ちょっと長いプロフィール。


農民です。
福井県福井市在住です。

大学時代:宇都宮大学
最先端の農業技術が世界を救う、と本気で思っていました(環境に負荷をかけないという意味でも)。
大学時代にタイやベトナム、中国の農村を旅行(ショートステイ)しながら
これから農業の在り方について考えていました。
いかに付加価値の高いものを作っていくかが鍵だと
信じていました。
そういった技術の普及こそが大切だと思っていました。
日本国内でも、東京の練馬や伊豆の農家から農の在り方を学びました。

 
大学卒業後、すぐに青年海外協力隊に参加。


青年海外協力隊(インドネシア)
南スラウェシ州バルー県で、食用作物隊員としてプロジェクトチームに配属されました。

1年目:農業技術によって農家の生計向上を目指しました。(新品種導入・栽培法改良等々)。

2年目:人々の参加意識を高めることが大事だと気がつきました。
が、最先端の農業技術が、農家の収入を向上させると信じていました。

3年目:それらはある程度実現できましたが、実現した先にあったものは、自分の無知でした。
自分の社会を見る目の無さから、その社会が本当に評価するものは何かを気づかないまま
3年間突っ走っていた気がします。
僕の前提となるものが、「ステレオタイプ」だったことに、なんとなく気がつきました。
農業の技術だけを見て、その社会を見ず。
そんな中での挫折でした。

協力隊時代のことやその地域とのつながりは
愛しのアレジャン集落にまとめてありますので、
興味のある方はご一読ください。

就農(田舎の実家で)
1年目:協力隊の経験がもやもやする中、インドネシアで出来なかった生産から販売までを、
自分で出来る農民になろうと躍起でした。
1000万円の売り上げ増加を目指しました(ベビーリーフ栽培を導入)。
この年に、結婚もしました。
相手は、同じ配属先で知り合った協力隊OGです。

2年目:あっさり1000万売り上げ増加。
社会インフラの整った世界では、簡単にいくのだなぁ、と考えていました。

3年目:経済的な向上だけが、発展じゃないよな、と思い始めていました。
1000万円の仕事も、ルーティンでかつ工業的で、つまらないものに見えていました。
と同時に、協力隊のもやもやとした経験が、どうにも収まりがつかなくなってきました。
そこで一旦立ち止まって考える時間が必要になり、留学を思い立ちました。
同時期に妻が博士学位を取得し、カンボジアに長期専門家として派遣されることが決まりました。


留学(インドネシアボゴール農科大学大学院)
インペックス教育交流財団から奨学金を頂きました。
途上国と呼ばれる国の大学で、自分も関わった農村開発を社会学の目から見直してみました。
インドネシアの学生と混じって、彼ら彼女からの思考や視点を学びつつ
僕のやってきたことは、なんだったのかを考えてみました。
また地元の人には、収入のみを評価する農業開発は一体どう映っているのだろうか、
それを2年かけて考えてみました。

が、あまり良くはわかりませんでした。というか、まだまだ勉強中です。

修士論文は、JICA専門家による地域開発プロジェクトを調査地とし、
ノーマンロングのアクターアプローチを用いて、多様多層な住民とそれぞれの援助機関に
見えている「事実」のギャップを描きました。
現象学的手法を用いることで、開発現場のリアリティについて深く考えることができました。

ただ調査をしていて感じたのですが
開発の対象となった地域の住民たちにとって
JICAの開発は、彼女ら彼らの生きてきた開発の歴史の中で
ただ単なる1点にすぎないということでした。
その長い長い歴史の中で、いろいろな外部からの開発があり、
それを地域の一部として翻訳しつつ(時には巻き込まれる形で)
その地域を作ってきた壮大な歴史がそこにはありました。

留学後の進路として、
僕はJICA専門家などでこれからも海外で(出来ればインドネシアで)
活躍していく人材になりたいと留学前から考えていました。
が、修士論文を書くという作業中に、
その開発の対象となる人々のリアリティから見えてきた
壮大な地域づくりの歴史を垣間見ることができました。
そしてこんな問いが、僕の中をこだまするようになりました。

僕は点を打つ側の人間になりたいのか、
それとも打たれた点を翻訳し地域に埋め込みながら
自分たちの世界を作り上げていく側になりたいのか。

答えは、明快でした。
この時から、ぼんやりとですが
再び地元に戻ろうと決心していました。

また、このタイミングで娘が生まれので、
それも地元に戻ることを後押ししてくれました。
このあたりで、内山節や守田志郎などの著作に出会い、
「農」とはなんなのか、地域を作り上げていくことはどういうことなのか、
僕なりに考えることが多くなりました。

帰農(田舎の実家で) 2006年~
実家のある田舎での農業に
経済発展優先主義を超えるものが垣
間見られるようになりました。

ひたすら働く父母祖父母の背中を
僕は真剣に見ようとせず、
そんな農業の在り方や生き方に疑問を
常に持っていましたが、
留学をして、そういう農業の風景を
受け入れられる素養ができました。

そういう農業を軽蔑して、
見ようとしなかったのは、僕だったのです。

生産と生活が渾然一体となった
当たり前のように繰り返されてきた
『農の営み』について考えることで、
留学の期間だけでは、明確にならなかった答えのきっかけを
見つけられそうです。
気がつけば、なんだか答えは足元にあった、という感じです。

娘が生まれたこともあり、
この子が食べる野菜を
全部無農薬で作ってみることにしました。
通称:はるちゃん農園という小さな畑で、
100種類以上の野菜を3年ほど栽培しました。

自給自足をするぞ!という強い意志を持っているわけではないのですが、
家族が楽しめるだけの野菜を自分で作っています(約100種類の野菜)。
市場に出荷する野菜とは別にです。
その営みから、多くを学びました。

その経験が、
総合防除と言ったただ単に
「無農薬」「自然農」といったものに
陥らずに、生物間の相互作用を大切にする
自然との係り合いとせめぎ合いと調和が
生み出す農業へと昇華させることができました。
この路線で、これからも自己研さんを
続けていこうと思います。
また今の経営の主軸となっている
野菜の品種選びにもつながっています。

農業者としての大きな転換点は、
2008年の広島・中川農園の見学でした。
地域を見据えながら、
如何に国際交流をして、
それが地域に還元されるような仕組みになるのかを
考えてきました。
基本的には、規模拡大路線には反対でした。
自分の仕事を大きくする情熱は、ほとんどありませんでした。
協力隊で関わっていた地域づくりの魅力に
取りつかれていた僕は、
自分の経営よりも、地域が活性するような仕事を
したかったのです。

でも、そんなことを考えているときに出会った
中川農園はショックでした。
規模拡大と地域振興と新規就農者増の
すべてが一つの経営思想に組み込まれていた
中川さんは巨人でした。
その道があったのか、とある意味目覚めた僕は、
2008年から規模拡大に舵を切り直しました。
新規就農者希望の方を受け入れ、
インドネシアの農業研修生を受け入れるためには
経営的にも強くないといけない、と思うようになったからです。


2008年:インドネシアの農林高校と提携して、
その高校の卒業生対象に研修受け入れ事業を始めました。
研修期間は3年です。
先進国-途上国、近代的-伝統的などの固定化されてしまった関係をミクロに関わることで
乗り越えながら、ただ単に近代化農業の賛美ではなく、
自分の農業とインドネシアの農業について走りながら考えることにしました。
2010年からは、研修生が3名になりました。
それとは別に2008年の秋から、セネガル人を農園スタッフとして雇っています。
彼らの異文化からの眼差しが、つねに僕の農の変化を生み出しています。

2011年4月に、インドネシア農業研修の卒業生第1号が帰国しました。
これから毎年卒業生を輩出するのですが、卒業生の起業を応援しようと
2011年3月に「Yayasan Kuncup Harapan Tani耕志の会」という
任意団体を立ち上げました。
インドネシアの地域おこしを
個人的レベルでやってしまおうという
野心的な会です。

卒業生へのマイクロファイナンスや、インドネシア農民との
情報交換を行っていく予定です。
この活動を支援してくださるサポーターも募集しておりますので、
気になった方は、お問い合わせくださいませ。

インドネシア農業研修では、4つの講座(座学)を設けています。

①農業構造論:
農業を相対的に見る視点を養い、多文化を比較しながら
自分たちの農業の課題と位置と視座を得る講座です。

②地域発展論:
自分たちの地域の資源を活かしながら、
社会的起業要素を含んだアグリビジネスを計画していく授業です。
日本やインドネシア、その他の国の事例を見ながら、
成功のカギを紐解く授業です。
経営学の一部も含まれます。

③農業のグローバリゼーション
世界的な農業を取り巻く問題を取り上げ、
「Think globally, act locally」のできる農民を育てます。
遺伝子組み換え技術、農業の工業化、
農業従属論、環境破壊、有機農業の趨勢などなど
議論していきます。

④総合防除論(総合的作物マネージメント論)
やや農学的な授業です。
生物多様性を維持しながら、どうやって病害虫を管理していくか、
その中で、少しでも高品質で多収を目指すには
どうするべきかの技術をみんなで勉強します。
うちの農園でも実践している技術の紹介(天敵の利用)や
先進地の事例紹介も行います。

これらの授業以外に
研修生の関心に合わせて、
有機肥料やコンパニオンプランツ、不耕起栽培についても
レクチャーしております。


2008年より
若手農業者クラブで保育園と共に食農活動も始めました(20010年で一旦終了)。
自分も含めて、クラブ員の変化を感じながら、
自分たちでやる楽しさや仲間作りを実感しています。
地域を共に作る仲間がこうやってうまれていくんだろうなぁ、
という実感を感じる活動でした。
今後、再開は未定ですが、個人的に自分の農園で
体験活動も行っています。


2010年に2名の新規就農者の研修を受け入れました。
1年間の研修プログラムでしたが、
どうしても日々の農作業に追われて
研修らしいことができずにいました。
そこで、彼らと始めたのが、「勉強会」でした。
ゼミ形式で持ち回りで勉強したことを発表し合う会です。
本を読んで、レポートにまとめ(ひな形あり)、
プレゼンしてもらいます。
それを毎週水曜日のお昼休みの45分間で行っています。
研修生が独立しても、この勉強会は続けています。
今では、研修を受けた人に限定をせず、
参加したい人は誰でも参加できるようにしました。
他の農家も参加し、
隣の市町村から2~3時間かけて参加される農家も
居る位になりました。
20名ほどが、都合の良い時に来るようになってくれています。
これも一つの地域づくりかと思い、
続けていこうと思います。
興味のある方は、ぜひどうぞ。
勉強会は2014年からアンビシ勉強会と名前を変え、
また月に1回の頻度で金曜日の夜に
懇親会を含めて行うことになりました。
みんなそれなりに農業の深度が深まることで
日常が忙しくなったのですが、
勉強会の内容はより濃くなったように思います。

2011年からは
消費者へ直接販売も始めました。
「お野菜おまかせ便」です。
3.11以降さまざまな情報の錯綜と
価値観の崩壊により、最後に残るのは
僕らの「繋がり」だと気が付きました。
経営的にはまだまだ大したものではないのですが、
直接食べてくださる方とのやりとりは
僕らの農業を大きく変えようとしています。
収量優先・利益優先から
繋がりを大切にした、
旬を楽しむ農の営みへの
方向性の変化が生まれつつあります。
購入希望者は随時募集していますので、
気になった方はご連絡ください。

2011年はさらに転機の年でした。
僕が出演したTVを見て、
僕と一緒に農業をしたいという若者が来てくれました。
大西くんという若者です。
常々、あちこちの先進農家さんへ見学に行くと
誰もが決まって、
「良きパートナーを見つけなさい」
と助言してくれましたが、
それは家族経営を大きく乗り越えた先にある
チームとしての、組織としての農業のカタチでした。
僕は協力隊の時に、チーム派遣で
地域おこしのチームの強さを経験しています。
いつかはあの時のようにチームで
地域づくりや農業に取り組んでいけたらと
考えていただけに、彼の就農は大きな転機になりました。
2012年には、ボリビアに協力隊で行っていた
佐藤君も農園のスタッフになりました。
個性豊かな彼らと一緒に作り上げていく農のカタチは
少しずつですが、大きなうねりを生み出そうとしています。
その年に、JICA理事長賞というとても大きな賞をいただきました。
個人営農の小さな農園が自前で途上国支援をやろうという
前代未聞&前人未到の分野で汗かきべそかきしているのを
JICAがとても大きく評価してくれました。
2013年にも面白いご縁がありました。
僕の農園に大学生として訪れたことのある北野が
就職した会社を辞め、協力隊員になりたいということで
農園で自主研修をすることになりました。
気軽に受け入れたのですが、
そのことで人を育てる難しさと責任の重さを
痛感する年になりました。
北野は2014年7月に無事セネガルに旅立っていきました。
彼の受け入れは、僕にとっても成長の1年だったと思います。

2015年1月にインドネシア農業研修の卒業生を訪ねる
スタディツアーを企画し実行しました。
JICA北陸の市民海外プログラム事業に採択され
一部補助をいただいて、
県外の大学生を含めて8名で行いました。
インドネシア農業研修を始めた当初から
こうした双方向の行き来を夢見ていたのですが
それが少し形を変えてですが実現したのは
とても感慨深いものでした。
このスタディツアーは
スタッフの佐藤が中心となって企画し実行しました。
彼の成長が、僕らにとってとても大切な
活動の一つを生み出してくれました。
また妻・小國の素晴らしい協力があったことも
ここに明記しておこうと思います。

2014年から2015年にかけて
地域の役をたくさん受け持つことになりました。
PTAや公民館の運営審議委員、JA青壮年部などです。
2015年からはJA福井市青壮年部の部長にもなりました。

また2015年には初めて新卒の女性を採用しました。
新人教育を通じて会社や組織についても、
よく考えることが多くなりました。
またこれから結婚や出産を迎えるであろう人材に対して
どのような支援と仕事とそのやりがいを提供できるのかも
僕の大きな課題となりました。
思った以上に新卒の女性の採用は
僕を成長させてくれました。

2016年は大きな転機になりました。
まず日立化学という大きな会社に勤めていた人材を
スタッフとして採用しました。
また農園の人材をこれまで交流を深めてきた
インドネシア・タンジュンサリ農業高校に青年海外協力隊の隊員として
派遣しようと試みております。
2名の候補者がおり
4年間の派遣計画をただ今練っております。

また研修卒業生たちが
地元インドネシアで勉強会を立ち上げました。
その組織強化のために
あれこれと思案中です。
いろんなことが動き出しそうな、そんな年になりそうです。

コミュニティとその中で暮らす人々の生活そのものに関心があります。
関わり合いを持つことを旨に、むらや学校や地区の役員をしています。
むらの近くを流れる川の漁業権も手に入れ、農地だけでなく、
その地域の風土を丸ごと有機的に考えていこうと思っています。


追記:
現在、僕の農園では農業をやりたいという若者を募集しています。
うちのスタッフとして働くもよし、数年研修をして独立を目指すもよし、
またまた研修をして青年海外協力隊をめざすもよし、です。
ブログを読んでもらって、共感できる方、ご一報ください。

田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
taya.tアットマークnifty.com
です。
(アットマークを@に置き換えて送信ください)

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