さらに見学は続く。
次は谷を下り、
谷の向こう側の畑へ行った。
とこう書いてしまえば1行なのだが、
その畑までいくのはなかなかの困難が多く、
けもの道のような道を足を取られながら下り、
崖を少し削ったような細道を
おびえながら通り過ぎなければならない。
僕らは手ぶらで歩いていけばいいが、
ここに住む農民たちは、
肥料や農作業道具、そして収穫物を担いで、
毎日この道を行き来するのだ。
彼らの日常が、ただもうそれだけで
英雄譚のようにも感じられた。

3か所目の畑は、
そこは切り立った崖のような斜面を
テラス状に耕し畑にしていた。
ヘンドラが帰国した年(2011年)に親戚から購入した。
45aの畑で、結構な広さだった。

帰国してすぐにこの畑に、トウガラシ約1万本を
ヘンドラは植えつけたらしい。
新規就農者が一度はやる失敗ともいえるかもしれない。
育苗と定植のときは、結構作業が楽だし、
小さな苗を見ていると1000本でも2000本でも
楽勝で管理できる気がしてしまう。
そうやって植えつけた畑は、大抵、
収穫時期に地獄を見ることになる。
ヘンドラの場合は、
この時期にインドネシアでも最大手のABCケチャップ社と
契約栽培を検討している時期でもあり、
大規模のトウガラシ栽培が可能かどうか
冒険していたころだったので、
1万本という途方もない数を植え付けてしまったのだろう。
当然管理が行き届かず、
支柱と結束が十分でなかったこともあり、
十分大きく育ったトウガラシは、
谷風が強い日にその多くが折れてしまった。
そして残ったトウガラシも収穫が追い付かず
大量に廃棄になってしまった。
そしてグループによるABCケチャップ社との
有機トウガラシ栽培契約も
その他の要因もあって立ち消えた。
(詳しくは、2013年の調査エントリーを参照のこと)

この経験は彼に多くの学びを与えた。
自分たちが出来る営農の限界と販路の問題にぶち当たり、
彼が出した答えは、
如何にして高く売れるかを至上とするよりも、
確実に売れることを優先しようということだった。
そしてそれは、営農のモノカルチャー化を避け、
労働の分散とリスク回避の中で行われるべきだと
彼は考えていた。
だから彼の畑はどれもこれもその思想で溢れていた。

3番目の畑は
野菜には向かないし、労働の分散も考えて、
今はここに丁子とバナナを植え付けようと準備中だった。
毎日の収穫は集落近くの畑で賄い、
この畑のように少し遠い場所では果樹をするといった
デザインを彼は想い描いていた。

丁子は現在高値で取引されていた。
嘘か真か、農家との話では、
スメダンの丁子畑の多くが、
建設中の高速道路の用地や住宅地として売却されたという。
それで昨年の丁子の価格は一昨年の倍の価格で、
スメダン近辺ではにわかに丁子栽培のブームが起きていた。
スメダンの一部の畑が高速道路に変わっただけで、
そんなに価格変動するものだろうか?と
やや僕は懐疑的なのだが、
農家はそう認識していた。
そしてここが大事だが、
その認識に合わせて、農家の行動として
丁子を大量に植えつけていたということである。
丁子が収穫できる5年後、そして収穫が本格的になる10年後に
大量の丁子が収穫され、価格が一気に下落するんじゃないか?
そんな心配をしている。

そしてそれはヘンドラやタタンも認識していた。
周りの農家たちが丁子ブームに沸く中、
彼らもある意味冷めた目でそれを見てはいたが、
だからと言って、
そのブームを無視して独立独歩を貫くことはできず、
彼らも大量の丁子を植え付けていた。
もう少しこの丁子ブームの情報があれば、
その市場や高値を生み出している構造を分析でき、
将来どういう値段の推移をするのか、
考えることができるのだが、
そのあたりの多くは噂話で事が進んでいく危うさもあった。
そういうことは、
農業研修の
農業構造論とグローバリゼーションと農業の授業でもやるのだが、
彼ら農家の立場では、アクセスできる農業情報が
圧倒的に少ないため、まともに分析できないのが現状だろう。

ただヘンドラは、丁子が育つまでの間のタイムラグを
埋めるために、バナナとの混植をしていた。
バナナは植えつけ1年目から収穫可能で、
換金性も高い。
頻繁に管理しなくてもいいので、3番目の畑には
もってこいの作物でもあった。
ヘンドラたちの
現場でのこうした対応能力は非常に高いだけに、
農業を取り巻く全体像が
見えないことがやはり悔やまれる。

ヘンドラの営農は、畑ごとに
そのリズムは分かれていたが、
それは彼が導き出した農のカタチなのだろう。
1番目と2番目の畑では、
日々売れる野菜とやや高く買ってもらえる野菜を
組み合わせて、販路に合わせた作付けをしていた。
毎日少しずつの収穫と播種を繰り返す営農スタイルで、
確実に売れる野菜を作っていた。
選別を徹底しているヘンドラの野菜は、
商人から厚い信頼を得ているとのことだった。
またそれを担保している育苗技術も
素晴らしいものがあった。
日本で見た育苗技術を取り入れ、
個人で大量に野菜の苗を作る技術を確立していた。
そしてその一方で3番目の畑のように
手入れがほとんどいらず、
やや粗放型の果樹園も計画していた。
他にも羊を8頭飼い、
急な出費にも対応できるようにしていた。
労働とリスクを分散させ、
確実に売れる野菜とそれを支える技術、
現場で複雑に対応していた彼の背中は頼もしかった。

さらに驚くべきことは、
彼が若干27歳にして、集落長に選ばれていたことだった。
彼の父は集落長ではない。
だから世襲ではなく、住民から選ばれた集落長なのだ。
僕はこれまでいろんなインドネシアの農村で調査をしてきたが、
彼ほど若い世襲でない集落長を知らない。
住民の厚い信頼がなければ、ありえない役職だった。
さらに、今度の4月にインドネシアは大統領選挙と
国会議員選挙があるのだが、
彼は村の選挙管理委員会の委員長になっていた。
前年に行われたスメダンの知事選でも
村の選挙管理委員会の委員長だったらしい。
いつのまにか、ヘンドラは地域の有力者になっていた。

彼自身、
「農業はまだまだ成功とは言えません」と
言っていたように、畑には多くの苦悩を感じた。
だがそれと同じだけの、いやそれ以上の希望もまた僕は感じた。
こうしてヘンドラの村を後にした。



ヘンドラは、2011年4月に帰国した。
僕の彼への思い入れも、
みんなと同じだと言いたいのだが
やはり研修第一期生ということもあり、
やや特別だ。

帰国してすぐに
農家グループ長になったタタンのように、
ヘンドラも昨年の訪問の時、
すでに農家グループ長になっていた。
今回はどんなことで僕を驚かせてくれるのだろうか、と
なぜかそんな期待が常に彼にはある。

ヘンドラの地域は、へき地だ。
だが都市から遠いわけではない。
むしろタタンよりもバンドゥンにも
県都スメダンにも近い。
地図上では、とても立地が良い場所のようにも見える。
しかもバンドゥンからスメダンへ抜ける州道沿いなのだ。
だが彼の地域は、とその大きな道との間には、
大きな谷が横たわっていた。

その谷には橋がなく、
自然その谷を上り下りしなければならない。
4輪の乗り物では、そこを下っていく道が限られており、
また悪路でもあるため
よほどオフロードを得意とする車両でなければ
その道を通ってヘンドラの村に入っていくことはできない。

ちなみに急斜面を一気に下りるバイクだけが通れる道はある。
そこがヘンドラの地域の生活道なのだが、
年に何人もけが人(骨折程度)が出る道らしい。
僕が訪れた時も、ちょうどその月に村人一人が、
その急斜面で曲がりきれずに、そのまま谷の下まで
落下したらしい。
運よくほとんど怪我がなかったらしいが、
バイクは大破だったとか。
旅で訪れた人には、
その斜面を専門としたバイクタクシーなども
利用できるが、まぁ、お勧めできない。

さて、タタンの村を朝8時ごろ出て、
ヘンドラの家に着いたのは、お昼前だった。
雨季ということもあり、
何度も車がぬかるみにはまり往生したが
なんとか彼の村まで来ることができた。

到着してすぐに、
僕らはヘンドラの畑を見回ることにした。
ただ彼は、
「とても危険なところが多いので、近くの場所だけにした方がいいです」
と言ってすべてを回ることを渋っていた。
そんなんじゃ、ここまで来た意味がない、
と言い張り、無理やり回ったのだが、
彼の言うとおり、それはちょっとしたトレッキング並みで、
いや、道が整備されていない点で
それよりも悪い状況だった。

彼の村はぐるりと谷に囲まれているため、
畑は谷手前の斜面か、
谷向こうの斜面に限られていた。
平地はゼロ。
すべて斜面で、しかもなだらかな棚田ではなく、
急激な崖の所々を耕起している
といった表現があっているだろう。
急な斜面に作られた田んぼでは、
当然、地滑りも起きる。
地滑りが起きるとそのまま畑として数年利用し、
土地が動かないと確認できた場合、
また棚田に作り直して稲を栽培している。
僕が見学したときも、田んぼの数か所に
大規模な地滑りの跡があり、
ヘンドラは、
「あそこは雨期が終わればたぶんキャッサバの畑になります」
と平然と答えていた。

ヘンドラは、自分の村で水田を所有していなかった。
祖父の遺産として違う地区に水田があり、
それは他人に任せているという。
食べるための米は父の水田と、
任せている水田と妻の実家からまかなっている。
彼自身、こういう場所で水田経営することは
気が進まなさそうだった。

彼は自分たちが食べるための農業ではなく、
農業経営という意味での農業を目指していた。
それはあとで記述するが、彼の営農のスタイルから
強くそう感じられた。

彼の土地は、大きく分けると3か所だ。
まず一番先に見に行った畑は、
ヘンドラの集落よりも一つ谷の上にある集落だった。
その集落内にヘンドラは畑を所有していた。
17aほどのなだらかな斜面の畑で、
2012年に購入したという。
この土地を購入する前に彼は中古住宅を買い、
その住宅のリフォームを行っている。
それらの資金は日本で得たものだったが、
それに少し余りが出たので、
思い切ってこの畑を買ったらしい。
ちなみにこの畑を買って、
日本での資金はすべて使い果たしたとのことだった。
さてその畑の近くでは、
食肉用の鶏ビジネスを行っている人がいて、
そこの鶏糞をふんだんに使用できると
ヘンドラは言っていた。

ヘンドラも帰国直前に
この養鶏ビジネスをやろうと父から言われていた。
ただ彼は養鶏をやったことがなかったし、
リスクが大きすぎると考えていた。
紆余曲折あり、結局そのビジネスに
投資することはなかったというのは余談。
余談ついでだが、
インドネシアでは食肉の需要が高まっていて、
マニュアル化された養鶏ビジネスが盛んだ。
リスクは高いが、もうけも大きくて、
僕がかつて行った調査でも、
養鶏を始めた農家が一気に儲けのレールに乗り
規模を大きくしていたこともあった、
ということも余談。

ここでは面白い作付けをしていた。
まず赤豆(うずら豆のようなもの)を栽培し、
それが収穫される前にねぎを植え、
赤豆の収穫が終わる前に、
トウガラシの苗を植えるという栽培法だ。
Tumpang sariという名のインドネシアでは
かなりポピュラーな栽培法で、
いわゆる昆作・間作のことである。
一農家当たりの耕作面積が小さいジャワという事情と
トラクターで耕起できないこと、
熱帯という病害虫が猛威を振るう地域が背景になって、
こうした昆作が作物をリレーさせながら
行われている。
ヘンドラの場合は、
うちの農園での授業でやった総合防除を
よく覚えており、
コンパニオンプランツといった作物間の相性を
実践に取り込んでいた。

この畑のトウガラシは、
知り合いの揚げ豆腐屋に卸す予定をしている。
西ジャワは高速道路の整備に湧くが、
その高速道路のサービスエリアにお店を構えている
揚げ豆腐屋が毎週50㎏のトウガラシが欲しいと
ヘンドラに連絡があった。
高速道路のサービスエリアでは、
通常ありえない値段でものが売買されていて、
ヘンドラのトウガラシの買値も一般の市場よりも
倍近い値段で買ってくれる予定になっている。
ちなみに揚げ豆腐には必ず小さなトウガラシがついており、
それをかじりながら豆腐を食べるのが
西ジャワ(ジャワ全般)では一般的である。

2番目に見に行った畑は、
ヘンドラの集落の近くの畑だった。
ここは日本にいる間に購入した畑だった。
9aの畑で、斜面をテラス状にして
耕作していた。
ここでは、ソシンというアブラナ科の菜っ葉と
きゅうりのローテーション栽培を行っていた。
どちらも価格は安いが、
どちらもインドネシアの日常に欠かせない野菜である。
つまり、どこへ持って行っても
かならず売れる野菜なのだ。

実はこれはとても肝心なことなのだ。
野菜は生き物なので、収穫適期がある。
過ぎてしまえば商品にならない。
だから適期に収穫するのだが、
果菜類や葉菜類は日持ちがしない。
しかもインドネシアは熱帯で、毎日真夏だ。
そして流通のコールドチェーンがしっかりしていないので、
冷蔵保存なんてできないため、
葉菜類は収穫したらできるだけ早く販売しないといけない。
そんな不備も、
たぶん商人から買いたたかれる要素の一つなんだろうと
僕は思うのだが、それはまた別の機会に
議論するとしよう。

そんなわけで
収穫した野菜が必ず売れるというのは
価格が高い以上に、
農家にとっては重要な要素になったりもする。
だからヘンドラは、価格が安くても
とにかく毎日売れる野菜を作っている。
ソシンとキュウリは野菜を買い取る商人のところへ
毎日持っていくのだという。
もちろん近所の人も結構買いに来るので、
こういう野菜は足りないくらいだとか。
「小さくても、安くても、とにかく販売できるものを作り続けるのが大切なんです。」
とヘンドラは言った。
何かを決意するような、
もしくは自分に言い聞かせるような、
そんな言葉だった。
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ヘンドラは精悍な顔つきだった。
もともとやせ気味の彼だったが、
研修中とは顔つきが全く違っていた。
話し方も思慮深くなり、
一言一言選んで話す彼の言葉には、
彼の苦労と努力がにじみ出ていた。

僕ら一行がタンジュンサリ農業高校に到着すると、
彼はそこで待っていてくれた。
2011年の4月に彼が日本を発ってから、
初めての再開となる。
研修一期生で、僕としても試行錯誤をしながら
一緒に研修を創り上げたという意味でも、
思い出深い彼。
彼の笑顔をみるだけで、
もうただそれだけで泣けて来そうだった。

しばらく学校で先生方を含めて談笑したのち、
僕ら一行はヘンドラの村に入った。
当初は軽い気持ちでの農村見学のつもりだったが、
学校の校長や副校長、教務主任などの
お偉方6名も引き連れての大げさな一団になっていた。

ヘンドラの村は、山間にある。
それは彼が日本に来る前に届けられていた
彼の村のポテンシャル調査でも解っていた。
その調査を担当してくれた僕の友人であるA女史は、
「車では、入れないわよ」と
僕らの出発前に電話で教えてくれた。
山間を抜ける大きな州道から、
バイク1台がやっと通れる道ある。
その道を15分入れば、そこにヘンドラの村がある。
ただその15分の道が厄介だという。
A女史は、
「そうね、遊園地の絶叫アトラクションなみね。ただ違うのは、安全がまったく保障されていないだけかしら」
などと、怖いことを言う。
だから、今回の旅は、
その道を歩いて村に入る予定でいた。
歩けば40分以上はかかるらしい。
それも平坦じゃない。
アップダウンの激しいトレッキングルートなのだ。

しかし、学校での打ち合わせでは、
ヘンドラは
「車では入れます。今日なら大丈夫でしょう」
と言う。
その道は、僕も以前彼から聞いていた。
裏の山をぐるっと回るルートで、
とても時間のかかる道らしい。
その道もアップダウンが激しく、
普通の車では登れない坂も多いとか。
さらに、雨季には、
アスファルト舗装がされていないため道が滑り、
通れないらしい。
僕らが訪れた時は、まさに雨季だった。
だから当初は、トレッキングルートを
歩いて村に入る予定だった。
だが、今朝方ヘンドラが村から学校に来る時に、
その道を確認してきたらしい。
今日なら入れる。
と彼は言う。
こうして、僕ら一団は彼の村の裏手の山を
迂回するルートを選んだ。

僕は青年海外協力隊で、
かなり田舎に住んでいた。
車も入れないような道やアスファルト舗装されていない道
あらゆるオフロードも経験してきたつもりだった。
だが、ヘンドラの村に入るそのルートは
僕がこれまで経験したどの道よりも
ある意味、厳しい道だった。
まず、道幅。
対向車とすれ違うことはできないどころか、
車がぎりぎり通り抜けられる程度の幅。
僕の集落の中の道も狭いと思っていたけど、
あれの半分もないのだ。
そして坂。
四駆でも登坂が厳しい坂ばかり。
下りでは運転手はサイドブレーキとフットブレーキ両方を
使いながらゆっくり下りないといけないほどの勾配。
そんな道を延々1時間ほど走った先に、
ヘンドラの村があった。


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ヘンドラの村についたことはすぐに分かった。
なぜなら道沿いの棚田に、
銀マルチをした畝がいくつも現れたからだ。
こんなことをするのは、ヘンドラくらいだろう。
はたして、そうだった。
彼は、父親の家の隣の家を買い、
そこを少しだけ拡張と改築をして、
新妻と一緒に住んでいた。

彼は研修期間中から、
農地を確保し、すでにそれ相当の土地を耕作していた。
道沿いの棚田は7aほどだが、
そこではトウガラシ栽培をしている。
山の斜面の畑は50aほどはあるらしいが、
そこはバナナをやりたいと話してくれた。

彼は帰国して間もなく、村の農家グループの副グループ長になった。
そしてインドネシア大手のABCケチャップ社と
有機栽培トウガラシの契約を結ぼうと奔走した。
彼の村の21軒の農家をまとめあげ、
なんとか交渉まで行き着いたが、
ABC社の栽培契約で出荷量の折り合いがつかず、
話は流れてしまった。
「規模と面積、そして出荷量が僕ら農家に合わないんです」
とその時のことをヘンドラ話してくれた。
毎週9トン生産しないといけないという条件や
3ヘクタールの水が引ける農地を準備しなければいけないなど、
とても彼のような小さな村では合わない条件ばかりだった。

実は、彼は帰国後、
彼の母校であるタンジュンサリ農業高校に講師として誘われていた。
そして学校でもアグリビジネスを実践してほしいとも言われていた。
まずまずのポストだし、
そのまま試験が通れば、公務員への道も開ける。
高校の横に併設されている大学にも通えるだろうし、
キャリアアップも見込めるまたとないチャンスだったろう。
それを彼は断っていた。
「僕は地域を良くする農業ビジネスがしたいんです。僕だけが儲かるんじゃなくて、ここにいるみんなが発展していけるような農業を作りたいんです」
まっすぐに僕や先生たちを見て、彼がそう語った。
彼は今25才。
まだまだ若く、社会的にもその地位は高くは無いはずだが、
彼は村の農家グループ長になっていた。
そんな若さで集落の重職にはなかなか就けないはずだが、
それは、彼の高い意識と彼が見つめる未来に対しての、
村の人の期待のあらわれなのかもしれない。

彼が問題視したのは、
輸送手段と水の確保だった。
彼の村では、米は1作のみで、
その後、トウモロコシと落花生とキャッサバの昆作が行われている。
近年、家畜のエサ用としてトウモロコシ価格が優等生で、
村にもトウモロコシの買取人は良く来るのだとか。
でもヘンドラは何とか野菜の販売を考えていた。
価格が良いことと、毎日出荷できることが利点なのだとか。
遊園地の絶叫アトラクションなみの道を抜けて、
大きな州道まで出てしまえば、
市場までは30分圏内。
ヘンドラは日の出前に、その道を抜けて
野菜の出荷をしていた。
「暗いと坂の怖さが見えないので、逆に気楽に行けるんです」
と笑いながら答えていた。
どう?野菜は儲かってる?
と僕の質問に彼は少し間をおいて
「まぁまぁです。でもぜんぜん満足はしていません」
と答えてくれた。
まだまだ自分の規模も小さいし
周りの農家でやりたいという人も少ないと教えてくれた。

彼は牛も飼いはじめていた。
6か月前から子牛飼いはじめたのだとか。
舎飼いで肥育して肉用で販売する。
山の斜面でもバナナを植える計画をしている。
彼は、
「僕1人では、できない事が多いです。他の研修生、特にタタンが帰ってきたら、一緒に市場リサーチや販売などを協力してやりたい。」
そう話してくれた。
仲間が必要なのだ。
同じような情熱と高い意識で係ることが出来る仲間が。

彼の語る言葉の中に、
かつて僕が彼に熱く語った言葉の切れ端が
あちらこちらに見え隠れしていた。
彼の現状は決して成功とはいえない。
そして、これからもあがくだろう。
でも、彼はやっていけるだろう。
自分で考えていける力を
もう十分備えている。
あとは僕らはお互いに刺激し合える関係を維持して、
高いモチベーションで農村開発について議論を
これからも繰り返していこう。
彼の語りに触発され、
僕の中で、何か熱いものが湧いてくるのが分かった。
僕がまだ彼にしてあげられることは
そう多くないが、それでもまだ少しは彼を応援できるだろう。
今回の旅で、僕の中に秘めていたものを
やはりある程度動かして帰らなければいけない。

彼の問題を整理すれば、
それはまずインフラがあるだろう。
輸送手段と道だ。
そして栽培に必要な水。
これは、インドネシア中どこも一緒だろうな。
今一つ必要なのは、パートナー。
同じ意識で協働できる仲間。
これは、僕への宿題でもある。
そんな問題と希望を見せてくれた
ヘンドラの村訪問だった。

つづく
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研修第一期生のヘンドラが今日帰国した。
受け入れを始めて、3年。
はっきり言って、短かった。
教えようと思っていたことの、半分も教えられなかった。
ここ数か月は、少々焦りながらも
出来るだけ詰め込もうと頑張ったのだが、
それでもやりきった感はない。
彼はどう思っているのだろうか?

帰国する前に、彼としっかり向き合って聞き取りを行った。
フィールド調査の時のように。

そのやり取りの中から、
彼がここで感銘を受けたこと、
そしてこれからやろうと思う事が、少しずつ見えてきた。

彼は、聞き取りの開口一番、
「毎日出荷できる生産体制を作りたいです」と言った。
インドネシアの農民は、一つの栽培に集中してしまって
次の収穫までにずいぶんと間が空いてしまうのが欠点だ
と、ヘンドラは考えている。
それに比べて、僕の農園では、毎日収穫しつつも
毎日種まきをし、常に出荷できるようなサイクルを作っている。
ヘンドラはそれに感銘を受けたらしい。

「カンクン(空芯菜)やキュウリを植え付けして、サイクルをずらしながら毎日出荷できる体制を作りたいです。市場は近くの小さな市場で良いので、とにかく毎日出荷したいです」
と答えてくれた。
一時にたくさん収穫するよりも、
毎日毎日、少なくてもいいので出荷して収入を得る。
単純なことだが、なかなか難しいそのサイクルを
自分の生産に取り込みたいと意欲を示してくれた。

それと同時に、インドネシアらしい
一攫千金的な栽培も忘れてはいない。
彼は、トウガラシ栽培をやりたいとも言っていた。
トウガラシ栽培は、研修に来る前から父と一緒にやっており、
中間商人(買取人)との関係もあるらしい。
収穫は一時に集中するので、価格が高ければ大当たりだが
低ければ原価割れもありうる作物。
それでも大量に販売が可能で
グループを作るか、大規模で栽培すれば、
それなりにまとまった量が収穫できるので
ジャカルタやバンドゥンなどの
大きな市場でも勝負ができる。
小さくとも毎日収穫し収入を得る経営をしつつ、
一攫千金を目指した大規模な栽培も夢見ている。
実は、すでに一部土地を購入済みらしい。
初めは30aでやる、と言っていた。

そして、聞き取りの中で取り留めもない話が
だんだんとまとまり、最後に出てきたのが
有機肥料である。
彼は、有機肥料の有効性を研修3年生の課題として行った。
その経験を活かして、帰国後は有機肥料の生産もしたいと言っていた。
その有機肥料は当然自分でも使うが、
沢山作って販売もしたいと考えている。

ヘンドラの父が、彼の研修で貯めたお金を当てにして
食肉用の養鶏をやりたいと言い出しているらしい。
彼はまだ父の事業にお金を出すかどうか迷っているようだが、
父はやる気満々だとか。
研修で得たお金は出来る限り彼の事業に使ってもらいたいのだが
そんなところまでは、僕はなかなか踏み込んで指導できない。
外国人長期海外研修制度をただただ批判する輩が、
その指導を強制貯金だとか、お金の使い道を制限している、とか
いろんなところで騒ぎ立てているようで、
そのことも、資金の使い道を指導することに
二の足を踏ませている原因でもあるのは余談。

さて、ヘンドラ。
父の養鶏事業にお金を出すのであれば、
そこでとれる鶏糞を使って、有機肥料をたくさん作って
それを販売したいと考えているようだった。

インタビューでは、ヘンドラは上記のように
まとめて話してくれたわけじゃなかった。
やりたいことを聞いていくと、当然だが、話が飛び飛びになり
物語にはなっていない。
だが、インタビューのプロセスを丁寧に行ったところ
僕とヘンドラは下記のようなまとまった話として
彼のやりたいことが見えてきた。

①毎日出荷できる生産体制をつくる。
作目はカンクン(空芯菜)とキュウリ。
近くの市場向け。小規模でもいい。

②グループ化、もしくは大規模化も考えている。
作目はトウガラシ。
市場は、大都市狙い。

③有機肥料の販売
父の養鶏事業で出た鶏糞で
良質の有機肥料を作って販売する。
有機農業をする農家のグループ化も視野に入れている。

というのが、彼の計画。

僕は、教えきれなかったことを後悔する間は無いようだ。
これからの彼を、どう支援していくか、
それに向けて行動しなければ。
なぜなら、彼はもう走り出しているから。


福井農林高校で
3年生の課題研究発表会があった。
その発表会に、
インドネシア農業研修プログラムの3年生である
ヘンドラ君も発表させてもらう機会を得たことは
前にも書いた通りだ。
昨年1年間取り組んだ、有機肥料の有効性について
日本語で発表した。
いわば、僕らにとっては
研修プログラムの卒業論文発表会だった。

P1000361.jpg


発表は、少し緊張もあったためか
パワーポイントの写真と説明が合わないところもあったが
ゆっくりと話すように心がけており
概ね、内容については伝わったのではないかと思う。

以前も書いたが、発表内容自体は
やや稚拙で、データ取りを徹底できなかったことからくる
むりくりな結論まであるのだが、
彼自身、有機肥料を自然界にごくありふれたものだけで
自分の手で作れるという体験は、とても貴重だったようだ。
結論の後の提言では、
「インドネシアでの有機肥料の普及に力を入れたい」
と締めくくった。

発表終了後、
インドネシアへのスタディツアーに参加したことのある学生から
「どうやって普及させていこうと思っていますか?」
と質問を受けた。
こうしたやり取りが実現していること自体に
僕は感動を覚えた。

ヘンドラ君は、質問の内容を理解すると日本語で
「まず、自分で使ってみて、そして周りの農家も使います」
と、やや、はしょりすぎの説明をしていた。
ここで代弁させてもらえれば
それは、自分で堆肥を作り、それを使って良い農作物を作り
その結果を持って、周りの農家に普及させていきたい
ということなのだろう。
だが、まぁ、もうすこし普及法は考えておいた方が良いだろう。

福井農林高校の校長先生からは
実際のインドネシアの農民の実情から湧き上った動機が素晴らしく
とても力強く思えた、とコメントを頂いた。
だが、研究内容がやはりすこし稚拙なのと
パワーポイントの作り方が、
人の興味を引き付けるものじゃない、
とも指摘を受けた。
ありがたいコメント共に
あああ、この方は本当に教育者なんだなぁ、と敬服した。
校長先生のおかげで、ヘンドラ君が
多くの人の前で発表する機会を得られたのだ。
いくら感謝してもしきれない。

その夜は、インドネシア研修生たちを家に呼んで
みんなでお好み焼きパーティーをした。
終始にこやかなヘンドラ君。
発表までは平坦な道のりではなかった。
僕に絞られて、ずいぶんとへこんだこともあったろう。
しかし、発表が終わって、
気分が楽になったようだった。
僕も一つ肩の荷がおりた気分だった。

ただ、発表の中で何度練習しても
「環境」を「かんきゅう」と読んでしまうのだけは
最後まで直らなかった。
この日も、発表の最後の締めくくりで
「健康やかんきゅう(環境)に良い有機肥料を普及させていきたい」
と言っていた。
「かんきょう」って外国人には言い難いのか???


追記(1月20日)
今日の毎日新聞に載りました!
Web記事には写真は載ってませんが
新聞記事には、ヘンドラ君の雄姿が!
もしよかったらご覧ください。
web記事はこちら
インドネシア農業研修の3年生であるヘンドラ君。
3年生のこの1年、彼は有機肥料の有効性について
課題研究を行ってきた。
いわば、卒業研究と言ってもいいだろう。

その卒業研究、最終的には卒論として
まとめてもらう予定なのだが、
卒論ならば、その発表の場がないといけない。
ということで、福井農林高校にお願いをして
同校の3年生が課題発表をする場をお借りして
ヘンドラ君も発表させてもらうことになった。
つまり、その場が、
インドネシア農業研修プログラムの卒論発表の場ということだ。

そして、今週19日、
10時半から福井農林高校でその発表が行われる予定だ。
もちろん、日本語で。
準備は、先月から行っているが、
ヘンドラ君の日本語能力の問題と
僕の論文指導の経験不足から
その準備は平坦な道のりではなかった。

またヘンドラ君の書いてきた発表原稿も
インドネシア語では、文法もロジックも
正しいように思えたものでも、日本語に直してみると
結構、ずれている文も多く、その構成にも悩んだ。
他人の論文指導は、
自分が書く以上に、労力のいることだともわかった。

僕の農園の日本人スタッフや日本人研修生にも
発表を聞いてもらって、多くのアドバイスを得た。
そんなこんなで、なんとか準備は整いつつある。

さて、その卒業研究。
発表内容は、有機肥料と化成肥料を利用しての比較栽培試験。
有機肥料は、市販の肥料と僕の農園で作って使用している堆肥、
そして、ヘンドラ君自身が作った生ごみたい肥と
自然界から発酵菌を見つけてきて作った米ぬか堆肥の4種類。

僕らの社会では、すでに有機肥料の有効性なんて
自明の理で、特段今更調べても、と思われるかもしれないが、
ヘンドラ君の社会の文脈では、
またその風景が、少し違っていたりもするのだ。
インドネシアでは、化成肥料の神話がいまだ根強く、
さらに原油価格高騰と需要の集中による価格高騰が
毎年、小農を苦しめている。
多くの農家が、農業資金を潤沢に用意することが出来ず
商人などから資金提供を受けており
その従属的な関係の中で、青田買いも日常茶飯事。
緑の革命としてもてはやされた
高収量米も、そのシーンによっては、
ただ単に村内社会に従属的な関係を
創り上げたにすぎない場合もある。
その農業資金として農家の首を絞めている
化成肥料を、ヘンドラ君はなんとか自給できる
永続可能な有機肥料に切り替えられないかと
考えている。
有機野菜で、安全安心志向を刺激して
プレミアムを付けて売るような日本の文脈からは
とても想像できない農業の社会が
世界には存在するのだ。

彼の実験は、その内容からいえば、
まだまだ幼稚なものなのかもしれない。
でも、彼が自分で作った堆肥で得た手ごたえは嘘じゃない。
彼はその手ごたえを胸に
19日、福井農林高校で発表する。
どこまでその想いが伝わるかはわからないが
僕は精一杯、その手伝いをしたい。

奇跡のリンゴ、と言えば
もうみんなが知っているような話なんだと思う。
木村秋則氏が手掛ける無農薬無肥料のリンゴ。
リンゴは病気にかかりやすいので
無農薬は不可能と言われてきた作物の一つ。

インドネシア研修生で3年生のH君。
自主研究に有機肥料を選んで、課題に取り組んできた。
いつか出会うだろうと思って、放っておいたら
やはり、現代農業の雑誌から木村秋則の記事をひろってきて
それをゼミで発表してくれた。
農業を志す者にとって、強い関心とあこがれがある農法。
それは自然農法。

僕は、それはある意味で毒だと思っているが
別の一面で、強いあこがれもあるのは事実。
僕のアプローチは、ある意味小乗仏教的な自然農法ではなく
慣行栽培が有機に近づいていく、
有機農業のコンベンショナル化といった方向なのだが
その目指す先は、あまり違わない。

H君が見つけ出してきたのだからしょうがない。
以前から買っておいたDVDを見ることにした。
それは、NHKでやっていた
プロフェッショナル仕事の流儀で、
木村秋則氏が出演していたもの。

ちょうど日本人の研修生やセネガルのイブライも見るというので
みんなで見てみた。
以前から買ってあったのだが、
実は僕も見るのは今回が初めて。

どんな内容だったかは、詳しくは書かない。
見た感想から、
「真面目に、手間を惜しまず、働け」
というメッセージを「愛」という言葉の中に
この人は持っているんだ、と感じた。
僕ら農家は、手を抜こうと思えば、いくらでも抜ける。
上手に抜くことが、時には僕らの技術だったりもする。
でもそれを真っ向に批判するのが
この木村秋則の言う「愛」だった。

僕らの仕事は僕らが一番わかっている。
それをやれば良いのも解っている。
そうすれば、出来ることもなんとなくわかっている。
でも、それをすれば、生活が成り立たない。
仕事に追われて(ただでさえ今でも仕事に追われているのに)
寝る間もなく、働き続ける覚悟が必要なのかもしれない。

無肥料と言うが、彼は県道のわきの雑草を20キロに渡って刈り
それを2haのリンゴ園に投入している。
その有機物量は、20トンではきくまい。
酢の散布は、スプレイヤーではなく手散布。
丁寧な仕事と重労働を厭わない精神。
それが、そのリンゴを作っている。
それは奇跡でも神話でもない。
それは、篤農の姿なのだ。

今年、僕は吉川ナスで化学合成農薬の無散布に挑戦し、
例年にない品質のナスを収穫した。
これまでの研究と観察の集大成と考えて
挑んだ今年の栽培は、それなりに成果はあった。
僕はそれなりに満足していた。
だが、このDVDを見て、その満足はかき消されてしまった。
僕は、化学合成農薬や化成肥料は使用していないが、
天敵製剤を利用したり、堆肥や有機肥料を投入していたのだ。

木村氏のリンゴとは、大きな隔たりを感じる。
それは、彼の言う「愛」、
つまり覚悟がまだ足りないという事なのだろうか。

手法や目指すプロセスが違うことを認識しつつも
「愛」が足りないと断言されると、なぜか自分が陳腐に見えてくる。
やはり、このDVDは毒だ。
昔、福岡正信を読んだ時のような、吐き気と葛藤が
その日一日、僕には残っていた。



ちょっと前の話なのだが、
妻の研究会で、僕が尊敬してやまない人が発表した。
開発フィールドのファシリテーターで
とても有名な人。
その人が、妻の研究会で言ったことは
現場での質問の仕方として、事実確認の形式をとること、
だそうだ。

このことに関しての妻から聞いたたとえ話が、とても面白かった。
たとえば、ある農家に
農業という職業や農村というコミュニティが、
閉鎖的かどうか、人とあまり接しないかどうかを聞き出そうという
質問者の意図があって、
その質問者が
「田舎で農業をしていて、人と会う機会はありますか?」
と問えば、
僕であっても、たぶん
「あまりないですね」
と答えるだろう。
それは、質問をされた僕らも質問者の意図が解るからであり
その意図にしたがって、括弧つきで、町の人に比べたら、や、他の業種に比べたら、の
前提があって、そう答えるだろう。
それはお互いに共有されるカテゴリに押し込められたステレオタイプである。

では、農業と言う職業や農村と言うコミュニティが
どのくらいの頻度で人と接しているかを、
正確に知るにはどういう質問の仕方があるだろうか。
僕の尊敬する人は、事実確認だと、いう。
つまり
「今日、何人の人に会いましたか?」
と聞けばよい。
多分僕は、家族を挙げ、仕事のパートさんを挙げ、近所の人々を挙げ
市場の業者を挙げ、近所の農家たちを挙げ、資材の配達に来たJA職員を挙げ
巡回に来た普及員を挙げ、種屋を挙げ、農作物を直接買いに来た客を挙げ
農作業の途中でのどが渇いたので、
隣の集落にあるコンビニ(同級生の弟が経営)に寄ってコーヒーでも買えば
そこの店員としばらくは話をするだろうから、その人も挙げ
時々、そのコンビニで隣の集落の農家にも会うので
その人も挙げることもあるだろう。
さらには、娘を迎えに行った保育園で会った父母や保育士たちを挙げ
帰りに寄った近所のスーパーで会った知り合いも挙げるだろう。
さらには、そのスーパーの店長や青果担当者とも少し会話すれば
その人も挙げるだろう。
これが事実確認。
そこには質問者と回答者の間で形成されるステレオタイプが
入り込む余地は無い。
素晴らしい!まったく素晴らしいアドバイスじゃないか。
何かを問うのではなくて、事実確認をしろ。
この言葉が、ずーっと僕の心の中に響いていた。

さて、ここから本題。
H君が今年最終年度を迎えるにあたって、卒業研究をしようとしている。
有機肥料の有効性を調べたい、というのが彼の意志。
プロポーサルを出してもらったのだが、
どうも研究臭くていただけない、というところまでは前回書いた。
そこで僕は、質問の仕方を変えてみた。
事実確認。
この場合、この手法が適当かどうかは解らないが、
ただH君がもしかしたら研究とはこうあらねばならないという
ステレオタイプに陥っているとしたら、
そこから抜け出すための一助にはなるのではないか。
だから僕はこう尋ねた。
「君は、ここに来る前、地元で農業をしていた。その君が、実際にこれまで使っていた化成肥料をやめて、有機質肥料に切り替える場合、何が心配だ?」と。
彼が、プロポーサルで上げてきた有機質肥料の有効性を測る項目として
pH(土壌酸度)などの土壌分析値や
草丈、葉の色などであったのだが、
この質問の後、1週間後に彼が提出してきたプロポーサルに書かれていた項目は
収量、収穫物の品質、化成肥料と比べて経費はどうか、だった。
しかも収量の場合は
一時にたくさんとれるのではなくて、長い期間収穫できるかどうかが
肝心だとしていた。
だとしたら、H君の卒業研究は
それを中心に調べないと、彼にとって意味がないではないか。
僕と彼と、そして卒業研究という言葉で作り上げられていたステレオタイプからは
そういう項目は調べられない。

僕は到底ファシリテーターになれる様な人間ではないのだが
事実確認、というもっとも初歩的な手法を地道に積み上げていけば
僕にも見えてくる新たな事実があるのだと解った。
前提となるステレオタイプを払拭した世界の中で
事実を確認しながら見えてくる風景は、こんなにもすがすがしい。
かつて、僕が派遣されていたインドネシアの田舎で感じた感覚が
すこしだけ蘇ってくるのを覚えた。
インドネシア研修生のH君は、
この4月からの年度が、研修の最終年度。
つまり3年目になる。
かねてからの研修計画として、
研修生の最終年度は、各自、農業に関してテーマを設定して
試験的に栽培や販売をしてもらう予定でいた。
いわゆる卒業研究と言ったところだろうか。

H君には、
3月から断続的にそのテーマに関して卒業研究のプロポーサルの草案を
提出してもらい、その内容について指導してきた。
H君が選んだテーマは有機肥料の有効性。
プロポーサルを書いてもらいつつも
こちらから関連の文献(インドネシア語・日本語)を渡し
読んでもらっていた。

卒業研究と題しているためか
H君の頭は至極固い
というか、何を何で測るのかがよくわかっていない。
「研究」なんていうから、何やら研究ぽくしないといけない
と思っているのだろうか。
有機肥料の有効性を実証する研究で、
オクラを栽培するのだが、
有効性を比較検討するデータが、
生長速度、草丈や土壌酸度、葉の色、
などなどをH君は挙げていた。
それらから何が解るのだろう。
それは僕ら農民が、圃場で必要なデータなのだろうか。
まぁ、実際に大学で研究するときにはそういうデータも重要だろう。
意地悪な言い方をすれば、後付け的な説明として。
だが、僕ら農民が欲しいものとはやや違う。

農民子弟が農民のところで研修をする、
その最終年度の研究なのだ。
だとしたら、農民の視点でもって調べないといけない。
何かを有機肥料で栽培するとき、農民は何を気にするだろうか。
収量、品質はもちろんのことだが、
それと同じくらい、病害虫に対してはどうか?肥料のコストは?
肥料散布は簡単か?味は?
などなど気になることは多い。
こういうデータを取らなきゃ、僕ら農民には意味がない。
ちなみにオクラの場合、葉の形容から肥料の効きがどうかを読み取れるので
その知識と判断能力もこの研究の中で身につけないといけない。

さらに、有機肥料の作り方もHくんの草案には盛り込まれていたので
それらの資材へのアクセスが簡単か、輸送はどうだろうか、製作コストは?
社会的に受け入れられるものかどうか?などの検討も必要だろう。

より実践的な研究こそが、彼がインドネシアに戻ってから活きてくるのだ。
僕らは農民で、その研究だということを忘れちゃいけない。
3月になった。
3月と言えば、年度末。
といっても、お役所ではないので、それで忙しくなるわけでもない。
ただ春めいてきたので、3月という数字に関係なく
農園は忙しくなってきている。

ただ、例外がある。
インドネシア農業研修の事業。
2008年に来たH君が、4月から最終年の3年目に突入する。
いままで通り、実習と座学を繰り返すだけでもいいのだが、
それではいまいち面白くない。
そこで、3年目は個人課題を決めてもらい、研究と文献精査をして
論文とまではいかないだろうが、簡単な書き物を残してもらおうと思っている。
とはいっても、一応、学部生の卒論レベルを目指して指導するつもり。
そんな余裕が僕にあるのかどうかは、僕もよくわからない。

1月から断続的に個人課題の相談を受けていたのだが、
ようやく1本目のプロポーザルを書いてきた。
彼が選んだのは、有機質肥料の利用実験、だった。
ここに来てから、彼は、
自国インドネシアだと、農民から「ミトス」(神話)としか非難されない
有機質肥料の実際の効果を嫌というほど目にしてきた。
そこで、新しく販売にもつながると考えている作物「オクラ」を対象に
有機質肥料の効果をはかることを個人課題として提出してきた。
ちなみにインドネシアでは、オクラは一部の地域では
ずいぶん昔から親しまれてきた野菜だが、ジャワではまだまだマイナーな作物で
やり方次第では、まだまだ売れるとH君は睨んでいるようである。

余談だが、僕が知っているインドネシアの協力隊隊員で
比較的栽培が楽であるオクラを普及させようという隊員は何人もいたが
誰一人として普及に成功はしていない。

実験自体は、それほど難しくない。
対象区を設けて、施肥に差をつけて、生育の変化を見ればいい。
それに使用する有機肥料の一つは、H君自らが作成する予定である。
さらに、文献精査も行い、
日本での有機肥料に関する記事や
インドネシアの有機肥料の論文等を読んで、
最終的には、普及を踏まえての社会的要因等も考察してもらいたい、と思っている。

課題を自ら決めるプロセスは、
とても面白い。
彼のやる気が前面に感じられ、この事業を
一文にもならない、この事業を
やっていて良かったと感じる。
と、同時に、僕の奥のどこかに沈殿してしまった探究心も
再び頭をもたげてくるのを感じる。
こういう相互作用は、実に心地がいいものである。
P6180001.jpg

この箱は、魔法の箱である。
さて、中身は何でしょうか?

P6180003.jpg

正解は、生ゴミ。

実はこれ、生ゴミを堆肥にする箱である。
といっても、なにやら特別な箱ではない。
引越しの時に大量に出た段ボールを使用したもの。
中身は、土と米ぬか、そしてゴミを堆肥へと発酵させる菌として
うちの圃場で使っている堆肥を少々いれてあるだけのもの。

今年、若手農業者クラブで食農体験として
クラブ員の子供が通う保育園でも実践したもの。
さらには、僕の娘が通う保育園にも置いてある。

そういう取り組みをやっていることをインドネシア研修生に話したところ
「やってみたい」というので、
うちでもやってみることにした。

以前から書いていることだが、
僕とインドネシア研修生とで自給のための菜園を作っている。
出荷する畑とは別に、である。
その菜園では、これまで3年間無農薬無化学肥料で栽培を続けてきたのだが
今年から、この生ゴミ堆肥をやるにあたって
肥料は、この生ゴミ堆肥のみにしようかと考えている。
自家菜園で採れる野菜を調理し、あまった切れ端や食べ残しを
生ゴミ堆肥として、畑に戻してやろうというもの。

インドネシア研修生の話では、
研修生が通っていた農業高校でも、生ゴミをたい肥にする実習はあったのだが
実際にそれを使用して通年で作物を作ることはしたことがないとのことだった。
また、使用する器具もプラスチック製の大きな容器を使用するため
それが高価であることもあってか、他の農家でやっているところは見たことがないらしい。
それ以外にも、土中に穴を掘って埋め込む堆肥づくりもしたことがあるらしいが
それも持ち運びが大変ということであまり普及はしていない。

そういうこともあってか、研修生にとって、
段ボールでのたい肥作りには興味があったようである。
インドネシアでも廉価で段ボールは手に入る(ただし強度的に少々不安のある段ボールだが)。
こまめに作れば、持ち運びも楽。
インドネシアの時は、発酵菌としてEM菌を購入して投入していたらしいのだが
今回の方法では、生ゴミ堆肥の一部を次の段ボールに入れていけば
良いだけなので、ほとんど投入費用はかからないのである。
これを通年で試して見て、自家菜園での結果が良好であれば
各自、研修生が地元に戻った時に、実践すればいいのである。

今回投入したものは、1か月も経てば生ゴミの姿かたちはきれいに消え去り
完熟した堆肥になるであろう。
自家菜園の秋作の元肥として使用したいので、
もう少しばかり段ボールを増やそうと思っている。

ただ、研修生が生ゴミだと言って持ってきた中に、お菓子の柿の種があった。
そういったものを投入し続けると
塩分が畑にたまっていくのではないかと少々心配ではある。
へこむことがあった。
インドネシア農業研修生のHくんの母親が亡くなったのだ。
H君は僕の前では気丈にふるまっていたが、
H君が仲良くしている同じ研修生仲間から電話があり
「彼が母親を失ってわんわん泣いている」と教えてもらった。

母親が亡くなったという知らせをもらった時
即、一時帰国を促したのだが、H君は
「その必要はない」と言うばかり。
そこで、留学時代からの友人で、
この研修事業の農村調査を担当してもらっているアニ女史(インドネシア人)に
相談をした。
彼女は、H君と同じエスニシティ(スンダ民族)で、
同じイスラム教なのである。
アニ女史曰く
「ここらの場合、人が亡くなったら、午後4時前であればその日のうちに埋葬してしまうのが常。4時以降でも、次の日の早朝には埋葬してしまう。葬儀の儀式もその埋葬時に行ってしまうので、本当に身近にいる親族や友人しか葬儀(埋葬)には参加できないのよ。H君の場合も、彼の意思決定を尊重すればいいと思う。帰りたければ帰ればいいけど、帰らなかったからと言っても支障はないはず。メンタル的にはつらいだろうけど」
とのこと。
H君の母親は、H君が幼いころに父親と離婚し、その後即再婚している。
そういう事情もあり、H君自身が母親の所に帰りにくい環境であることも
H君が帰ろうとしない理由でもあるようだ。

インドネシアの研修生は、研修期間は3年間。
いつかこういうこともあるだろうとは思っていたが
まさか、一人目でこういうことがあるなんて。
僕の企画する研修で、親の死に目に会えない子を出してしまったことに
申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

一緒に働いているセネガルのI君もちなみにイスラム教。
I君も
「人が亡くなったら、即埋葬してしまうから、急いで帰ってもお墓しかない。意味がない」と言っていた。
日本の場合、実子が戻るのを待って葬儀が執り行われるのだが
随分と差があるようである。

帰らないと決心したH君。
だから僕は彼の決定を尊重して、もうこれ以上は言わない。
残りの研修期間が、彼にとって素晴らしい時間になるよう
僕は研修内容の充実に全力を尽くすだけなのである。
インドネシア研修生のH君には
毎月、報告書を出してもらっている。
それを元に、彼の得た成果と疑問点、そして今後の目標を話し合っている。

今回の報告書で面白かったことが1つ。
それは、研修後の夢について書いてもらった箇所である。
4月の報告書では、研修後の夢は、独占的な野菜の取り組み、について書かれていたが
5月の報告書では、複合的経営について書かれていた。
田んぼや野菜だけでなく、果樹、畜産、養殖(淡水)なども含めた
複合的農業を目指したい、と書かれていたのである。

これまでもH君やその家族は、
普通のインドネシア一般の農家と同様、
田んぼと畑作、そして鶏等の家禽を飼いながら生活していた。
さらには、屋敷地には、ジャワ特有の農文化であるpekarangan(庭)があり、
薬草や果樹、日常使う野菜等を栽培している。
なので、彼が言う複合的農業が何を意味するのかが、
報告書を読んだ段階で、よく解らなかった。
なぜなら、インドネシアの農民の生き様そのものが
複合的農業なのだからだ。

H君が言うには、複合的農業とは
「お互いがもっと密接にリンクしあう農業」だそうだ。
畑の余った野菜を家畜の餌とし、家畜・家禽の糞や養殖池の泥を
畑の肥料として利用したい、という。
H君は、この5月、うちの農園でハウス内に堆肥を散らす作業をした。
大量の堆肥を散らす作業をしながら、彼は、自分の故郷での農業を
考えていたらしい。
インドネシアの農業では、化学肥料の利用が中心である。
だから、インドネシアの農家に栽培法等を聞かれる時、
必ずといって良いほど、
「チッソ・リン酸・カリ(化成肥料の成分)は、どれくらい入れるのだ?」
と質問される。
大量にある稲わらや家畜の糞は、多くの場合使用されず、
大量の化学肥料を投入するのである。
H君も4月5月と良くそんな質問を僕にしていた。
どのくらい化学肥料を入れれば良いか、と。
その都度僕は、堆肥をどれくらい入れれば良いかを答えていた。
そういうことがあってか、彼は次第に、自分の畑に投入すべき有機物の量へと
関心を向けていった。
「有機肥料を自前で賄おうとすると、ある程度の家畜数が必要になると思います」
とH君は言う。
だから、農作業で必要な程度の家畜を飼うだけでなく、
養殖や畜産もそれなりの規模でやり、
畑とそれらの間で有機物の循環もしっかりとできるようにしたい、
とH君は考えているようであった。

また、彼の言う複合的農業には花の栽培も含まれていた。
インドネシアではまだまだ数少ない花の園芸も取り入れたい、とのこと。
5月は、うちの農園では鉢物の花も栽培・販売している。
たぶんそれを見て考えたらしい。
さらには、僕が実践しているコンパニオンプランツとしての
花と野菜の混植も影響を与えたようだ。
「ある程度、花もやらないと畑の周りに植えられないですし」
とH君。
害虫の忌避のために鉢花栽培を栽培するのなら、自分で利用するだけで無く、
鉢花の販売もしっかりとやりたい、というのがH君の考えだ。

何かと収入が不安定なインドネシアの小農業。
気候災害や市場の高騰や暴落が日常茶飯事なインドネシアにおいて
少しでも安定して、かつ、各部門が有機的につながる農業を目指したい、
と5月の報告書の中で、H君は考えたらしい。
インドネシアの研修生H君と、国際交流会館まで行く。
日本語講座を受講するために。

あれから、H君が決断をして、日本語の語学授業を受けることにした。
県内でいろいろな団体が日本語を教えているのだが、
ボランティアで日本語を教えている「日本語の輪を広める会」の授業を
受けることにした。
プライベートレッスンで、1回90分、4回で3000円。

その授業をうけるために、H君と一緒に
8キロ離れた国際交流会館まで自転車で行く。
道を教えるには、一度一緒に走ってやることが肝心なのだ。

国際交流会館には、30分無料でインターネットが使えるパソコンがある。
その使い方も教えて、さっそくインドネシアのメディアにつなげて
インドネシアの情報を検索していた。
これで、あちらの情報へも自由にアクセス出来るだろう。

さて日本語。
教えてくださるのは、少し年配の女性で、エネルギッシュで
とても良さそうな方だった。
農林高校で受け入れているインドネシア人留学生も、
毎年、この方から日本語を学んでいる。
みんなそれなりに上手になって帰国するのだが、
それらはすべて、この先生のおかげなのだろう。

今回は初受講と言うことで、途中まで、僕も授業を受けることに。
すこし簡単な試験をして、H君のレベルが大体わかると、
それにそった箇所からレッスンが始まった。
まずは時計の読み方からだった。

H君は、通じる程度には、時間について話が出来る。
ただ、4時を「よんじ」と言ったり、
「分」の「ふん」「ぷん」の使い方がいまいち正確でなかったり。
僕にしてみれば、通じれば良い、という感覚なので
その程度の間違いはかまわない、のだが、
日本語の先生は、その使い方から徹底的に指導されていた。
それを必死にメモにとるH君。
彼にとって、この機会は、とても重要なものになるだろう。

帰りがけに、日本語の先生から、
「とても飲み込みの早い子なので、すぐに日本語が上達するでしょう」と
お墨付きをもらった。
H君も授業内容に満足している様子で、
以前、協同組合で半ば強制的に、
しかも下手なインドネシア語で教えられた日本語講座よりもずっと良い
と話していた。
「絵を多用して教えてくれるので、とても解りやすかったです」とH君。
どうやら協同組合での日本語講座では、
テキスト内容を先生がインドネシア語に無理やりに訳しながら、
ただ読むだけ(もしくは黒板に文字を書くだけ)の授業だったらしい。
日本語を難解な言葉だと思い込ませるには、
うってつけの授業だったというわけか。

とにかく、毎週土曜日、H君は日本語講座を受けることになった。
インドネシア研修生のH君には、
月間報告書を毎月出してもらうことにしている。
長期海外研修制度自体には、そういう制度はないのだが、
僕とH君の間でそうすることに決めたのだ。
その月の成果とそれを得るために工夫した点、問題点、質問を
H君が感じたまま書いてもらい、
さらに、インドネシアに戻ったら何をしたいか、希望を書いてもらい、
それに向けて、今月は何に取り組むべきなのか、自分で目標を設定してもらう
という簡単な報告書。

今日は、4月の報告書についてお互い昼休みを利用して議論をした。
この作業は毎月やる予定でいる。

来てすぐと言うこともあり、報告書の内容は、それほど深くない。
ただ議論する中で、いくつか面白い話も聞くことが出来た。
それはインドネシアに戻ったら何をしたいか、の議論の時だった。

彼は、地元に戻ったら「独占的な野菜」(sayuran eksklusif)に取り組みたい、と書いていた。
なので、この「独占的な野菜」とは何か、で議論になった。
どういう種類の野菜か、というよりは、
どういうことが「独占的な野菜」なのか、という議論。
H君曰く、値段が高い必要はない、という。
ただ自分にしか作れない、もしくは自分が一番上手に作れる、ということで、値段が安定しており、出荷量と需要が安定したもの、と答えてくれた。
研修に参加する前に、彼は数名のグループでパプリカの生産をしていた。
インドネシアの市場では、高級野菜の1つで、
近くの市場では売れないのだが、大きな市場では、それなりの値段になったと言う。
ただ、その大きな市場の近くには、独占的にパプリカを生産しているグループがいて、
そのグループとの競争において、いつも勝てなかったと言う。
要因としては、品質がそのグループよりも劣っていたことであるが、
H君はさらにこう分析している。
「安定的に出荷できなかったということが一番の痛手でした。出荷量も少なかったので、経営的にも輸送代が高くついてしまって、市場での価格競争に負けてしまったのです。ある程度独占できれば、値段は、少しくらい安くても、それで安定できる方が、競争力は強いと思います」。
かなり良い線をついている。
市場について、ある程度センスがあるようだ。
とかく、高く売れる野菜を求めがちなのだが、安定出荷に目が向いているのは珍しい。
品質よりも安定性が重要と語るあたりも、なかなか良い。
(品質は当然大事だが、経営的に見て、より大事なのは安定出荷である。消費者とのギャップは、農作物市場のメカニズムにおいて、まさに貨幣化して交換される価値とそれを支える思想のギャップともいえよう。が、これはまた別の問題。これらを混同してしまえば、経営の多くは行き詰ってしまうだろう。少なくともそれに代わる思想とシステムをある程度の人々で共有しない限りは。僕はその思想の実現にも興味はあるのだが・・・)。

これからが楽しみな若者だ。
とりあえずその独占的な野菜を実践している事例(僕のベビーリーフも含む)を
彼と一緒に考察してみようと思う。

インドネシア人のH君。
来日してから、週4日は日本語研修と称して
長期海外研修制度の協同組合が主催する語学訓練に、
朝から晩まで参加している。
だのに、あまり日本語が上達しない。
来て2週間ちょっとなので、出来ないのは当然なのだが、
語彙数が一向に増えない様子。
一体、どんな日本語研修をしているのだろうか?

使っているテキストは、
ごく一般的な日本語教育に使われているものだった(「みんなの日本語」)。
会話形式だし、すぐに使える表現が多い。
でも、それらの表現をH君は理解していない。
なぜ?
H君曰く
「先生が、間違いだらけのインドネシア語で説明したりして、意味がよく解らないことがあるんです」とのこと。
日本語研修の先生役は、協同組合の代表理事の人。
以前、ある企業で働いていて、そのときに数年インドネシア赴任を
経験した、という人である。
「インドネシア語は出来ますよ」
と、初めて会った時に、その代表理事の方はそう語っていたが、
ジャカルタの飲み屋にたむろしていた企業戦士たちは
僕が知る限り、あまりインドネシア語が上手ではない。
(中にはびっくりするほど流暢なイ語を話す人もいたのだが)。

H君が言うには、
「よく解らないインドネシア語で説明されて、しかも出来る子に合わせてどんどん先に行ってしまうのでストレスなんです」だそうだ。

インドネシア語が出来るか出来ないか、のまさにそのことよりも
妻は、教授法に驚いていた。
「日本で日本語教えるのなら直接教授法でしょう」
と妻は言う。
直接教授法とは、その語学を、その言葉で教えるというもの。
つまり日本語を日本語で教えるということ。
僕も協力隊でインドネシアに派遣されたとき、
1ヶ月の語学訓練を受けたが、それらはすべてインドネシア語での
説明だった。
外国語を外国語で学ぶのは、なかなか大変なのだが、
その方が、生きた、すぐ使える言葉を身につけることが出来るのである。
これは経験上、まちがいない。

長期海外研修制度として、
派遣後すぐに、日本語の語学訓練を受けることになっている、らしい。
それは別にかまわない。
その方が、研修生にとっても良いことであろうから。
だが、中身が問題だ。
形ばかりの語学訓練にどんだけ時間をかけても
日本語はできるようにはならないだろう。

知人から何人かのボランティアの日本語教師を紹介してもらっている。
名前ばかりの語学訓練が終わったら、
直接教授法で、日本語が学べる機会を
H君には作ってやろうと思っている。
ただし、費用はH君もち。
週2回レッスン(1回約90分)で月4000円。
H君にとって、月謝がすこし高いようで、
今はまだ、通うかどうかを迷っている感じだ。
4000円をこっちで出してあげることは簡単なのだが、
あえて、僕が負担してあげるよ、なんて言い出さなかった。

なぜなら、主体的に学ぶ姿勢がなければ、外国語なんて身につかないのだ。
身銭を削って習う語学は、まちがいなくH君のためになるだろう。
やっと来た!
インドネシアの研修生。名前はH君とでもしておこう。
スンダ人で、線が細く、穏やかな感じ。
さっそく日本語で接するも、解るとも解らないとも言わない。
そこで、日本語で自己紹介をしてもらった。
「わたしは、Hです。インドネシアの、です。よろしくおねげぇします」
だけだった。
まぁ、そんなもんか。
僕がインドネシアに協力隊で行った時と余りかわらない。
1ヶ月ちょっとの語学訓練だったので(お金の関係で)
それは仕方ない。
なので、しばらくはインドネシア語も併用して、コミュニケーションをとることに。

自炊してもらう予定なので、何か料理はできるか?と聞くと、
「職場では寮だったので、なんでもできる」とノタマフ。
インドネシア人にありがちなインスタント麺の料理ばかりは、
体に悪いからダメだよ、と釘を刺す。
連れて行ったスーパーでは、開口一番、「卵はありますか?」と
えらく卵に執着していた。卵料理が得意だ、という。

口に合う調味料が無かろうと、次の日、彼の部屋にそっと調味料を持っていった。
インドネシア風チリソースの調味料(手作り)。
彼は、来日してすぐの1ヶ月は、施設で語学訓練があるため不在。
調味料を冷蔵庫にしまってやろうと、冷蔵庫をあけると・・・・
上から下まで、びっしりと「Mie Goreng」(焼きそば)のインスタント麺で
いっぱいだった!!
大きなトランクで来た割には、
服が少なかったり、日用品がすくないなぁ、と思っていたのだが、
どうやら中身は、インドネシアのインスタント麺だったようである。
卵料理というのは、焼きそばの上にのせる目玉焼きのことか。
(インドネシアでは、焼きそばに目玉焼きがつくのがスタンダード)。
なるほどねぇ。

しかし、冷蔵庫を使ったことがない、と言ってはいたが、
インスタント麺を入れて置くとは・・・。
冷やさなくても、長持ちするのに。

なにはともあれ、こうして異文化交流はスタートした。

田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

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