今年はどうも大変化の年なんだろうか。
一昨日の夜中に
インドネシアのタンジュンサリ農業高校に
派遣していたスタッフ立崎から連絡がある。
それは
カルディ校長先生が異動になった、
というものだった。

カルディ校長は、タンジュンサリ農業高校の卒業生で、
教職についてこの方
ずーっとタンジュンサリ農業高校で教鞭をとり、
次々替わる政治家校長と違って、たたき上げの
校長先生だった。
しかも来年が定年で
このままタンジュンサリ農業高校で定年を迎えることを
誰もが疑っていなかった。
そのカルディ先生が7月から別の高校へ異動になるなんて・・・。

僕や福井農業高校との関係も長い。
2002年にインドネシア・タンジュンサリ農業高校からの
招へい事業にもカルディ先生は関わっていて
当時は教務主任のような役職だった。
なんどかメールや電話でやりとりをした記憶がある。

2008年から始まった
農園たやでのインドネシア技能実習生受け入れの時も
副校長先生として関わり、
同僚のユスフ先生と一緒に
その当初から尽力いただいていた。
だから校長先生に昇格された時は
本当に嬉しかった。

農園のスタッフを青年海外協力隊枠で
タンジュンサリ農業高校の
農業教師として赴任する話も
カルディ先生との話し合いから始まった。

そんな一連の活動が
名門タンジュンサリ農業高校の名を
再び高めることになった。
交流当初は500名ほどだった学生も
年々増え、
今年は1000人をいよいよ超える予定で、
時代の流れに沿って
他の農業高校は軒並み前年度割れを
起こしているのに
タンジュンサリ農業高校だけは
どんどん入学希望者を増やしているのが現状だった。

すべては彼の理解と意欲が
これらの物事を進める原動力だったと
言っても過言じゃない。

僕も長年
高校間の相互派遣事業にかかわっているが
やはりトップの姿勢が一番
その事業に影響を与える。
もちろん、担当者の熱意も大事だけど、
それ以上にトップのやる気が大きい。
そういう意味では
カルディ先生はとても大切なパイプだったし
仕事相手としては最高だった。

立崎の情報は早かった。
異動が出たその日に、
仲良くしていた教員から連絡を得て
それを僕に送ってきてくれた。
たった半年しかいないのに
すでに中枢に係わっている先生と密になっているところが
素晴らしい。
その連絡を得て、こちらでもあれこれとさぐりを入れ
カルディ先生の異動が
降格や懲罰の人事ではなく
定期異動の範疇だということ
新しく来る校長先生の名前や前歴等の
情報は確保できた。
とりあえず、カルディ先生のやってきたことが
評価されなかったわけではないらしい。
よかった。

でもやはりタンジュンサリ農業高校のような
それぞれの分野の職業系高校が
法律の施行により
それぞれの管轄省庁から教育省に
移行した影響は大きい。
ちなみにタンジュンサリ農業高校は
農業省管轄から教育省管轄に移動。
これにより校内人事を含め
すべてが教育省の定例異動の対象となり
今回初めて校長先生がその対象となって異動した。
今後、2年1回校長先生の異動があり
たぶん他の先生の異動も起こるだろう。
ますます交流事業や研修事業の
引継ぎが難しくなっていくと想像する。

新しい校長の情報は
出来るだけ早く収集するつもりだが、
今はカルディ先生との思い出に
浸りたい。
16年間、本当にありがとうございました。



雪害を受ける前の2018年の1月。
僕の農園を卒業した
インドネシアの技能実習生グループと一緒に
JICA基金の枠で
事業提案を行っていた。

2016年にも一度採択事業となり
技能実習生のグループ化を図る事業を行っていた。
その時の成果から
2018年にいくつかのグループを作り
より高収入を得るためと
より持続的な農業を目指すために
環境に寄り添ったコーヒー栽培をしようと
実習卒業生たちと議論を重ねてきた。

その事業提案が
この度、めでたく採用となった。
ハウスの再建の中
なかなかハードなスケジュールになるが
インドネシアの農村開発も同時に進めていきたいと思う。

技能実習制度は
海外への技術移転という名目だが
ほとんど技術移転を担保するような研修にはなっていない。
また熱帯と温帯の差、
社会的価値の差、
市場の差、その他もろもろの差があり
日本のやり方のほとんどが通用しない。
通用していれば、青年海外協力隊で
みんなあんなに苦労しないよね!
なので、農園では考え方や視点を鍛えることに
主眼を置いて、経営に対する考え方などを
たたき込んでいる。
もちろん、あちらの社会に接合できそうな
技術などは実習生と議論をしながら
勉強もしてるけどね。
つまり、余談だが、
そういうアダプテーションができる人間でなければ
技術移転なんてもんは上滑りするってことなんだけど
それはまた別の機会に。

雪でハウスが潰れる中
無理して3月の上旬に出張したのも
この仕込みをするためだった。
事業採択となり
とりあえずホッとしてるが
ここから1つ大きな活動が増えることになり
今年もかなり激務になるだろう。
でもこの刺激が
僕らのモティベーションでもあるので
手を抜かず、まい進していきたい。

仲間たちと一緒に
西ジャワ州で持続可能なコーヒー栽培の研修を
これから作っていこうと思う。
日本に居ても
協力隊の時のような
こんな刺激を受けられるのは
本当に幸せだと思う。


インドネシア出張の成果の記録、第2弾!
②スタッフ立崎の活動打ち合わせ

ちなみに、立崎はいつき組のたちこである。

さて
事細かに読んでくれている読者には
重複する説明で
眠たいことこの上ないが
これを理解していないと
なんのことなのか?となりかねないので、
くどいけど、立崎がインドネシアに居る説明させてほしい。

農園がインドネシアの農村開発を
ほとんど無償でおこなっていることはこれまでも
記録してきた通り。
その中で、2016年より
タ農に人を派遣しようと画策していた。
それがどのような形になるかは
様々な検討をおこない
青年海外協力隊が一番いいのでは、と
タ農の校長とも合意。
それから案件を形成し
協力隊の一般募集にあがってきたこの案件に
スタッフ立崎(若干当時24歳)がアプライして
見事その案件を手中に。
案件内容としては、
隊員はタ農の農業の先生として派遣され
インドネシアの農業教育の拡充と
和食ブームに沸くインドネシアにて日本野菜の紹介、
そして技能実習生の卒業生への営農指導(これは裏ミッション)
etc.
で、昨年の12月に派遣され
今年の1月よりタ農で農業の教員として
立崎は活動を開始していた。
彼女自身は大学生時代にインドネシア留学経験を持っていて
語学はすこぶる出来るので
いきなり教員として授業を担当させられている
まさにスーパー隊員と言っていい。

だが、その立崎からすこしS.O.Sが来ていた。
それは専門以外の授業も担当させられ
かなり負担が重いこと。
そして事前に時間割をもらうものの
担当先生の授業の補完的役割かと思いきや
まるまる1コマ授業を期待され、
しかもその準備にほとんど時間が無いこと。
正直、このレベルになってくると
僕でもできるかどうかかなり怪しい・・・。
ましてや留学経験1年で
農学が専門でない
25歳の経験がまだまだ足りない彼女が
まかりなりにその毎日をこなしていること自体が
すでに異次元に思えた。
環境が人を育てるとはこのことだね。

さて、
今回の僕の役割としては
立崎の役割について学校側と協議することだが、
それは
彼女に楽に活動をしてもらうことではなく、
学校の要望と
彼女のポテンシャルのぎりぎりと間を
見つけることにあった。

そもそも1か月ごとに時間割を渡されて
栽培だけでなく農産物加工からランドスケープ、農業機械などの
授業にまで彼女にまるまる一コマ任せてしまうという
その感覚が僕にはよく解らないし
それがこなせるスーパー先生は
たぶんタ農の先生にもいないんじゃないかなって思う。

で、さっそく教務担当のTuti先生と
タ農の校長、立崎と僕との4者会議を開催。
事前に立崎へのインタビューで
一コマ任されるのは嬉しいが準備に1か月欲しい事、
1つの授業を学年のすべてのクラスを横断的に行いたい事、
外国人の目線から見た異文化的農業について授業することで
単なる技術ではなく学生の見識を広めるような授業をしたい事、
などなどを聞いていた。
ちなみに、もうこの時点で
もうすぐ任期満了の隊員のような現状分析ができていることに
僕はこっそり舌を巻いていた。
どこまで成長する気だ?この子は・・・。

で、これをそのままタ農側にぶつけてみた。
その反応は、すこし意外だった。
困惑と言うか思惑と違うというか
まさに差異を見出せる瞬間と言うか。
僕はこの瞬間が好きだ。
校長からの返答はこうだった。
「農業というのは、土を見て、肥料を計算して、種を蒔いて、水管理し、病害虫を押さえ、収穫し、市場を見て、加工もして、農業機械も扱い、畑の周りの環境にも気を配り、そういう総合的なもので、その流れの中で立崎には全部を見てもらったうえで、どの部分を日本式で改善できるかを考えてほしい」と。
なるほど、こりゃズレテルワ。

農業の過程を農学的に切り分けて
そのどこかで日本的視点が活かされないかって
これ現場レベルだとあまり意味のない話。
農学栄えて農業滅びるってまさにこれかもね。
ただ農学的アプローチとしてはそれが真っ当なのも
問題をややこしくしている。
僕らは市場があって
それは顕在的か潜在的かの違いはあるだろうが
それに反応する形で商品を作り上げていく。
コストの面と質は市場のレベルによって変化もする。
栽培としてのベストではなく、お金が回る、そんな感じ。
それを農園たやで叩き込んできた立崎には
農学的なアプローチの農業への視点は
たしかにピンと来ないのは、当然だろう。
この視点と常識の差異を数時間の会議の場だけで埋めることは
たとえどんなファシリテーターだって無理だろうね。

で、
とりあえず、授業を作る時間が欲しいこと、
ある程度テーマを決めてその月はそのテーマの授業だけをすること、
農学というよりも生徒の見識が広がるような授業をすること、
の三つを了承してもらった。
あとは立崎がその授業を体現する中で
農業とはどういうことなのか、それを先生たちにも
分かってもらえたらいいと思う。
切り分けて細分化して分析する中に、
人々の息遣いを感じる農業はなく、
農業はあくまでも人の生業、営みなのだとそれを知ってほしい。
と書くと、敵を作るかな。
ま、僕も学部程度の農学しか齧って無い身なので
あんまり偉そうには言えないけどね。

で、校長先生たちには一応
立崎の要望は認めてもらった。
これからは立崎のテーマの中で
時間割についても出来るものと出来ないものを
立崎自身が選択し、
授業づくりにも時間をある程度見てもらうことになった。
そして、僕も彼女の授業作りに
ネットを介してだが手伝っていくことになった。

正直、話し合う内容が高度で
協力隊に来たばかりの人間について
話し合っているような感じが全くない。
環境は人を育てる。
本当にそうだと思う。
よかったね、立崎、
君の今の瞬間で
ここに協力隊として参加できて。

つづく




雪害で農園が大変になっている。
普段通りの営農が続くかどうかの瀬戸際で
経営者としてはそちらに集中しないといけない。
普通なら。
でも、農園たやは、いわゆる「普通」の農園とは違う。
もともとが
インドネシアの地域開発に参加する
その手段としての農業という出発点を持っているので
自分たちの営農はもちろん
続けられるよう様々な手を打ち続けていくが
それに忙殺されて
インドネシアとの係わりを疎遠にするという
選択肢は、僕らには無い。
僕らの営農が順調で進む限り
インドネシアと日本のある局部にはなるが
それぞれの地域と農村は発展する。
そんな仕組みを作ってきたので
僕らはその歩みを
雪なんかで止めてはいけない。

ということで
僕は当初の年間計画の通り
仕事日としては三日間という
あいかわらず短期だが、
インドネシアに渡航した。

今回のインドネシア渡航の
主なミッションは以下の通りだ。

①タンジュンサリ農業高校と福井農林高校の交流活動の促進
②スタッフ立崎の活動の打ち合わせ
③実習卒業生グループの話し合い
④実習卒業生の営農相談

短い時間だったが
これらのミッションすべてで
思った以上の成果をあげられた。
出発前に豪雪の対応で
ほとんど準備らしい準備が出来ないなか、
卒業生グループの長であるタタンと
スタッフ立崎とが
それぞれに準備を進めておいてくれたおかげで
スムーズかつ有意義な議論ができた。
改めて両者に感謝したい。
そして、やはり現地に
調整してくれる人材がいることが
こういう活動の大きな支えになることを実感した。
豪雪の害で
農園の被害はとても抱えきれないほどではあるが
農園の存在意義は
インドネシアと日本の農村、両方の発展を
その交流から見出すことにあるので
これからも今の人材を雇用し続けられるよう
僕も全力を尽くそうと思う。というのは余談。

さて、まずは①。
タンジュンサリ農業高校(以下タ農)と
福井農林高校(以下福農)の交流事業。
実はここ数年、停滞気味だった。
インドネシアから日本には2年に1回のペースで
来日していたのだが、
ここ数年は、来る来ると言いながらも
実現していなかった。
しかも、数年前に友好提携の締結書も期限が切れてしまっていた。
この事態に、事前に福農側と僕とで話し合いを行い
できればどちらかが訪問して話し合いができればいいのだが
時間も予算もなかなか厳しい中で
せめてお互いが顔を合わせて話し合いができるよう
インターネットを使ったテレビ電話で会談をすることになった。

今回のインドネシア訪問は
僕の年間活動の一つでもあるので
このタイミングでテレビ電話を調整。
立崎がこの調整をしてくれたため
かなりスムーズに時間や機材の準備できていた。
ただ、やはりそこは海外とのやり取りのむずかしさか、
当日、日本との通信がなかなかうまくつながらない。
余裕をもって1時間前から準備したが
結局会談時間直前まで両国の機材の不具合で
上手くつながらないままだった。
試行錯誤の末、僕の持っていたipadで無事通信が可能に。
両校の機材でつながるよう、今後調整をする課題が残ったことは余談。

さて、会談はタ農校長と福農教頭によって行われた。
相互訪問を継続することを確認し、
今年の12月に福農側が学生を連れて
タ農を訪問することを約束した。
これでスタッフ立崎は今後
福農の団体を受け入れるための活動が一つ増えることになるだろう。
それに付帯して日本語教育や日本文化交流などの
活動もたぶん増えていくだろうな。
で、タ農側は
2019年に福農を訪問することを約束した。
後述もするが、予算的措置が厳しい中、
その約束が実行されるかどうかは不明。
期限切れとなっていた友好提携は
今年の12月に福農がタ農を訪問した時に
式典を行い、継続更新することでお互いが了解した。
また、相互訪問以外にインターネットを使って
両校の学生レベルの交流を促進する活動をしようと
取り決められた。
立崎の活動がどんどんかってに増えていく、そんな会談でもあった。
でもこれらの活動はかなり楽しい活動になるだろうから
増える分には歓迎だろうけどね。

約45分の会談はなごやかに進んだ。
やはりお互い顔をみて話すのは大事だ。
メールや電話でも良いのだけど
Face to Faceの力ってあるな、と実感。
厳しい感じの教頭先生の笑顔がやたらと素敵だったし、
やや弱気の発言が多かったタ農の校長先生の
対外的な強気の発言が、可愛らしかった。
こういう場を通訳と言う形で
参加できたことが嬉しかった。
交流の場がずいぶんと極小化していっていた中だったので
その場に温かな光がさしたような
そんな会談だった。

さて、
会談の前後にタ農の校長先生やその関係者と
これまで日本訪問が延期になっていた経緯についても話し合った。
数年前までは、タ農の来日に
予算的な問題は全くなかった。
それがここ数年は常に
決まり文句が「予算が無い」に。
これまでもインタビューして問題は解っていたが
もう一度それについてここでも整理しておきたい。
数年前までは、タ農は西ジャワ州の拠点農業高校という指定を受けており
西ジャワ州農業局直轄の高校だった。
そのような待遇を受けていたのは4校のみ。
この好待遇で日本行きの予算を優先してもらっていた。
しかし、ジョコウィが大統領になり(個人的にはこの大統領は大好き)
高校の規定がやや変更になり
すべての職業科高校はその関係省庁の管轄から、
直接県の教育局へ変更になった。
職業科高校は普通科高校と同列に
しかも専門性もなく、
それぞれの教育局一括で指導される立場になった。
それ以来、何百という高校と同じように
県の教育局を通じて
州の教育委員会へ日本との交流の予算の申請を出し続け
そして他の何百という高校と同列に均された
微々たる予算を受け取るだけに陥っている。
政治的な行動が必要な場面だろうと
僕のような素人でも思うのだが、
教育者の鏡のような今の校長には
正攻法以外の方法をよしとしない。
じつは、今回の訪問で
ごりごりの前の校長も突然ごりごりとやって来て
非公式に議論をしたのだが、
その前校長曰く
「私だったら、この学校出身の県議員2名と州議員4名に動いてもらって、前々州知事(タ農出身)の息のかかった官僚(派閥があるような感じ?)にも動いてもらって、成果をマスコミに流して、予算措置をせざるを得ないように外堀を埋めるがね」と
ごりごりと答えていた。
やりすぎだと批判を受けていた前校長だが
今のように正攻法でだめなら
ごりごりもありだろうな、と僕は思う。

ただ現校長は人間的に信頼がおけるので
その意味では、前の校長のように
僕がはらはらする場面はほとんどない。

ちなみに
インドネシアの農業高校の現状を言えば(西ジャワに限るが)
やはり農業系職業科高校の人気はあまりなく
ほとんどが定員割れの状況だ。
だが、タ農は日本人が常駐していたり
農園たやへの研修のつながりがあったり
福農とのこうりゅうじぎょうがあったりと
そういうこともあって、
300名の定員に500名以上が集まる異常事態になっているのだとか。
校舎が足りなくて
毎年毎年増設をし続けている
農業高校では稀有な存在になっている。
と現校長は自慢してやまない。
だったら、なぜ、日本行きの予算が取れない!
そこまで対外的評価が高いのなら
なぜ、それが予算措置に反映されないのだ?
まだまだ謎が潜むが
そこはうちから派遣した立崎の
状況報告によって今後推理していきたい。
腹の底を見せないという意味では
現校長も立派な政治家とはいえるが
だったら、ごりごりやって予算とってほしい。
というのも、余談か。

つづく

ちょっと前の事。
農林高校の
担当者が来園。

農園のスタッフ立崎が
来月インドネシアに協力隊として
タンジュンサリ農業高校に赴任するわけだけど
それをきっかけに
少々下火になってきている交流のテコ入れを
しようぜ!と画策している。
ま、僕の儲けにはならない話だけど。
(最近、このフレーズは決まり文句のようで知り合いから先に言われることがある)

タンジュンサリと福農は相互に
訪問活動を行っているのだけど
ここ数年、タンジュンサリ農業高校は
来日できていない。
今まで農水省から拠点高校として
潤沢にもらっていた予算が
教育省への管轄移管によって
一気に削られてしまったというのが
その理由のようだ。
だたこれはまだ詳しいことは解らないので
立崎が赴任後にリサーチする予定。

で、あちらが来なくなったからと言って
こちらが行かないという理由もないと思うのだが
なぜか福農側もあちらに赴かないまま
数年を過ごしてしまっている。
そんな状況。

福農の担当者とは
とりあえず動き出すために
両校のトップ同士が直接話し合う場を設けて
これからの方針を確かめ合う事が
必要だろうと一致した。
直接会うと言っても
予算の無いタンジュンサリや
忙しい福農の校長では
なかなか日程が決まらないまま
また日を過ごしそうなので、
僕が2月にタンジュンサリを訪問し
その時にスカイプで直接会談を手配しようとなった。

方針の土台はこれから作り上げるが
案としては、次のようなものが考えられる。
①両校で同じテーマの研究を行う。
②スカイプを通じての交流
③福農からのインドネシア訪問

①は協力隊スタッフが居るので、
グローバルな視点や同じ主食のコメなどを
テーマにしてそれぞれの違いや
グローバルな問題点を感じられるような
そんなテーマで両校の学生が研究するのは
どうだろうという話になった。
違いを理解し合うというところから入るってわけ。

②は立崎が福農に授業をするスタイルを想定。
数名の学生同士の交流にするのか
また全学年の全教室にカリキュラムとして入れるのかは
当事者で話し合うことに。

③訪問は続けた方が良いと思う。
やはりどちらかが行くような形をとらないと
交流にならない。

で、事前に両校の校長先生に対して
話し合いを進めて
2月のトップ会談でGOサインを出してもらえれば
両校の先生が自由に動けることになる。
立崎も仕事がしやすくなる。

ということで話し合いは決着。
12月に福農の校長と話し合いをして
内容を詰めることに。
立崎は赴任した後
僕が行く2月までにあちらの校長先生に
すこし話をつけておくことに。
ま、僕も1月くらいにスカイプで
あちらの校長と直接話し合う機会を
設けようとは思うけどね。

ああ、すっごく楽しみになってきたねぇ。
あ、でも、今度は
僕はあまり出しゃばらないようにします。
20年前のような
同じ轍は踏まないように、踏まないように。
そう念じながら行こう。



めまぐるしく変化する。
いろんなことに火を付けてきたけど
なかなか着火せず、
やけになっていろんなところに火をつけたら
ここに来て
全部燃え出した。
そんな感じ。
で、結果手が回らん、てか。

まずは技能実習生の
卒業生たちのプログラム。
インドネシアに帰国した実習生OBたちは
グループを作って勉強会を開いていることは
ここでもさんざん書いたが、
それが最近、なにやら不穏な雲行きに。

というのは、べつに勉強会が不活性化しているわけではなく
次のステージに向かおうと
ちょっと無理をしている、そんな感じ。

インドネシアに限らず
行政はなんでもグループが好きだ。
ま、それがインドネシアは顕著かもしれないけど、
帰国した実習生OBたちに
農業高校から
「いつになったらみんなでビジネスを始めるんだ?」と
圧力があるようで、
ここ数年のOBたちの言動が明らかに
それに向かって模索していた。
僕はそれぞれ地域も違うので
個々人がビジネスして地域リーダーになれば
それで良いと思っていたのだけど
どうも学校側の思惑はまた違うよう。

で、
あれこれ悩んだ挙句、
みんなでコーヒー農園を経営することにした
そうです。
そのプロポーザルを提出してきた。
というのも
僕らの支援は、技術だけでなく金銭的なことまで
踏み込んでやろうって謳っていて
その資金への申請だった。
日本円で30万円からスタートする
小さなコーヒー農園の計画書。
穴だらけだし
誰が主体になるのかや、
どうやってお金を返すのか、
離れた地域のメンバーの
メンバーシップをどう醸成するのか、
トライアル農園って位置づけだけど
他の地域で(とくに標高の低い場所)の
普及のカタチはどう考えているのか?
などなど
彼らの計画書からは見えないことだらけ。
いつまで経っても
こんなものかぁ~と
文句を言いながらも
僕は笑いが止まらない。
自主的なこういう計画が
出てくることが
とてつもなく楽しいからだ。

こういう計画書みつめていると
なんか僕も夢見ちゃうよなぁ。
遠く離れた異国の農民同士は
TPPなどに見られるように
従属論の中では敵対関係におかれるという
セオリーを乗り越えて
僕はここに居て
それでいて彼らと一緒に
発展する農業を作り上げたい。

ま、そのまえに
プロポーザルの直し指導だけどね。


P9063096.jpg

来客あり。
インドネシア領事館から
8月下旬ごろからいろいろと電話で調整があり
9月6日来園が実現した。
お客さんは、
元インドネシア共和国チェコ大使。
退職されてから、
故郷であるスマトラのトバ湖の近くで
農園を経営しているのだとか。
ただ住んでいる場所はジャカルタ。
いわゆるあちらスタイルの
ブルジョワ農民ってやつね。

その彼。
新しく梅やイチゴに取り組みたいと
日本にその勉強に来たらしい。
残念ながら農園では
そのどちらも栽培品目に入っていないけど
農業経営について意見交換したいので
ということで
わざわざインドネシアから
やって来られた。
頭の良い方で
少し話せばすぐにその肝の分かる人だった。
こういう人と話をするのは楽しい。
2時間ほどのアテンドだったが
あっという間に時間は過ぎてしまった。

インドネシアの農民の貧困を
その作物の構造に着眼している辺りや
全部の問題を教育で解決できると言わないところが
気に入った。
あと盲目的な有機農業信奉者でない
自称有機農家の
インドネシアのブルジョワ農民には
初めて会ったかも。
バランス感覚も良いね。

さてその彼。
販売は海外を考えているようで
てことはやはり日本か?と聞くと
呆れた顔で彼は言う。
「おいおい、日本?まさか。インドだよ、インド。日本なんてどんどん小さくなるし、いろいろと難しいこと言うから駄目だよ。中国にもつながりはあるけど、インドへ販路を広げていく予定だ」
だって。
日本がどんどん小さくなることや
ゆっくりと落ち目になっていることは
僕らは嫌と言うほど感じるし
そうなっていくだろうという予測もしている。
でも、それをインドネシアの方から
指摘されると、かなり複雑。
もう、ここはあこがれの地でも
先進的な地でもないのだろう。
すくなくともエリート層の間では。

ここまで短時間で
本音で話せた人は少ない。
それはそれだけ彼が聡明で
適当な想いでここまで来たわけじゃないからだろうね。
ちょっとやくざの親分みたいな
そんなやんちゃなところも
気に入った。

最後には
孫からFacebookでメッセージが来て
ステゴサウルスのロボットのおねだりがあり、
後半はそれがどこにあるのかを
みんなでネット検索して終わったけど、
それはそれでインドネシアらしくていい。

こういう人と
仕事がしたいな。
最後にはあっけなく裏切られるんだろうけどね。
それも解っているけど
こういう人は僕はすごく好きだ。
どこかアレジャンの亡父や
パラッカのノールに似ているからかもしれない。


今日、農園の期待のスタッフ、
すーちゃんこと立崎が
青年海外協力隊の二本松訓練所に
入所する。

農園のスタッフを
インドネシアタンジュンサリ農業高校に
送ろうというのは
ちょっと前から考えていたけど
具体化したのは昨年くらいから。
もともと
留学中にインドネシアの農村のこれからと
日本の農村のこれからを考えて
本当は反対していた
技能実習生を受け入れる事にした
その辺りから
こういうことが出来たらいいな、の一つが
農園のスタッフを
技能実習生を送り出してくる地域に
送ろうっていうこと。

僕らはどうしても解釈するのが好きなので、
現状のトレンドから歴史を
再解釈したがるし(大河ドラマも今の歴女の言説も気分は良く似ている)
進化論の影響を受けて
発展については単線的な
不可逆的な道筋があると思い込んでいる。
これを壊していくことが
農業と農村のこれからを考えるもっとも
重要なことだと
僕は協力隊と留学を経験して
思い至った。
そして10年、技能実習制度を利用しつつ
インドネシアの農村とのかかわりを持ち続け
人材育成とビジネスのアドバイスをし続けて
その思いは、もはや確信でしかない。
そう、
だから満を持して
スタッフをインドネシアの
タンジュンサリ農業高校に送るのだ。

で、
フロンティア精神なんてもんじゃなくて
日本の先進農業を教えるでもなくて
交流が大事ってことも越えて
協力隊スキームで、
インドネシアの農業・農村問題と
日本の今僕らが直面する農業・農村問題との
グローバルかつ同時代的な部分を
共有し
そこから見える未来を
これからの農業教育の在り方でも良いし
農村の発展でもいいのだが
僕らはそれを係わるアクターみんなで
眺めようってことをやりたい。

とりあえず
立崎には
暉峻 衆三 著 「日本の農業150年―1850~2000年」 (有斐閣ブックス) を
手渡した。
農業の変遷を構造的に書かれてる良書。
これをまとめて
インドネシアの農業高校で
授業できるようなプレゼンシートを
農園の坂本と僕と立崎とで作ろうと思う。
単線的な発展でない事
それぞれの時代でそれぞれの
前時代から引きずる社会構造が
影響して今に至ることを
日本とインドネシアを対比しながら
まずはお互いの視点をすり合わせてみたい。
その先に何が生まれるのかは
あとはそれぞれの隊員としての
資質やインタラクションによる奇想天外な
結果によってもたらされるだろう。
だから尚更
わくわくしてたまらない。
立崎や坂本を通じて
ここで農業をしつつ
僕ももう一度協力隊に戻ろうと思う。



昨日はいろいろとあった日で
朝は集落の江掘り、
昼は農政連で国会議員との意見交換会(ブログ記録済み)
夕方はインドネシアとつないで勉強会だった。
合間に仕事。

で、今回はその勉強会について
記録しようと思うのだが、
発表者はこの前帰ったレンディで
卒論の内容をそのままプレゼンしていたので
特段新たに記録することはない。
ただ、この勉強会の始まる前に
クスワント(4期生)が
「グローバリゼーションと農業の授業がある日を教えてほしい。僕もスカイプで参加したいので」
と申し出があった。
彼は研修中もこの授業がいたく気に入っていて
卒論もそのグローバリゼーションの中で
伸びきっているグローバルサプライチェーンについて
調べ上げたりしていた。
時間を教えてくれれば、自宅でスカイプを繋いででも
参加したいとのことだった。
いいよ、いつでも参加しなよ。
スカイプの通信料は結構高くなるけど
それでも構わないという。
そこまで気に入ってくれると
やっている僕としては
素直にとても嬉しい。

そうだね、授業はもっと
オープンにしても面白いかもね。
インドネシアで見たい人たちに
いや日本にいるインドネシア実習生で
こういうことを勉強したいと思っている
そのニーズに応えられるように
していくのも面白いかもしれないな。

とりあえずは
クスワントに向けて発信してみようか。



23日の福井新聞で
取り上げていただいた。

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このブログでも
農園のスタッフを協力隊として送ることは
これまでも書いてきた通りだ。
農業というその土地に縛られる生業は
その特殊な生産のカタチによって
僕らは生態系を作り上げてきた。
たぶん、これからもそれは
この産業の、そしてこの生業の
主たる生態系として
僕らの考えや生き方や文化や人間関係に
大きく影響を与えることなんだろうと思う。
でも、その一方で
グローバルなつながりは
決して消えることなく
むしろ加速していくのも間違いない。
だからこそ僕らは前衛的に
農業の垣根を少し広げる作業に
着手することにした。
その一つが
スタッフを有給休職の条件で
インドネシアの今、農業研修で関わってもらっている
タンジュンサリ農業高校へ
青年海外協力隊として派遣する。
これでインドネシアの
農業教育と地域開発に
いよいよ農園が主体的にかかわることができる。
それが経営にどれほどの利点があるのか
と問われれば、やや説明し難いが、
その問い自体が近視眼的だと
今は批判したい。

2月の最終日に
機会を得てある雑誌の企画として
師匠と仰ぐ白石さんと対談した。
その時に思ったのは
僕が白石さんから教えてもらったことは
固定化した農業のイメージに切り込んで
次の世代に新しい農業の地平を
見せていく力だと思った。
僕もそうあろうと思う。


まず、純粋にこの旅は楽しかった。
1期生のヘンドラから7期生のレンディまで
カリマンタンに行ってしまったカダルスマン以外の
7名全員がマラン・バトゥの街に揃った。
まるで夢みたい。

農業研修なんてしても
結局、それぞれ農業以外の儲かる仕事に
就くのかもしれない。
そんな想像は常にあった。
農業なんて儲からない、と出来る奴であればあるほど
離れていくのだからしょうがない。
それは彼らがそれだけ優秀だったんだと
まだ始まってもいない未来を
勝手に想像して自分に言い聞かせていたころもあった。
でもなんだかんだあっても
農業研修を受けた連中は
地域のリーダーになるために
一心に営農とその壁にぶつかっていった。
その深度は
彼らの目じりのしわや
ただでさえ黒い肌がより黒くなっていることで
容易に想像できた。

今回の旅は
大学院で同級生だった現在大学教員のアニに
コーディネートを頼んでいた。
彼女には1期生から現在まで
村落ポテンシャル調査を依頼している。
彼女にとっても
研修卒業生たちは自分の弟
もしくは息子のような存在らしい。

彼女の提案した訪問先は
大きく3つに分かれていた。
老舗の観光農園グループ、
野心的なブローカーを中心に集まった若手のリンゴ農家集団、
そしてカリスマ農業者を中心に
大規模化している農家グループ。

これらについてひとつひとつ僕の目線で書いても良いのだが
来週中にも彼らから報告書が上がってくる予定なので
それをもらってから彼らの肩越しに書くことにしようか。

今回の旅では、
卒業生たちは
とにかく質問はそのグループの成り立ち、
どうやって市場を見つけたのか、その出会い方、
グループの運営の仕方、
といったマネジメントの部分に特化していた。
リンゴやキノコといった品目が栽培したいわけじゃない。
だからその栽培技術云々は特に
彼らの関心ごとではなく、
そこに至るプロセスの分析に集中していた。
現状を分析し
歴史を知り
その成り立っている要因と生態を浮き彫りにして
未来を想像し、そしてそうなるように創造する。
これが僕の研修の肝だった。
だから、それが少々いびつで
少々出来が悪い感じもしないでもないが
彼らの質問と視点からその姿勢が
うかがえたことが
とても嬉しかった。
あとは運があれば、きっとうまくいくだろうな。
彼らの報告書が楽しみでならない。

次回に続く


インドネシアの東ジャワに
リンゴで有名なバトゥという町がある。
今回はその町を訪ねた。
農園で研修を終えた卒業生たちが
今、集まって勉強会を開いているが
勉強会でスタディツアーに行こうと盛り上がり、
今回、バトゥへの旅行へと相成った。
ではなぜリンゴなのか?
卒業生の地域でリンゴ栽培に適しているからか?
そういうわけではない。
彼らは栽培技術的な面でリンゴを
捉えようとしているわけではない。
リンゴの生産組合はなぜグループ化に成功し
なぜリンゴは有用な品目として
バトゥの地を有名にせしめたのか、
そういうマネジメントの部分を勉強しようという旅だった。
卒業生たちは
それぞれに自分のビジネスをしている。
地理的には必ずしも近いと言えないこともあり、
それぞれの地域で自分のグループを作ったり
もしくは個人で営農やその周辺のサービスを行っている。
その一方で、個人の営農の限界、
特に輸送やマーケティングでの絶対量の少なさ、
個別対応によるコスト高の壁、
市場への安定供給の実現が個人の能力を超えている事、
情報収集の個人や小グループでの限界、
こういった壁を突き破れないでいた。
僕の農園であれこれと成功事例を分析し
彼らに成功のカギを伝授してきたつもりだが
これらの壁を打ち破っていくには
かなり投資をしていかなくてはならず
その投資のリスクを考えると
スケールアップできず、今日まで至っている。
小農は小農のままなのだろうか。
そんなあきらめも僕の中にはあった。
が、彼らは諦めていない。
耕志の会のインドネシア本部を作り、
月1回の勉強会を行い、
それぞれの課題に向けて少しずつだが
進み始めている。
その挑戦を大きく後押しするための
今回のバトゥへのスタディツアーである。

ちなみに
この旅の企画や実行、
質問の役割分担、またレポート作成は
そのすべての運営は、卒業生たちグループによる。
僕は、ただ「ついていった」に過ぎない。
僕からのアドバイスもほとんどなかったし
質問の中で僕が何かコメントを求められることもなかった。
考えなければいけないことは
もう彼らが分かっている感じだった。
あとありがちな観光地巡りすらもなかった。
全日程、農家や市場や有力者へのインタビューに費やされた。
僕が代表を務める
農協青壮年部の研修旅行の方が
ほとんど観光地めぐりなのに。

次回に続く







記録しないといけないことが
毎日山のようにあるのだが
今年は筆が進まない。
今月は特に
気分もすぐれないし
感情の突起も多いような、そんなような。
これが良く聞く更年期障害ってやつだろうか。
というのは余談。

さて、
まずはJICA基金について書こうか。
インドネシアの農民子弟を
農園で受け入れて農業研修を
技能実習制度を利用して行っているのは
これまで嫌というほど書いてきた。
めでたく、今年10人目のデデがやって来て
卒業生も7名になった。

そんな中、
今年卒業生たちが勉強会を立ち上げた。
僕らがここでやっているような勉強会を
インドネシアの農民たちとやるんだと言って。
僕も通信事情が悪い中、
Skypeなどでその勉強会に参加して
コメントをしてきた。
その勉強会と今後の方向性としての
共同栽培や共同出荷も視野に入れた
農業団体を立ち上げに向けた準備に入ろうとしている。
その活動を何とか予算付けして
盛り上げてあげられないだろうか?
と僕は今年
JICA基金にアプライをしていた。
(JICA基金の詳細はリンク先で)

それがこの10月めでたく採択事業になり、
現在、その書類を作成し、業務提携に向けて
動き出している。
現地でも口座の開設やこれからの方向性を
探るため
僕の友人でジュンベル大学の教員である
アニ女史が中心となって
フォーカスグループディスカッションを行い
それぞれの営農の問題点と
組織活動の意味を確認した。

このJICA基金では
農園と卒業生の現地との双方向性の
情報やり取りの拠点を作ることと
彼らの勉強会を支援すること、
また外部講師を招いて農民へのセミナーの開催や
そして今後生まれてくるであろうと期待する
農民支援組織の結成に向けて
インドネシア国内の
先進地を視察しようという活動だ。

さてさて、どこまで
福井で営農をしながら
こういう活動を支援、また係っていけるかは
かなり不透明で不安もあるが、
資金を取った分、その責任も大きいので
しっかりとやっていかないとな。
なんてプレッシャーがかかる
今日この頃である。
この案件を眺めている。
ちょっと複雑だが、
このページに
これが上がっているその事実に
涙がこみ上げてくれる。

その案件はこちらのホームページに。
http://www.jocv-info.jica.go.jp/jv/index.php?m=Info&yID=JL00616B11

こういう案件をいつかはと思い
この10年を過ごした。
自分だったらこういう活動をと
思って温めてきた10年だった。

青年海外協力隊の時、
当時の調整員と一緒に2つほど
案件の調査をしたことがあった。
あの当時は
その時の自分の能力的に
こういうことなら可能だろう、と思い
案件について隊員として意見を言った。
結果として
それはあまり良い案件にならず
派遣された隊員からは
なぜこんな案件なんですか?と
その後詰め寄られることもあった。
ちょっと苦い思い出。
こうやって案件は作られるんだって
勉強にもなった。

あれから留学もし
ある日本の高校と
インドネシアの高校とを
橋渡しをして15年の月日を費やした。
そのインドネシアの高校から
農業の研修生を受け入れて
関係を深め
相手の地域開発に深くかかわるようになるまでに
僕は10年を費やした。

今回のこれは
僕個人的にだが、
僕の10年だと思っている。
これに行く人間が誰かは
僕にはわからない。
そのことがちょっと複雑。
これに行く人は
それがわかっている人なのか
それがわかっていない人なのか
そのどちらかは僕にはまったくわからないが、
僕は言いたい。
これは僕のこれまでの10年の
涙と汗なんだって。

もう僕の手から離れていくかもしれない
これは、
僕の10年だったって
僕は言いたい。

その10年が
このページにアップされている。
その事実に今は
流れる涙はそのままにしよう。



研修卒業生のクスワントが
耕志の会にクレジットを申請したいと
申し入れがあった。
乾季でも水が使えるようにと
自分の農地に井戸を掘りたいらしい。

耕志の会は、
インドネシアの研修生と
農園のスタッフ有志とで
お金を出し合って運営している。
繰越金も増え、その分を
インドネシアに帰った卒業生を支援するお金として
マイクロファイナンスもしちゃおう、と
用意してきた。
だが、これまでは誰もそのお金を借りたいという
卒業生はいなかった。
というか、そこまでビジネスとして
卒業生が育っていなかった。
ここに来て
ようやくその成長の兆しが
見えてきたってわけ。

一応、マイクロファイナンスの
ルールらしきものは以前に考えたのだけど、
日本人側の基準で考えすぎていた部分もあったので
今回改めて作り直すことに。

まず今農園にいる研修生3名で
その素案を作ってもらった。
インドネシアでお金を借りる時の
彼らにとっての一般的なルールを反映させてもらう形で。
こちら側のルールだと
その内容を正確に想像できなくて
認識のずれが生まれてしまうので。

さて、彼らから出てきたルールは
返却のスピードと支払いの回数などに
少し違いはあったが、僕らの想像を超えるものはなかった。
これをたたき台に
皆で話し合いを開いた。
一番の議論は、
お金が返って来なかったらどうしようか?
ということだった。
ま、原資が減るから、
その心配はもっともだわな。
しかも貸し付ける相手は、遠く南の島の連中だものね。
まず、僕らがお金を回収することは不可能だろう。
幸か不幸か、
今年、インドネシア側にも卒業生の団体が立ち上がり
(Yayasan kuncup harapan tani:耕志の会のインドネシア版)
活動を少しずつだが始めている。
なので、資金回収はあちらの団体が行い
お金の管理はあちらの団体の口座で行えば良いだろうね。
で、会議での意見としては
返してもらえなかった時に担保を現金に換えて
損失に充てるってことだった。

でもさ、お金を貸す相手は、
ここで3年研修を受けた仲間たちなんだよ。
しかも耕志の会の余剰金は彼らの会費からも
出ているわけだしね。
あと、僕らはお金を運用したいわけじゃなくて
お金を貸して彼らの資金を活かしたいんだよね。
取り立てを厳しくすると
貧困に逆戻りになるんじゃないのかなぁ。
そりゃ、条件を厳しくしないと
お金をもらえるものだと勘違いされても困るんだけどね。
でも、もう、僕らはそんな関係じゃないと思う。
僕は、基本的にだけど人は皆、
良い人なんだと思っている。
つまりは性善説の立場。
それがどうしてもご縁で自分の不利益になるような
振る舞いになったりすることもあるのが
人との関係なんだろうってね。
お金を騙しとろうと思っているのだったら、
それを見抜けずに貸した側にも
問題があったんだと思う。
マイクロファイナンスの利用に
ビジネスプランを出してもらって
それを僕たちが精査して
これなら儲けられるでしょう、というものに
お金を貸すのだから、帰って来なかったら
そりゃ、貸した側の目が節穴だった、
ということなんだとも思う。

現地の卒業生たちにも審査に入ってもらって
最終的に日本ともSkypeでつないで話をして
そんで貸せば僕は良いと思う。
こんな笊みたいなお金の貸し方は、
笑われるかもしれないけど、
僕は制度じゃなくて関係性の中で
地域づくりをするというスタンスを
これからも貫きたい。



ちょっと今、いろいろと取り組みを
水面下で行っている。
インドネシア農業研修事業が
このまま研修を永遠と続けるのが
僕の本意ではなく、
もちろんその先には、
もっと違った目的があり
その目的に向かっての行動になる。

とはいっても、
僕一人がそれを夢想していて
それをやりたいから
それをやるというものでもない。
ま、当然と言えば当然だけど
その目的を共有する仲間が居ての話だよね。
この目的を共有する仲間作りが
僕のインドネシア農業研修事業の
そもそもの目的だったともいえるかな。
ここにくるのに10年かかった。
ちょっと長かったなぁ。

今、ちょっとした事業を起こすにあたって
ある団体にあることをアプライしようと
みんなで画策していて
そのプロポーザルが
インドネシアの研修卒業生たちから送られてきた。
中身に対しては
僕は一切の指導は行っていない。
彼らには研修で指導した以外は
後は僕は彼らとは同志であり
指導する立場ではない。

さて本来ならその活動内容は
まだまだ中身を皆さんにお知らせするわけには
いかないのだが、
そのプロポーザルの序文が
僕の胸を強く打ち、
これまでの苦労とかもう全部飛んで行ってしまうような
そんな感動があったので、
序文だけでも日本語訳して
ここに記録しようと思う。
インドネシア語を直訳に近い形で訳してあるので
意味がおかしいところもあるが
それは僕の能力のなさなので
許してほしい。
ただ、インドネシアの農家が
こういう視点に立って
行動を起こそうというそういう姿勢が
僕を強く揺さぶる。
そういう意味を持つ文章。

以下、あるプロポーザルの序文

我々農園たやで研修をした卒業生にも言えることだが、インドネシアでは、農業は多くの民衆の生活の場である。そこには、神の恵みからいただいた豊かな自然が存在している。しかし、我々はその恵みを最適に扱うことがまだ出来ていない。そして同時に、先端技術の活用も出来ていない。それは、それを実践するために必要な知識やファシリティが足りないからでもある。

進んだ技術というのは、学校や講座で使われるのみで、実践レベルではまだ活用が進んでいない。それは農家に対してのインフォメーションや関心を引くような学習会が足りないということと、今の若い世代が農業でビジネスをしようという関心を持ち合わせていないことから生まれている。

今の農家は皆、高齢者である。本来であれば、グローバルな状況と近代的な農業への転換に向け、若返りは必至だ。我々は日本への研修という機会を得て、技術的に、農業インフラ的に、市場システム的に、自分たちの農業がどれほど取り残されてしまったものなのかを十分思い知らされた。だからこそ、農業の発展のために情熱を持った若い農家がこれから必要だということを知った。

民衆のライフスタイルはすでに向上し、求める野菜も多種類になり質的にも高い物を求めている。しかし、我々の農業の状況はいまだに世襲の惰性で行われており、こうした要求に応えられていない。それどころか、アセアンの域内自由貿易により地元の農家は他国から入ってくる農産物との競争にさらされていて、厳しい状況に置かれている。

ビジネスの決定的要因である市場は、長く伸びきったサプライチェーンによって農家の利益に味方していない。農家の販売価格と最終消費者の購入価格の価格差は広がる一方で、これは古典的な農業問題であるからなのか、農家もこの状況にすでに慣れてしまっている。このサプライチェーンをもしショートカットできれば、農家にとっても最終消費者にとっても大きな良いインパクトになるだろう。

サプライチェーン以外の問題としては、IZONシステムが挙げられる。これは、農家が栽培原資を持ち合わせていないことから、野菜の集荷商人からお金を借りて栽培し、その収穫物をその商人に売り渡す義務があるというシステムである。このシステムは農家にとってフェアではない。なぜなら買い取り価格はその商人が一方的に決めることができ、常に低価格だからである。交渉をするという選択肢が農家にはないのだ。

我々の願いは、こうした古典的な農業問題を解決する団体を組織することにある。我々の活動によって農家たちの精神と姿勢に変化を生み出し、グローバルな問題に対する認識を広め、新しい技術を学び取り、農業問題を一緒に解決するために行動し、そして持続可能な環境に適応した新しい農業を実現させたい。

我々の夢は、農業ビジネス支援事業である。正しい市場の情報を農家に伝え、新しい資材と農機具を提供し、農業の技術的訓練が出来る場所と機会を提供する。そして生産物のマーケティングも行う。そんな事業である。

この夢を実現させるために、我々農園たやで研修を受けた卒業生たちは、いくつかの活動(定例勉強会と先進地視察)を行っていきたい。定例勉強会は、公開で行い、農業の科学的知識を身につけていく。研修卒業生を中心に、農業高校や大学の学生、先生、また農家などが参加する予定でいる。

以上 序文終わり



研修の卒業生たちの勉強会に
Skypeで参加。
今回は、Wifiのつながりが悪く
画面は緑で、途中から映像はなかった。

発表者は第3期生のタタン。
帰国後、果樹の苗販売をしながら
大学の森林科に通う彼。
発表は、森林保護と農業。
インドネシアのような
広大で多様な島嶼国を
そのテーマで話すのは不可能なので、
今回の発表はあくまでスメダン県の付近の話だと
思ってほしい。

バンドゥンに隣接するスメダン県の
開発は近年顕著である。
高速道路の建設が行われ
東南アジア最大のダム建設だったり
その隣の県も大きな国際空港が予定されていたり、
と何かとにぎやか。
高速道路と並行して
幹線道路の拡張工事も行われていて
もう建設業界はウハウハだ。
バンドゥンから近いこともあって
有名大学が集中するジャティナゴール付近は
もう渋滞やら家の建設ラッシュやら
大型モールの出店やらで
てんてこ舞いさ。
こんな勢いは、今の日本にはないね。
さて、そんな中、
いつもマージナルに置かれるのが農業ってわけ。
農地は宅地に。
余った農業労働人口は都市へ。
農業で食べていこうという人たちは
出来るだけ辺境に追いやられていく。
で、問題になっているのが
国定公園など環境が保護されるべき場所が
違法に耕作されていくという現実だ。
押し出された農民が
新天地を探しての結果なので
構造的には経済開発によるものなのだけど、
そこはあまり考慮されず
ここだけに焦点を当てて議論されることが多い問題でもあるね。
で、タタンのプレゼンは
PHBMという住民と一緒に森を耕作し守っていこうっていう
プログラムだった。
アグロフォレストリーの考えを使って
耕作を禁止するのではなくて
それを耕作しつつ森林を育もうってやつね。
ま、考えはいいよ。それで。

でもね。
僕は最近思うんだよ。
農業が環境保護するのは、
環境に手を加えながら
自分たちの都合の良い形に
自然を少し触るような業種だからけど、
決定的に破壊しない方法をとるのが
生存戦略的には正しいので
その場に地縁を持つ人間であれば
徹底した収奪はしないはず。
環境保護と農業の融合は
だから良いと思うんだけど、
良いと思うんだよ、
でもね、
どっか引っかかるんだよな。
経済成長によって押し出されて
森の際まで人口圧が迫っていって
そこで環境が破壊されているって
そこだけをフォーカスして見ることが。
農業は産業だ。
だからその業種で働いている人の
生活がそれなりにしっかりとしていないと
この産業は斜陽になる。
生きがいとかじゃ、ダメなんだよ。
それも良いけど、それが全体じゃダメだ。

斜面で農業をするって大変だ。
棚田にすれば面積はこなせない。
機械化も難しい。
農産物や資材の運搬も大変。
そんなのをすべて含んでいるのが
森林保護と農業ってことなんだよ。
森林保護は持続できても
それは農業っていう産業の持続じゃない。

経済の発展と人口増加の現状を
その逆の下り坂にしても
結局中山間地に農業の問題を置き去りにしている。
農業は常にマージナルに置かれるってわけだ。
こういう議論の構造自体を
僕は強く批判したい!

という勉強会でした。
ごめんね、みんな。
多分みんなが議論したかったこととは
ずれた意見を提供したかもね。




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こんな日が来るなんて思わなかった。
といえば嘘になるか。
夢想はしていたけど
諦めてもいたし
勝手な期待は自分を傷つけるだけだから
と言い聞かせた時もあった。
でも、こんな日が来るなんてね。

それは農園の研修を卒業した
技能実習生たちが自主的勉強会を開き、
それに僕がSkypeで参加した事。
以前に長々と書いたエントリー、
年末年始のネットワーク作りで
卒業生たちがネットワークを作ろうと
盛り上がっていることは記録した。
そのネットワークの中で、
今回、記念すべき第一回の
勉強会が開かれた。
そこには
今まで僕が教えた
1期生から5期生までが顔をそろえ、
さらに意識ある高校生や大学のスタッフもいた。

今回の勉強会の発表は
1期生だったヘンドラ。
発表の内容はマーケティングについてだった。
マーケティングと書くと
なんだかすごいことをやっているようにも思えるが
彼の農産物を販売してきた経験からの話が中心だった。

ヘンドラは直接市場に持ち込まず
ブローカーへ販売をしている。
価格差は、市場価格と比べて
500ルピアだという。
市場の方が高く売れるのだが
買ってくれる市場内の商店や商人と
知り合いでない場合、販売は難しく、
また入荷量が多い場合は
その野菜を販売することすら難しいという。
その煩わしさが無いのが
ブローカーへの販売ということだ。
値段は500ルピア安いが
販売量に限度もない(上限が全くないことないだろうけど)。
販売に時間も取られないので
生産に集中できる。
この問題は僕らアンビシ勉強会でも
良く議題になるトピックだ。
生産者が必ず頭を悩ますテーマ
ともいえよう。
販売に力を入れようと思っても
大抵、自分か家族くらいでしか農業をやっていないので
その手間が出てこない。
でも単価は高くとりたいのなら
マーケティングしないと、と焦って
方々を営業に回り、イベントやマルシェにも出店する。
だが、販売に力を入れてマルシェを回っても
今度は生産が疎かになったりする。
注文を取っても
それだけ生産できなかったり。
またはその反対だったり。
そんな事ばかりだね。

ただヘンドラの言っていた
500ルピアの差額はちょっと気になる値段。
菜っ葉なら一束1500ルピアくらいが相場なので、
500ルピアも違うと、ちょっとブローカーは
暴利をむさぼっているようにも見えるね。

ディスカッションでは、
大学のスタッフの方から
日本での販売方法なんかをここで実践してほしいと
卒業生に要望があったり、
4期生のクスワントからは
新しい農業ビジネスが必要だという認識が語られたり。
実際にどうするべきかは、
話が進んでも五里霧中だった。
僕もアドバイスを求められたけど、
気の利いたことは言えず、
さっぱりダメおやじの体で座っていた。

ただ聞いていて思ったのが、
「それって農協じゃだめ?」ってこと。
委託販売では、ちょっとやっていけないけど、
買い取りして販売をしてくれる組織で、
自分の取り分を多くとっちゃうような
ブローカーじゃなくて、
農家の利益のために動ける組織って
みんな笑うかもしれないけど
農協なんじゃないかって。
少なくとも農業協同組合の理念には
そう謳われているよ。
今のカタチの農協が
そんな力も機能もないっていう人も多いだろうし
僕もそこに過度な期待はないけど、
でも初期の頃、
そう、まだぜい弱な市場と流通と
小農を代表する組織もなかった
そんな時代の、
もちろん日本じゃ、
そんな歴史も経験もないかもしれないけど、
そういう場合には
協同組合って案外悪くない気もしないでもない。

ただインドネシア語の語学力が
崩壊してしまっている現状と
協同組合の歴史も仕組みも
インドネシアでの法整備も
全く分からない現状では
僕の思いつきを会議の中で伝えることは出来ず、
1回目の会議は終了した。
ただの思いつきで終わるかもしれないけど、
でも、そういう農家に代わって販売する組織は
やっぱり絶対に必要だと
強く感じた。

Skypeを通じて会議に出られるなんてね。
福井の田舎に居ながらにして
彼らとこうしてまた問題点を共有し
一緒に歩めるという贅沢。
勢いのある彼らの勉強会は
感動と感慨深さがあった。
あああ、インドネシアは本当に発展するんだねって。
そしてそれと同時に
僕に能力が無ければそれでもう
お払い箱になってしまうような
そんな怖さもあった。
錆びついた語学力と
時代遅れになりつつある自分の学問。
ここからが僕が本当にやりたかったことなんだから、
僕もここが正念場だ。
僕もまた必死に彼らについていこう。
そう覚悟を決めた勉強会だった。




この夜のミーティングの結果は
すぐにタンジュンサリ農業高校側に伝えられた。
というのも、
以前にも書いたが
こうした活動を作ってほしいというのが
タンジュンサリ農業高校からの要望だったからだ。
ただし、それは2年も前の事だったけど。

ネットワークの中心として
学校の施設の一部を事務所として
借りられないか、というのが
僕たちの要望だった。
そして
その要望はまったく問題なく
受け入れられた。
良かった。

が、それで終わりじゃなかった。
校長先生は、
「ネットワーク作りは分かったし、勉強会やスタディツアーも大事だろう。でも、もっと踏み込んで農業ビジネスの展開が欲しい。君らなら出来るはずだ」
と、ちょっとこれまでとは
違ったトーンの話を始めた。
学校の施設を自由に使って良いから
もっと大きな農業ビジネスを実践してほしい
というのが学校側の要望として
今回新たに突きつけられたのだった。

僕が知っている校長は
とても温厚で、
こちらの要望もできる限り汲んでくれる
そんな方だった。
だがこの日は、少し違っていた。
どこか焦りのある、そんな感じだった。

「私はヘンドラが帰国して来てから、ずっとこの話をしている。学校でも農産物の生産をしているが、それは授業のためであって販売のためじゃない。でも販売もその実践としては言っているが、学校の先生は教育は得意でも作物の管理と販売まではなかなか業務が忙しくて手が回らないのが現状なんだ。だからヘンドラに、圃場の管理と販売のマネージャーになってほしいと何度も懇願したが、ヘンドラは地元にも戻るの一点張り。今回のネットワーク作りは大賛成だが、その活動だけをただ単に続けるのでは、納得はいかない。もう一つ踏み込んで、学校のハウスや畑などの施設も使って、このメンバーでマネージャーを務めて、農産物の販売に大きく踏み出してほしい。卒業生の中で大きな農家として名をはせたものもいるが、その中に君らも入ってほしい」
そんなことを校長は話した。
それも繰り返し繰り返し。
しつこいくらいに。。。
その都度、僕らは答えを濁した。
それぞれがすでに始めている
農業や仕事があるからだ。
校長のいうことも分からないでもないが
それをやるには
今、それぞれがやっている事との
同時進行は無理だった。
場は重くなり、口数も減っていく。
そして校長と先生たちだけが
何度も何度もビジネスをしろ、と
口説き続けていた。
とても不思議な光景だった。
インドネシアは変わった。
目の前で展開されている光景は
僕の知っているインドネシアじゃない。

ここからはただの推測だ。
ここまで焦る校長には
何かのプレッシャーがあるんだろうって
僕らは見ている。
一般普通科高校と職業系高校の比率が
以前は断トツで普通科高校だったのだが
職業系高校がどんどん増えている。
そして校長も話してくれたが
予算も以前とは全く違い、潤沢に使用できるのだとか。
そのためか、ここ数年は
タンジュンサリ農業高校では新しい施設や校舎が
次から次へと建てられていく。
経済成長の恩恵かと思っていたけど
それ以上に職業系高校への予算が
ずいぶんと増えているからだった。
農業分野もずいぶんと見直されているようで
成長分野としての農業という捉えられ方もしていて
統計を見ても
主産業に占める割合も少し戻している。
そして、
西ジャワ州で一番という評判を持っている
タンジュンサリ農業高校。
外国との交流も盛んで
国家事業を通じて
オーストラリア・タイにも生徒を派遣している。
さらに独自路線で
福井農林高校との交流、
農園たやへの農業研修派遣、と
他の農業高校から見たら異次元の活躍だ。
だからここ数年、
インドネシア農水省や教育省から
福井の田舎まで視察に来ていたってわけか。
これらは学校の高評価につながる。
僕もそれを意識してやって来たし、
交流事業でもその場を作ってきた。
たぶんそれが功を奏してきたんだろう。
だからその次の成果を求められているのかもしれない。
そんだけやっているんだから
そこを卒業した研修卒業生の成果は?ってことか。
先生は、
「もうすぐ我々は定年だ。ここ数年で成果を見せてほしい」と
最後にその本音も見られた。

その反面、
卒業生たちの反応は悪かった。
後でみんなと話をしたのだが、
やはり学校と一緒にビジネスは難しいという。
校長が仕切る可能性も高いし、
小間使いにされるんじゃないか、という懸念もある。
あと教育機関の考え方じゃ
ビジネスにならん、というのもメンバーの意見だった。
さもありなん、だね。

ヘンドラが
「地域を盛り上げるために僕らは勉強した。だから地元に戻って、そこを盛り上げる。それが僕の役目だ。今さら学校には戻れない」
と言い切った。
それは
僕が彼に何度もたたき込んだ思想だった。
ボゴール農科大の留学を終え
当初の野望だった、
世界で勝負することから、
僕はあえて地域づくりとして地元を選んだ。
僕は地元に戻るときに
自分の想いを強い思想に変えて
その塊として戻った。
その一番熱い時に来たのが
一期生のヘンドラだった。
だからヘンドラを見ると
あの時の自分に会っているような気がする時がある。
この時もそうだった。
僕は、なんだか申し訳なくてしょうがなかった。
ヘンドラがそういえばいうほど
自分が小さくなってしまったような
そんな気がした。

そんな中で
先生と卒業生のやり取りは続いた。
早すぎて理解がついていかないインドネシア語と
思いもしなかった展開と
その場面に呑まれてファシリテートも
気の利いた提案も
棚上げにするような言葉も出てこない、
それどころか
目の前の光景がなんだかスクリーンに映し出されている
別世界のような感覚と
旅の疲れから来る睡魔に襲われ、
僕は置物のようにそこに座っているだけだった。
こんな僕に
一体何が出来るのだろうか?

そろそろが潮時かな。
僕のできることや
僕が居ても良い場所も
もうそれほどなく、
僕の価値もここではあまりなくなっているんだ。
なぜだか
それがさみしいのではなく、
反対に
それがとても心地よかった。

おしまい




その夜は、本当に至福だった。
クスワントのプレゼンも良かったし、
他のメンバーの自分たちの予算で
やるんだという決意も良かった。
もう僕に手伝うことはないのかもしれない。
それはそれでいいのだろう。
でも少しさみしいね。
人間って贅沢だな。

と、しみじみしていたのだが、
クスワントが最後のプレゼンページに入ると
状況が変わった。
彼は今回のネットワークづくりにおいて
最終目的をただ単に懇親的な意味や
閉塞感のある村社会の中での
情報交換会といった意味だけではなかった。
彼は、このネットワークで目指すものとして
最後のプレゼンページで
「Inkubasi Agribisnis」
と名付けていた。
直訳だと農業ビジネスの培養とでもなるのだろうか。
そこで彼が提唱したのは
肥料や種・農薬などの資材の購入先と
農産物の販売先、
そして普及員などによる情報入手先を
一元化したビジネスの展開だった。
ま、ぱっとみたら農協だね、これは。
とにかくそういうビジネスを探っていく
勉強会とスタディツアーにしたいというのが
クスワントの目的でもあった。

これは卒業生たちの間でも
温度差があった。
一期生のヘンドラは明確にこれに反対をした。

僕の行っている研修でも
販売はとても大事な考察対象で
如何にして付加価値を付けていける販売にするのか、
また既存の流通のどこを中ぬけすればいいのか
などを話し合っているのだが、
帰国してもう5年も実践しているヘンドラには
それらの理論(僕の理論)が
少なくともスメダン近辺の小農には
あまり当てはまらないという実感があった。
市場への直接販売においては
無数の小売りが点在し、
それらへのマーケティングで消耗する。
しかもそれらの小売りも
ある程度大きいブローカーとつながっているので
そこに割って入る難しさも感じていた。
大きな企業との契約栽培は
価格は安定するが条件が厳しく
生産できなかった時のペナルティーが大きすぎて
小さな農家の集団では
手が出せなかった。
それらの経験からヘンドラが見つけた答えは、
「ある程度良識のあるブローカーに販売をする」
事だった。
小農はリスクは負えない。
販売に力を入れようと思っても
生産と販売のバランスが取れない。
僕が言う
君らが良識のあるブローカーになれ
という言葉も資金が無いので無理だし
小売りとの関係を築くのは一朝一夕にはいかないし
成功する見込みも立たない。
だから彼は
「ビジネスに手を出さず、良識のあるブローカーに販売をするのが一番いい」
という答えを導き出していた。
それまであがいて得た経験の言葉は
とても重かった。

だた彼にしても
現状の販売に満足はしていない。
だから、最終的には
どのような形態を目指すのかは別にして
農業の現状と問題点を洗い出して
新しいビジネスの展望を探す
という目的には賛同を得た。

このInkubasi Agribisnisという言葉には
僕のスイッチも入った。
ただ単に交流を目的としない勉強会ならば
ある程度時間を区切って
それぞれが協同してビジネスを展開できるかどうかを
考えた方が良い。
しかもそれにはすこしロケットエンジンも
必要になる。
現状では卒業生それぞれが
自分たちのビジネスを展開しているだけにすぎず、
それをただ単に統括しても
新しいものになるわけでもないし
グループとしての力を得るわけでもない。
その方向で考えるのならば
その方向でビジネスを志向する必要がある。
面白いじゃないか、クスワント。
君のアイディアに、僕は乗っかるよ。
時間を決めて、僕らはまた再び
一緒に考えていこうじゃないか。

その中でクスワントからの提案として、
僕の授業の一部をスカイプで受けられないか
というのがあった。
グローバリゼーションと農業の授業が
とても面白かったようなので
その流れで僕も彼らの勉強会の中で
授業をしようと思う。
この辺りの議論で
機材や授業に使う教材で
すこし予算が必要という話にもなった。

どこまで彼らのビジネスが
形となるのかはわからないが
僕は僕なりに協力を続けられる場所を見つけて
それはそれで嬉しかった。
もうしばらくは彼らから
一緒に歩んでも良いよって
言ってもらえたような
そんな気分の夜だった。




たぶん都会にいる人は
こういうことには
もう少し悩みが少ないんじゃないだろうか。
アクセスできる資源が多いから
無限とも思える
都会の人的・物的資源の中で
もがくことはあっても
何かしらアクセスはできるだろうからだ。
ナンノハナシ?
それは、
インドネシアから帰国すると
その国で連続していた日常が
完全に遮断されるという感覚。

田舎にいると
インドネシア語にアクセスができない。
ネットはあるので何とか情報は得られるが、
日常的にインドネシアの人と
係ることは皆無になる。
別の田舎の日常が始まり、
それが主となり、
あちらの国にいた生の感覚は
どっかの隅に追いやられ、
いつしかそれは思い出となり
徐々に消え失せて、
フィクションが増え、物語になる。
それはそれで新しい生活が始まるのだから
良いのだけど、
あちらの国の生の感覚、
とくにそれを愛してやまなかった人間には
身を削られるように辛い時もある。

あちらの友達からのメールやSNSの会話も
流行や事件やトレンドが古くなり、
だんだんぎこちなくなる。
賀状の挨拶のごとく
元気ですか?いつか会いましょう!
そんな会話が反復されたころには、
自分の生の感覚は完全に失ったと
思っても良いだろう。

それが嫌で
僕はいろんなことを田舎でもやってきた。
おかげさまで、
僕はようやくその田舎とインドネシアの
パラレルワールドから脱し、
どちらも一つの世界になりつつある。
(が、まだ少し壁があるかな???)
ちなみにこの感覚を持った人が
ある一定の数、農業団体の中にいないと
農産物の輸出なんて出来ないぜ、農水省さん。

さて、そんな感覚は
何も僕らだけのモノじゃない。
インドネシア技能実習生だって同じだった。
日本での日常とあの空気感が
突然に遮断されるのは
僕ら以上に
情報アクセスが難しい彼らの方が
もっとひどかったように思う。

今回のネットワーク作りで
彼らが真っ先に挙げてきた活動は、
まさにそれを乗り越えようという
活動でもあるように見えた。
彼らだけの勉強会の開催と
そこに僕の授業をジョイントさせるというアイディア。
ま、若干ジョイントの件は
僕がしゃしゃり出たということは
ここに明記しようかな。
いいじゃん、その生の感覚の仲間に
僕も入れてくれてもね。

だから今回の話し合いのイニシアティブも
1期生や2期生よりも
3期生と4期生が中心だった。
もっと日本とのつながりを求めているようにも
僕の目には強く映った。

さて、
前置きが長くなったが
次に彼らが挙げた活動について書くか。
それはスタディツアーの実施だった。
1年間の勉強会を通じて
自分たちの課題を深く掘り下げたのち、
それを克服しているような先進地へ
スタディツアーに出かけようというものだった。
すばらしいじゃないか!
もうこの辺りのプレゼンを
ワント(4期生)がしていた時には、
僕はもっといろんな気の利いたアドバイスを
してやろうと思っていたのだけど、
ただただ茫然とそのプレゼンを眺めているだけだった。

そして、ま、
スタディツアーとなると
やはり予算がすこし気になる。
その予算は自分たちで賄うと言っていたが
タタンが概算をしたところ、
結構な金額になりそうだと分かった。
最初は外島(ジャワ島の外の島)も含めて
話をしていたが、
徐々に西ジャワ州のそれも近所の事例を
挙げるようになっていた。
僕も協力隊時代に
「研修は距離的に遠くに行くのが必要なんじゃなくて、その深度を深めることが必要だ」
といって近隣での研修を実行したので
それ自体にはとくに反論はない。
ただ先進地が限られてくるのは
ちょっと残念かな。
そんな話をしていたら、
ヘンドラ(1期生)から
「耕志の会の予算から、少し援助って出来ませんか?20万円でも30万円でも良いんです」
なんてさらりと冗談を言う。
おいおい、その金額は
僕らの福井の団体の1年分の活動費以上だよ!

お金の話になったので
ここらで僕は草の根の話を少しすることにした。
実はこのプレゼンを聞いていたら
僕からお金の話をするのは
まさに彼らをスポイルすることだと
気が付いていたのだけど、
僕はダメな人間で
僕も仲間に入れてほしくなっちゃって
ついついこの話を切り出してしまったのだった。

彼らの反応はあまりにもあっさりしていた。
別に必要ないんだってさ。
ちょっと使い難さもあって、
そこまでがっちりと予算を組んでやるよりも
自分たちで出来ることを
出来るだけでやりたいと言っていた。
そりゃあ、スタディツアーに関しては
少し援助がもらえたらいいが
その程度でしかない。
その援助にしても、
僕と実習生と有志で運営している
耕志の会の会計での話だった。
もちろん、それにしたって
20万円とか30万円という額じゃないけどね。
変わってね、インドネシアは。
昔はこんなんじゃなかった。
必要とも思えない援助をもらうために
自分たちをそれに合わせて
動けない組織を
要らない活動を
いくつもいくつも作っていた。
そんな姿をたくさん見てきたから
その場での
彼らの態度が
まぶしかった。
君らは僕の誇りだ。

つづく


さて話が進まないので
一気に進めようか。
僕らはクスワント(第4期生)の家に
泊まることになっていたが、
そこにカダルスマン(第5期生)以外の
すべての卒業生が集まり
議論することになった。
しかもみんなも泊まり込みで。

そこでちょっと嬉しかったことは、
もちろんみんなが泊まり込みで
議論しようという意気込みもそうだったんだけど、
それと同じくらい、
いやそれ以上だったのは、
クスワントが今回の議論を
パワーポイントにまとめて
プレゼンを含みながら議論を
進めてくれたことだった。
そうそう、こういう訓練を
僕らはいっぱいやったんだから、
これくらいはやってもらいたかったんだよ。

卒業生のネットワーク作りは
みんなの総意でやろうということにはなったが
肝心の活動はどうするのか?
それが課題だった。
卒業生たちから上がってきた
活動は3つだった。
そのうちの2つは
すでにSNSを通じて議論されていたことだった。

まず
彼らが挙げた活動は、
勉強会の開催だった。
僕は勉強会を開くのが好きだ。
自分の知識は限界があるし
人間ひとりで学ぶことは無理だ。
本を読んでも
僕みたいに頭があんまりよくない人間は
すんなり内容が入ってこない。
だから学ぶ意思を持った
仲間と一緒に切磋琢磨してこそ
僕らは知識を肉体の血と肉に変えて
実践で役に立つものにできると思っている。
だからボゴールに留学していた時も
帰国してここで農業を始めた時も
いつも勉強会を開いていた。
それは今も続いている。
(詳しくはカテゴリーのアンビシ勉強会を参照されたし。)

で、その勉強会に
インドネシアの実習生も参加していた。
その時の雰囲気や熱気が
彼らにも感化したのだろう。
インドネシアに帰国して
それぞれの村で営農や日々の仕事に追われると
新しい知識や考えに触れる機会は
少なかった。
日本で僕らがやっているような
勉強会の熱気がとても大切なものに
思えるようになったのだという。
さもありなん。

そこで自分たちも勉強会を開きたいと
今回の活動に挙げることにした。
毎月最終の日曜日の午後に集まり、
メンバーが持ち回りで発表する。
自分たちの営農の現状や課題を発表したり
新しい技術や栽培法を話し合ったり
したいという。
自分たちだけでは
知識の限界もある。
だから年に1回は外部から
ゲストティーチャーを呼んで
講演も企画したいという。
参加者は研修卒業生だけに限らず
農業高校の先生や生徒(3年生に限る)、卒業生も
参加可能とした。

そこでクスワントから一つお願いがあった。
それは
僕が「グローバリゼーションと農業」という授業で
使用しているDVDをインドネシアにも送ってほしい
というのだ。
「田舎に戻って農業をしているとグローバルな動きをとても感じられなくなるんです。日本で徹さんのところで勉強していた時に感じた、ダイナミックなグローバルな視点を今も感じて営農したいんです。」
なんていうんだ。
この時は結構グッと来た。
あとちょっとで泣いてしまいそうなくらい
嬉しかった。
わかったよ、ワント。
DVDは君が帰ってからも新作を買い続けているから
それを送るよ。
で、それだけじゃ日本語だからわからないだろうから
僕はそれを元に教科書をインドネシア語で作るよ。
あと、日本のインドネシアを結んで
その授業をそっちでも受けられるようにするよ。
年間12回の君らの勉強会の1回は
僕が担当しようじゃないか。
という話になった。
授業していた時は、
宿題めんどくさそうだったし
僕の拙いインドネシア語も
理解しにくそうだったし
仕事で疲れているのに何でこんな勉強するんだ?
っていう雰囲気の時もあったし
僕も暖簾に腕押しな時に消耗して、
自分のモティベーションを維持できなくて
辞めてしまおうかなんて思ったこともあった。
でもそんなすべてが
このやり取りで吹き飛んでしまった。
こういうことがあるから
僕はこの活動をやめられない。
今回も事前にずいぶんと消耗し
(とくに腰の問題で・・・あと今の実習生とのやり取りでも)、
もうダメかな~、って思うことも多々あったんだけど
これでまたしばらくは僕の推進力は
保たれることになった。

つづく



2年前に頼まれた
タンジュンサリ農業高校の
ネットワークは、
この時の印象を記憶の限り思い出せば、
それは研修卒業生たちと
交換留学経験者たちのネットワークで、
その中で何か活動できないか、という程度だった。
近況のやり取りだけでは
その会自体が存続する意味はあまりない。
会の事務所は学校の施設を使えばいい、
という破格の申し出だったが
この時は正直、乗り気はしなかった。
そんな会を作ってどうするんだ?というのが
率直な感想だった。

では、なぜ今になって
そんな前にスルーしてしまったアジェンダを
掘り起こすのか?
たしかにOB会の総会で「けしかけられた」というのも
あるけど、
それだけじゃない。
僕もうすうす気が付いていたことがある。
今やっていることの、その先をどうするのかってことを。

外国人技能実習生の本来あるべき姿と
それを真っ当な形で運用することができた場合
スンダの村の事情に詳しいというような
条件が揃えば
日本の福井という田舎に居ても
いや田舎だからこそ
農業という共通のカテゴリで
でもその社会・文化的ストラクチャーの
違いによって目に見える
その形の違いとギャップを包含しつつ、
だけど農業のもつ独特の生産様式から
影響を受ける生活や経営体や考え方を
すべてひっくるめて
一緒に考えることのできる土俵に立って、
何も後ろめたくもなく
農業というキーワードで
ここ福井の村とスンダの村の発展について
正々堂々と係れるんじゃないか?
と考えていた。
で、その野望は
それなりに形になり、
それなりに結果らしいものを
得ることができた。
といっても
まだまだみんなはその小さな結果の中で
躓いているんだけどね。
だから、僕らは、
その次を見たくなった。
その形になりつつある結果を
僕はどう背中を押せるのか?
そんな気分の中での
今回の訪問だった。

それに合わせて夏ごろから
SNSを駆使して、
研修の卒業生たちと
このアジェンダについて共有し
議論を繰り返してきた。
と書いたけど
その卒業生たちとの議論の結果は
僕を満足させることはなかった。
もう一歩踏み込んだ議論をしようとする僕の前に
彼らは必ず決まってこう答えた。
「田谷さんが来たら、僕らは議論を深めます」。
そのぬるい答えは
僕を失望させるのに十分だった。
その失望とそんなことに傷ついてやるものか!
という僕の気持ちの半分半分の中での
今回の訪問だった。

つづく



年末年始はインドネシアにいた。
いろいろと交渉事や調査など
いくつかの用事が重なったので
年末年始にインドネシアに行くことにした。
パスポートをめくってみると、
今回のインドネシア行きは2年ぶりになる。
それももっと違う日程で行きたかったのだが、
一昨年から役が多くなり
そういう日程が組めなくなって
年末年始という絶対に会議が入らないだろうという
日程でインドネシアに行くことに。
決して、カウントダウンを海外で、
といった観光的なお気楽旅ではなかったことを
ここに明記したいね。

さて、いくつかミッションがあったが
このカテゴリではインドネシア実習生と
その後の農村開発について記そう。

前回のエントリーにもあったように
あるお誘いというかそそのかしというか
そういうモノがあって
もうすぐ10年を迎える
農園独自の農業研修事業も
次の展開が必要じゃないか?と
思うようなっていた。
ちょうど2年前に訪問した時に
実習生の人選を行っている
タンジュンサリ農業高校から
実習卒業生と福井農林高校との交換留学に参加した
卒業生を合わせて組織を作り
ネットワークを作ってほしいと
依頼を受けていた。
その答えとして
僕はJICAの「新・草の根パートナー型」事業の
提案を考えていた。
タンジュンサリ高校にネットワークとなる組織の
事務所を開設し
そこを起点にさまざまな活動をデザインしていく。
そんな話し合いに今回は臨んでいた。
ただし、草の根パートナー型事業の活用は
決定ではなく、
ただ単に個人的なアイディアにすぎないことは
ここに明記しておく。

つづく





ちょっと焦っている。
珍しく調整がつかない。
それは福農とタンジュンサリ農業高校の
交流事業。

僕が係ってから今年でもう
13年になるこの事業。
僕も両校もすでに慣れたもので
何がどう必要なのかは
阿吽の呼吸で分かっていた。
つもりだった。

今回、福農学生が
今度の日曜日にインドネシアに向けて発つ。
タンジュンサリ農業高校と交流するのが
主目的なのだが、
その内容がここに来て
うまく調整できていないのだ。
それは
昨日タンジュンサリ農業高校から
送られてきた日程表を見てのことだ。
さすがに我が目を疑った。
何度も電話連絡をして、
メールでも日程を送って、
で、出てきた日程が
こちらの意図と違う箇所が
いくつもあったからだ。
なんで?どうして?

急きょ責任者が集まって
本日国際電話会談の予定。

今回の顛末は
慣れ切っていた僕の見通しが
甘かったからだと思う。
この事業の本当の責任者も
僕はちゃんと確認していなかったし
僕はどこまで動くのかも
確認しなかった。
どこまで僕の責任で調整すればいいのかも
それも確認しなかった。
そして僕は部外者なのに
タンジュンサリ農業高校側から見れば
僕が最古参に見えるから
(学校の先生たちは人事異動があるので)
僕のあいまいな答えが
すべて正式なものになっていく。
僕の手元にすべての情報が集まっているのなら
これまでの交流の流れから
ある程度判断はついたことも
今回は、とにかく僕に情報が無かった。
というか知らされていない情報が
とにかく多かった。
というのは言い訳か。

ま、ウルトラCで
今日まとめるしかないね。
いい加減な仕事の仕方になっているなぁ。
クオリティが低いのは
僕のキャパを越えてしまっているから、と
もっと早くに認めないとな。
なんだかこういうのって
係る人みんなが辛いね。
自戒を込めて記録した。



久しぶりに
週末に福井の青年海外協力隊OB会の
総会に出席した。

顔ぶれもずいぶんとフレッシュになり、
平成一けた台の隊員OBには
ちょっと出席しにくい感じがないでもない。
だが、
日頃いろいろとJICAにはお世話になっているし
1人でも協力隊を輩出したいと最近は強く思うので、
そういう意味でも
OB会が少しでも盛んになるようにと思って
家族で参加した。

これまでは、
日々の仕事の忙しさを言い訳に
OB会の日々の活動には
ほとんど参加してこなかった。
総会で活動報告を聞いていて
そんな自分に少し反省。

さて、
その総会でJICAやJOCAの方々が
来賓として出席されており、
その方々からちょっとした提案をいただいた。
僕が今やっている
インドネシア・タンジュンサリ農業高校との
交流事業や研修事業を
より発展的に行わないのか?という
提案というよりも「そそのかし」と
言ったほうがいいだろうな。

実際、あちらの高校に
僕らが研修を行っている団体「耕志の会」の
事務所を作らないか、と
あちらの高校から提案を受けていて、
というよりも、受けたけどこちらが煮え切らないから
かなり浮遊してしまっている案件だけど、
そういう話がないわけでもない。

これまでは事務所を作っても
その目的も機能もはっきりしなかったし
これ以上自己資金で
農村開発に首を突っ込むほど
お金に余裕がないということもあって
すこし距離を置いていたが、
タンジュンサリ農業高校とは
全く関係もない別の方向から
そそのかされると
僕も少しその気になってしまうから怖い。

やりたいことはある。
たくさんある。
いっそ、自分があっちに出向いて
やってしまいたいことだらけだ。
少なくとも資金があれば、
あれもこれもと思い浮かぶが
そんなお金はなかったし余裕もない。
先日職場内でサマードリームジャンボの話で
盛り上がった時、
「徹さんは7億円当たったら何に使いますか?」
と聞かれて
迷いなく、
「インドネシアのタンジュンサリに事務所開いて、今の団体をNGO登録して、職員を数名配置して農村開発プロジェクトを行いたいね」と答えたところだった。

時間的に全く余裕はないのだが、
自前で行ってきた
インドネシアの農業研修が今年で8年目になり、
そろそろ10年という節目を迎えるにあたって
次のステップに進みたいと
前々から本気で考えてきた。
もしそういうことが可能なタイミングが
来るのであれば、
そういう風が吹いてくるのであれば、
僕もここでもうひと奮起しようか。
ちょっといろいろと検討してみようと思う。







P6200711.jpg

こういうこともやっている。
から時間がないんだって言われるけど
インドネシアのことなら
どんなことでも後回しにして
やりたいのだからしょうがないね。

土曜日に金沢のJICA北陸事務所まで行く。
JICA北陸とJICA四国共同で
今年、学校の先生たちを海外に研修に送り出す事業で
インドネシアに行くことになった。
で、事前の訪問国研修を頼まれた。
僕は教育関係にそれほど詳しいわけではないが、
あっちの大学院で学生もしていたし、
インドネシアの農業高校とも
かなり密にお付き合いしているので
その範囲で、インドネシアの全般+αで
教育や学生事情について話してきた。
アシスタントとして
研修3年生のジャジャンくんも同行。

2時間の研修だったが
面白かったのはジャジャンくんの
普通の高校生の日常ってプレゼン。
朝5時に起きて、学校行って、クラブ活動して、
夜寝るまでの生活のプレゼンは
日本の高校生との違いも多く
面白かったな。

日本とのつながりも大きいインドネシアで
先生たちもこの派遣を通じて
子供たちに何か伝えられるような
グローバルで実践的なネタを
うまく拾ってこられるといいな。



P2140460.jpg

先月行われた
インドネシア農村スタディツアー報告会が
2月14日土曜日に
AOSSAの6階和室「あじさい」にて
開かれた。
参加者は25名。
こぢんまりとしたアットホームな報告会で、
主催は、
僕が代表を務める
Yayasan Kuncup Harapan Tani耕志の会。

発表は2部構成。
第1部では、インドネシア技能実習生の
農業研修概要と
研修生の自己紹介、
そして研修3年生の卒業研究報告をおこなった。
第2部では、インドネシア農村スタディツアーに
参加したメンバーから現地の様子や感想などの
報告があった。

この研修は、
福井農林高校とタンジュンサリ農業高校の
交流事業から派生した。
だから報告会では歴代の校長先生たちにも
ご出席いただいた。

またスタディツアーは
JICA北陸の市民参加プログラムにて
助成をいただいており、
今回の報告会でも職員の方にご出席いただいた。

他、協力隊OB会や農園のスタッフ、友人多数の方々が
報告に耳を傾けてくれた。

インドネシア農村スタディツアーを企画した当初は
これらの方々が参加してくれるようなツアーに
するはずだったのだが、
日程や旅行内容のハードルが高く、
応募は振るわなかった。
スタディツアーの主目的は、
インドネシア技能実習生たちがどういった環境から
やってくるのかを直に見に行こうというものだったので、
どうしてもインフラの整っていない農村部へ
数日泊まり込むというツアーになっていた。
僕らにとっての当然であるライフラインが
整備されていない地域への旅行は、
やはりしりごみしてしまうのだろう。
そこで最終的には村泊を1日だけとして
他の地域の農業も見るということで
バリ行も加え、ツアーを企画し直し、
8名の参加者で行った。

今回の報告会では、
参加はしなかったものの
それでも農園の農業研修にご協力をいただいている方々に、
技能実習生がどんな環境からやってきて
そしてどんな夢を持って
どんな風に現地であがいているのかを
知ってもらうのが目的だった。

だから第1部でも
3年生の卒業研究には帰国後の自分たちの進路についても
触れてもらった。
(そのプレゼンを作成する過程で、僕はダルスとの例の一件が起こったわけだが、それはリンク先のエントリーを参照されたい)。
個人的にはカダルスマンの発表が
心に残ったし、
彼の話がたぶんその地域の
土地なし農民の声に近いように思う。
彼はコシヒカリの栽培を卒業研究としていた。
だが、彼はそれを実現できるだけの土地も
施設も資金もなかった。
いくばくかの土地を買い集め
コシヒカリ栽培に乗り出すことも可能だったかもしれないが、
それで貧困から抜け出せるわけではないことは
彼は良く知っていた。
だからパームオイルのプランテーションで
働く決心をした。
彼のプレゼンの中でそこに至る
思考のプロセスと
今の考え方が明示されていて、
この研修の目的である
「考える農民」の片鱗が
少しだけうかがえたのはとてもうれしかった。

第2部のスタディツアー報告では、
まずツアー参加の大学生が、
5日間の旅行内容を数分にまとめたビデオを上映した。
卒業生やその生活ぶりが分かる映像で、
彼らを知る人間にとっては、
涙腺が緩むような絵ばかりだった。
参加者それぞれの感想も良かった。
このスタディツアーを通じて、
参加者たちは
技能実習生たちのリアリティを体験した。
その生の感覚が、
異文化の実習生たちの態度や考えを理解するのに
とてもプラスになっているのがその感想から感じられた。
そんな視点が
僕にはどこかで普通になってしまっていた
実習生たちの文化を異文化として
再び捉える機会にもなった。
たぶん、僕は、実習生たちの考えや態度に対して
判断や処理をショートカットするクセが
ついてしまっていたのだろうな。

一方で、農園のスタッフとして、
また耕志の会のメンバーとして
インドネシア実習生の座学や研究に関わってきた
佐藤の話には僕も考えさせられた。
僕は、実習生たちのリアリティを
それなりに想像できるし、帰国後も
(『たま~に』ではあるが)気軽にSNSなどを通じて
連絡を取り、現状報告を受けたり
彼らの問題についてディスカッションもしている。
だからまったくと言っていいほど、
僕は佐藤の悩みに気が付かなかった。
それは彼が一所懸命にかかわっているにもかかわらず
彼らが一体どうなっていくのかが分からないという
レスポンスがない中で、
どうやってモティベーションを維持していこうかという
悩みを抱えていたということだ。
言葉では相談を受けていたが、
僕の生の感覚にそれが無かったためか、
さほど問題視していなかった。
だが、彼の感想を聞いて、
その事の重大さと今回のスタディツアーが
その問題を解決するためにとても大きな役割を
持っていたということを
この報告会で気付かされた。
そうだよな。
僕もちょっとしたインドネシア実習生からの
レスポンスに大きく喜んだり
大きく失望したりしてるんだもんな。
そのレスポンスを感じられない立場は、
たぶん、それを感じて失望をするよりも
もっと辛いことだったろう。

最後にとても興味深い質問が出た。
その質問を投げかけてくれたのは、
協力隊OBで県の農業普及員でもある川崎君だ。
研修を受け入れる側として、
研修生たちのどういった変化が成長として大切なのか?という問いだった。
それの答えは、僕の中では明快だ。
人とは違う視点、常識にとらわれない考え方が
できるようになる、ということ。
人や周りの雰囲気でなんとなく考えるのではなく、
自分で判断し、自分で道を切り開ける人間になる、
ということ。

ここに来る子たちは皆、
学校では優等生だった子が多い。
タンジュンサリ農業高校で選考してもらうのだから、
そういう子が選ばれがちだ。
全員がそうだとは言わないが、
優等生というのは、その学校が思い描く枠に
自らをおしこめることができる人間という
場合も多いだろう。
優等生になりきれなかったから
僕は僻んでそういうことを言うわけじゃないよ!

ここに来る子たちは皆、
僕の問いに判で押したように
同じ答えをする。
なぜ?日本に来たかったのか?
『日本の最先端の技術を学びたいからです』と。
その考えは、間違い。
勘違いと思い込みが作り上げた虚像さ。
その枠から自分の思考を自由にする。
それがここでの研修中に行う作業だ。
もちろん、学びたいという技術は
僕ができる限りは教えてもいるけどね。
でも、それを覚えるのが正解はないんだ。

カダルスマンの事件があった時、
彼との話し合いで、彼は申し訳なさそうにこう言った。
『先生が教えてくれることは、言いにくいのですが何一つインドネシアでは通用しないと思います』。
そう、それ正解。
その時僕は彼にこう言った。
僕も知っているよ。
僕はそれが通用しないことも
役に立たないことも知っている。
じゃ、僕らは何をそんなに一所懸命
農業の技術について話し合ってきたのか。
実はその技術とインドネシアの実情を
一緒にすり合わせるプロセスで
君らの思考を鍛えていたんだよ。
だから君は途中で気が付いた。
だから君はパームオイルのプランテーションに投資し
そこで働く道を選んだ。
でもそれはなんとなくそれが儲かるというわけじゃなく
君なりに考えた答えだろ?
だから、それは正解だ。
ちなみに
カダルスマンの一件は、
その思考が、僕のいう正解のレベルに達しようとしていたのに
それを僕に言わずに隠したことが問題だった
(問題というか、僕が萎えたというだけのことだけど)。
それは全体の中ではごく小さいなことさ。

川崎君の問いのおかげで
僕自身もより明確に自分の中にある
答えに行きついたような気がした。
そう、この研修の目的は
自由自在に、そして常識に捉われない、
自分で困難に立ち向かえる、
自分で道を切り開ける、
そんな思考を身につけることなのだ。

いろんな気付きを得られた報告会だったと思う。
こんなダイナミズムを得られる機会は
そうそう無い。
この報告会に参加し
みんなでその場を作り上げてくれた
すべての参加者にお礼を述べたい。
また、この報告会をマネジメントしてくれた
妻・小國和子に心から感謝を述べたい。

本当にありがとうございました。



今月、インドネシアから来ていた
タンジュンサリ農業高校(以下:タ農)一団は
無事帰国の途に就いた。
今回も微力であるが
通訳兼アドバイザーとして
福井農林高校(以下:福農)とタ農の
両校の交流を前に進めることができたと思う(自画自賛)。
これで殺人的に
忙しかった10月も終わる。

さて、今回の交流は
インドネシア側から農水省や西ジャワ州の
部長さんなども同行した。
インドネシアでもこうした高校レベルの友好提携は
とても珍しく
しかも、両校の交流がすでに18年という長期に
渡っていることを評価いただいた。
僕はそのうち12年間を関わらせてもらったのだが、
この出会いは僕にとっても大きなものだった。

僕が関わるようになってから、
18名のタ農の学生が福井を訪れたが、
そのほとんどが公務員や民間企業で
活躍する人材になっているらしい。
そのうちの一人は(イラ)、今、
僕が行っている農業研修事業に
技能実習生として参加していて、
僕の農園で毎日勉強に励んでもいる。
また18名の一人で、
イマンという少年もいた。
長身でメガネが良く似合う少年で、
年の割に落ち着いていて、
微笑みが印象的な少年だった。
福農に留学中は、農園で数日預かったこともあった。
実習生の授業にも混じって勉強したのだが、
なかなか優秀で一所懸命だったのを思い出す。
実はその彼、研修2年生のジャジャンの
同郷の先輩にあたる。
そしてそのイマンが、
ジャジャンがタ農に入るきっかけを作ったらしい。

長くやるといろんなことがいろんな風に、
ランダムに、イレギュラーに、
そしてダイナミックにつながってくる。
そんなダイナミズムがとても心地よい。

そしてそのダイナミズムに
もう一つ変化が生まれる点を打とうと
今、僕らの団体が主体となった
スタディツアーを計画している。
今回同行していた
タ農の先生とも
旅の内容についての打ち合わせも
無事終わった。
きっとこのスタディツアーからも
新しいつながりができてくるだろう。
どんなうねりを生み出すかは、
乞うご期待。



今、福井農林高校(以下:福農)に
インドネシア・タンジュンサリ農業高校(以下:タ農)の
一団が来ている。
それに合わせて、
農水省の部長と西ジャワ州の部長、
そしてレンバン総合職業高校(以下:レ農)の校長も
一緒にやってきていた。

「やってきていた」と書いたのは、
彼ら彼女らはすでに福井を発ってしまったから。
たった一泊だけの滞在だった。
慌ただしい日程でも
わざわざ福井まで来たのは
理由があった。
それはただ単に
福井農林高校を視察しようというものではなかった。
もちろん、それも目的だっただろうけど。

主目的は、
タ農と福農のように、
レ農も福農と交流事業を行いたい
という申し入れだった。
というか、すでに友好提携書を携えて
しかもすでにその書類に
西ジャワの教育長のサイン入りで
持ってきていた。
僕は今回初めてレ農の校長に会ったのだが、
会って1時間も経っていないうちに、
「タヤ、この書類に福農の校長先生のサインをもらえるように頼んでね」
と何かのついでに小物の買い物でも頼むような
そんな気軽さで、レ農の校長から
そのサイン入りの友好提携書を手渡された。
なんだかその時のその雰囲気が、
とても懐かしく思う自分がそこにいた。
僕は珍しく動揺も怒りも焦りも
そんな感情が湧きあがることなく
その手渡された書類を
ノスタルジックに眺めている自分が
可笑しくて仕方なかった。

経済大国になりつつあり(というかすでになっているか)、
驚くような経済成長を続け、
とても民主的な手法で
普通の人が大統領になったりするインドネシア。
もう僕の知らないインドネシアに
なってしまったんだ、と
最近はそんな気持ちを抱いていた。
ちょっとさみしい気もしていたが、
こういう所は相変わらず変わらない国なんだなぁ。

で、その友好提携書、
当然、ハイ解りました、となるわけはない。
メンバー全員で会議を開き、話し合った。
福農からの説明は明快で、
タ農との交流事業は卒業生の寄付で行っており、
県や国から財源的な支援があるわけではないので、
レ農をさらに受け入れていく予算的余裕がない、
と当然の回答だった。
レ農ももっと事前根回ししたらよかったのに、
と思っていたら、
その場に居合わせた農水省と西ジャワの部長とが
「予算が無いのなら、こちらから予算を出せば可能ですか?」と
切り込んできた。
それに対して福農は異論は特になく、
レ農の学生が福井に滞在する費用を
インドネシア側で持ってくれるのなら
受け入れは可能で、
もちろん人員的な問題やスケジュール等
些細な障害はまだまだあるにせよ、
インドネシア側の県と国が予算化に向けて
努力することで、会議は終了した。
ここを起点にして、
タ農とレ農の西ジャワ州が教育強化校に
指定している2校と福農の新しい交流を
模索して行こうとなった。
さすがにこのスピード感には驚いた。
やっぱりインドネシアは大国なんだ。
いろんなことを目の前で決めてしまえる裁量もあるし
それだけの予算もあるってことなんだろう。
あっでも、僕はそういうのちょっと嫌いなので、
できれば事前に根回ししてほしかったなぁ。

日本の教育は国際化といえば
英語教育ばかりに目を向けていて、
その弊害で、外国と言えば英語圏(先進国の)ばかりな
雰囲気が最近特に感じるようになってきている。
その偏見に少しでもくさびを打ち込むような
タ農レ農と福農の交流事業が
これから成り立つように
とても微力だが、僕も協力していこう。

さぁ、だんだん面白くなってきましたよ~♪





田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

俳句もしております。「雪解」「街」「いつき組」に所属しております。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
taya.tアットマークnifty.com
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(アットマークを@に置き換えて送信ください)

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