愛しのアレジャン集落
第40話

ラエチュにささぐ

僕には、父と呼んでも差し支えのない人がインドネシアにいる。
それは、アレジャン集落の集落長ラエチュ。
年齢は不詳で、政府が出すIDカードの出生が正しければ
今年で78歳になっているはずだが、
カレンダーの数字なんてあまり意味を持たない
曖昧な環境であるアレジャンでは、その数字は大抵
IDを発行するときに役人か本人かまたは誰かが決めた数字で
正確ではないし、正確である必要もないのである。

何年集落長をしていたのかも
協力隊当時に彼に聞いたのだが、
「Lama」(長い)とぶっきらぼうに言うだけで、
その年数も適当。

体格はいい。
身長は僕よりも大きかった。
出会ったころは、肉付きもよく、山賊か海賊の棟梁のような人だった。
インドネシア政府の教育を受けていない世代で
インドネシア語があまり上手じゃない。
僕は協力隊時代、インドネシア語があまり上手じゃなく
(今もあまり上手くはないが・・・)
その僕とラエチュが事業の相談を
インドネシア語でやっているのを見て
周りの村の若者(インドネシア語教育をしっかりと受けた世代)から
よくからかわれた。
「話は通じているのか」って。

僕はラエチュの家に、3畳ほどの部屋を間借りして住んでいた。
住み心地は最悪で、プライバシーなんてこれっぽっちもなかった。
隙間だらけの壁から、よくのぞかれたし、
部屋おいてあった物は、無断で使用された。
ラエチュは、僕が持ってきた防水の懐中電灯がお気に入りで
夜、田圃の水の見回りに、いつも勝手に持って行っていた。
持っていく度に、僕は苦情を言うのだが、
そんな時に限って、言葉がわからないふりをされた。
そしていつしか、その懐中電灯は返してもらえなくなり
本当にラエチュの物になっていた。

ラエチュの家に住み始める時、
僕はある嘘をついた。
それは年齢。
当時、僕は23歳になったばかりだった。
でも、あまり若いと相手にされないのではないかと思い
任地では、28歳ということにしていた。
今思えば、それはどっちでもあまり変わらないような気もするが
僕なりの幼稚な背伸びだった。
だが、外国人でひげを蓄えていると
28歳と言っても、みんな信じてくれた。
中には、「思ったより若いねぇ」と言われることもあった。
態度がでかかったのも幸いしたのかもしれない。

ラエチュにも、28歳だと伝えると
彼は、大きな声で笑い
「嘘だ!」と言った。
そして、「お前は・・・23歳だ」と
本当の年齢を当てたのは、彼だけだった。
僕は、自分のアイデンティティをその当時から「農民」に求めていたので、
僕は日本の農民だと、言って回っていたのだが、
それもラエチュに見破られてしまった。
ラエチュは、僕の手を見て
「それは農民の手じゃない」と言ったのが今でも記憶に残っている。

本当に変わった人だった。
森の長老がお前を呼んでいる、と突然告げて来たり(第2話
冷蔵庫のアイスキャンディ計画を立てたり(第7話
初めて会ったときは、僕が死んだらどうしたらいいかを
まず聞いてくるような人だった。(第14話
今もあまり変わらないが、当時の僕はまだまだ子供で
僕の活動がアレジャンでうまくいかないことを
よく彼に文句を言っていた。
そんな彼は、いつも冗談なのか、本気なのかわからない理由で
僕をなだめてくれた。(第23話
僕の部屋には電気が無かった。
1年くらいは、みんなが使っていたミロの缶で作った灯油ランプでしのいだ。
2年目に入ったころ、ラエチュが僕の部屋に電気を引いてくれた。(第3話
これ幸いと、いろんな電子機器を持ち込んで
夜中使い始めると、よくブレーカーが落ちた。
でも彼はそれについて、何も文句は言わなかった。

お互いインドネシア語が下手で、
会話がいつもかみ合わない。
そのいら立ちをぶつけた時もあった。
そのほとんどが、現地語(ブギス語)を少しも覚えようとしない僕が
悪いのだが、彼は大学生のボランティアが置いて行った
識字教育の初等教科書を出してきて
夜な夜なテラスで読書をする僕の横で、
彼はインドネシア語の勉強をしていた。
ちっとも上手くはならなかったけど。

僕が帰国してから、
時間が経てば経つほど、彼とインドネシア語で会話するのが
困難になっていった。
僕はインドネシアの大学院に留学をして
語学力を伸ばしていたのだが、
彼は、僕が居なくなるとインドネシア語の必要性が無くなったのか
ほとんどしゃべれない状態になっていた。
最後に訪問した時は、病気のこともあって
ほとんどインドネシア語を話してくれなかった。
当時は、あんなに話が出来ていたのに。

僕の父が、アレジャンまで遊びに来た時があった。
その時、父は、「徹の父です」と自己紹介を
僕のホストファミリーの前ですると、
ラエチュが、「私がインドネシアでは彼の父です」と
僕の父に自己紹介したのが、今でも鮮明に覚えている。

ラエチュは、集落長として、村人から愛されていた。
村に入ってくる事業の分配は、
僕が見ている限り、多くをラエチュが持って行ったようにも思えたが(第24話
村人からはあまり文句を聞かなかった。
アレジャン集落の歴史から言えば
ラエチュの家族は、新参者だった。
でも、それはたぶん彼のパーソナリティが
彼を集落長にしたのかもしれない。

街に近い集落の人からは
「アレジャンの集落長は、インドネシア語を理解しない凶暴な奴」と
言われたこともあった。
その人の世代から言えば、
たぶんそれは、間違いなくラエチュのことを言っているのだろう。
あの体格で、怒る時の姿を見たものならば
たぶん、そう思えるかもしれない。

強くて大きくて、冗談なのか本気なのかわからないことを口走る。
そんなラエチュが、死んだ。
アレジャンの友人に別件で電話をしたときに
今年の9月に亡くなったことを伝えられた。

僕のインドネシアの父は、もうこの世にはいない。
僕はまだ何も恩返しをしていないというのに。
何と言っていいのかわからない後悔と悲しさが
ぐるぐるとまわっている。

こんなことを書いていても意味がないのだが
書かずにはいられない。

お父さん、

ごめんなさい。

お父さん、

ありがとう。


前回のエントリーで、長文のコメントをもらった。
現場からの生の意見。
それに答えるために、書いていたら、
こちらも長文になった。
どうせなので、そのままエントリーとして載せることにした。

以下、コメントへの僕の答え。



ベジータさん、コメントありがとうございます。

現場からの生の意見だけあって、
とても難しく、僕が上手く答えられるかどうか
解らず、コメントが遅くなってごめんなさい。

当時の自分を思い出すに、
ベジータさんとの状況が違うので一概には言えないと思いますが
僕も、技術移転先は農家であれば十分だと思っていました。
行政との連携に煩わされることなく
農家への指導に力を入れていました。
だから農家の方も、僕個人を普及員として高く評価してくれました。
最近まで僕はそれで良い、と思っていたのですが
同じ頃に、畜産で活動していた女性隊員(同期)の
牛のレボルビングシステムが、
当時からのカウンターパートの頑張りで発展的に持続していることを
目の当たりにして、
僕の姿勢は果たしてそれでよかったのか、と思うようになりました。

技術的には各農家に沈殿している部分があるのでしょうし
みんながみんな、野菜を作って経営を成り立たせる必要はないと思います。
それぞれの経営体の中で、畜産や他の換金作物を生産することもあるでしょう。
ましてや、それが活動を終えてから10年という歳月が経ってしまえば
その間の様々な経験や状況の変化によって
当時の面影はなくなってしまうことも多いにあります。
僕は、今回のエントリー(愛しのアレジャン集落 第38話第39話)で
問いたかったのは、
野菜はなぜ消えたのか、ではなく、
牛はなぜ消えないのか、だったのです。

僕の活動した地域が
野菜作りの盛んな地域になる必要もないですが
それを推し進めるのも
それを維持して発展していくのも
当時の僕は、農家次第だと思っていましたが、
どうもその考えが甘いというか
そんなこともないというのが、今回のことで見えてきました。

Farmer to Farmerの波及効果はあると思います。
エントリーでもでてきたM氏の養鶏が何よりの証拠です。
それを支えるものが行政でなくても良いのは、
それからも解ります。
ただ、生産を持続させていく中で、
市場の刺激や外部からの刺激が常になければ
それらは持続していかないし、持続させる必要性もないということです。
M氏は野菜ではなく養鶏を選び
行政ではなく、民間資本を選び
そして持続的に市場からの刺激を受けて、
自身の養鶏を大きく発展させています。
牛の活動は、
行政官の頑張りと携帯電話の普及で
市場と行政からの刺激を受けやすい形になることで
持続していると言えるでしょう。
だから、そういう刺激を受ける構造が
出来上がっていれば(それに乗っかる形で)、
もしくは自ら作り上げることができれば
僕らは、個々の農家への技術移転だけで考えれば良いのかもしれません。
自分が普及させようとしているもの
力を入れようとしているものが
その地域のなかで、どういう価値の位置づけになっているか
市場や行政・民間から評価を持続的に受けていけそうかどうか
そこに鍵があるような気がします。

僕が地元で農業をして
売れない・変わった野菜を延々と作っていますが
それらにしても、徐々にですが市場で評価を受けるようになっています。
妻が以前こういうことを聞きました。
「変わった野菜はみんな作るけど、売れなくてやめていく。どうしてあなたのだけ、結果として売れていくの?」と。
答えは簡単です。
売れるまで作り続けるから、です。
変わった野菜を作る、あいつに言えば何でも作ってくれる、
そういう評価が市場内で僕に対してある程度付いてきました。
それが僕の販売戦略の一部にもなっています。
そういう市場の刺激を狙って
僕は僕自身の経営を考えていますが
それは、振り返ってみれば、僕の任地での農家と同じことだと思います。
刺激を受けられる状況にあるかどうか
それが大切なんだということに、いまさらながらですが
気が付いた次第です。

ベジータさんたちが推し進めている有機農業の農家への普及は
隊員が帰国後は、農家はどこから刺激を受けていくのか、
それが見えていれば、その刺激に合わせて活動の形は変わるかもしれませんが
その路線で持続すると思います。
ただ、僕の場合のように
隊員の存在自体が刺激となって活動が続いているのであれば、
それは、結果は僕と同じになるかもしれません。
歳月の中で、周りの状況も変わっていきますから
今の時点では言いきることはできませんが。

隊員は置かれた状況が、G to G(政府と政府)でもあるので
行政の中で、思考が固まりがちですが
いったん離れてしまえば、
僕の場合ですが、どうしてもっとビジネス的に出来なかったのだろうか
と疑問に思うこともありました。
むら全体の平等性なんかにもずいぶんと気をとられていましたし。
身近な市場や人間の関係性(行政や民間)からの刺激を
常に受けられるような真っ当なビジネスとしての社会企業の視点が
もっと必要なのかな、と僕は最近思っています。

ベジータさんの問いに答えられているかどうか
甚だ疑問ですが、これが今、僕が持っている答えです。
タイの民間資本でブイブイいわせているMさんの発言には
僕らのやってきた活動に、いわゆる落とし穴があったことを意味している。
それは、野菜指導の深度が浅かったことではない、と思っている。
手前味噌で、こういうことを書くのもどうかと思うのだが、
Mさんをはじめ、他の農家グループから
僕が帰国する時にこう言われていた。
「うちら農家でお金を出し合って、お前に給料を払ってやるから、タヤはこのままここに留まれ。」
青年海外協力隊として、これ以上の褒め言葉を僕は知らない。
僕がやってきたことは、村人にとって大きな損害を与えたものもあり、
その社会が持つ価値からもかけ離れたものもあったにも関わらず、
僕個人を農家のおっさんたちが雇いたい、と言ってくれたのである。
これはそのまま、僕の活動の評価だったと僕は今でも思っている。
とても誇らしく思っていたし、
とても大事な思い出になっている。

しかし、だ。
実はこの言葉が意味していることは、他にもあった。
それは10年経ってみて、初めて見えてくる社会の変化の中に。

僕らが現場で活動していた90年代の後半は
ある考えが、至極当たり前のように、
また、それでなければ正当性が無いかのように語られていたものがある。
それは「参加型開発」。
これから現場に行こうという人間には、
誰しもロバートチェンバースの本を勧めたし
分野を超えて、みんなとりあえず持っていたような気がする。
(僕も持っていったのだが、積読のままだった)
その本に何が書かれていたかの詳しい説明は割愛するが
要は、村人に目を向けようというものだった気がする。
村の中の強者弱者を知り、
その中で貧困となっている人をできるだけ前に、
そして持っている人(金持ち)を後ろに、しようという考え方だった。
だから僕は、任地の地元行政が普及対象農家として認めようとしない農家にも、
村内の、もしくは農家グループの推薦さえあれば、
どんどん普及の対象者として、研修に連れて行ったり、
農家グループのメンバーに入れて、一緒に活動したりした。
それは、
読み書きのできない人
土地の少ない人
若者などなど
だったりした。
(当然、女性も入るのだが、その当時の僕はそこには踏み込めなかった)

そんな僕の目からは、
任地の地元行政と一部の村内の権力者が結託しているようにも見えた。
だから、僕はできるだけ行政とつながっていない人と
活動を共にするようになっていった。
そうして、僕は表面上は地元の農業事務所からの要請で
各事業を行ってはいたが
中身は、僕と農業事務所との連携・連絡はほとんどなく、
どちらもお互いにサイトを持ち、不可侵な関係を作り上げていった。
そうした考えと活動の結果が、
上記の農家からの言葉
「タヤを雇いたい」
につながるのである。

協力隊は、技術移転がその存在の大きな意義になっている。
だから、僕にとっての技術移転先が、当然、地元行政官の中に
カウンターパートとして存在していた。
農業事務所に1人。
そして僕の活動につきっきりの人が1人の計2人。
そのうち農業事務所のカウンターパートとはほとんど行動を共にしなかった。
雨が降れば、村の巡回を嫌がるし
指導が必要な畑までの道が泥まみれだと行かない。
公務時間内でも、帰りが遅くなりそうな場合は、
一緒に村には行ってもらえない。
そんなことが続いたため、僕は農業事務所のカウンターパートを
完全に見限っていた。
これだけだとフェアじゃないので、
もう1点、理由がある。
それは僕がインドネシア語で上手に意思疎通ができなかったこと。
だから、カウンターパートと深く議論することは出来なかったので
表面的な相手の態度だけで相手を判断していたことは否めない。

さて、もう一人のカウンターパートはどうだったのだろうか。
つきっきりで行動を共にしたカウンターパートは、
行政から一時的に雇われている、いわゆるアルバイト的な立場だった。
その不安定な立場から、僕らの活動よりも
自分の給料が少ないことばかりが気になっているような人だった。
自由に村に入ってもらうために貸与したバイクは、
「怖くて乗れないから、妹のだんなが使っている」
と言い、彼は自力では村に入ろうとはしなかった。
また汚れる仕事を嫌い、
「僕はデスクワークの方が向いています」
などと言っていた。
そういうこともあり、僕はだんだんと1人で村を巡回するようになっていった。
僕のカウンターパートは篤農家だけ、という意識が
任期途中からはあった。
技術移転先は、直接、農家であればいい。そう思っていた。
たぶん、その頃に一緒に活動した野菜指導の隊員も
同じような理由で、1人で活動していたように思う。

ロバートチェンバースの斜め読みと
地元行政官との関係から
野菜指導は、僕ら日本人だけで推し進めていたのである。

では、牛はどうだったか。
牛隊員が畜産事務所と具体的にどう連携していたのかは解らないが、
彼女につけられたアルバイト的カウンターパートは優秀で真面目だった。
彼は頻繁に畜産事務所に赴き、連絡をやり取りしていた。
そんな彼を牛隊員の彼女はずいぶんと頼りにしていたように見えた。
牛のレボルビング活動も一緒に村に入り、指導していたようだし
彼を日本の地元の畜産試験場へカウンターパート研修にも行かせていた。
そういうこともあってか、彼は情熱を表にするタイプの人間ではないのだが
牛のレボルビングシステムについて、熱く語るようにもなっていった。
そして、協力隊員のプロジェクトが終わると同時に
彼は、アルバイト的な立場から
正式な公務員の立場に変わり、
現在まで、牛のレボルビング活動を続けているのである。

牛が残り、
野菜が消えた理由はいくつかあるのだろう。
だが、その1つに、
僕ら隊員のアプローチの仕方に違いがあったことは否めない。
それは個人的な能力の差なのかもしれないが、
その時の状況だったりもする。

今回の任地調査で
公務員になった牛のレボルビング活動をしている彼とも話をする機会があった。
どうして牛が増えたのか?という僕らの問いに
彼は、
「携帯電話の普及が大きいかもしれません」と答えてくれた。
以前は、牛を好条件で貸与するといっても、
「いらない」という村人も多かった。
それは、牛を飼ったことがない、という理由もあったのだが
多くは、どう売ったらいいのか解らない、
また、売るために牛を市場までは連れて行けない、
商人と連絡を取ったことがない、などの理由でもあった。
それが、携帯電話が普及することで
「電話一本で、買い取り商人が村に来てくれるようになりました」
と公務員になったその彼は話してくれた。
また、牛が病気になっても
わざわざ町まで知らせに行かなくても、携帯電話で指導員に連絡できるので
病気の対応も楽になったのだとか。
携帯電話の普及が、牛を飼うこと・売ることのハードルを下げてくれたようでもあった。
僕の親友であるアレジャン集落に住むサカルディンも
「おれも今年は、JICA牛のレボルビングシステムに登録して牛をもらいたい」
と話してくれた。
村の中では、ずいぶんとブームになっている様子だった。

なるほど、携帯電話の存在が
いろんなハードルを下げてくれるのだろう。
いろんなところへのアクセスがそれだけ容易になることで
中間搾取からも逃れられる。
では、同じような理由で、なぜ野菜は普及しない?
育苗所に勤めているある所員が答えてくれた。
「せっかく大きな育苗所があるのに、JICAが活動した地域では、野菜作りが盛んじゃない。注文はあるけど、本数が少ないんだ。自家消費のために野菜を植えてるんじゃないかな。JICAが力を入れてきた農家も、もう野菜は作っていないみたいだし。その代り、他の地区で野菜作りは盛んで、そこからの注文でここは大忙しだよ。数千本単位で注文が入るからね。もともとその地区は野菜作りをしていたけど、最近はもっと盛んだね」
と話してくれた。

牛のように、携帯電話が商人や指導員との距離を近づけ、
輸送や買い取り、病害虫の対応などの問題を解決してはくれなかった。
ひとつには、僕ら野菜指導をした隊員が行政との連携を怠ったからかもしれない。
だが、それだけではなく、
もともと牛は、その社会的に価値のある存在であったのだが
野菜は、まったくの新規事業で、社会的な価値・評価は曖昧だった。
そして、僕ら野菜指導をした隊員、その中でも特に僕なのだが、
生産的な指導は出来ても、流通・販売に関してはほとんど素人同然で
当時の僕では、流通経路の確立にまで至らなかったのである。
農業経営の刺激となる市場や販売が曖昧なまま、
僕らは生産に力を入れていった。

そうして僕が帰国するときに
「タヤを雇いたい」と言われて
僕は舞い上がっていた。
だが、その言葉は褒め言葉でも何でもなく、
僕のアプローチの失敗を言い表していただけだったのである。
行政との連携、販売の確立、そして社会的に価値のあるものだと認められること。
そのすべてにおいて、
僕は失敗したのだ、と、はっきりと見えてきた、
そんな調査旅行だった。

今年早々インドネシアに行った。
その時のことを少し書こう。




愛しのアレジャン集落 第38話 牛と野菜



廃れるんじゃなかろうか、と思ったものが、発展しており
これからこれが発展する、と思ったものが、いつの間にか消えていた。
それは牛と野菜。


2006年を最後に、僕はかつての任地に足を運ばなくなっていた。
僕と任地を結んでいた絆が、それだけ弱くなったわけではなく、
僕がかかわっているインドネシアが、かつての任地だけでなくなったこと。
そして、家族が増えたことで、
思ったよりも身動きが取れなくなったこと。
さらに、僕自身が農民として、その深度を深めれば深めるほど
僕はどこへでも自由に行けなくなり、
また行く必要性も、自分の中で前よりも少なくなってきたこと。
そんな理由で、僕は協力隊終了後、毎年のように通っていた任地に
行かなくなっていた。

だが、2010年の正月。
僕は、再びかつての任地「バルー」を訪ねることにした。

僕がかかわっていた協力隊のプロジェクトが終了したのは1999年12月。
それからちょうど丸10年が経った。
10年間の社会変容と僕らの活動は一体どう社会に埋め込まれているのか、
それが知りたくて、僕は妻と娘と3人でバルーへ向かったのである。

10年くらい経っていると、
僕らが協力隊で活動したことは、とっくに消え去っているものだと思っていた。
それは一部では、内面化されて、
すでに任地の村人たちの日々の生活の一部になっているに違いなく、
そしてまたある一部は、完全に自分たちの生活スタイルに合わなくて
放棄されてしまったものもあるだろう。
だから、僕らが力を入れてやってきたことなど
昔話の中で語られるくらいで(それも個人名などは忘れ去っているに違いない)
表面的に見えているものは、ほとんどないと思っていた。
だからこそ、こういった変容をみる調査を
どのようにデータをとれば良いか、行く前から考えていたが
まったく案もないまま、とりあえず任地に行くしかなかった。

しかし、だ。
任地に入る前に、以前カウンターパートとして
一緒に活動をした人から、話を聞く機会があり
その人から
「あの時の活動で配った牛の頭数は増えてますよ」
と聞かされて、愕然とした。

少し説明が必要だろう。
僕が派遣されたころに、一緒に1人の女性隊員が派遣された。
彼女は家畜飼育指導の隊員だった。
前任の隊員から、牛の活動を引き継いでいた。
そして前任からあった計画として、住民に牛を貸与して
子供が産まれたら返してもらい、その牛を他の住民に貸し付けるという
牛のクレジット活動を行っていた。

以前書いたように(牛銀行を参照)、この地域では牛をよく野放しに飼っている。
牛は富の象徴であり、
まさに「歩く金」(ある行政官の言葉)だった。
お金に余剰が出来れば、牛を買い、
そして放牧(野放し?)していた。
いたるところに牛が歩いていた光景を今でも思い出す。

しかし、牛隊員の彼女の活動は平坦な道のりではなかった。
貸し付けた牛がなかなか子供を産まなかったり
病気になったり、と順調には数が増えなかった。
1年に上手くいって1頭しか生まない牛は、
2年間しか活動の期間が無い隊員には、合わない活動のようにも
当時の僕からは思えた。
毎日村に入って牛の状況をチェックして歩いていた彼女だが
「牛が増えない」「牛が生まない」「牛が病気になった」
などなどを1人こぼしていたのを、僕は今でも覚えている。
だから彼女が任期を終えて帰るまでに、
何頭の牛が本当に返却されて、それが次の住人の手に渡るのか
甚だ不安な活動に見えた。
折しも、僕らがいた時代は、インドネシアの大不況。
協力隊のプロジェクトが終了して、僕らが居なくなれば、
どうせ“ただ”でもらったものだから、
みんな一斉に牛を売っぱらってしまうんじゃないか、
そんな雰囲気に満ちていた時代でもあった。

それがなんと10年経ってみて
ちゃんとレボルビングシステムとして機能していたのである。
徐々にではあるが、確実に頭数を増やしながら。

一方、僕ら農業指導隊員の活動はどうだったか。
2006年までの調査でほとんど答えは出ているのだが、
今回も確認までに話を聞いてきた。
僕らが力を入れて、野菜の篤農家にしようとした農家が数名いる。
それぞれの集落でリーダー的存在で
影響力も大きい。
その人が野菜栽培で成功すれば、他の農家へも波及するに違いない。
そう考えていた。
野菜栽培のバックアップとして、大規模な育苗所も建てた。
良い苗が潤沢に行きわたれば、野菜栽培も盛んになると考えてのことだった。
育苗所は、建設から地元行政による施設運営まで
さまざまな問題を抱えてはいたが、
僕が帰国するまでには、予算もつき、ある程度動き始めていた。
これからこの地域(任地)の野菜栽培を支えるために。
今回の調査でも、育苗所は機能していた。
というよりも、さらにレベルアップして、運営面でも技術面でも
大きな前進をしていた(苗の品質に少々難を感じたが)。

だのにである。
僕らが活動した野菜栽培は、今、跡形もなく、
その痕跡を見つけることすら難しい状況になっている。
僕らが力を入れた篤農家も、野菜栽培を止めて久しい状況で
1人は、牛の肥育事業に熱心になっており
1人は、タイの民間資本で養鶏事業をやっており、
1人は、農業はそこそこに、村の行政官になり、
サラリーと海外からの援助事業で生計を立て
そして1人は、僕らが来る前の米と落花生を作る農家に戻っていた。

僕らが見込んだ通り、それらの人物は他の農家への影響力を発揮して
牛の肥育事業や養鶏事業は、周りの農家へ大きなインパクトとして波及していた。
それらの事業は、その地域ではちょっとしたブームを起こしていた。
だのに、野菜栽培は継続されず波及しなかったのである。
あんなに投入したのに。

どうしてなのか?
その答えの一つは、養鶏事業でブイブイと鼻息の荒いMさんから聞くことができた。

「野菜は、もう作ってないよ。全く作ってない。タヤが帰ってから、しばらく作ったけど、県の農業事務所から誰も来てくれないし、フォローアップもなかった。県の会議でも言ったさ。『俺はJICAのPembina sayur(野菜栽培の指導者)だ』って。だけど、県側は誰もこの技術を活用しようとしなかった。野菜のプロジェクトは何にもなかったよ。だから、こっちから見限って、タイ資本の民間事業で養鶏をやることにしたんだ。すごく儲かるしやりがいもある。周りにもどんどん勧めているよ」

との答えだった。
事実、彼の集落の周りでは、以前は全く見られなかった養鶏場が
あちらこちらに散見できた。
本当ならば彼が普及を推し進めていくはずだった野菜作りは、
養鶏場が普及していればしているだけ、
その普及しなかった現状を、より印象的に際立出せていた。

つづく

エッセイの引っ越しはこれで最後。



遠く困難な道のり


vanili.jpg

友人のバニラ


久しぶりにアレジャンに住む友人からメールが来た。
メールと言っても携帯メールなので、文章は短い。
『今何してる?そっちの季節は何?こちらの落花生はあまり育っていません』とだけ。
私が隊員時に、落花生栽培の普及を行っていたからなのか、
彼は時々自分の栽培している落花生の生育状況を携帯メールで送ってくる(第23話参照)。
こちらからももう少し詳しく聞こうと思い、折り返しのメールを送る。
どうして落花生の生育が悪いのか?と。そして彼が取り組んでいたバニラ栽培も聞いてみた。
数分後、メールが来る。
『乾季がすごくて、6月からまったく雨が降らない。バニラはほとんど枯れたし、落花生も実がはいらない』。



アレジャンは山間の村なので、他の村に比べれば水が豊富だと言える。
だのに、時々、その水があってもどうにもならないほどの乾季がやってくる。
以前ならそれは10数年に1回程度だったのだが、
最近は2年から3年に1回、このような乾季がやってきているようだ。
バニラは植えてから3年目に実がなる植物。
実は今年でその3年目だった。
だのに、この乾季でそのバニラは全滅してしまった。
特別な期待が込められたバニラだったのに。
その期待とは結婚だった。



彼は今年で36歳。
未だに独身。
あちらのスタンダードで考えれば、その歳まで結婚しないなんて考えられないことだった。
アレジャンでは大抵、親同士で話をまとめ結婚させられる。
若者たちはそれまでは自由に恋愛をしたりするのだが、
結婚する相手はその恋愛相手とは限らない。
私の常識では受け入れ難いことなのだが、それでアレジャンの若者は結婚していく。
それはなぜか。



婚資がべらぼうに高いのだ。
とてもじゃないが若者個人で払えるものじゃない。
ブギス民族(アレジャン集落の民族)は、
新郎が新婦側の親もしくは叔父に多額のお金を払うという習慣がある。
さらに結婚式の資金も新郎側がもたなければならない。
私たちの社会ではやっているじみ婚なんてない。
新婦側はこの結納金が安ければ、面目丸つぶれにもなる。
というか、まとまる結婚話もまとまらないのである。
家格にあわせて結納金の相場がある程度きまっており、
また結納金次第で家格があがったりさがったりもする。
結婚が決まると、『おめでとう!』というお祝いの言葉の後には、
『で、いくらだった?』とひそやかに噂になるのである。
では具体的に幾らするのだろうか。



2000年に結婚したバルー県(アレジャン集落がある県)の知事の娘は、
結納金は1億ルピア(当時1円=80ルピアほどだったか)、
結婚式資金が1億ルピア、さらに県知事に車がプレゼントされた。
同じ時期にアレジャンの集落長の娘も結婚した。
結納金は1000万ルピア、結婚式資金は2000万ルピアだった。
インフラ傾向にあるインドネシアだが、現在でも大体相場はそんなものらしい。



どうしても自分で相手を選びたいという人は、
出稼ぎに行くしかない。
若いうちにマレーシアやカリマンタンなどに出稼ぎに行けば、
森林をばんばん伐採して日本を含む外国にばんばん売っている会社があり、
そこで働くことが出来る。
実際にアレジャンやその近辺の村々の若者の多くは、よく出稼ぎにいく。
3年から5年頑張って、贅沢をしなければ(タバコを吸わないなど)、その資金はたまるらしい。
だが、労働はそうとうきついと言う。



さて、私の友人の話に戻そう。
この愛しのアレジャンでもなんどか取り上げた彼(第19話・第20話参照)。
出稼ぎには行っていない(行ったと思われた時期もあったのだが、結局は行っていない)。
親が何度か結婚話をまとめようとしたのだが、彼は親が決めた相手をよしとしなかった。
そして今、彼には結婚したいと思う相手がいる。
2006年の4月、私がアレジャンを訪れたときに、彼は頬を赤らめながらそう話してくれた。
だが、金が無い。
向こうの親が言うには、結納金は1500万ルピア。
結婚式資金まで含めると最低でも3000万ルピアは必要だと言う。
しかし彼の1年間の現金収入は約300万ルピア。
現金を全く使わないで、すべて貯金したとしても結婚まで10年ほどかかってしまうのだ。
しかし、それまで向こうが待ってくれるとも思えない。



で、彼は考えた。
考えられる道は5つ。



1つ目の方法。
駆け落ちをする事。
これはあちらの社会ではたびたびある。
高すぎる結納金が払えずに
駆け落ちする若者がいたりもする(不倫のカップルもこの方法をとったりする)。
しかし、これはリスクが高すぎる。
なぜなら、死を覚悟しなければいけない。
ブギス民族はSirihという独特の価値感をもっている。
日本語に無理やり訳せば、面子があるいは適当だろうか。
駆け落ちされることは、この面子を丸つぶれにする出来事なのだ。
だからその娘の兄弟や叔父は、駆け落ちした二人を血眼で探し出し、
見つければ時には相手の男性を殺してしまうこともある(時には娘さんも殺されてしまう)。
無事に逃げ果せたとしても、生活基盤をすべて捨ててしまう駆け落ちは、
その後の生活は不安定なものになるだろう。
だからよほどのことが無ければ、駆け落ちはしない。
私の友人は、この方法を取らなかった。



2つ目。
コミュニティ外で結婚してしまうこと。
これは駆け落ちとは違う。
両方の親の同意をとる必要がある。
だから結納金は払う。
だが、結婚式資金がかからない。
トータルの資金としては、半分ですむのだ。
偶然、友人の彼女はマレーシアに出稼ぎに行っていた。
なので、マレーシアで結婚式を済ませてしまえば、
呼ばなければいけない親戚も周りにはおらず、安く式を行うことが出来るのだ。
しかし、彼女がOKしなかった。
人生に一度の晴れの舞台である結婚式。
彼女は、きちんと結婚式がしたい、と言った。
この方法が一番すぐに結婚できるはずだったのだが、彼はあきらめざるを得なかった。



3つ目。
これは彼女からの提案だった。
彼女の父は少しばかり土地を持っている。
なので、彼の持っている土地や家をすべて売り払って、それを婚資にあて、
結婚後は彼女の父の土地で働けばいい、というのだ。
こういうことは珍しいことではない。
ブギス民族では、結婚後、新婦側の家で新婚時代をすごすカップルは少なくないし、
その後も新婦側の土地で暮らす新郎も少なくない。
サザエさんのマスオさんだと思えば、大方あっているだろう。
しかし、友人はそれをよしとしなかった。



彼にはそれなりの野望がある。
2005年に行われた県知事選では、現在の知事の選挙参謀から早くから見込まれて、
アナバヌア村(アレジャン集落のある村)で票固めのために活躍してきた。
選挙後、知事の党であるゴルカル党から、アナバヌア村支部長に推薦されている。
ゴルカル党の村支部長と言えば、その地域では村長になる人物が任命される地位である。
つまり私の友人は遠からず村長になると約束されたようなものなのだ。
ただ彼は村の中の政治的な関係から、村支部長を辞退し副支部長に就いた。



もし彼が彼女の申し出通りに彼女の住む土地(別の県)に行けば、
アナバヌア村でせっかく固まりつつある彼の政治的なポジションはなくなるのである。
向こうの土地では基盤がないのだ。
しかしこの申し出は、まだ断っていない。
結婚だけを見れば、もっとも可能性があるようにも思えるからだ。



なんとか、今ある土地で工夫を凝らし、結婚できないものだろうか。
彼はそう考えている。

そして4つ目。
今ある土地を担保に村人からお金を借り、自分の土地で農業労働者になること。
アレジャンではこういうことはよくある。
お金が必要になった場合、自分の土地を売り払ってしまえば、
その後の生活がさらに苦しくなり貧困の輪から抜け出せなくなる。
そこでアレジャンでは、他の村人がその人の土地を一時買い取り、
その人は自分の土地で農業労働者となり、生活に最低限必要な給料で働くのである。
売り払った土地での売り上げが貸した金の分に達した時、土地はその人に返されて、
その人はまた自作農として農業を営むことが出来るのだ。
こうすることで厳しい環境の中でも、貧困の輪に陥らずにすむのである。
だが、農業労働者の生活は、かなり厳しいものになる。
新妻に苦労をかけたくは無い。
だから、できるだけこの方法はとりたくない、と彼は言う。



5つ目。
今ある土地で換金性の高い作物を栽培して一儲けすること。
そしてその作物がバニラだった。
バニラは以前に比べたら換金性は高くないが、それでも魅力的な作物の1つである。
しかも彼の持つ土地(山の斜面)を活かすことが出来る作物なのだ。
だが、結果は冒頭で説明したとおりだった。



バニラがだめになってしまった現在、考えられる道は、3つ目か4つ目。
どれも彼としては、納得はしていない。
これら以外としては、できちゃった婚(今はおめでた婚・さずかり婚というのか)があるが、
これも1つ目と同じで、リスクが高い。
子供ができてしまえば、婚資は少なくて済むのだが。



メールでは、『結婚はしばらく考えられなくなったよ』と。
ことあるごとに私に、お金を貸してくれ、と頼んでくる他の村人と違って、
彼は絶対そういうことを私には言わない。
今年の春にアレジャンを訪れて、この話を夜な夜な聞いたときには、
私たちの間には微妙な空気が流れていた。
私は毎年アレジャンに訪れている。
彼はそれにどれくらいのお金がかかるかは、だいたい知っている。
だから私が数回のアレジャン訪問を我慢して、そのお金を彼に貸すことができれば、
彼はいとも簡単に結婚できるだろう。
彼の婚資は、私にしてもたいしたお金だろうが、
彼ほど苦労なく手に入れることは可能だろう。
しかし、彼は私に貸してくれとも言わなければ、私も貸してやるなどとは言わない。
貸してしまえば、また借りてしまえば、
私たちの関係が今のとは微妙に違ってしまうことを私たちは知っているからだ。
ミーバッソ(ラーメン)をおごってやるのとは話が違うのだから。



私にできることは、彼がこれから取り組もうとする農業の相談に乗ることくらい。
だから、アレジャンでは夜更けまで話を聞くし、時々こうして携帯メールで状況を話しあっている。
せめてバニラが収穫できていれば、それを少しは買いたいと思っていたのだが・・・。



自由な恋愛を貫き通したいアレジャンの若者たち。
その結婚への道のりは、遠く、そして厳しい。

週末は、以前書いたエッセイのお引越し。



三箱のタバコ



ちょっとしたきっかけで、再びアレジャンに行くことになった。
といっても、せいぜい3日間ほどの滞在予定なのだが。
それでもアレジャンの連中とここ最近連絡を取り合っている。
宿の都合とか食事の準備など、3日間の滞在を快適にするために。



新聞も手紙も届けられないアレジャンとどうやって連絡を?と思われるかもしれない。
私が住んでいた時代からその点については全く改善されていないが、
それでも時間はアレジャンにも等しく流れていて、
携帯電話が使えるようになっているのである。
携帯電話のメールを通じてあれこれとやり取りが出来るようになったのだ。
まったく便利な時代だ。



そんなこともあり、日々アレジャン集落について思いをめぐらすことが多くなった。
思いをめぐらせば、あれこれと思い出すこともある。
普段は読み返しもしない自分の書いたアレジャンエッセイも読み返したりもする。
そこでふと気がついた。
伝説の男を書いた以降にも、アレジャン集落を訪ねていたことを。
今回訪ねていく前にその話だけは書き留めておかなければ、と気まぐれに思い、
こうして再び筆をとる。以上、つまらなく長いイントロでした。



2005年4月。私はまだ学生だった。
ボゴール農科大学大学院の2年生で、丁度その頃妻は妊娠中だった。
そして私は修士論文を書くために南スラウェシ州を調査中だった。



修論のための1ヶ月半の調査後、
かねてからの約束通り私はアレジャンを訪ねた。
4月も半ばごろだったかと思う。
いつものことだが、アレジャンの風景はあまり変化がなかった。
変わった事と言えば、訪れるたびに気がつくのだが、
タバコと石鹸ばかりがやたらとそろっている売店が数店、新しくオープンしており、
同じような売店が数店、店じまいしていたくらいである。
それと、ラエチュ(アレジャン集落の長)がインドネシア語を忘れていたことくらいだった。
普段は民族語のブギス語ばかりを話している集落なので、
外国人である私が帰国してからは、
ラエチュはあまりインドネシア語に触れる機会もなかったのだろう。
毎回訪れるたびに彼との会話が難しくなっていたのだが、
今回は全くといっていいほど通じなかった。



そうそう忘れてならない変化は、友人のサッカだった。
相変わらず結婚もしないでぶらぶらしていたが、少しだけ偉くなっていた。
彼はある肩書きを得ていた。
それは『バルー県知事選アナバヌア村選挙参謀』である。



2005年はバルー県知事の選挙の年だった。
選挙は6月に行われる予定で、現職を含む3人の候補が立候補を表明していた。
アレジャンを訪れた4月はまさに選挙戦真っ只中だったのある。
サッカはその選挙において現職陣営につき、
アナバヌア村(アレジャン集落のある行政村)での票まとめを一手に任せられていたのだった。



選挙にお金はつきもので、バルー県みたいないなかでも相当なお金が動く。
選挙の前の年あたりから、あちこちで道路が建設されたりもする。
市場が整備されたり、橋のリハビリが行われたり。
しかし、悲しいかな、アレジャン集落。
あまりお金は回って来ない。
今回、選挙戦であれこれ建設されたという話ばかりを聞いたが、
アレジャンの風景で変化したのは上記のものだけだった。
それでもサッカは『現職の知事が再選を果たさないとアレジャンの明日は無い』といった調子で
選挙戦について熱く語ってくれた。



知事候補について少し説明しよう。
3人の候補がいるが、実質は現職と新人の一騎打ちの様相だった。
現職は私が協力隊隊員の頃に知事になった人で、実はよく付き合いのあった人でもある。
インドネシアでは政治家は皆偉そうに振舞ったりするものだが、この現職の知事は違っていた。
人の話を良く聞くし、実行力もあった。
そしてこれまでの知事とは違い、村落部に対して多くの政策を打ち出してきた人でもある。
それまでの知事は、町のインフラ整備ばかりに手をかけていていたので、
彼が知事になった頃は、私たちの同僚の間でも評判の知事だった。
そして、サッカ曰く、その傾向は今でも続いており、
今回の知事選でも村落部の開発重視をマニフェストとして掲げている、とのことだった。

一方、そんな知事が面白くないのは町の人。
特に教育関係者と医療関係者の間では評判が悪かった。
病院建設や学校設備に対する政策が弱いと非難囂囂だった。
そこで今回の選挙戦では、医療関係者と教育関係者は、
近くの大都市在住の医学博士だったバルー県出身者を担ぎ出し、対立候補として擁立をした。
当然この候補、町のインフラ整備(特に病院・学校)の充実をマニフェストとして掲げていた。
こうしてバルー県の世論は町対村で真っ二つになっていた。



さて、私。
気分的には現職を応援したかった。
一応はかつて村落開発のプロジェクトをその現職の知事と推し進めてきた経験があったから。
しかし日々の勉強と調査に疲れ、それを癒すためにアレジャンに戻ってきていたので、
選挙戦自体にかかわるのが煩わしかった。
そもそも選挙戦に関わろうにも、こちらは一介の大学院生。
傍観の体であった。
しかし、アナバヌア村選挙参謀はそれを許してはくれなかった。



アレジャンに戻ってから2日目昼下がり。
サッカは私が泊まっているラエチュの家にやって来た。
『タヤ、少し付き合ってくれ』。
どこへいくのかと訪ねても、彼は『いい所だよ』としか答えない。
のんびりとベランダのテラスでコーヒーを飲んでいた私としては、
かなり面倒だったのだが、サッカに押し切られるように家を出た。

サッカのバイクの後ろに乗り向かった先はバルーの町だった。
4月はまだ雨季の雨が残っている。そのときも小雨が降っていた。
ずぶぬれになりながら町に着く。
サッカは数軒の家を訪ねて、誰かを探しているようだった。
何軒かまわり、私もサッカもすっかりずぶぬれになり、私の機嫌も最悪になった頃、
ある大きな家に身を寄せた。
しかし家の中には入れてもらえず、テラスで待つことになった。
一体誰に会うつもりだ!とかなり不機嫌になっていた私に
サッカは『バルー県の県議会副議長だよ』と答える。
そして、『その副議長が現職陣営の選挙参謀長なんだよ』と言う。
話が見えない。
なぜ、ずぶぬれになりながら私が選挙参謀長に会わないといけないんだ?



その選挙参謀長は昼寝の最中とのことで、
サッカも私もずぶぬれになったままテラスで待っていた。
家人があまったるいコーヒーを出してくれたのが唯一の救いだった。
そして待つこと2時間が経過した。
すっかり弱りきった私の前に、でっかくて引っ込みのつかない腹を抱えながら、
その選挙参謀長は現れた。
サッカの低姿勢から見て、その人がずいぶん偉い人だとはわかったが、
こちらはずぶぬれで2時間待たされたこともあり、当然ぞんざいな態度。
『君がサッカの友人の日本人かい?』との問いも、『あぁ』と生返事のまま黙り込む。
その様子を見てか、家の中からタバコを取り出してきて、ぽんと私の前においた。
私が吸っていた銘柄(インドネシアの銘柄)と同じタバコだった。
『まぁ、吸いたまえ』。



妙なもので、人から物をもらうと人間気分が良くなるらしい。
それ以後は、現職の知事について私の知る限りの良い点を話し合っていた。
副議長はそれをいちいちうなずきながら手帳にメモしていた。
これも妙なことだが、自分の話を人が一所懸命にメモをとりだすとすこぶる気分がよくなったりする。
だから小1時間もその話を続けてしまった。
最後に副議長は、『君の話は明日議会で話そう。とてもいい話をありがとう』と
お礼を言われてしまった。
またまた妙なもので、人から有難うと言われるとつい調子に乗ってしまうものである。
なので副議長から『最後に、現職を推薦します、と君のサイン入りでここに書いてくれるかい?』と
手帳を渡されたら、ほいほいとサインをしてしまった。
しかも副議長の言われるままに私の所属をJICAということにして・・・。



その後、副議長から同じ銘柄のタバコをさらに二箱手渡された。
タバコを三箱もただで手に入れたことでホクホク気分だった。
が、アレジャンに戻ってから、自分の行動が軽率だったと反省した。
三箱のタバコ如きでおだてられた後味の悪さが相俟ってか、
同じタバコなのに、その煙は苦い味だった。



同年6月、サッカから携帯でメールが届いた。
私の書いた1枚の紙切れがはたして通用したかどうかは知らないが、現職が勝利、とのこと。
サッカは大喜びだったが、私は後味の悪さを思い出し、タバコの銘柄をかえることにした。



あれから約1年が経とうとしている。
そしてこの4月(2006年4月)、私はまたアレジャンに向かおうとしている。
現職の知事が再選を果たさなければ、アレジャンに明日は無い、とサッカは言ったが、
果たしてアレジャンは変わっているのだろうか
週末は以前書いた青年海外協力隊のエッセイのお引越し。
これを含めてあと3話でおしまい。




伝説の男

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『行政が作るものはすぐに壊れちまう。このアスファルトの道は、雨季が来たらはがれるのがおちだ。でもよ、ただひとつ壊れないものがある。なんだか解るか?』

これは、ひさしぶりに私がアレジャンへ里帰りした時に、
ペテペテ(ミニバス)のなかで聞いた台詞。
村の親父が、すぐに壊れるアスファルトの道にケチをつけていた時に、
ぽっと出てきた台詞だった。


読者諸君、お久しぶりである。
長らく書かなかった、いや、書けなかったこのエッセイを再び書けることに喜びを感じている。
読者諸君に、再びアレジャンそしてその周辺の人々の暮らしを紹介できることに喜びを感じている。
大学にはいり、もう少し頻繁にこういったものを紹介できると思っていたが、
個人的な能力の限界もあり、全くできていなかった。
また、私に筆をとらせようという人物もしくは出来事がなかったことも一因している。
そして今回、アレジャンへの帰郷の際、ある男の話が私に再び筆をとらせることとなった。
やはりアレジャンには、何かある。
そう、うずうずしてみんなに知らせたくてしょうがない何かが。



2004年9月3日、大学の長期休みを利用して私はアレジャンへと里帰りをした。
雨の街という名をいただいているボゴールの街は、乾季でも毎夕雨が降る。
そのためか、涼しく、また緑も深い。
そんな街に慣れ親しんでしまった私には、スラウェシの乾季は体にこたえた。



暑い。
暑い。
とにかく暑い。
スラウェシの乾季は、全てを焼き尽くすかのように暑い。
草は枯れ、木は葉を落とし、大地は酸化鉄を含む赤い土をむき出しにする。
そして、その上に暮らしを営んでいる人間も、真っ黒に焼かれている。
季節柄、アンギンケンチャンという強風が吹き、椰子やバナナの木が大きく揺れていた。
そんな殺伐とした風景の中で、私はペテペテに乗り村へ帰ろうとしていた。
そう、わが故郷アレジャンへ。



夕方にバルーに着いたこともあり、村へ向かうペテペテは数少なくなっていた。
聞けば、アレジャンまで行くペテペテは無いとの事で、
少し多めに払ってアレジャンまで行ってもらうことにした。
同行していた妻は、私とアレジャンには向かわず、途中の村で降りた。
彼女も私にとってのアレジャンと同じくらい思いいれのある村がある。
彼女はその村で降りた。
その村はケレンゲという。
話は横にそれるが、ケレンゲという集落には、
アレジャンまでを含む地域一体に強い影響力を持つ一族が住んでいる。
かつてバルーに王様がいた頃、その王様に任命されてそれらの地域を開拓した子孫だ。
この話の詳細は、妻が書いた『村落開発支援は誰のためか』(明石書店)に
詳しく書かれているので、そちらを参考にしてもらいたい。
余談だが、その一族の長は
『アレジャンは、悪党が住んでいる』とほとんど名指しで、
アレジャンの集落長ラエチュの悪口を言う。
もともと地域的に繋がりのうすいアレジャンは、
ケレンゲの意向を無視することが多かったからだろう。



さて妻がペテペテを降り、一路アレジャンに向かう途中だった。
スイスイと進むペテペテに、何か違和感がある。
なんだろう。
うん?スイスイ?
そう、ペテペテがスイスイと進んでいくのだ。
普通ならケレンゲを過ぎた辺りから、がたがたと揺れながら進むはずが、
今回はスイスイと進んでいく。
道がきれいに舗装されていたからだ。
もともとケレンゲを含む地域は、道が悪い。
アスファルトがひかれていても、それは所々で、
ペテペテなどの車両は大きな穴や窪みをよけながら進むのが普通であった。
そのため雨季などは10キロかそこらの距離を30分以上もかかる場合もあった。
それがどうしたことだろうか、きれいに舗装されているではないか。
いや、舗装自体は驚くことではない。
私が2000年にこの地を離れる前に、すでにこの地域は舗装されていた。
しかし、それは4年も前の話。
日本ではあまり考えられないが、これらの道は1年と持たない。
工事が突貫だから、とか、
手抜きだから、とか、
資材をケチっているから、とかの理由で。



道がまだきれいなことに驚いていると、
ペテペテに乗り合わせていた親父がこういった。
『舗装しなおしたんだよ。アレジャンまできれいに舗装されているんだ』と教えてくれた。
へぇ、また舗装しなおしたんだ、と私の言葉を合図に、親父達の愚痴が始まった。
『そうさ、また舗装しなおしたんだ。まただよ。1年と持たない道を毎回毎回作り直す。お金の無駄さ』と後ろの親父。
するとペテペテの運転手が
『アスファルトが薄すぎるんだよ』と一言。
最後部で灯油の詰まったポリタンクを抱えていた親父は
『知っているか?アスファルトをひく時に、工事のやつらは土を混ぜていたぜ』と
ほんととも嘘ともわからないことをいう。
その横の男は『アスファルトの道路にすぐに草が生えてくるんだ!信じられるか?』とぼやく。
『行政が作るものはすぐに壊れちまう。おい、日本人。このアスファルトの道は、雨季が来たらはがれるのがおちだ。でもよ、ただひとつ壊れないものがある。なんだか解るか?』と再び後ろの親父。
なんだ?コワレナイモノって?
そんなものがあるんですか?という私の問いに、彼はにっこり笑って
『トールの灌漑だよ』と答えた。
鳥肌が立った。



私もトールという名前をもっているが、私には灌漑を作る能力は全く無い。
そうこれは私のことではない。
私より少し早い時期に、この地で協力隊員として派遣されていた、
灌漑が専門のトールという青年のことだった。
トールはその当時かなり苦労をして、そしていっぱいいっぱい悩んで
村人と一緒に、それまでその地域では見ることの出来なかった近代的な灌漑を作った。
とても立派な施設で、私が赴任してきた時、その施設を見て彼の偉大さに敬服したものだった。
しかしそれとは裏腹に、住民達の手による開発という謳い文句のプロジェクトであったため、
必要以上に住民達にも苦労をさせていたことは否めない。
見たことも無い施設を、灌漑の素人である村人が作るのだから。
それでもトールの人柄とそれに関わった村のリーダー達の努力で完成までこぎつけた。
すこしファール気味の手段もあったが、それは全体の中で至極小さなことだと今は思える。
その当時の苦労話をまとめたものは、
やはり妻の書いた『村落開発支援は誰のためか』(明石書店)を参照していただきたい。
・・・なんだか宣伝の多いエッセイだ。



さてその親父。
『トールはな、妥協しなかった。灌漑の施工に使われた石は、どれでも良いってわけじゃなかった。トールが選んで、いいってやつだけを使った。セメントに混ぜる砂は、一度洗ってから使ったんだ。信じられなかったよ、そんなことは。行政のする工事は、下手をするとセメントに入れる砂が無くて、土を混ぜる事もあるのに』。
トールのその当時の工事には、トールがいいと思う資材だけを厳選して使用した。
業者が使用する資材でも厳選して使用したと聞く。
ただ、それが当初村人には理解されなかった。
なぜそんな手間をかけるのか、と。
そして、それから時は経ち、トールの灌漑が出来てから7年の月日が経とうとしている今日、
村人からトールの事業の評価を聞いた。
バルーには、これまで30人近くの協力隊が入っている。
日本人がいるっていうのは、村人は知っているが、
普通一人一人の名前まで覚えちゃいない。
それが、トールは覚えられていた。
伝説の灌漑と共に。



トールの灌漑は、完成後から順調に使用されていたわけじゃない。
むしろその逆だった。
97年に完成し、その後2作ほどその灌漑が使用されたが、
98年にあった大雨で、山崩れのため土砂に埋まってしまっていた。
トールの後任で来た隊員は、その状況を見て『村人では直せない』と判断した。
私もそう思った。
水路は土砂で埋まり、堰の水門は壊れて使用不可能だった。
後任の隊員はなんとか修復に努めようとしたが、
苦労して作った灌漑が1年も持たなかったことに愕然とした村人は、
出来るだけ自分達が負担を軽くなるように交渉し、
結果として協力隊側と物別れに終わっていた。

その時、私はそこにいたのだが、『ああ、これでこの灌漑は使われなくなる』と正直そう思った。
しかし、事態は違っていた。
私が帰国する2000年まで特別な動きは無かった。
でも、その後今日までの間に、何度も何度も住民達で少しずつ灌漑が修復されていった。
土砂を取り除いたら、頑丈に作られたトールの水路が顔を覗かせた。
土砂が押し寄せてきた堰は、
その土砂の重さにも耐え壊れることなく水を堰き止め、水路に水を流すことが可能だった。
こうして土砂に埋もれたトールの灌漑は少しずつ修復され、
そしてそれごとに改めてトールの技術への畏敬の念に変っていったに違いない。



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      トールが作った水路

アレジャンでは、今年、落花生が壊滅的な被害を受けていた。
もともと水の豊かなアレジャンでは、トールの作ったような灌漑は必要ではない。
しかし、今年の乾季は厳しく水も少なく、
その結果害虫と病気が発生しアレジャンの落花生は全く収穫の無い状況だった。
アレジャンに住む親友のサッカ(サカルディン)は
『ケレンゲの(トールの作った)灌漑の所だけが、(落花生が)青々としている』
と本気で羨ましがっていた。



トールの後任の隊員が修復しようとした時の住民側代表だった男は、
『20人くらい村人を集めて(トールの灌漑を)直しているよ』と誇らしげに語った。
後任の隊員が直そうといったときは渋ったくせに!


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    頑丈な堰

今年トールの灌漑のすこし下流の方で、
新たに行政から援助が入り、ポンプ灌漑の施設を建設していた。
それらを含めて、ケレンゲで強力な影響力を持つ長は言う。
『外からの援助はいつもそうだ。村に合わない。ポンプの管の太さ、知っているか?あんな大きな管じゃ、水をすえるはずない。それくらい水があるのは雨季の時だけだ。だからあのポンプは、水がふんだんに空から降ってくる雨季に使うんだろう。意味が無い』と。
トールが当時灌漑を作ったとき、正直言って私はあまり賛成できないでいた。
灌漑が、じゃなくて、そのやり方に。
長の言う『村に合わない』ものだとも思った。
そして壊れた時に、村人が直さない姿を見て、やはり『村に合わない』ものだと思った。
しかし、それから月日が経ち、『村に合わない』と思ったものは、
村人達の手でしっかりと管理され、そして尊敬されていた。
未だにトールの手法には諸手を挙げて賛成は出来ないが、トールの技術は素晴らしい。
妥協しない彼の姿勢が、土砂に押し寄せられても頑丈にそれを支える堰の姿とだぶる。
行政がひいたアスファルトの道に、早くも草が生え始めているその横で、
人口に膾炙するトールの灌漑は
今日もその青々とした畑に水を送り続けている。

週末は、青年海外協力隊のエッセイのお引越し。
もうすぐおしまい。



ロティ マロス


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一言で言えば、名物。
しかし、お世辞にも美味いとはいえない。
かすかすのパンにやたらめったらあっまい独特のジャムを挟んだだけのもの。
地元の人は、愛着を持ってそれを呼ぶ。
『ロティマロス』と。


州都マカッサルから州街道を北上すると、マロスという町にでる。
マロスから更に80キロほど北上するとバルになる。
そのマロスの町に入りかかる街道沿いに、ロティマロスは売られている。
日本語に訳すなら、『マロスパン』と言ったところだろうか。
味はとにかく甘い。
そして独特の味。
南国のフルーツをつぶして入れたような味がするが、
そこの店主は『味は秘密だよ』といって教えてくれない。
別に真似するつもりはなく、ただ食べ物として真っ当な物なのかどうか知りたくなる味だった。
しかしそれも初めのうちで、食べなれてくると美味く感じてくる。
舌が麻痺したのか、味覚がむこうになじんだからなのか。
とにかく、これはそんなお話。


アレジャンに住み着いてしばらくたった頃、私は味に飢えていた。
毎食殆ど定番となったインスタントラーメンとご飯、
たまに出る魚料理は生臭いかターメリックで同じように味付けされているかで、
どれも私の味覚を刺激しない。
一度市場でいろいろと食材を買ってきたことがあったが、
下宿先の若奥さんは何を勘違いしたか、
その食材を家族に食べさせ、私には定番のインスタントラーメンとご飯だけを食べさせた。
ミスコミュニケーションだったと反省はしているが、
まったく察しない下宿先の家族にも苛立ちをつのらせていた。
そんななかだった、私がロティマロスに出会ったのは。


それは、村から出稼ぎに出ていた若者が帰郷してきた時の事。
山のように持ち帰ったお土産の中に、くしゃくしゃの新聞紙にくるめられたものがあった。
子供達はそれが何物かを心得ていて、しきりにはしゃいでいる。
若者は集落長の親戚に当たる者らしく
(といってもアレジャン集落の住民の殆どはお互いに親戚なのだが)、
ラエチュやその家族にもお土産を持ってきていた。
そして例の新聞紙にくるめられたものもあった。
『田谷も食べるか?美味いぞ』とその彼。
食べ物?といぶかしむ私を横目に子供達は、新聞紙を開き中に在るものを食べ始めた。
見た目にはパンだった。
勧められるまま一つを口の中へ。


まずい。


百歩譲って甘いのは我慢しよう。
しかし鼻に残る匂いがきつかった。
砂糖を飽和状態になるまで混ぜ、
ドリアンやジャックフルーツをつぶして美味くないエキスだけを加えたような、
そんな味だった。
なんてやつらだ!何て味覚だ!
ターメリックは口に合わないし、川魚は泥抜きしていないため生臭い。
インスタントラーメンはぬるいお湯をかけただけで、ばりばりと歯ごたえがある。
我慢ならなかった。


そんなある日、定期健康検診のため首都ジャカルタに行くことになった。
ジャカルタは日本人も多く住んでおり、日本食も多い。
洋食の種類も豊富で、私の味覚は充分に満たされ、そして刺激された。
次の定期検診までしばらく、我慢のアレジャン生活になる。
検診は半年に1回。
半年分の食糧は持って帰れないが、
せめて我慢できなくなった時に食べられるようにと、
ここぞとばかりに日本の缶詰や保存食を買った。
そして村人にも一つお土産を買った。
スラウェシ島ではまだ食べられなかった『Dunkinドーナッツ』だった。
私はそれほどこのドーナッツが美味いとは思わないが、
それでもロティマロスよりははるかに良かった。
まってろよ、みんな。
教えてやる。
美味い菓子パンとはこういう物の事をいうんだ。
そして20個ほどのドーナッツを持って村に帰った。


不評だった。
かなり不評だった。
というか食べてさえもらえなかった。
ひと口やふた口味を見るとすぐに、『美味くない』といって食べてもらえなかった。
あれほど甘い物好きにもかかわらず、
砂糖をまぶしてクリームが入っていて、
チョコレートがコーティングされているDunkinドーナッツは、
村人の口に合わなかった。
そして食べ残されたドーナッツにハエと蟻だけが集っていた。
ロティマロスの10倍以上の値段がしたのに・・・。
食べ残した子供は『今度ジャカルタに行ったら、
ロティマロスを買ってきて』と無邪気に笑う。
ジャカルタのお土産にマロスのパン。
なんだか釈然としなかった。


そして月日がたち、魚の生臭いが美味いに変わり、
インスタントラーメンのバリバリという食感が癖になった頃、
ロティマロスは私の良く食べる食べ物の一つになっていた。
以前も話したが、週末はマカッサルという100キロ離れた街までビールを飲みに行く。
その帰りに、マロスでロティマロスをお土産に良く買った。
暑い国なので甘いものが無性に欲しくなる。
そんなときロティマロスは丁度良かった。
その場所で広く支持されている食べ物は、やはりそこの風土や文化によく合っている。
ダンキンドーナッツも美味いけど、ロティマロスもそれはそれで美味いと感じる。
『相手の価値観を理解して頑張ります!』などと
協力隊出発前のローカル新聞の取材で答えていたが、言うは安し行うは難し。
そんなことを実感させてくれたロティマロス。
読者諸君も、もしスラウェシに行く事があれば、是非食べてみて欲しい。


しかし、最後まで魚のターメリックの味には慣れなかった・・・。
週末は、他のサイトで書いていたエッセイのお引越し。
もうすぐ完了。




不完全な取引 その2



アレジャンではないのだが、私が活動をしていたチェンネという村がある。
アレジャンは山の中に在るが、チェンネは町に近い平野に位置していた。
そのためかこの村の住民の意識はアレジャンよりも先進的だった。
とは言え、それは些細な違いでしかない。
たとえば、テレビを持つ家庭がアレジャンより多かったり、
ペテペテ(ミニバス)がアレジャンより多かったりという程度である。
この村で私が懇意にしていた農民がいる。
ムハマッド氏(仮名)。
今年49歳。
先進的な考えの持ち主で、人よりも一歩先を進みたがる人物だった。
時には人が当然試さない事でも試したがるところもあった。
『落花生考』でも紹介したのだが、落花生畑に除草剤を散布して雑草駆除をしたのも彼だった。
人一倍やかましくて、人一倍へこむ。
どこにでも顔を出し、ときどきみんなから嫌われる。
そんな彼を他人のように思えなかった私が、彼と活動をともにしたのは自然な事だった。

協力隊活動の3年目、私は困っていた。
1年、2年と生産重視の農業指導を行ってきたにもかかわらず、
結局最後の販売の段階で価格暴落や市場が見つからず、
農民に迷惑をかけてしまう。
大きな市場は近くにはない。
100キロ離れたところにある都市マカッサルがその対象となるが、どうにも遠い。
マカッサルの商人は、農産物の交渉をするたびに
『いいよ、いつでも取りにいくよ』と景気良く答えるのだが、
村まで取りに来てくれた試しはなかった。
そして私は困っていた。
そんな中、今まで活動で中心的な人物になってくれた農民を集めて、何度か勉強会を開いた。
テーマは販売だった。
100キロ先の大消費地についつい目が行き、
会議では100キロの距離を問題にするばかりで何の進展もなかった。
実は私には、祖父や祖母がやっていたような移動販売をしてはという案があったが、
私自身それにはあまり乗り気ではなかった。
簡単に言えば、それは『格好悪い』からである。
しかし何度勉強会を開いても、いい案が浮かばないので、
とりあえずということにして、移動販売を提案してみた。
案の定、農民のほうもあまり乗り気ではなかった。
近くの町じゃ量がはけない、という意見が多かったが、
野菜栽培の販売開拓の一案として取り上げられた。
村の野菜は流通に乗りにくい。
熱帯では保存も効かないし、冷蔵車もない。
町の野菜需要は近隣の小さな農家が持つ猫の額ほどの畑で、
ほとんどまかなわれてしまう。
それに大抵の町の家には簡単な菜園があり、市場での野菜需要はそれほど高くない。
町自体も小さかった。
先輩隊員からの指導のおかげで、なんとか村では野菜栽培が多くなってきたのだが、
殆どが流通に乗せるのに苦慮している状況だった。
爺さん婆さんがやってきた移動販売は、どこまで成果があるか不明だったが、
多く農民はそれほど期待をかけていなかった。

町には公務員婦人会という組織がある。
公務員の女性で構成されていて、料理教室や栄養改善教室などを開いていた。
移動販売はそことリンクさせる予定だった。
ただ売り歩くよりも構成員の人数と家族を知り、
消費量や好みの野菜の傾向を聞き、それに合わせて野菜栽培をしていくという、
こうやって書いているとたいした活動だ、と思える内容に農民とともにアレンジをした。
しかしそう簡単にはいかない。
構成員や家族は多いのだが、やはり菜園を持っていたり、
親戚が農家だったりして野菜需要が高くない。
その上、販売範囲が広く効率的でもなかった。
そこで、婦人会の会長は、婦人会会合の時に販売しては?と提案してくれた。
なかなかいい案ではあったが、会合は月一回しかなかった。
月一回しか販売の機会がないのでは困る。
こうしてすったもんだとしているうちに、町の役場や病院の前で販売をすることになった。
ムハマッド氏の車が使われることになった。
農民リーダーの中で彼だけが車をもっていたのである。
ただ、雨が降るとなぜだか動かなくはあったが。

販売当日。
ムハマッド氏の車に、山のように野菜を載せた。
他の集落にも車を回し、つぎつぎと野菜を載せていく。
サスペンションが殆ど効いていないため、車がやや後ろに傾いていることと、
押しがけしなければエンジンがかからないことを除いて、すこぶる順調だった。
役場や病院の前での販売は好感触だった。
爺さんや婆さんの時のように少々どんぶり勘定だったことと、
すぐに値下げしてしまうこともあり、好評だった。
そして完売だった。
儲けも大きかった。
なんだかうまくいきそうな感じだった。

しかし、そうはいかなかった。
販売の回を重ねる毎に、直接販売に関わる農民が減っていった。
まっさきに外れたのはアレジャンだった。
ムハマッドの車ではアレジャンまで登れなかったからだが、
その他の村でも参加する農民が減っていった。
販売する野菜がないからというのが理由だった。
府に落ちない。
そして、ムハマッドだけが残った。
それでも彼は、人がやらない事をやるのが好きという性格が幸いしてか、移動販売をやめなかった。


帰国近くなった頃、ムハマッドが私に話してくれた事がある。
『田谷が移動販売をしようと提案した時、本当は俺も乗り気じゃなかった。みんなだってそうだった。でもやる事にした。田谷が言うんだしやってみようって。みんなが辞めた理由はよく分からないけど、野菜売りが恥ずかしかったからかもしれない。野菜売りは一番卑しい仕事だから。でも俺のかみさんは学校の先生だ。野菜を買いに来たお客さんにその話をすると、みんな驚く。野菜売りの奥さんが学校の先生?って。だから俺は恥ずかしくない』。

なんて答えて良いのかわからなかった。
3年も村にすんでいて、誰よりも村を知っていると思っていた。
野菜売りは一番卑しい仕事?
はじめて聞いた。
ショックだった。

帰国後、自ら農業をして販売のあれこれを考えた。
実践もした。
インドネシアでの移動販売につまずき、それを否定してあれこれ試したが、
結局爺さん婆さんの移動販売にショックを受ける。
手法の問題ではない。
なにを売買しているのかという事と、どういう関係を築けているかという事。
量と信頼は必ずしも反比例するとは思えないが、比例させる事もむずかしい。
道半ば。
不完全な取引。
そして今年の8月から留学をする。
ムハマッドの『野菜売りは一番卑しい仕事』が心の奥にひっかかっている。
長くいるだけでは、彼らと同じ価値観を得る事は難しい。
それを見る視点が欲しい。
そう思い、またインドネシアに行く。

結局、私はまだアレジャンの夢の中にいるのかもしれない。


週末は、以前他のwebサイトで書いたエッセイのお引越し。
これが、僕が留学を思い立った理由の一つ。



不完全な取引 その1



謹賀新年。
今年も拙い物を書いていくと思うが、ひとつお付き合いいただきたい。
昨年は9月に書いた後、書いていなかったようで、
いろいろな方から催促いただいたのだが、
今日という日まで惰眠をむさぼっていた事をおわびしたい。
今年はもうちょっと定期的に書きたい なぁ。



冬、北陸、農閑期。
こんなキーワードが並べば、たいていの人は
『ああ田谷は今頃雪に閉ざされた世界で、はんてん着て、こたつに入って、ぼんやり蟹でも食べているのだろう』
と想像されることだろう。
まぁ蟹は正解だが、後は間違い。
冬はビックイベントがある。
忘年会にクリスマス、年末、新年会そして成人式。
この時期レストランは超満員。
そしてレストラン用にルッコラ、ベビーリーフを栽培しているわが農園は、
猫の手も借りたいほどの忙しさとなる。
実際にクリスマス前と年末は、パートを臨時で雇って何とか乗り切ったくらいだ。
しかし、この不況の中、ひっきりなしに業者から連絡がある。
幸せな事だ。
新しい個性的な野菜の導入と新感覚の販売が評価され、面白いほど野菜が売れた。
ホームページを見て連絡をくれた業者も10社をくだらない。
私はこの時期、自己満足の世界にいた。
新野菜、新感覚、ニュータイプ。
そして、ちょっと嫌な奴。

私の祖父と祖母もこの時期忙しい。
曲がった腰とうまく動かなくなった膝を引っ張りながら、猫の額ほどの畑へ出る。
趣味の畑だった。
夏はトマトや瓜などを作り、この時期(冬)はねぎや人参、きりいもなどを作る。
収穫された野菜は、爺さんの三菱の軽トラックの荷台に積み込まれ、販売される。
世にいう移動直売というやつだ。
冬野菜の収穫も終り、爺さんたちもどこか忙しそうに野菜を出荷するために袋詰していた。

私の中では、それは爺さんたちの趣味の世界であり、
あまり利益の高い商売ではないと理解していた。
私が携帯電話や電子メールで業者とやりとりをしている横で、
爺さんたちは規格にあわない不細工な野菜を車に載せて売りに歩く。
私には、どこかその姿がかっこ悪く見えていた。
まぁ年寄りのやる事だ、好きにさせておこう。
そう思っていた。

きっかけはなんでもない。
ただ時間があったから。
携帯電話をアパートに置き忘れて、追加注文の電話が受けられなかったから。
忙中暇ありだったから。
爺さんたちの移動直売の現場を見てみようとなんとなく思い、ついて行った。
荷台には、虫食いと霰の被害を受けたキャベツに数キロ単位で袋詰されたねぎ、ごんぼ、にんじん、
そして手掘りで大切に掘りあげられたきりいもで一杯だった。
爺さんも婆さんも往年の農作業のため、前屈運動をしているかのように腰が曲がっている。
そのため軽トラックを前から見ると、フロントガラスには爺さんと婆さんの顔しか見えない。
ハンドルが爺さんの視界を邪魔しているくらいなのだ。
法定速度をやや下回るスピードと少し遅いブレーキポイント。
何もかもが古臭かった。

penjual sayur


販売場所は、決まっている。
昔から馴染みの団地を数箇所まわる。
その1ヶ所のある場所では、団地の中にある酒屋で車をその駐車場にとめて売った。
酒屋もどこか古びている。
こんなところで売れるのだろうか?
はたして酒屋のお婆ちゃんが近所のお婆ちゃんに連絡をすると、
ぼちぼちと集まって野菜を買いだした。
数キロ単位という私からしてみれば、誰が買うのだろうと疑問を持つような野菜の袋詰が、
何袋も飛ぶように売れる。
見てくれの悪い野菜も売れる。
霰の被害にあった穴だらけのキャベツも売れる。
『今年はぁ、霰が早かったでのぅ。しょうがない。』
うちの婆さんが何も言わなくても、理解して買う客。
『田谷さんとこの、ごんぼはうまいんや。』
客が客に講釈をたれる。
『娘さんとこにも送るんやろ?多めに入れといたざ』
客ごとの好みと量を把握して販売する私の祖母。
驚きだった。
ショックだった。
そして販売は続く。
次は団地の中の何の変哲も無い家。
和犬がいた。
庭にパンジーが植わっていた。
その家の駐車場に車を勝手に止めると、婆さんはその周りの家1軒1軒まわって歩いた。
『野菜いらんかのぉ?野菜切れてえんかのぉ?』と。
客はぞくぞく集まった。集まった客からどっと笑いが起こる。
爺さんがなにか面白い事を言ったらしい。
霰にやられて白い傷が無数についたねぎも
『うちで植えてたねぎはあかんかったわ。さすがプロやの』と言われて買われていった。
スーパーには霰の降らない産地からの姿の良いねぎが山のようにあるのに。

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その後、何箇所も爺さん達はまわった。
野菜はその後完売したらしい。
ただ私はついていかなかった。
2箇所見ただけだったが、充分だった。
充分に感動し、そして充分に宿題をもらった。
自分の農業ってなんだろう。
新しく導入した野菜はヒットした。
売り方も工夫した。
ネットも少々だが活用した。
でも私は爺さんたちのような取引をしていただろうか?
値引きとどんぶり勘定の爺さんたちの商売は、儲けの点でいうとはるかに私の商売にはおよばない。
しかし、昔から変わっていない、少々古臭いと思っていた爺さんたちの商売には、
お金ではないものが取引されていた。
『信頼』。 
私ももちろん業者やレストランのシェフ等から信頼されて販売をしている。
そうじゃないとやってはいけない。
だがもっと違うレベルの信頼を、爺さん達とお客さんはやり取りしていた。



旧年、農業界は騒がしかった。
BSE、違反農薬、残留農薬等々数えたらきりが無い。
そんな中でも、ショックだったのが販売許可されていない農薬が数多く出回っていたことだった。
こうして消費者は、販売されているものに対して懐疑的になっていったような気がする。
新聞やテレビのトークでは、顔の見える販売や履歴の公開などが、
まるでそれらの問題を解決するかのように語られていた。
野菜の袋に履歴を印刷する。
インターネットで履歴を公開する。
この情報過多の時代に、人はまだ情報で現状をおぎなおうとするのか?
そこに信頼は生まれるのだろうか?
私にはわからない。
ただ、爺さんたちの商売はそれを乗り越えていたように思う。
そして、私は乗り越えられていない。
野菜にどんな履歴を載せようとも、たとえ栽培者の履歴書をつけたとしてもだ。
作り主の人柄はわからない。
どんな農薬で、どんな栽培方法で、どんな状態の土で、どんな肥料を使ったなどと記載されても、
作り主を含めた野菜の持つ全体像は見えてこない。
じゃぁ、どうやってスーパーの売り場で、安全な野菜を買えって言うんだ!
生産者がみんな街頭に立って販売するのか!
そんなの無理だ!と思われるかもしれない。
そう無理。

ではインターネットは?
これは最近分かってきた事。
ちょっと前からネット販売をままごと程度にしている。
しかし、これがどうもいまいちぱっとしない。
販売量が少ないからというわけではない。
ぱっとしないのは、私にとって向こうの顔が見えないことなのだ。
ネットは確かに農地を身近に感じさせてくれるだろう。
生産者の顔も見られる。
栽培履歴も手にとるようだ。
でも肝心な事に、画面の向こう側にいるだろう私のお客さんは、私からは見えない。
私はよく友人に野菜を送る。送る時は、いつもわくわくする。
その友人の顔を思い浮かべながら、あいつだったらこう食べてくれるだろう、や、
彼はこの野菜がすきだったなぁ、などと考えながら送る。
ネットで注文してくれる友人等には、ついついおまけの方が多くなったりもしてしまう。
でも実に楽しい。
つまりはそういうこと。
爺さん達の取引とはそういうこと。
人と人とがいて、その間で信頼をやりとりしているだけ。
野菜はただその信頼がものに変わっているだけ。
単純なことで、基本的なこと。私は爺さん達の商売を見て、
同じ農業者として消費者とそういう信頼をやりとりできている事が、羨ましかったという事。

新野菜、新感覚、ニュータイプ。
現状の販売の欠点を圧倒的に多い情報で補おうとするが、補えない。
既存の流通を抜け出さず、小手先だけの対応をしているからだろうか?
これの一体どこが新感覚?
やればやるほど見えなくなる消費者を遠めに見ながら、今日も不完全な取引の電話が鳴る。



あれ?アレジャンは? その2につづく
週末は、青年海外協力隊の時のエッセイをお引越し。
こういうことがあったのは、たしか2002年の秋だったと思う。




僕達の失敗


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暑さの残る9月上旬。
何気に行ったごんぼ畑に、奇妙なものが生えていた。
赤白の棒。もちろん雑草ではない。
なぜなら7月、8月の暑い時期、うちの婆さんと近所の婆さん達が、
3回にわたって、一所懸命除草したから。
と言うよりも、こんな雑草はあるわけない。
それは、自然物とは思えない鮮やかな赤白の棒だった。


その数日後である。
村の区長さんがわざわざ自転車に乗って、仕事場まで来てくれた。
『田谷さん、明日の火曜日空いてるやろか?午後の3時から国土交通省の役人さんが来るらしいんやけど』。
明日?3時?国土交通省?なんのこと?
『川のしも(下流のこと)で水門の工事があるらしいんやけど、うちの村の堤防から工事用の車両とダンプを出入りさせることになったって、昨日国土交通省から連絡があったんやわ。田谷さんちのごんぼ畑に赤白の棒立ってたやろ?あれ、測量の標やそうです』。
ますます混乱した。
そこであれこれ区長さんに質問をした。
どうやら、うちのごんぼ畑に、幅6メートルの工事用の道路が通るらしい。
下流にある、うちらとはあまり関わりの無い水門を修理するためだとか。
そして、どこからか工事用の車両を入れる必要があって、
うちの村の堤防から入れることになったらしい。
明日、午後3時から区長さんに対して、国土交通省から説明をすると連絡を入れてきた。
区長さんは、その場所に畑を持っていないし、農業もしていないので、
自分だけ説明を受けても話が分からない。
そこで、村の蔬菜組合長と、道路が通る予定になっている場所に畑を持っている農民も呼ぼうと、
自ら判断し各農民に声をかけていた所だった。
その場に居たうちの父は、ぶっきらぼうに
『明日は田んぼの稲刈りや。急に言われても都合がつかん』
とだけ言った。
そこで、明日は出席できないが、
説明の内容と役人が持ってきた資料のコピーを後日いただくと言うことで、お願いした。


この話は、うちのごんぼ畑の位置が、少々事態を難しくしている。
すこし説明しよう。
私のホームページで、ごんぼ畑を見ていただいている読者諸君には、
説明は入らないかもしれない。
うちのごんぼ畑は、川辺にある。
きめの細やかな砂地の土地が良いごんぼを作るための必須条件で、
そのため川辺の土地が適している。
昔から、この辺はごんぼを良く作っていた。
しかし、いつの頃からか川の氾濫を防ぐために、堤が作られた。
そして、川の管理を建設省(今の国土交通省)がするようになり、
それと同時に堤防から川までの間にある土地も建設省の管轄になった。
しかし、一部耕作地を定め、今までと同じように、川辺の畑で耕作は出来ていた。
ただ、農民は建設省との単年度契約で耕作権が与えられ、土地の所有者は国となった。
どこにでもある話。
お上には逆らえない。
そして、畑を見にも来ない役人は、
クーラーの効いた涼しい部屋で、お茶をすすりながら、定規で地図の上に線を引く。
水門工事用の道路のために、無造作に線を引く。
罪悪感は無い。
なぜなら、国有地だから。
そして、その線の下に、うちのごんぼ畑があった。


次の日。
区長さんが早速知らせに来てくれた。
しかし、手ぶらだった。役人は配布資料を用意していなかった。
1枚の地図を見せ、すでに引いてある線を指し、
『ここに幅6メートルの道路が通ります。工事は来月10月からです』と説明しただけだったそうだ。
蔬菜組合長や他の農民は『しょうがないかなぁ』と言っていたそうだ。
それでも区長さんはがんばって、
『今日来ていない農家の方も居ます。それに今日は私だけに説明と言うことでしたので、次は農家の方を含めた会議を開いてください』
とお願いしたらしい。
しかし、役人は非積極的なポーズで決まりゼリフを吐いた、
『考えておきます』と。
区長さんは、私に『10月になれば、説明会があるかもしれないから・・・』と
か細い声で力なく教えてくれた。


 私達は全くの弱者だった。
単年度契約で、国土交通省から耕作権を与えられた農民だった。
実際には、その土地は長い時間をかけて、有機肥料や資材を投入し、
うちが作り上げてきた農地なのだ。
そこに工事用の道路ができる?
ごんぼがだめになるだけでなく、土地もだめになる。
道路をひくという事は、砂利を入れるということ。
長年かかって育てられてきた土地が死ぬ瞬間だった。


それから数日後。
区長さんが自転車にのって、うれしそうにやってきた。
この時点で、私は工事が始まれば、座り込みをしててでもごんぼとその土地を守るつもりだった。
そのせいか、自然と口調がきつくなり、顔はこわばっていた。
なんのようでしょう、と私。
区長さんはそんな私を気にもせず、
『計画が変更になったそうです』と言った。
なんでも昨晩、国土交通省から電話が入り、
『下流のほうから資材を入れることになりました。そちらの村は通らなくないましたので、通知します』
と言ったそうだ。
どうして変更になったのか、区長さんに聞いたが、
区長さんも『何の説明もなかった。私も狐につままれた感じや』と言った。
こうして、さらに数日後。
暑さも感じられなくなってきたお彼岸前。
ごんぼ畑に立ってた赤白の棒は、跡形も無く消えていた。
夏の暑さが見せた幻だったかのように。


赤白の棒が消えたごんぼ畑を前に、今回のことを思い返していた。
心の奥に引っかかっている記憶。
どこかで味わったことがある、そんな感覚。
デジャブ?いや、確かにそれは過去に犯した過ちだった。
話は、また南の島に飛ぶ。


それは私がまだ、『僕』という言葉が一番似合っていた頃の話。
当時の仲間なら、これから書くことは知っているし、同じ過ちを犯した経験があるかもしれない。
しかし、主に私の記憶の中では、私が一番この間違いに気が付いていなかったかもしれない。
なんせ、今ごろになって、ごんぼ畑の前でその過ちを身に染みて知ったからである。


僕が、アレジャンに住んでいた時。
幾つかの作物を普及させる活動をした。
市場価値が高く、直接農民の儲けにつながるはずの作物だった。
そしてその計画を僕は安易に村に運んだ。
まず村の長に説明を付け、理解を得てから村人を呼んでもらって、村人に説明をした。
しかし、村人の集まりが悪く、事業はなかなかうまくいかなかった。
努力嫌いで答えを他人に求める事に慣れていた僕は、
『来ない村人はMalas(なまけもの)だ』と断定し、
だからいつまで経っても貧しいままなんだと、
貧しいということ自体が罪悪であるかのように吹いてまわった事があった。
もちろん、今私は、全くそう思ってはいないし、
当時の僕も大病を犯してから、考えをあらためるようになった。
彼等は間違っていない。
ただ僕のアプローチが間違っていたのだ、と。


 しかし、それは事業者側の反省だった。
やられた側の気持ちは、どこまで行っても推し量るだけで、推測の行きを出ない。
ただ、今回幸運(?)にも私は、やられた側、弱者、
そして『僕』からなまけものと断定された立場だった。
会議には仕事で行けなかった。
もし、10月に事業が実行されていたら、
私はどこで自分の考えを述べることが出来ただろうか?
座り込むしか手が無かっただろう。


私が持っていた現実は、『僕』には理解できないものだっただろう。
近年農機具は高価だ。
トラクターはベンツくらいの値段がし、田植え機はホンダのフィットが2台は買える値段だ。
コンバインも相当高い。
そのため、コンバインと田植え機は、うちでは近所の農民と共同購入している。
1台のものをみんなで順番に使う。
でも田植え時期、収穫時期は同じだ。
1日の遅れが後々の仕事にひびいて来る。
皆早く使いたい。
説明会があったのは、そんな火曜日の午後だった。
誰が私の現実を理解してくれるだろうか?
『僕』が決めつけた怠け者には、こんな現実があったかもしれない。


そして、国の計画はいつも雨のように上から降ってくる。
今回はしばらく雨宿りをしたら、通り過ぎていったが、また雨は降る。
私たちの知らないところで、『僕』達は計画し実行しようとしている。
こうして『僕』達は、私たちから信頼を失い、
私たちは『僕』達に何かを言うよりも、お金をもらってしばらく耐えることに慣れていく。



赤白の棒が消え、季節はだんだんと秋めいてきた。
11月上旬には収穫ができそうだ。
今年は夏が暑く、雨も少なかったので、ごんぼが十分に熟しきれないかもしれない。
収穫は、少々早まりそうだ。
虫の音が耳に心地良いごんぼ畑で、そんな事を考えていた。
青年海外協力隊のエッセイのお引越し。
この出来事があったのが、2003年。
あれから時が流れて、あの時の関係で今
僕の農園にそのインドネシアの高校から
圃場の技術指導の先生が1人、農業研修生として来ている。




素やきそば



『あいつら、なーんもくわんかった(あの人たちは、何も食べなかった)』そう言って酒をぐいっと飲む。
『ほんで、あいつら目の前でカップラーメン食べたんや。ほんと食べたのは具の入ってないやきそばだけやった。素やきそばや。』
遠くを見つめ、おじさんは語っていた。

これは、この前のお盆の一幕。
毎年恒例になっている一族郎党が会しての宴会の席だった。
私の母の妹のだんなという、ワードの変換で『の』が多すぎますと注意されるくらいの関係の人も来る。
その人が、先日インドネシアの高校生を数日預かった時の話だった。
その高校生達は、真心込めて作った家庭料理を殆ど食べなかったらしい。
それどころか、インドネシアから持ってきた『Pop Mie』というインスタントラーメンを
目の前で食べたという。
こっちが一所懸命もてなしているというのに・・・。
読者諸君には、もう少し遡って説明したほうが良さそうだ。



私はインドネシア語が出来る。
まぁ1年以上も使っていないので、やや怪しくはあるが。
そういうことで、先日通訳という仕事をした。
通訳と言うほど仰々しい仕事ではなかったが、
インドネシア語と日本語を互いに使い分けて、
インドネシア人と日本人の間に入ってお互いのコミュニケーションを手助けする仕事をした。

福井には、福井農林高校という立派な学校がある。
どこでどうなったのか、詳しくは知らないのだが、
インドネシアのバンドゥンという街にあるタンジュンサリ農業高校と独自に友好関係を築いている。
何年か前には友好協定を結び、互いに行き来する仲になっていた。
そして今回。
全国高校総合文化祭という大会に、福井県はタンジュンサリ農業高校を招聘したのだった。
聞きなれない単語が続き、よく事情が解らなかったと思われるが、
私もこれ以上の理解をしていないので、書きようが無い。
あらかじめ謝っておく。
全国高校総合文化祭なるものは、今年で26回目だという。
今年は横浜で開催された。全国からたくさんの高校が参加する。
文化系のクラブの大会という事なのだが、今回この仕事(通訳)をするまでは、
聞いたことが無かった。
26回と言うからには、私が高校生の時もどこかでやっていたという事か。
それは良いとして、とにかくその文化祭に、
福井県は福井農林高校と友好関係を結んだタンジュンサリ高校を招待したのだった。
横浜での総合文化祭に、タンジュンサリ高校がインドネシアの伝統芸能を披露するためだった。
そして、その通訳として、私に白羽の矢が立った。

説明が長くなったが、本題に入ろう。
タンジュンサリ高校の一行は、インドネシアから着いた後、
直接横浜には行かず、数日福井に居た。
農林高校見学や福井の文化施設を見学したりした。
その間、タンジュンサリの生徒は2~3人に分かれて、
福井農林高校の生徒の家にホームステイをした。
私の母の妹のだんなの家もその1つだった。
預かったのは2人。
女の子だった。
福井農林高校では、ホームステイのホストファミリーに対し、
事前研修を設け、文化の違いや食の違いを説明したという。
宗教の違いにより、豚は不浄(きたない)な生き物と考えられ、一切食べないと説明もあった。
そこで、当日は豚を使わない料理を考え、出来るだけおもてなしをしたという。
『そんなのに、あいつらなーんもくわんかった』
酒をぐいっと飲む。
『何にも、食わんかった。ほんと食べたのは具の入ってないやきそばと目玉焼き、白いご飯やった』
そしてまた酒をぐいっと飲む。
『それどころか、食事の後、インドネシアから持ってきたカップラーメンを目の前で食った。俺はなさけのうなった(情けなくなった)。人の気持ちがわからんのかと思った』。
私は通訳をしていた立場上、そのときの女の子2人からも話は聞いていた。
要するに日本食は塩っ辛いという事とどこかに豚が入っているかもしれないという恐怖心だった。
それを説明してもおじちゃんは納得しなかった。
『そうだったとしても、目の前でカップラーメンを食べる事はないやろう。もてなしているほうの気持ちを考えたら、普通はしない』。
そう。
普通はしない。
もう少し付け加えるのなら、普通の『日本人は』しない。
でも、相手はインドネシア人である。
もてなしたほうの気持ちというのは、もてなすほうの勝手な気持ちだ。
それも文化や言葉が全く違う相手である。
日本人のもてなしの気持ち、(ここではどこに豚肉が入っているか解らない塩っ辛い食べ物、に対し)、どうやって誠意を見せろというのだろう。

私が協力隊の時、このような類の話は、はいて捨てるほど聞いたし、経験もした。
これは日本人が陥りやすいロジックなのだ。
ある機械系の隊員は『こっちがどんなに一所懸命助言しても、聞き入れてくれない』と言い、
ある医療系の隊員は『衛生管理に不備があったから、その改善のために仕事の時間外に講座を開いたけど、誰も来なかった。みんなやる気あるのかしら』と言った。
私の場合はこうである。アレジャンに住み着いて間もなくの頃。
ある農民の畑が雑草でひどい状況だったので、草むしりを手伝ってやると、
いつの間にか畑の持ち主は居なくなってしまい、私だけが草むしりを続けていた。
その後その農民の家に行くと、お茶を飲みながらドミノというカードゲームに夢中になっていた。
私は怒って『なんで1人で帰るんだ!』というと、彼はケロリとした顔で
『だって、仕事が終ったから』といった。
勝手に手伝い、勝手に一所懸命になり、勝手な思惑で感謝されたかった、そういうことだった。
農民はごく普通に、勝手に一所懸命になっている外人はそっとしておいて、
仕事も終った事だし家に帰ろうと思っただけだった。
こっちが勝手にこうした方が良いと考えたり、こうしたら感謝されるだろうと考えたり。
そういう考え方は自己満足以外の何物でもない。
そして、その通りの反応に出会わない時、可愛さ余って憎さ100倍って事にもなる。
相手は、文化や言葉、歴史、生活、何もかもが違う人々なのだ。
自分の今までの経験や培った考えでは、相手の気持ちがわかるはずが無い。
そう、解らない。
解らないという事が解る。
これがスタートライン。
そこから、進む人もいれば、解らないとあきらめる人もいる。
でも、国際交流だの国際理解だの、聞いていてさっぱりわからない言葉が今、
日本には溢れている。
勝手な思い込みや、きらめくような言葉として使われている国際理解・そして国際交流、国際協力は、
何の理解も無く、無秩序に使われている。
そんなものより、おじちゃんが言った『素やきそば』は、
確実にインドネシア理解のスタートに立ったものだった。
『(インドネシアの女の子二人が、カップラーメンを目の前で食べ始めて)俺は、なさけのうなった(情けなくなった)』。
来年タンジュンサリ農業高校から福井農林高校へ、2人長期の留学にやってくる。
素やきそばからのスタートライン、まだまだこれからである。
おじちゃん、期待していますよ。
週末は、青年海外協力隊のエッセイのお引越し。
家の鶏は結局1羽も絞めていない。
父のペットとなってしまっているからだ。
代わりに、野生の雉を、今虎視眈々と狙っている。



コケッコッコー!


ayam 1



先日、鶏を飼い始めた。
まったくの道楽でだ。
自分の家族だけが、その卵を楽しむためだけに、鶏を飼い始めた。
昨年新しく建てたハウス施設のそばに、猫の額ほどの土地が余ったので、
そこに鶏小屋を作ってみたのである。
鶏は、雄が1羽に雌が14羽。計15羽だ。
鶏を分けていただいた近所の農家は、
『この鶏はどこにでもいる鶏と違って、特別な系統だよ』と
自慢げにいろいろと説明してくれたのだが、愛らしい鶏を目にしていると、
そんなうんちくなんてどうでも良く、殆ど覚えていない。
ふさふさとした羽、丸々太っている体、美味そう・・・じゃなくて、可愛らしい。
早速持ち帰り、鶏小屋に放してやった。
鶏小屋と言っても、小さなパイプハウスで、
暑さよけのために寒冷紗と言う黒の日よけが掛けられている程度だ。
中は土むきだしで、何もない。手入れもしていなかったから、雑草が伸びたい放題だった。
それでも、鶏はそれほど居心地が悪い風でもなく、
仕切りと雑草についている虫をついばんだり、土の中の虫をかき出したりして、
楽しんでいるように見えた。
読者諸君は鶏を間直で見た事があるだろうか?
鶏は、バックステップをしながら、その強力な爪で地面をえぐり、
虫をかき出しては食べるのである。
そのおかげで、小屋の中に繁茂していた雑草は、
いとも簡単になぎ倒され、きれいに地面が見えるようになった。
鶏の除草能力はたいしたものだ。
愛らしい私の鶏たち。
虫をついばんでも、羽ばたいても、水を飲んだり喧嘩したり、
とにかく動いているその仕草が可愛らしかった。
しかし、まったくの不意だったのだが、愛らしいはずの鶏のバックステップを見ていると、
なぜだか記憶の奥底から、怒りの感情が湧いてくるのを覚えた。
なぜだろう?
それと同時に、前日祖父祖母と鶏の話題で盛り上がった事も思い出された。
早くも鶏糞の臭いが漂い始めた鶏小屋の中で、
私は鶏15羽と共にくだらない記憶を紐解き始めていた。

rumah ayam
      
            鶏小屋


鶏を飼い始める前日、祖父祖母と鶏の話題になった。
まだ爺さんや婆さんが若かった頃は、実家でも鶏を飼っていたそうだ。
今から50年近くも昔の話だ。
今のようにハウス施設(温室)がなかったため、
冬場の収入が無く、大変だったと語る。
しかし、そんな時家計を支えてくれたのが鶏だったとか。
生みたての卵を実家の集落から10㎞以上も離れた町まで徒歩で持って行き、
一軒一軒『卵は切れてえんかの?』と訪ねて売り歩いたそうだ。
この話を聞いたとき、私は農村が如何に惨めで貧困だったかを想像した。
そしてそれを爺さん婆さんに言うと、彼らは遠くを見るような目で、
『その反対。今よりもずっと裕福やったかもしれんのやざ』とにっこりと笑った。
婆さんの話では、1日卵を売り歩くと2000円ほどの収入になったと言う。
当時の2000円は今のお金に直すと2万円以上はしたと言う。
これを多く見るか少なく見るかは、読者諸君のそれぞれの生活レベルにもよるが、
私にはかなりの高額に感じられた。
婆さんの話では、卵の価値自体は今も昔も変わっていないと言う。
中間の業者がいない分、農家が儲かった時代だった。
さらに、冬場は別として、野菜のとれる季節にでもなれば、
卵と野菜を同時に売って歩いていたらしい。
その話になると、爺さんは目を薄め
『1等(一番)多いときん(時)は、3万以上は売ったわ』と少し興奮したように話してくれた。
3万?今のお金で20万以上にはなるとのこと。
ちょっと待って、今うちの農園で朝から晩まで収穫に収穫を重ねても
15万以上売り上げれば良いほうである。
しかもパートを2人も使ってだ。
爺さんの頃は、担げるくらいの野菜と卵の量で、
20万以上も売り上げていたとか。
それから50年。
野菜の単価は安くなり、
市場経済が隅々まで支配し、
中間でマージンを取る業者が増え、
農家が減少した。
『昔は、今よりずっとゆっくりやった』とつぶやいた祖父の言葉が印象的だった。





コケッ!
雄が雌たちに認められていないのか、
あちこちで雄と雌が小さないざこざを起こしている。
せっかくしみじみとしてたのに、鶏達に引き戻された。
そう、もう1つの記憶を紐解かねばならない。
それは、50年前の日本の農村が持っていたように、のんびりとした時間が全体を包み、
鶏が平飼いされている場所。
我らがアレジャン集落での出来事だった。





アレジャンに住み着いて1年が過ぎた頃だったか?
新しい作物を試すべく、村人の協力で、村の中に試験圃場を作った時の事だった。
いつもは何かにつけて、やる気の無い村人だったが、
大親友のサッカの呼びかけもあり、集落の中心に近い場所に、
試験圃場を借りる事が出来た。
このときは、比較的村人も積極的に試験圃場整備に参加してくれて、
新種の野菜の種まきにもかなりの人が集まってくれていた。
急にみんながやる気を出したので、驚くやら喜ぶやらで大変な1日だった。
が、なんてことはない。
後で気がついた事だが、日本から持ってきた新種の野菜の種や、
町で仕入れてきた新しい野菜の種が、すっかり無くなっていたのだった。
野菜の種目当てで村人が集まってきて、手伝う振りをしつつ、
間を見ては種を持ち帰ったようだった。


その後、それについては特に不問にしていたが、
おかげで村人の試験圃場に対する興味は大きかった。
なぜなら、種をこっそりと持ち帰ったのは良いが、
作付けの仕方が解らなかったのだろう。
その都度試験圃場を見て参考にしている風だった。
こっちも特に知らない風を装っていた。
播いたのはトマト・モロヘイヤ・つるむらさき・空芯菜・アカワケギなどなど、
日本特有のものからインドネシアでもポピュラーな野菜だった。
栽培は順調だった。
特にアカワケギの成長が良く、村人にも好評だった。
そんなある日、いつものように試験圃場に向かう私。
さて、今日はどれくらい大きくなったかな?トマトも芽かきしてやらないとなぁ。
モロヘイヤは窒素が足らないようだから追肥が要るかもなぁ、と様々なことを考えながら、向かう私。
そして圃場についた私は、息を飲んだ。
そこで見た光景は、無残にもなぎ倒されている野菜たちと、
我がもの顔で虫をついばむ鶏達だった。
強力な爪でバックステップをしながら、野菜をなぎ倒し、
掘り起こした根元についている幾ばくもいない虫を、
コケッコケッ言いながらついばんでいるのである。
茫然とする私に、通りかかった村人は、
『村の中に鶏がいるのは、当たり前。だから、おれは(試験圃場は)やめておけって言ったんだ』と
聞いた事も無いことを言って立ち去っていった。
当然、鶏に占拠された試験圃場は失敗した。
それと同時に、村人の新種野菜に対する興味も徐々に無くなっていった。
そしてその時私は、今週にでも市場で鶏を買ってきて、しめて食べようと決心していた。





そして今。
私の目の前に、我がもの顔でバックステップをしながら虫をついばんでいる鶏がいる。
彼女たちになんら罪は無いのだろうが、そのバックステップがかなり気に入らない。
卵を産む前に、しめてしまうかもしれない。
それは明日の私だけが知っている。
前編のつづき。




残留農薬


農薬の勉強会を開きたい、そうラエチュに切り出した。
ラエチュは賛成とも反対とも答えなかったが、人を集めることには同意してくれた。
金曜日イスラムのお祈りの後、行うことにした。
しかし、当日いくら待っても人が集まらない。
しかも当人であるラエチュも、お祈りのために村のモスクに行ったきり、帰ってこない。
大親友のサカルディンさえ、来てはくれなかった。
こうして、勉強会は流れた。


その晩、ラエチュが何も無かったように帰ってきた。
なぜ誰も来ないんだ、と責めたてる私に、
彼は『みんなにはお祈りの後に話したさ。でも、誰も興味なさそうに帰っていった。わしもそんなことには、あまり興味は無い』とだけ言った。
私が勝手に企画した農薬の勉強会は、行われる事無く消滅した。


そんなことがあってから、2年が過ぎた。
農薬の使い方や知識については、日々の農業指導の中で伝えてはいたが、
焼け石に水のようなものだった。
相変わらず、落花生に除草剤をまく農民や魚やえびを殺虫剤で捕る若者は減らなかった。
農薬の勉強会については、その都度その都度、開こうかと村人に相談するのだが、
皆『Terserah!(テルセラ、意味:やりたいのなら、勝手にどうそ)』と言うばかりだった。


私の任期が3年目に入った時のこと。
色々な経緯があって、何人かの農民と一緒に農作物の直販を試みる事になった。
市場や商人を通さないで、村から直接町の住民に野菜を売るという企画である。
これに町の女性たちで作るある団体が参加したくれた。
どういう野菜が欲しいのか、町の女性たちのニーズを探ると称して、
農民と町の女性とが会して話し合いを行った時のことである。
そのときの女性中学校教員の一言が、その後の始まりだった。
彼女は、農民に対して『安全な野菜が食べたい』と言った。
農民は、何言ってんだ?という顔つきでその意見を聞いていたが、
何度かこのような会合を開くうちに、農民の農薬に対する意識が高まり始めていた。


そして、ある日。
大量の除草剤を落花生にまいたことのあるムハマッドは、
『田谷、農薬の勉強会を開こう』と言ってきた。
あれほど、こっちから開こう開こうと言っても乗り気でなかった農民たちだったのだが、
今度は彼らから開こうと言い出していた。
まぁ、人とはそういうものなのだろう。


私が帰国するまでに、何度か農薬の勉強会を開いた。
農民の農薬に対する理解度を聞かれるとつらいが、
それでもダマールなどは、近くの川で農薬を使って魚を捕る事に反対し、
集落の人に伝えてまわっていた。
これはこれで『以前と変わった』と言えるだろう。


何年か前に、日本でJAS法という法律が制定された。
有機野菜や無農薬野菜等々の表示についても定められている。
私の農園では、季節によっては全く無農薬で栽培している。
ハウス施設内ではすべて有機肥料を使い、一切化学肥料を使わない。
それでも有機野菜という表示は出来ない。
まる3年以上無農薬で有機肥料だけを使用した圃場で無いからである。
農民にとっては、実に厳しい法律だ。
無農薬と言うのは、よほど手間がかかりコストが高くなるばかりか、リスクも大きいのだ。
それが最近、中国などの海外からJAS法にあった安い有機野菜が入ってくるとかこないとか。
コストのかからない労力もたくさんある中国だったら可能かも知れない。
いや、可能だ。


今から6年前だったか、
ある雑誌が主催していた中国ベトナム農業視察の旅に応募して参加したことがあった。
どちらの国でも有機農業というものを見せられた。
特に中国では、上海の近くの無錫という町で、有機野菜に取り組んでいる団体を視察した。
四川からの出稼ぎ者を使い、広大な土地で有機農業に取り組んでいると言う話だった。
緑色食品という認定を当時の中国政府が出していて、その認定をとった農場だと説明された。
鉄骨のハウスの中では、青菜が栽培されており、
豚糞を肥料に使い無農薬で栽培しているとの事だった。
当時私は大学生で、まだまだ右も左もわからない、ただ勢いのみで生きている若者だった。
そんな私には、中国のお役人の話はあまりにも画一的すぎて、退屈だった。
そこで、圃場説明の時にみんなと別行動で、勝手にあちこちの畑を見てまわっていた。
よくもまぁ、こんなに広い場所で有機農業をするもんだなぁ、と感心して見てまわっていたのだが、
ある臭いが鼻につきだした。
どこかで嗅いだことのある臭い。
ふむ、人糞だ。
だだっ広いキャベツ畑だったろうか、一面に人糞を肥料に使われていて、
結構な臭いだったのを記憶している。
人糞は金肥とも言われ、肥料としては成分も高く昔はよく使われていた。
そのこと自体に特に問題があったわけでもないが、
ただそこのキャベツの葉にコンドームが張り付いていたのがショックだった。
有機であれば何でもありなのか?
ここは人が食べる野菜を作っている畑だよね?
四川の出稼ぎ者は給料がもらえればそれで良い。
農場主は有機野菜の規定に沿っていればそれで良い。
そういうことなのか?


私のホームページでは、気が向いた時に野菜のプレゼントをしている。
なかなかの好評で、今度はいつやるんだとメールが届く事がある。
当選した人からは、こうやって食べました、とか、美味しかったです、等々の
感想を寄せてくれる人もいる。
実にやりがいがある。
これを書いていて、気がついたことがある。
普段市場などにだす野菜は、それほど気を使って収穫したり、選別したりしていない。
しかし、プレゼント企画で野菜を直接消費者に送る時は、
できるだけ農薬を使っていない圃場から収穫したり、
なかでも良いものを採るようにしたりしているということだ。
市場に出している作物がいい加減なわけではないが、
特に顔が見えている人には、こちらも『食を届けている』という意識もあり真剣になる。
ムハマッドやダマールもこういう気持ちだったのだろうか。


中国産ホウレンソウの残留農薬記事の横に、エリンギ需要半減の記事が載っていた。
中国産のエリンギからも残留農薬が見つかっていたらしい。
皆さんの食べているものはなんですか?
それは誰が作ったか知っていますか?
あなたが食を通してつながっているのは、近所のスーパーまで?
それとも野菜の規格だけ?


毎日食べるものだからこそ、余計に怖い、そう感じた。
週末は、以前書いたエッセイのお引越し。
これは2002年春に書いた文書。
今もこれを読むたびに、農薬についていろいろ考えてしまう。



残留農薬



今年もまた、ゴールデンウィークが過ぎ去って行った。
読者諸君は何をして過ごしただろうか?
農民である私には、この『ゴールデンウィーク』という言葉ほど縁の無いものは無い。
朝は4時半から夜は7時まで、つまりは日が昇る前から日が沈んだ後まで肉体労働をしていた。
前言撤回か?まさに、これぞゴールデンウィークなり。
農繁期とは、まぁそんなものだ。

そのゴールデンウィークの最中、ある新聞に目を引く記事が出ていた。
見出しは『残留農薬 やはり中国産』というものだった。
外食店が出しているホウレンソウメニューから国の安全基準を超す残留農薬が見つかった件で、
原材料はすべて中国産の冷凍ホウレンソウだった、という内容だった。
ショックはこれだけではない。
冷凍ホウレンソウは年間約6万トンが中国から輸入され、
全体の99%以上を同国産が占めている、と書かれてもいた。
99%。
冷凍ホウレンソウの殆どが中国産ということか。
99%と言うからには、コンビニの弁当や外食の時に出てくる味気ないホウレンソウもそうなのだろう。結構食べている気がする。
何気なく、毎日、どこかで食べている。



残留農薬。
今回は、農薬で思い出したことや、考えたことを勝手に書く。
あっている・まちがっているは一切考えない。
構成も考えない。
つらつらと書く。



中国の農薬事情はよく分からないが、インドネシアのことを少し書こう。
農薬という記事を読んで、自分の活動を思い出したからだ。

アレジャン集落でも、当然農薬は使われる。
落花生考で書いたように、落花生の播種の時に、豆に農薬をまぶしたりする。
また、よく使うのが除草剤。
熱帯の雑草は、バカに出来ない。
作付けの前には、必ず除草剤を撒く。
そうでもしておかないと、栽培途中で畑が雑草のジャングルになってしまうからだ。
ただ、使い方があっているのなら、それほど問題にはならない。
しかし、たいがいの場合、使い方が間違っている。
それが、途上国の田舎といってしまえば、そうなのだが・・。

インドネシアには、日本のように多くの農薬がある。
そして、安全基準のようなものもある。
しかし、それは中央だけの決まりごとで、
田舎に行けばそんな基準があることすらしらない親父たちばかりなのだ。
そもそも農薬がなんであるか知っている人の方が少ないかもしれない。
当然そういう場所には、農薬の種類も少ない。
そしてそれに相関関係があるのかないのかわからないが、
私の経験から言えば、そういう農薬が少ない場所には、必ず毒性の強い農薬ばかりがおいてある。
これは、農薬にまつわるこの地域の話。

アレジャン集落から20キロほど離れたところにチェンネという集落がある。
アレジャンに比べて比較的町に近い事もあって、
アレジャンのような神秘性をとっくの昔に捨ててしまった集落である。
そこに、ムハマッドという親父がいる。
先進的な農民で、地元の農業普及員もよく出入りしている。
県知事と一緒にとった写真を嬉しそうに見せてくれる、割と人の良い親父だ。
私もよく彼と仕事をした。
やる気があって、人よりも1歩も2歩も先を進みたがる親父だった。
ある日、いつのもように彼の家に仕事で行った時の事。
彼が家の軒先で、大量の除草剤を準備していた。
日本でも売られているランドアップという、草を根から枯らす強い除草剤である。
そんなに大量の除草剤をどうするんだ、と聞いたところ、
彼はにっこりと笑って、『落花生にかける』と言った。
落花生にかける?
落花生を枯らすために?
『いや違う。田谷は知らないんだな。落花生畑の雑草がひどくなってきたから、それを枯らすために除草剤をまくのさ』。
・・・でも、そうすると落花生も一緒に枯れると思うんだが?
『昨日よその県から来た農家に聞いたんだ。隣りの県では落花生が生えてから、除草剤をまくそうだ。落花生は枯れなくて、雑草だけ枯れると言っていた』。
それは間違っている。
確かに雑草は枯れると思うが、一緒に落花生も枯れる。
『まぁ、田谷は見てな』と自信満々な顔で、
青々と生えた落花生畑約30アール(約900坪)に除草剤を嬉しそうにまいていた。

この話の続きは、読者諸君が想像している通りの結果である。
900坪の畑は、落花生を植え付ける前の状態に戻った。
雑草は枯れた。
しかし、落花生も枯れた。
ムハマッドも枯れたようになっていた。

次はカレンゲという集落での話。
ここにダマールと言う親父がいた。
こちらも人の良い親父で、お昼頃に訪ねると必ず昼食をご馳走してくれた。
ここの奥さんが得意としていた川えびの料理が好物で、
わざわざ昼飯時を狙って訪ねて行ったりもした。
そんなある日、ダマールの弟が川でえびを取るというので、一緒に行く事にした。
うまくいけば、またえびの料理をご馳走になれるかもしれない、という下心を携えて。
さて、そのえび捕り。
道具は何を使うのだろう、と彼の準備を見ていた。
網だろうか?
電気で捕るやり方はタイでも見たことがあったので、それだろうか?
爆弾を使うほど川底は深くない。
さて、なんだろう?
しかし、彼が手にしていたのは、1本の農薬だった。
殺虫剤で、日本ではかなり以前に使用禁止になっている農薬だった。
彼は『これ、効くんだぜ。えびだけでなく魚まで捕れるんだ』と嬉しそうに笑っていた。
そう、皆さんの想像通り、彼はその農薬を上流から流し、
浮いてきた魚やえびを川沿いで拾い集めていた。
当然、その日からえび料理は食べないようにした。

 これらの話は、ごく一部。
まだまだこのような話は腐るほどある。
すべては、農薬に対する彼ら・彼女らの知識と意識の無さから来ている。
そこで、赴任してすぐに農薬の勉強会を開こうとした。
アレジャンの集落長ラエチュの家で。

つづく
以前書いたエッセイの引っ越し。
こういうことがあったから、協力隊から帰国後すぐには
研修生を受け入れる気になれなかった。

そして今年。
協力隊から戻って、8年になる今、
こういう批判もあって、そして周りの人も
そういう目で研修制度を見ているのは知っているのだが、
研修生受け入れを始めた。

批判を重ねるよりも、
とりあえず一歩踏み出そう。
とにかく走りながら考えよう。
そう思って、研修生受け入れをしている。
ここで書かれていることは、そのまま、今の僕を批判する文章。
僕はこれを忘れてはいけない。
研修生を安価な労働者として、扱ってはいけない。



1通の手紙

surat dari teman
研修生からの手紙


春になった。
これは前回も書いたか?
でも、春になった。
だから、農作業も忙しくなってきた。
家に帰れば、疲れのせいか寝る時間も自然と早くなる。
ホームページの更新もなかなか進んでいない。
アレジャンを更新するのは、実に久しぶりだ。
さて、言い訳終わり。

今回の話は3月上旬のこと。1通の手紙から始まる。

インドネシア人の知り合いから手紙が来た。
と言っても、残念ながら大親友のサッカからではない(第19話、第20話参照)。
ある事情で名前は伏せておきたいのだが、彼は福井に住んでいた。
正確にいえば、手紙をくれた当時はまだ日本に居たが、
今はきっとインドネシアに帰っているだろう。
彼が今、インドネシアで平穏な日々を過ごしていることを祈りたい。

さて、その彼だが、農業研修生という名で1年間福井の農家にホームステイしていた。
どこの機関がこの研修を行なっているかは、ここでは伏せたいが、
福井県では毎年10名ほど、農業研修生という名のインドネシア人を受け入れている。
彼は、その1人で、この3月、帰国を前にして福井県庁に表敬訪問に行く予定だった。
その表敬訪問で、彼ら彼女ら農業研修生は、日本語で挨拶をする予定でもあった。
彼は、その時の挨拶を私に日本語に訳して欲しいと、手紙を送って来たのだった。

普通、日本に1年も居ればそこそこ日本語はみにつく。
私の知っているインドネシア人は、1年半福井に居るが、
会話はもちろん漢字もすらすらと読める。
まぁ、漢字は出来なくてもしょうがないが、会話くらいであれば、
如何に難しいとされる日本語であってもそれなりに出来るだろう。
しかし、手紙をくれた彼は、まったく日本語が出来なかった。
彼の能力が劣っていたからではない。
もしそうだったら、彼はそれほど不幸な1年間は過ごさなかっただろう。
彼は農業に対して実に意欲的なインドネシア人だった。
それなのに日本語を習得できなかった。
なぜだ?彼は手紙の中でこう記していた。

『農業研修生は週に1日は最低でも休みをもらえるように、日本の受け入れ機関とインドネシア政府との間で取り決めがあった。それにもかかわらず、私は1日も休みをもらうことが無かった。朝は4時から働き、日が暮れるまで力仕事をする。仕事が終れば、疲れて寝るだけ。このような状況で、どうやって日本語の勉強が出来るのだろうか。』

彼ら彼女らは、研修所で研修していたわけではない。
各農家にホームステイして、日々の労働から日本の農業を学べ、と言うわけなのだ。
インドネシア語も英語も出来ない農家に入り、毎日農作業をする。
これは研修なのだろうか?

他の研修生からもいろいろな話を聞いている。
皆それぞれ、この研修の内容に疑問をもっていた。
当然だろう。
みんなではないが、『ただの労働力として扱われる』とこぼしていた者もいた。
ある者は、『家事までさせられる。労働が終って疲れて家に入れば、ステイ先の家族の食事まで用意しなくてはいけない。農業研修という話だったのに・・・』と言った。
またある者は、『日本で研修するって決まってから、村の連中からは、こんな事を勉強してきてくれ、とか、こんな事を身につけてきてくれ、と期待された。こんな機会はもう一生無いだろうから、しっかりと勉強する気で来たのだが、来て見たら毎日単純作業。そんな農作業なら自分たちの村で嫌というほどやってきている。もっと中身のあることを勉強したいと思っているけど、言葉が通じないし、勉強する時間や日本語の講座も無い。村の連中に何て言って良いのか・・・』と言っていた。
この話を聞いた時、私は言葉につまって、何もいえなかった。

日本に来て勉強が出来るというのは、
村人たちにとってどういうものなのか、すこし説明しよう。
今日、旅行シーズンでなければ、インドネシア‐日本間は安くて6万円程度で往復できる。
この価格は、我々にとっては何てこと無い価格だろう。
しかし、アレジャン集落の人間にとってすれば、1年間の収入にも匹敵する価格なのだ。
アレジャンはインドネシアでも貧しい農村になるが、
それでもごく一般的なインドネシア人から見ても、6万は非常に高い。
それだけ日本は遠い国なのだ。
その遠い日本で研修が出来るとなれば、
それは多くの村人がそうあるように、一生に一度あるかないかなのだ。
その日本での研修が、満足に行なわれていない。
何のために研修をしているのか?

妻の親戚が徳島にいる。
昨年のお盆に、親戚まわりも含めて徳島までドライブした。
耕作地が広がる肥沃な大地・阿波の国。
天候もよく、瀬戸内海を見ながらのドライブは快適だった。
道も良かった。
畑や水田の真ん中に立派な国道のバイパスが通っている。
まったくのドライブ日和だった。
そんな時、1枚の看板が目の中に飛び込んできた。
それは黄色の看板で、赤い字で大きくこう記されていた。
『外国のお嫁さん・外国の研修生、紹介いたします』と。
農村が点在する農耕地の真ん中で、その看板は我がもの顔で、恥ずかしげも無く立っていた。
農村の嫁不足はたしかに問題になっている。
外国からお嫁さんが来れば、それはそれで良いのかもしれない。
だが一方で、先日NHKでは、中国から来た嫁さんが、
農村を出て行ってしまって不法就労者となっている問題を放映していた。
悲しい問題である。
それはさておき、研修生?研修生って紹介されて来るものなのか?何かがおかしい。
NHKで放映していた中国から来た嫁さんの問題は、
農村でいち労働者として扱われる、
または親の世話のために呼ばれる事を事前に知らなかったことだった。
その外国のお嫁さんと並列されて書かれていた外国の研修生。
つまりは、いち労働者ということか。

福井には、農業研修生という名のインドネシア人が、毎年やってくる。
いろいろな思いを胸にやってくる。
そして、いろいろな思いをここで捨てて、国に帰る。
成果がある時もある!と言いたい人もいるだろう。
実際、農家とインドネシア人との草の根の交流はあるかもしれない。
しかし、研修なのだ。
成果があって当たり前。
研修になっていない場合があることが問題なのだ。
みんながどんな思いを持って、この国に来ているか、一度は考えたことがあるだろうか?
彼らからじっくりと話を聞いた事があるだろうか?
自分たちの都合で、労働者として扱ってはいないだろうか?
もし、これを読む事があれば、じっくりと考えて欲しい。
もちろん、反論もお待ちしている。

インドネシア人から届いた1通の手紙。
書き出しには、電話を使うと叩かれるので手紙にしました、と書いてあった。
アレジャン集落の人たちが、この研修の制度にのって日本に来ないように、と本気で思った。



書いていて『研修』の意味がわからなくなった。
岩波国語辞典第4版を引いてみた。
『研修(けんしゅう) 学術などをみがき修めること。
また、執務能力を高めるため特別に学習すること』だそうだ。
私もそうだと思う。
青年海外協力隊の経験を元に、書いたエッセイ。
元のホームページが閉じられてしまったので、
このブログにお引越し中・・・



春になって考えたこと

tumbu tukushi


春がきた。長い冬がすぎて、春がきた。
今まで雪に覆われていた田んぼや畑が顔を出す。
雪の下になっていて、ついこの前までじっと耐えていた野草も、ここぞとばかりに花をつける。
つくしも顔を出す。鳥のさえずりも多くなる。
ああ、春だなぁ。

先日、春の陽気に誘われて、田畑にトラクターをかけにいった。
青のイセキトラクター。
20a(20m×100m)ほどの畑を1時間もかからずに耕し終えた。
読者諸君には、なかなか解って貰えないかも知れないが、
トラクターで耕すというのは、実に心地が良い。
冬の間、雪の下になっていた田畑。
表土が固くなっていて、雑草が表面をびっしりと覆っている。
そこを有無も言わさず耕していく。雑草の根を切り、硬い表土を叩き割る。
トラクターの通った後には、ふかふかの土が顔を出す。
これがなんとも言えず快感なのだ。
いかにも大地を耕しているって気になる。
青空の下、春の陽気で、トラクター。
つらい農作業の中でも、一番すがすがしい時なのだ。

torakutar.jpg
     
     イセキの青のトラクター

近所の田畑も、トラクターがフル稼働していた。
この陽気だ、みんな考える事は同じなのだろう。
しかし、そんな光景を見ていて、ふと思い出したことがあった。
アレジャンである。

アレジャン集落でも、雨季の始まる前に、稲作の準備として田起こしをする。
しかし、トラクターは無い。
鍬で起こす。
お金持ちの家は、馬で起こす。
どちらにしても、私が快感だと感じている田起こしとは、程遠い。
それどころか、アレジャンの田起こしは、かなり苦痛なのだ。
とにかく土が固い。
石がごろごろしているので、普通の鍬では、土に食い込まず、跳ね返される。
ジャワ島(首都のある島)で売られていた備中鍬を一度買って、アレジャンで使ってみた事があった。
最初の一振りで、3つある刃のうちの1本が折れ、三振り目には備中鍬は完全に破壊された。
バルの町に売られている鍬でも、十振りに一度は刃が曲がってしまうので、
石か鉄鎚で叩いて元に戻さないといけない。
それほど固い。
だからアレジャンでは、一般に売られているものよりも半分くらいの刃の鍬を使う。
その刃も一般のものよりも2倍の厚みがある。
その鍬で、『土を耕す』というよりも、『石ごと叩き割る』といった表現がぴったりの耕し方をする。
赴任して直後、村人に囃し立てられて、田起こしをしたことがあったが、
1a(10m×10m)も耕さないうちに手のひらの皮が破れ、
血がにじんできてしまい、村人に笑われた事があった。
アレジャンの農業は偉大だ、そう感じた。

今、日本にいて、トラクターに乗り、スイスイと田畑を耕している。
すこし地盤が固いところでも、ギア比を変えて、
すこしエンジンをふかし気味にすれば、難なく耕せる。
石だってほとんど無い。高速で回転するトラクターのロータリーが、
小気味良く大地をふかふかにしていく。
なんて気持ちが良いんだろう。
そして、なんて不公平なのだろう。

私が隊員の時、アレジャンでトラクターを使用したときがあった。
トラクターは、協力隊のチームの機材として買ったもので、
今現在はバル県の行政に供与されている。そのトラクターは、乗用ではなかった。
ハンドトラクターと呼ばれるもので、人がトラクターに乗らずに、歩きながら使用するタイプだった。
ロータリーという幾つも刃が回転して土地を耕すタイプではなく、
大きな鉄製の鋤を引っ張って歩くという簡単なタイプだった。
ロータリー式もあったのだが、石の多いアレジャンの土地では、
ロータリー式だと石を巻き込むごとに、トラクターが跳ねたり、
刃が折れる危険があったので、鋤を引っ張るタイプを使用する事にした。

何度も言うが、アレジャンは棚田の地である。
そして、農道が無い。
田んぼの畝伝いに歩いて、皆それぞれの田んぼに行く。
つまり、トラクターが通れる道が無い。
平地でもないので、田んぼを横切って目的の田んぼに行くことも出来ない。
一番急な場所では、田んぼと田んぼの段差が3メートルもある。
トラクターをアレジャンに運んだものの、集落から目的の田んぼまで運ぶすべが無かった。
ハンドトラクターと言っても、相当な大きさで重さも500㎏以上あった。
ラエチュ(アレジャン集落長)が『使ってみたい』というから持ってきたのだが、
やはり無理だったのだ。
『トラクターを使うのは、止めよう』と私。
『いや、使う』と強情に言い張るラエチュ。
すると、ラエチュはおもむろに村人を集め始めた。
そして、集まってきた村人たちの手には、青竹があった。
500㎏以上もあるトラクターをエンジンと本体にばらし、
村人たちは器用に青竹を組んで御輿を作った。
驚いてものも言えない私をよそに、6人がかりで田んぼに運び、
そこでトラクターをりっぱに組み上げてしまった。
『どうだ?やればできるだろ?』と得意顔のラエチュと村人。
見事田んぼをトラクターで起こせたのだが、
1枚の田んぼが2~3a(20~30m×10m)もない棚田では、
1枚の田んぼを起こすごとにトラクターを分解し、御輿にのせて次の田んぼに移動し、
またそこで組み立てるという面倒な作業が必要だった。
しかし、血豆を作りながら、それでもうまく耕せなかった田んぼが、
トラクターでスイスイと耕せるのだ。
ボンボンと力強いトラクターのエンジンの響きは、村人の耳に心地よく響いていた。

torakutor dipakai
       
    アレジャンでトラクターを使用したとき


 torakutor dipakai 2       
珍しいのか、子供がわんさかと集まってきた




それから、何年かが過ぎた。
今年(2002年)の1月、私は帰国して1年が経った事もあり、
再びアレジャンを訪れた。
嬉しそうに出迎えてくれるラエチュ。
そのラエチュの家である『100の柱の家』に上がる(高床式で、家の下は物置になっている)。
いや、上がろうとした時、家の下に見慣れぬものがあった。
そう、トラクターだった。
とても個人では買える代物ではない。
どうしたんだ?と尋ねる私に、ラエチュはにっこり笑って、
『借金して買った。田谷が持ってきたやつとほとんど同じタイプだ』といった。
7000万ルピアもしたそうだ。
ペテペテという車なら2台は買える値段だった。
さらに詳しく話を聞くと、日本からの円借款で貸与されたトラクターが、バル県にも何台か入ってきて、それを分割払いにして買い取ったとの事。
『収穫が無い年は、返済は無いんだ。返済期間も10年だか20年だかと役人は言っていた。まぁ、返さなくても良いってことだろう』と、しゃあしゃあと話すラエチュ。
円借款で貸与されているわけだから、ラエチュがきちんと借金を返さないと、
困るのは日本だ。
私は、『自分の払った税金がこういうふうに海外で焦げ付いていくんだなぁ』と思うと、
なんだか可笑しくなって、そのトラクターを見て笑った。
ラエチュは、私が喜んでいると思ってか、彼も笑っていた。
彼の耳はまだ、以前私と一緒にかけたトラクターの音を忘れていないのかもしれない。
『この前の田起こしのときは、大活躍だった』
とラエチュは嬉しそうに目を細めて、その時の様子を話し始めた。


       
 torakutor allejjang

mesin torakutor
    
ラエチュが買った(もらった?)トラクター。
エンジン部分は盗まれる事があるので、はずして家の中に保管している。



まっ平らな大地をドコドコとトラクターをかける。
棚田でもない。
石も無い。
海外からの援助が無くても、何十年もローンを組まなくても、トラクターは買える。
真っ青な空の下、春の陽気とトラクターの振動で眠気を誘われつつ、
『やっぱり不公平だよなぁ』とぼんやりと考えた。
週末は、以前書いたエッセイをせっせとお引越し・・・



落花生考


menanang kacang
落花生を植える青年



先日ある友人からメールが来た。
『愛しのアレジャン面白いけど、田谷って本当に協力隊として活動してたの?』と書かれていた。
失敬なことを書く輩もいるものだ。
しかし、彼の言う事も解る。
なぜなら、この愛しのアレジャンだけを読んでいる限りでは、
私の活動らしい活動といえば、第7話の『冷蔵庫編』で
村人に正しい冷蔵庫の使い方を教える場面しかない。
これ以上あらぬ誤解を受けないためにも、今回はしっかりと協力隊活動について書く。
まずは、落花生についてだ。


私は、村人に農業指導をするために派遣されていた。
農業指導なら何でも良いのか?というとそうでもない。
バル県の農業局と協力するという建前があり、農業局の意向を無視した、
勝手な農業指導はあまり好ましくは無かった。
そのした中、私が派遣されてすぐに農業局から協力を依頼されたのが、落花生指導だった。
しかも、私の前任隊員も落花生指導に携わっていたため、私の意向がどうであれ、
落花生指導をする事になった。


アレジャン集落は、山村である。
無数の棚田が広がり、その斜面にへばりつくようにして、皆暮らしている。
雨季には、その棚田で稲作を盛んに行なうが、
乾季は雨量が極端に減るため、稲作はできない。
そこでアレジャンでは、乾季は落花生を栽培していた。
落花生(ピーナッツ)は乾燥に強い。
雨量の少なくなる乾季でも心配なく栽培できる。
しかも稲と豆の栽培の組み合わせは、とても良い。
専門的な言葉で説明することは避けたいので、
簡単に言うと、稲は土の中のある栄養(窒素)をたくさん吸収する。
そのため稲を栽培する前には、結構その栄養(窒素)を肥料として、畑にやらなければならない。
しかし、落花生を栽培すると、その土の中にその栄養(窒素)が増える特徴がある。
つまり、稲ばっかり育てていると、その土のある栄養(窒素)はどんどん無くなってゆき、
土地が痩せるのだが、落花生と交互に栽培すると土地は痩せ難くなる。
このメカニズムを詳しく知りたい方は、それぞれ専門書で調べて欲しい。
さて、アレジャンでは、稲作のあと落花生を植えるという理想的な栽培をしていたのだが、
問題があった。
彼らの育てている落花生の品種があまり良くない。
豆が小さく、収穫量も少ないのである。
そこで、私の前任隊員とバル県の農業局は、
もっと粒が大きくて収穫量も多い落花生の品種を普及する事にした。
前任隊員は数多くある落花生の品種から、その土地にあった品種を選定しその活動期間を終えた。私の仕事は、その品種を実際に普及させることだった。


普及重点地域となったのは、
やはり落花生栽培の盛んなアレジャンだった。
そうなるとアレジャン集落長のラエチュの理解が必要になってくる。
収穫量が多いとされる新しい品種を持ってきて、ラエチュに見せる。
『ほほう、粒が大きいなぁ』と第一声。
好印象だった。
これ播けば、収穫量もぐーんと増えるよ、と得意になって説明する私。
さっそく試験的に栽培するための畑をラエチュが準備してくれた。
アレジャンでは、落花生を植える時に、棒を使う。
棒を地面についてくぼみを作り、そこに種を入れて土をかける。
仕事の分担は、青年男性が棒で地面を突き、女性や子供が種をくぼみに入れていく。
アレジャンの土は固く、石が多いため、稲作以外ではほとんど耕さない。
私としては、しっかりと耕してから種まきをして欲しかったのだが、
『面倒だ(耕すことはあまりにも大変だ、の意味、だと思いたい)』とラエチュに言われたので、
この件は目をつぶった。
しかし、すぐに次の問題が出てきた。


アレジャンの近隣の集落では、落花生を播く時に、種に農薬をまぶす。
これは、ねずみや蟻に播いた種を食べられないようにするためのものだが、
アレジャンでは違っていた。
播く前日の話。明日はいよいよ種まきだね、とうきうきする私。
ラエチュも『あの種なら収穫が楽しみだ』と期待感を持っていた。
播く準備はできてる?と訪ねる私。『ばっちりだ』と笑顔で答えるラエチュ。
お互いのコミュニケーションにインドネシア語を使っているのだが、
お互いあまりインドネシア語に自信が無いため、何度も作業確認をしてきた。
この時もその確認をした。道具や種子の保存状態等々。
特に問題は無かったのだが、ひとつ、農薬が見当たらない。
お父さん、種にまぶすはずの農薬が無いのだけど、どこにやった?と私。
『ああ、あれなら丁度家の裏手にあるマンゴの木に虫がついたので、それに使っちまった』と悪びれる様子も無く答えるラエチュ。
えっ!?あれは明日落花生にまぶす予定だった・・・
あれがないと、播いた後に蟻やねずみに種を食べられちゃうよ!と声を荒げる。
しかし、ラエチュはいたって冷静で、
『田谷、種に農薬をまぶすのは良くない』と答える。
はっ!もしや、この親父は農薬の人体に及ぶ危険性を指摘しているのだろうか?
その予想は半ば当たっていたが、半ば違っていた。
ラエチュは続ける。
『種まきは女子供の仕事だ。そして、彼女らの楽しみでもある。子供たちは、種を播きながら、その種を食べるんだ。だから、種に農薬をまぶすと子供が死ぬ』。
・・・へ?なんで種まきしている女性や子供が、その種を食べながら播くんだ?
それじゃ減っちゃうじゃないか!
ラエチュはなおも続ける。
諭すように。
『田谷だって、小さい時経験があるだろう。美味しそうな種を播いていると、ついつい食べたくなって、食べてしまう事が』。
ない!絶対無い!それにその落花生の種は、美味しそうに炒ってあるわけでもない。
生なのだ。美味しいわけも無い。


こうして、種はみんなでおいしく食べられながら植えられ、
あまって播いた種は、ねずみと蟻とが仲良く分け合っていた。
共存を喜ぶにはあまりにも寂しい畑の状態を見て、ラエチュは
『種が美味しすぎるんだな』と本気なのか冗談なのか解らないセリフをはいていた。
それでも大部分は元気に育っていたが、
その後その畑は98年に来たラニーニャ(第15話)の影響で、水没した。
そして、私の1年目の活動が終った。





つづく
週末は、以前書いたエッセイのお引越し・・・




Let’s Study English!

pete pete
走り去るペテペテ


アレジャンには様々な人がすんでいる。
今回は、おつりの計算をよく間違えて損をする、
気の良いペテペテの運転手シャムスディンを紹介しよう
(ペテペテを知らない人は、第1話生活編を参照されたし)。

シャムスディンはアレジャン生まれ。
しかし小学校を出た頃から、親と一緒にマレーシアに渡った。
出稼ぎである。
インドネシアの義務教育は小学校と中学校の9年間。
しかし農村では小学校6年生が終れば、社会に出る子も少なくない。
シャムスディンは親についていったというよりも、
彼もまた出稼ぎの働き手としてマレーシアに渡ったのだった。
そして、そこで濃厚な青春の時間を過ごした。

アレジャンに戻ってきたのは、98年の乾季の終わり。
私が協力隊として1年が経つか経たないか、といった頃だった。
長年の重労働にもかかわらず、
彼はこの辺の人たちが持つ明るさといい加減さを十分に備えた好青年として育っていた。
そして濃厚な青春の時間は、彼に大金を与えていた。
彼は車を買った。薄青いスズキの車だった。
通称ペテペテ。
エンジンは1000ccで軽のワゴンよりも少し大きめの車である。
村と村を結ぶ重要なスラウェシの足なのだ。
もともとアレジャンには1台しかペテペテが無かったので、
シャムスディンのペテペテは皆に喜ばれた。
しかも、彼は計算が弱い。
おつりを多く渡す事があるのだ。
大抵の村人は多めにもらったおつりを返すのだが、
キバタ(第16話キバタ編参照)のような連中は返さない。
シャムスディンのペテペテは、いつも若者に繁盛していた。
そんな彼だが、1つ特技があった。
それは英語である。
マレーシアで外国の木材業者と話をする機会があって、彼は英語を身につけたと自慢していた。

そんなある朝。
私は出勤のためにペテペテに乗る。
集落長の家の前で、ペテペテの来るのを待っていると、
シャムスディンのペテペテが来た。
彼がペテペテを購入してから随分経つが、私はその時彼のペテペテに初めて乗った。
すると彼は、『ハウユ?・・・・ハウユ?』と訳のわからない言葉で、話しかけてきた。
ハウユ?
ブギス語でもなさそうだ。
かといってインドネシア語でもない。
わからないまま、きょとんとしている私に、彼は嬉しそうに言った。
『なんだ、田谷も英語わからないのか。他のやつらと同じだなぁ。よし、俺が教えてやるよ』、と。
へ?えいご?ハウユ?
ますます混乱する私をよそに、彼は説明し始めた。
『ハウユ?はご機嫌いかが?の意味さ。How you?って発音するんだ』と得意になる彼。
私の知っている英語では、確かHow are you?だったような気がするのだが・・・。
彼はつづけた。
『You Go?・・・・You Go? これも知らないのか?これはどこに行くのか?って訪ねる時に使うんだ』。あのう・・・Whereがないと何のことかさっぱり・・・。
『田谷は今からバルに行くんだろ。そんなときは、Go バル!って答えるんだ。いいか、もう一回行くぞ。You Go?』。
Go バル、とつられて答える私。
彼はその後も嬉しそうに彼の言うところの英語というやつを使って、しきりと話していた。
しかし、どれ1つとっても理解できるものは無かった。
おかげで私は英語ができないと村人の間で評判になってしまった。

その後、彼はペテペテの中で英語のレッスンを村人相手に続けたようで、
村の若いやつらが、私を見ると『ハウユ?』や『ユウゴ?』と
意味不明な言葉で話し掛けてくるようになっていた。
アレジャンでは、アレジャン語があり、挨拶は『ハウユ?』である。
諸君も機会があってアレジャンに行く時には、覚えていかれると良いかもしれない。
以前書いたエッセイを移動中・・・


アレジャン創世記


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『むかしむかし、この世の全ては海に覆われていた』。
アレジャン集落長であるラエチュは、お世辞にも上手いとは言えないインドネシア語で、語り始めた。
『アレジャンだけで無く、後ろにそびえる山々も、その頂上を少し水面から顔を出している以外は、全て海の中だった。もちろん平地の村々も海の下だった。果てしない海だけが続いている世界だった』。


今回帰国してから1年が経ち、私は再びアレジャンの地を訪れた。
村人の歓迎を受け、ひとしきり再会の感動を村人と共有できた。
やはり訪ねてよかった。
そう思ったその夜のことだった。
私は隊員の時と同様にラエチュの家に宿泊していた。
その夜も多くの村人が、ラエチュに家にあるテレビを見にやってきた。
ラエチュは大の映画好きで、特にインド映画がお気に入りだった。
インドネシアでは、よくインド映画がテレビで放映される。
役者たちが筋書きに関係なく、突然踊り狂うインド映画の良さを
未だに私は理解できないのだが、アレジャンのみんなはとても好きだった。
この夜もインド映画がテレビで放映されていた。


いつもなら、ラエチュは1等席でインド映画のダンスに見入っているのだが、
この夜は私が泊まっていることもあって、彼は私の向かいに座っていた。
日本の話、私が帰ってからの集落の話とひとしきり盛り上がった。
すると、ふとしたことからラエチュは語り始めた。
それはアレジャンの昔話だった。


『むかしむかし、この世の全ては海に覆われていた。アレジャンだけで無く、後ろにそびえる山々もその頂上を少し水面から顔を出している以外は、全て海の中だった。もちろん平地の村々も海の下だった。果てしない海だけが続いている世界だった。ある時、1艘の船が後ろの山の頂上に漂着した。後ろの山の頂上は海から出ていたからだ。その船が漂着すると、海の水は急に引き出し、今の大地が海から顔を出した。船に乗っていた人々はその大地に住み始めた。これが我々ブギス人のおこりなんだ。隣りの集落のメンロンには、その時の船が今でも残っている。(その船は)もう石になってしまっているが』。

海洋民族ブギスらしい逸話で、海から先祖たちはやってきたと考えている。
ノアの箱舟をほうふつさせる話だった。
しかし、ブギスのおこりがアレジャン近辺だったという話は、少々信じ難くもあるが・・・。
そこで、アレジャンのおこりについても聞いてみることにした。


『わし(ラエチュ)のおばあさんのお父さんのときの話だ』。
ラエチュは1930年生まれ。
今年で72歳になる。
時代を正確に知ろうと、おばあさんは幾つまで生きたのかを尋ねると、ラエチュはこう答えた。
『100か200かそれくらいは生きていた。ペランの父はもっと長生きだったと聞く』。
ラエチュ曰く、昔の人は平気で100以上生きていたとのこと。
旧約聖書の創世記に出てくる人たちも、やたらと寿命が長い。
旧約聖書とはあまりにも時代がかけ離れているが、
アレジャンの創世記に登場する人も皆長寿だったという。
ラエチュのおばあさんはペラン(Pelan)といった。
その父の名前は、ラエチュは記憶していない。
ペランの父は、まだペランが生まれる前、
アレジャンからバル県境の山岳を越えた向こうにあるボネ県に住んでいた。
住んでいた集落の名は、テラン・ケレ(Telang・Kere)。
そこで青年期のペランの父に不幸が起こった。
集落内の政戦に敗れたのである。
テランケレの集落長は、ペランの父が寝ている時に突然大人数でペランの父を襲ったのだった。
ペランの父は命からがら逃げ出せたが、行く当ては無かった。
またあわてて逃げ出したために、何の財産も持たず、ただ枕1つを持ち出しただけだった。
それからペランの父はその枕ひとつで、険しい山脈を越え、今の地にたどり着いた。
その頃はまだアレジャン集落は無く、アレジャン集落からさらに山奥に、
タワン・ルル(Tawan・Luru)という集落があり、
ペランの父が今のアレジャンの地に住み始めると同時に、
タワンルル集落から6家族が移動してきて、住み着いた。
それがアレジャン集落の始まりとされている。
現在100軒を越えるアレジャン集落も、その昔は7家族しか住んでいなかった。
そして、ペランの父を含めたそれら7家族が、アレジャン7名家となって現在につながっている。


7家族が住み始めた頃は、イラッコ(Ilakko)という人物が集落長を務めていた。
この人物が私の大親友であるサカルディンの血筋にあたる。
かつてのその地の名家も、今ではマレーシアに出稼ぎに行かなくてはならなくなっている。
盛者必衰とはこのことか。
さて、イラッコは難病にかかって、100歳前後で死んだらしい。
その後に集落長になったのがイラッコの息子ソロである。
そしてこの時代に、バルの王様が引き起こしたある事件がきっかけで、
『アレジャン』という名が付いたという。
その事件というのは、王が領内を視察していた時だった。
王は土を踏んではいけないというしきたりがあったため、
領内の視察には常に駕籠を用いた。
もし駕籠から降りる場合は、敷物をしき、じかに土に触れないようにしたという。
しかし、アレジャンでは違っていた。
厳しい山岳地帯。急斜面の道。当然当時は舗装技術なんて無い。
王の視察は困難を極めた。
そして、その時事件は起きた。
王が駕籠から転げ落ちたのである。
土を踏んではならないと言われていた王は、これでもかと土を踏んでしまった。
その場所が今のアレジャンなのである。
アレジャンの語源は、アッレッジャ。
ブギス語で踏むと言う意味がある。
このアッレッジャがなまって、アレジャンとなりそれが集落の名となった。
王が踏んだ土地、これがアレジャンの由来だった。
由緒が正しいのかどうか良く解らないが、
幾つものコメディーを持つアレジャンらしい由来である。


この晩は、こうして更けていった。
以前書いたエッセイを移動中・・・



親愛なるサカルディンへ

なぜ彼が、アレジャンを出て行ってしまったのかを説明するには、
少々時間をさかのぼって、説明しなくてはならない。
それと同時に、ブギスの習慣にも触れる必要があるだろう。

私の隊員生活が1年を過ぎようとしていたとき、サッカ(サカルディンの愛称)の父親が亡くなった。
原因はわからない。
ただ、突然亡くなったと聞く。
医療のいの字もないこの山村では、そうめずらしい事ではない。
しかし、サッカにとっては大変なショックだった。
父親の葬儀がおわると、2週間以上彼はアレジャンを離れた。
どこへ行ったのかは、誰も知らなかった。今をもっても誰も知り得ない。
そのため、父親の死後にとりおこなわれた遺産分与にサッカはほとんど関わらなかった。
サッカの家は、アレジャンの名家である。
アレジャン集落の起源は、7つの名家が関係しているのだが、その1家がサッカの家だった。
余談だが、ラエチュの家もその7名家に入る。

もともとサッカの家は、代々アレジャンの集落長をしていた家である。
たとえ今落ちぶれたと言っても、それなりに財産はあった。
山間の土地は、灌漑の水が一番多く入る位置にあり、
多くのアレジャン住民から羨ましがられる土地として有名だった。
しかし、しかしである。
サッカの父が亡くなったあとに、それらの土地を相続したのは、
サッカではなく、彼の叔父、つまり亡くなった父親の弟だった。
しかも、その弟はアレジャンには住んでおらず、40㎞離れたバルの町に住んでいる。
では、誰がその土地を管理するのか?
それは、サッカの妹や姉の夫たちであった。
サッカは幾ばくかの日当たりが悪く、しかも水の入りの悪い土地を相続しただけだった。
彼の兄弟に、男は彼1人だったにもかかわらず。

この辺の集落では、夫は妻の家族と共に暮らす。
つまり、サザエさんのますおさんのように。
そのため、男の子供はいつか出て行く、というように見られていて、
女の子供のほうによりお金をかけたり世話をやいたりしているように見受けられるのである。
サッカの場合、決定的な事は、彼は結婚をしていなかったということだった。
家族の中でも、(結婚をしたら)サッカはいつか出て行く、
と考えられていた節があったことは否めない。
こうして、サッカは日当たりの悪い土地をすこしだけ相続した。

この時点で、サッカには出稼ぎの話が来ていた。
彼の従兄弟からである。
マレーシアに住んでいて、海老の養殖をして荒稼ぎしている。
読者諸君の食卓に上る海老の大半は、こうした南方での養殖ものなのである。
従兄弟の事業もそうだった。日本向けの海老を養殖し、輸出で稼いでいた。
日本人が海老に飽きない限りすたれることの無い事業だった。
しかも、98年から巻き起こった東南アジアの通貨危機は、輸出産業をドル箱産業に変えた。
ドルレートで値段は変わらなくとも、自国の通貨レートが落ちたことにより、
その分稼ぎが多くなったのだった。
インドネシアでは1ドル=2000ルピアから1ドル=12000までレートが変化した。
つまり、1ドルの海老が、突然2000ルピアから12000ルピアと値を上げたのである。
従兄弟の仕事は一気に増えた。
養殖池も増やした。
人手が要る。
そしてサッカが呼ばれた。
しかし、このときサッカは行かなかった。
アレジャンを離れたくなかったからだった。
それから3年後の現在。
サカルディンは出稼ぎに行こうとしている。

若者が出稼ぎに行く大きな理由のひとつに、結婚がある。
私の住む福井では、『娘を3人持つと家が傾く』ということわざがある。
これは嫁入り道具と結婚にかかる費用が莫大なものであるため、
3人も娘を嫁にやるとその家が破産するくらい大変だという事らしい。
では、アレジャンはどうか?その逆なのだ。
もともとお嫁さんの実家に住むので、嫁入り道具はほとんど無い。
結婚式の費用はかなりかかるが、そのほとんどを男性側が負担するのである。
つまり、結納金がべらぼうに高い。
家の家格にあわせて結納金がかわり、
アレジャン集落長ラエチュの次女、エルナの結婚の時には、
かなり高額の結納金だったと村の中で噂になっていた。
つまり、結婚適齢期の若者たちは、結婚資金を稼ぐために出稼ぎに行っている場合も多いのである。
サッカは今年で31歳。
未だに独身だ。アレジャンでは、彼は結婚資金を稼ぎにいったと噂する人が多い。

サッカが出稼ぎに行く理由がもうひとつある。
昨年(2001年)暮れに一番下の妹が結婚したからだ。
サッカには5人の妹がいるが、一緒に暮らしているのは、一番下の妹だけだった。
しかし、いまその妹に夫ができ、同じ家に住み始めたとなると、
ますますサカルディンの居場所は無くなってくる。
長男であるにもかかわらず。
幾ばくも無い土地は、現在一番下の妹のだんなが管理しているとの事だ。
つまり、サッカは出て行くしかないのだった。

このようなケースは決して特別な事ではない。
アレジャンの周辺の村々では、ごく日常的な出来事になっている。
そのため、私が今回アレジャンに行った時も、
サッカが出稼ぎに行った事を知らない村人がたくさんいた。
マレーシアにもブギス人のコミュニティーがあると聞く。
村人曰く、ブギス語で会話してルピア(インドネシア通貨)で買い物をし、
インドネシアのタバコを吸って生活できるとの事。
アレジャンと関係の深い出稼ぎ村もあって、
100人以上アレジャン出身もしくは血縁関係者がいると聞く。
それほど生活は辛くない、と若者たちは口をそろえて言う。
そうあって欲しいと願うかのように。

サカルディンにあてた手紙の返事はまだ無い。
それ以前に、彼の手元に着くかどうかもわからない。
きっとそうこうしているうちに、
私の食卓に彼が養殖した海老がのるほうが先なのではないか、
とくだらない事を考えつつ、この稿を終えたい。
サッカへ、美味しい海老待ってます。
以前書いたエッセイを移動中・・・



親愛なるサカルディンへ

『サッカ(サカルディンの愛称)元気にしていますか?
見知らぬ土地で、君が頑張っている事を思うと心配になります。
良い仕事は見つかりましたか?
出稼ぎでは、重労働が多いと聞いています。君に向く仕事があるのかどうか、心配です。
先日、君がマレーシアに旅立った事も知らず、アレジャン集落を訪れました。
僕が帰国して1年が経ちますが、アレジャンは当時と同じでほとんど何も変わっていませんでした。
ただ、サッカがいなかっただけでした。
君に支えられた3年間。
活動が辛くて、君に愚痴をこぼした3年間。
意見が合わなくて、喧嘩した事もあった3年間。
それでも最後には、私と共に活動してくれた3年間。
アレジャンのみんなは、そんな僕たちを見て、『兄弟』と言ってくれていたね。
本当にサッカの事を『兄』だと思っていた。
僕がどんな活動をするにも、サッカは常に手伝ってくれたし、参加してくれた。
本当はサッカが少ない土地でも、うまくやっていけるようにと、
当時の僕はいろいろな活動を作ってきたのだけど、
結果として君の手元に何を残せたのか、今の僕には解りません。
以前から、サッカはよく言っていたよね。
マレーシアの従兄弟が出稼ぎに来いと誘ってくるって。
そして、君は言っていた。アレジャンを離れたくない、アレジャンで生活していきたいって。
僕もそれを聞いて、いろいろ考えて、当時の僕ができることをいろいろやったつもりだけど、
結局君は出稼ぎに出て行ってしまうのだね。
でも、それで君の生活が成立つのなら、それが良いのかもしれない。
僕はあまりにも無力です。兄に何もしてやれなかった。ごめんなさい。

サッカ。もしこの手紙をどこかで読む機会があれば、連絡ください。
君が行ってしまった場所は、僕には解らない。
もう二度と会えないなんて考えたくない。
それから、サッカ、これは約束だ。
君がどこへ行こうとも、僕はそこまで尋ねて行く。
だから、サッカもどこかへ行く前には、僕に行き先を連絡してください。
君の事をいつも考えています。

君の弟、田谷より』


2002年、新年が明けると、私はアレジャンに行きたい思いでいてもたってもいられなくなった。
思い立ったが吉日。
すぐさまチケットを予約し、1月30日インドネシアの地に降り立った。
アレジャン入りを果たしたのは、2月2日土曜日。
太陽もだいぶ西に傾き、日中の日差しの強さが幾分かその緊張をなくした夕暮れ前だった。
私がこの地を離れて1年以上が過ぎている。
当然アレジャンの様相も変わっていた。
石鹸とインスタントラーメンとタバコだけは山のように置いてある売店も
何件か新しく出来ていて、見覚えのある売店のいくつかは跡形も無くなっている。
帰国する前に村人が作っていた灌漑施設も、
ここ最近の大雨で土砂が入り込み、水が溢れ出している。
私が入村した当時には、まだまだ苗木だったパパイアの木も、
たわわに実をつけていた。少しずつ変化していた。
1年。
短いようでも、私の知らないアレジャンは、確実に増えている。
寂しさと頼もしさが交じり合った複雑な気持ちで、
わが家、『100の柱の家』ラエチュの家の前に着く。
私の姿を見ると村人が『田谷が帰ってきた!』や『お土産はどこだ!』と歓迎してくれた。
私のことを覚えていてくれて、しかも突然やってきた私を温かく迎え入れてくれた村人の態度に、
目頭が熱くなった。
小さな変化はあったが、やはり村人は変わっていない。
そう思いながら、ラエチュ氏の家に上がる。
丁度ラエチュは田んぼに出ていて、家にはいなかったのだが、
家にいたムルニィ(ラエチュの長女)とエルナ(ラエチュの次女)が温かく出迎えてくれた。
私が3年いた部屋はそのままになっていて、
当然のようにその部屋へ通してくれた。
当時のままだった。
新しく買ったハンドトラクターのエンジンが、ベッドの横に我が者顔で横たわっている以外は。
当時のままという安心感と当時の懐かしさで胸がいっぱいになる。
ムルニィがお茶を入れてくれた。
当時と同じ。
この家では、大事な客にはミロを出す。
この時もミロが出てきた。
そして、味も同じ。
ミロになぜか砂糖を入れて出す。
ただでさえ甘いミロがさらに甘く、当時はウザッタイとしか思わなかったその味も、
懐かしさでいっぱいになった。
ああ、何もかも変わっていない。
同じだ。その同じさが嬉しかった。
私はムルニィに尋ねる。
みんな元気か?
『みんな元気にしてるよ。でも、エルナの夫はまだサンダカン(マレーシア、ボルネオの街)に出稼ぎに行っていて、帰っていないけど』。
私が帰国する前に、エルナは結婚した。
密月の時間はたったの2ヶ月しかなく、彼女の夫はマレーシアに出稼ぎに行っていた。
この前のイスラム新年には、一度戻ってきていたようだが、またすぐに出稼ぎに戻って行ったらしい。
エルナもどこか元気が無い。
アレジャンのように、恵まれない山村では、出稼ぎは重要な金銭獲得の機会だ。
仕様が無い話で、この地域のだれもが持つ悲しみの側面である。
サッカ(サカルディンの愛称)は元気かな?
彼にはお土産があるんだ、早く会いたいけど、この時期だと田んぼに出てるかな?
と尋ねる私に、ムルニィの顔が一瞬曇る。
『田谷、サッカは3日前の水曜日に、マレーシアへ行ってしまったよ』。
え?マレーシア?3日前の水曜日といえば、1月30日。
私がインドネシアに着いた日である。
そう、サッカもまた、ここの地域の平均的な若者がもつ宿命を背負っていたのだ。
彼は、出稼ぎの仕事を探しにマレーシアに旅立っていってしまった後だった。
何も変わらないアレジャンで、ただ彼だけがいなかった。
以前書いたエッセイを引っ越し中・・・



アタックナンバーワン


男性の体であるにもかかわらず、心は女性であるという人がいる。
その反対も然り。
この悲しい矛盾に日々悩み、戦っている人も多いと聞く。
時には、『オカマ』などという心無い言葉に傷つきながらも。
今回は、アレジャン集落の山向こうにあるダチポンという集落で、
健気に生きる1人の女性(男性?)について書こうと思う。


読者諸君は普段、休日や空いた時間をどのように過ごしているだろうか?
読書。音楽鑑賞。ショッピング。映画や演劇。ドライブ。
スポーツで体を鍛えている人もいるだろう。
私も、読書や水泳などといろいろ趣味を持っている。
その中でも最近お気に入りなのは、ラジオ体操である。
ラジオ体操?と思う人もいるかもしれないが、これはこれでなかなか侮れない。
まぁ、今回はラジオ体操の話をするつもりは無いので、この話はまた別の項にしたい。


さて、いろいろな趣味をお持ちの皆さんに、1つ質問をしよう。
テレビが2台、CDプレイヤーがあるかないかで、
電気もろくに通っていないアレジャン集落の若人たちは、一体何を趣味としているのだろうか?
解りますか?
読書?本が入手困難で、文字を解さない人もいる。
ショッピング?タバコと石鹸だけは、豊富に売っている売店が村の中に3軒ほどあるが、
とてもショッピングを楽しむ雰囲気ではない。
ドライブ?村にある車は、全部で4台なのに?
映画鑑賞?映画館までは、80㎞離れています。
となると、そう!スポーツ。体があれば、スポーツは出来る。
お金もかからない。
インドネシアでは、バトミントンとセパタクロー、そしてサッカーが人気のスポーツであった。
アレジャン集落でも、男はサッカー、女はバレーとそれぞれチームを持っていた。
練習も気が向けば、きちんとしていた。
村人たちにとって、大切な余暇の過ごし方の1つであった。


サッカーとバレーのグランドは、
きちんと整備されたものではない。
特にサッカーは、広い平面の土地を必要とするので、
山村であるアレジャンには適当な土地が少ない。
そこで、稲の刈り入れの済んだ田んぼを利用して、グランドの代わりにしていた。
当然、田んぼのあと地であるため、稲の切り株が残っており、まともにボールは進まないのであるが。
その一方で、バレーは広い土地を必要としないため、専用のコートが村の中にあった。
村人が如何にスポーツに熱中していたかという逸話があるので、少し紹介しよう。


私が赴任する前の話である。
私の先輩協力隊隊員が、これらの村々に村おこしのプロジェクトとして入った当初、
各村で村人のニーズと発展の方向性を探る会議を行った。
当然、アレジャン集落でもその会議は行なわれ、
村人を集めて今困っている事ややってみたい事などを発言してもらい、
それらに優先順位をつけてもらった。
それらの意見は、これからの村おこし活動の重要な指針となるものであった。
会議では、百論百案が提言され、村人たちのニーズを聞き取る事が出来た。
『水田の水不足に悩んでいるため、灌漑施設を作りたい』や
『学校が遠いので、近くに学校が欲しい』などなど。
次々にあげられる村人の意見を聞き逃すまいと、当時の隊員は必死にメモを取ったと聞く。
そして、最後にそれらの意見に優先順位をつけてもらった。
しかし、そのベスト3の中には、『卓球台がほしい』があげられていたのである。
…水道もガスも無い、電気もひいている家のほうが断然少ない集落で、
ニーズとして挙げられたのは、学校でもなく、農業指導でもなく、インフラ整備でもなかった。
卓球台だった。
それほどスポーツを大事に考えているかどうかは別として、
村人の考えの方向が、結構な割合でスポーツに向いていると言う事は理解できた。


さて、そのスポーツに考えが向いている村人だが、
スポーツをやるからには張り合いが欲しい。
そう、大会である。
アレジャン集落の近隣にある集落が集まって、スポーツ大会を開くのである。
種目は、男子がサッカー、女子がバレー。参加集落はアレジャンを含めて5つ。
小さな大会ではあるが、村人の多くが応援に駆けつけるため、何百人規模の観客が常にいる。
私が赴任した1998年も、雨季の雨がやむのを待って大会が開かれた。
この時、下手ではあるが私も助っ人外人としてサッカーに参加していた。
アレジャンは、山村であるため良いグランドに恵まれない。
そのためか、あっさりと1回戦で負けてしまい、肝心の私は途中で反則退場となっていた。
中学高校と武道以外に携わってこなかった私にとって、
1つのボールだけを蹴りあうと言うのは無理だったようである。


がっかりしながら引き上げてくるアレジャン若人を、
反則退場の身である私が慰めていると、ひと際大きな歓声が上がるのを聞いた。
バレーのコートである。アレジャンのチームだと思った。
サッカーは田んぼをコート代わりにしていたが、バレーは違う。
専用のグランドをアレジャンは持っていた。ネットをきちんと張ったグランドを持つ集落は少ない。
でも、アレジャンにはあった。
それに、今回参加しているチームには、
高校までバレーを得意としていたアレジャン女児が加わっている。
前評判では、優勝候補の筆頭なのだ。
あの歓声も、次々と点を取るアレジャンを応援するのものに違いない。
サッカーのメンバーと共にバレーのコートへ急ぐ。
しかし、歓声はアレジャンへかけられたものではなかった。


アレジャンの1回戦の相手は、山向こうのダチポン集落。
手を抜いても勝てる相手だと、試合前に皆言っていた。
しかしゲームは、ダチポンが2セットを連取している。
はて?どうしたのだろう。
アレジャンからのサーブが、ダチポンコートに向かう。
良いサーブだ。決まるだろう。・・・しかし、ダチポンは簡単にレシーブする。
その球を力強くトス。
高校までバレーを得意としていたアレジャン女児がブロックに飛ぶ。
私から見ても十分な高さのブロックだ。
しかし、ダチポンのアタッカーは、それよりもはるかに高く飛んでいた。
アタッカーの力強いアタック。
アレジャン女児のブロックのはるか上空をボールが通過し、
誰もレシーブの反応することなく決まった。
何か、おかしい。
なぜこんなにも簡単に、優勝候補のアレジャンが点を取られるのだ?
ダチポンのコートを見る。
確かにダチポンのコートにいる選手は、皆背が高い。
腕まくりをしていて、そこから見える腕は、筋肉が隆々であった。
足も太い。
化粧だってばっちりだ。
えっ化粧?わが目を疑った。
黒い肌を無理やり白くするために、塗り固められたファンデーション。
不自然な方向に曲がっている眉毛。
異常に長いまつげ。
無理やり女性にしているが、一目で男性だとわかった。
そう、アレジャンバレーチームは男性と試合していたのだった。


ダチポンのスパイクが決まり、
点数が入る。決まるごとに、くねくねと腰を振り、手を胸元で開いたり閉じたりして、
みんなで『やったね~』と裏声で喜んでいる。
まさか。しかし、どう見ても男たちだ。
しかも、屈強のブギス戦士だ。ただ一点、化粧をしていると言う事を除いて。
ダチポンがサーブを打つ。
返すが精一杯のアレジャン。
ボールが戻ってくると、ダチポンの選手は顔立ちががらりと変わる。
『おう!』という低い掛け声とともに、力強いレシーブにトス。
切り裂くように『チェス!』と叫びながら、鋭いアタック。
しかし、決まる度に、『いや~ん、また決まっちゃった~』と言って、
怪しく腰をくねらせながら喜ぶ。
おいおい、君らはおとこでしょ?
茫然と試合を見ていたが、傍らにいた友人に聞く。
あの人たちは男なのでは、と。
友人は
『いや、男ではない。体は男だが、心は女だ。つまり、オカマだ。だから、女子の部でバレーに参加している。いつもはダチポンにはオカマは1人しかいないのだが、今日は助っ人がきているようだな』
と何気なく言った。
なんと!途上国でしかもこのような辺境の地で、
彼女たち(彼ら?)はある意味女性として、しかも村の代表として、大会に参加していたのである。
その先進性には頭が下がる思いだったが、
屈強のブギス戦士の前にアレジャンチームは無残にも敗れ去ったのだった。


聞いた話で申し訳ないのだが、
ブギス人は元来オカマが多いらしい。
アレジャンのような辺鄙な山奥でも、彼女たちに出会う事は珍しくない。
海賊とオカマ。全く異なったイメージを持つブギス。
しかし、彼女たちは決して、蔑まれているわけではない。
女性としてスポーツ大会に参加し、彼女たちにしか出来ないと考えられている仕事にもついている。立派に社会の一員として認められている。
しかも、狭い社会性と強い保守性を持つ農村でだ。
我々は一面だけを見て、彼らを途上国と見ていないだろうか?
彼らから学ぶ事は大きい。
少なくとも人権にかかわる考え方は、日本も少し見習うほうが良いのかもしれない。
週末は、
他のページで公開していたエッセイを
せっせと引っ越し中。


独立万歳!


 普段の通勤で使うペテペテの中では、実に多士済々の人物達に出会う。
その日も、私の期待を裏切らない人物に出会うことが出来た。
その人物はスラウェシ島の独立を願う闘士だった。


 1998年の暮れから1999年の3月にかけて、
南スラウェシ州では10年に1度来るか来ないかの大雨に見舞われた。
ラニーニャ編でも書いたが、多くの橋が流され、主要の道路のいくつかが土砂崩れで寸断された。
道路のアスファルトもはがれ、ところどころに雨の浸食による大きな穴を作っていた。
まともに車が走れる道ではなかった。
アレジャンからバル(事務所のある町)までは、ペテペテを使って1時間かかる。
しかし、ラニーニャ後は1時間半からひどい時で2時間かかることもしばしばだった。
こんな時、日本だったら早急に道は舗装しなおされ、
橋はかけなおされ、土砂崩れは取り除かれているだろう。
しかし、一部の主要道路を除いたその他の道では、
半年以上が経ったその時でも、なんら工事される事無く放置されていたのである。
当然橋もかけなおされていない。
この話は、そんなある日の出来事である。


 普段の朝。
インドネシア独特のコーヒー(フィルターを使わず、粉を直接入れて飲むコーヒー)を飲み干し、
仕事場であるバルの事務所に向かう私。
いつものように、道路沿いでペテペテを待つ。
遅い。
この国で、しかもこの集落で、
乗り物の到着が遅いことは常識なのだが、それでも遅い。
ラニーニャの影響で隣りの集落では土砂崩れがあり、
半年経った今でも、車1台分の土砂しか取り除かれていない。
そのため、ただでさえ遅いペテペテがさらに遅くなる。
当然、イライラはつのる。
日本人特有の神経質さを私が持ち合わせているからではない。
『遅い』という言語を持ち合わせていないのだろうか、
と疑いたくなるアレジャン集落の人も、
ラニーニャ以後のペテペテの遅さにはウンザリ気味だった。
ペテペテがようやく来る。
待ちくたびれてように乗る。
車内は、どこか雰囲気が暗い。
ふつふつとした不満がみなの顔に浮かんでいる。
私が今回話題に取り上げたいと思った人物は、
アレジャン集落から4つ離れたウロという集落で乗ってきた老女である。
老女はペテペテに相当待たされていたようで、
ペテペテに乗ってくると同時に悪態をついていた。
老女は運転手に、『おい!遅いじゃないかい!』と悪態をついた。
ペテペテには時刻表は無い。
どこかの会社が運営しているわけでもない。
乗客を乗せても良いという許可を取った車を運転手が勝手に走らせているだけである。
この場合、老女の悪態はほとんどと言って良いほど、いいがかりである。
運転手は、
『道がこう悪くては、速くは走れない。いつもと同じ時間に出てるのだけど…』
と弱気だ。
老女は、運転手の言葉を聞こうともせず、イライラした感情をまくしたてた。
『だいたい、何ヶ月たっても道は直らないし、橋なんてかかりやしない。いつだって、スラウェシのような外島はよくならないんだよ!ジャワ島を見てごらん。洪水があっても、土砂崩れがあっても、すぐに直しちまう。ジャワばっかりが、良い目見てるんだよ!』。
話が大きくなってきたが、確かにそうである。
ジャワやスマトラは、予算が豊富にあり発展が進んでいる。
他の乗客も、老女に賛同するように、
『そうだ!俺たちから取った税金で、ジャワばかりを良くしている!』
と言いす始末。
老女の話はさらにエスカレートする。
『だいたい、なんだいあのIMF(国際通貨基金)っていうのは!経済危機になってから、あいつらが乗り込んできたけど、銀行ばかりがつぶれるだけで、ぜんぜんこの道よくならないじゃないかい。橋だってかかりやしない』。
IMFがこの道を直してくれることは無いと思うが…
などと思っていると、さらに話は続く。
すでに乗客はその老女の話に聞き入っていた。
『それから、アメリカだ!ジャワ人はアメリカの言うことばかり、聞いている。だからだめなんだ。だからこの道が直らない。私はね。みんな聞いてくれよ。アメリカ人やジャワ人がこの地に来たら、刺し殺してやるつもりだよ!』。
完全に老女の思い込みであるが、そこまで話すと突然、運転手が、
『ムルデカ!(独立だ!)』と大声をあげた。
老女も『ムルデカ!』とつづく。
乗客の大半は叫びはしないものの、口々に『ムルデカ、ムルデカ』と唱えていた。
『スラウェシは大きな島だ。なにもジャワ人と一緒になっていなくても、十分成立つさ。今こそ独立をして、我らの英雄ハビビ(インドネシア3代目大統領:詳しくは選挙編を参照されたし)を初代大統領に迎えよう!』
そこまで話すと、老女の目的地であった市場に着き、
老女は買い物かごを大事そうに抱えて、市場の雑踏の中に消えていった。
車の中には、独立だけが残っていた。


 インドネシアは、多民族国家である。
独立をして、まだ50何年しかたっていない。国としては、まだまだ若い。
インドネシア国民として、多くの若者がインドネシア人として教育を受けてきたが、
民族意識は確かに残っている。それは普段は表には出てこない。
しかし、今回のように、何かの不満がつのれば、それはいつでも簡単に目を覚ます。
東チモール、アチェ特別自治州、アンボン島、西カリマンタン、中部スラウェシ、イリアン・ジャヤ州。
独立運動と民族闘争は、いつもどこかで起きている。
平和な昨日が、今日の安寧を約束してくれる事は無い。
たとえそれが、アレジャンのような僻地であっても。
少しずつ、移動させている。
協力隊の時のエッセイを。
これもその一つ。
こんなこともあったなぁ、と今では懐かしい思い出。


キバタ編

 最近、困っている。
パンテル(長距離の乗合タクシー)に乗せてもらえない。
マカッサル(アレジャンから120㎞離れた大都市)で、
休日ビールとしけこんだ翌日、
バル(アレジャンのある県の県庁所在地)に帰ろうとターミナルに行っても、
パンテルの運転手連中から乗車拒否にあう。
それどころか、多数のパンテル運転手に囲まれて、脅された事さえあった。
なぜ?
原因は、数ヶ月前までさかのぼる。

panter.jpg

『パンテル』

 休日にどうしてもビールが飲みたいと思う私は、
120㎞をおんぼろバスで移動しマカッサルに行く。
アレジャンやバルではお酒が手に入らないからだ。
マカッサルほどの大都市であれば、気のきいたレストランには必ずビールがある。
日本の生活で、毎日のように晩酌を習慣としていた私には、
たとえ1週間の禁酒でも耐えがたい苦痛である。
痛飲し、翌日アレジャンに戻る。
帰りは、バスを使う事は少ない。
なぜなら、アレジャンへ行く途中のペッカエ(老兵のいる町)で
バスを乗り換えなければならないからだ。
乗り換えたバスはすぐには出発せず、時として2時間や3時間待たされる。
そのため、マカッサルの帰りは、パンテルを使う事が多い。
幸い、パンテルはアレジャン集落を通過する路線があるのだ。
マカッサルから待たされる事無く、直接アレジャンに帰れるため、重宝していた。

 ある日、いつものように休日ビールの翌日、ターミナルへ行き
アレジャンを経由するパンテルに乗り込む。
バスやパンテルといった乗り物は料金表が無く、
目安でいくらいくらと運転手と話をつけなければならない。
特にアレジャンのように利用者が少ない場所は、
運転手によって言い値が違う。
語学力と交渉力の見せ所である。
また、外国人と見るととかく高値を言ってくるので、
それを現地人の価格まで下げる事は、かなりの根気がいる。
旅行者では、まず値下げは無理だろう。
しかし、この環境にすでに半年以上いる私は、
運転手の言ってくる法外な値段をたやすく値下げすることが出来るのだった。

 アレジャン行きのパンテルを見つけ、値段交渉をする。
運転手は8000ルピア(当時のレートで80円)と言うが、相場は4000ルピア。
4000ルピアで嫌なら、乗らない!と強気で押すと、
運転手はあっさりと4000ルピアで乗せてくれた。
車のシートが埋まるまで、何時間か待たされたが、
出発してからは特に何のトラブルも無く、アレジャンに向かう。
途中の町ペッカエを通過。
パンテルはアレジャンの集落を通過するため、直接アレジャンに帰れる。
実にスムーズな乗り物だった。
アレジャンに着く。
集落に入り、降りたい場所を運転手に告げる。
車が止まる。アレジャンに到着。
運転手が降りてきて、お金を精算する。
4000ルピア。
最初に合意した値段だ。
しかし、お金を手渡すと運転手がごね始めた。
『おい!足らないぞ!10,000ルピア払え!』。
は?
4000ルピアで合意したではないか、なぜ今になって10,000ルピアも要求するのだ?
訳もわからず、まごまごしていると、運転手は今にも殴りそうな勢いで、
『10,000ルピアだ!さっさとよこせ!』と怒鳴り始めた。
困った事になった。

 アレジャン集落には若者が多い。
日頃懇意にしている若者も当然たくさんいる。
村の中心で怒鳴られる私の姿は、当然目立つ。
その怒鳴り声を聞いて、アレジャンの若者がそのパンテルを囲むように集まりだした。
彼らの顔は決して友好的な表情ではなかった。
その中の1人の若者が、
『おい。なにをもめているんだ?田谷、何があった?』と聞いてきた。
私はあるのままのことを説明し、運転手が突然高く値段を請求してきた事を皆に話した。
それをきいてある若者が、運転手に言った。
『田谷は、俺たちの仲間だ。俺たちはキバタに所属している。
田谷に文句をつけるのなら、キバタに文句をつけているのと同じだぞ』。
話し声はごく普通の感じだったが、どこか威圧感のある声だった。
運転手の顔がみるみる青ざめる。
『キ…キバタ…!?』。
運転手は急いで車に乗り、お金も受け取らずに急いでアレジャンを出て行ってしまった。

 キバタ。
少し説明を要する。
インドネシア語のKipas Baru Tanya の略語で、
とりあえず殴ってから事情を聞くという意味がある。
武闘派で鳴らした権太集団の名前で、
マカッサルを拠点に多くの若者を抱えている。
バルにもその支部があり、運転手にとって運悪くも、
バルの支部のヘッドを勤めているのが、アレジャンの若者だった。
自然とアレジャンの若者の多くは、キバタに所属している。
警察でもどうする事も出来ない存在で、バルでの大乱闘事件後、
警察の介入で一時解散する騒ぎも起こしている。
運転手風情では、逃げるが勝ちだったのだろう。
この日はキバタに助けられる形となった。
しかし、後日問題となる。

 そう、パンテルの運転手の間で、私がキバタの一員だと言う誤解が生じ、
パンテルに乗せてもらえなくなってしまったのだ。
実に困っている。
この前、パンテルに乗ろうとした時などは、
例の運転手に鉢合わせになり、
彼の呼びかけで大勢のパンテル運転手が私を囲むと言うひと騒動もあった。
今後パンテルは乗れないかもしれない。

 その後の話。
問題を起こした当時私はひげを蓄えていたのだが、
その後ある事情でそのひげをきれいに剃ってしまった。
それからと言うもの運転手には、私とキバタの一員と烙印を押された日本人の区別がつかず、
パンテルに乗れるようになった。
揉め事よりも少々ぼられても良いと考え、
あらかじめ少し高めに払うようになったのも効いたのだろう。
しかし、しばらくは私が降りた後に、アレジャンの若者が、
『おい、今回はぼられていないか?』と尋ねていた。

ラニーニャ編

 ラニーニャ。
読者諸君は知っているだろうか?
私は良くは知らないが、エルニーニョの反対の現象とだけ認識している。
さらに、ラニーニャの怖さも…。1
999年のインドネシア・南スラウェシ州は、
年明けからラニーニャの恐ろしさを身をもって知ることになる。

 ラニーニャの年になると、インドネシアでは雨季が長引く。
例年であれば11月から雨季に入るのだが、
98年は9月の後半から雨季に入ってしまい、いつもよりも雨の多い雨季を迎える。
熱帯の雨季の雨はすごい。
スコールのように一時的に降るだけではない。
朝から晩まで、スコールだと想像してもらっても、まだその雨を想像する事は出来ないだろう。
特に99年の年初めの雨は、想像を絶するものだった。
私が愛用している50メートルの水深でも耐えられるダイバーウォッチの秒針に、
カビが生えるくらいの雨だった。

 1999年のある日、いつものようにアレジャンで起居していた私は、
いつものように出勤するために朝食を取っていた。
家の屋根がトタンであるため雨が激しく降ると、
家の中でも会話は不可能となる。
その朝もそうだった。
集落長ラエチュの奥さんが朝食を作ってくれて、
それを知らせに私の部屋をノックした音も聞こえない朝だった。
バチバチバチバチバチバチバチバチバチバチッ。
大粒の雨垂れが、トタンを叩く。
どんなお金持ちの家でも、この時期、雨漏りは欠かせない風物詩であった。
ラエチュの家も例外ではなく、よく雨漏りする。
日ごとに雨漏りの場所は変わるのだが、
トタンを直接釘で柱に打ち付けていて、
その打ち付けた後を接着剤やゴムで処理しないため、
その場所から雨漏りがする。
この朝は運が悪く、私の朝食の上に雨漏りがしていた。
そんな最悪の朝でも、私は仕事に行く。
今日は大事な会議のある日だった。
バルの事務所に向かうために、家の前でペテペテを待つ。
傘は何の役にも立たない。
道は川になっていた。

 ペテペテが来る。
乗り込んで、運転手にバルの中継地ペッカエ(老兵の町;詳しくは老兵編へ。)までと告げる。
ここまでは、いつもの朝と同じ。
ただ、雨が激しく降り、ペテペテのシートが全て水浸しだったのを除けば。
…いやっいつもと違う。
人が乗っていないのだ。
どうしてなのかを運転手に尋ねた。
『ペッカエに行く途中の道が水没したんだ。村1つ飲み込まれたらしい。だから、こんな日は誰も外に出ないんだよ。』と運転手。
ちょっと待て。
アレジャンのような僻地からバルの町に行く道は、2つ。
1つはペッカエを経由していく道。
もう1つは、カエレンゲと言うアレジャンから山一つ越えた麓のある集落を経由する道。
ただ、99年正月から続く大雨で、カエレンゲに続く唯一の橋は、流されてしまって、無い。
ペッカエに続く道までも村1つと共に水没したと、この運転手は言う。
つまり、私は閉じ込められたと言うこと?

 結局、ペテペテの運転手に無理を言って、水没した村の前まで行く。
のどかな田園風景が広がっていたその川べりの村は、
椰子の木が何本か顔を出すだけで、後は大きな川の一部と化していた。

 私が生まれ育った村にも、ちかく九頭竜川という一級河川がある。
幼い頃はよくこの川が氾濫したものだった。
堤防のぎりぎりまで水位が上がり、街に通じる橋が流された事もあった。
ただその時は、堤防が決壊すれば、学校休みかなぁ、などと馬鹿な事を考えていた記憶がある。
それは子供らしい発想で、災害で危害を被ることなく、
災害よりも大人の力がまだ強いと信じていた時の話だ。
今、水没して椰子の木だけが頭を除かせている村を見て、大人である自分の無力を強く感じた。

 力なく、帰宅する。
するとさらに災害が起こっていた。
アレジャンのお隣り、ラエチュの弟が集落長をしているメンロンという集落での出来事だった。
土砂崩れだった。あまりの豪雨で山が崩れたらしい。
もう、驚く気力も無かった。

lonsor tanah


 幸い、雨はその後弱くなり、次の昼には一時的におさまった。
ラエチュ氏がメンロンの土砂崩れをしきりと心配していたので、一緒に見に行く。
山の斜面が大きく崩れていて、道と集落の一部を飲み込んでいた。
被害にあった家は道を挟んで3軒。
家がどこに埋まっているかも解らない。
土砂が家を崖下まで押し流してしまったらしい。
災害現場を見た後、メンロンの集落長に会う。
ラエチュとメンロン集落長は、沈痛な表情で今回の被害を話していた。
現地ブギス語をほとんど解さない私には、話の内容はわからなかったが、
どうもひどい被害らしい事はわかった。
そうだろう。
3軒も家が流されたのだから。
ラエチュが帰ると言ったとき、私は彼に尋ねた。
どれくらい被害があったのかと。
ラエチュは力なく、
『養鶏をやっていたやつの鶏が50羽、土砂に巻き込まれたらしい』と語った。
へ?あれだけの災害だったのに、みんな無事だった?
ラエチュは言った。『あれくらいでは人は死なん。でも鶏50羽は痛手だ』と。

 99年のラニーニャはその後3月まで豪雨を呼び続け、
気が済んだのか、その後嘘のように雨季が明けた。
バルでは主要な橋が流され、私たちのチームリーダの家が1m床上浸水した。
私はダイバーウォッチの秒針にカビが生え、メンロン集落は鶏50羽を失った。
熱帯の雨季の怖さと、ブギス人が予想以上に頑丈に出来ている事を知った。

こんなこともあった。
『異文化理解』。
すばらしい言葉で、言うは簡単だが、
実際の中身には、恐怖と痛みが常にある。



kepala dusun
私と集落長(入村当時)

田谷が死んだら…

ふとしたことから、私が初めてアレジャン集落に入った時のことを思い出した。
どうも私の記憶は、時間配列とは関係なく出来ているらしい。
いつも突発的に思い出す。
今回の話も記憶の中に埋もれてしまわないうちに、書きとどめる事にする。

1998年1月20日。
私は、初めてアレジャン集落に足を踏み入れた。
協力隊による村おこしプロジェクト
(正式名称:バル県地域総合開発実施支援プロジェクト)の一員として赴任したのは、
昨日の事だった。
村の実情をすばやく把握するために、
新米の隊員は1ヶ月間プロジェクトサイト内の村に寝起きしなければならない。
私には、アレジャン集落が選ばれた。
そして、赴任して次の日には、アレジャン集落に投入されていた。

私の上司であるチームリーダーと共に、アレジャン集落に向かう。
ところどころ舗装されている道を揺られながら。山を1つ越える。
まだつかない。
一体どこにおくられるのか?
不安で硬くなる私。
約1時間車を走らせた先に、ようやくアレジャンが見えてきた。
私を受け入れてくれる家は、アレジャン集落の集落長ラエチュ氏の家だった。
大きな家だった。
『柱が100本ある家』と村人からは呼ばれていた。
私たちがその家に着いた時は、ちょうどラエチュ氏は不在だった。
家の人が出てきて、リーダーは簡単な挨拶を済ますと、
『じゃ、田谷君頑張って』と言い残し、そそくさとバルの町に帰っていった。
置き去りにされた気分だった。
その頃は、まだインドネシア語もろくに話せない。
知らない民族語を話す、知らない民族の家。
事前情報で、『ブギス人はもともと海賊として名をはせた民族で…』
とレクチャーを受けた事を思い出す。
みんなの顔が海賊に見え出した。怖くなってきた。

私が寝起きするはずの部屋に通して欲しい、
とりあえず部屋に行きたかったのでそう伝えた。
しかし、集落長の家にいた家人は不思議そうに私を見ているだけだった。
インドネシア語を解さないのか、私の言う事が通じないらしい。
居心地の悪い時間が流れる。
どうしたら良いのだろう?早くも日本の平和な日常が恋しくなった。
結局、その家人は私を30分あまり見つめていて、私もその場にただ力なく座っていた。
その間、会話は無かった。

その恐ろしい沈黙を破ったのは、ラエチュ氏だった。
帰宅したのだった。
ラエチュ氏は、背が高く体格がしっかりしていた。
眉間には、深々としわが刻まれていて、
黒く日焼けした肌は厳しい農作業と彼の人生を物語っていた。
船の上に乗せさえすれば、そのまま海賊の頭領で十分通る。
その彼は、私の前に座り、開口一番にこう聞いてきた。
『おい。お前が死んだら、どうすれば良い?』。
…私は、いますぐ日本に帰ろうと決心した。

ラエチュ氏は、何も答えない私に、さらに質問をしてきた。
『ここでは、墓を作って土葬している。しかし、聞くところによると、お前はイスラムではないらしいな。だとしたら、お前が死んでからどうして良いのか、解らん。死んでからでは遅いので、生きているうちに教えろ』。
なんでそんな事を聞くんだ?
今はじめて、このアレジャンに来て、
これからここで生活…つまりは生きていこうと思っている人間を目の前にして、
お前が死んだらどうすれば良いか、なんて聞けるのだ?
日本からお土産だって持ってきた。
自分の日本での生活も写真にして持ってきた。
当然、この場はお互いの習慣の違いや生活の違いなどで盛り上がるはずなのに。
それが交流と言うものではないのか?
しかし、私とラエチュ氏は、埋葬の習慣の違いから交流をはじめていた。
『答えろ。お前が死んだらどうして欲しい?』彼は続けた。
仕方なく私は、
『火葬してください』
とだけ、力なく答えた。
ラエチュ氏は、火葬という言葉にしきりに驚いていたが、
『火葬か…。よし分かった。お前が死んだら火葬してやろう』と答えると、
満足したように家の奥へと消えていった。
その後、私はようやく部屋に通された。
明日ここを出ようと決心していた。

結局、この集落、この家に3年住んでしまった。
居心地が良かったわけでもない。
楽しかったわけでもない。
飯が美味かったわけでもない。
通勤のことを考えれば、片道1時間は辛かった。
しかも、楽な道ではない。
ここだったら火葬してもらえる、そんな安心感があったわけではない。
しかし、毎日この家に戻ってきていた。
愛しのアレジャン集落は、これからも書き続けるだろう。
私が毎日アレジャンに帰っていった答えが見つかるまでは。

老兵編

 以前、財宝編で戦争について少し触れた。
読者諸君は覚えているだろうか?
アレジャンのような僻地であっても戦争という傷を抱えていると言う話だった。
その話を書いている途中に、私の頭の中で訴えかける人物がいた。
それはひとりの『老兵』である。
『わしを書け!』としつこくささやくので、今回書くことにする。
『老兵』はかつて、大東亜戦争において日本軍に強制的に軍役につかされた人物で、
私に会うたびに最敬礼をすることが癖だった。
ちなみに、今回はアレジャン集落から少し遠出して、この話を語りたい。
場所は、アレジャン集落から20km離れた小さな町ペッカエでの出来事である。

 『老兵』との出会いは突然だった。
それは、通勤のために通過するペッカエという小さな町だった。
この日も暑く乾いた日だった。
スラウェシの足であるペテペテと言うミニバスに乗り、出発を待っていた。
いつまでたっても出発しないペテペテに少々腹立たしくなりながら、
何気に外を覗くと、その老人がいた。
彼は、しゃんと背筋を伸ばし、最敬礼をしながら、遠巻きに私を見ていた。
いきなりの敬礼におどろき茫然としている私に向かって、
彼は『ありがと』と、やたら『あ』を強く発音する日本語を発した。
インドネシアでは、日本軍の占領時代があったために、
お年寄りで日本語を片言ながら話す人は、そう珍しくない。
彼もその1人だった。
彼は私が乗り込んでいるペテペテに近づいてきて、窓越しに私に話し掛けてきた。
『久しぶりに日本人をみた。おまえさんの階級はなんだい?』と老人。
どうやら老人は、私を日本軍人と間違えているようだった。
おじいさん、僕は軍人ではないよ、この国に技術協力に来ているんだ、と説明する。
すると老人は、私の話が終らないうちに、『タケダ隊長は元気にしてるかね?』と尋ねてきた。
タケダ隊長?誰だそれ?だから、おじいさん、僕は軍人ではなくて…。
『タケダ隊長はいい隊長だった』人の話を聞かず、遠くを見る老人。
早くペテペテ出発しないだろうかと、誰もいない運転席を恨めしく見ている私に、老人は話し続けた。
『わしは、戦争の時日本軍の手伝いをしていた。その時わしの上司だったのが、タケダ隊長だった。日本軍人は、なにかあるとすぐにわしらを殴り倒したが、タケダ隊長は、そうではなかった』。
少々興味深い話しだ。
するとタケダ隊長は現地人には手を出さなかったのかい?
老人はまだ遠くを見ている。『いや、飯をくれなかった』ぼそりと言った。
何が言いたいのか解らず、老人を見つめる私。
老人は話を続けた。
『でも、タケダ隊長にもいいところがあった。日本軍はならず者が多くて、多くの若い女性が日本軍にひどい事をされたと聞く。しかしタケダ隊長の隊はそんな事は無かった』。
従軍慰安婦の話だ。日本では、韓国や中国のケースが注目を浴びているが、
インドネシアの片田舎でも、その様な事があったのだった。
飯はくれなかったみたいだが、タケダ隊長を少し見直した。
タケダさんはいい人だったんですね、と私。
老人は、『いや、タケダ隊長は隊員には厳しく、女性にひどい事をさせなかったが、タケダ隊長は毎晩のように女性を抱いていたよ。なんせわしがその女性を準備していたのだから』と、やはり遠くを見ながらつぶやいた。
老人の目は澄み切っていたが、その目の奥には当時の凄惨な日々が焼きついているのだろう。
私たち、日本人が忘れてはいけない過去をこの老兵が教えてくれた。
老人は遠くを見ながら日本語で歌い始めた。
『セレベスの~、山を越えて~…』、それはスラウェシ島にちなんだ軍歌だった。
スラウェシ島は、かつてセレベス島と呼ばれていた。
ダイビングで有名な北部の街マナドは、当時連合艦隊に足止めを食らわすための要塞があり、
日本軍の重要な戦略拠点だった。
多数の日本軍がおり、きっと老人もそれらの日本軍人からその歌を教わったのだろう。
歌が終わり、不意に老人は私を直視し、こう言った。
『しかし、日本は残念だったね。戦争に負けてしまったのだから。あと少し持ちこたえたなら、勝っていただろうに』。
いや、あの戦争はどう転んでも負けでしたよ、と話す私に老人は、
『いや、それは解らん。わしらはここから70km先のパレパレと言う港町で軍艦を作っていたんじゃ。途方も無く大きな軍艦だった。しかし、完成する前に日本が負けてしまったんだ。あれが完成していたら負けなかっただろう』。
そんな話は聞いたこと無いぞ、とにわかに興奮を覚える。歴史に埋もれていた新事実なのだろうか?おじいさん、その軍艦の話、詳しく聞かせてください。老人は意気込んで、話してくれた。『そりゃ~大きな軍艦さ。あんなに大きな軍艦は見た事無いよ。なんて言ったって、数え切れないほどの木材を組み込んで作っていたのだから。ここら辺にある漁船なんかよりも…えっ?鉄?使ってないよ、そんなもん。でもとにかく大きな船だったさ。…』。
長々と続く老人の話はそれ以上私の耳には届かなかった。

 ペテペテの運転手が出発を告げる。
老兵は、すこしペテペテから離れ、口早に『タケダ隊長に会ったら、約束を守れと言っておいてくれ。日本の女性を紹介してくれる約束だったんだから』と言った。
70を優に超えている老兵は、満面の笑顔でそう言った。ペテペテが出る。
老兵は、見えなくなるまで、最敬礼をしていた。

 その後、老兵とはペッカエに行く度に良く会ったのだが、同じ話以外はしなかった。
周りのインドネシア人は『彼は少々ボケているから』と言っていた。
それでも、未だにタケダ隊長との約束を待っている。タケダさん。
もし、これを読んでいたら、彼との約束を守ってやってください。
昨日のつづき・・・


『異国の紙幣』 下

彼には借金だけが残った。
しかし幸運なことに彼は、全財産は失っていない。
また、彼は暗く落ち込むよりも、行動を起こす事を愛する。
換金性の高い落花生の種を購入し、持っている土地一面に播いた。
天もそうそう1人に不幸を与えやしない。
栽培は順調に行き、少ない土地ながらもかなりの収量を得た。
落花生の相場は、収穫が早ければ早いほど高い。
アレジャン集落の中で彼は、最も早い時期に収穫をした。
彼は成功した。
大丈夫、こうやって稼いでいけば、借金は返せるさ。
そういう明るい兆しが、見え出していた。
さぁ、肝心なのはこれからだ。
どこまで高く売れるかだ。
アレジャン集落に来ている落花生商人は何人もいる。
商人によって買値が異なる。
サハルディンはいろいろな商人と商談をした。
慣れない仕事で根気も要ったが、
その甲斐あってか今までに聞いたことも無い高値で買ってくれるという商人に出会った。
たまたまアレジャンに寄った商人だった。
しかし、彼が支払いの段になったときに、

『残念な事に、今はルピアのもちあわせがない。しかし、キミは幸運だ。私は外国の紙幣を持っている。これでよければ、これで払いたいのだが。もし、この外国紙幣が気に入らないのなら、あとでルピアを持ってくるよ。問題は無い。でも、ルピアで払うなら、もう少し安くしか買えないなぁ』

と言った。
要するに、どこの外国かもわからない紙幣で、
彼の努力の結晶落花生を買おうと言うのだ。
ルピアでは安くしか買えないと言う。
サハルディンは迷った。しかし、少しでも高く売りたい。
彼は、こうして南アフリカの紙幣を手に入れ、落花生の収穫物は全部その商人に売り払った。
そういうことがあってから、何ヵ月後かにサハルディンは私を訪ねてきた。
南アフリカのお札を持って。
彼は
『田谷。このお金はどこの国のものなんだ?どこで換金できる?』、
そう唐突に聞いてきた。
私には何のことだかわからない。
説明を求めた。
彼は、今までのいきさつと商人から得たそのお金をバルの町で換金しようとしたが
出来なかったことを言葉少なく、語ってくれた。
手渡されたその紙幣は、手垢で汚れふちがちぎれていた。
多分この数ヶ月、何度となくこの紙幣を眺め、
はじめの内はこのお札が如何に大金になるかを夢見、
そして今は見るたびに考えたくない絶望を想像していたのではないだろうか。
彼はこう言った。
『きっと、バルみたいな小さな町では、このお札の良さがわからないのだと思う。だから換金できないんだ。田谷がジャカルタ(インドネシアの首都)に行く機会があれば、このお札を換金してきてくれ。ジャカルタなら外国人も多いだろうから、きっと換金できる』。

なぜ、彼は南アフリカのお金で落花生を売ってしまったのか。
これは、インドネシアの不況とアレジャンの辺境性が絡んでいる。
ルピア大暴落の時、テレビやラジオでは、
米ドルと比較した現在のルピアの相場を連呼していた。
それまで、自国のお金に不動の価値があると信じていた村人には、
暴落といわれてもピンと来ない。
しかし、何度となく聞く相場のニュースに、
『そうか、今1ドル何ルピアなんだ』とぼんやりと想像するに至る。
こうして彼らは米ドルという単語を知る。
その認識の多くは、『米ドルは高い。不動のもので、ルピアより良い』といったものだった。
村に2台しかないテレビから得られる情報なんて、完全なものではない。
そんな折に現れた外国の紙幣、南アフリカのお札。
サハルディンは無条件にルピアより高くて良いものだと思ってしまったのだった。
無理も無かった。

機会を得て、ジャカルタに行く。
もちろん、南アフリカのお札も持っていった。
私は不安だった。このお札にどれくらいの価値があるのか分からないが、
はたして換金できるだろうかと。
しかし、1人の青年の夢がこれにはかかっている。
きっと換金してみせる。
早速銀行に直行した。
カウンターに並びながら、両替の順番を待つ。
カウンターの後ろにある看板には、その日のレートが乗っている。
相変わらず低迷したままのルピアが目に付く。
ドル、円、マルク、バーツ、ドン、元、ユーロ、各国の通貨レートが記載されていた。
ずーっと下まで見ていくと…
!あった!南アフリカ!なんだ、あるじゃないか。
サハルディン、待ってろ!今すぐ換金するぞ。
両替の順番が来る。
意気揚揚とカウンターに向かう私。
すこし手垢で汚れているが、サハルディンの努力の結晶であるお札をだす。
換金してください。
店員は少し苦笑気味にそのお札を眺め、
『これ換金できません』と冷たく言った。

それから間もなく、サハルディンは結婚した。
婿養子のような形で、アレジャンから一山超えた向こうのソッペン県にある集落に、行ってしまった。
その結婚の多くの理由に、借金があったと聞いている。
そして、私の手元に南アフリカの紙幣だけが残った。
ジャカルタから帰ってきて、彼に換金できなかった事を伝えると、彼は、
『…そうか…。えっ?紙幣?いや、もうその紙幣は要らない』
とため息をついた。

二度とこのような青年を出してはいけない。
この青年だけではない。
アレジャンはいつもだまされる側にまわっている。
きちんとした情報が少なかったり、たとえ情報がしっかりしていても、
受け手が理解できない事が多いからだ。
この様な事を少しでも無くすために、私がここにいるのだ。
そう自覚し、農業指導の活動を本格的に展開した。
しかしその頃には、サハルディンはもうこの村にはいなかった。

この悲しいエピソードが、僕の原動力となっていた。
その紙幣は今でも大切にしまってある。
協力隊の時や留学時にどうしても行き詰ってしまった時に
よくその紙幣を眺めて、改めて自分の出発点を確認することも
たびたびあった。
今、研修生を受け入れているのも、やはり原点はここなのかもしれない。


uang afrika selatan

南アフリカの紙幣

『異国の紙幣』上
 
ここに一枚のお札がある。
手垢でぼろぼろになった、南アフリカの紙幣だ。
ある青年はこの紙幣を命のように大切に持っていた。
今回はこの紙幣にまつわる不幸な青年の話をしよう。

1998年の3月。
アジアの経済危機が猛威をふるい、
インドネシアの大手銀行が軒並み倒産した。
ルピア(インドネシアの通貨)は大暴落し、失業率は天井知らずの上がりっぱなしだった。
物価も上昇した。スーパーの表示等が目まぐるしく変わる。
この経済危機は、国民に銀行離れを引き起こし、『たんす貯金』を流行させるにいたる。
資金の少ない我らの集落アレジャンでも、
『どこどこの銀行が危ないらしい』と、
預金など無くうし銀行以外の銀行に足を踏み入れた事の無い親父たちでも
騒いでいるくらいであった。
空前絶後の大不況。
ある者は、金を買い込んだ。
ある者は、銀行から預金を下ろし家のたんすにしまいこんだ。
あるアレジャンの者は、うしを買い足し、うし銀行に預けた。
皆、資産をどう管理すればいいのか、必死だった。

そんな時、南スラウェシ州(アレジャンのある州:州都はマカッサル)で、
けったいな金融商品が登場した。名前はKOSPIN(コスピン)である。
その内容は思いっきり眉唾もので、
3ヶ月たつと掛け金が1.5倍になり、6ヶ月たつと掛け金が3倍近くになるというものだった。
私の記憶が確かなら、1年たてば掛け金が10倍になるという。
この大不況下のインドネシアにあって、
金利のべらぼうに高い定期預金のような金融商品が出てきたのである。
さらにこの商品が眉唾なのは、『お友達紹介』があるというところだ。
何人かは忘れたが、掛け金を出した当事者がお友達をコスピンに紹介して、
お友達もこの金融商品を買うと得点がつくという代物。
このお友達紹介は、殆ど義務に近かったと聞く。
こういうものを、日本では『ねずみ講』や『闇銀行』などと言う。
しかしこの不況時に、ねずみ講などを知らない愛すべきブギス人たちは、
ほとんど狂乱した様相で、コスピンに参加していった。
それはまるで、ハーメルンの笛に酔いしれて海におぼれていくねずみのようだった。
そして、それから半年もしないうちに、当然のことなのだが、コスピンは弾けた。
800億ルピアの被害だった。
コスピンの主催者は、1人は逃げ、1人は捕まったが刑務所の中で姿を消した。
しかし、800億ルピアは、1ルピアたりとも被害者に戻る事は無かった。

何故こうもみんな危ないコスピンにはまっていったかは、また別の項を用意しよう。
ここでは、南アフリカの紙幣にまつわる青年に話の焦点をあてたい。

さて、800億ルピアの被害は、あろうことかアレジャン集落の人間まで巻き込んでいたのだった。
それも1人や2人ではない。
掛け金の大小はあるが十数人が被害を受けていた。
ただでさえ、お金が無い集落なのに…。
さらに驚くべき事は、その1人はなんと1000万ルピアも被害にあっていたということだった。
その青年の名は、サハルディン。
温厚で冗談ばかり言っていて、音痴だったが歌が好きだった明るい青年。
家は決して裕福ではない。むしろ貧しい。
農業を営んでいるが土地は広くなく、日陰になりがちの土地が多いせいか、
毎年の収量もぱっとしない。
自作の収穫物では食べていけないので、
アレジャン集落で裕福の家の小作をやって、食いつないでいる。
母と弟の3人暮らし。父は前年に他界している。
相続の関係で叔父たちに土地を取られてしまったという、
全くスタンダードな(どこにでもいる)アレジャンの青年だった。

父が死んで、幾ばくも無い土地を相続し、
インドネシアが不況になり、コスピンが登場したとき、青年は考えた。
『これで俺もお金持ちになれる』と。
それからの青年の行動は鬼神にまさるものがある。
親戚を回り、知人を訪ね、時には家財の一部を売るなどして、大金を作った。
1000万ルピア。
この当時の公務員の初任給が30万ルピアくらいだった事と照らしてみても、
いかに大金だったかが解ってもらえよう。
そして、サハルディンはコスピンに全額を預けた。
1年満期のコースを選んだ。
10倍になるはずだった。
小作から抜け出せるはずだった。
相続でもめた叔父たちを見返せるはずだった。

しかし、コスピンは弾けた。

つづく

田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

詳しいプロフィールは、カテゴリの「プロフィール」から「ちょっと長いプロフィール」をお読みください。

メールは
taya.tアットマークnifty.com
です。
(アットマークを@に置き換えて送信ください)

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