昨日はいろいろとあった日で
朝は集落の江掘り、
昼は農政連で国会議員との意見交換会(ブログ記録済み)
夕方はインドネシアとつないで勉強会だった。
合間に仕事。

で、今回はその勉強会について
記録しようと思うのだが、
発表者はこの前帰ったレンディで
卒論の内容をそのままプレゼンしていたので
特段新たに記録することはない。
ただ、この勉強会の始まる前に
クスワント(4期生)が
「グローバリゼーションと農業の授業がある日を教えてほしい。僕もスカイプで参加したいので」
と申し出があった。
彼は研修中もこの授業がいたく気に入っていて
卒論もそのグローバリゼーションの中で
伸びきっているグローバルサプライチェーンについて
調べ上げたりしていた。
時間を教えてくれれば、自宅でスカイプを繋いででも
参加したいとのことだった。
いいよ、いつでも参加しなよ。
スカイプの通信料は結構高くなるけど
それでも構わないという。
そこまで気に入ってくれると
やっている僕としては
素直にとても嬉しい。

そうだね、授業はもっと
オープンにしても面白いかもね。
インドネシアで見たい人たちに
いや日本にいるインドネシア実習生で
こういうことを勉強したいと思っている
そのニーズに応えられるように
していくのも面白いかもしれないな。

とりあえずは
クスワントに向けて発信してみようか。



23日の福井新聞で
取り上げていただいた。

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このブログでも
農園のスタッフを協力隊として送ることは
これまでも書いてきた通りだ。
農業というその土地に縛られる生業は
その特殊な生産のカタチによって
僕らは生態系を作り上げてきた。
たぶん、これからもそれは
この産業の、そしてこの生業の
主たる生態系として
僕らの考えや生き方や文化や人間関係に
大きく影響を与えることなんだろうと思う。
でも、その一方で
グローバルなつながりは
決して消えることなく
むしろ加速していくのも間違いない。
だからこそ僕らは前衛的に
農業の垣根を少し広げる作業に
着手することにした。
その一つが
スタッフを有給休職の条件で
インドネシアの今、農業研修で関わってもらっている
タンジュンサリ農業高校へ
青年海外協力隊として派遣する。
これでインドネシアの
農業教育と地域開発に
いよいよ農園が主体的にかかわることができる。
それが経営にどれほどの利点があるのか
と問われれば、やや説明し難いが、
その問い自体が近視眼的だと
今は批判したい。

2月の最終日に
機会を得てある雑誌の企画として
師匠と仰ぐ白石さんと対談した。
その時に思ったのは
僕が白石さんから教えてもらったことは
固定化した農業のイメージに切り込んで
次の世代に新しい農業の地平を
見せていく力だと思った。
僕もそうあろうと思う。


まず、純粋にこの旅は楽しかった。
1期生のヘンドラから7期生のレンディまで
カリマンタンに行ってしまったカダルスマン以外の
7名全員がマラン・バトゥの街に揃った。
まるで夢みたい。

農業研修なんてしても
結局、それぞれ農業以外の儲かる仕事に
就くのかもしれない。
そんな想像は常にあった。
農業なんて儲からない、と出来る奴であればあるほど
離れていくのだからしょうがない。
それは彼らがそれだけ優秀だったんだと
まだ始まってもいない未来を
勝手に想像して自分に言い聞かせていたころもあった。
でもなんだかんだあっても
農業研修を受けた連中は
地域のリーダーになるために
一心に営農とその壁にぶつかっていった。
その深度は
彼らの目じりのしわや
ただでさえ黒い肌がより黒くなっていることで
容易に想像できた。

今回の旅は
大学院で同級生だった現在大学教員のアニに
コーディネートを頼んでいた。
彼女には1期生から現在まで
村落ポテンシャル調査を依頼している。
彼女にとっても
研修卒業生たちは自分の弟
もしくは息子のような存在らしい。

彼女の提案した訪問先は
大きく3つに分かれていた。
老舗の観光農園グループ、
野心的なブローカーを中心に集まった若手のリンゴ農家集団、
そしてカリスマ農業者を中心に
大規模化している農家グループ。

これらについてひとつひとつ僕の目線で書いても良いのだが
来週中にも彼らから報告書が上がってくる予定なので
それをもらってから彼らの肩越しに書くことにしようか。

今回の旅では、
卒業生たちは
とにかく質問はそのグループの成り立ち、
どうやって市場を見つけたのか、その出会い方、
グループの運営の仕方、
といったマネジメントの部分に特化していた。
リンゴやキノコといった品目が栽培したいわけじゃない。
だからその栽培技術云々は特に
彼らの関心ごとではなく、
そこに至るプロセスの分析に集中していた。
現状を分析し
歴史を知り
その成り立っている要因と生態を浮き彫りにして
未来を想像し、そしてそうなるように創造する。
これが僕の研修の肝だった。
だから、それが少々いびつで
少々出来が悪い感じもしないでもないが
彼らの質問と視点からその姿勢が
うかがえたことが
とても嬉しかった。
あとは運があれば、きっとうまくいくだろうな。
彼らの報告書が楽しみでならない。

次回に続く


インドネシアの東ジャワに
リンゴで有名なバトゥという町がある。
今回はその町を訪ねた。
農園で研修を終えた卒業生たちが
今、集まって勉強会を開いているが
勉強会でスタディツアーに行こうと盛り上がり、
今回、バトゥへの旅行へと相成った。
ではなぜリンゴなのか?
卒業生の地域でリンゴ栽培に適しているからか?
そういうわけではない。
彼らは栽培技術的な面でリンゴを
捉えようとしているわけではない。
リンゴの生産組合はなぜグループ化に成功し
なぜリンゴは有用な品目として
バトゥの地を有名にせしめたのか、
そういうマネジメントの部分を勉強しようという旅だった。
卒業生たちは
それぞれに自分のビジネスをしている。
地理的には必ずしも近いと言えないこともあり、
それぞれの地域で自分のグループを作ったり
もしくは個人で営農やその周辺のサービスを行っている。
その一方で、個人の営農の限界、
特に輸送やマーケティングでの絶対量の少なさ、
個別対応によるコスト高の壁、
市場への安定供給の実現が個人の能力を超えている事、
情報収集の個人や小グループでの限界、
こういった壁を突き破れないでいた。
僕の農園であれこれと成功事例を分析し
彼らに成功のカギを伝授してきたつもりだが
これらの壁を打ち破っていくには
かなり投資をしていかなくてはならず
その投資のリスクを考えると
スケールアップできず、今日まで至っている。
小農は小農のままなのだろうか。
そんなあきらめも僕の中にはあった。
が、彼らは諦めていない。
耕志の会のインドネシア本部を作り、
月1回の勉強会を行い、
それぞれの課題に向けて少しずつだが
進み始めている。
その挑戦を大きく後押しするための
今回のバトゥへのスタディツアーである。

ちなみに
この旅の企画や実行、
質問の役割分担、またレポート作成は
そのすべての運営は、卒業生たちグループによる。
僕は、ただ「ついていった」に過ぎない。
僕からのアドバイスもほとんどなかったし
質問の中で僕が何かコメントを求められることもなかった。
考えなければいけないことは
もう彼らが分かっている感じだった。
あとありがちな観光地巡りすらもなかった。
全日程、農家や市場や有力者へのインタビューに費やされた。
僕が代表を務める
農協青壮年部の研修旅行の方が
ほとんど観光地めぐりなのに。

次回に続く







記録しないといけないことが
毎日山のようにあるのだが
今年は筆が進まない。
今月は特に
気分もすぐれないし
感情の突起も多いような、そんなような。
これが良く聞く更年期障害ってやつだろうか。
というのは余談。

さて、
まずはJICA基金について書こうか。
インドネシアの農民子弟を
農園で受け入れて農業研修を
技能実習制度を利用して行っているのは
これまで嫌というほど書いてきた。
めでたく、今年10人目のデデがやって来て
卒業生も7名になった。

そんな中、
今年卒業生たちが勉強会を立ち上げた。
僕らがここでやっているような勉強会を
インドネシアの農民たちとやるんだと言って。
僕も通信事情が悪い中、
Skypeなどでその勉強会に参加して
コメントをしてきた。
その勉強会と今後の方向性としての
共同栽培や共同出荷も視野に入れた
農業団体を立ち上げに向けた準備に入ろうとしている。
その活動を何とか予算付けして
盛り上げてあげられないだろうか?
と僕は今年
JICA基金にアプライをしていた。
(JICA基金の詳細はリンク先で)

それがこの10月めでたく採択事業になり、
現在、その書類を作成し、業務提携に向けて
動き出している。
現地でも口座の開設やこれからの方向性を
探るため
僕の友人でジュンベル大学の教員である
アニ女史が中心となって
フォーカスグループディスカッションを行い
それぞれの営農の問題点と
組織活動の意味を確認した。

このJICA基金では
農園と卒業生の現地との双方向性の
情報やり取りの拠点を作ることと
彼らの勉強会を支援すること、
また外部講師を招いて農民へのセミナーの開催や
そして今後生まれてくるであろうと期待する
農民支援組織の結成に向けて
インドネシア国内の
先進地を視察しようという活動だ。

さてさて、どこまで
福井で営農をしながら
こういう活動を支援、また係っていけるかは
かなり不透明で不安もあるが、
資金を取った分、その責任も大きいので
しっかりとやっていかないとな。
なんてプレッシャーがかかる
今日この頃である。
この案件を眺めている。
ちょっと複雑だが、
このページに
これが上がっているその事実に
涙がこみ上げてくれる。

その案件はこちらのホームページに。
http://www.jocv-info.jica.go.jp/jv/index.php?m=Info&yID=JL00616B11

こういう案件をいつかはと思い
この10年を過ごした。
自分だったらこういう活動をと
思って温めてきた10年だった。

青年海外協力隊の時、
当時の調整員と一緒に2つほど
案件の調査をしたことがあった。
あの当時は
その時の自分の能力的に
こういうことなら可能だろう、と思い
案件について隊員として意見を言った。
結果として
それはあまり良い案件にならず
派遣された隊員からは
なぜこんな案件なんですか?と
その後詰め寄られることもあった。
ちょっと苦い思い出。
こうやって案件は作られるんだって
勉強にもなった。

あれから留学もし
ある日本の高校と
インドネシアの高校とを
橋渡しをして15年の月日を費やした。
そのインドネシアの高校から
農業の研修生を受け入れて
関係を深め
相手の地域開発に深くかかわるようになるまでに
僕は10年を費やした。

今回のこれは
僕個人的にだが、
僕の10年だと思っている。
これに行く人間が誰かは
僕にはわからない。
そのことがちょっと複雑。
これに行く人は
それがわかっている人なのか
それがわかっていない人なのか
そのどちらかは僕にはまったくわからないが、
僕は言いたい。
これは僕のこれまでの10年の
涙と汗なんだって。

もう僕の手から離れていくかもしれない
これは、
僕の10年だったって
僕は言いたい。

その10年が
このページにアップされている。
その事実に今は
流れる涙はそのままにしよう。



研修卒業生のクスワントが
耕志の会にクレジットを申請したいと
申し入れがあった。
乾季でも水が使えるようにと
自分の農地に井戸を掘りたいらしい。

耕志の会は、
インドネシアの研修生と
農園のスタッフ有志とで
お金を出し合って運営している。
繰越金も増え、その分を
インドネシアに帰った卒業生を支援するお金として
マイクロファイナンスもしちゃおう、と
用意してきた。
だが、これまでは誰もそのお金を借りたいという
卒業生はいなかった。
というか、そこまでビジネスとして
卒業生が育っていなかった。
ここに来て
ようやくその成長の兆しが
見えてきたってわけ。

一応、マイクロファイナンスの
ルールらしきものは以前に考えたのだけど、
日本人側の基準で考えすぎていた部分もあったので
今回改めて作り直すことに。

まず今農園にいる研修生3名で
その素案を作ってもらった。
インドネシアでお金を借りる時の
彼らにとっての一般的なルールを反映させてもらう形で。
こちら側のルールだと
その内容を正確に想像できなくて
認識のずれが生まれてしまうので。

さて、彼らから出てきたルールは
返却のスピードと支払いの回数などに
少し違いはあったが、僕らの想像を超えるものはなかった。
これをたたき台に
皆で話し合いを開いた。
一番の議論は、
お金が返って来なかったらどうしようか?
ということだった。
ま、原資が減るから、
その心配はもっともだわな。
しかも貸し付ける相手は、遠く南の島の連中だものね。
まず、僕らがお金を回収することは不可能だろう。
幸か不幸か、
今年、インドネシア側にも卒業生の団体が立ち上がり
(Yayasan kuncup harapan tani:耕志の会のインドネシア版)
活動を少しずつだが始めている。
なので、資金回収はあちらの団体が行い
お金の管理はあちらの団体の口座で行えば良いだろうね。
で、会議での意見としては
返してもらえなかった時に担保を現金に換えて
損失に充てるってことだった。

でもさ、お金を貸す相手は、
ここで3年研修を受けた仲間たちなんだよ。
しかも耕志の会の余剰金は彼らの会費からも
出ているわけだしね。
あと、僕らはお金を運用したいわけじゃなくて
お金を貸して彼らの資金を活かしたいんだよね。
取り立てを厳しくすると
貧困に逆戻りになるんじゃないのかなぁ。
そりゃ、条件を厳しくしないと
お金をもらえるものだと勘違いされても困るんだけどね。
でも、もう、僕らはそんな関係じゃないと思う。
僕は、基本的にだけど人は皆、
良い人なんだと思っている。
つまりは性善説の立場。
それがどうしてもご縁で自分の不利益になるような
振る舞いになったりすることもあるのが
人との関係なんだろうってね。
お金を騙しとろうと思っているのだったら、
それを見抜けずに貸した側にも
問題があったんだと思う。
マイクロファイナンスの利用に
ビジネスプランを出してもらって
それを僕たちが精査して
これなら儲けられるでしょう、というものに
お金を貸すのだから、帰って来なかったら
そりゃ、貸した側の目が節穴だった、
ということなんだとも思う。

現地の卒業生たちにも審査に入ってもらって
最終的に日本ともSkypeでつないで話をして
そんで貸せば僕は良いと思う。
こんな笊みたいなお金の貸し方は、
笑われるかもしれないけど、
僕は制度じゃなくて関係性の中で
地域づくりをするというスタンスを
これからも貫きたい。



ちょっと今、いろいろと取り組みを
水面下で行っている。
インドネシア農業研修事業が
このまま研修を永遠と続けるのが
僕の本意ではなく、
もちろんその先には、
もっと違った目的があり
その目的に向かっての行動になる。

とはいっても、
僕一人がそれを夢想していて
それをやりたいから
それをやるというものでもない。
ま、当然と言えば当然だけど
その目的を共有する仲間が居ての話だよね。
この目的を共有する仲間作りが
僕のインドネシア農業研修事業の
そもそもの目的だったともいえるかな。
ここにくるのに10年かかった。
ちょっと長かったなぁ。

今、ちょっとした事業を起こすにあたって
ある団体にあることをアプライしようと
みんなで画策していて
そのプロポーザルが
インドネシアの研修卒業生たちから送られてきた。
中身に対しては
僕は一切の指導は行っていない。
彼らには研修で指導した以外は
後は僕は彼らとは同志であり
指導する立場ではない。

さて本来ならその活動内容は
まだまだ中身を皆さんにお知らせするわけには
いかないのだが、
そのプロポーザルの序文が
僕の胸を強く打ち、
これまでの苦労とかもう全部飛んで行ってしまうような
そんな感動があったので、
序文だけでも日本語訳して
ここに記録しようと思う。
インドネシア語を直訳に近い形で訳してあるので
意味がおかしいところもあるが
それは僕の能力のなさなので
許してほしい。
ただ、インドネシアの農家が
こういう視点に立って
行動を起こそうというそういう姿勢が
僕を強く揺さぶる。
そういう意味を持つ文章。

以下、あるプロポーザルの序文

我々農園たやで研修をした卒業生にも言えることだが、インドネシアでは、農業は多くの民衆の生活の場である。そこには、神の恵みからいただいた豊かな自然が存在している。しかし、我々はその恵みを最適に扱うことがまだ出来ていない。そして同時に、先端技術の活用も出来ていない。それは、それを実践するために必要な知識やファシリティが足りないからでもある。

進んだ技術というのは、学校や講座で使われるのみで、実践レベルではまだ活用が進んでいない。それは農家に対してのインフォメーションや関心を引くような学習会が足りないということと、今の若い世代が農業でビジネスをしようという関心を持ち合わせていないことから生まれている。

今の農家は皆、高齢者である。本来であれば、グローバルな状況と近代的な農業への転換に向け、若返りは必至だ。我々は日本への研修という機会を得て、技術的に、農業インフラ的に、市場システム的に、自分たちの農業がどれほど取り残されてしまったものなのかを十分思い知らされた。だからこそ、農業の発展のために情熱を持った若い農家がこれから必要だということを知った。

民衆のライフスタイルはすでに向上し、求める野菜も多種類になり質的にも高い物を求めている。しかし、我々の農業の状況はいまだに世襲の惰性で行われており、こうした要求に応えられていない。それどころか、アセアンの域内自由貿易により地元の農家は他国から入ってくる農産物との競争にさらされていて、厳しい状況に置かれている。

ビジネスの決定的要因である市場は、長く伸びきったサプライチェーンによって農家の利益に味方していない。農家の販売価格と最終消費者の購入価格の価格差は広がる一方で、これは古典的な農業問題であるからなのか、農家もこの状況にすでに慣れてしまっている。このサプライチェーンをもしショートカットできれば、農家にとっても最終消費者にとっても大きな良いインパクトになるだろう。

サプライチェーン以外の問題としては、IZONシステムが挙げられる。これは、農家が栽培原資を持ち合わせていないことから、野菜の集荷商人からお金を借りて栽培し、その収穫物をその商人に売り渡す義務があるというシステムである。このシステムは農家にとってフェアではない。なぜなら買い取り価格はその商人が一方的に決めることができ、常に低価格だからである。交渉をするという選択肢が農家にはないのだ。

我々の願いは、こうした古典的な農業問題を解決する団体を組織することにある。我々の活動によって農家たちの精神と姿勢に変化を生み出し、グローバルな問題に対する認識を広め、新しい技術を学び取り、農業問題を一緒に解決するために行動し、そして持続可能な環境に適応した新しい農業を実現させたい。

我々の夢は、農業ビジネス支援事業である。正しい市場の情報を農家に伝え、新しい資材と農機具を提供し、農業の技術的訓練が出来る場所と機会を提供する。そして生産物のマーケティングも行う。そんな事業である。

この夢を実現させるために、我々農園たやで研修を受けた卒業生たちは、いくつかの活動(定例勉強会と先進地視察)を行っていきたい。定例勉強会は、公開で行い、農業の科学的知識を身につけていく。研修卒業生を中心に、農業高校や大学の学生、先生、また農家などが参加する予定でいる。

以上 序文終わり



研修の卒業生たちの勉強会に
Skypeで参加。
今回は、Wifiのつながりが悪く
画面は緑で、途中から映像はなかった。

発表者は第3期生のタタン。
帰国後、果樹の苗販売をしながら
大学の森林科に通う彼。
発表は、森林保護と農業。
インドネシアのような
広大で多様な島嶼国を
そのテーマで話すのは不可能なので、
今回の発表はあくまでスメダン県の付近の話だと
思ってほしい。

バンドゥンに隣接するスメダン県の
開発は近年顕著である。
高速道路の建設が行われ
東南アジア最大のダム建設だったり
その隣の県も大きな国際空港が予定されていたり、
と何かとにぎやか。
高速道路と並行して
幹線道路の拡張工事も行われていて
もう建設業界はウハウハだ。
バンドゥンから近いこともあって
有名大学が集中するジャティナゴール付近は
もう渋滞やら家の建設ラッシュやら
大型モールの出店やらで
てんてこ舞いさ。
こんな勢いは、今の日本にはないね。
さて、そんな中、
いつもマージナルに置かれるのが農業ってわけ。
農地は宅地に。
余った農業労働人口は都市へ。
農業で食べていこうという人たちは
出来るだけ辺境に追いやられていく。
で、問題になっているのが
国定公園など環境が保護されるべき場所が
違法に耕作されていくという現実だ。
押し出された農民が
新天地を探しての結果なので
構造的には経済開発によるものなのだけど、
そこはあまり考慮されず
ここだけに焦点を当てて議論されることが多い問題でもあるね。
で、タタンのプレゼンは
PHBMという住民と一緒に森を耕作し守っていこうっていう
プログラムだった。
アグロフォレストリーの考えを使って
耕作を禁止するのではなくて
それを耕作しつつ森林を育もうってやつね。
ま、考えはいいよ。それで。

でもね。
僕は最近思うんだよ。
農業が環境保護するのは、
環境に手を加えながら
自分たちの都合の良い形に
自然を少し触るような業種だからけど、
決定的に破壊しない方法をとるのが
生存戦略的には正しいので
その場に地縁を持つ人間であれば
徹底した収奪はしないはず。
環境保護と農業の融合は
だから良いと思うんだけど、
良いと思うんだよ、
でもね、
どっか引っかかるんだよな。
経済成長によって押し出されて
森の際まで人口圧が迫っていって
そこで環境が破壊されているって
そこだけをフォーカスして見ることが。
農業は産業だ。
だからその業種で働いている人の
生活がそれなりにしっかりとしていないと
この産業は斜陽になる。
生きがいとかじゃ、ダメなんだよ。
それも良いけど、それが全体じゃダメだ。

斜面で農業をするって大変だ。
棚田にすれば面積はこなせない。
機械化も難しい。
農産物や資材の運搬も大変。
そんなのをすべて含んでいるのが
森林保護と農業ってことなんだよ。
森林保護は持続できても
それは農業っていう産業の持続じゃない。

経済の発展と人口増加の現状を
その逆の下り坂にしても
結局中山間地に農業の問題を置き去りにしている。
農業は常にマージナルに置かれるってわけだ。
こういう議論の構造自体を
僕は強く批判したい!

という勉強会でした。
ごめんね、みんな。
多分みんなが議論したかったこととは
ずれた意見を提供したかもね。




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こんな日が来るなんて思わなかった。
といえば嘘になるか。
夢想はしていたけど
諦めてもいたし
勝手な期待は自分を傷つけるだけだから
と言い聞かせた時もあった。
でも、こんな日が来るなんてね。

それは農園の研修を卒業した
技能実習生たちが自主的勉強会を開き、
それに僕がSkypeで参加した事。
以前に長々と書いたエントリー、
年末年始のネットワーク作りで
卒業生たちがネットワークを作ろうと
盛り上がっていることは記録した。
そのネットワークの中で、
今回、記念すべき第一回の
勉強会が開かれた。
そこには
今まで僕が教えた
1期生から5期生までが顔をそろえ、
さらに意識ある高校生や大学のスタッフもいた。

今回の勉強会の発表は
1期生だったヘンドラ。
発表の内容はマーケティングについてだった。
マーケティングと書くと
なんだかすごいことをやっているようにも思えるが
彼の農産物を販売してきた経験からの話が中心だった。

ヘンドラは直接市場に持ち込まず
ブローカーへ販売をしている。
価格差は、市場価格と比べて
500ルピアだという。
市場の方が高く売れるのだが
買ってくれる市場内の商店や商人と
知り合いでない場合、販売は難しく、
また入荷量が多い場合は
その野菜を販売することすら難しいという。
その煩わしさが無いのが
ブローカーへの販売ということだ。
値段は500ルピア安いが
販売量に限度もない(上限が全くないことないだろうけど)。
販売に時間も取られないので
生産に集中できる。
この問題は僕らアンビシ勉強会でも
良く議題になるトピックだ。
生産者が必ず頭を悩ますテーマ
ともいえよう。
販売に力を入れようと思っても
大抵、自分か家族くらいでしか農業をやっていないので
その手間が出てこない。
でも単価は高くとりたいのなら
マーケティングしないと、と焦って
方々を営業に回り、イベントやマルシェにも出店する。
だが、販売に力を入れてマルシェを回っても
今度は生産が疎かになったりする。
注文を取っても
それだけ生産できなかったり。
またはその反対だったり。
そんな事ばかりだね。

ただヘンドラの言っていた
500ルピアの差額はちょっと気になる値段。
菜っ葉なら一束1500ルピアくらいが相場なので、
500ルピアも違うと、ちょっとブローカーは
暴利をむさぼっているようにも見えるね。

ディスカッションでは、
大学のスタッフの方から
日本での販売方法なんかをここで実践してほしいと
卒業生に要望があったり、
4期生のクスワントからは
新しい農業ビジネスが必要だという認識が語られたり。
実際にどうするべきかは、
話が進んでも五里霧中だった。
僕もアドバイスを求められたけど、
気の利いたことは言えず、
さっぱりダメおやじの体で座っていた。

ただ聞いていて思ったのが、
「それって農協じゃだめ?」ってこと。
委託販売では、ちょっとやっていけないけど、
買い取りして販売をしてくれる組織で、
自分の取り分を多くとっちゃうような
ブローカーじゃなくて、
農家の利益のために動ける組織って
みんな笑うかもしれないけど
農協なんじゃないかって。
少なくとも農業協同組合の理念には
そう謳われているよ。
今のカタチの農協が
そんな力も機能もないっていう人も多いだろうし
僕もそこに過度な期待はないけど、
でも初期の頃、
そう、まだぜい弱な市場と流通と
小農を代表する組織もなかった
そんな時代の、
もちろん日本じゃ、
そんな歴史も経験もないかもしれないけど、
そういう場合には
協同組合って案外悪くない気もしないでもない。

ただインドネシア語の語学力が
崩壊してしまっている現状と
協同組合の歴史も仕組みも
インドネシアでの法整備も
全く分からない現状では
僕の思いつきを会議の中で伝えることは出来ず、
1回目の会議は終了した。
ただの思いつきで終わるかもしれないけど、
でも、そういう農家に代わって販売する組織は
やっぱり絶対に必要だと
強く感じた。

Skypeを通じて会議に出られるなんてね。
福井の田舎に居ながらにして
彼らとこうしてまた問題点を共有し
一緒に歩めるという贅沢。
勢いのある彼らの勉強会は
感動と感慨深さがあった。
あああ、インドネシアは本当に発展するんだねって。
そしてそれと同時に
僕に能力が無ければそれでもう
お払い箱になってしまうような
そんな怖さもあった。
錆びついた語学力と
時代遅れになりつつある自分の学問。
ここからが僕が本当にやりたかったことなんだから、
僕もここが正念場だ。
僕もまた必死に彼らについていこう。
そう覚悟を決めた勉強会だった。




この夜のミーティングの結果は
すぐにタンジュンサリ農業高校側に伝えられた。
というのも、
以前にも書いたが
こうした活動を作ってほしいというのが
タンジュンサリ農業高校からの要望だったからだ。
ただし、それは2年も前の事だったけど。

ネットワークの中心として
学校の施設の一部を事務所として
借りられないか、というのが
僕たちの要望だった。
そして
その要望はまったく問題なく
受け入れられた。
良かった。

が、それで終わりじゃなかった。
校長先生は、
「ネットワーク作りは分かったし、勉強会やスタディツアーも大事だろう。でも、もっと踏み込んで農業ビジネスの展開が欲しい。君らなら出来るはずだ」
と、ちょっとこれまでとは
違ったトーンの話を始めた。
学校の施設を自由に使って良いから
もっと大きな農業ビジネスを実践してほしい
というのが学校側の要望として
今回新たに突きつけられたのだった。

僕が知っている校長は
とても温厚で、
こちらの要望もできる限り汲んでくれる
そんな方だった。
だがこの日は、少し違っていた。
どこか焦りのある、そんな感じだった。

「私はヘンドラが帰国して来てから、ずっとこの話をしている。学校でも農産物の生産をしているが、それは授業のためであって販売のためじゃない。でも販売もその実践としては言っているが、学校の先生は教育は得意でも作物の管理と販売まではなかなか業務が忙しくて手が回らないのが現状なんだ。だからヘンドラに、圃場の管理と販売のマネージャーになってほしいと何度も懇願したが、ヘンドラは地元にも戻るの一点張り。今回のネットワーク作りは大賛成だが、その活動だけをただ単に続けるのでは、納得はいかない。もう一つ踏み込んで、学校のハウスや畑などの施設も使って、このメンバーでマネージャーを務めて、農産物の販売に大きく踏み出してほしい。卒業生の中で大きな農家として名をはせたものもいるが、その中に君らも入ってほしい」
そんなことを校長は話した。
それも繰り返し繰り返し。
しつこいくらいに。。。
その都度、僕らは答えを濁した。
それぞれがすでに始めている
農業や仕事があるからだ。
校長のいうことも分からないでもないが
それをやるには
今、それぞれがやっている事との
同時進行は無理だった。
場は重くなり、口数も減っていく。
そして校長と先生たちだけが
何度も何度もビジネスをしろ、と
口説き続けていた。
とても不思議な光景だった。
インドネシアは変わった。
目の前で展開されている光景は
僕の知っているインドネシアじゃない。

ここからはただの推測だ。
ここまで焦る校長には
何かのプレッシャーがあるんだろうって
僕らは見ている。
一般普通科高校と職業系高校の比率が
以前は断トツで普通科高校だったのだが
職業系高校がどんどん増えている。
そして校長も話してくれたが
予算も以前とは全く違い、潤沢に使用できるのだとか。
そのためか、ここ数年は
タンジュンサリ農業高校では新しい施設や校舎が
次から次へと建てられていく。
経済成長の恩恵かと思っていたけど
それ以上に職業系高校への予算が
ずいぶんと増えているからだった。
農業分野もずいぶんと見直されているようで
成長分野としての農業という捉えられ方もしていて
統計を見ても
主産業に占める割合も少し戻している。
そして、
西ジャワ州で一番という評判を持っている
タンジュンサリ農業高校。
外国との交流も盛んで
国家事業を通じて
オーストラリア・タイにも生徒を派遣している。
さらに独自路線で
福井農林高校との交流、
農園たやへの農業研修派遣、と
他の農業高校から見たら異次元の活躍だ。
だからここ数年、
インドネシア農水省や教育省から
福井の田舎まで視察に来ていたってわけか。
これらは学校の高評価につながる。
僕もそれを意識してやって来たし、
交流事業でもその場を作ってきた。
たぶんそれが功を奏してきたんだろう。
だからその次の成果を求められているのかもしれない。
そんだけやっているんだから
そこを卒業した研修卒業生の成果は?ってことか。
先生は、
「もうすぐ我々は定年だ。ここ数年で成果を見せてほしい」と
最後にその本音も見られた。

その反面、
卒業生たちの反応は悪かった。
後でみんなと話をしたのだが、
やはり学校と一緒にビジネスは難しいという。
校長が仕切る可能性も高いし、
小間使いにされるんじゃないか、という懸念もある。
あと教育機関の考え方じゃ
ビジネスにならん、というのもメンバーの意見だった。
さもありなん、だね。

ヘンドラが
「地域を盛り上げるために僕らは勉強した。だから地元に戻って、そこを盛り上げる。それが僕の役目だ。今さら学校には戻れない」
と言い切った。
それは
僕が彼に何度もたたき込んだ思想だった。
ボゴール農科大の留学を終え
当初の野望だった、
世界で勝負することから、
僕はあえて地域づくりとして地元を選んだ。
僕は地元に戻るときに
自分の想いを強い思想に変えて
その塊として戻った。
その一番熱い時に来たのが
一期生のヘンドラだった。
だからヘンドラを見ると
あの時の自分に会っているような気がする時がある。
この時もそうだった。
僕は、なんだか申し訳なくてしょうがなかった。
ヘンドラがそういえばいうほど
自分が小さくなってしまったような
そんな気がした。

そんな中で
先生と卒業生のやり取りは続いた。
早すぎて理解がついていかないインドネシア語と
思いもしなかった展開と
その場面に呑まれてファシリテートも
気の利いた提案も
棚上げにするような言葉も出てこない、
それどころか
目の前の光景がなんだかスクリーンに映し出されている
別世界のような感覚と
旅の疲れから来る睡魔に襲われ、
僕は置物のようにそこに座っているだけだった。
こんな僕に
一体何が出来るのだろうか?

そろそろが潮時かな。
僕のできることや
僕が居ても良い場所も
もうそれほどなく、
僕の価値もここではあまりなくなっているんだ。
なぜだか
それがさみしいのではなく、
反対に
それがとても心地よかった。

おしまい




その夜は、本当に至福だった。
クスワントのプレゼンも良かったし、
他のメンバーの自分たちの予算で
やるんだという決意も良かった。
もう僕に手伝うことはないのかもしれない。
それはそれでいいのだろう。
でも少しさみしいね。
人間って贅沢だな。

と、しみじみしていたのだが、
クスワントが最後のプレゼンページに入ると
状況が変わった。
彼は今回のネットワークづくりにおいて
最終目的をただ単に懇親的な意味や
閉塞感のある村社会の中での
情報交換会といった意味だけではなかった。
彼は、このネットワークで目指すものとして
最後のプレゼンページで
「Inkubasi Agribisnis」
と名付けていた。
直訳だと農業ビジネスの培養とでもなるのだろうか。
そこで彼が提唱したのは
肥料や種・農薬などの資材の購入先と
農産物の販売先、
そして普及員などによる情報入手先を
一元化したビジネスの展開だった。
ま、ぱっとみたら農協だね、これは。
とにかくそういうビジネスを探っていく
勉強会とスタディツアーにしたいというのが
クスワントの目的でもあった。

これは卒業生たちの間でも
温度差があった。
一期生のヘンドラは明確にこれに反対をした。

僕の行っている研修でも
販売はとても大事な考察対象で
如何にして付加価値を付けていける販売にするのか、
また既存の流通のどこを中ぬけすればいいのか
などを話し合っているのだが、
帰国してもう5年も実践しているヘンドラには
それらの理論(僕の理論)が
少なくともスメダン近辺の小農には
あまり当てはまらないという実感があった。
市場への直接販売においては
無数の小売りが点在し、
それらへのマーケティングで消耗する。
しかもそれらの小売りも
ある程度大きいブローカーとつながっているので
そこに割って入る難しさも感じていた。
大きな企業との契約栽培は
価格は安定するが条件が厳しく
生産できなかった時のペナルティーが大きすぎて
小さな農家の集団では
手が出せなかった。
それらの経験からヘンドラが見つけた答えは、
「ある程度良識のあるブローカーに販売をする」
事だった。
小農はリスクは負えない。
販売に力を入れようと思っても
生産と販売のバランスが取れない。
僕が言う
君らが良識のあるブローカーになれ
という言葉も資金が無いので無理だし
小売りとの関係を築くのは一朝一夕にはいかないし
成功する見込みも立たない。
だから彼は
「ビジネスに手を出さず、良識のあるブローカーに販売をするのが一番いい」
という答えを導き出していた。
それまであがいて得た経験の言葉は
とても重かった。

だた彼にしても
現状の販売に満足はしていない。
だから、最終的には
どのような形態を目指すのかは別にして
農業の現状と問題点を洗い出して
新しいビジネスの展望を探す
という目的には賛同を得た。

このInkubasi Agribisnisという言葉には
僕のスイッチも入った。
ただ単に交流を目的としない勉強会ならば
ある程度時間を区切って
それぞれが協同してビジネスを展開できるかどうかを
考えた方が良い。
しかもそれにはすこしロケットエンジンも
必要になる。
現状では卒業生それぞれが
自分たちのビジネスを展開しているだけにすぎず、
それをただ単に統括しても
新しいものになるわけでもないし
グループとしての力を得るわけでもない。
その方向で考えるのならば
その方向でビジネスを志向する必要がある。
面白いじゃないか、クスワント。
君のアイディアに、僕は乗っかるよ。
時間を決めて、僕らはまた再び
一緒に考えていこうじゃないか。

その中でクスワントからの提案として、
僕の授業の一部をスカイプで受けられないか
というのがあった。
グローバリゼーションと農業の授業が
とても面白かったようなので
その流れで僕も彼らの勉強会の中で
授業をしようと思う。
この辺りの議論で
機材や授業に使う教材で
すこし予算が必要という話にもなった。

どこまで彼らのビジネスが
形となるのかはわからないが
僕は僕なりに協力を続けられる場所を見つけて
それはそれで嬉しかった。
もうしばらくは彼らから
一緒に歩んでも良いよって
言ってもらえたような
そんな気分の夜だった。




たぶん都会にいる人は
こういうことには
もう少し悩みが少ないんじゃないだろうか。
アクセスできる資源が多いから
無限とも思える
都会の人的・物的資源の中で
もがくことはあっても
何かしらアクセスはできるだろうからだ。
ナンノハナシ?
それは、
インドネシアから帰国すると
その国で連続していた日常が
完全に遮断されるという感覚。

田舎にいると
インドネシア語にアクセスができない。
ネットはあるので何とか情報は得られるが、
日常的にインドネシアの人と
係ることは皆無になる。
別の田舎の日常が始まり、
それが主となり、
あちらの国にいた生の感覚は
どっかの隅に追いやられ、
いつしかそれは思い出となり
徐々に消え失せて、
フィクションが増え、物語になる。
それはそれで新しい生活が始まるのだから
良いのだけど、
あちらの国の生の感覚、
とくにそれを愛してやまなかった人間には
身を削られるように辛い時もある。

あちらの友達からのメールやSNSの会話も
流行や事件やトレンドが古くなり、
だんだんぎこちなくなる。
賀状の挨拶のごとく
元気ですか?いつか会いましょう!
そんな会話が反復されたころには、
自分の生の感覚は完全に失ったと
思っても良いだろう。

それが嫌で
僕はいろんなことを田舎でもやってきた。
おかげさまで、
僕はようやくその田舎とインドネシアの
パラレルワールドから脱し、
どちらも一つの世界になりつつある。
(が、まだ少し壁があるかな???)
ちなみにこの感覚を持った人が
ある一定の数、農業団体の中にいないと
農産物の輸出なんて出来ないぜ、農水省さん。

さて、そんな感覚は
何も僕らだけのモノじゃない。
インドネシア技能実習生だって同じだった。
日本での日常とあの空気感が
突然に遮断されるのは
僕ら以上に
情報アクセスが難しい彼らの方が
もっとひどかったように思う。

今回のネットワーク作りで
彼らが真っ先に挙げてきた活動は、
まさにそれを乗り越えようという
活動でもあるように見えた。
彼らだけの勉強会の開催と
そこに僕の授業をジョイントさせるというアイディア。
ま、若干ジョイントの件は
僕がしゃしゃり出たということは
ここに明記しようかな。
いいじゃん、その生の感覚の仲間に
僕も入れてくれてもね。

だから今回の話し合いのイニシアティブも
1期生や2期生よりも
3期生と4期生が中心だった。
もっと日本とのつながりを求めているようにも
僕の目には強く映った。

さて、
前置きが長くなったが
次に彼らが挙げた活動について書くか。
それはスタディツアーの実施だった。
1年間の勉強会を通じて
自分たちの課題を深く掘り下げたのち、
それを克服しているような先進地へ
スタディツアーに出かけようというものだった。
すばらしいじゃないか!
もうこの辺りのプレゼンを
ワント(4期生)がしていた時には、
僕はもっといろんな気の利いたアドバイスを
してやろうと思っていたのだけど、
ただただ茫然とそのプレゼンを眺めているだけだった。

そして、ま、
スタディツアーとなると
やはり予算がすこし気になる。
その予算は自分たちで賄うと言っていたが
タタンが概算をしたところ、
結構な金額になりそうだと分かった。
最初は外島(ジャワ島の外の島)も含めて
話をしていたが、
徐々に西ジャワ州のそれも近所の事例を
挙げるようになっていた。
僕も協力隊時代に
「研修は距離的に遠くに行くのが必要なんじゃなくて、その深度を深めることが必要だ」
といって近隣での研修を実行したので
それ自体にはとくに反論はない。
ただ先進地が限られてくるのは
ちょっと残念かな。
そんな話をしていたら、
ヘンドラ(1期生)から
「耕志の会の予算から、少し援助って出来ませんか?20万円でも30万円でも良いんです」
なんてさらりと冗談を言う。
おいおい、その金額は
僕らの福井の団体の1年分の活動費以上だよ!

お金の話になったので
ここらで僕は草の根の話を少しすることにした。
実はこのプレゼンを聞いていたら
僕からお金の話をするのは
まさに彼らをスポイルすることだと
気が付いていたのだけど、
僕はダメな人間で
僕も仲間に入れてほしくなっちゃって
ついついこの話を切り出してしまったのだった。

彼らの反応はあまりにもあっさりしていた。
別に必要ないんだってさ。
ちょっと使い難さもあって、
そこまでがっちりと予算を組んでやるよりも
自分たちで出来ることを
出来るだけでやりたいと言っていた。
そりゃあ、スタディツアーに関しては
少し援助がもらえたらいいが
その程度でしかない。
その援助にしても、
僕と実習生と有志で運営している
耕志の会の会計での話だった。
もちろん、それにしたって
20万円とか30万円という額じゃないけどね。
変わってね、インドネシアは。
昔はこんなんじゃなかった。
必要とも思えない援助をもらうために
自分たちをそれに合わせて
動けない組織を
要らない活動を
いくつもいくつも作っていた。
そんな姿をたくさん見てきたから
その場での
彼らの態度が
まぶしかった。
君らは僕の誇りだ。

つづく


さて話が進まないので
一気に進めようか。
僕らはクスワント(第4期生)の家に
泊まることになっていたが、
そこにカダルスマン(第5期生)以外の
すべての卒業生が集まり
議論することになった。
しかもみんなも泊まり込みで。

そこでちょっと嬉しかったことは、
もちろんみんなが泊まり込みで
議論しようという意気込みもそうだったんだけど、
それと同じくらい、
いやそれ以上だったのは、
クスワントが今回の議論を
パワーポイントにまとめて
プレゼンを含みながら議論を
進めてくれたことだった。
そうそう、こういう訓練を
僕らはいっぱいやったんだから、
これくらいはやってもらいたかったんだよ。

卒業生のネットワーク作りは
みんなの総意でやろうということにはなったが
肝心の活動はどうするのか?
それが課題だった。
卒業生たちから上がってきた
活動は3つだった。
そのうちの2つは
すでにSNSを通じて議論されていたことだった。

まず
彼らが挙げた活動は、
勉強会の開催だった。
僕は勉強会を開くのが好きだ。
自分の知識は限界があるし
人間ひとりで学ぶことは無理だ。
本を読んでも
僕みたいに頭があんまりよくない人間は
すんなり内容が入ってこない。
だから学ぶ意思を持った
仲間と一緒に切磋琢磨してこそ
僕らは知識を肉体の血と肉に変えて
実践で役に立つものにできると思っている。
だからボゴールに留学していた時も
帰国してここで農業を始めた時も
いつも勉強会を開いていた。
それは今も続いている。
(詳しくはカテゴリーのアンビシ勉強会を参照されたし。)

で、その勉強会に
インドネシアの実習生も参加していた。
その時の雰囲気や熱気が
彼らにも感化したのだろう。
インドネシアに帰国して
それぞれの村で営農や日々の仕事に追われると
新しい知識や考えに触れる機会は
少なかった。
日本で僕らがやっているような
勉強会の熱気がとても大切なものに
思えるようになったのだという。
さもありなん。

そこで自分たちも勉強会を開きたいと
今回の活動に挙げることにした。
毎月最終の日曜日の午後に集まり、
メンバーが持ち回りで発表する。
自分たちの営農の現状や課題を発表したり
新しい技術や栽培法を話し合ったり
したいという。
自分たちだけでは
知識の限界もある。
だから年に1回は外部から
ゲストティーチャーを呼んで
講演も企画したいという。
参加者は研修卒業生だけに限らず
農業高校の先生や生徒(3年生に限る)、卒業生も
参加可能とした。

そこでクスワントから一つお願いがあった。
それは
僕が「グローバリゼーションと農業」という授業で
使用しているDVDをインドネシアにも送ってほしい
というのだ。
「田舎に戻って農業をしているとグローバルな動きをとても感じられなくなるんです。日本で徹さんのところで勉強していた時に感じた、ダイナミックなグローバルな視点を今も感じて営農したいんです。」
なんていうんだ。
この時は結構グッと来た。
あとちょっとで泣いてしまいそうなくらい
嬉しかった。
わかったよ、ワント。
DVDは君が帰ってからも新作を買い続けているから
それを送るよ。
で、それだけじゃ日本語だからわからないだろうから
僕はそれを元に教科書をインドネシア語で作るよ。
あと、日本のインドネシアを結んで
その授業をそっちでも受けられるようにするよ。
年間12回の君らの勉強会の1回は
僕が担当しようじゃないか。
という話になった。
授業していた時は、
宿題めんどくさそうだったし
僕の拙いインドネシア語も
理解しにくそうだったし
仕事で疲れているのに何でこんな勉強するんだ?
っていう雰囲気の時もあったし
僕も暖簾に腕押しな時に消耗して、
自分のモティベーションを維持できなくて
辞めてしまおうかなんて思ったこともあった。
でもそんなすべてが
このやり取りで吹き飛んでしまった。
こういうことがあるから
僕はこの活動をやめられない。
今回も事前にずいぶんと消耗し
(とくに腰の問題で・・・あと今の実習生とのやり取りでも)、
もうダメかな~、って思うことも多々あったんだけど
これでまたしばらくは僕の推進力は
保たれることになった。

つづく



2年前に頼まれた
タンジュンサリ農業高校の
ネットワークは、
この時の印象を記憶の限り思い出せば、
それは研修卒業生たちと
交換留学経験者たちのネットワークで、
その中で何か活動できないか、という程度だった。
近況のやり取りだけでは
その会自体が存続する意味はあまりない。
会の事務所は学校の施設を使えばいい、
という破格の申し出だったが
この時は正直、乗り気はしなかった。
そんな会を作ってどうするんだ?というのが
率直な感想だった。

では、なぜ今になって
そんな前にスルーしてしまったアジェンダを
掘り起こすのか?
たしかにOB会の総会で「けしかけられた」というのも
あるけど、
それだけじゃない。
僕もうすうす気が付いていたことがある。
今やっていることの、その先をどうするのかってことを。

外国人技能実習生の本来あるべき姿と
それを真っ当な形で運用することができた場合
スンダの村の事情に詳しいというような
条件が揃えば
日本の福井という田舎に居ても
いや田舎だからこそ
農業という共通のカテゴリで
でもその社会・文化的ストラクチャーの
違いによって目に見える
その形の違いとギャップを包含しつつ、
だけど農業のもつ独特の生産様式から
影響を受ける生活や経営体や考え方を
すべてひっくるめて
一緒に考えることのできる土俵に立って、
何も後ろめたくもなく
農業というキーワードで
ここ福井の村とスンダの村の発展について
正々堂々と係れるんじゃないか?
と考えていた。
で、その野望は
それなりに形になり、
それなりに結果らしいものを
得ることができた。
といっても
まだまだみんなはその小さな結果の中で
躓いているんだけどね。
だから、僕らは、
その次を見たくなった。
その形になりつつある結果を
僕はどう背中を押せるのか?
そんな気分の中での
今回の訪問だった。

それに合わせて夏ごろから
SNSを駆使して、
研修の卒業生たちと
このアジェンダについて共有し
議論を繰り返してきた。
と書いたけど
その卒業生たちとの議論の結果は
僕を満足させることはなかった。
もう一歩踏み込んだ議論をしようとする僕の前に
彼らは必ず決まってこう答えた。
「田谷さんが来たら、僕らは議論を深めます」。
そのぬるい答えは
僕を失望させるのに十分だった。
その失望とそんなことに傷ついてやるものか!
という僕の気持ちの半分半分の中での
今回の訪問だった。

つづく



年末年始はインドネシアにいた。
いろいろと交渉事や調査など
いくつかの用事が重なったので
年末年始にインドネシアに行くことにした。
パスポートをめくってみると、
今回のインドネシア行きは2年ぶりになる。
それももっと違う日程で行きたかったのだが、
一昨年から役が多くなり
そういう日程が組めなくなって
年末年始という絶対に会議が入らないだろうという
日程でインドネシアに行くことに。
決して、カウントダウンを海外で、
といった観光的なお気楽旅ではなかったことを
ここに明記したいね。

さて、いくつかミッションがあったが
このカテゴリではインドネシア実習生と
その後の農村開発について記そう。

前回のエントリーにもあったように
あるお誘いというかそそのかしというか
そういうモノがあって
もうすぐ10年を迎える
農園独自の農業研修事業も
次の展開が必要じゃないか?と
思うようなっていた。
ちょうど2年前に訪問した時に
実習生の人選を行っている
タンジュンサリ農業高校から
実習卒業生と福井農林高校との交換留学に参加した
卒業生を合わせて組織を作り
ネットワークを作ってほしいと
依頼を受けていた。
その答えとして
僕はJICAの「新・草の根パートナー型」事業の
提案を考えていた。
タンジュンサリ高校にネットワークとなる組織の
事務所を開設し
そこを起点にさまざまな活動をデザインしていく。
そんな話し合いに今回は臨んでいた。
ただし、草の根パートナー型事業の活用は
決定ではなく、
ただ単に個人的なアイディアにすぎないことは
ここに明記しておく。

つづく





ちょっと焦っている。
珍しく調整がつかない。
それは福農とタンジュンサリ農業高校の
交流事業。

僕が係ってから今年でもう
13年になるこの事業。
僕も両校もすでに慣れたもので
何がどう必要なのかは
阿吽の呼吸で分かっていた。
つもりだった。

今回、福農学生が
今度の日曜日にインドネシアに向けて発つ。
タンジュンサリ農業高校と交流するのが
主目的なのだが、
その内容がここに来て
うまく調整できていないのだ。
それは
昨日タンジュンサリ農業高校から
送られてきた日程表を見てのことだ。
さすがに我が目を疑った。
何度も電話連絡をして、
メールでも日程を送って、
で、出てきた日程が
こちらの意図と違う箇所が
いくつもあったからだ。
なんで?どうして?

急きょ責任者が集まって
本日国際電話会談の予定。

今回の顛末は
慣れ切っていた僕の見通しが
甘かったからだと思う。
この事業の本当の責任者も
僕はちゃんと確認していなかったし
僕はどこまで動くのかも
確認しなかった。
どこまで僕の責任で調整すればいいのかも
それも確認しなかった。
そして僕は部外者なのに
タンジュンサリ農業高校側から見れば
僕が最古参に見えるから
(学校の先生たちは人事異動があるので)
僕のあいまいな答えが
すべて正式なものになっていく。
僕の手元にすべての情報が集まっているのなら
これまでの交流の流れから
ある程度判断はついたことも
今回は、とにかく僕に情報が無かった。
というか知らされていない情報が
とにかく多かった。
というのは言い訳か。

ま、ウルトラCで
今日まとめるしかないね。
いい加減な仕事の仕方になっているなぁ。
クオリティが低いのは
僕のキャパを越えてしまっているから、と
もっと早くに認めないとな。
なんだかこういうのって
係る人みんなが辛いね。
自戒を込めて記録した。



久しぶりに
週末に福井の青年海外協力隊OB会の
総会に出席した。

顔ぶれもずいぶんとフレッシュになり、
平成一けた台の隊員OBには
ちょっと出席しにくい感じがないでもない。
だが、
日頃いろいろとJICAにはお世話になっているし
1人でも協力隊を輩出したいと最近は強く思うので、
そういう意味でも
OB会が少しでも盛んになるようにと思って
家族で参加した。

これまでは、
日々の仕事の忙しさを言い訳に
OB会の日々の活動には
ほとんど参加してこなかった。
総会で活動報告を聞いていて
そんな自分に少し反省。

さて、
その総会でJICAやJOCAの方々が
来賓として出席されており、
その方々からちょっとした提案をいただいた。
僕が今やっている
インドネシア・タンジュンサリ農業高校との
交流事業や研修事業を
より発展的に行わないのか?という
提案というよりも「そそのかし」と
言ったほうがいいだろうな。

実際、あちらの高校に
僕らが研修を行っている団体「耕志の会」の
事務所を作らないか、と
あちらの高校から提案を受けていて、
というよりも、受けたけどこちらが煮え切らないから
かなり浮遊してしまっている案件だけど、
そういう話がないわけでもない。

これまでは事務所を作っても
その目的も機能もはっきりしなかったし
これ以上自己資金で
農村開発に首を突っ込むほど
お金に余裕がないということもあって
すこし距離を置いていたが、
タンジュンサリ農業高校とは
全く関係もない別の方向から
そそのかされると
僕も少しその気になってしまうから怖い。

やりたいことはある。
たくさんある。
いっそ、自分があっちに出向いて
やってしまいたいことだらけだ。
少なくとも資金があれば、
あれもこれもと思い浮かぶが
そんなお金はなかったし余裕もない。
先日職場内でサマードリームジャンボの話で
盛り上がった時、
「徹さんは7億円当たったら何に使いますか?」
と聞かれて
迷いなく、
「インドネシアのタンジュンサリに事務所開いて、今の団体をNGO登録して、職員を数名配置して農村開発プロジェクトを行いたいね」と答えたところだった。

時間的に全く余裕はないのだが、
自前で行ってきた
インドネシアの農業研修が今年で8年目になり、
そろそろ10年という節目を迎えるにあたって
次のステップに進みたいと
前々から本気で考えてきた。
もしそういうことが可能なタイミングが
来るのであれば、
そういう風が吹いてくるのであれば、
僕もここでもうひと奮起しようか。
ちょっといろいろと検討してみようと思う。







P6200711.jpg

こういうこともやっている。
から時間がないんだって言われるけど
インドネシアのことなら
どんなことでも後回しにして
やりたいのだからしょうがないね。

土曜日に金沢のJICA北陸事務所まで行く。
JICA北陸とJICA四国共同で
今年、学校の先生たちを海外に研修に送り出す事業で
インドネシアに行くことになった。
で、事前の訪問国研修を頼まれた。
僕は教育関係にそれほど詳しいわけではないが、
あっちの大学院で学生もしていたし、
インドネシアの農業高校とも
かなり密にお付き合いしているので
その範囲で、インドネシアの全般+αで
教育や学生事情について話してきた。
アシスタントとして
研修3年生のジャジャンくんも同行。

2時間の研修だったが
面白かったのはジャジャンくんの
普通の高校生の日常ってプレゼン。
朝5時に起きて、学校行って、クラブ活動して、
夜寝るまでの生活のプレゼンは
日本の高校生との違いも多く
面白かったな。

日本とのつながりも大きいインドネシアで
先生たちもこの派遣を通じて
子供たちに何か伝えられるような
グローバルで実践的なネタを
うまく拾ってこられるといいな。



P2140460.jpg

先月行われた
インドネシア農村スタディツアー報告会が
2月14日土曜日に
AOSSAの6階和室「あじさい」にて
開かれた。
参加者は25名。
こぢんまりとしたアットホームな報告会で、
主催は、
僕が代表を務める
Yayasan Kuncup Harapan Tani耕志の会。

発表は2部構成。
第1部では、インドネシア技能実習生の
農業研修概要と
研修生の自己紹介、
そして研修3年生の卒業研究報告をおこなった。
第2部では、インドネシア農村スタディツアーに
参加したメンバーから現地の様子や感想などの
報告があった。

この研修は、
福井農林高校とタンジュンサリ農業高校の
交流事業から派生した。
だから報告会では歴代の校長先生たちにも
ご出席いただいた。

またスタディツアーは
JICA北陸の市民参加プログラムにて
助成をいただいており、
今回の報告会でも職員の方にご出席いただいた。

他、協力隊OB会や農園のスタッフ、友人多数の方々が
報告に耳を傾けてくれた。

インドネシア農村スタディツアーを企画した当初は
これらの方々が参加してくれるようなツアーに
するはずだったのだが、
日程や旅行内容のハードルが高く、
応募は振るわなかった。
スタディツアーの主目的は、
インドネシア技能実習生たちがどういった環境から
やってくるのかを直に見に行こうというものだったので、
どうしてもインフラの整っていない農村部へ
数日泊まり込むというツアーになっていた。
僕らにとっての当然であるライフラインが
整備されていない地域への旅行は、
やはりしりごみしてしまうのだろう。
そこで最終的には村泊を1日だけとして
他の地域の農業も見るということで
バリ行も加え、ツアーを企画し直し、
8名の参加者で行った。

今回の報告会では、
参加はしなかったものの
それでも農園の農業研修にご協力をいただいている方々に、
技能実習生がどんな環境からやってきて
そしてどんな夢を持って
どんな風に現地であがいているのかを
知ってもらうのが目的だった。

だから第1部でも
3年生の卒業研究には帰国後の自分たちの進路についても
触れてもらった。
(そのプレゼンを作成する過程で、僕はダルスとの例の一件が起こったわけだが、それはリンク先のエントリーを参照されたい)。
個人的にはカダルスマンの発表が
心に残ったし、
彼の話がたぶんその地域の
土地なし農民の声に近いように思う。
彼はコシヒカリの栽培を卒業研究としていた。
だが、彼はそれを実現できるだけの土地も
施設も資金もなかった。
いくばくかの土地を買い集め
コシヒカリ栽培に乗り出すことも可能だったかもしれないが、
それで貧困から抜け出せるわけではないことは
彼は良く知っていた。
だからパームオイルのプランテーションで
働く決心をした。
彼のプレゼンの中でそこに至る
思考のプロセスと
今の考え方が明示されていて、
この研修の目的である
「考える農民」の片鱗が
少しだけうかがえたのはとてもうれしかった。

第2部のスタディツアー報告では、
まずツアー参加の大学生が、
5日間の旅行内容を数分にまとめたビデオを上映した。
卒業生やその生活ぶりが分かる映像で、
彼らを知る人間にとっては、
涙腺が緩むような絵ばかりだった。
参加者それぞれの感想も良かった。
このスタディツアーを通じて、
参加者たちは
技能実習生たちのリアリティを体験した。
その生の感覚が、
異文化の実習生たちの態度や考えを理解するのに
とてもプラスになっているのがその感想から感じられた。
そんな視点が
僕にはどこかで普通になってしまっていた
実習生たちの文化を異文化として
再び捉える機会にもなった。
たぶん、僕は、実習生たちの考えや態度に対して
判断や処理をショートカットするクセが
ついてしまっていたのだろうな。

一方で、農園のスタッフとして、
また耕志の会のメンバーとして
インドネシア実習生の座学や研究に関わってきた
佐藤の話には僕も考えさせられた。
僕は、実習生たちのリアリティを
それなりに想像できるし、帰国後も
(『たま~に』ではあるが)気軽にSNSなどを通じて
連絡を取り、現状報告を受けたり
彼らの問題についてディスカッションもしている。
だからまったくと言っていいほど、
僕は佐藤の悩みに気が付かなかった。
それは彼が一所懸命にかかわっているにもかかわらず
彼らが一体どうなっていくのかが分からないという
レスポンスがない中で、
どうやってモティベーションを維持していこうかという
悩みを抱えていたということだ。
言葉では相談を受けていたが、
僕の生の感覚にそれが無かったためか、
さほど問題視していなかった。
だが、彼の感想を聞いて、
その事の重大さと今回のスタディツアーが
その問題を解決するためにとても大きな役割を
持っていたということを
この報告会で気付かされた。
そうだよな。
僕もちょっとしたインドネシア実習生からの
レスポンスに大きく喜んだり
大きく失望したりしてるんだもんな。
そのレスポンスを感じられない立場は、
たぶん、それを感じて失望をするよりも
もっと辛いことだったろう。

最後にとても興味深い質問が出た。
その質問を投げかけてくれたのは、
協力隊OBで県の農業普及員でもある川崎君だ。
研修を受け入れる側として、
研修生たちのどういった変化が成長として大切なのか?という問いだった。
それの答えは、僕の中では明快だ。
人とは違う視点、常識にとらわれない考え方が
できるようになる、ということ。
人や周りの雰囲気でなんとなく考えるのではなく、
自分で判断し、自分で道を切り開ける人間になる、
ということ。

ここに来る子たちは皆、
学校では優等生だった子が多い。
タンジュンサリ農業高校で選考してもらうのだから、
そういう子が選ばれがちだ。
全員がそうだとは言わないが、
優等生というのは、その学校が思い描く枠に
自らをおしこめることができる人間という
場合も多いだろう。
優等生になりきれなかったから
僕は僻んでそういうことを言うわけじゃないよ!

ここに来る子たちは皆、
僕の問いに判で押したように
同じ答えをする。
なぜ?日本に来たかったのか?
『日本の最先端の技術を学びたいからです』と。
その考えは、間違い。
勘違いと思い込みが作り上げた虚像さ。
その枠から自分の思考を自由にする。
それがここでの研修中に行う作業だ。
もちろん、学びたいという技術は
僕ができる限りは教えてもいるけどね。
でも、それを覚えるのが正解はないんだ。

カダルスマンの事件があった時、
彼との話し合いで、彼は申し訳なさそうにこう言った。
『先生が教えてくれることは、言いにくいのですが何一つインドネシアでは通用しないと思います』。
そう、それ正解。
その時僕は彼にこう言った。
僕も知っているよ。
僕はそれが通用しないことも
役に立たないことも知っている。
じゃ、僕らは何をそんなに一所懸命
農業の技術について話し合ってきたのか。
実はその技術とインドネシアの実情を
一緒にすり合わせるプロセスで
君らの思考を鍛えていたんだよ。
だから君は途中で気が付いた。
だから君はパームオイルのプランテーションに投資し
そこで働く道を選んだ。
でもそれはなんとなくそれが儲かるというわけじゃなく
君なりに考えた答えだろ?
だから、それは正解だ。
ちなみに
カダルスマンの一件は、
その思考が、僕のいう正解のレベルに達しようとしていたのに
それを僕に言わずに隠したことが問題だった
(問題というか、僕が萎えたというだけのことだけど)。
それは全体の中ではごく小さいなことさ。

川崎君の問いのおかげで
僕自身もより明確に自分の中にある
答えに行きついたような気がした。
そう、この研修の目的は
自由自在に、そして常識に捉われない、
自分で困難に立ち向かえる、
自分で道を切り開ける、
そんな思考を身につけることなのだ。

いろんな気付きを得られた報告会だったと思う。
こんなダイナミズムを得られる機会は
そうそう無い。
この報告会に参加し
みんなでその場を作り上げてくれた
すべての参加者にお礼を述べたい。
また、この報告会をマネジメントしてくれた
妻・小國和子に心から感謝を述べたい。

本当にありがとうございました。



今月、インドネシアから来ていた
タンジュンサリ農業高校(以下:タ農)一団は
無事帰国の途に就いた。
今回も微力であるが
通訳兼アドバイザーとして
福井農林高校(以下:福農)とタ農の
両校の交流を前に進めることができたと思う(自画自賛)。
これで殺人的に
忙しかった10月も終わる。

さて、今回の交流は
インドネシア側から農水省や西ジャワ州の
部長さんなども同行した。
インドネシアでもこうした高校レベルの友好提携は
とても珍しく
しかも、両校の交流がすでに18年という長期に
渡っていることを評価いただいた。
僕はそのうち12年間を関わらせてもらったのだが、
この出会いは僕にとっても大きなものだった。

僕が関わるようになってから、
18名のタ農の学生が福井を訪れたが、
そのほとんどが公務員や民間企業で
活躍する人材になっているらしい。
そのうちの一人は(イラ)、今、
僕が行っている農業研修事業に
技能実習生として参加していて、
僕の農園で毎日勉強に励んでもいる。
また18名の一人で、
イマンという少年もいた。
長身でメガネが良く似合う少年で、
年の割に落ち着いていて、
微笑みが印象的な少年だった。
福農に留学中は、農園で数日預かったこともあった。
実習生の授業にも混じって勉強したのだが、
なかなか優秀で一所懸命だったのを思い出す。
実はその彼、研修2年生のジャジャンの
同郷の先輩にあたる。
そしてそのイマンが、
ジャジャンがタ農に入るきっかけを作ったらしい。

長くやるといろんなことがいろんな風に、
ランダムに、イレギュラーに、
そしてダイナミックにつながってくる。
そんなダイナミズムがとても心地よい。

そしてそのダイナミズムに
もう一つ変化が生まれる点を打とうと
今、僕らの団体が主体となった
スタディツアーを計画している。
今回同行していた
タ農の先生とも
旅の内容についての打ち合わせも
無事終わった。
きっとこのスタディツアーからも
新しいつながりができてくるだろう。
どんなうねりを生み出すかは、
乞うご期待。



今、福井農林高校(以下:福農)に
インドネシア・タンジュンサリ農業高校(以下:タ農)の
一団が来ている。
それに合わせて、
農水省の部長と西ジャワ州の部長、
そしてレンバン総合職業高校(以下:レ農)の校長も
一緒にやってきていた。

「やってきていた」と書いたのは、
彼ら彼女らはすでに福井を発ってしまったから。
たった一泊だけの滞在だった。
慌ただしい日程でも
わざわざ福井まで来たのは
理由があった。
それはただ単に
福井農林高校を視察しようというものではなかった。
もちろん、それも目的だっただろうけど。

主目的は、
タ農と福農のように、
レ農も福農と交流事業を行いたい
という申し入れだった。
というか、すでに友好提携書を携えて
しかもすでにその書類に
西ジャワの教育長のサイン入りで
持ってきていた。
僕は今回初めてレ農の校長に会ったのだが、
会って1時間も経っていないうちに、
「タヤ、この書類に福農の校長先生のサインをもらえるように頼んでね」
と何かのついでに小物の買い物でも頼むような
そんな気軽さで、レ農の校長から
そのサイン入りの友好提携書を手渡された。
なんだかその時のその雰囲気が、
とても懐かしく思う自分がそこにいた。
僕は珍しく動揺も怒りも焦りも
そんな感情が湧きあがることなく
その手渡された書類を
ノスタルジックに眺めている自分が
可笑しくて仕方なかった。

経済大国になりつつあり(というかすでになっているか)、
驚くような経済成長を続け、
とても民主的な手法で
普通の人が大統領になったりするインドネシア。
もう僕の知らないインドネシアに
なってしまったんだ、と
最近はそんな気持ちを抱いていた。
ちょっとさみしい気もしていたが、
こういう所は相変わらず変わらない国なんだなぁ。

で、その友好提携書、
当然、ハイ解りました、となるわけはない。
メンバー全員で会議を開き、話し合った。
福農からの説明は明快で、
タ農との交流事業は卒業生の寄付で行っており、
県や国から財源的な支援があるわけではないので、
レ農をさらに受け入れていく予算的余裕がない、
と当然の回答だった。
レ農ももっと事前根回ししたらよかったのに、
と思っていたら、
その場に居合わせた農水省と西ジャワの部長とが
「予算が無いのなら、こちらから予算を出せば可能ですか?」と
切り込んできた。
それに対して福農は異論は特になく、
レ農の学生が福井に滞在する費用を
インドネシア側で持ってくれるのなら
受け入れは可能で、
もちろん人員的な問題やスケジュール等
些細な障害はまだまだあるにせよ、
インドネシア側の県と国が予算化に向けて
努力することで、会議は終了した。
ここを起点にして、
タ農とレ農の西ジャワ州が教育強化校に
指定している2校と福農の新しい交流を
模索して行こうとなった。
さすがにこのスピード感には驚いた。
やっぱりインドネシアは大国なんだ。
いろんなことを目の前で決めてしまえる裁量もあるし
それだけの予算もあるってことなんだろう。
あっでも、僕はそういうのちょっと嫌いなので、
できれば事前に根回ししてほしかったなぁ。

日本の教育は国際化といえば
英語教育ばかりに目を向けていて、
その弊害で、外国と言えば英語圏(先進国の)ばかりな
雰囲気が最近特に感じるようになってきている。
その偏見に少しでもくさびを打ち込むような
タ農レ農と福農の交流事業が
これから成り立つように
とても微力だが、僕も協力していこう。

さぁ、だんだん面白くなってきましたよ~♪





不思議な縁もあるものだ。
昨日から、
インドネシア・タンジュンサリ農業高校の一団が
福井農林高校にやってきていて、
その通訳のお手伝いをしている。

インドネシア大統領就任式直後の来日予定を
何も考えずにこちらが組んでしまったので、
ぎりぎりまでインドネシア側の日程が決まらず
とても焦った訪問だった。
ちなみにふたを開けてみたら、
予定していた人が来られなかったり(農水省の高官)、
1日だけの滞在になってしまったり(西ジャワ州の役人)
予定として知らされていた帰国の飛行機の時間が
まるで違っていたり。
まぁ、こういうことには特に驚いたり焦ったりはしない。

さて、不思議な縁というのは
今回の一団にくっついてきた農水省のお役人さんのことだ。
インドネシアの農水省でMagang(研修・技能実習)などの
農家の研修や教育を取りまとめる部署の
部長さんだったのだが、
雑談の中で、
僕が以前、南スラウェシのバルー県で
協力隊隊員として赴任していた話をすると、
「あああ、バルー県ならアクサンという人がいただろう」と
その彼が言うのである。
アクサン!アクサン!アクサン!
こんなタイミングで、こんな場所で、
またこの名前を聞こうとは!

僕の当時の仲間なら、
この名前を知らない人はいない。
僕らのプロジェクトに関わっていた農家の一人で
地域リーダー(当時は微妙)の一人だった。
彼の集落で活動するときには
必ずアクサンをキーマンにして
活動していた。
彼は、福井の畜産農家に1年間、
研修生として働いた経験がある(技能実習制度ではない)。
その時は牛小屋の2階に作られた
粗末な部屋で過ごした、と
ややつらい話もしてくれたが、
それ以上に日本の農家が如何にモティベーション高く
高品質な農産物を生産しているかを学んだと
とても熱く語ってくれたのを覚えている。

協力隊のプロジェクト終了後は
自分の肉牛の肥育事業が軌道に乗り、
また県や国の支援を受けて農家研修の施設を作ったりして、
経営だけでなく社会的な地位も得ていった。
そのアクサンの名前を農水省の部長さんから
聞くことになろうとは思いもしなかった。
部長さん曰く、
「彼を日本に送ったのは私だ」
とのことだった。

Magang(技能実習)は確かに問題も多い。
だが、そこから得られるものはとても大きい。
そう部長さんは話してくれた。
今回は日程がなく、僕の農園に来る予定はないまま
帰国されるのだが、
次回は必ず農園まで来てくれる約束を交わした。
いつか、僕が行いたいと思っている
インドネシアでの技能実習についてのシンポジウムにも
彼のような方に来てもらって
ディスカッションできたら良いな、と思えた日だった。







P1090396.jpg


僕にはちょっとした野望がある。
それは
ここ福井の田舎に居ながらにして
インドネシアの農村開発と福井の地域づくりを
あわせてやってしまえないだろうか、
というちょっと空中戦のアクロバットのような
不器用な僕には少し(かなり?)背伸びを
しなければ出来ないような野望だ。

もともと
国際協力の現場で働きたかったのだが、
いろんな人からあれこれ話を聞いて
自分なりにあれこれ考えて
そんな時に周りの環境の変化と
そのタイミングがあって、
福井に戻ってきた。
その時のインドネシアからのお土産が
タンジュンサリ農業高校の卒業生を
農業技能実習生として受け入れる
という計画だった。
そして2008年第1期生が来日した。

あれから山あり谷ありだったが
2012年にボリビアの協力隊OBの佐藤が
農園の門を叩いたことで
僕の中で温めていたある計画が動き出した。
それは、福井の人たちを連れて、
技能実習生の地元を訪れる
農村スタディツアーを行おうっていうもの。

この計画はもともと2002年くらいに
当時の若手農業者クラブに持ちかけて以来
ずーっと僕の中で燻っていた。
ちなみにこの時は、メンバーのあまりにひどい反応に
挫かれてしまって、
せっかく資金を援助してくれる団体があったのに、
立ち消えてしまったのは余談。

あれから干支が一回りして
またこの計画が動き出した。
というか、あの時とは全く違った
いろんな人の想いが詰まった
とても素敵な計画に生まれ変わって。
「インドネシア農村スタディツアー2015」
の詳細は、リンク先に譲ろう。

そしてその計画をJICAが
後押ししてくれることになった(わーいヽ(^o^)丿)。
できるだけいろんな人に
農園に来ていた元技能実習生の生活を
のぞいてほしいと思っている。
その現場で思ったこと・感じたことを
帰ってきてそれぞれの場で実践してもらえたら
きっとここはもっといい場所になる。
と僕は信じている。
なので、みなさん、
興味のある方はぜひぜひご連絡くださいませ。





うちの農園で農業研修を受けた卒業生たちを訪ね歩く
営農調査2014はヘンドラの村を最後に終了したが、
そのあと、協力関係にあるタンジュンサリ農業高校に
表敬訪問したので、それもあとがきのように記録しておこう。

毎度のようにタンジュンサリ農業高校での
おもてなしは度が過ぎていて、
校長先生から教頭、教務主任の先生やら
えらいお役職のある方が次から次へと
校長室にやってきて挨拶を交わした。

この懇談の中で、研修卒業生たちの営農や
スメダン県ひいては西ジャワ州の農業についても
忌憚ない意見を交わすことができた。
流通網の未整備とオープンな卸売市場がないのは
小さな農家を食い物にしやすい社会の仕組みを
助長しているようにも見える。
新たな販路を、と先生たちは言うが、
そんな言葉は「マーケティング」といった
曖昧で中身が見えない呪文のようにしか、
僕の耳には届かなかった。
なぜなら僕はこの3日間で
農家がどのように生計を立て、
どのような戦略で立ち向かっているかをつぶさに
見てきたからだ。
僕もどこかで「マーケティング」という呪文を
信じていたし、もう少し具体的に輸送力の強化が
大切だとも思っていた。
でも、それは現場では絵空事に近かった。
僕も高校も、もっともっと現場で考えないといけない。

そんなやり取りの中で、
ちょっと想像していなかった提案を
農業高校側から受けた。
それは、耕志の会の事務所を学校内に設けないか?
という提案だった。
いつか、僕らがやっているこうした取り組みを
インドネシアで実際に還元していく活動を
行えたら素敵だな、と思っていたが、
日々の農作業と日常生活の忙しさで、
僕はその考えを実行に移そうとは
まったくもって思ったことはなかった。
だが、今回の視察で
やはり卒業生支援に向けて
何かやるのなら拠点が必要だなぁ、
とややぼんやりと思っていた。
そこへこうした具体的な提案を受け、
正直驚いた。
僕が知っているインドネシアの場合、
こうした申し出は僕らの方からお願いして
こちらのお金で開設するといった場合なのだが、
今回のようにあちらからこちらの活動を評価してくれて、
事務所開設にかかる経費とランニングコストの一部を
学校が負担するような形だなんて
本当に驚きだった。

卒業生のそれぞれの活動を
一つの組織としてまとめあげることに
実はそれほど僕は意味を感じていないが、
僕らのやっている活動を
広報しつつ、日本で行っているような研修の一部を
この事務所を通してこちらでやっても
面白いかもしれない。
拠点があれば、今までできなかった活動も
生まれてくるかもしれない。

ただ僕はこの事務所開設には
僕なりに金銭的には責任を持つつもりだが、
活動そのものは卒業生たちに任せたいと思う。
どういう拠点にしていくかは彼らが決めればいい。
その中で僕が手伝えることを、僕はやろうと思う。

こうして、
今年からタンジュンサリ農業高校内に
僕たちの事務所を開設することになった。

そしてもう一つ農業高校から提案があった。
それは、僕の授業をここで行ってほしいというものだった。
次に来たときは、必ず農業の授業をしてほしい、と
校長先生から強くお願いされた。
これもいつかはやりたいと思っていただけに、
嬉しい提案だった。

こうして予想もしない提案をたくさん受けて、
浮かれてしまった僕は、
ふわふわした気分で農業高校を後にした。
そして、そんな浮かれ気分の僕は、
農業高校に日本で使っている携帯電話を置き忘れてしまい、
飛行機のチェックイン直前に
農業高校の運転手が滑り込みセーフで
バンドゥンの空港まで届けてくれたのは余談。

こうして今回の調査旅行は終わった。
さて、どこから記録に落とそうか。
もっと早くに記録しようと思ったのだが、
とても幸せな記憶を何度も反芻しているうちに、
今日まで延び延びになってしまっていた。

1月最後の週に、
インドネシアの研修卒業生をそれぞれの村まで
訪ねて歩いた。
旅程は、2期生のイルファン(2012年4月帰国)を皮切りに、
3期生のタタン(2013年4月帰国)、
そして1期生のヘンドラ(2011年4月帰国)と
それぞれの家をホームステイしていった。
最終日にタンジュンサリ農業高校を表敬訪問し、
今後の展望について意見交換した。
さて、
前回(2013年新年)と違うのは、今回は僕一人で旅したこと、
そして、
村に泊まって一人ひとり時間をかけてインタビューをしたことだ。
もちろん、数泊しただけで何がわかるのか?
と自分でも思わないこともないが、
でも他に仕事をしている中で、
今回は最大限時間を割いて、そのほとんどを
村での調査に充てることができたという意味では、
ここ数年そういうことができていなかったので、
自分としてはそれなりに満足している。

さて、そろそろ本題に入ろうかと思うのだが、
その前に2点だけ整理をしよう。
まずはブログのカテゴリについて。
卒業生それぞれのインタビューは、
ブログのカテゴリ上、それぞれのカテゴリに属して
まとめていく予定だが、
旅は旅でまとめておきたい。
なんどかに分けてアップを予定しているが、
すべてをアップできたら、
このエントリーの末尾にそれらのリンクを張る予定だ。

もう1点は、彼らの営農を取り巻く外部要因として
それぞれの地域に影響する開発プロジェクトの存在を
ここに示しておきたい。
政策や市場等もあるのだろうが、
今回大きなインパクトとして
彼らからまず発せられたのは、
高速道路建設、
州道拡張工事、
東南アジア最大のダム建設、
といった開発プロジェクトだった。
イルファンの住むスメダン県ランチャカロン郡では、
バンドゥンから県都スメダンまでを結ぶ高速道路を建設中で、
そのために地域営農が大きく様変わりしようとしていた。
タタンの住むスメダン県のバンジャルサリ村では、
マジャレンカ県と県境近くで建設中の
東南アジア最大の水力発電所のダムが建設中で、
そこにあった国営の森林公社移転に伴い、
400haの土地を新たにタタンの住む村の付近で
物色中ともあり、また多くのダム周辺の住民が、
村がダム底に沈むこともあり、移転を余儀なくされており、
俄かに土地売買ブームが起きていた。
またタタンの村の近くの州道が両幅7mほど
拡張される計画で、沿道の商店や家などの立ち退きが
現在行われている。
そのため、沿道付近の土地が値上がりしており、
全く関係のない小さな村々の村道の沿道の土地まで
大きく値上がりしている状況だった。
それとは対照的に、
ヘンドラの地域は陸の孤島のような地域であるため、
そういった国家規模のプロジェクトとは無縁で、
そのため彼の営農はのびのびと行われている結果だった。
またこれはそれぞれエントリーでも考察していきたい。

さて、前置きが長くなった。
ではまず、イルファンの家に一緒に訪問しようではないか。




先週水曜日に、
福井農林高校で出前講座を開いた。
今年の12月に、
福井農林高校の学生さんたちが、
友好提携を結んでいる
インドネシアタンジュンサリ農業高校へ
訪問する予定でいる。
それに合わせて、
インドネシア事情の講座の講師を依頼された。

インドネシアの写真をたくさん使って
現地の様子や文化・農業について説明をしたが、
参加する学生さんの意識も知りたくて、
ちょっとだけワークショップ形式で
話をすすめた。

やはり関心が高かったのは、
インドネシアの農業についてだった。
さすがは農業高校。
どんな農業なのかを知りたい、
日本との違いは何かを知りたい、といった
意見が多かった。

そしてそれ以上に多かったのが、
あちらの友達を作りたい、という意識だった。
ちょっと意外だった。
今の学生はそうなのか、
それとも僕がそういう意識が無かっただけなのか、
まぁ、いずれにせよ、交流事業なので、
あちらの学生と友達になりたいと強く思ってくれるのは
とても嬉しい。

ただ、やはり言葉の壁はある。
簡単な自己紹介などを覚えていく予定ではあるが、
言葉を介してのコミュニケーションは難しい。
でも、それもいつも杞憂なのだ。
純粋な子たちは、なんだか言葉が分からなくても
お互いに気が合う同士をかぎ分け、
そしていつしか仲良くじゃれ合っていたりもする。

こちらが出来るとしたら、
友達になれるようなイベントを
出来るだけ作って行くことだろうか。
さて、どんなイベントがいいのかな。
これから向こうの学校とも相談していこうっと。



先週から今週まで、変則的な日程で通訳をする。
インドネシアのタンジュンサリ農業高校の一団が、
福井農林高校を訪問するに合わせて、
僕が通訳を務めた。
僕にとっても、大切な地元での活動の一つ。
僕に地元で活動するきっかけをくれた、
いわば原点と言って良い活動。

今回は、タンジュンサリ農業高校の一団は、
1週間だけ福農に滞在した。
これまでは、引率の先生は数日だったが、
学生は3か月滞在していた。
その変更の話はまた、別の機会に記録しよう。
とにもかくにも
今回は1週間だった。

さて、2009年から隔年でお互いを訪問し合っているのだが、
今回はその成果がとても見て取れた。
前年(2011年)にインドネシアに訪問した
学生が主体となった寮の歓迎式。
太鼓などの芸能に触れる時間もあり、
数年前とは全く違う交流のように見えた。
タンジュンサリの一団もただ福農側の
日程についていくだけでなく、
いろいろな共同作業できそうなツールを
いくつも用意していた。

言葉の面では、常に僕が通訳でいたわけではないので、
いろいろと苦労があったようだ。
余談だが、先生たちの泊まった宿泊所の
お湯の出し方が解らず、
2日間は冷水でシャワーを浴びていたらしい。
3日目はあまりに寒くて、シャワーを断念。
いろんな操作を試みたところ、
4日目で温水の出し方が分かったのだとか。

そんな苦労をお互いしながらも、
言葉を超えた交流があったように思う。
特に若い学生たちには。

前回まではまったく見られなかったのだが、
今回は、一団が来校した時に
有志の生徒たちが沢山出てきて出迎えてくれた。
出発の時も、寸時も惜しむように
学生たちが通じないながらも会話をしていたのが
ほほえましかった。
特に前回タンジュンサリ農業高校を訪れた
芸能部と生徒会の生徒が中心となった
交流の盛り上げは、本当に良かった。
こういう主体性をもった若者が
沢山福井に居たら、これらかの僕らの地域の未来は明るい。

こうした主体性に支えられた交流は、
両校のそれぞれの生徒の心に、
いろんな種を播いたことだろう。
それはもちろん国際協力と言う道への種かもしれないし、
そうじゃないそれぞれの分野で小さく咲かす花かもしれない。

訪問団のあちらの先生が、
「十数年前にも、福農に来たがその時は、日本の食べ物なんて食べられなかった。でも交流が始まってから、よく日本を意識するようになり、インドネシアに居ても日本食をたまに食べてみたり、日本の文化を学ぶようになった。そんなこともあってか、今回は日本で食べた食事はどれも美味しかったです」と
福井を出発する前の懇談で話していた。
それは学生間にもみられる。
10年前の交流では、どこかよそよそしさがあり、
間に入る先生が苦労していた。
太鼓などの芸能も、留学生はやりたいと言っていたのだが、
あまり快く受け入れられていなかった。
学校主導の交流と言う感じが消えず、
それもどこか業務として「こなしている」感の
残る場合もあった。

だが、この10年の交流で
経験が学生間で、そして先生間で、
また学校に確実に蓄積したのだろう。
いつの間にか、よそよそしさは無くなり、
主体性を感じられる交流となっていた。
こういう活動に係らせていただいていることに
感謝しつつ、次の10年はさらなる進化を
出来るように、僕も微力ながら尽力していきたい。
そう思えた、今回の交流事業だった。


Facebookをやっていると
インドネシアの大学院時代の友人からチャットが入る。
しばらくたどたどしくなってしまったインドネシア語で
彼と話していると、
どうも変だ。
なんだか僕がおぼえている彼とは違う人間のようなのだ。

そのことを書くと、
その「彼」は、何年も前から音信不通になっていた、
別の友人であることが分かった。
僕の友人である彼の家に、遊びに来ていて、
そして偶然に僕を見つけ、彼のパソコンを借りて
僕に話しかけてきたらしい。
音信不通になっていた友人(仮にマンクとしよう)は
海外に留学していたという。

え?マンクが??と驚く僕に彼は説明してくれた。
ボゴール農科大学大学院を出て、
マンクはすぐにドイツの大学院で
学ぶ準備をした。
彼は英語がほとんどできないので
英語の学校にも、ボゴール農科大学大学院時代から
通っていたようである。
それでも語学力が足りなかったので
入学はなんとかできても
今年まで卒業できなかったらしい。
5年以上という歳月をかけ、彼はドイツの大学院で
博士号を取得した。

僕が知っているマンクは、年下のやや背伸びしたがりの
負けず嫌いのジャワ人だった。
何冊かインドネシアでは本を出版している、
ちょっとした有名人ではあったが、
論理的展開に無理があり、僕はあまり認めていなかった。
成績もよくなかった。
英語ができず、課題の英語論文をスキャナーで取り込み
それをインドネシア語に訳すソフトにかけ
めちゃくちゃな訳文をそのままペーパーに張り付けて
先生から苦言を呈されることもしばしばだった。

そんな彼が、いつの間にか
5年の時間をかけてドイツで博士号を取るまでになっていた。
まったく、人の成長には驚きだ。

そして、この5年。
彼の並々ならぬ努力の間に
僕は何をしてきたのだろうか。
惰眠をむさぼったつもりはないが、
僕もまだまだ加速がたりない。

僕は、
本当に良い学友(ライバル)に恵まれたようだ。
こうして距離や時間を超えて
僕を今でも刺激してくれるのだから。

インドネシアより帰国。
今回は、それなりに下準備をして調査に臨んだため
今まで以上の話をあちらの農家から聞き取ることができた。

10数年前に一緒に仕事をした農家達は、
それぞれに自分の農の営みを見つけ
それぞれの集落の中で、その存在がひときわ輝いて見えた。

今の僕の営農の問題や考え方で重なることも多く、
多くのことを学ぶことができたと思う。

とりあえず、帰国の報告まで。

田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

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