り方などを話し合うために
通訳兼コーディネーターとして
インドネシアに行く。

とにかく、学生さん達が、ただの観光旅行でなかったという充実感を得られれば
僕がついて言った意味があったと思っている。

明日からインドネシア。
ではまた。

田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

俳句もしております。「雪解」「街」「いつき組」に所属しております。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
taya.tアットマークnifty.com
です。
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