久しぶりの更新。
俳句にのめりすぎて、ブログに行きつかない。
こうしている今も、頭の半分以上を
明日締め切りのNHK俳句の兼題「蜥蜴」「蛍」の
句を練っていたりもする。
というのは置いておいて、
ブログの本題に入ろう。

先週の金曜日の夜は
とてもエキサイティングだった。
アンビシ勉強会があったからなのだが、
発表がとても良かった。
林君の発表で
環境制御によるトマト栽培の解説で
光合成効率をあげて増収するというもの。
本のデータを細部にわたって検討しており、
さらに福井や身近な環境のデータを補足してくれたので
本を読んでいない人にも十分考察に
ついていけるだけのプレゼンだった。
これまで聞いてきた中でも
トップ3に入るくらい、良い発表だったと思う。
さすがは林君だね。
他のメンバーもこのくらい自分に本を引き付けて
発表してくれると楽しいな。
というかまずは自分がそれをしないとな。

さて、環境制御とはどんな技術か。
一言でいえばオランダ型施設園芸。
徹底した環境をコントロールすることで
夢のような収量を上げることができるってやつ。
植物のもつポテンシャルを最大に引き出す技術で、
この場合は特に光合成に着目し
そこを画期的に引き延ばしている。
トマトの収量の比較では、
日本のトマト栽培で約20~30トン/10a/年ほどで、
福井の産地である東安居では、
9~10トン/10a/年。
同地区でたくさん取る人で15トンほど。
北陸は日照量が少ないし、冬季の栽培が難しいので
通年でとれない分収量は減るね。
それがオランダだと
70トン/10a/年だというから驚きだ。
もはや同じ植物の「トマト」じゃないんじゃないかって
思ってしまうほどの収量の差がある。
理論上はトマトのMAXの収量は
120トンまで行けるらしい。
オランダではすでに100トン取っているケースもあるのだとか。
植物の持つ最大の能力を見事に引き出していると言えよう。

では、その秘密の中身は何か?
それは光合成効率を最大まで引き上げるということ。
まず大事なのは二酸化炭素の施用だ。
CO2は光合成には欠かせない。
その濃度を上げれ、当然光合成効率は向上する。
しかしCO2は、光合成をおこなえば減り続けていく。
とくに温度管理をしている施設内は
外気と隔離されている場合には、
光合成が開始されることで、
施設内のこの濃度が著しく低下してしまう。
なのでCO2を常に施設内に施用することが大切になる。
ま、このエネルギーをどう確保するのか
その辺りが省エネを目指すべき社会には
大きな課題だろうけどね。

次に湿度。
温度よりも湿度が重要。
なぜか?
それは植物の気孔の開閉に大きくかかわるからである。
CO2は気孔より取り込まれる。
なので湿度が高すぎると気孔が閉まってしまうのだが
その場合、光合成は効率よく行われない。
ちょっと専門的だが
3~6g/㎥程度の飽差が最適とのこと。
その湿度を保つことで最適な光合成環境が整うらしい。

その次に温度と潅水と施肥。
我々農業者が一所懸命やっているのが
この3つなのだが、環境制御の中では
それらは3番目や4番目だったりする。

光1%増えると作物の収量も1%増える。
その考えで光の量にも気を配る。
これらすべてを最適な環境にすれば
トマト120トンも夢ではないらしい。
ちなみにオランダの日射量は
日本の太平洋地域よりも少ない。
林君の調べによると
福井でも冬場の日射量は
トマト収穫に必要な日射量は無いものの
オランダの冬季よりも多く
環境制御のシステムも利用できるのではないかと
締めくくってくれた。

量を取るということでいえば
このシステムに勝るものはないかもしれない。
光合成を最適にする理論で
果菜類などでは、これが無敵の栽培法なんだろう。
あとは僕らがつながっている市場がなんなのかってことかな。
量を必要としているのか
またその量によって市場の需要としている関係なのか、
その場合は、この方法がより最適だろう。
だが、
必ずしもそれだけが市場ではない。
情報と質が必要な市場であれば
このシステムが必ずしも最適ではないということも
議論をする中で明確になった。
1つの栽培法は
それを必要とする文脈では最強かもしれないが
やはり文脈が変わってくれば
それが特化して最強であればあるほど
他に転用の効かない無用な技術でもあることを
僕らは忘れてはならない。

林君の発表がとても素晴らしく
議論が深まったからこそ
見えてきた大切な結論だと思う。



ブログのアナライザーを見ると
木曜日が閲覧が多くなる。
みんなも木曜日に更新されるぞって
知ってるんだね~。
ちょっと一日ずれたけど、
その期待に応えて久しぶりに書くか。

記録しないといけないことは
日々多いのだけど
今年はどうしても記録が疎かになる。
7月はたったの3回だもんね。ありえないな。
もう少し書こう。

今回は7月28日のアンビシ勉強会について
記録しようか。

毎回自分の発表ではテーマを決めて
そのテーマに沿って数冊読んで
プレゼンしていたけど
今回は準備が1か月しかなかったので
1冊だけでプレゼン。
ま、テーマは
「働くことについて考えてみよう」
ってことにした。

参考文献は、これ。

内山節 竹内静子 著 『往復書簡 思想としての労働』.1997.農文協.

あ~内山節かぁって思ったかもしれないね。
うん、このブログでも、
7、8年前にさんざん取り上げて書いてきたけど、
ある日彼の示す出口じゃ、
農村は衰退するばかりじゃないか?と思うようになり
最近は全く読まなくなってしまっていた。
心は豊かになっても財布がさみしくなるというか、
その頃の僕の主題としては(今もそうだけど)
農業が産業となり若い人材がたくさん流入してきて
イノベーションも起き、
先進国や途上国という枠がぼやけ、
外国人も現場に増え、
国内外の農村と農村がグローバルにつながり、
刺激を受けながら自らの特徴を際立たせていくべきだと
思っていた。
そうしないと農業は沈没してしまうからだ。
だから、農業の現場は思想的な統一感よりも
資本主義に則った多様な活力ある経営の集合体で
あるべきだと思うようになった。
だからもう読まないと思っていたのだけど、
全くお金にもならない地域活動に
がんじがらめになる日々を数年経験するうちに
仕事にとって必要なことって何だろうって
思うようにもなった。
こういう時こそ
思想的な手助けが必要になるってわけか。
なので、活力ある経営の集合体だろうがなんだろうが
人として人が満足を得て日々を暮すことに
哲学はやはり切っても切り離せないんだ、と
そんな至極当たり前のことに
ここ10年かけて理解した次第。

ということで、本題に入ろう。
レジュメを分解しながら記録していこうと思う。

本書は哲学者内山と労働社会学者の竹内(実はかなり年の差のある夫婦)が
往復書簡形式で労働の意味をあえて理論的に定義せず、
思想として労働を捉えようとした本。

本書の本題は、
「近代西欧思想を再検討しつつ、人間や社会と労働の関係を、その大本にまで遡って創造しなおしてみたい」ことであり、
労働の変容が、人間、家族、社会などを
どのように変えたのか、を考察している。
人間労働は技術の蓄積と継承性を失い、
マニュアルに頼っての仕事になり、
最先端といわれるような職種に就いている人たちも、
技術の進歩に置き去りにされて使い捨てられることを
恐れていると指摘する。
重要なのは、
「思考や想像力を労働に活かしてつくりだされる様々なモノや行為は、ときに他者にそれが持つ経済的価値以上の満足をもたらし、そのことによってその人に、労働の喜びや誇りをもたらすものです。人間はこうした労働の創造を通じて、社会的な諸関係と個人としての自分自身を形成しているのです」という。

そう、労働を賃金を得るためだけに
閉じ込めてしまうことが
またその関係の中でしか形成されないモノと
捉えることが
その行為自体の意味を委縮させ、
全体として賃金が発生しない、
例えば生活や地域活動のような広義の労働を否定し
さらにはコミュニティとしての
産業としての「場」の委縮につながっていくのである。
農業を多様な経営体の集合として
活力あるモノにするのであれば
その場の労働は、意味のある日々の暮らしが根底にある
生活や地域活動の活発な場として存在しなければならない。

勉強会では、いくつかの質問をしながら
進めていったので、ここでもそうしようか。

質問①さて、ここで質問です。皆さんにとって労働の目的はなんでしょうか?

著者らは、労働における「自己実現」という
目的意識を批判する。
労働は人間の生活と分離できない形で
日常に存在していたのだが、
近代化される過程の中で労働は生活と分離され、
労働は特殊なモノになり、
それに対して構えなければならなくなった、という。
労働の目的を見つけなければいけないその意識そのものが、
すでに現代社会の影響を受けていると指摘。
労働の意味を自己実現に見出そうとすると
逆に今の社会に取り込まれ「成功者」の道を
探すことになってしまうのである。
つまりは自分の労働に自分なりに意味づけを
しなければならなくなった時代の発想というわけ。
質問に自己実現だと答えた方は
もうその視点自体が狂ってきていると自覚せよ。かな。

質問②次に「仕事」と「稼ぎ」は、あなたの中で一緒ですか?それとも別れていますか?

「仕事と稼ぎ」:農業が近代化される前も
当然のごとく市場経済の中で生きていたが、
それが今のように大きな存在ではなかった。
生きていくために必要な部分での仕事を「稼ぎ」とし、
村の営みを支える労働は「仕事」であった。
賃金のための仕事や商品作りばかりがひろがってしまうと、
村の暮らしそのものが
壊れてしまう危険性が生まれてしまう。
村の営みにとって必要な「仕事」と、
稼ぐことを目的とした「稼ぎ」を分けてとらえ、
「稼ぎ」を「仕事」よりも価値のない労働と考える
精神の習慣を身につけた、と著者らはいう。
これ結構分かれていない人多いんじゃないの?
僕に地域活動を押し付けている人は、きっとそうだね。
タヤはお金にならないことを好きでやっているって
言っているようだけど、
そう言っている人たちのその視点が
その精神の習慣に捉われていて
狭義の意味の労働に埋没してしまっている。
その人たちに問いたいね。
僕に押し付けて作った余白の時間は
あなたの人生の充実に結びついていますか?ってね。

質問③皆さんはなぜ「農業」を志したのですか?もちろん複数回答で。

「精神の習慣」は19世紀中葉の
フランス政治社会学者トクヴィルの言葉。
ある時代の人々がその対象をどのように考えているのか
というその精神の習慣を分析することを提唱した人。
もともと新大陸のアメリカが
どうしてあんなに狂ったように儲け主義で
突き進むのかを分析したようだね。
伝統的ヨーロッパ社会から見れば
当時のアメリカは狂って見えたのかもしれない。
今じゃ、それが当たり前になっているのも
そう思うと空恐ろしいけどね。
さて
労働をどうとらえているのか、
その時代の精神の習慣を浮き彫りにすることで、
労働が社会の中で
どのような位置づけをされているのかが
自ずとわかる。
「たとえば今日の私たちは、経済的価値を生みだす労働だけを労働だとみなす精神の習慣を持っている。(中略)このような労働観があることによって、経済労働中心の社会ができあがってしまっているともいえます」
と内山は指摘する。
「労働は、労働者が自分の考えや想像力を注ぎこみ技能を発揮して、いわば創造の喜びを感じていくものであり、同時にそれによって他の人に様々な満足をもらたすものでもある」という著者らの指摘は、
労働とはマニュアル化されない、
実践的に直感的に経験的に培ってきた技能(技術は普遍化されていて、いわゆる近代化されたモノ:加筆)によって
支えられてきた生活と仕事の両面で
発揮されるモノであり、
その一部が狭義の労働として
金銭を得ることにつながっているにすぎないという。
この辺りから
もしあなたが見ていた風景が変わってくれば
結構カンの良い方ですな。

質問④皆さんの生産物は、交換価値と使用価値のどちらが大きいでしょうか?

アダムスミスが価値を二つに分けて分析。
アダムスミスは水とダイヤモンドを例に
水は使用価値が高いけど交換価値は
ほとんどない。
(今の水ビジネスを考えるとそうも言えないけど、それはそれだけ交換価値を高めた結果だね)。
その反対にダイヤモンドは
交換価値は抜群に高いけど、
その使用価値はあまりないって説明している。

交換価値を高めても使用価値が高いとは言えず、
その逆で使用価値が高いからといっても
交換価値につながらない。
初期の社会主義的経済学では、
この二つの価値に相関をもたせることに夢を抱いていた。
もしこの二つが正の相関を持つのであれば、
労働はここまで疲弊したものにならなかったはず。
使用価値は受け手との相互性の中に存在し、
量的に測ることができない。
しかも相互の関係の条件によっては
しぼんだり脹らんだりする。
一般的には喜びや尊敬、誇りなどに表現されることにこそ
人間労働の本質が見出されるはずだ。
結論として著者らは、
労働は技能を通じて他者との相互性を
同時に形成していくことであるとしている。
「農民の新しい試みは、(中略)生産自体が消費者との直接の交通のなかでおこなわれていくのであり、生活・地域で様々に試みられている仕事づくりは、様々な相互の関係をつくりだすことと同時なのです」と締めくくっている。

質問⑤ではでは実際の我々の農業はどうか?

新規就農者で高収益、農外から入ってきた起業家、
大手株式会社の農業法人などが成功者と捉えられ、
農業技術と農学と経営とマーケティングが
それぞれの学問や科学でマニュアル化され、
JAや市場の規格に適合することは
使用価値につながっているのかもどうかも不明で、
完全に相互性を失っているんじゃないだろうか?
労働こそ生活と生産と密着しているからこそ、
地域を場とすべしという著者らは言うが、
子供会やPTA、青年組織活動などは、
精神の習慣から見れば、
負担感のある活動に追いやられ、
その場に住む人々は
村は寝るに帰るだけの場所となっている。
地域の役漬けになり、
金銭にならない労働を増やされていくのだが、
それが喜びや尊敬、誇りにつながるような相互性は
確保できているようには思えない。
それはそれらの仕事や労働を
そのように見る今の社会の精神の習慣による
疲弊だと思うのは行き過ぎているだろうか。
生活の場を離れ、
短期的な収益と効率化の競争に勝つことが、
今の農業で成功する道なのだろうか。
おまかせ便も所詮、精神の習慣からは逃れられず、
相互性は思ったほど確保できない。
僕らの使用価値の復権はあるのか?
相互性は復活するのか?
それとも新自由主義のように
効率的に定量出来ない部分を切り捨てることが、
「成長」の競争力としかならないのだろうか。
それともその精神の習慣の中でも、
小さくても相互性を確保し
日々の暮らしを彩らせることができるのか?
さらにはその習慣さえも
変えるだけのインパクトを自分たちが
作り出すことができるのだろうか?

皆さんはどう思いますか?




春愁ってやつだろうか。
ここまで更新をさぼったのは
多分初めて。

いろいろありすぎて、
ほんと、いろいろありすぎて、
何から記録しようかと
思ううちに、時が過ぎる。

ま、まずは3/20の屈辱的な県庁訪問の後の
夜の勉強会を記録するか。

今回は僕の番。
月1回になってからは
一冊の本をプレゼンすることは辞めた。
年に1回くらいしか回ってこないから
どうせならテーマで発表すべきだと思う。
な、アンビシ勉強会のみんな、そう思うだろ?

今回のテーマは
「輸出について考えてみる」
にした。

参考文献:
古谷 千絵 著 『いちご、空を飛ぶ』:輸出でよみがえるニッポンの農.2009.ぎょうせい.
山下 一仁 著 『日本農業は世界に勝てる』.2015.日本経済新聞出版社.

ここで記録することは
レジュメと同じ内容なので
レジュメ持っている人は、
ま、このエントリーは読み飛ばしてもらって
構わない。

さて、内容に移ろうか。
TPPで見られるように
今後グローバリゼーションは加速していくだろう。
その中で、日本の農業の生き残り策のように
降って沸いてきたのが「輸出」。
はぁ?という感じで、
突然のメインストリーム化に違和を感じ、
農業構造の内外から「輸出」について考えてみようと思う。

これまで農業は弱者の立場に
政策の中でも産業構造の中でも置かれてきた。
これは選挙での票田と農地を商品化する形での
兼業維持の利点が合わさった結果でもあり、
それが農業の悲劇の始まりと言って良い。
(ここをこの日の昼に県庁で突っつかれたから、悔しさも100倍だった)

こうして農業は、協同組合の政治運動化に伴って
米価運動など、その価格維持と補助獲得に
主眼が置かれるようになる。
補助率がどうのこうのという他国とを比べているけど、
そういう問題じゃないんだよね。
しかもあげ足を取るように見えるかもしれないけど
なぜそれが世界中で比べないのだろうね。
比べる国は必ず欧米だしね。
貿易の不平等さが先進国とそうじゃない国との間に
どんな歴史を作って来たかも無視したアジェンダだね~。
というのは余談。
また今度、面倒じゃなければ、
ここで書こうかな。

その潮流の中で生産調整などの政策も受け入れられてきた。
しかし、この構造は農業を産業として
成長を止めることになり、
極度の高齢化を生み出した。
この状況に国民的コンセンサスを得られなくなったこと、
また金融投資先の行き詰まり感による
農業開発への圧力が強まったことなどから、
2015年の農業改革、TPP大筋合意、
2018年の生産調整廃止と構造的改革を断行中である。
輸出では、安倍政権は2020年までに
農産物輸出額を1兆円にするという目標を立ててきた。
2015年の輸出額は前年の21.8%増の7452億円となり
3年連続で増加。
TPPが批准されれば参加国で
今後関税が引き下げられるため、
予想よりも前倒しで目標実現となる見込みも出されている。
輸出は、古谷によれば国内需要の調整的役割が大きく、
価格安定を図る手段としている(p156)。
またTPPによる関税引き下げ以外の外部要因としては、
アジア経済の成長による富裕層の購買力向上と
インバウンド効果が挙げられる。
古谷の著書では、
安全性と高品質により日本産のインセンティブがあるとしている。
こうした取り組みが若者を惹きつけ、
農業の高齢化と耕作放棄地の解決になると古谷は論じている。
流通の中でのグローバルチェーンの面でも有利な点がある。
福岡のあまおうの事例では、
東京出荷よりも香港出荷の方が早いケースが報告されている。
知人の愛知の農家の事例でも
セントレア空港を利用した航空便では、
香港まで最短24時間ほどで消費者の口に入る例もあった。
古谷のあまおうの事例では、
内外の市場でパッケージを変えることはなく、
生産者段階でどちらに出荷するかはわからない。
これはあくまでも海外の市場を価格維持のための
緩衝市場と捉えていることによる。
高品質だったあまおうが
そのまま海外の市場に合致したケースと言えよう。
リンゴの輸出では、
生産体制の違いから青森産が輸出のほとんどであり、
長野県産の輸出は乏しい。
収穫期の一時期を高品質(蜜入り)で
販売して乗り切る長野の栽培法(袋なし)と
品質よりも通年を出荷する市場狙いの
栽培形態(袋がけ)であるがために、
長期保存に適したリンゴが
輸出による緩衝市場に安定供給できる能力を
備えることになり、それが有利に働いたケースと言えよう。
その中で今後重要視されるのが知的財産権で、
中国の「青森」や「コシヒカリ」の商標登録問題で
原産地の表示や地域ブランドによる
販売推進における問題が存在していることが説明されている。
ただ広域の貿易圏に参加する場合は、
こうした各国ごとに対応が異なることはなくなるため、
広域貿易圏のイニシアティブ争いが、
この問題では今後重要になると言えよう。

さて、
山下氏はその著書で、
減反を廃止して米価を下げ、
兼業農家の撤退を生み出し、
専業農家に農地を集中させることで
国際競争力が増すと述べている。
またJAは農業部門を切り離し、
地域協同組合として再出発し、
農業部門は子会社化すべきとしている。
さらにはドイツやフランスのようにゾーニング制度を確立し
農地法は廃止すべしとしている。
こうすることで面積的に不利な日本農業も
その肥沃度と技術力で乗り切ろうというのであろう
(オランダモデルに近い生産体制の採用)。

この場合、古谷の言う
国内市場のはけ口としての輸出ではない。
広域貿易圏の潮流や人口問題を鑑みるに、
古谷の論点よりも今後山下の方向で
農業再編が起こるように思われる。
さらには、全農や商社と国家が主導して
グローバルチェーンの輸送インフラの整備も
今後顕著に起こるであろう。
輸出は入口的には古谷の国内需要のだぶつきを海外へ、
というハードルを下げた形で、
高品質と安全性を謳いながら限定的な取引が続く。
事実、JA福井市も高食味値米を
数トンレベルで台湾へ輸出する実績を作りつつある。
国内空港から沖縄空港をハブとした
東南アジアへの空輸体制も徐々にだが整いつつある感がある。
セントレアの事例ではすでにそれが見られるが、
福井の県議員からの情報によれば、
小松からJALカーゴがその路線をつなぐという動きがみられる。
北陸のJAや大型の生産法人の今後の動き次第では、
それなりの流通になるであろう。
また全農がシンガポールを
輸出拠点として整備を始めている(日本農業新聞2016.3.3)。
ちなみに付属情報として
今回3月27日インドネシアの大規模農家を調査したのだが
日本への輸出を行っているケースがあり
シンガポールで荷を作り変えて原産地を変えて
輸出しているケースもあった。
シンガポールはいろんな意味でハブ化していて
結構面白そうだね~。っていうのは余談。

さて大型ロットを日本からシンガポールに運び、
そこを東南アジアの拠点とする計画だ。
加工や原材料の手配、また日本への逆輸入まで見通している。
こうした大型の輸出戦略は、
日本の工業がプラダ合意後に
国際競争力を維持するために海外に進出していった経緯と
良く似ている。
農業にテコ入れして貿易高を稼いでいくのであれば、
円安・低金利の資金で補強したグローバルチェーンの構築
ということになるであろう(実際に現在はその流れの中にある)。
高品質を謳ったあまおうなどは今後、
ブランドとして確立していければ、
安定して販路形成は可能だが、
すべてのイチゴがその恩恵にあずかれるわけではない。
ましてや米はやはり高品質米だとしても、
もはやその違いをアピールすることの難しさから、
今後は低コストの勝負に陥っていくであろう。
輸出を取り巻く情勢から見えてくるものは、
生産調整の廃止とセットに
TPPの中で農政の舵取りは180度転換される
様相になってきている。
個人農家や大型法人であっても、
商社や大規模合併したJAもしくは、
そこが出資して出来上がるであろう株式会社によって、
この分野は牛耳られていく。
また広域貿易圏というのもポイントになる。
第3国で日本の技術を集めた農場を形成し、
そこから成長する東・東南アジア等に輸出する計画がある。
すでに農水省などでは、
日本の商社・銀行・生産者をつれて
海外視察を繰り返していて、
かつての電機メーカーがこぞって海外に進出したような
形と同じように、海外にその生産拠点を移す計画もあるようだ。
その意味でも全農の株式会社化と
その流通網を利用できるという諸条件は、
このことを後押しする大きな力になるであろう。
農協改革(中央会の指導力低下&全農の株式会社化など)と
生産調整の廃止(2018年)、
そしてTPP、農地法の改正と農業委員制度にもメスを入れた。
「輸出は国内需要を助ける」
という古谷の牧歌的な旗振りの下、
その見た目とは別に、
これまで農業構造を作ってきた
諸条件の外堀は埋められつつある。
それはある意味僕ら専業で食っていくことを覚悟した者にとっては、
好条件と見えるか
それとも恐怖と見えるかは、
僕らの経営思想によって見方が分かれるところだろうね。

で、僕らはどうかというと、
ニッチで生きる農園たやは、
大手が大きく展開すればするほど、
その隙間を埋める作業になることは、
今後も変わりないね。
輸出自体に乗り出すことは、
可能性としては少ないが、
研修生を主体として、グローバルチェーンの逆側から、
その国でのニッチを奪うことに主力を注ぐ可能性はある。
生産拠点の移動はないが(たぶんね)、
小規模農園や個人農家の技能集団による、
もう一つのグローバルニッチで戦う可能性は、
これで広がったようにも思える。
とりあえずは、
海外ではタンジュンサリを拠点とした関係強化と
卒業生のビジネス支援、
国内ではそれを見越しての研修受け入れと
質の高い生産の実現だろう。
生産そのもので稼ぐよりも、
その周辺の活動を巻き込みながら、
その部分で特化できる農業を目指す。
誰もまねできないレベルでの思想を含んだ
農業へと昇華させたい。

これが今年の僕の発表でした。
じゃ、また来年。



アンビシ勉強会があったので記録しようか。
発表者は、インドネシア実習生で
今月帰国予定のジャジャン・ヘルディアン。
研修3年目の卒業研究を発表し
(内容の詳細はカテゴリ:ジャジャンを参照ください)
それに付属して日本での思い出と
帰国後のビジネスプランを話してくれた。

インドネシア実習生とは3年かけて
彼らの帰国後のアグリビジネスのプランを練り上げる。
と書くと何かすごい活動のようにも思えるが
なかなか画餅の域を出ない。
今回も僕から見れば
不完全燃焼という感じだ。
それはジャジャンに対する不満ではなく、
彼は良く頑張ったので
その頑張りには大いに称賛したいのだが
その頑張りに対して
僕の指導力不足が大きく影響し
彼の行きついたビジネスプランへの
不完全燃焼感になっている。
僕は僕に不満なのだ。

彼のプランは
ソシンというアブラナ科の周年栽培にある。
それは技術的に可能かどうかも問題だが
価格さえ維持できれば常勤で雇用が可能になるため
その経営の部分ではかなり話し合った。
出来る奴を雇えることが可能ならば
多少技術力が追い付かなくても
彼らの若さと勤勉さと労働力とが
それをカバーしてくれるのは
僕の目からも明らかで
それはそれほど心配していない。
では、何が不完全燃焼なのか。
それは、
その前提となる「価格を維持さえすれば」
に対する議論が深まっていないことだ。

インドネシアの小農は輸送力がない。
しかもコールドチェーンも脆弱だ。
農家レベルもそうだが
市場にもその施設はなく、
購入した一般家庭もまだまだ冷蔵庫の普及は
進んでいない。
たぶんそこは
もうすぐに整うのかもしれないけど、
ジャジャンがビジネスを始める頃は、
彼の想定している範囲内での市場では
まだまだその反応が得られないだろう。
ここに来て僕は
葉菜類が中距離の範囲でマーケットとして
成立する条件を簡単に考えすぎていたことに
気が付いたってわけ。
まったくこんなことにも気が付かないなんてね。
ダメさ加減に嫌になる。

ジャジャンは軽車両を買い
それで市場に運ぶいう単純なモデルで
価格維持の前提を埋めたつもりでいる。
たぶんそれでは埋まらないよ。
1月末に開いた先輩たちの勉強会で
もうその話は出ていたし
彼らもその壁に思いっきりぶち当たって
めり込んで身動きが取れないんだから。

帰ったらジャジャンは
卒業生たちの勉強会で発表する予定だ。
ジャジャンが言うには
今回の発表をそのままインドネシア語でやるという。
それならそれは面白い会になるね。
先輩からまだ始めてもいないけど
3年かけて練ったプランを
一瞬にしてぶち壊されるわけだから。
その会は、僕も参加を予定していて
打ちのめされるジャジャンと一緒に
僕も粉々に打ち砕かれる予定になっている。

ただ、幸運なのは
ジャジャンが帰ったら
それで終わりじゃないってことだ。
卒業生たちが開いてくれる勉強会を通じて
もう少しジャジャンとも歩いていきたい。
そんなことを想った
ジャジャンの最後の日本での勉強会だった。



腰の調子が良くない。
11月最後に壊した腰は
どうも治りきらないまま
慢性化の状況になりつつある。
ナントカシナキャイケナイネ。

さて12月の勉強会の記録をしようか。
アンビシ勉強会もこれで
丸6年となった。
エントリーの記録も108回目と
煩悩の数と同数に。
記録忘れもあるから実際の勉強会の数は
もっともっと多いだろうね。
そんなにやっても
賢くなった気がしないのは
僕だけだろうか?

さて、
今回の煩悩の数と
同数のエントリーの栄誉を得たのは
山崎大和だった。
彼の発表した本はこれ。

吉川直子 著 『人ひとり雇う時に読む本』

今年から大和のジェラート屋では
初めて家族以外の正社員を雇用した。
で、いろいろと考えるところがあったようで
この本を読んだのだとか。
他人を雇うって責任が大きくなるから
適当にはできないもんね。

社会保険や労働保険、
契約書や最低賃金、
果てには履歴書の見方や
面接の仕方、
雇用より解雇はもっと難しい、
なんてことをずらずらと話し合った。
僕にとっては特段珍しい情報はなかったが
過去にあたふたしたことを
勉強会のメンバーも
同じようにあたふたしていたのが
面白かった。
雇用に関する諸条件をそろえていく過程で
手間が足りないから人を雇うって
当たり前だともっていた考え方から、
そういう発想とは違った考えに
行きつくはずなんだけど
メンバーにはまだまだ
「手間が足りないから人を雇う」って
意識が強いようで
雇用の諸条件をそろえることに
億劫だったりびびっていたり。
でも、それそろえないとブラックだよ、皆さん。
という僕も
努力をしているけど
グレーゾーンが全く無いわけでもない。
そこはもう少し経営形態を変えないと
(つまりは法人化なんだけどね)
実現が難しい部分でもあるので
そこに向けて検討はしている。

さて、その「手間が足りないから雇う」とは
違う考え方って何だ?ってことだけど、
それは「その人の人生も背負ってもいいのか?」ってこと。
基本、手間が足りないや足りなくなる見込みや
業務が増えることを想定して雇うんだけど
ただ単にそれだけじゃないって
ここ数年は良く思う。
雇おうって思う人の
その人の人生を僕は半分くらい背負うのが
雇用ってことだと思う。
この人と一緒に歩んでいくための
モティベーションを維持できるかどうか。
定年や辞めたいって言うまで
しっかりと雇用を続ける覚悟が自分にあるのかどうか。
この人だったら
僕は苦労を惜しまないって思えるかどうか。

でもね。
面接なんて長くても30分程度。
きれいに書かれた履歴書からは
何も読み取れないし、
良くも分からん。
だから、
話している間にいつも自問するのが
こいつの人生を僕は背負う覚悟があるのかって
繰り返す。
人の面接をしておきながら
僕が問いかけるのは自分なんだ。
家族構成やそれまでやってきたこと。
何に情熱が持てたか、何に頑張ったか、
何に価値があると思っているのか、
そんな人柄を見ながら
僕は自問する。
こいつの人生背負えるか?って。

大和のプレゼンで
「もう一人自分がいたらって思う」
という言葉も僕には引っかかる。
同質の人間が集まることは、
僕は必要ないと思っている。
価値観があまりに違いすぎると
ちょっと大変だけど、
僕らの経営体にはインドネシアのスンダ人が
一定数組み込まれているので
その価値観以上にギャップが無ければ
とりあえずはOKだ。
だから僕はあえて
僕には無い物を持っている人を採用する。
僕から一番遠そうな人間。
農業の技術や知識の有無は関係ない。
若いのであれば、できればそれらは無い方が良い。
農業とは違う経験をたくさんした人、
そんな人が僕は好きだ。
農業が停滞して高齢化して、
ただ単にモノを多く作る以外のイノベーションを
起こせなくなって久しい。
それは農業を「農業」で固定化するからだ。
この業種はもっと懐が広いはずだ。
だから僕は農業以外の経験を
たくさん持っている人を採用したい。
それが農業界にとって大きな糧になると
思っている。

と立派なことを言っても
メンバーの入れ替わりは激しい。
5年前に農園のみんなで撮った写真には
10数名写っているけど
家族以外はみんなもういない顔ぶれ。
来年みんなで撮る写真も
今年の顔ぶれとはまた大きく違う。
僕と一緒に仕事をするのが嫌になって
辞めた人もいないわけでもないけど、
それよりも
みんなそれぞれに夢があり
その夢の途中下車で
この農園に立ち寄っている感じが
最近はある。
だから次の夢の列車が発車する時、
みんなその列車に乗って次に向かっていく。
僕はいつもホームでそれを見送る役。
元気でね、と笑顔で手を振るけど
結構しんどい。
その人の人生を半分でも背負えるか?と
問うて雇うのだから
別れはやっぱり尋常じゃない。
でも雇うのもエゴだから
しょうがないね。

僕も夢の列車に乗っていると思わないこともないけど
その列車にいつまでも一緒に乗ってくれる人は
少ない。
ま、でも一緒に乗ってくれる人が
居るだけでも今はとても幸せさ。
その人たちと一緒に
僕らは農業を農業で固定化しない
イノベーションを起こしていこうと思っている。
雇用はそういうことだと
僕は思うんだけど、
みんなはどう思う?




金曜日の夜は
久しぶりの勉強会。
12名の参加で場所はAOSSAの会議室。
発表者は新規就農の尾崎君。
彼は長い間、米作の農業法人に勤めていたが
今年から野菜農家として就農した。
そんな彼が選んだテーマは
「有機農業」についてだった。

で、選んだ本が2冊。

齋藤訓之 著 『有機農業はウソをつく』
松下一郎 著 『本当は危ない有機野菜』

ま、本のタイトルからも分かるけど
有機農業をどう実践するか、ではなく、
批判的に検証しようというのが今回。たぶん。
実際にも尾崎君のレジュメには、
お客さんが有機栽培や無農薬を
気にしているように思われるが
「コスト面や労力を費やしてまでJAS有機の認証を取得する意味があるのか」
と書かれている。

これらの本での議論は
ここでその内容を細かく
検証するつもりはないが
内容としては有機農業というものの正当性について
瑣末な議論のようにも見えるし、
本来あるべき姿の有機農業と
かけ離れてしまったJAS有機への批判とも見える。
ただその議論をすることが
僕ら農業者にとって
最優先事項となるのかどうかは
かなり疑問もある。
もちろん、科学的に検証されたものを
常にチェックし自分の営農の判断に
取り入れる姿勢は必要だけどね。


尾崎君の発表が彼の意図がどこにあったのかは、
多岐にわたる議論の中で見えにくくはあったが、
僕が彼のプレゼンから感じたことは、
自分なりの農業の正当性というか、
自分なりの納得を届けたいというか、
独自のブランドといえば、
「そんな大層なことじゃないんです」と
彼なら言いそうだが、
それこそが
尾崎君の野菜づくりへの姿勢であり
僕が共感する部分でもあった。
「有機農業か慣行栽培かどうかを説明するよりも、いっそのことJAS有機認証を受けてしまえばいいのかもしれないけど、それだとなんだか負けになるような気がする」
とぽつりぽつりと語るその口調にも
それは良く表れているとおもう。
だからと言って
「慣行栽培」と言い切ってしまうには
こだわりを自分なりに持つ彼には
たぶん辛いのだろう。
栽培の中身は有機か慣行か、
そんな単純化されることでもないのにね。
情報の受け手はいつもこうさ。
僕らのこだわりは
伝わらない。
だから伝わらないこだわりじゃなく、
わかりやすいこだわりにした方が良い
ということも言えるが
たぶんそれはそれで尾崎君に言わせれば
「負けた気がする」になるんだろうね。
コミュニケーションをとれるような
場づくり売り場づくり商品づくりをするしかないと
僕は思っている。
会話ができる商品を
僕らは意識的に用意しているだろうか。
それが僕から言えるアドバイスだ。





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先週の金曜日の夜は
勉強会。
月1回になってから、
みんなの出席率悪くなったよなぁ~。
ま、僕も出られない時が
多くなったけどね。
それでも
今回は7名の出席。
新卒で実家の農業を継ぎにもどってきた
23歳の若者も参加。
どんどん若い人を呼んできたいね。

さて、今回の発表は小西君。
最近FBを積極的に使って
情報発信しようと頑張っている。
その彼が選んだ本はこれ。

連見よしあき 著 「SNSで農業革命」 

一つ一つのつぶやきやエントリーは
細切れだが、
1年を通じて発信することで
それがストーリーとなり、
さらに積みあがればクロニクルになる、
それがSNS。
で、人との交流なので、商品紹介よりも
その商品にまつわる人と人との交流というほうが
より自然だそうだ。
ま、同感かな。

とはいっても、やはり大事なのは
更新し続けることと
「交流」を生み出す場になっているかということだろうね。
うちの農園の場合は、
スタッフの更新も偏ってきたし、
アップされたエントリーが交流を生み出しているか
と言われると、ちょっと苦しいね。

書けないスタッフに意見を聞くと
「書くことが見つからない」
「何を書いていいのかわからない」
そんな答えが返ってくる。

なんでも書き続けてみなければ
そこに個性も生まれないし
自分というのも見えてこないような気もする。
こう見せたいからこういう風に書く、
というのは違うような気がするな。
それだと演技が続くから
本当の意味で続かないしね。
あと、農園という意味での縛りが
書きにくいという場合もあるよね。
もうこの際だし、そんなのとっぱらってしまう方が
面白いかもなって思わないでもないけどね。

ま、どんな分野にせよ、
何をするにせよ、
継続は力なりってやつか。
凡事徹底が成功のカギってことかな。


有志による勉強会。
農業に携わっている、農業に興味がある、
地域おこしをしたい、地域と関わりたい、
そんな若者たちが集まる勉強会。
若者といっても、僕が最高齢で40歳だから
まぁ、もうそろそろ若者という言葉は
使わない方が良いかもね。

さて、
今回の発表は、農園のスタッフ大西。
題材は、この本。
竹内謙礼 著 『小さい会社こそ、高く売りなさい』。

ここで『小さい』というのは、
会社が大きくても赤字だったり、
市場への影響力が弱い会社のこと。
『高い』というのは、
安売りセールしていても利益が
多ければ『高い』ということらしい。
だから中小企業であっても
ある得意分野で
市場を独占しているのなら『大きい』会社になるし、
定価で販売しているのに薄利の場合は
『安い』になる。

小さい会社こそ高く売りなさい、というのは
市場への影響力のない会社ほど
利益が出るように売りなさい、ってことか。
それだけだと当たり前に聞こえるけど
中身はもう少し複雑だった。

大西のプレゼンでは、
売れない事態から解放されたいために
価格を下げることは
一時的な苦痛からの解放でしかない
と言う。
安く売れば
それだけモノが動くので、
充実し、
安心し、
忙しくなり、
楽しい感情が湧きあがり、
売れることで褒められ、
達成感もあるというが、
そういう感情と裏腹に
利益は下がり、
薄利と消耗戦の泥沼に長期的には
追い込まれてしまうのだろう。

小さい会社が大きい会社と
戦うためには
プレミアム商品戦略だという。
そのプレミアムとは
明確な違いを持った商品ということだけだそうだ。
安く売るのではなく、
違いを理解して買ってくれるお客さんを増やす。
それが小さい会社が取り組まないといけないこと。
自社商品の良さや意味をしっかり解って
選んでくれる顧客を得ることが
安売り合戦にならずに済むんだろうね。
全体の母数に訴えかけているような
価格だけのプレゼンでは、
生き残れないってことか。
だが、言うは易し、行うは難し、かな。

明確な違いを際立出せる作業は
なかなか一筋縄ではいかない。
他者との違いはいくらでもあるが
それのどれが僕らにとって
訴えたいものなのか、そこに信念がないと
上手くはいかないと思う。
お客さんが何を望んでいるのか?
なんて考えてそちらに合わせ始めると
それはそれで売れない時に
ブレてしまうからね。
あと、際立たせた『違い』は
際立った時からそのトレンドは
終わりを迎えているという事実には
しっかりと目を向けないとね。
だから信念というコンパスの針が指す先を
さらに掘り下げて、
次の変化が必要にもなるってことだと思うな。
それは転身ではなく、
独りよがりのこだわりでもなく、
価値を生み出す作用は
買い手と作り手の相互作用なので
その変化のための買い手との刺激が
僕ら作り手として受け止められるような
状況に身を置かなきゃいけないよね。

あと勉強会で思ったのは、
大きな会社と小さな会社は
地域の個人農業間でもいえることだろうが、
もう少しエリアを大きくとらえると、
今後農業参入が盛んになるだろう
農業外からの株式会社との戦いも言えることだろう。
また都市部の市場狙いの地域間競争も
それにあてはまる。
地域内部の個人農家の個別的な戦略と
地域外に対してのある程度のまとまりをもった
地域色を売りにするような戦略が重層的に
重なり合っているのが僕らの現状だ。
そしてTPPに見られるように
グローバルな中でも
僕らは『明確な違い』をプレゼンしないと生き残れない。
どの場面のどの市場で
どんな戦略をとるのか
僕らは信念のコンパスが指す先を見誤らず、
その場面に合わせて、より尖がっていかなきゃいけない。


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アンビシ勉強会の記録をしよう。
今年に入って第一回目の勉強会。
発表者は、僕だ。

選んだ本は、これ。
堤 未果 著 『沈みゆく大国アメリカ』.2014.集英社.

アメリカの国民皆健康保険?を
目指したオバマケアの影に光を当てた本。
とてもよいルポで、
丁寧な記述に好感が持てる。
で、この本が示そうとしている
アメリカの医療界の市場化構造が
とても面白かったので、
それを今回の勉強会では
TPP後の農業界の市場化に当てはめて
まぁ、かなり大胆な形にはなったが
予想してみた。

ただ当てずっぽうではいけないので、
僕の考えを補完してくれる本を2冊用意した。

ジグムント・バウマン 著 伊藤 茂 訳 
『リキッド化する世界の文化論』.2014.青土社.

トマ・ピケティ 著 
『21世紀の資本』.2014.みすず書房.

さて本題。
もともとアメリカには「メディケア」
(65歳以上・障害者&末期腎疾患)と
「メディケイト」(最低所得層)の
2つの公的医療保険があった。
5000万人いると言われる無保険者に
医療保険を提供するため、
オバマ大統領は、医療保険を義務化し、
さらにメディケイトの条件を緩和した。
保険会社は既往歴や病気を理由に解約することができなくなり、
保険会社が支払う金総額の上限を撤廃する一方で、
保険加入者の自己負担額には上限(6350ドル)がつけられた。
さらに
収入が少ない場合は一定額の補助金が支給される。
そして従業員50名以上の企業には
社員への保険提供を義務化した。
なんだ、とても素晴らしいことばかりじゃないか。
だのに、なぜ、
オバマケアの影に光を当てた本なんだ?

それはこの制度の下に民間企業の競争が入ってくるから
とても素晴らしい理念も、
大きく捻じ曲げられて行ってしまう。

メディケイトのような安価な保険は、
使用できる薬剤と医療サービスに限りがあり、
本当に必要な治療を受けられない事例が
本書では紹介されていた。

保険加入者の自己負担額の上限に制限ができたため、
メディケイト保険者を医療機関が断るようになってしまった。
なぜなら保険会社が負担する分と患者の上限との差額は、
病院側の持ちだしになってしまうからだ。
また医者は保険会社にお伺いを立てながら、
マニュアルに沿って患者を診療しなければならなく、
保険申請の書類手続きで医者の業務がかなり膨れ上がっている。

さらに訴訟大国アメリカでは、
医者は常に医療ミス訴訟のリスクにさらされている。
そのため、医者は高額の訴訟保険に入っており、
裕福で勝ち組と思われた医者も
ワーキンプアのような状況におかれているという。

またオバマケアでは
一律の保険サービスのガイドラインを作り、
それに沿っていない民間保険サービスは無効になった。
一気に膨れ上がった保険市場で
民間の競争が激化し、
保険から撤退もしくは買収される民間保険会社が続出し、
一部の企業が保険事業を独占するような寡占化が進んだ。

一方で市民の負担も
軽減されたわけじゃない。
免責額は2500ドルから5000ドルで、
これを払ってからようやく保険が適応される。
また著者は、1993年に成立した資産回収法を
問題視している。
55歳以上でメディケイトを受給している者は、
死亡した時点で自宅などの資産を没収されるという。
家族が住んでいる場合は、
すぐに没収とはならないとのことだが、
借金の担保に家を当てることが多いため、
その時になって、家が自分のものではないことに気が付く。
一度メディケイト受給者として
社会の底辺層に落ちてしまえば、
その家族を含め、
リスタートを切ることすらままならなくなる。

50名以上の会社へ保険加入義務は
とても良いように思えるが、
実態としては、
保険加入義務をめぐって、
正社員数を50名以下に抑える企業が増え、
パートタイムへの降格事例も報告されている。
低賃金化と失業と資源回収法によって
中流以下層の負担は増大した。

アメリカは営利企業の病院経営が合法で、
公的病院への民間営利病院企業のM&Aが横行している。
低価格医療サービスを掲げ、競争によって地域の医療機関の買収の後、
採算の取れない分野を閉鎖してしまう。

また
労組で入れた組合保険は、
充実しすぎているとして課税率を40%にしようとしたが、
これは2018年まで延期になった。
だが廃止ではなく、延期なので2018年には
リストラと非正規化と労組保険の課税率アップによって
労組弱体化は必至だ。

著者はこの事態をリーマンショックと構造的に同じとみる。
高額な欠陥商品を強制的に買わせ、
払えない人には補助(以前に彼らから集めた税金)を出して買わせる。
保険の売り手には補てん費用を払い、
損が出ないように強力に守る。
メディケイト受給者のマネジメントを担う
センテネ社とモリナ社のCEOの報酬は
いずれも71%と140%上昇した。
政府は保険収益の8割を医療に充てるよう義務付けたが、
海外の保険会社を子会社化し利益分散は簡単に行われている。
TPP後は、日本にも病院の株式会社参入が進み、
公的保険適応範囲縮小と混合診療がやってくるだろう。

とここまで読むと
あることに気が付くだろう。
そうこういう規制緩和はなにも医療だけじゃないってこと。
同じような単語が農業界でも飛び交っているってこと。

小さな政府を目指した保守革命後(サッチャー・レーガン・小泉ら)、
僕らは民間のフェアな競争によって
より安価でより行き届いたサービスを受けるはずだった。
そうそのはずだった。
それが資本主義だとも思っていた。
でも今回の事例からは、
そんな安価で行き届いたサービスを僕らが享受することはなく、
反対に、僕らは市場化され
投資家のターゲットになってしまうだけだった。

買収による寡占化が進み、
大企業化(財閥化)した企業は
「大きすぎてつぶせない(リーマンショックの時の合言葉)」ために
問題が起きても公的資金
つまり税金をたっぷりもらって
強力に守られる。

強い資本力を持った会社がその分野を独占し、
どんな制度もその企業が
儲かるような仕組みに変えてしまう(アメリカのロビー活動)。
バウマンやピケティが指摘したように、
リッチスタンの住民はタックスヘブンに逃げ込み、
資本の増強を易々とやってのけていく。
中流は市場化され、
資本家のターゲットとなって崩壊し、
ピケティのいう資本主義は格差
(r>g:資本収益率は経済成長率を常に上回る)を
生み出すだけの装置になろうとしている。
それがアメリカ式の新自由主義のなれの果てなんだ。
そのルールに乗っかっているのがTPP。
だから、中央会解体もその眼鏡で見ると
すこしこれまでと違ったように見えたりする。
つまりアメリカ式の新自由主義のルールが
より適応しやすいように
つまりは僕らが市場化されやすいように
農業界のもろもろを変更しようとしている、といったようにね。

全農によるコメ市場独占を解体し、
地域農業もすでに集落営農の名のもとに集約化。
法人にしておけばM&Aしやすいよね。
小難しい地域に思い入れのある爺さんや婆さんを
これで農地から引っぺがすことに成功した。
農地を握っている
農業委員会も面倒だ。
農業委員会のメンバーをどう決めるかの改革も
準備した。
メンバーは首長に決めてもらうのが一番だよね!
農業委員会のメンバーにイエスマンを据えて、
地域の産業を大局から見て、
大企業の誘致もあわせてやっちゃえば?
中間管理機構もつくったよ!
ばらばらにあった農地は
簡単に集積できるよ。
株式会社の農地取得も緩和しよう。
じゃないと資本の強い企業による買収&寡占化に向かわないよね。

中央会の監査権を無くし、
単協をばらばらにしよう。
地域参入を考える株式会社は、
地域JAが持つ農業施設(赤字部門)を買収し
(そういえばJA福井市は店舗事業の譲渡案があったが、ご破算したね)、
資本力を活かして安価な米や野菜を作り続け、
価格競争で敗れた農業法人・集落営農を買収しちゃえ。
政府の補助によってちょっと贅沢に整備しちゃった
集落営農の施設と農機と農地を
二束三文のお金で買いたたけるね。
そして採算の合わない分野(農地:地区)を切り捨て、
農地の転用(農業委員会は骨抜き済み)と
その企業体の転売で儲けを出すってどう?
新しい財閥:ホールディングス化した企業が、
譲渡受けたもしくは買収した部門(農協関連施設や集落営農)を
子会社化してもそのまま売却の対象になる。
だから譲渡するときにどんなに条件を付けても
地域やJA組合員の想いはくみ取られないな。

どう?
こんだけ条件を整えれば、
かなりのお金が農業界に流れ込んでくるんじゃないかな?
いろんなものを市場化したよ。
さぁ、どんどんじゃぶじゃぶお金を投資して
マネーゲームを始めよう!
あっ失敗しても大丈夫だよ!
大きくなりすぎてしまえば、潰せないから。
公的資金で守ってあげるよ。
「地域に多大な影響を与えてるわけにはいかない」
と苦渋の顔をした政府の偉い人がそういえば、
それだけで大丈夫だよ、きっと。
これが僕らの首相が声を大にしていっている、
「強い農業」ということさ。
投資も促進されるから
ずいぶんと賑やかになるよ。
お金まわりもよくなれば、その産業に群がる人も増えるね。
あっ、もしかして高齢化問題も解決しちゃうかな?
というのは、僕の作り話。


でも
本当にこれは作り話なんだろうか。
TPP締結後の数年で、
僕らはもう農業界の主体的なプレーヤーじゃ
なくなっているかもしれない。




アンビシ勉強会で、ちょっとしたイベントがあった。
それは勉強会に福井市長が参加してくれたこと。
経緯はこうだ。

今年の1月、福井市農業水産奨励賞を
福井市からいただいた。
その受賞理由の一つが勉強会の開催で、
その受賞の広報が流れると
農業セクターではない課からお誘いがきた。
その勉強会で
福井市長と座談会をしませんか?と。

福井市長は、市民と座談会を不定期に行っていて
(それを「あじさいトーク」という)、
その座談会を勉強会のメンバーでどうだろうか?
というお誘いだった。
メンバーの答えは、即OK。
いろいろと夏前から調整を行い、
10月3日の金曜日に
市長を囲んでの勉強会が実現したというわけ。

勉強会のメンバーともテーマについて
簡単な打ち合わせを行い、
僕らがぜひ聞きたいテーマを4つに絞った。

・福井市の農業の展望について。
・福井市の地産地消について。
・県外に発信するには何をすべきか。
・若手就農者を増やすには、どうすればいいのか?

結論から言えば、
市長から明確な回答が得られたわけじゃない。
それは、たぶん僕がモデレーターを務めたのが、
一つの要因だろう。
力量不足で、しかも1時間という短時間ということもあって
それぞれ深い議論になったかどうかは
あまり自信がない。
ただ、市長の農業観は垣間見ることはできたと思う。

福井市の農業の展望として市長は
これからは園芸の振興が重要だと説明してくれた。
戦後の他産業の発展と農業の機械化、
そして農地改革で農地を1haずつ細かく分けあってしまったことが
それぞれの農家にとって、
農業を主産業から副業へとシフトさせてしまった。
兼業化が進む中で、
農地は生産の現場という意味は薄くなり、
市街化区域の拡大や工場誘致、道路拡張など
開発計画によって、それは転用することのできる
財産と化してしまった。
とりあえず続けられる稲作を続け、
転用期待をうかがう。
そんな農業の新しい構造が
産業として衰退させてしまったのだと
市長は認識しているようだった。
これに関しては、僕も同意見だった。
その結果、福井の農業は
8割が第2種兼業農家で
そのほとんどが稲作農家である。
そしてその農家のほとんどが高齢者で、
担い手がいないのも一緒だ。

この議論の結論として、市長は、
これまでの世代が農業を
魅力的な産業にできなかったことが大きい、
と言っていた。
これも大きく同意いしたい。
食の安全保障や環境保全などを盾にとって
農業保護の話をする方もいるが、
それに産業としての未来はほとんどない。
食の安全保障をいうのであれば、
平成の米騒動を思い出せば、
一国だけで自給率を高めることが
はたして食の安全保障につながるのかどうか
はなはだ疑問である。
環境保全としては水田のダム機能などあるが、
それはあくまでも副産物であって
それを主目的に農業を行うなんて
ありえない。
このロジックが独り歩きすると
土地改良費は治水のためなので
すべて行政負担ってことになるだろう。
どれだけ国の借金を増やせばいいんだ?と
思ってしまう。
そんな環境保全をいう割に、
市街化区域になれば
虫食い状態で田んぼを宅地として売買するような状況なのだ。
建前では誰も納得しないだろう。

やはり農業を主産業として魅力あるものにできるかどうか、
それにかかっていると思う。
地産地消という文脈は、市長から積極的な意見はなかった。
人口がどんどん少なくなっていく
地方都市の市場ではやはり主産業としての
成長は見込めないから、なのだろうか。
県外に売っていく、もしくは海外に売っていく、
そうした姿勢が求められる、ということだろう。
ただその場合も、県外の市場で単価が取れないのは
それだけの産地としてのボリュームが無いから
という話で、
ではたくさん作れば高単価になるかと言われても
その保証はなく、
勉強会のメンバーからは、単価が低いときは
「1日働いても儲けが1,000円くらいしかない日が年に何回かある」
と悲痛な意見もあった。
たくさん作ろうと思えば、
園芸の場合それなりの施設が必要だ。
となると、それだけ投資しないといけない。
だが、高単価が約束されていないので
その投資行動に移れない。
結局、傷口の少ない直売所を回る毎日になる。
それを続ける毎日が、農業を主産業として
魅力ある産業に発展させていく経済活動か?
と言われれば、答えは「No!」だ。

ちょっと奇特な、
もしくは都会に疲れた若者が
飛び込んでくる以外は
どんどん高齢化していく衰退産業でしかなくなってしまう。

市長とはここまで認識を同じにしたが、
では解決の秘策は?と問われても
正直見つからなかった。
でも、勉強会のメンバーは、
(少なくとも僕は)
とても満足いく勉強会だった。
行政のトップがどう考えているのか、
それが分かっただけでも勉強になった。
ノスタルジックな農業観でもなかったし、
意味ない安全保障論者でもなかった。
とても真っ当な考えだったと思う。
そして、その反対の極端な市場原理主義的でもなかった。

たぶん答えは行政のトップにあるわけじゃない。
衰退産業に新しい風を吹かせるのは、
行政の仕事じゃない。
それはこの勉強会に参加した
僕らの使命なんだと、
僕は改めて思った。

毎月1回のペースになった勉強会。
9月の発表は
農業資材の販売も手掛ける会社で働く、白崎君。
本はこれ。

西辻一真 著 『マイファーム 荒地からの挑戦』:農と人をつなぐビジネスで社会を変える.2012.学芸出版社.

農業の分野では結構有名な著者なので
参加したみんなは、
ある程度はマイファームのやっていることは
理解しての参加だった。
マイファームとは何かをざっくりいえば、
全国の遊休地を体験農園に変えて、
それに付帯するサービスを売り出そうとしている会社。
耕作放棄地の拡大を懸念してきた著書が
見出した新しい農地活用の活路、という感じかな。
遊休地が市民農園になり、
その近隣の人たちの憩いの場になるのは
とても素敵なことだ。
また有機農業のプロを育成するような
教育事業にも積極的だ。
そしてそこで生み出されたプロの農家を
著者らは「畑師」と呼び、
生産だけでなく体験農園の運営や
教育事業の講師などを務める仕組みも作っている。

なるほど。
本当になるほど、と思う。
僕が師と仰ぎ、大学在学中にいろんな薫陶を受けた方の一人に
白石好孝氏がいる。
西辻さんもきっとこの名前はよく知っているだろう。
その白石氏が90年代半ばに練馬の農家仲間と一緒に
市民農園を立ち上げたのは、
僕にはまだまだ記憶に新しい。
あの時の僕は、農業は生産力をどう向上させるか、
しか頭になかった。
品種改良の育種だったり、土壌をどうやって肥えさせるのか、や
効率よく生産するための機械化だったり、
収穫後の保存法の確立など、そんなところに
農業の課題解決があるんだと思って大学で勉強していた。
だから、白石氏たちの農地を一般市民に貸し出して
そこでのサービスを収益にするという発想に
ずいぶんと衝撃を受けた。
ああ、もうモノを売るのが農家じゃないんだって
初めて気が付かせてくれた方だった。

あれから10数年が経ち、
この本の著者の取り組みが農業界をにぎわせ始めた頃、
僕は師匠とこの取り組みについて意見交換をしたことがあった。
その時師匠は、
「いやいや、やられたね。今の子たちの感覚にはついていけないかもな。これからの時代はサービス自体を売るんじゃなくて、その仕組みで商売するんだね」
といっていたのが記憶に残っている。
もちろん、農業は今でも生産がメインではあるが、
しかしもはやそれだけが農業ではなく、
師匠の市民農園のようにサービスを売るのもあれば、
その仕組み自体を武器に商売する時代なんだろう。
ま、それは農業だけに限ったことではなく、
他の業種はとっくの昔から、
モノなんて売らずに仕組みで商売しているんだけどね。
今の世の中はモノにあふれ、
自給率が40%切っていても、食糧廃棄が毎年2000万トンもあり、
海外への食糧援助以上に食べ物を捨てるこの国では、
もはや農業生産物を販売しても
価格低迷に悩まされるだけなのだろうか。
何か「ヨイモノ」をたくさん作れば、
たくさん買ってもらえる、という
僕らには真っ当に想うビジネススタイルは
たぶんもう古臭い感覚なんだろうな。
とてもいい勉強になった。

さて、その上で、少し批判もしたい。
この仕組みは耕作放棄地を解消できるのかどうか、だ。
今や日本全国の耕作放棄地を集めると
滋賀県ほどの面積になる。
そしてそのほとんどが、中山間地。
とてもアクセスが不便で、農地も狭く、
鳥獣害もひどい場所がおおい。
ある中山間地で農業をしている知り合いは、
草や竹に浸食され、
どんなに対策をしても鳥獣害に悩まされている
その現状を「山が迫ってくる」と表現していた。
そんな全国の中山間地の耕作放棄地に
この仕組みは解決策になるのだろうか?
まず無理だろう。
この仕組みのサービスを受ける市民が
多く住む都市部に近く、
もちろんアクセスもよく、危険も少ない場所でなければ
この仕組みは展開できない。
つまり、都市部の遊休地が対象であり、
中山間地の耕作放棄地ではない。
白崎君のプレゼンだったので
僕自身が本書を詳しく精査していないが
そのあたりの単語の使い分けが
どう意図的に行われているかに注目してみても
面白いかもしれない。

ちょっと前に新聞をにぎわし
このブログでも取り上げた
2040年の20-30代の女性人口の変化は
とても過激な内容で、
福井でも池田や大野なので現状の7割の人口が減る
という予測だった(福井市でも半減)。
つまりどんどん人が地方から減っていくのだ。
そんな中で、農と人をつなぐ著者のアイディアは
どこまで勝負できるのだろうか。
それは都市近辺に住む人間だけへのサービスなのか
本当に地方再生の起爆剤の一つになるのか、
今後も注視していきたい。

と同時に、
僕自身もその問題の渦中にいるので
なんとか農業の持つ力で、その問題の解決にも
取り組んでいきたいと思うのだが、
なかなか今のセンスについていけないのが
現状だな。
もっと勉強しなくては。




夜の勉強会の記録をしようか。
今回(6/13)の発表者は、林君。
本はこれ。

大澤信一 著 『日本人のための儲かる農業』

大澤氏は、直売所関連の本を数冊書いている人で、
この本もそういう流れの一冊かな。
林君の本の解説は3枚にわたるレジュメが
物語っているように、
しっかりと準備をして臨んでくれたようだが、
多岐にわたる話題提供だったためか
議論が分散してしまった。
これは僕の力不足もある。

勉強会では、農協改革に焦点が当たっていた。
ちょうど安倍首相が農業改革を打ち出した後と
いうこともあり、
農協改革は僕らにとってどうなのかを
議論する場になった。

勉強会を終えてからいろいろと考えたのだが、
農業問題の議論がいつも分散してしまうことや、
この本のように、農業の問題が多岐にわたってしまうという
こういった特徴は、
僕ら農家の経営体が多岐にわたることから
派生するんだと思う。
兼業なのか専業なのかもあるし、
稲作なのか園芸(野菜なのか果樹なのか)なのか畜産なのか、
それともそれらの複合なのか、
そしてそれぞれの気候風土や地形(平場か中間山地か)、
所有面積とアクセスできる市場の多様さが
一つに括られては議論できない。
だから、どうしてもそれぞれの立場で
正しいと思うことをいうので
何が良いのか、よくわからないまま
議論がうまくかみ合わず流れていくんだろうな。

さて、
農協の話だが、
安倍さんの中央会制度廃止の話だが、
横並びの農協を単協で利益の出るように
競争させるというもので、
信用事業は農林中金などに一本化させるって
僕らは理解している。
つまりそれぞれの農協を専門農協にして
競争させて、
農家の所得を上げるようさせるってことだろうか?
ソンナヒツヨウアルノ???

というか、
そんなことが可能だろうか?
僕らが所属している農協は
園芸産地でもなければ、
米の価格が勝手に上がっていくような
ブランド米を生産している地域でもない。
それどころか特A評価を得たにもかかわらず、
米価は上がるどころか
市場の動向と一緒に下がっていっている。
農家では兼業農家がほとんどで、
それどころか農協の組合員は、
正組合員より準組合員のほうが
上回ってしまっている。
農協の売り上げのほとんどは信用事業で
農業事業は大赤字さ。
信用の黒字で農業の赤字を補てんしているような
そんな地域。
信用事業を中央で一本化して、
専門農協でがんばれって言われても、
そもそもそんなリスクを背負ってまでの
ニーズが地域には無いんですけど。
あっ、それは言い過ぎか。

この勉強会には
専業の農家が多く来ているが、
結構売り上げている農家は
農協だけに頼らず、
それぞれで売り先をしっかりと確保している。
仲間と生産組合を作っているか、
法人化しているか、
また個人でも販売ルートをしっかりと確保している。
つまり農家専業で行くのなら、
ただ作るだけではだめだってこと。
特別な栽培をして、個性を光らせ、
差別化やニッチを狙った栽培、大量生産による価格競争など
いろんな戦いにさらされながら、
独自のブランドを作り、販売ルートを確保する努力をしている。
他に収入がない専業の農家は、
それをしなければ
僕たち自体が存在できないのだから、
当たり前の努力といえば当たり前の努力だな。
もし安倍さんの議論が30年前くらいに
出てくるんであれば、それはそれで意味があったかもしれないが
今じゃ、僕ら専業の農家は、
とっくの昔から
努力して自分たちの売り先を探してきている。
農協同士を競争させても、
産地の農協同士でなければ
あまり関係のない話どころか、
地元農協がなくなってしまうことによる弊害ばかりを感じる。

農協はその地区の農業の上に立っていたのは
昔の話だ。
農村の構成員が農業とはまだ明確に分かれていない
そんな時代の話だ。
今は違う。
農村の構成員だって、ほとんど農業と関係を
持たない人もたくさんいる。
たとえその人が地権者だとしても。
そんな農村という場所に立脚して
運営している協同組合が、農協さ。
僕らの住む農村は
安倍さんが考えているような
儲け主義のルールに合わせて
より合理的に縦割りセクター別に変化したい、
と思うコミュニティじゃない。
僕らの生活や文化はセクター別の縦割りじゃない。

JA青壮年部でも
効率化によって農業セクターの中で活躍する
アクターの減少が、そのまま集落にかかわってくれる人の
減少につながっているような不安を
話し合ったりしている。
儲からないと、村の構成員は
農業に関心が持てなくなってくるが、
だからといって
JA単位で米価を上げようとしても
多様な生産者を一括りにしては
品質のばらつきや特色の出し方に鋭さを欠いてしまう。
武生のコウノトリ米の取り組みは面白いが、
品質面での問題やフリーライダー解消など
問題もあると聞いているし、
日本全国の全単協が、
そんな特色を差別化できるわけもない。
情報に情報を重ねまくっても、
それを受け取る側がウンザリしてしまうだけ。

そもそも
協同組合は、株式会社とは全く違い、
その性質上、競争すること自体がそぐわないように思える。

だから僕には、
安倍さんの狙いは、
農業のほうはどうなろうと知ったことないが、
農林中金かどこかに信用事業を一本化させて
大きな金融組織を一つ作りたいだけじゃないの?って
思えてしまうのである。

僕らは、もちろん、今より儲けたいと思っている。
でも同時に、減りゆく農業界のアクターと
それに連動した地域にかかわっていこうとする人たちの
減少も防ぎたいと思っている。
だって、儲け≠生活の質の向上であるが、
地域の福祉力向上は生活の質の向上には必要不可欠なのだから。

そんなこんなで、
まとまりのないまま
今回の夜の勉強会は終わった。
ただ、どこか世論誘導型の記事ばかりが並んでいるような、
そんな新聞には無い、
僕ら農家の生の議論ができたのは楽しかったな。




ちょっと長文です。
読む人の立ち位置によっては、誤解を生むような話題を提供しています。
なので、
読まれる方は、少し時間と気持ちに余裕があるときにお願いします。
では、お楽しみください。

5月の昼の勉強会は、
僕がプレゼンをした。
テーマは、「地方や農村での外国人受け入れ」について。
これは農村や農業分野に特化した考察なのであしからず。
読んだ本は、以下の通り。

毛受 俊浩 著 『人口激減』:移民は日本に必要である.2011.新潮社.
井口 泰 著 『外国人労働者新時代』.2001.筑摩書房.
「外国人実習生」編集委員会 編 『外国人実習生』:差別・抑圧・搾取のシステム.2013.学習の友社.

ちょっと前の新聞で、2040年の20‐30代の女性人口の
減少が話題になっていた。
子供を産む世代の減少により、
その自治体そのものが自然消滅するかも?
というショッキングな内容だった。
減少率も8割を超える自治体が全国でいくもあった。
福井でも池田町で7割、大野で6割と
驚くほどの減少予測であった。
堺屋太一が小渕内閣のときだったか、
経済企画庁長官を務めていた時に、
人口が減少しても栄えた国が歴史上に
存在したかどうかの勉強会を立ち上げていたが、
その報告書は閣議決定で非公開になった。
ということは、人口が減少して
栄えた国は歴史上1つもなかったということか。

かつて
外国人を受け入れてきた経緯で、
バブル期は労働需要バブルが起きて
労働者が足りていたにもかかわらず、
外国人技能実習生の規制緩和があったこと、
また堺屋太一元経済企画庁長官のアジェンダだった
少子化からくる労働人口減少への対応としての
外国人受け入れの2つの局面があった。
その中で外国人受け入れの議論を
ややこしくしているな、と感じるのは、
国や地域としての労働人口減少問題と
受け入れ側のチープレイバーへの需要と国外での出稼ぎ意欲、
そして国際協力という3つが
ごちゃまぜになっていることだろう。

個別の事例で外国人受け入れが国際協力に
なっていることは僕も認めるし
僕自身が現在受け入れを行っている中で
それを常に目指しているわけなのだが、
全体としてこれはやや誇張表現ではないかと
思う事例が多い。
隠れ蓑と表現するには、あまりにも露骨な
労働収奪が行われているケースがまかり通っている。

日本に短期滞在を含めた外国人で一番多いのは、
もちろん外国人旅行者だ。
だが、2番目に多いのは、
外国人技能実習生や外国人労働者だという。
日系や専門技術者を除いても
外国人技能実習生等で
2009年のデータで8万人以上いることになる。
その多くが第二次産業であるが、
5000人近くが第一次産業の農業セクターで働いている。

で、外国人受け入れの場合、
一番問題になるのが平行社会だ。
同国人同士が固まり、地域との関係が薄くなり、
同じエリアに住みながらも、
もう一つの社会を築き上げていってしまうこと、
これを平行社会と呼ぶ。
このような平行社会が出来上がってくると
その地域社会と軋轢も生じやすい。
また平行社会で生活する場合、
その国の言葉にあまり精通しなくても生活できるため、
2世3世がその国の言葉を使いこなせず、
その社会で周縁化してしまい、
就労や就学の機会が喪失してしまう場合がある。
こうして社会不安の要因になったりもする。
だから、外国人受け入れの場合、
一番肝心なのは、その社会との融和にある。
と、ここまではどの本も同じ論調だった。
で、しかも、その具体的な話はほとんどなかったのも
同じだった。

外国人の人口がその地域全体の1割を超えてくると
軋轢が生じやすいとOECDの報告書
Migration-the demographic aspects (1991)で論じられている。
だが、受け入れ地域の人口が自然増加状況にある場合、
外国人は拡散しやすく、
1割を超えても問題が起きにくいらしい(井口2001 pp88)。
それはその地域の市場規模も広がっているからかもしれない。
では、これらのことを合わせて
僕らの未来予想図を描いてみよう。

ちょっと前の新聞でも報じられていたが
安倍さんが農協と農業委員会の改革と
農業法人の条件を規制緩和することを指示していたが、
それによっておこることは、
大型資本による農業セクターへの参入を促進することと
農地を握って離さない
個人経営による米作モノカルチャー兼業農家の
農業セクターからの円満(?)退場(減反政策の廃止と共に)、
農地集積と法人化へその経営形態を
構造的に変化させたいのだろう。
それは今後の自由貿易圏(TPPなど)をにらんでの
ことであることは自明だ。
よりグローバルなルールに乗っ取って
たくさん儲けられる社会を作っちゃおうってことだろうな。
ちなみに、これは中山間地だと
また少し違ってくるので、
僕が住んでいるような平場の農村で
穀物(特に米)生産に向いた場所に限っての話ということで。

さて、こうして
家族経営の米作モノカルチャー兼業農家は
集落営農か近くの規模の大きな法人(もしくは個人)へと
統合されていく。
再度、土地改良によって一枚の田んぼが
個人経営のときにふさわしかった大きさから、
より効率的な広さへ整備しなおされたりもする。
ただ農業員会が首長による任命制になったとしても
神門氏が指摘するような農地転用期待がなくなるわけじゃないので、
他のセクターへの農地転用によって効率的な農業は
阻まれ続けていくことになると思うのは、
また別の機会に議論したい。
さて、そうなってくると100haくらいだったら
穀類(特に米)であれば、
数人で、いや1人で可能になるんじゃないだろうか。
僕が住む河合地区で500haの農地があるので
5人とは言わないが、10名程度のオペレーターが
いたら、それでOKになる。
で、このオペレーターが外国人になるかといえば、
たぶんそれはなかなかないかも。
定年した方々が帰農するケースは
たぶん今後も増えると思われるし、
その職への欲求も根強く残るだろう。
しかも大型へと機械化が進めば、体力的にも可能になるし。
じゃ、外国人は農村で増えないじゃん、という結論になるか、
といえば、そうじゃない。
一般企業で農業セクターに参入してくるほとんどが、
園芸の分野なのだ。
施設園芸か露地園芸かによって
規模の違いはあるが、穀物系の資本集約型とは違って、
労働集約型の経営形態が多くなるってことだ。
この形態であれば、労働者として
外国人が増えていく可能性はある。
つまり野菜の産地であればあるほど
その可能性は高くなるってことだろう。

農村において、
少子化だからその埋め合わせに外国人って
いうロジックは、そこに雇用がない限りは
やっぱり生まれない気がする。
それも農業形態は資本集約型ではなく、
労働集約型でないとね。
2040年にいくつかの地域が自然消滅の危機に
陥るという報道で、
その解決策として移民という言説は、
そのままストレートなロジックとしては
無理があるだろうな。
中山間地で産業をどのような形態に依存し
それがどれくらい足腰が強いかなどが変数となって
その農村が移民受け入れの最前線に
なるかどうか、未知数なところは多い。

地域差はあろうが、TPPなどの影響により米作から脱却して、
水田露地園芸をある程度の規模で行えた地域では、
労働力確保の欲求から外国人が増えることは予想される。
僕のいる地域でもコメの価格や補助の状況にもよるが
単純に米価が国際標準まで落ち込んだ時、
水田露地もしくは施設園芸にシフトすることもありうる。
多くが園芸分野に入ってくれば、
供給過多になるのは目に見えている。
需要の2割を超してしまえば、
市場価格は半額以下になる。
それでも乗り切れるのは、
ブランド力か低コスト生産ってことになる。
チープレイバーへの期待は、ここでも生まれることになろう。
移民を受け入れるかどうかの政策はよくわからないが、
現状では、そうなった未来予想図の中で
チープレイバー欲求にこたえうる制度の一つが
外国人実習制度といえるだろう。

で、そういう中で外国人が増える場合、
自然人口増加のない、しかも人の少ない農村なので、
その地域の人口の1割を外国人だなんて状況は
簡単に生まれてくる。
OECDのレポートを信じるならば
そこには必ず軋轢が生じる。

外国人実習制度は、その背景で
一度も研修だったことはない。
チープレイバーへの欲求にこたえるだけの制度だと
批判されても、当然だと思し
実際に、そういう運営されている感じることも多い。

で、この制度を利用している僕としては、
これが本当に研修に昇華させていけるのかどうか、という
問いに腐心すること自体も、
なんだか道化師のように思えてならないのだが、
僕の経験から外国人が増えていく農村地域に
何が言えるのかを考えてみた。

まず、研修という場を作ることに
もっとこの制度を利用している人間は自覚すべきだ。
OJTというなんだか研修なんだか労働なんだかわからない
言葉を使わず
それなりに研修をコーディネートできる人材が必要だろう。
高度に研修を完成させることができれば、
それぞれの学習意欲と労働意欲も高まるため、
より質の高い労働環境を作ることができる。
この時に必要なことが、
相手の地域ぐるみに研修を組み立てることだ。
受け入れ団体が如何に研修を作ろうとしても、
やってくる人間にその意思や認識が不十分の場合、
研修は成立しない。
個々の業種や経営体によっては
たとえ同じ受け入れ団体であっても、
実際の研修はブラックボックス化してしまうので、
地域ぐるみにかかわること考えれば
(平行社会を作らないためにも)
そこに根差した組織の活用もありえよう。
JAなどが第一次受け入れ団体として
機能しても面白いかもしれない
(この場合、能力の高いコーディネーターの登用が必要・青年海外協力隊OV等の人材をもっと地域で活用してほしいな)。

さて、このブログでも何度も紹介しているが、
うちの農園の自己学習システムのように
周囲の人を巻き込んだ形に、研修を意識的に持っていく必要がある。
出稼ぎ&チープレイバーという呪縛から抜け出すには、
給与や制度の問題以上に、こうした機会の創出や
そこに意識を向ける努力がより効果的ではないだろうか。
できればその先にある地域間交流にまで発展できれば、
研修を軸に地方と中央という閉塞的なモデルを抜け出し、
地方と地方がグローバルにつながるという
現象も待っているように思う。
行政がどのように移民受け入れの制度設計をしようと、
これらの研修制度等で経験を豊富に積み、
これから来るであろう移民受け入れ社会の中で、
もっと能動的に社会変容に関わっていける
人材の育成と場の創出が、僕には急務に思える。
それは、ここまでの人口情報の出し方、
安倍首相の指示、
そしてTPPといった議論の行く末を考えると、
単に米価を守ればそれでOKとは言えない言説が
着々と築き上げられているからだ。

だからうちの農園では、
村の行事に研修生が関わったり、
この地域の人たちを集めて研修卒業生の地域へ
スタディーツアーを企画したり、
研修3年生は卒業研究として地域の方々にインタビューをしたり、
その成果は地元農林高校で日本語で発表をしたり、
農園のBBQイベントではスタッフと研修生とのバンドで
盛り上がったり、
そんな小さなことだけど、経験を積み上げてきている。
近い将来、
できれば研修を送り出している地域で
行政・大学関係者・研修卒業生・地元農業者・地元農業高校生・流通関係者・その他有識者などを集めて、
今僕が関わっている外国人技能実習制度について
議論を交わせるシンポジウムを開きたいと思っている。
送り出し側の地域の
研修=単なる出稼ぎという意識に
少しでもくさびを打ち込みたい。
建設的な意見から
その地域の発展に必要なことを議論することで、
そこに関わりあうことで
僕らの地域が持つリソースを再認識できる場が
あってもいいと思っている。
ほとんど夢想に近いが、
今の研修のカタチも、
始める前は単なる夢物語に思えていたことだったのだから
ここから先も夢物語を
夢想し続けてもいいんじゃないかと
思っている。

そんな考えを勉強会では
プレゼンをした。




P1080800.jpg

これまで毎週水曜日のお昼に行われてきた勉強会。
それを月2回の昼1回・夜1回に切り替えた。
その記念すべき第一回目の夜の勉強会が
先日行われた。

発表者は尾崎君。
県が主催する
25年度のアグリスクールプロコースに参加して
その中で面白かった講義を取り上げて
プレゼンをしてもらった。

やはり金沢大地の講座は面白かったようで、
「講師の言葉が難しくて理解できない箇所が多いですが」
と前置きをしながらも、
その内容に深く共感している様子だった。
経営理念や未来予想図なんて
自分で作って営農を始めたわけじゃないので
なんだか新鮮だった。

さて、議論はお酒を飲みながら・食べながらで行った。
こういう場合、通常議論にならず
ぐだぐだになるのだが、結構まとまった議論ができたと思う。
アグリスクールの内容についての議論も面白かったのだが
個人的には就農の苦労について
みんなの意見が聞けたのが面白かった。
普段はあまりこういう話にはならないのだけど、
お酒も入る分、本音トークにもなるしね。

さて、
新規就農のメンバーの場合、
とにかくナイナイ尽くしから始まる。
資金も土地も施設もない。
土地を借りようにも
地主の信頼がなくて難しかったりするようだ。
借りれても条件不利地だったりする。

労働力確保も課題だろうな。
一時に仕事が集中する農業は
労働力をどう確保するかが難しい。
新規就農の場合、自分以外に労働力はなかったりもする。
あるメンバーは、妻に手伝ってくれと言っていないのに
勝手に手伝いに来て、
ルーティンでつらい作業に耐えられなくなり
そのあと機嫌が悪くなるので勘弁してほしいと言っていた。

また技術もないし、市場の信頼もないから
販売も苦労すると漏らしていた。

では親から継承する農家の息子は楽か?といえば
そうでもない。
というのも、自分が就農しても
親の手足となって働くだけで
自分の意見なんてほとんど通らないからだ。
あるメンバーは就農してから2年くらいは我慢したらしい。
で、やっぱり親と衝突して
それから自分の畑をもらって
親の仕事が始まる前や終わった後に
自分の畑で好きな野菜などを作ったとか。
これは僕も同じだった。
親との方向性の違いなんて格好良いことも
言っていたこともあったが、
方向性がわかるほど人生経験がない。
でも自在に何かを作るという
農業のクリエイティブな部分に憧れて
始めた仕事だったのに、
毎日言われるままのルーティンな作業と
細かく決められた手順に追い回されて、
考えなくなっていく自分が嫌だったことを思い出した。

これは事業継承型の農家に
あてはまることでもないようだ。
メンバーの一人は長年勤めた農業法人を辞め、
新規就農するのだが、
その理由が
やや事業継承型の僕らの悩みと似ていた。
自分の意見が上部に採用されないことや、
機械的でルーティンな仕事をこなすだけで
自分の農業へのこだわりを作っていくこともなければ
それを発信していく場もなかったことが
不満だったとか。

どういう形態にせよ、
それぞれ大小と濃淡はあるにせよ、
僕らは農業というスタイルに対して、
その自在にモノを栽培するというその職場に
身を置くことで、
自分も自在な存在になれるんじゃないかという
幻想を抱いてその職に就こうとする。
だから、そうじゃない現実とのギャップに
苦しむことになるんだろう。
でもそれが苦しみだと感じている内は、
まだその理想に対してあきらめたわけではなく、
その自在な存在になれる過程だと
言ってもいいだろう。
もがき苦しんだ分だけ、
その存在に近づくと信じたい。

夜の勉強会は、
時間もたっぷりあり、
食事をしながらということもあってか
リラックスしてのディスカッションで
いろんな話が聞けて良かった。
想いや悩みや問題をシェアすることの
大切さも再認識できた
記念すべき第1回目の勉強会だった。




ちょっとまえの勉強会(3/26)だけど記録しよう。
農園スタッフの大西が選んだ本はこれ。

田中 修 著 「タネのふしぎ」

今年の1月から3月にかけて
彼が担当していた野菜で、
発芽不良のため欠品が続いた。
かなり思い悩んでいたようで、
あれこれと調べたり勉強したり
していたようで、
勉強会でも種について発表していた。

あれこれと書いてあったようだが、
基本的なことは温度と水と空気と光だろうな。
これらの条件を
現在の設備で、
できる限り最適な条件に持っていけるかどうか
ということになる。

発芽不良の原因は
いろいろと考えられるが
どれがその主原因だったかは
まだ僕らにはよくわからないままだ。
だが、その中でその次にどういう
対応を取っていくべきか、
という意味では、この本は
その考えのタネを与えてくれたようにも思う。

来年のこの時期の
彼の栽培管理に注目したい。


今年に入って、みんないろいろと動くようで、
勉強会に来てくれていたメンバーの4人が
一時お休みや勉強会を卒業していった。
それぞれの道で頑張る結果として
勉強会への出席ができなくなることは、
とてもいいことなので、僕はそれを祝いたい。

でも、ちょっと勉強会をこのまま続けるには
人数が少なくなってしまった。
一時は20名近い人数が来たこともあったが、
現在は7名ほど。
また、3年間今のスタイルを続けてきて、
ちょっとマンネリ化したかなぁ~という思いも
ないわけではないので、
少し変化をつけようと思う。

まず勉強会の開催を毎週から月2回へ変えてみよう。
そしてそのうち1回は、これまで通り水曜日のお昼にやるが
もう1回は、夜やろうかと思う。
これまで仕事で参加できなかった人も
もしかしたら来られるかもしれないしね。

勉強会の内容はこれまでどおり、
ゼミ形式で、
参加メンバーの順番で、
それぞれが読んできた本(映画・講演等も可)を
プレゼンしてもらおうと思う。

夜の勉強会は軽食&お酒ありで
今までとはまた違った議論をしてみよう。
参加希望者は、ぜひご連絡ください。

順番を飛ばして、申し訳ないが、
先にこれを記録しよう。
というのも、
今回の発表者の山本君は、
今月から岐阜に移るとのことで、
今回が最後の勉強会参加だったからだ。
いやはや、さみしくなるね。

さて、山本君の選んだ本はこれだ。
コリン・タッジ著 竹内久美子 訳『農業は人類の原罪である』

この本は、僕は確かインドネシア留学中に
読んだ記憶がある。
昔のブログを探したら、書評もあった。
なんとも懐かしい本じゃないか。

僕ら現代人は、
その祖先であるクロマニョン人が
採集生活から農耕生活に移行することで
環境変化(気候や食糧問題)に適応し、
というか適応せざるを得なかったのだろうけど、
ネアンデルタール人のように滅びず、
現代にまでその繁栄をつづける結果になった
というのが本の主張。
進化論の立場から、古代の人口と資源の関係を考察し、
農耕が生まれた経緯を説明している本で、
マルサス的問題を再認識させている現代では、
こういう論理が思考のタネになるかもしれない。

で、何が原罪なのか。
僕の書評でも、このタイトル自体は
訳者が付けたキャッチ―なタイトルで、
原著にはあまり記録されていないこともあり、
全体を通して読んでもよくわからないのが
正直なところだ。
でも、この際なので、
農業の何が原罪なのか、ちょっと考えてみようか。

この本の論理はマルサスの人口論をめぐる議論がベースにある。
人口圧があり、限りある資源が枯渇してくると
どうなるか、そんな議論だ。
もちろん、そのまま生産性を伸ばせない場合は
滅びゆくのだろうが、
人々は技術革新や新しい土地を切り開き、
今まで見向きもされなかったものが資源化され、
僕らの社会は
僕に言わせれば『延命』してきた。
そしてそれが延命にも関わらず、
無知な僕らは自己の利益を伸ばす競争を
いまだに止めることはない。

そんな現代人が生み出した生産様式は、
日本でも毎年2000万トンの食糧を捨て、
そして10億人が肥満になり、10億人が飢餓に苦しむ
とても変な社会を作り上げている。
食糧は余りあるほどあるのに、
分配は不均等、そんな社会だ。
で、どんどん人口は増えている。
食糧問題が言説化される場合、
新しい技術への投資への刺激欲求だったり
やや環境に配慮できていない
生産方法への承認だったりもする。
それらは飢餓をなくすというプロパガンダの元、
すべてが正当化されていく。
マルサスをめぐる議論の風景は
そんなところだろう。

僕らの祖先クロマニョン人が農耕に移行した時から
僕らは一方通行の道を延々と走っているというわけだ。
それが資本主義によって加速され、
IT革命によって世界中がつながりを得て
そのシステムに乗っかってグローバリゼーションが
加速し続ける中で、
膨大なエネルギーによって支えられている社会が
原発やGM技術を生み出している。
貧困解決にBOPビジネスなんていうのが
あまり批判を受けずに大手を振ってまかり通るのも
この一方通行のトップランナーにいるからだろうな。

そしてこの場所から改めて
本書を眺めれば、
やはり農業がその原罪になる、というわけだろうか。

マルサス的な議論自体が
すでに一方通行しか想定されておらず、
その論理に乗っかる以上は、
僕らに本当の意味でのオルタナティブは
存在しなくなる。
この議論自体が、いろんなものの隠れ蓑に
なっている気がする。
そしてそれが自然農だろうがクリーンなエネルギーだろうが、
この議論の前には
それらは一方通行の一部にすぎない。
だから、僕らはそれを超える理論を
見つけないといけないのだろうけど、
なかなかそれがないところに
もどかしさを感じる。

山本君、最後にとても面白い議論を
ありがとう。
僕ら一人一人がしっかりと考えないといけない
というメッセージを受けたように思います。
新天地で成功すること、お祈り申し上げます。



3月12日の勉強会は
酒井君がプレゼンしてくれた。
彼はうちの農園で1年研修をした後
独立してホウレンソウとトマトを
栽培している。

さて、彼が選んだ本はこれ。

岩崎邦彦 著 『小さな会社を強くするブランドづくりの教科書』

農業を始めたばかりの酒井君は
なんとかして自分のブランドを確立して
優位に販売したいと思っているようだ。
まぁ、それはすべての農業者の願いでも
あるんだろうけれどね。

さて、ブランドについては
これまでも勉強会でいろんな人が
いろんな本を取り上げて発表してきた。
酒井君のプレゼンで僕の琴線に触れたのは、
価値について。
著者は価値に2つあるといい、
それを機能的価値(良い悪い)と情緒的価値(好き嫌い)が
あるという。
あまり洗練された分け方ではないけど、
僕もこの価値のうち、情緒的価値の重要性を
良く感じている。
ちなみにこの価値の分類で秀でているなと思ったのが
かつて大ちゃんがプレゼンしてくれた本だろうな。
(そのプレゼンのリンクはこちら)

情緒的に訴えるには、
些末な小手先の技術としては
デザインとその物のストーリーがあるが、
最近はそれ以上に
その物だけでなく、
全体を包む僕らの姿勢が問われることになるだろう、と
思っている。
小手先に訴えても
結局は小手先の付き合いにしかならないのだろうな。

あとこのプレゼンで面白かったのは、
脱平均、脱総合、いらないものを削って
より洗練されたものを作るってところか。
どこかで突出しなければ、
それはブランドにはなりえない。
本ではどこまでを突出と言っていたのか
よくわからなかったけど、僕は、それは
そして先の話と同じで、
小手先の技術的なものじゃだめだと思う。
やはり僕らの真摯な気持ちと行動が
それらを包み込み
強いイメージが付帯して、
より強いメッセージをその物が帯びることだと思う。

だから、一朝一夕でブランドは
できなんだろうね。
JAへの共販に頼って栽培をしている酒井君は、
その共販の中で1番を取るか、
共販を飛び出して突出するか、
なんせどの道を進もうが、
強い決意と覚悟が必要だろう。

それは僕らも一緒だろうけどね。





えっと、簡単な記録として
このエントリーを書こう。
今回はもうすぐ就農4年目になる林君。
本はこれ。
増田芳雄 監修 山本良一・櫻井直樹 著
「絵とき 植物生理学入門 」

光合成に特化してプレゼンしてくれた。
光合成が全光の1%しか使用していないとか、
水と二酸化炭素がどうしてエネルギーと酸素に変わるのか、
どういう条件でよく光合成が行われるのか、
などなど、植物生理学的に細かく説明してくれた。

なんとなく、
光が当たれば光合成するんじゃねーの?
みたいに思っていた僕らには、
とてもわかりやすい説明でよかった。
けど、ここで再現するのはしんどいので、
知りたい人は勉強会に来てくださーい。

さて所感。
光合成の条件が温度と湿度(水分)と光と二酸化炭素濃度なので
それを調整できればいいのだが、
意外に夏はそのコントロールができない。
気温が30度超えてくると、光合成量は減っていってしまうので。
促成栽培ならば、その理論を活かせるかもしれないけどね。
うちの農園では
4月~6月くらいまでの話かな。
オランダのように冬は加温・夏は冷房をする
完全に環境をコントロールするハウスならば
それも可能だけど、
北野君のプレゼンの「フェアな未来へ」の視点からすれば、
より資源を搾取した世界の貧困の上に成り立つ栽培法だよね。
どんどはれ。




簡単な記録として、
このカテゴリを再開しよう。
ちなみに勉強会は毎週水曜日12:45から
農園の和室ミーティングルームにて行っている。

2月26日は研修生北野君の発表。
本は、これ。
ヴォルフガング・ザックス&ティルマン・ザンタリウス 著
「フェアな未来へ」:誰もが予想しながらも自分に責任があるとは考えない問題に私たちはどう向き合っていくべきか。
もうすぐ青年海外協力隊に参加する
彼らしい本のプレゼンだった。

グローバリゼーションが進むなか、
持続可能な世界のあり方に主に環境面から
切り込んでいる印象だ。

資源の分配はアンフェアだし、
インドの家族がドイツの世帯と同じだけ車を所有すると
酸素量から地球が1個では足りないのだから、
経済成長至上主義でいけば、
当然僕らはこの星に暮らせなくなるわけだ。

まぁ、この本では「国」を一つの単位として
国家間でのフェアについて話をしているが、
もはやそんなものは幻想に近い。
国と国を跨いで活動する
インターナショナル企業によって、
また広域の自由貿易エリアの出現によって、
国家の機能は、
そういったインターナショナル企業の番頭でしかない。
南北問題は今や国家間ではなく、国内問題と言った方が
いいかもしれない。

僕らの住むエリアで、僕らがどう暮らしたいか、
そんなことに多様な価値を生み出せたらいいのだけど、
毎年のように数千人と若者を都市に取られ続ける
ここ福井では、僕らが高齢化すればするほど
それは年寄りの世迷言になるのかもしれないな。
みんな、教えてほしい。都市のどこがいいんだ?
都市を憧れる君らの根底と
世界中のアンフェアは、僕にはつながって見えるんだけど。



そういえば、勉強会の記録がないね、と言われることがある。
勉強会やめたの?ともいわれるのだが、
ちゃんと続いている。

では、なぜ記録がないのか?
それは、勉強会に来てくれないで、
読んだだけで満足してしまう人たちが
若干ではあるがいるということだ。

なので、記録をやめていたが、
それはそれでやったことがたまっていかないので、
これまでのように詳しくは書かないが、
記録だけはしようと思う。

ちなみに
僕のプレゼンした本は、読書記録にまとめていこうと思う。
一応テーマをもって本読みをしているので、
ある程度蓄積が必要だと感じるようになったので、
あちこちに書き散らすよりも
読書記録として書いていこうと思う。

以上、独り言のような忘備録でした。

ひさしぶりに、これも記録しなくては。
それは、僕らの勉強会の記録。
7月に暑さと仕事の忙しさから、
約2か月ほどお休みしていた勉強会だが、
9月から再開をしている。
メンバーそれぞれが持ち回りでプレゼンするゼミ形式。
学者みたいと思われるかもしれないが、
参加者は実践者ばかりなので、
突っ込みや批判&議論の展開は学術的ではなく、
実感のこもった肉体的で直観的なのが特徴。
そんなタフな勉強会に
夏休みの間バイトとして参加してくれた
深沢君も、バイト期間の最後に
勇気を出して発表してくれた。
その本は、これ。

吉田太郎 著 「有機農業が国を変えた」:小さなキューバの大きな実験


さて、キューバの有機農業は
これまでも勉強会で何度か取り上げている。
吉田太郎氏の本も、これで2度目だ。
前情報の無い方に簡単に説明しよう。
キューバは、社会主義圏内での分業を推し進めてきた結果、
食糧やエネルギーを自給できない国になっていた。
そんな小さな国が、ソ連崩壊後、孤立してしまう。
輸出用の砂糖生産や工業分野で外貨を得て、
それで国内需給分を輸入する。
自給率は40パーセントだったいうから、
どこかのヒノイズルクニと一緒だ。
欧米諸国の経済封鎖もあり、完全に立ち行かなくなっていた。
そんな中、輸出中心の近代化された農業から
地産地消的な有機農業に切り替え、
不死鳥のようによみがえったという
奇跡の有機大国キューバの話を書いたのが、
この本というわけ。

化石燃料に頼らず、トラクターから牛耕への転換や
自然農薬・天敵防除・堆肥などの技術を深め、
小規模のコミュニティ菜園などを行い、
完全に自給できるレベルまで農業を昇華させた。

キューバの成功の裏側には、社会主義国だったという
要因もある。
農産物などの生産物はすべて国へ販売しなければいけなかったが、
インセンティブとして20%は市場流通を許可された。
つまり、頑張った分だけ少しは得をするシステムになった。
また国有地ばかりだったのが、自分で耕作するのであれば、
私有地として認めたことも耕作意欲を高めた。
なんだか墾田永年私財法みたいだ。
まさにこれらは社会主義国だったから
インセンティブになったのであって、
今の日本にはまったく当てはまらない。
と深沢君もプレゼンで指摘してくれた。

この本の事例はどう捉えたら良いのだろうか?
エネルギーの次の新しい地平なのだろうか?
まさに原子力の未来に僕らは絶望しか見えない現状では、
こうしたエネルギーを使わない古くて新しい農業は
あるいは僕らのモデルになるのかもしれない。
だが、そのインセンティブはキューバのようには
得られないのも事実。
ではこれは、有機農業の優位性を語るものなのだろうか?
深沢君は、TPPといった広域経済圏に参加する流れの中で、
日本の農家が生き残る一つの方法だという。
だが、広域経済圏で「有機農業」がJAS法のように
国境を越えて新しく規定された場合、
途上国の廉価な労働力を使って生産された
廉価で高性能な有機野菜が
雪崩を打って日本のマーケットを席巻するのは
火を見るよりも明らかだ。
それもたぶん、「メイド・バイ・ジャパニーズ」だったりも
するんだろうな(僕もその一人になってしまうかもしれない)。
だから、これらの話は、そのままでは、
僕らにはあまり役に立たない。
賛美はすれども、ある特定の条件で生まれた
奇跡の物語でしかないのだ。

でも、僕はこのキューバの物語に触れれば触れる程、
その人々の豊かな暮らしとその未来の素晴らしさを
条件が違うと言うだけであきらめてしまう気になれない。

条件や刺激が揃えば、
人の行動はこうも変化できると言う
ある種の希望にも見える。
原発は無理だ。
大量生産大量消費も行き詰っている。
アベノミクスだって経済のパイを無限に拡大させることは、
実質的に無理だ。
僕らはどうしても今を頂点にゆっくりと下っていく社会にいる。
つまりそれは、熟成した社会。
その中で、本当の熟成した社会の在り方と
キューバの有機農業&予防医学に僕は未来を感じる。

ただキューバのような条件と刺激は無い。
その代り、僕らには資本主義の次のステージとして、
ソーシャルビジネスがある。
係り合いと金銭に限定されない価値が入り込んだ
まさに市場経済を凌駕して社会的価値を生み出すビジネス。
有機農業というキャッチーなテーマ自体には、
僕なりに反論と反感と批判があるが、
それはそれで修正を加える余地があるという意味で
別の議論に過ぎない。
地産地消的(コミュニティ主体的)な有機農業の価値は、
その条件と刺激になるんじゃないかと期待する。

少なくとも僕らが出来ることは、
無機的に流れゆく巨大流通に乗っかるのではなく、
有機的なつながりを個のレベルでたくさん作って行くことだろう。
それが場として力を持つ未来は、
まだ僕には描けないが、
すでに日本各地でその狼煙はあがっているように思える。

深沢君、大学1年生にしては、
とても素晴らしいプレゼンをありがとう。
面白い発表であればあるほど、
僕らの肉体的な直観は刺激され、
その先の未来をより明確に夢想することが出来るのだ。

僕らにとって刺激的なプレゼンだったように、
君にとって、この夏のバイトは
素晴らしい時間だったのであれば、とてもうれしいのだが、
どうだっただろうか?
また時間があったら遊びにおいで。
議論の続きをやろうじゃないか。


勉強会の記録をしよう(6月5日分)。
この会の発表者は、北野君。
青年海外協力隊に行きたいと志を立てて、
農園で研修をしている若者。
本はこれ。

後久 博 著 「売れる商品はこうして創る」:6次産業化・農商工連携というビジネスモデル.2011.ぎょうせい.


今、北野君には新商品開発の
プロジェクトを与えている。
農園の野菜を使った加工品をつくるプロジェクトで、
そこにある資源を有効活用し、新しい市場を開くというのは、
結構協力隊の現場で求められる能力だったりもする。

さて本書は、その新商品開発についての
フレームワークを与えてくれる本。
本書が説明している思考フレームは3つある。
1つ目は、シーズ・ニーズ思考フレーム。
素材(シーズ)と需要(ニーズ)を上手くつなげて
商品開発するもので、事例として北海道の小麦・ハルユタカが
挙げられていた。
素材そのものに力がある場合は、
需要へのいくつかの条件をクリアーすることで、
商品化へ結び付けていくと言ったイメージだろうか。
2つ目は、付加価値化×関係づくり思考フレーム。
流通や消費者との接点を作り、その関係性の中から
新商品を生み出すというもの。
観光農園や農業イベントなどを通じて、
お客様の声を新商品へと昇華させたり、
流通のそれぞれのステップでの問題点や課題を共有しつつ
その解決が新商品につながるイメージか。
3つ目はブランド化思考フレーム。
その地域の特性をデフォルメ化してブランドを創り上げるというもの。

とまぁ、それなりに整理されていたが、
実際に僕らレベルで出来るのは一つ目ではないかと
北野君は言う。
なので、一つ目のシーズニーズ思考で、商品開発をするとのことだった。
今はそれで良いかもしれないが、
たぶん協力隊で求められるのは、
2つ目や3つ目の思考ではないかと思う。
いろんなステークホルダーがいて、
その間を新しい関係として有機的に取りまとめる役が、
「よそもの」には求められる。
というか、求められないとしても、
それをしていくのが仕事になる。

本書では、6次産業と農商工連携を
整理して説明してあり、
農家が2次3次産業まで踏み込んで行う6次産業化と、
それぞれの分野の人々が、ある資源を商品化するために
共同開発する農商工連携と分けている。
北野君は農商工連携にはあまりポジティブではなかった。
2次3次産業の企業が1次産業に参入しても、
地域活性化の部分では
地域の雇用を生み出している部分に限られ、
どちらかと言えば
良い企業イメージをアピールしているに過ぎない
と考えているようだ。
大きな商社に勤めていた彼の経験も
そういう考えに至っているのかもしれない。

これらの妥当性は、その程度の問題とは思うが、
ある資源に対して多くのステークホルダーが
係るような場を作り上げていくことこそ、
地域開発の原点ではないかと僕は思う。

だとしたら、その場をファシリテートすることが
実は君の仕事なのかもしれない。
それでもまだ
1次産業がマージナルに置かれてしまうこともある。
その理由はなんなのかは、もう少し勉強していこう。

さて、
新商品開発では、インドネシア研修の卒業生の生産物と
農園の野菜のコラボ商品を作ろう、
と僕らは画策している。
どんな商品が、どんな物語を含みながら、
そしてそれがどういう地域発展の要素を持って
出来上がっていくかは、
これからみんなであれこれと走りながら
考えていこうと思う。


有志による勉強会の記録。
5月22日は、農園のスタッフ佐藤のプレゼンだった。
本はこれ。

小見 邦雄・山田 隆・西島 基弘 共著 「食品添加物を正しく理解する本 Q&Aファイル101」

自身もアレルギーに悩まされる佐藤は、
ここのところ、アレルギーに関連するような
本を選び勉強している。
今回は、食品添加物。

この本は日本食品添加物協会の顧問や
大学の先生によって書かれたもので、
食品添加物そのものに危険性は無く、
むしろ食品添加物のおかげで、
食中毒などの危険性を避けることが出来ると
主張している。

一方で、佐藤は阿部司著「食品の裏側」も読み、
それらを対比させてプレゼンをしてくれた。
ただ、阿部氏の本では、
食品添加物の実害については、書かれているわけじゃない。
一見食品に見えるものでも、
まったく想像していないものを原材料として、
食品添加物を多用することで、
食品に仕立てている、というのが阿部氏の指摘だ。

食中毒の患者数は、
平成24年度の統計で26,699人。
実際に病院に行かなくなった人数が、この数だとすると、
自分で治してしまったけど食中毒だった可能性が
ある人は、これの何十倍にもなるということだろう。
一方で、食品添加物が原因で
中毒を起こした患者数は、居ない。
そういう意味では、
食品添加物は食中毒を防止する、というプレゼンの著書は、
とても説得力があると思う。

だが一方で、
阿部司氏の著書にあるように、
さまざまな原料と工程を経たミートボールの存在は、
「それは人の食べる物じゃないでしょう」
という僕らの本能的な判断は、
否定されるものじゃない。

安全か?そうじゃないのか?と言う議論は、
いつも何かが抜け落ちている。
科学的なデータで理論武装した判断に、
自分の思考をゆだねてしまう暴挙を
僕らは無批判のまま受け入れすぎなんじゃないだろうか?

たぶんそれは、
もっとこういうことなんじゃないだろうか。
物事を文学的に捉える。
もっと情緒的に想う。
目の前の事象を、主観を無視せず記述する。
みんなが添加物が危険かどうかを
議論しているとき、僕はそんなことを考えていた。


ちなみに、
科学的な論点での危険かどうかの部分で言えば、
食品添加物の殺菌能力が、
僕らの腸内環境(腸内細菌の環境)にどう影響するのかは、
まだ解明されていないように思う。
アレルギーや精神疾患の一部は、
腸内環境が大きく影響しているように、
僕は考えている。
多く摂取することで
(もしくは無菌のモノを多く摂取することで)、
僕らの腸内環境を悪化させる可能性について、
もう少しまともな研究が進むことを祈る。
ゼロリスクの思想を僕らは否定し、
細菌を摂取する方が、より人間らしい生き方であると
微生物学による新しいフレームワークを
期待している。


有志の勉強会の記録。
今回は、5月15日の分。
発表者は、若手のホープ・大ちゃん。
本は、これ。

坂手 康志・小々馬 敦 著 「通勤大学MBA ブランディング」

自分の農作物のブランディング化を目指す
若手農家の大ちゃんらしいプレゼン。
本書では、ブランドについて
解りやすく説明されていた。
ブランドとは、心の中に作る貯金箱で、
その貯金箱に入れるコインは、約束を守る行為なのだとか。
消費者からの信頼と期待を守り、
それが積み重なっていく中で、
ブランドが形成されるというわけか。
一朝一夕と言うわけにはいかないのだろう。

ブランディングのなかで大切なのは、
消費者の右脳、つまり直観的で情緒的な判断に
訴えかけられるかどうかで、
無意識に購買意欲を引き起こさせる、とのことだった。
ロゴによる視覚的なイメージや、
CMや歌などによる聴覚的な記憶も大切なのは、
この部分にあたるのだろう。

大ちゃんのプレゼンで
面白い図が紹介されていたので
ここでシェアしよう。


ブランディング 画像


ブランドの価値をイメージした図だが、
一番下位にくるのが、消費者にとって機能的便益。
そのものの機能や効能といったもので、
これは最低条件。
この機能や効能は、消費者に提供することが
最も容易だが、その反面、最も模倣されやすい。
その次に来るのが、情緒的便益。
消費者に感動や意外性を与え、
りくつではなかなか説明できない利益を
消費者が得る部分。
最上位に位置するのが、自己表現的便益。
そのブランドは、より個性的で、
消費者はそれを持つことでステータスまでもが
上昇するモノ。
自分が所有していることで、
自己を表現している価値までもが
上昇するモノ。
これは消費者への提供は容易ではないが、
同時に模倣も難しい。

と書いても、良く解らないので、
具体的な例(農産物)で考えてみるか。
たとえばリンゴ。
甘くておいしい、やビタミン豊富などは
一番下位の機能的便益。
まずこれはブランドの最低条件だろう。
リンゴの栄養価や甘さを強調しても、
自分のリンゴがブランド化するわけでもない。
なぜなら、誰でも模倣可能な条件だからだ。

青森県産のリンゴといっても、
あまり感動はないから、
気候的な条件で美味しくなっている場合は、
これも一番下位の機能的便益だろうか。

地元の生産者が作るリンゴになると、
すこし上位に来る気がする。
その人を知っていたり、
その地区に対する思い入れがある場合は、
ブランドが情緒的便益になってくる。
食べる度に、そのことを想いだし、
美味しさもますます加速する。

では、自己表現的便益とは?
奇跡のリンゴで有名な木村さんのリンゴは
たぶんこれにあたるんじゃないだろうか。
入手困難なリンゴを
毎日のように消費するスタイル自体が
その人のステータスの高さにもつながる。
リンゴじゃなくても、
食味検査で日本一となったコメや
はたまたワインでは、
テロワールの奇跡ロマネコンティなんかもそうだろう。
ベンツやシャネルなどのブランドも
それを消費する人のステータスの高さを
表現するのに一役買うわけだ。
これらは模倣が至極難しい。

つまり栄養価やその野菜の機能を
説明していても自分たちの農産物の
ブランド化にはつながらない、と言うことだ。
情緒的に訴えられる力と、
その貯金がたまっていくことで、
自己表現的便益を持つことが出来るかどうかが、
ブランディングに欠かせないということだろう。

日々の研鑽と
情報の発信とその共感を直感的にどう生み出すか、
そこが鍵なのだろう。




有志による勉強会の記録。
5月8日は倉友君のプレゼンだった。
本はこれ。

安保 徹 著 「疲れない体をつくる免疫力」

農作業が忙しくなってくるこの頃、
いくら若いからといっても、
疲れが翌日までひきずることもある。
倉友君は、
「子供の頃よりも疲れやすくなっている」と感じ、
どうしたら疲れにくい体を作り上げていけるのかを
知りたいと思い、本書を選んだようだ。
同じような悩みは、僕ら農家にはつきもので、
とても興味のあるトピックだった。

さて、倉友君のプレゼンでは、
疲れない超人的な体なんてできないので、
疲れてもすぐに回復する体作りが大切だと
指摘していた。
つまりは体の免疫力を高めるということらしい。
ここでいう免疫力とは、白血球による治癒力を指す。
免疫力を発揮させるには、自律神経をバランスよく
整える必要がある。
自律神経には、交感神経と副交感神経があり、
その両方がバランス良く働くことが
免疫力を高めるのだとか。

交感神経は、人が行動的・活動的に働く神経で、
この神経が活動中は、
白血球の内の細菌を攻撃する顆粒球が増すらしい。
副交感神経は、食事中や食後の休息中に働く神経で、
この神経が活動中は、
白血球の内のリンパ球が増えて、
加田らの異常細胞(癌など)のもとを攻撃するとか。

いろいろと細かい点でそれぞれの神経の働きや
問題点を議論できたが、
結局は、
早寝早起き、きちんと三食リズム良く食べ、
日光に浴びる環境で、適度な運動と休息をしっかりと取り、
お風呂に入って、バランス良い食事をする、
ということが疲れない(疲れてもすぐに回復する)体を
作る秘訣と言えよう。
当たり前のことを
当たり前にすることが難しい現代だからこそ、
こんな議論になるのかもしれない。



有志による勉強会の記録。
今回は、5月1日の大和のプレゼン。
本はこれ。

長谷川 英祐 著 「働かないアリに意義がある」。

とても興味深い本ではあったが、
繁忙期のゴールデンウィークの合間と
月はじめが重なり、
昼ご飯を食べる時間を削って仕事をしたが、
勉強会に遅刻してしまい、
プレゼンは半分くらいしか聞けなかった。
ちょっと残念。

さて本書はアリの社会を観察することで、
興味深い考察をしている。
よく働いているように見えるアリだが、
7割が巣で休んでいるとのことで、
さらに全体の2割のアリは、
まったく働きもしないのだとか。

アリは遺伝で「反応閾値」が決まっていて、
その全体の中でその数値が高い低いで
働かないアリが出来上がるらしい。
なので、働かないアリだけを集めると、
その閾値の高低差で、
働くアリと働かないアリに分かれるのだとか。

働かないアリも、よく働くアリに不測の事態が起これば、
その交替要員として活躍するらしい。
不安定な要素だらけの自然に対して、
アリが勝ち得た知恵とも言えるだろう。

これは人間社会にも言えることで、
多様な社会が
不測の事態に対して強いとのことだった。
プレゼンを半分しか聞いていないので、
認識にずれがあるのかもしれないが、
ちょっとその話は、昇華しすぎではないだろうか。

多様な人材の社会が不測の事態に強いのは、
アリの社会から見た交替要員と言う意味ではなく、
ある方向性から見たら、
まったく生産性の無いことを
しているように見えることでも、
複雑な社会で起こる「不測」の多様さと
マッチしてくることなんじゃないか、と思う。
遺伝的に決まっていると言われると
なんだか運命決定論的で、
ちょっと僕としては受け入れがたいかな。


勉強会の記録、
もうひとついっとこか!
4月24日のプレゼンは、農園のエース大西。
本はこれ。

ジェームズ・W・ヤング著 「アイディアの作り方」。

ちょっと前の本(1988年)だが、
広告業界で有名な著者が、
アイディアの作り方という手の内を
簡潔に紹介した本。
こういう本を選ぶあたりが、
大西らしい良いセンスだな、と思う。
この勉強会では、プレゼンする本を選びぬく力も
そのセンス磨きにとても大きく影響しているのだ。

さて、
アイディアはどこからか降ってくるものだと
思っている人が多いかもしれないが、
著者はそれを否定している。
自分の中に蓄積された知識の融合が
アイディアだという。
アイディアが生まれるプロセスを
著者は5つのステップに分けて解説している。

まずステップ1は、
「資料の収集」。
資料にも2種類あり、特殊資料と一般資料。
特殊資料は、自分の関心ごとに近い情報。
製品の技術や背景などなどがそれにあたる。
一般情報は一般教養。
時事問題やトレンドなどか。
これらの情報をとにかく整理して集めることが
大切だとか。
ただ単に読み捨てにするのではなく、
きちんとファイリングできるかどうかも
ポイントなんだと思う。

次のステップ2は
「資料を咀嚼する」。
意味なく並んだ資料をきちんと咀嚼し、
それぞれの関連性について考えてみるプロセス。
咀嚼して自分の血肉に変わらなければ、
自分のアイディアなんて生まれないもんね。

ステップ3は、
「考えを熟成させる」。
一旦考えるのをやめ、アイディアが頭の中で
熟成していくのを待つ必要があるらしい。
大西は、これまでこのステップを経験したことが
無いと話してくれた。
一晩寝てからもう一回考えるというくらいではなく、
一旦、その関心ごとから離れて、他のことに集中するくらい
必要だとか。
これもわかるような気がする。

ステップ4は
「発見の瞬間」。
熟成させた考えが、ひらめくという段階。
これはあまり経験がないな。

ステップ5は
「アイディアのチェック」。
他者からのチェックやアイディアが本当に
その関心ごとと有機的につながっているのか
資料化してチェック。
この段階でボツになることも多いとか。

これらのステップをすべてクリアーして
初めて新しいアイディアが生まれてくるという。
だから、ある日突然、
まったく新しく、斬新なアイディアが、
天から降ってくることなんて無い。
どこかでそれは誰かの真似だったり、
何かのモデルに良く似ていたり、するのは、
そういうことなんだろうと思う。

ただ、これで一部の天才だけが
斬新なアイディアの恩恵に
あずかるわけじゃないことも分かった。
良質なアイディアを生み出す秘訣は、
やはりステップ1の情報収集だろう。
地道な努力が、実を結ぶというわけだ。
当たり前になっている僕らの目の前の事象を
一つ一つ丁寧に掘り起し、
それを記録し続ける努力が出来る人が、
良質のアイディアを生み出すことが出来る。

僕らは、意識して記録し、
それを眺め返す日々を繰り返す必要があるのだと思う。


有志による勉強会の記録。
毎週水曜日に農園の和室ミーティングルームで
行っているので、興味のある方は、
ぜひ、ご参加ください。

さて、今回は4月18日の記録。
酒井君のプレゼン。
本はこれ。

ニール・マーティン著 『「習慣で買う」の作り方』。

ついつい習慣で、毎回、
酒井君の野菜を買ってしまうような消費者が
スーパーや直売所にあふれている状況を
夢見る酒井君。
動機がちょっと不純な感じでのプレゼンだったが、
この本の中身は面白かった。

ビジネス啓発系のいい加減な考察ではなく、
しっかりと心理学に基づいて書かれた本で、
習慣がどうして出来上がっていて、
そしてその習慣がどう壊れて新しい習慣が生まれるのか
それを消費者心理に沿って書かれていた本。

まず、人間の行動の95%が無意識。
習慣脳と言われている部分で判断をし
行動している。
この部分で行動している場合、
人間は深く考察をせず、その行動を反復する。
これが「習慣」と言うわけだ。
その反面、しっかりと考察をし、
行動を起こす場合は、
判断脳で判断をしている。
ここでは意識は顕在で、これまでとは違う行動も
生み出される。
この部分が5%。
と言われると、自分はいろいろ考えて行動している!と
言いたくなるだろうが、
実はそんなことは無いのだ。
行動で判断をするのはほんの一部で、
あとは習慣化された行動で出来上がっている。
たとえば、本書には無かったが
解りやすくするために一例を載せよう。
車を運転する場合、すべてが判断脳かと思うが、
たぶん目的地へ行くための道順位が
判断脳で、あとは全部習慣脳だろう。
青信号で交差点に進入するとき、
本当にすべての安全を確認してから
交差点に進入するだろうか?
ハンドルを回せば車が回ること自体も
一体自分でどんな判断を下したと言えるのだろうか?
アクセルやブレーキもそうだが、
それは、「前もそうだった」とか
「そういうものだから」といった習慣と経験に
成り立ってはいないだろうか。
それが習慣脳というものだ。
さて本書は、
この習慣脳と判断脳を
マーケティングに活かそうとしている。

消費者が判断脳で考えていると
他社の製品に乗り換えられやすいという。
習慣脳で買ってもらえるように工夫が必要だとか。
また他者の製品から自社に乗り換えてもらうには、
この習慣を壊して、判断脳で考えてもらえたら
良いということになる。
酒井君のプレゼンで面白かったのは、
この習慣をオメガルールと呼び、
その習慣を壊すきっかけをデルタモーメントと呼んで
整理考察していたところにある。

オメガルール(習慣)を創りだすには、
商品に対して
シンプルな意味あるメッセージを反復し、
それが消費者の中でカテゴライズされることが
大切なのだとか。
一旦判断脳で判断してもらえれば、
それは習慣化しやすい。
自己判断を否定する行動は人間とり難いもので、
メッセージが伝わって、それを判断してもらえれば、
習慣になりやすい。
だからメッセージは出来るだけシンプルが必要だ。

ではその習慣を壊すためには、
デルタモーメントが必要になる。
新しい情報で、これまで正しいと思っていたことが
違っていたと思わせるきっかけが必要と言うこと。
価格差もこのデルタモーメントを生み出すきっかけでもある。

習慣化されている場合は、
それが壊れないように注視し、
他社から自社に乗り換えてもらうには、
デルタモーメントのきっかけを仕掛け続ける
必要があるということか。

とてもおもしろいプレゼンだったが、
しかし、酒井君がこの手の話をすると
なんだかちょっと怪しい雰囲気になるのは
どうしてだろうか???



たまった勉強会の記録をつけよう。
4月10日開催の勉強会は、
林君のプレゼンだった。
本はこれ。

藤野 直人 著 「本気で稼ぐ!これからの農業ビジネス」。

就農2年目の林君は、
加工やレストランへの直販など
新しい取り組みをしているようで、
農業ビジネスについて何かヒントを得ようと
この本をとったのだとか。

この本では、儲かる日本の農業に必要な条件として
「自分で作って自分で売る」
「1000万円の所得を稼げる農業」
「品質・生産性・加工技術を活かす」
の3つがあるそうだ。
その上で、「中規模流通」という
ちょっと聞きなれない流通への取り組みを勧めている。
著者は、大規模流通を既存の市場やJA出荷などとし、
小規模流通を直売所やインターネット販売だと
定義している。
その中で、それらの間にあるのが
中規模流通という。
これだけでは何のことやらさっぱりなのだが、
僕の理解でちょっと書き足そう。
作り手やその野菜の情報が削ぎ落ちていくのが、
大規模流通。
想いがダイレクトで伝わる市場がインターネット。
でもこれはとても小規模。
デパートや生協のように
ある程度流通量を確保しつつも
作り手の想いや野菜のこだわりが前面に出ているような
販売経路をたぶん著者は中規模流通と
言っているんだと思う。

この本は、
なんだかうちの取り組みをそのまま
言葉にしてくれた感がある。
農園では、これまで市場出荷に重きを置いていたが、
ここ数年はそれが様変わりし、
インターネットや個別販売が伸びている。
直売部門だけでも全体の3割近くを占めている。
これらが大規模流通と小規模流通にあたるんだろう。
さらに、スーパーやデパートと一緒に
農園の特別コーナーを作ってもらって
農園のカラーで売り出していこうという
企画も始まっている。
たぶんこれが中規模流通か?
加工にも力を入れていて、
カラフル乾燥大根は昨年の倍以上を生産したのに
今年はもう完売してしまった。
インターンシップによる
農園の農産物を使った加工品の新商品開発も
これからやろうと企画中だ。

やれることは何でもやろう、という姿勢が
大事なんだろうな、と最近は良く思う。
林君も、頑張れ!



田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

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メールは
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