東京出張のおかげで
2冊読了。
その中でも、これは記録しようと思う。

中野円佳 著 『「育休世代」のジレンマ』:女性活用はなぜ失敗するのか? 2014. 光文社.

本書の主題は、「高学歴でバリバリと仕事をしようと意欲的だった女性が、ずっと仕事をしていくつもりでやりがいを感じる仕事に就いたにも関わらず、結婚や出産を契機になぜ辞めていくのか」だ。題の育休世代とは、改正均等法の施行(1999年)や育児介護休業法の改正(2001年)を経て、女性の就労継続可能性が拡大してから入社した世代のことで、本書では1987年生まれ以降を指す。制度的にも女性の就労を支える仕組みが出来上がっていったにも関わらず、どうしてこの世代の女性は辞めていくのか、そこにもは育休世代への二つのプレッシャーがある。1つ目は、「男なみ」に仕事で自己実現をすることをたきつけられる「自己実現プレッシャー」2つ目は、できれば早めに母になり、母として役割を果たすことを求められる「生め働け育てろプレッシャー」である(p51)。教育制度の変化や法整備などによって、高校まで男女の性を意識もさせられることも少なく、男女へだたりなく自己実現することをたきつけられる。しかし、本書のインフォーマントの多くが、大学や就職をした後に(とくに会社で)、女性を強く意識させられるようになったという。性としての女性と性別的役割や分業意識に戸惑うシーンもつづられている。また、政府が少子化対策に躍起になる中で、子供を産みながら働き続けるだけでなく、様々な能力を家庭で育てるべきという「生め働け育てろ」プレッシャーが育休世代にはのしかかる(p59)。その社会的意識の狭間で、男性の育児や家事への参加意識は向上されず、女性の自己実現へのたきつけの梯子は外され、強い不平等を感じながら仕事を辞めていく。もしくは、マミートラックといった会社へのぶら下がりだと非難されるような仕事形態に好まざるとも甘んじていく。
本書のインフォーマントは、恣意的に選ばれた人たちだと見ていいだろう。でもまたそれが興味深い。社会の中に埋め込まれていて僕らが意識的ではない仕組みをより際立たせてくれるからだ。インフォーマントは皆、勉強もできて高学歴で一流企業の総合職に就職し、そして結婚もしたいわゆる「勝ち組」と呼ばれる人たちだ。だが、そういう彼女だからこその葛藤が社会的なプレッシャーから生じるジレンマの中にある。自己実現への意識の高さによって、「お手軽な」会社を選ばず、やりがい重視で男性と一緒に、いやそれ以上の仕事を担おうとした結果、それまで感じることが少なかった「女性」に阻まれる。それを突き抜けてしまった男なみに活躍する「名誉男性」として生きる女性が、女性活用の成功事例として語られることもあるが、果たしてそれは真っ当な評価なのだろうか。本書を読み進めていくうちに、実は男性社会の中で「名誉男性」として生きることを突き抜けていった女性だけが活躍できるような、社会に隠された仕組みになっているのではないかと、読者はだんだんと気が付いていく。男女の育休といった制度だけは整備されていても、子育ては育休期間で終了するわけではない。復帰後から襲い掛かる長時間労働の男なみの仕事か、それを過剰に配慮してもらうことで陥るマミートラック(子供を持つ女性が、仕事と子育ての両立を可能にしてくれるが、出世からは縁遠いキャリアコース)かに阻まれる。その狭間で徐々に冷却されていく就業意欲。それによって生まれる子供を長時間預けてまでする仕事かという仕事へのやりがいと育児との間でのジレンマ。育児や家事を手助けしてほしいのに期待できない夫の「おれの方が稼いでいる」という決めゼリフ。これらはすべて、男性中心主義的な就労システムにある。そしてそのシステムを含む社会での公的領域での形式的な平等が推し進められ、その一方で育児や家事を含むケアといった私的領域においては圧倒的に不平等のままの社会なのだ。その評価を真っ当にしたとしても、女性をその関係性の中で私的領域に固定化してしまう可能性もあると論じている。非公式なケアワークを支援することによる「ケア提供者対等モデル」もまた、男女の平等な収入には結びつかず、雇用においては女性を周辺化するという問題が残る(p290)、というくだりには強い共感を覚えた。職場の在り方がそういう意識ではなかった夫婦の関係性も作ってしまうのは、流動性に欠ける日本の労働市場も問題だろう。私的領域の調整のために公的領域を調整することは、今の日本の社会では想像しにくいからだ。そこで著者が示す展望は、企業や社会に対しては、男なみ以外のキャリア展望を描けるようにすること、育休復帰後の女性を正当に評価すること、そして働く仕組みを変えるもしくは整えることだとしている。女性に対しては、女性同士で対立せず、共有する問題と捉え、企業に対しても声を上げること、そして男性には、育休復帰後にケア責任を抱えながら働くことへの理解が大切だとしている。最後の展望はすこしトーンダウン気味だが、現実的にはそういうことから始めていくのが良いんだろう。こうした社会意識が、僕の周りにもいる女性たちのサブ的な仕事の仕方を志向してしまっているようにも見える。それは意識してか無意識かは量りかねるがだ。
農業という生業の中でも、僕らはついついこういう視点で労働を捉えていないだろうか。自分に説教されているようなそんな本だった。すべての男性がこれを読んで、本当に理解することを強く強く勧めたい。良書。




たまには書評でも。
積読が増えた理由に
この本があげられる。
というのも途中で何度も
読むのをやめようと思った本だから。

松尾雅彦 著 『スマートテロワール』:農村消滅論からの大転換.2014.学芸出版社.

さて、何から書こうか。
著書は地域内自給圏の構築を提唱している。その自給圏自体のゾーニングの記述はやや曖昧で、自然環境や歴史的なつながり、郷土愛、現在の経済圏など地域住民から見て一体感のある地域としているが、このゾーニングが著者のスマートテロワールを支える論理の骨子であるのだから、ここは丁寧な説明が必要だろう。もしや思いつきか?と思えてしまったことで、僕の読書はここで1回躓いた。
さて気を取り直して、スマートテロワールだが、無駄のないスマートな、特徴ある地域という意味で、ゾーニングした地域内で食料やエネルギー、経済の自給圏を作りましょう、というのが著者の論点。瑞穂の国という幻想を捨て、米作だけを行うのではなく、地域内自給を考えて、他の品目を多く取り入れていこうというのが著者の意見。ちなみに著者はこれらの自給圏ではエネルギーや経済など多岐にわたる分野も含めての自給圏を提唱しているが、本書では農業に重点を置いて記述している。
さて、その他の品目であるが、著者は加工可能な穀類・エステート作物と、飼料用作物そしてそれに伴う畜産の振興を提唱している。著者はカルビーの元社長であるためか、契約栽培による加工可能な作物にかなり主眼を置いている。減反した水田100万ヘクタールをカルビーの契約している面積とスナック製品の売り上げから試算して、減反分で15兆円分にあたると試算している。しかし、この論理はあまりにも雑だ。日本の食品市場は24兆円程度で、これに15兆円も上乗せができるだけの『人』がいない。海外からの輸入を国産に切り替えるナショナルブランドの形成が大切だと著者はいうが、価格的には疑問符が取れない。飼料用の作物も、資料用米などの取り組みが昨今うるさく言われているが、あれも補助金が無ければ成立せず、その税収をどう賄っていくかの議論はうやむやのままだ。TPPが成立すれば関税収入が激減することが予想され、一部では税収が減になるので、関税撤廃で価格が低下した農産物に対する補助を財務省がしぶっているとも聞いている。しかも飼料用米は食料・農業・農村基本計画の中で平成37年まで生産拡大するように明確に位置づけされているから大丈夫という行政側の説明もあるが、集団的自衛権の議論を見ていると過去に閣議決定されたことなど簡単に撤廃して新しく自分たちの都合よく作り変えていくプロセスを同時進行的見せられると、その法律で明確に位置づけされてもそれが実行される保証は全くない。あまつさえ、憲法違反であってもそれをまかり通そうという、もはや法治国家の体をなしていない現状では、まったく信頼に値しない。とちょっと議論がずれたか。
つまりは、飼料用の作物は低価格の海外産に助成金なしでは太刀打ちできないということ。そしてその助成金は国民の理解を得つづけることができるものなのかどうか、その見通しないこと、その点で論理が崩壊してしまうと言いたい。
さらに、人こそ農村の最大の特徴だと著者は論理展開しているが、飼料用作物や加工工場向けのエステート作物の場合、海外からの輸入に替わっていくには、大規模で機械化を推し進め、低コスト生産が必須になる。つまり、農地にへばりついていた兼業農家をひっぺがし、農業界からの退場を促さないといけない。これはこの前の東海北陸ブロックでの県青協委員長会議で議論したこともあって、この方向への要求は農業の現場でも強い(この内容はまた後日記述しよう)。だが、農村としてのコミュニティはそのことでどのような変容を起こすのだろうか。地域に対する愛着は、農地という縛りがなくなった状況で、世代間でも受け継がれていくのだろうか。農村は寝に帰るだけに場所になりはてやしないだろうか。もっと若い世代はよりよい教育と職を求めて、今以上に農村を出ていってしまわないだろうか。エステート作物の加工場を作って女性の活用を、と記述する著者が見る未来を僕は同じように見ることは不可能だ。ヨーロッパの先進中山間地の事例を並べ立て、日本の農村の現状分析には全くといっていいほど記述がない。それがこの著者の視点だ。
夢を語るのは良いだろう。ちょっと奇抜なアイディアで人を引き付けるのも良いだろう。だが、それがまったく現状からスタートしていないことに、僕はこの本度読んでいる間中、いらだちを感じた。読みやすい平易な文章だが、どこか上滑りしていく論理展開、そしてカール・ポランニーを多く引用しながらも社会に埋め込まれた経済そのものに焦点を当てないその視点にいちいち腹が立ってしまって、読了までにずいぶんと時間がかかってしまった本。批判することで自分を再確認する作業が必要ならば、読んでも良いが、時間のない人はスルーで問題ない。


こんな本もたまには読む。

鶴野充茂 著 『エライ人の失敗と人気の動画で学ぶ頭のいい伝え方』.2014.日経BP社.

この本は、ネット上のさまざまな動画をネタに、それを制作した側の意図がどう伝わらなかったのか、そしてどうすれば伝わるのかをあれこれと解説している本。何かを伝えたいという場合の指南書として見るのが妥当か。

この本で出てくる動画は、FacebookなどのSNSでも多くの人がシェアしている有名動画ばかりで、多くの人が動画を見なくてわかるだろうが、たとえその動画を見ていない人でも分かるような概要の解説がついているので、動画を見なくても話の議論の内容は分かるのも特徴だろう。本書では、動画による伝え方なのかと思っていたが、ここで出てくる話は特段動画に特徴付けられるものではなく、何かを伝えたいと思った場合に工夫するべき点と注意するべき点がまとめられているので、どんな形であれ情報を発信したい人間には有意かと思われる。

いくつかの点で農園での情報発信でも役に立ちそうな点があったので、ここにメモを残そう。自分たちの会社をアピールする場合、著者は、トップではなく社員が語れ、と言う。経営者自らがアピールする動画が多いが、トップは嘘をつくという社会的な印象があり、社員による真摯な説明が一番視聴者に響くというのだ。また数字を出して、全国平均や他の事業体と比べて自分たちはマシだ、という答えも良くないらしい。それを見ている人、もしくはその問いを投げかけた人の多くは、他に比べてマシかどうかを聞いているわけじゃないのだから。そういえば、JA福井市の総代会の質問でも、経営側が経営状況を全国平均と比べて話をしていたが、僕らから見れば、なんだか煙に巻かれた感じがしたのは、そういうことだったのかと改めて思った。数字は分かりやすいかもしれないが、それが常にその答えになるわけではない。

歩きスマホや酒気帯び運転などに対する啓発メッセージなどの解説も、僕らにも有効な気がした。なんでも危険性を連呼したり反対するのではなく、3つのポイントが含まれていることが大事だと著者は言う。①興味を引いて、②問題の深刻さを理解させ、③どうすればいいかメッセージを伝える、と書かれていたが、これだけ読むと当たり前すぎて響かないという意味では、著者も文章としては同じ過ちをしているようにも思うが、動画という世界ではそれらをどう見せていくかが制作側の力量に係わるのだろう。この場合、①の興味を引くというのがとても重要だと思う。たとえばTPP反対においても、農協改革反対においても、全然一般市民の興味を引き付けていないというのが問題だった。動画でそういう社会のシュミレーションを効果的に作ってもよかったと思うし、反対していた団体もそれだけの資金も力も持っていたいのだから、その反対運動はやっぱり戦略的に間違っていたんだと思う。ちなみに日本共産党の原発反対のキャンペーンも失敗していると僕は思う。

この本を読んで、通底していることは、楽しいと思わせる何かがその動画に組み込まれていないと意味がないということだろうか。テレビのようにだらだら流れるコンテンツではなく、それは自らの意志でクリックしないと観てもらえないものなのだ。だから作ればいいというのではなのだろう。楽しそう、とか、意外性、そんなものを秘めていないと、人々には支持されない。それが動画なんだろう。出し方一つで炎上もするし、人づてに驚くほど多くの人々に影響を与えたりもする。それが行き過ぎるとTBSラジオのデイ・キャッチで塚越健司氏が言っていたようなSNSでパブ記事をシームレス的に無判断で見続け、自己判断ができない人間になっていくこともあるのだろうけど、それはまた別で議論をしたい。

農園に来ている大学生や若い従業員は、テレビなんて見ずにネットの動画をみて過ごすことが多いという。そしてその動画は、これまでの広告媒体のような感覚では、誰も見てくれないどころか、反対に炎上してしまうという、かなり偏りを持った双方向のメディアだということ。平均年齢が66.7歳で、若者がほとんど入り込まない農業界は、これからこの分野でかなり遅れをとることが予想されるだけに、僕を含め周囲でもネット動画にもっと積極的に取り組まなければならない。そう思わせてくれる本だった。




暇というわけじゃないけど、
読みだすとあれこれと一気に読んでしまう
時期がある。
たぶん、いまそれ。

ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会 編著 『NOヘイト!』:出版の製造者責任を考える.2014.ころから.

李信恵さんの本を読んで
無関心は排外主義に加担していると
自分も思うので、
無関心の姿勢をやめるため
この本も手にとって読んでみた。

書店に平積みされ、あふれかえる嫌韓嫌中本。
それがそのまま世相を肯定しているように
書店の売り場がメディアとして
発信をしているような状況に
陥っていることに対して
危惧を感じている出版関係者が
まとめた本。
ネットでばかり本を買うようになってしまっていて
ほとんど書店に行かない僕には
書店でそんなことが起きているとは
夢にも思わなかった。
最近のネット書店は便利で、
自分が購入した本の傾向を調べて
それの類似したジャンルを薦めてくれる。
だから、そのお薦めに従って
本を買っている僕には
嫌韓嫌中なんて本がそんなにたくさんあること自体
まったく知らなかった。
やはり無関心は
無言の賛同と同一視されてしまうことを考えると
声を上げて『変だ!』と言う必要はあるようだ。

書店の本がそんな本であふれかえれば
みんなそれが今の社会の世相だと思ってしまうし
それが正しい考え方だって思ってしまうだろう。
書店もそんな本を置かなければいい、とはなかなかならない。
それは売れるからだそうだ。
経営のことを考えれば、ある程度売れる本を置くのも
しょうがないのだろう。
ただ書店さんの意見も本書にはあり、
できるだけ反対の意見の本も一緒に紹介するなど
偏りのないようなレイアウトを
心掛けているところもあるらしい。
排外主義の本を低俗だと
間違った記述ばかりだと
上から目線で批判をしても
たぶんこの問題の解決にはならない。
同じように反排外主義的な本を出版する、
という考え方もあるだろうけど、
リベラルの本は売れない、という。
ただ本書でも、
売れる本が正しいのではなく、
思想の世界に市場原理を持ち出しても通用しないという
批判はあった。
しかし、売れる本が嫌韓嫌中本だとすると
やはり書店でそれなりにスペースを独占してしまうので
それがある程度の流れを作っていってしまうという
事実になんの対抗策にもなっていない。
では、どうしてこういう本が
世間で居場所を得たのだろうか。
それはインターネットというツールだという。
しっかりとした情報と確度の低い噂話が
混在するインターネットは
その発信者は市民の手にある以上
情報ソースはどこまでもあいまいで
しかも拡散しやすい。
この世界の中で、歴史を修正する人たちが
コツコツと活動を広げていったのだろう。
その中で右派左派の両方の情報に
自動的にさらされるのならいいのだが
FacebookなどのSNSなどでは、
自分の偏った仲間からシャワーのように
同じような偏った情報を浴びることになる。
僕のアマゾンから紹介される本のリストは
たぶん右派の人は吐き気がするような本ばかりが
並んでいたりもするのも
インターネットの力なんだろうね。

本はそれ自体が広告であり、
書店は公共空間だという本書のあとがきは
もろ手を挙げて賛同したい。
過激なタイトルをつけ
新聞や電車の広告、
そして誰もが自由に知識を得るために
訪れることができる書店で、
僕らに恐怖を与えるような
そんな節度のないタイトルを許してはいけない。

この本を読んで、僕もそう強く思った。



えっと、これも終了。

増田寛也 編著 『地方消滅』:東京一極集中が招く人口急減.2014.中公新書.

ベストセラーだということと、
新聞にそのデータが載った時に
かなりショックを受けたので、
とりあえず手に取った。

東京は若者を消費しているだけで、
その生産には全く寄与しない環境だというのは
その通りなんだろう。
だから、自前で若者を供給できないため
地方からどんどん若者を吸い上げるように
東京の一極集中が続いている。
その処方箋として挙げられているのは、
田舎から街への流れを
地方の中核都市で食い止めるという考え方。
ではその中核都市で食い止めるというには、
それだけそこが東京と同等の
もしくはそれ以上の魅力を感じる都市で
なければならない。
だとしたら、なぜ、
東京に一極集中するのか、
なぜ東京ばかりに企業の本社があるのか、
その理由を考察せずしては
議論は上滑りしていくんだろうと思う。
だから、この本を読んだとき
その上滑りを感じるのも
そういうことなんだろう。

データとしては面白いし
中核都市に人口流出のダム機能を持たせるのも
分かる。
だからこそ、なぜ東京なのか?に
答えないと議論は空転するだけ。
まぁ、それはこれからなのかな?




読書の記録。
といっても、
これからはよほどのことがない限り、
本への雑感のみにしようかな。

今回読んだのはこれ。

李 信恵 著 『♯鶴橋安寧』:アンチ・ヘイト・クロニクル.2015.影書房.

ヘイトスピーチにさらされる人々の心情や、
それに対抗するカウンターの行動と考え、
在日、そしてその個人の想い。
そんなことが時間を行ったり来たりしながら
綴られている本。
正直、ここまでひどい現状だとは
知らなかった自分を反省した。
愛の反対は憎しみではなく、
無関心だとすれば、
自分の無関心と無知識は
そのヘイトという人間の最も醜い部分を
増長されるのに十分なだけの加担をしてきたのだと
理解できた。
僕はもう、差別に無関心ではいない。

もともとこの本を読もうと思ったのは、
在日外国人のそれぞれの立場などを知りたいと思ったからだ。
海外技能実習生の期間延長など
その労働力に期待が高まる一方で
社会的に受け入れる土壌は全くと言っていいほど
出来上がっていない。
外国人を受け入れる場合、
平行社会を作ってしまっては
その社会の発展につながらないと思うだけに、
このヘイトスピーチをめぐる事件と事象をまとめた
本書はとても興味深かった。
事例や時系列に歴史的事実の説明よりも
そこに当事者として主体的にかかわった人の
心情の起伏の記述が僕らの心に突き刺さる。
一緒に歩もう。
一緒に考えよう。
同じ目線にはどう頑張っても無理かもしれないが、
それを認め合えるだけの優しさを持とう。
その姿勢こそが、
外国人との付き合いの中で、こういう問題を減らしていく
回りくどく見えるかもしれないが
もっと着実な道なんだと実感できた。

こういった本が増えていくことを望みたい。




新年を読書録で迎えるのも一興だろう。
えっ?酔狂?
まぁまぁ、今日は元旦ということで。

リンダ・グラットン 著 池村千秋 訳 『ワークシフト』.2012.プレジデント社.

ちょっと前の本だが、とても評判になった本。2025年の孤独と貧困から自由になる働き方の未来図という帯がついていた。2025年には今とは違う働き方への変容が生まれるというのが本書の趣旨。今の職業生活を見直し、変容の生まれる要因を理解し、それに合わせたよりよい働き方へのシフトを提案している。では、シフトすべき働き方はどのようなものなのだろうか。

それは、ピラミッド型の組織と交換可能なゼネラリスト的技能よりも水平型のコラボレーションと磨き上げられたスペシャリスト的技能へのシフトと筆者は言う。その変化をおこす3つのシフトを著者は説明する。第1にゼネラリスト的な技能を尊ぶ常識を問い直すべきだとする。インターネットにより何十億もの人がつながり合う世界では、ゼネラリストは必要なくなり、それぞれ個人の技能を高めセルフマーケティングが重要になってくる。第2に個人主義と競争原理の常識を問い直し、人間同士のコラボレーションと人的ネットワークがタスク成功のために重大性を増してくる。第3にこれまでの常識どおり、貧欲に大量のモノを消費し続けることが幸せなのか問い直すべきだ、としている。質の高い経験と人生のバランスを重んじる姿勢に転換するほうが幸せだ、と説いている。

そしてこのようなシフトが起こる要因として5つの要因を解説する。テクノロジーの進化・グローバル化の進展・人口構成の変化と長寿化・社会の変化・エネルギー環境問題の深刻化を挙げている。グローバル化の進展と人口構成の変化がその時代時代の常識を変えていき、それを支えるテクノロジーが進化することで、人々は瞬時に世界とつながることが可能になる。だがその一方で深刻なエネルギー不足により、実体的な移動が困難になり、人々の仕事はバーチャルな世界へと切り替わる。著者はそんな予想をたて、3つのシフトが起きた世界とそうでない場合とをいくつかの物語を作ってケーススタディしている。

そのケーススタディで何度も出てくる考察として、第2のシフトと関係するが、3種類の人的ネットワークだ。まずは、ポッセと称されるネットワーク。ポッセは、比較的少人数のグループで、同じような専門分野の集まりだ。職場の同僚の場合もあるし、友人だったり、異国の知り合いという場合もある。目の前の課題を解決する場合に必要な力を貸してくれる仲間たちだ。声をかければいつでも集まれる(バーチャルも含めて)、そんな仲間たち。次はビッグアイディア・クラウドだ。自分の人的ネットワークの外縁部にいる人たちで構成されており、自分とは違うタイプの人間とのつながり。友達の友達がそれに該当する場合が多い。ある専門的問題をまったく自分とは異なる視点から物事を見られる人たちの集まりで、メンバーの数は多い方が良い。ポッセは問題を素早く解決する力になってくれるかもしれないが、本当の意味でのイノベーションを生み出す源泉にはならない。ビッグアイディア・クラウドは、ポッセで出来ないイノベーションを生み出してくれる。そして3つ目は、自己再生のコミュニティ。テクノロジーの進化でバーチャル空間の魅力は広がり、ビッグアイディア・クラウドの人間関係の中で多くの仕事をこなすようになるだろうが、それとは異なり自己再生のコミュニティはバーチャルではない関係性。専門技能の持ち主の集まりでもないため、ポッセでもない。コミュニティのメンバーと現実的にかかわり合うことで、プライベートな時間をくつろいで過ごし、生活の質を高め、心の幸福を感じるような人間関係のことを言う。テクノロジーに頼れないのも特徴的だ。

こうしたシフトとそれを生み出す要因によって、僕らの仕事や生活への価値観が大きく変化するという未来予想図だった。3種類の人との関わり合いが、そのシフトを大きく支えてくれるというのも著者の主張だった。著者の主張では各論ではいくつも反論できるが、直感的にそのシフトが向かう方向にあながち間違っているようにも思えないのが本書の魅力だろう。モノを大量に消費することを目的とするよりも何かを創造することが目的となる仕事。金銭的な評価よりもやりがいと充実感を得られる仕事。まさに、僕らが直面している価値観にこの本は、ある程度の答えを僕らに示してくれている。

これを僕らの仕事に当てはめてみようか。
僕らは農業というスペシャリストの集まりだ。ここに入ってくる若者も初めはゼネラリスト的な役割を夢見ていたかもしれないが、業務内容は自然のダイナミックな変化に生産技術で対応するという専門技術とさらにその成果物と市場とのバランスを読みぬいてすり合わせていくというこれもまた専門技術による仕事だ。ネットの進展で、僕らの市場も地元の市場のシェア率を徐々に減らしながら、日本中に野菜を送り届けるようになっている。インドネシア農業研修では、金銭的な儲けは全く見込めないという意味では産業としてなりえるのかどうか不安はあるが、人口の変化に今後不足するであろう労働人口への補完的な一種の事業となりえるだろう。ただ単に安い労働力を確保するという意味ではなく、僕らの場合はその意味ですでに本書のようなシフトを遂げているが、ここに集まって労働することで僕らはインドネシアの彼らの地域の問題も解決するタスクを負っている。近くを単焦点に見れば、僕らの関わり合いは、農園ビジネスを発展的にさせるポッセということになるが、望遠的に眺めてみれば、それはグローバルな問題解決の糸口だったりもする。ビッグアイディア・クラウドがもっとバーチャルな世界で進めば、これから先は、ここに居ながら彼らとのつながりをより発展的にし、それを通じて今よりも広範囲の農村問題や環境問題にも僕らは関わるつもりだし、その用意もしている。自己再生のコミュニティという意味では、まさにこれは僕の主題でもある地域を創る活動に入っているだろう。既存の組織の盛り上がりを含めて、仕事とはちょっと離れた社会的な活動への参加とそこでの人との関わり合いが、まさにそのグループとも言えよう。生産と生活とが相まって、現実的なフィールドでの労働と生活、そしてバーチャルな空間での僕らのつながりがいろんな問題を解決する、もしくはそれに立ち向かうためのツールになることを、僕はこの本を読んで夢想した。

2015年の最初の読書としては、とても良い本に出会った。
読書記録を書きながら
年を越えるのも、一興。
で、今回の記録はこれ。

金子勝 武本俊彦 著 『儲かる農業論』:エネルギー兼業農家のすすめ.2014.集英社.

もともと昔から農業は兼業だったという話から、とんでもない論理的な飛躍をして、自分たちの思いついたキャッチーな「エネルギー兼業農家」なんてフレーズを埋めるために書かれた本。まじめに考える気が合ったのかどうかすら疑わしい。というのも、日本の農業構造の変化について、はじめにで触れているのだが、その中身は家族経営から3ちゃん農業への変化の中で機械化と第2種兼業化への道がその実態なのだが、なぜかその兼業が近くの工場ではなく、発電というエコエネルギーへとつながる辺りが、まったくロジックの飛躍としか言えない。そもそも、個人経営の経営体が、そのリスクを分散するために兼業化に発展したにもかかわらず、小規模といえども個人でどうになるわけがない巨額の発電施設を自前でそろえることなんて無理だ。

著者自身たちもおわりにで記しているが、本を出すにあたって6次産業化のオルタナティブを掲示したいという意欲と、「山林7割の国では兼業農家しか生き残れないけど、今さら工場誘致や公共事業獲得はないでしょ」「いや、この時代だから発電する農家でしょ」(p171)なんて、ちょっと小ばかにしたような話から始まって、その無理なコンセプトを埋めるように書いたために、全体として議論にまとまりがなく、とても醜い本の論理構造になってしまっている。一つ一つの議論、たとえば小規模発電や電力システムなどは、それぞれに的を射ているのだろうが、それが農家の兼業として発電に収斂すると、構造的な無理が生じてしまい、現実味が全くなくなり、これこそ机上の空論といえよう。農地を集積して、ある程度力をつけた法人とその規模とそして公共事業的な補助事業があって初めて成り立つのが、エネルギー兼業農業ではないだろうか。事例に出てくるモデル自体も、個人の兼業農家なんて一つも出てこない。どれも公共事業か補助事業なしでは成立しないものばかりじゃないか!ふざけるな!

どんな偉い先生か知らないが、もう少し真面目に本の構造を考えて書いてほしい。論理展開にここまで無理がある本は、久しぶりにであった。

年末の貴重な時間をこんな本に出会ってしまったのは、とても不運だった。これで今年の厄が落ちて、来年はもっとましな本に出会えることを期待したい。



こんな本にも出会った。

浦島充佳 著 『ハーバード式 病気にならない生活術』:「疫学」の力でやせる、健康になる.2014.マキノ出版.

健康おたくではないので、
普段はこういう本に食指は動かないのだが、
ラジオのある番組に著者が出ていて
その話の内容がとても興味深くて
手に取ってしまった。
僕の興味を引いたのは、
「疫学」についてである。

著者の言葉を借りて言えば、
疫学とは、統計学的なリスク分析に留まらず、
これを実践して病気の発生を予防したり、
病気の治療を促進したりする学問、ということになる。
科学的医学的な根拠(つまりはここでいう統計的データ)に沿って、
そこにあるであろうリスクを知ることができるというわけだ。
まさに僕のこれまでの探求のテーマの一つだった
リスクをどのように測るか、に合致する学問だ。

この疫学が面白いのは、
因果関係がどうのこうのではなく、
因果ははっきりしないが
統計的にそのリスクがあることを示す点だ。
本書でも例として挙げられているのが
明治期の脚気が分かりやすい。
海軍では疫学的見地から(高木兼寛が軍医総監)
脚気と食べ物の統計的な関係を見出し
いち早くその予防を確立した。
その反面、陸軍では(森鴎外が軍医総監)
脚気菌が脚気を起こすとし、
その存在を究明することが優先された結果、
日清戦争では、陸軍の戦死者の4倍の兵隊が
脚気で死亡した。
原因究明よりも
目の前にあるリスクを予防する。
それが疫学らしい。

本書では食べ物や生活習慣と
それぞれの病気との関係を
科学的統計的な根拠(エビデンス)を元に
事例を羅列する形で進んでいく。
副題の通り、「やせる」「健康」がキーワードなので
どういう生活習慣がやせるのか
より健康的なのかを示している。
それ自体はあまり関心はなかったのだが、
加工肉を50g多く食べると
心筋梗塞の発症リスクは42%、
糖尿病のリスクは19%増えるというので、
これ以降、我が家では加工肉を
ほとんど食べないことになった。
で、おかげでベーコンや鶏肉ハムなどの
燻製品を手作りするようになったので
生活がより豊かになったという
副産物もあった。

詳しいそれぞれの事例は
本書を読まれたいが、
メッセージとしては
食事は量よりも質の改善を行うべし、
ということだった。
ただ単に量を減らすのではなく、
GI値といった食事後の血糖値の上昇度合いの値が
低い食品を選ぶことや
手軽に食べられる加工肉等を避けるなど
そういう改善に努めるというメッセージが
とても自分の志向と合っていた。

さて、
そのような内容でとても面白かったのだが、
承服できない点が2点ある。
まずは、農薬や遺伝子組み換え食品についての記述。
その題で章立てられていたので、
すわ、農薬や遺伝子組み換え食品はすでに
疫学的にエビデンスがあるのだろうか?
とかなり驚いたが、
そんなことはまったくなく、
エビデンスはないが、と断りを入れつつ
それらの食品が危ないかもしれないというかきぶりは、
「先生、疫学としてはそれで良いんですか?」
と問いただしたくなった。
たぶん、編集者の横やりか要らぬ入れ知恵だろう。
その方が本が売れます、とでも言ったのか?
他の章は、徹底して疫学的見地で書かれているのに、
農薬と遺伝子組み換え食品だけ
やたらと歯切れが悪い。

もう1点は、
それぞれの事例でエビデンスを得られた実験について
引用が書かれていないこと。
専門書じゃないからそこまではいらないかも、
というのは、もしかして編集者の提案なのだろうか?
本書の「はじめに」にも書かれていたが、
本来であれば、本のタイトルは
「病気になりがたい」とすべきかもしれない、
とのことだったが、
分かりやすさを重視したとのことだが、
分かりやすくするための作業というよりは
これら2点に関しては、
より売れ筋の本に仕立てるという
意味合いの方が強い気もする。

とても良い視点だと思うので、
ぜひぜひ疫学的視点をきちんと広める意味でも、
こうした一般書でも守らなければいけない点は
はしょらず、きちんと書いてほしいと思う。

多くの時間とたくさんの研究者の努力によって得られた
エビデンスを元に確率論的に
安全の物差しとして
僕らの周りにあるリスクを
きちんと測りえることができる
稀有な学問だけに
そういった記述がとても残念だった。
それ以外は、とても良い本。
今後も疫学について勉強しようと思う。





読書の秋ということで、
書評でも書こうかな。

瀬戸口明久 著 『害虫の誕生』:虫からみた日本史.2009.筑摩書房.

一言で言ってしまえば、実際のただの虫が害虫化したという論理展開ではなく(これはこれでまた違う論点がある)、近代化の流れの中で、「害虫」という概念が浸透し、人と虫との付き合い方が変わった、というのがこの本の大枠であろう。
虫と人との付き合い方は、その時代時代の価値や技術の変容により、その時代を生きている人々の「精神の習慣」(内山節)の変化によって、その関係性が大きく変化した。本書の射程は、江戸期から戦後のDDT普及までであり、中心事例は明治期から戦前にかけてである。それは富国強兵と軍国主義に彩られた戦争の時代であり、その国民すべてを動員した総力戦において、昆虫学の主目的は分類ではなく食糧増産のために害虫を駆除することが求められていった。その過程の中で、実際に農作物や人に害を与える虫たちとの関係は大きく変わっていった。江戸期は虫害を天災やたたりと捉えて、虫送りや駆虫札などの宗教的な方法など虫を駆除対象とした方法ではなく、人々がその難を逃れるための活動であった。それが近代技術世によって「害虫」が発見され、駆除されるべき目標として位置づけられた。その流れは決して一方向ではなく、揺り返しもあった。本書の明治期の事例では、サーベル農政下で繰り広げられた害虫駆除に対して農民の反発が描かれているが、それは害虫を排除するという考え方自体が、農民たちが持つ自然観と生命観に相容れないものであったというくだりはとても興味深い。これらの事例をいくつか横断して、その史観を筆者は東洋的な自然観が西洋に比べてよりエコロジカルであったとは評価せず、そのオリエンタリズム的な視点を批判しつつ、エコロジカル対自然破壊的という単純な二分法そのものを批判しているのが秀逸だった。近代的視点が入り込む前の江戸期の農民にとっても虫害は忌み嫌われるものであり、その自然をそのまま受け入れていたわけではなく、それに対処できる方法が他にあまりなかったということであろう。戦前の害虫駆除の事例では、天敵による防除(生物的防除)や青色灯による物理的防除といった化学物質ではない防除研究が主流であったようだだが、それは日本がよりエコロジカルだったわけではなく、化学物質の生成に必要な原料が戦争によって供給されなかったという物理的な制限を受けたことによることが大きい。だとすれば、本書では取り上げていないが、社会変容論として物理的要因と精神的要因において、それらは相互補完的であり、精神的要因としてのその時代の精神の習慣としてその技術を受け入れる素地があったこそなれば(やや生命に対する生命観のギャップはあったにせよ)、その対象を駆除するという意味では、その技術をそれなりにすんなりと受け入れることができたのかもしれない。それらも含めて、エピローグで触れられている著者の視点こそ、本書の核のようにも思えるのだが、新書であるためか、その部分の記述は少ない。著者の考えや詳しい解説は、次回作に期待したい。


もともと歴史小説が好きだったので、
たまにはこういう本も読む。
でもこういう本の読書記録を
普段は残さないのだが、
これはほんの少しだが残そうという
思いにさせるだけの本だったので記録したい。

明智憲三郎 著 『本能寺の変 431年目の真実』 2014.文芸社.

明智光秀の子孫でシステムエンジニアである著者が、さまざまな文献をあたり、これまで僕らの脳裏に焼き付けられていた物語とは別の本能寺の変の真実をあぶりだす意欲作。理系の人間らしいアプローチで、時の権力者が残した文献を事実が捻じ曲げられているとして、それに拠らない文献や日記を丹念に調べ上げ、そこで起きたであろう事実らしきものを蓋然性をもって説明している。光秀の謀反の動機として、土岐一族の盛衰に苦心する姿を本書では書き上げているが、その時代の精神的習慣を持ち合わせていない読者には、その妥当性は不明のままである。できればここの箇所でその時代の精神的習慣について詳しく解説がほしかったが、それ以外の光秀と家康の同盟や藤孝の裏切りなどは、その後の豊臣政権と徳川幕府の流れの中で、もっとも腑に落ちる説明だった。まさに時代は本能寺の変を起点に大きく回転し、そのそれぞれに内面化された経験によって時の権力者たちも翻弄されていく(利休切腹・秀次切腹・春日局の取り立て)筋立てはただの歴史ミステリーとしてしまうことのできない説得力があった。
本能寺では、本当は何が行われていようとしていたのか。明智光秀が詠んだ句とその時の天気。歴史のどの箇所に手が加えられて、どこがねじ曲がったのか。それらすべて著者のいう「蓋然性」をもって明らかにされ、一つの筋道がつながっていく。
論理的な文章と軽妙なリズムで読者を飽きさせないのもよかった。ただ贅沢をいえば、なぜ信長は家康を謀反に見せかけて討とうとしたのか、その動機と背景も著者ならではの解説がもっとほしかった。
エピローグであげたビスマルクの言葉もいい。「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」。自分とは異なる価値観や経験・思考を認め、それにいかに肉薄できるか、ということであり、自分の経験を先人に当てはめ自己を正当化させるために歴史を用いるべからず、ということらしいが、まさに本書はその一部であるその時代の価値観に寄り添っていたと思う。僕も自分のテーマをこのように科学したい、とそんな風に思わせてくれた本だった。良書。



久しぶりに書評でも書こうか。
本を読み散らすのは楽なんだけど、
こういう作業をたまにやらないと
読んだことを忘れてしまいそうなので
記録しよう。

さて、本はこれ。

高橋 久仁子 著 『フードファディズム』:メディアに惑わされない食生活.2007.中央法規出版株式会社.

僕らの住む世界では、さまざまな健康食品があふれ、食の情報も大量に出回っている。安心安全を声高に叫べば叫ぶほど、それは一種の狂気を生み出し、僕らの意識は過剰な食の意識に捕らわれの身となる。毎日食べないと生きていけない僕らは、その行為の根源にある食に対して、いろんな不安を潜在的にも顕在的にも抱えているからだろう。その不安を煽って、「食べ物や栄養が健康や病気へ与える影響を過大に信奉したり評価すること」(p20)を著者はフードファディズムと定義している。それの状況を助長する社会は、飽食で大量の情報によって論理的思考を厭う人々がいる場合という指摘は、まさに僕らの社会を指している。膨大な情報をいちいち論理的に解決せずに聞き流してしまっている日常で、かつ、海外への食糧援助の2倍の食糧を廃棄している僕らの社会では、著者のいうフードファディズムがはびこっている。

あふれる食情報との付き合い方では、著者は玉石混淆の情報の中からまともな情報を選び出すのは現実的に難しいと指摘する。それは体に好・悪影響があるという物質にも、その情報に「量」を考慮しない場合があったり、経口摂取では吸収されない物質を注射で投与して好・悪影響があるように見せかけたり(その逆もある)、統計的には魚や野菜の消費が増えているにもかかわらず欧米化する食という肉食増加の逆のイメージを誇張したり、かなり専門的に注意深く情報を精査しない限り、僕らでは判断のつかない情報の提供があちこちで散見されるからだ。体に良い効果を期待して食べることを著者は、効能効果主義で食べると表現している。これを踏まえて、食品を良い悪いの二分で判断せず、個別の機能性情報はあくまでも話題として聞き置きながら、自身の食生活全体を俯瞰する情報に視点が移行することを進めている。機能的に悪いという食品を避け、良いものだけ摂取し続けても決して健康にはならない。まんべんなく、いろんなものをバランスよく食べる。それに尽きるのだろう。

では、どうやって僕らは効能効果主義に陥らず、論理的に食の情報を取捨選択できるのだろうか。それは情報の発信側の「薬事法」や「不当景品類及び不当表示防止法」に違反しないような巧みな「工夫」を見抜く必要がある。著者はよく使われる工夫を3つにまとめている。①キーワードはずし、②擬装「研究会」からの情報発信、③効果体験談、である。

①のキーワードはずしでは、ずばり「糖尿病に効く」などの表現は薬事法違反になるので使わない。そのため「糖尿でお悩みの方に」や「糖尿が気になる方に」という、いわゆる受け手に行間を読ませて、あたかもそれに効果があるように思わせる表現法を使っている場合である。②では、その健康食品などを売りたい業者が、研究会を名乗り情報を発信しているケースである。③は、TVやラジオショッピングでおなじみで、効果を数値化したものはなく、体験談で効果があるように見せかける手法だ。ひどいものでは、効果体験談すべてが架空だったこともあると著者は指摘している(1995年のクロレラ錠剤販売の事例より)。この手法で販売されているモノすべてが、効能効果主義だと判断してよいだろう。一つの論理的な情報処理の指針になるだろう。

本書の秀逸なところは、こうした情報判断だけではない。社会が持っている食領域のジェンダー問題まで踏み込んで、健康について議論している点だろう。「食事のことは女性の役割」という社会通念もジェンダーの産物と指摘し、健康の自己管理権を奪われているに等しいと批判する。その上で、食のことは両性の役割という意識を一般化させたい、という。男だろうが女だろうが、日々の食事への意識が、単純なそれぞれの単品での効能効果主義に陥らず、自己の食生活全体への目配りにもつながるのだろう。そこには、一緒に食べるのが大事ではなく、一緒に作れ、と著者の強いメッセージが込められていた。ジェンダー的食の意識のズレをさらに狙って、一人に一個の胃袋を標的に「これを買え、あれを食べろ、それは便利だから」という凄まじい商業戦略が、そこそこに健康を考えてほどほどに食べる、という当たり前の意識を失わせてきたのかもしれない。

何かが危なくて何かが効果的だという食の眼差しは、やはり健康とは直結しないという読後感がある。僕らは毎日の食べ物の中で偏りなくほどほどに食べることが最も健康的なんだろう。さまざまな健康食の情報にあふれているが、日本人の食事摂取基準が本書では紹介されており、多少の工夫はあっても、それを基準にしたそれぞれの食事実践が大事だという。僕としてはもう一歩踏み込んで、季節の旬を食べまわす工夫も本書の射程に入れてほしかったが、その記述がなかったのが残念。

最近FBなんかでも、食の情報が増えてきているように思う。そんな中にも単純な食品の機能だけに目を向けるような効能効果主義や、健全な食の情報を歪曲し過大評価したようなフードファディズムが散見される。さらにTPPなど社会情勢の変化によって、海外産に対する意識が顕在化し、これからますますフードファディズムが醸成されるような社会になっていくようにも思える。そんな中で、健全な思考を持って健康に暮らすためには、一度は目を通したい本。ちょっと前の本ですが、こんな時代だからこそ、おススメします。




中西 友子 著 『土壌汚染』:フクシマの放射性物質の行方.2013.NHK出版.

本書は、東京大学大学院農学生命科学研究科の調査チームによる、福島第一原発事故後の環境汚染についてまとめられたものである。本書の目的は、フクシマの放射性物質が自然環境の中でどのように循環し、そしてどのように蓄積し、環境と人体にどういった影響を与えていくのかを検証したものである。水俣病のように、自然界のエコシステムに乗っかって、次から次へと汚染を拡大していくのかどうか、そこに焦点が絞られているともいえよう。

放射性物質の種類によって半減期や生命にたいする影響が違うこと、またベクレルとシーベルトなどの放射線を表す単位にあるように、人体に対する影響を図る構造の違いなどが、放射性汚染の現状を理解するのを難解にしている向きがあるが、本書では平易な言葉で解説している。ベクレルとシーベルトの違いを蛍光灯を例にとったのはわかりやすかった(ベクレルを蛍光灯が発する光量に例え、シーベルトを人が実際に浴びる光の量に例えていた)。
本書で扱う放射性物質は、フクシマの事故で大量に放出された放射性セシウム137に主眼をおいている。

放射性物質の自然界での拡散・蓄積・循環を検討する前に、理解が必要なのが、その物質の物理的半減期と生物的半減期だろう。放射性物質は物理的に不安定な存在で、刻々と放射線を出しながら崩壊している。例えば放射性セシウム137の場合、30年でその量が半分になる。なので、放射性セシウム137の物理的半減期は30年となるわけだ。半減期を迎えても全部が無くなるわけではなく、半分になるだけ。
だからといって、もし放射性セシウム137が体内に入ってしまえば、30年経たないと体内のセシウム137は半減しないのか?といえば、そうじゃない。生命は代謝する。僕らの細胞は刻々と入れ替わる。だから取り込んだセシウム137も、その代謝と一緒に体外に放出される。物理的には減りはしないが、体の代謝によって体内から放出される。体内のセシウム137の量が代謝によって半減する時間を生物的半減期という。セシウム137の場合、筋肉などに取り込まれ、2~110日で生物的半減期を迎える。入り込んだ場所と代謝のスピードによって異なるってことか。ただ体内に取り込んでしまった放射性物質は、その場所で放射能を出し続け、その近くの遺伝子などを傷つけ続けるので危険なことに変わりはない。
ちなみに余談だが、放射性ヨウ素131の場合は、物理的半減期が8日だし、それに加えて生物的半減期なんてことがあるとなんだかちょっと安心してしまうが、いったん体に取り込むとヨウ素131は甲状腺に蓄積し、代謝によって半減される生物的半減期は80日もある。だから取り込んだヨウ素131は物理的にほぼ崩壊するまで体にとどまることを意味する。

本書の結論から言えば、降り注いだ放射性セシウム137はその場所の土壌に吸着されて、そこからほとんど動かない。自然界のエコシステムによって拡散することがあまりないとのことだった(海の場合は別なので注意)。吸着した土壌粒子や有機物などと一緒に懸濁液となって移動する場合もある。事故後原発から離れている場所で基準値を超える米が出てきたのも、これに由来する。
放射性セシウム137は、粘土土壌につよく吸着されるが、粘土土壌の種類によっても異なる。イライト・バーミキュライトでは強く吸着され、カオリナイトの粘土では吸着されにくい、とのこと。砂壌土の場合は、吸着されず水などと一緒に流れていく。いったん吸着されれば、イオン化して溶脱することはない。セシウム137はカリウムと形状が似ているため、カリウム欠乏の土壌では植物体に取り込まれやすい。稲の場合、取り込まれる時期と環境の違いで穂にセシウムがたまる場合もある。これまでは古い葉にセシウム137(過剰なカリウムは古い葉に貯蔵されるため)がたまるとされてきたが、二本松のケースでは新しい葉と穂にたまったケースもあった(夏の有機物分解と懸濁液と谷水灌漑による)とそのメカニズムを説明している。果樹の場合は、根から吸い上げられたことよりも、樹表面から転流で実に移行している。
物理学的半減期が30年のセシウム137でも、生物学的半減期は60~90日で(代謝で外部に放出される)、乳牛でも汚染されていない餌を与えれば、3か月後にはほとんど牛乳にセシウムが含まれることはない。魚の生物学的半減期は種類によって異なるが、大別すれば海水を多く飲む海水魚の場合で50日、ほとんど飲まない淡水魚は100日だった。陸上では吸着された土壌が風雨、もしくは有機物分解などで微量にしか移動しないが、海洋はやや事情が異なる。海に降り注いだセシウム137は海底の土壌に強く吸着されるが、海流とともに海底を土壌が動くため、吸着された汚染物質はダイナミックに移動を続けている。海流と共に、海底の土壌と一緒に拡散しているのが現状だ。この研究はほとんどされていないため、どのように汚染が広がっているのか正確な部分では不明らしい。

さて、本書では除染についても説明している。
畑での除去については、ひまわりなどの植物が有効だと言われてきたが、ひまわりは実際には土壌中のセシウム137全体の0.08%しか吸着できず、逆に汚染物質の総体(ひまわり残さ)が増えてしまうそうだ。その残さをどう処分するか、また別の問題に行き当たってしまうのだ。やはり表土除去が有効だとのことだが、数千年かけて培ってきた表土除去は農業の可能性を奪ってしまう。そこで深耕や天地返しといった方法がとられる場合がある。これはセシウム137が表土数センチの土壌に強く吸着されて、そこから放射線を出し続けているので、表土の下の層の土と撹拌することで、表土近くから人体に影響する放射線の量を減らそうという取り組みである。一定の効果があるが、土壌から完全にセシウム137がなくなるわけではない。またそこで作業する人などは、耕起の度に舞い上がる土煙を吸いこんでしまえば、体内汚染につながるため危険は高い。表土は剥がしたくないが、作業者の安全を考えると放射性物質の総量を減らさないといけないだろう。

本書ではセシウム137に主眼が置かれているが、ストロンチウム90などの他の放射能物質なども気になるところだ。ストロンチウム90は、フクシマの場合チェルノブイリと違って低温だったため放出量が少なかったそうだが、物理的半減期はセシウム137と同じ30年で、しかもカルシウムと構造が似ているため、体内に取り込まれる骨に蓄積し、生物的半減期が50年という長きにわたって体を傷つける物質でもある。作物にとってもカルシウムは必須微量要素であるため、どのように取り込まれるのか、解説が欲しいところだ。またセシウム137のように他の放射性物質も土壌粒子に吸着されるのかどうか、そのあたりの説明は少なかった。セシウム137がどのように自然界にとどまるのかを理解できた分、むやみやたらな恐怖は消えたが、同時にほかの放射性物質についても同様に解説の必要性を感じた。ぜひ、今後の研究で明らかにしてほしい。

福井は、世界一の原発立地地域だ。そして、原発は必ず事故が起こる。そんなところで農業をする身としては、来るかもしれない原発事故に備えて、できるだけ知識をためシミュレーションする必要がある。本書を読んで土壌が放射性物質を吸着してくれて、自然界での拡散もメカニズムがわかってきたのはよかった。だが、土壌が吸着してくれても、放射線が出なくなるわけじゃない。耕作者はその放射線が出る耕地で土をいじり、作業し、作物を育てなければいけない。表土をはぎ取れば、土づくりを命として考えてきた農業そのものが存続できない。そして作物に取り込まれていないといくら検査して、風評被害はあとをひかないだろう。

ここでのこの自然と一緒に歩む生活を、ほんとうに小さな幸せの連続の生活でまったく豪奢な生活でもなんでもないのだが、その生活そのものを奪う権利なんて誰にもないはずだ。それとも誰か原発が必要な人たちの発展のために、僕らはこの生活をいつでも投げだす覚悟を持っていないといけないのだろうか?いったい誰が、どんな権力で、そしてどんな信託を誰から受けて、この21世紀のデモクラシーの世界でそれを強要するのだろうか?
僕は願う。できるだけ早く原発をとめてほしい、と。



神門善久 著 『日本農業への正しい絶望法』.2012年.新潮新書.

本書は、神門氏の著作。氏の著作はこれまで2冊ほど読んだ。氏の論理展開はとても簡単明瞭で、平易な文章が特徴だろう。本書もこれまで2冊と同様、平易な文章だったが、論理展開には、残念だがかなり無理を感じた。『日本の食と農』で展開された視点をどう収めていくか、また新たに展開するか、という点で、かなり苦悩されているようだ。

氏の農業分析の特徴は、視点を農地利用に設定されている事である。これは僕が読んだ前著2冊も同様である。農地を農業を行う生産現場と捉えず、財産化し、転用機会に対する期待が大きくなっていることで、生産性を損ない農業政策の矛盾をついている。この農地という場所に対する意識の差異に視点を置くことで、農業界が抱えている問題をすっぱりと切り取った辺りは、氏の素晴らしい分析力と洞察によるものだろう。この考えのおかげで、僕もコミュニティにおける農業の意識の差を自分なりに消化することが出来たのは事実だ。

さて本書では、氏はその先を見据えようと試みたのだろう。農地に対する意識の差異を明確にすることで、農業の現状に潜在的に潜んでいる問題をある程度は解りやすく僕らの前に示してくれたのだが、ではそこから先に進もうとした時に、ややこしい農地利用問題に足を突っ込むことになる。農地利用を国が強力に制度化すれば、すでに歴史が示した通り、70年~80年代に破綻をきたしてしまった(もしくはみんなで抹殺してしまった)共産主義の焼き増しになるだろう。論理展開も規制緩和か規制強化かの二分化論に陥りやすくなり、あまり農業と農村の現状を反映しなくなる恐れもある。そこで氏が持ち出してきたのが、『技能』論であった。農業における技術を、マニュアル化(一般化&普遍化)できる技術と名人の技としての技能の2つに分け、技能の復権が大切だというのが氏の主張だ。こうすれば転用機会を待つフリーライダーのなんちゃって兼業農家と専業農家を分類して考察できる。しかも、農業ブームにつけ込んで参入をうかがっている他産業の法人も、同じ刀で一刀両断できるってわけだ。技能の話が出てきた辺りで、氏の苦悩とその成果を見た感じがした。しかし、その刀はそもそももろ刃の刃だ。氏が進もうとしている方向に論理展開することには無理がある。どういう経緯で「技能」論が顔をもたげてきたのかはわからないが、導きたい結論に導くための突貫工事的に作り上げた理論にも見えるのは、僕の意地が悪いからだろうか。現場で農業をしている人間として、「技能」の話は他と差別を図る方便として、とても魅力的な言葉だ。だが、氏の技能についての説明や議論が浅すぎる。「日本の食と農」の書評では、原洋之介先生にご登場願ったが、今回は渡植彦太郎先生に出てきてもらうとしよう。渡植の著作「技術が労働を壊す」では、氏の論理と同じようにマニュアル化された、科学に裏打ちされた技術が、現場で創意工夫された技能を否定し、労働と生活において主権を失うと指摘している。しかし、渡植の場合、それは生活と労働の現場で得られた知識を技術が否定し、人々は自分たちの時間を切り売りする生活になると指摘しているに過ぎない。渡植の批判が色あせているわけではないが、それらの状況下でも我々が技能を発揮していることに、渡植の時代ではまだまだ事例や考察が少なかったといえよう。さてその上で、技能と技術の議論では、名人が観察する農業の労働、つまり氏の言う土づくりなどが素晴らしくて、マニュアル化しやすい機械化された農業や水耕栽培などが技能を否定するわけではないはずだ。事実、それらの現場でも、たとえ労働や栽培管理がマニュアル化されていても、それぞれに創意工夫が活かされ、現場なりの「技能」が存在するからだ。名人芸の「技能」のみに技能を見出し、その他ほとんどの凡庸な普通人が日々に創意工夫する技を「技能」と見なさないのは、別項で氏の言うノスタルジーの罠ではないだろうか?事実、水耕栽培ではその販売されているシステムのままでは、ほとんど儲けが出ないため、それぞれの農家で微調整とたえず改善を行い、自分の営農にあったシステムを作り上げている。

こう書いても氏の反論はあり得るだろう。農転期待の兼業農家と法人には、それほど努力をして農業の技能を磨かないのではないか、といえるかもしれないが、それはカテゴライズされた「兼業農家」と「法人」が絶対条件にはならないはずだ。それにそれぞれが目指す市場の違いから、それぞれが農業技術に求める価値が違いすぎる。小規模で土づくりを考えている農家が必ずしも正統ではないだろう。それはただ単にそういう市場を志向しているだけで、氏はそれに共感するからそこに正統性を見出すのかもしれないが、全世界的に目を向けてみれば、他国の自給自足で循環的に行っている農業スタイルに必ずしも素晴らしい「技能」があるわけではない。もしそう見えるのであれば、やはりノスタルジーの罠でしかない。

農地利用の視点に「技能」論をプラスして考察した点は、大変刺激的だったが、そこに結論ありきの論理展開に見えてしまう点が残念だった。事例として出ていた名人篤農のK氏だけを優良事例とせず、様々なシーンでの普通の人々に創意工夫があることを考察に盛り込めば、農業の現場がもっと色鮮やかに浮かび上がると思う。氏の次作に期待したい。



青山正和 著 『土壌団粒』:形成・崩壊のドラマと有機物利用.2010年.農文協.

デイビットモンゴメリーの『土の文明史』(まだ書評は書いていない)を読んで、表土の保護を意識するようになり、では、その表土はどう形成されていくのか、を知りたくてこの書を手にする。
土壌の団粒構造が、有機物を含みながらマクロな団粒を形成し、その団粒の中で糸状菌などによる有機物の分解により、また糸状菌の菌糸などでミクロの団粒が形成されて行く。そのミクロの団粒の内部に閉じ込められた有機物は、微生物などの分解を逃れ、長期的に安定する。耕起によって破壊される団粒は、マクロ団粒であり、ミクロ団粒は残る。ミクロな団粒を再び形成していくのは、植物残差による有機物により形成されていくマクロ団粒なのである。という形成と崩壊のプロセスをこの本では説明している。
100年以上の厩肥投入の土壌実験の結果などが紹介されており、化学肥料のみで栽培をしていたとしても、一定までは低下するのだが、ある時点で、土壌中の有機物総体量は安定するという結果は興味深かった。栽培されていた植物残差(根や茎)の量と、それを分解する微生物の働きが安定するからであろう。ただ120年続けて厩肥を投入され続けても、有機物の量は頭打ちにならず、緩やかながらも増え続けていくというデータも面白い。
耕起による団粒崩壊が、団粒の量と構造を変え、土壌中の有機物の量の減少にもつながるとして、著者は不耕起栽培を提言する。デイビットモンゴメリーもそうであったし、これまで読んだ土壌学の本でも、同じ提言だった。やはり、不耕起なのだろうか。
また土壌中に閉じ込められたカーボンが、気候変動(気温上昇)によって、微生物の分解が活発になり、二酸化炭素として空気中に放出されるという指摘もあった。
不耕起やカバープランツを利用して、表土を守る大切さと、その表土の形成で起こっているダイナミズムを知ることができた。薄い本だが、一読の価値あり。
安田 弘法・城所 隆・田中 幸一 編 「生物間相互作用と害虫管理」2009年.京都大学学術出版会.

本書は、作物を中心として、そこも寄ってくる害虫や天敵、果てにはただの虫や微生物などの相互作用を読み解き、天敵による害虫防除という狭い範囲だけをフォーカスするのではなく、よりダイナミックな生物間での相互作用を紹介している本。
天敵による害虫防除に特化した本はこれまでも多数あった。しかし本書では、ある意味、総合的に教科書的に天敵による害虫防除については紹介していないものの、これまで生物の相互作用を狭義的に利用した天敵と害虫と言う関係だけでなく、本当に我々の視点を照射しなければいけないのは、そこに広がっている生物間の相互的な作用によって生み出されている、いわゆる「網」であることを思い知らされる本。
本書の構成は、3つにわかれている。第1部では、昆虫・菌・ミクロな生物そして植物間の相互作用がミクロな視点で論じられている。捕食者である天敵であっても、お互いに食べ合う関係であったり、アブラムシを守る蟻の存在が、反対にアブラバチにとっては他の捕食者から身を守りながらアブラムシを捕食できる存在であることを説明している。それは天敵や非捕食者、またはただの虫にみえるような生物はすべてはそれらのカテゴリの中でそれぞれの役割を持っているわけではなく、それぞれの作用と関係の中で、それぞれの役割がダイナミックに変化していくことを説明している。腐食との関係で生物相の関係性の変化などは、防除というカテゴリにおいて有機質肥料の新たな展開になるようにも思う。またある種の天敵においても、そのグループがそれまでどのような経験を積んだかによって、その能力の違いや嗜好の違いがあることを第5章で紹介している。これは種がおなじであれば、その昆虫の特性が全て同じだと思っていた私にとって、かなりショッキングな内容だった。
第2部では、実際に総合防除を行っている現場の事例紹介。土着天敵の利用や、雑草も含むインセクタリープラントの紹介もあり興味深い。様々な植物の花粉や花蜜が天敵の寿命や産卵能力を向上させてくれるという実践的な報告もあり、作物の栽培だけでなくこうした雑草の管理やコンパニオンプランツの導入の重要性も示唆している。
第3部では、マクロな視点で田んぼ1枚・畑1枚での総合管理ではなく、ランドスケープ的な視点で、地域の生態系全体を考えていくことの重要性を示唆している。最終章を書いている桐谷氏のIBMの論には刮目に値する(IBM論を詳しく知りたい人は同氏の「ただの虫を無視しない農業」を参照のこと)。
ミクロからマクロまで、生物間の相互作用を横断的に見ていくことで、実は天敵―害虫といった関係や、また種によってその役割や機能が一定的であると見ていた機能主義的機械論的な視点だったことに気づかされる。この新たなパラダイムは、生物間の相互作用を網として捉え、防除という範囲では到底捉えられるものではないことを表している。そしてそれは新たな視点をもって臨むことを我々に強いてくる。その心地よい脅威と驚きと感動が、農業というダイナミックな作用の中でこれまでも育まれてきた本当の関係を我々に気がつかせてくれるだろう。私たち農民は、パラダイムが換わったことを、本書を持って知るべきである。



これまでに読んだ本で、読書記録を書いてないものがずいぶんある。
その中でもこの本は特に大切なので、記録しておこう。


福岡 伸一 著 「ロハスの思考」.2006年.木楽社.

分子生物学者である著者が、その科学の先に見出した生命への眼差しを記した著作。「動的平衡」や「生物と無生物のあいだ」などの著者でも有名。
ここではロハスの思考の書評ということしたが、その内容としては上記の2著も合わせて福岡氏の視点に近づいてみたい。

3つの著作に共通するのが、「動的平衡」という科学的事実に裏打ちされた思想である。動的平衡とは我々の身体を作っている分子の「流れ」の状態である。生命は行く川のごとく流れの中にあり、我々の体を構成する分子は、常に摂取された食料の分子と入れ替わり、そして廃棄されるというサステイナブルな平衡の秩序の中で成り立っている。「だから私たちの身体は分子的な実体としては、数か月前の自分とは全く別物になっている。分子は環境からやってきて、一時、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく」(「動的平衡」p231)。
この視点から、氏は「健康の幻想」を強く批判する。軟骨を構成材であるヒアウロン酸やコンドロイチン硫酸、皮膚に良いとされるコラーゲンなどは、それがそのまま軟骨や皮膚になるわけでなく、一度ばらばらに分解されて、その都度、違う物質へと変化し、それも一時的に体内にとどまるだけなのだ。「食べ物として摂取されたタンパク質が、身体のどこかに届けられ、そこで不足するたんぱく質を補う、という考え方はあまりに素人的な生命観」であり、「生命をミクロな部品が組み合わさった機械仕掛けと捉える発想が抜き差しがたく私たちの生命観を支配していることが見て取れる」(「動的平衡」p78-79)、と生命の機械論的生命観を強く批判している。
生命が、動的な平衡状態にあるとすれば、ルシャトリエの法則「一般に可逆反応が平衡状態にあるとき、その条件(濃度・温度・圧力など)を変化させると、条件変化の影響を和らげる向きに反応が進んで、平衡が移動する」もまた、その平衡に当てはまりはしないか。氏は、生命がミクロな分子パーツから成り立っている精巧なプラモデルとして捉えられ、それを操作対象として扱いうると考えている遺伝子工学に批判的である。「平衡状態にあるネットワークの一部を切り取って他の部分と入れ換えたり、局所的な加速を行うことは、一見効率を高めているかのように見えて、結局は平衡系に負荷を与え、流れを乱すことに帰結する。(中略)クローン羊ドリーが奇跡的に作出されるも早死にしてしまうといった数々の事例は、バイオテクノロジーの過渡期性を意味しているのではなく、動的な平衡系としての生命を機械論的に操作するという営為の不可能性を証明しているように私には思えてならない」(「ロハスの思考」p34-35)。
科学者がその自身の研究から導き出した科学への眼差しと、そこから生まれてくる機械論的思考への批判は説得力がある。フリッチョフ・カプラを初めて読んだ時の感覚が蘇ってくるのを覚えた。

上述の視点から、氏は食について考察を入れている。ベネフィットを得る者とコストを負わされる者が必ずしも同一でないという批判などもあるが、その中でも最も瞠目すべきはリスク論に対する時間の概念の欠如という批判だろう。遺伝子組み換えの技術が、従来人類が行ってきた品種改良と実質的に同じだとしても(ただその中でも、動物と植物の遺伝子が混ざり合うことはまずなかったのだが:自然界の中ではミトコンドリアという例も無きにしも非ずだが)、それが同じものであるという感覚にはなれないと氏は語る。それは時間軸の欠如。何世代にもわたって交配・交雑しながら品種を選別し、作り上げてきたこれまでの品種改良に対して、遺伝子操作はそれに比べれば時間は一瞬なのである。「「時間」だ。組み換え作物と品種改良が同じだとする議論には時間の概念が抜け落ちている。長い時間の中で自然はその平衡点を見出す。それを私たちは自然だと感じる、急いで部分を組み換えたものは平衡からはずれ、いずれ自然はそのズレを取り戻すために揺り戻しを行うだろう。だから私たちはそこに不自然を感じるのだ」(ロハスの思考 p76)。

僕が日々圃場で感じる自然界の平衡を豊かな言葉をもって説明してくれたこれらの著書。僕らを含めてすべての生き物は、動的平衡の中で、流れ行く分子の一時的な淀みとして存在している。だとしたら、その流れを無理に堰き止めない、無理に加速させないためにどうしたら良いか、そんなことを考えさせてくれる本だった。
ひさしぶりに書評なんぞ書いてみようか。



和田 哲夫 著 「天敵戦争への誘い」:小さな作物防衛隊の素顔とは?.2003年.誠文堂新光社.

本書は、月刊誌「農耕と園芸」で2000年から2002年まで連載された文章を中心に、天敵による害虫防除についてまとめた随筆形式の本。一般的な教科書のように、天敵利用について網羅されてはいないが、当時の天敵利用について世界的な現状を紹介している。といっても、紹介されている事例に古さは感じない。それだけ、天敵利用の防除体系が遅々として普及していないからであろう。

体系的に勉強したい方は、他の教科書を読むと良いだろうが、教科書に無いような現場でのちょっとした技術がそこかしこに紹介されているので、実践を考えている人には面白いだろう。たとえば、ワーゲニンゲン大学の教授から伝授されたオンシツツヤコバチの使い方(靴の空き箱利用;p34-36)や先進的な農家のバンカープランツの利用法(p63-65)などは、実践的ですぐにでも役に立ちそうである。

本書は、専門月刊誌の連載を本にまとめたこともあり、著者の主張が一貫性を持て読者に明示されてはいないのだが、各文章に通底するものは、天敵防除はただそれだけで防除として成り立つものではなく、さまざまな防除体系の一つとして総合的に扱われるべきだ、と読み取ることができる。有機農業に対する論考(p41‐42)では、一つのドグマに則っていくことは科学的でも、そして理知的な方法でもないとその姿勢を批判し、あらゆる可能性の一つとして天敵の普及を示唆している。もちろん、天敵防除が全てでもないことも、明確には記されてはいないが、紹介されている現場での事例からも読み取れる。この考えには、大いに賛同できる。確かに、有機的資材の有効性や、持続的で永続可能なエコシステムの優位性を僕も現場で実体験として認めてはいるが、現在はそれがすべてとも思っていない(施設内での肥料は、すべて有機肥料のみをしようしてはいるが)。

著者は、天敵農薬の利用によりある種の外来天敵による生態系への影響については、やや楽観的である。海洋島では絶滅あるいは絶滅危惧の種もあるとしているが、大陸島ではその心配は少ないという。すでに人の動きによって多くの微生物が世界的に行き来をしている中で、目に見える大きさのものだけをことさらに取り上げて批評することにいかにその甲斐がないかを説明している(p112-113)。だからといって、意図的にある種の危険性を持つ動物種の移動を安易に認めるべきではない、とも記してはいる。

天敵の現場での現状やその考え方を知りたい方にお薦め。特に自分のこれまでの害虫防除に疑問を感じた農業者は一読の価値あり。
神門 善久 著 『偽装農家』.2009年.飛鳥新社.

なんともすさまじいタイトルの本ではないか。
このタイトルにつられて、読むことに。
本書は、90ページ程度の薄い本で、内容としては、同著『日本の食と農』を簡単に分かりやすくした感じの本という印象を受けた。ページを薄くした分、議論の内容も薄くなり、その分論調も極端になっているように思う。
さて、氏が言う偽装農家とは何か。
それは、収入は農外産業への就労で賄いつつ、各種助成金や農業政策の恩恵にあずかりながら細々と農業をしつつも、生産性が低く、農地の転用機会がやってくれば、さっさと農地を売り払ってしまうような農家のことを指しているようである。
こういう事例は、何も特別な農家ではない。
表面的にこの言葉を捉えて、それに当てはまるような農家を僕の周りで探すのは、そうむずかしいことではない。
ただし。
ただし、である。
はたして、この言葉は正確に現在の農家を捉えているのだろうか。
本書の中では、ある農事法人の事例が紹介されていた。そこでは、ある企業による、農地を倉庫として転用する機会に、賃借料の高い倉庫へ次々と農地を転用していく土地持ち非農家の姿と、それによってその農地を借りうけていた農事法人が大きな損害を受けた話が、簡単にだが紹介されていた。同じ農家として、またここでもそういう事がおこらないとも限らないだけに、背筋の凍る話であった。
しかし、この場合においても、この事例に関わっている土地持ち非農家のほとんどが、その転用機会を期待して、言わば本当に農業をやっているように装っていた農家として存在していたわけでもあるまい。
問題は、神門氏も指摘しているように、雑な都市計画と虫食いに農地転用を許可する農業委員会であろう。それは僕も同意見だ。
だからといって、農地の売買における、農地としての利用価値と転用された時の価格に圧倒的な差があり、それによって農地転用をしようという農家(もしくは非農家)を僕は偽装農家とはとても呼ぶ気にはなれない。
なぜなら偽装農家という言葉の場合、積極的に、主体的に、その個人が、言わば農家のように装っているという印象を受けるからである。そうではないだろう。そういう転用機会が発生してしまう制度上の不備が問題なのではないだろうか。そういう制度上の不備を抜け穴としている農業員会や都市計画の頭に偽装という言葉をつけるのであれば、まだ納得できる。

神門氏は、日本の食と農でもそうであったが、どうやらフリーライダーを絶対に許すことができない性質なのであろう。僕もそういう輩は許せない。が、だからといって、市民参加型で土地利用の計画を立てるのはどうなんだろうか。オープンに都市計画や農地計画を立てるは良いような気もするが、日本の食と農の読書記録でも書いたが、市民の持つ農業に対する眼差しに僕らの農的営みが左右されるのは、正直不安でもある。各種メディアで最近賑わっているような農業の捉え方(ノスタルジック・企業的あり方)で、僕らの農業が規定されていくようで、そうした眼差しが僕ら農民の中に越境してくるのを感じることが多い。僕ら農民は、農地によってその農の形が決まっていく。そういうした言わば自分たちの営みを、同じ眼差しで見ることができないかもしれない人々と一緒に作り上げていけるのかどうか、とても不安だという点で、氏の論には同調できなのである。
村田 純一 著 『技術の哲学』.2009年.岩波書店.

妻が面白い本を図書館で借りてきた。
それが本書。
これまで読書はしてきたのだが、どうにも評を書く気が起らず、読みっぱなしにしていたのだが、今回は書こう。ただ、本書は自分の専門外も良いところで、ほとんど読みこなせていない。そんな状況だが、この本から受けた感銘は記しておこうか。

技術とは何だろうか?
当たり前だが、それが本書の問い。
本書は、ギリシャ神話やソクラテス・プラトン・アリストテレスなどの哲学の巨人から出発し、現代へ向けて技術哲学の変遷を取り上げている。が、ここでは割愛しよう。特に自分にとって記すに値することだけを書きたい。

技術は、単に人々の持つ「既成の目的に新たなひとつの手段として加わっているものではなく、むしろ新たな目的を含んだ新たな目的‐手段連関が形成され、それによって新たな行為の仕方、新しい生活様式がうまれた」(p7)とし、その相互作用的な関係により現在の生活が作り上げられている。そしてその現状から、技術が自動的に社会の在り方を決定しているという技術決定論と、社会の方がどのような技術を導入するかを決定しているという社会決定論の論争が長く続いてきた。
技術決定論では、技術が社会を決定する過程を肯定的に見る(近代主義)か、あるいは、否定的に見る(反近代主義)か、で大きく見解が分かれているが、新たな技術が導入されることで、それは人々にとって新しい選択肢を一つ増やすことではなく、その技術の持つ価値論理によって選択の思考や幅を限定されることを意味する点で、この論は刮目に値する。
「とりわけエリュールやハイデガーの議論のなかでは、現代の社会のなかでの技術はたんなる中立的手段には還元できない働きをすること、また技術的論理が社会の至るところに浸透していること、などに光が当てられており、これらの点に関しては、どのような技術観をとる場合でも無視することはできないだろう」(p118)。

開発途上国での援助の文脈で、この技術決定論的な事例は日常茶飯事で起きており、また現場で関わり合う人々(援助する側される側双方)にとっても苦悩となるのは、新たに導入された技術が現地にとって一つの新たな選択肢となることはなく、それによって人々の価値や社会構造が大きく揺さぶられるからであろう。その面からも、本書は興味深い。

しかし、そのような決定論的な論争が、技術とは何かをはっきりと映し出せるのであろうか。著者は、技術があたかも社会的要因から独立して存在し、独自の論理を備えているかのように見る決定論的見方を否定し、技術と社会が密接不可分な関係であり、技術と社会の関係を解明する社会構成主義の立場を支持している。
著者は自転車と大陸間弾道ミサイルが開発されるプロセスを事例にとり、
「何が自転車であるか、何が大陸間弾道ミサイルに関する成功した実験事実であるか、といったこと、つまり、技術的製品の意味、技術的事実の意味そのものが社会的・政治的要因によって規定される」(p122)と述べている。
その中で、ラトゥールのアクターネットワーク論も取り上げている。
「多くの人間がさまざまな意図と欲求をもって行為しているにもかかわらず、社会はなぜ安定した仕方で成立しうるのかを説明しようとすると、法律、道徳、あるいは、慣習などの規則の存在と、そうした規則が個々人へ内面化されているといった要因をあげるのみでは、明示しうる規則の少なさからみても、明らかに不十分だからである。(中略)そのなかで重要な役割を果たしているのが、規則を事物の形で内在化した人工物の働きだと考えられる」(p124)。
技術によって派生した人工物をアクターとしてとらえることで、人間にとっての「共同行為者」という役割を可能にしたラトゥールの視点は面白い。
その意味で、社会的なものによって技術が構成されたり、技術的なものによって社会が構成されるというのは、その両者が別々のものがあって、相互に構成しあうというのではなく、技術と社会はそれぞれが二重に決定されているということを意味していると、著者は言う。

技術が形成されていく過程で、社会と技術がお互いに作用しあい、ある一定の妥協が成立し、ネットワークの安定性が生み出される。すなわちその技術と社会的価値の「解釈の柔軟性」は閉じられ、人工物の起源やもともとの意味は「ブラックボックス化」することになる。安定的に表面的に機能する技術が、その論理思考によって安定し支えられた社会の中に存在するのを我々が見るのである。そのためその確立したネットワークの見地に立ってはじめて、それはあたかも確定的な論理にしたがった過程であるかのように見えてくるのである。
多分、ここの部分での思い違いが、援助の技術移転の中で起きている大きな問題点にも僕には感じられる。

著者は、自転車と大陸間弾道ミサイルの事例を説明しながら、「技術の解釈学」の重要性を説く。
「現在の型をもつ自転車は、女性解放という政治的流れを支持し、またその流れに支持されることによって実現したのであり、合衆国の大陸間弾道ミサイルに関する技術的な実験事実は、国際政治の状況を構成すると同時に、その状況によって構成されたのである。技術的製品が設計され製作された社会・技術ネットワークが安定し、正常な環境の一部となると、それらが持っていた政治的性質は隠され、沈殿し、暗黙的なものとなる。しかし、このことは技術が本来持っていた政治的性質が消滅したことを意味するわけではなく、むしろその政治的役割が自明になるほどうまく機能するようになったことを意味している」(p132)。

僕は本書をインドネシア研修生との技術観の祖語や、開発現場での苦悩の経験から興味深く読めた。そこにあったのは、技術と言うものが、我々の社会である程度機能し安定している場合、その状態から見えているものがあたかもそれ自体が独立した存在として見えており、その導入が新しい手段であるかのように見えていたことによるある種の勘違いでしかなかったのである。その技術を作り上げてきたプロセスに解釈を求めるならば、それを共有する文化的な価値と、またその変遷によって常に意味付けが変化している技術という姿が見えてくるのである。

ちなみに本書ではさらに非決定性を考慮に入れた技術の設計原理にまで触れ、潜在的知性は大きいが顕在的知性は小さくなるような人工物の設計についても述べている。またフェミニズムの視点と技術に関しても1章を割いて説明しているが、ここでは割愛する。
神田 英雄 著 『伝わる心がめばえるころ』:二歳児の世界.2004年.かもがわ出版.

本書は、娘が通う保育園のベテラン保育士から薦められた。
どうやら僕のブログを読んでくださっているようで、僕と娘のやり取りを読んで、この本を薦めてくれた。
発達心理学の視点から、2歳児の心の成長を解り易く解説し、それを理解することで、より豊かな関係づくりを促してくれる本。
ちなみに、本書での2歳児とは、保育園での2歳児クラス(3歳になる年の子供たち)を指している。なので、まさにわが娘のことのような事例が多く書かれていた。

2歳児は、内面世界の広がりが発達する時期でもある。1歳ごろから、物や人の動作が表象(心の中に思い浮かべる行為)として、それぞれの世界を心に映し出していく。その積み重ねと経験から、空間的にも時間的にも世界が広がり、人を理解する力も少しずつつけていく。本書では、子供の主体性と内面世界の広がりから生まれる興味深い外部の世界、そして他者を理解し始めることによって生まれる「伝える相手」との関係の中で、内面世界のより深い発達があることを、事例を通じて紹介している。「子どもの能動的な関心を引き出すためには、その子の状況にあった興味深い外界だけではなく、発見したものを伝える相手の存在との両方が必要だということです」(p42)。

また2歳児は、内面世界の広がりと同時に自我が発達する時期でもある。自分と他人との違いに気が付き、「いやっ」と相手の提案を否定することによって自己主張をしていた1歳児と違って、2歳児になると大きくなった自分の価値に気が付いて欲しいという欲求が出始めてくる。2歳児の「ミテ、ミテ」は、自分でも感じられた価値を、他者から評価してほしいという要求の表れでだと著者はいう。「勘違いしたくないのは、子どもはほめられるから自信を持つのではなく、自分で自分の価値に気がつくからほめられたいのだということです」(p64)という指摘は、すでに自我がしっかりと出来始めていることを証明している。むやみやたらと褒め回すと、わが娘が機嫌を損ねるのもそういうことなのであろう。

2歳児の要求の中には、二つの意味が込められていると著者は言う。ひとつは、言葉に出した通りの意味での行為への要求。そしてもうひとつが、「自分を認めてほしい、尊重してほしい」という自我の要求である。なので、2歳児の要求に形ばかりの行為として答えたとしても、時に機嫌が悪化してしまうのは、自分の思いを受け入れられていないことへの反発なのであろう。「二歳児の自我を受け止めるとは、その子の「思い」を受け止めることです。つまり、行為への要求は満たすことができないけれど、「あなたの思いは受け止めたよ」と伝えることができれば、自我を受け止め、わがままを助長しない関わりになるのではないでしょうか」(p73)。この指摘は、わが娘のわがままとも思えるような行動に、どう接したら良いのか、その参考となった。
また自分を理解してほしいという要求は、自分の経験などを語る「自分の物語を語る」という行為に表れている。しかし2歳児の記憶はまだまだ断片的で、自分の記憶がストーリーとして繋がっていくには、聞き手との共同作業が必要だと著者は言う。大人とのやり取りの中で自分の物語を作っていき、そしてその過程と物語の共有に精神的安定を感じるのであろう。著者は、この忙しい現代に親も子供も時間がなく、家に帰れば寝るばかりで、親子で共通の経験を共有する時間がなくなってきており、そのことが心からの安定感を持てないことを意味するかもしれない、と指摘している。これは、何も2歳児のみに当てはまるものではないだろう。現代社会の歪と不安定さを心理学の眼から鋭く指摘しているといえよう。

さてこの自己の領域を守ろうとする2歳児は、他の子供たちとどのような経験を積んで、他者を受け入れていくのであろうか。本書では、「相手を受容し、受容されるから依頼することもできる。そういう経験を積んで、「関われる」という自信と、自分を受け入れてくれる友達への信頼感や友だちを大切に感じる気持ちを高めて、自我領域の頑なさを脱していくのが、二歳児の一年間ではないかと思います」(p116)と具体的な保育の事例と共に書かれている。

急に難しくなった、と感じることが多い2歳児であるが、その裏側には、こんなにも豊かな成長と他者との関係づくりが出来上がりつつあったのか、と思い知らされる一冊。本書の視点に立てば、面倒なわがまま、と思っていたようなわが娘の行動や発言も、成長として温かく見守ってやりたい、という気持ちにさせてくれる。表題が「伝わるこころ」とあるのは、2歳児には伝わる心が備わっており、その子の豊かな成長は、あとは大人や他の子供たちとの関係の中で、経験を共有しようという働きかけがあるかないか次第だ、と言っているように思える。信頼関係や物語の共有といった関係が、2歳児を大きく育ててくれるのであろう。すべての2歳児を持つ親に本書を強く薦めます。良書。
青沼 陽一郎 著 『食料植民地ニッポン』.2008年.小学館.

本書は、海外に食料を依存している日本の現状(61%の海外依存)についてのルポルタージュである。本書では、アメリカ型食生活への変化(肥満)、BSE問題、世界分業化される日本の食卓の状況、中国野菜問題を通して、日本が食に対して主権を失うと意味での「植民地」化している現状を記している。

国家間外交の優劣と国内産業構造の変化によって、さらにはそれによって生じた農業の衰退から、海外依存の日本の食料事情が作り上げられていった。BSE外交では、アメリカのなし崩し的な市場再開の圧力とそれを認めるためだけに立ち上げられた国内委員会のやりとりには、この国に主権はあるのか、と考えさせられた。また中国問題では、その国では食べない食品を加工することから生まれる不信感などが記されていて、読者の背筋を凍らせるような事例が満載である。

本書の本筋としては、それらの事例を並べ、中国やアメリカを批判することではない。海外に61%の食料を依存しながらも、もっとも注文が多いといわれる日本人が、いずれは食料争奪で買い負ける日がくる、と批判していることが本筋であろう。外交的に欧米に追従しながら、国内では中国の食品批判を繰り返すが、自分たちの食卓の構造を鑑みないそれらの追従と批判を、本書は批判しているのである。アメリカについで食料輸入で第2位になった中国に依存しながら規制をしようと言う日本の姿を本書は取り上げている。

しかし、事例のみは満載なのだが、その食料依存と規制の構造についての考察は深くない。ポストハーベスト問題で、アメリカで収穫後に使用される農薬の規制は、普通に使用する農薬の濃度より何倍も濃くても、問題がないように制度的に変更されているのだが、あれほど依存している中国には、農薬の原体は同じだが製品名が違うだけで、残留濃度0.01ppmの厳しい規制がかかっているケースがある。その差はなんなのか。ただ単に外交的問題なのか。それとも日本の深層に潜む心理的・言説的な何かがあるのだろうか。僕は、意図的に形成されていく大衆言説に大きな問題があるとみている。が、本書では、そこには踏み込まず、問題の表面をなでるばかり。

また本書の基幹をなすはずの農業についての記述はお粗末。戦後の近代化の流れの中で、農業から工業へ、小規模専業から兼業化へと農業は変化していったのは事実であるが、その記述の仕方が、農家が制度に乗っかって時流の変化から取り残されたような書きぶりが目立つ。果たしてそうだろうか。21章の農業の記述では、農業の歴史的背景や土地へのこだわりを持つ古い日本の農家が、経営戦略に長けたアメリカ型農業にやられていく、とされているが、では、その日本の農業はどうあるべきなのだろうか。著者は批判はすれども答えはしない。アメリカ型農業や中国の安い農産物に押されているのは事実だが、その自由市場経済の構造や補助金によってしか成り立たない輸出産業としてアメリカ農業が、日本の農業構造にマッチするとでも思っているのだろうか。原洋之助の『北の大地・南の列島の「農」』や暉峻衆三の『日本の農業150年』などを参考によく勉強すると良いだろう。

事例が多く、知らない事実が書かれている点で、面白くは読めるが、そもそも著者の眼差しに疑問を抱く。アメリカや中国との関係で、それらの追従や規制を批判しているが、片方で、日本の農業の在り方については、その自由市場の歪には触れず、アメリカ型の経営農業に凌駕されると書かれている。批判し散らかした後に、一体筆者は何を読者に問いかけようとしているのか、メッセージが不明瞭。また批判の視点も分野間で統一がなく(著者の定見の無さが露呈した結果だろうが)、ただ批判するだけで終わっている。なんとも後味が悪い本。
外国人研修生問題ネットワーク 編 『外国人研修生 時給300円の労働者』:壊れる人権と労働基準.2006年.明石書店.

本書は、JITCO(国際研修協力機構)による研修制度について、その制度と研修内容を批判している本。
僕の農園では、まさにJITCOの研修制度により、二次受け入れ機関として外国人研修生を受け入れている。現行の研修制度で何が問題として議論されているのかを知るために、本書を手に取る。

題名からして解るのだが、本書で取り上げられているもっとも根幹の問題点は、研修生は労働者なのか研修生なのか、であろう。JITCOの研修制度では、来日1年目は研修生として扱われる。支払われるのは、労働に対する「給与」ではなく「研修手当」である。そして制度上では、研修内容として実務研修以外に非実務研修(座学)として、実務研修の1/3の時間を座学の時間として研修生のために用意しないといけない。2年目からは技能実習生となり、在留資格も研修から特定活動に変更し、労働に対する給与が支払われる。

本書で主に問題として挙げられているのは、研修生である1年目から残業や休日出勤といった労働者として扱われることである。また座学も時間的に不十分で、なかにはまったくしていないケースもあると批判している。
また二次受け入れ機関内での研修や労働が表には出てきにくいため、不当な給与や不当な残業、時には暴力などの温床となっていると批判している。たしかに、二次受け入れ機関になるには、研修に対する特別な資格は必要なく、多くが人手に困っている中小企業なのである。その面から考えても、外国人研修生は「安価な労働者」と捉えられていることも否定はできない。経営的にも余裕がなく、外国人研修生を安価な労働者と考えている二次受け入れ機関で、まっとうな研修が行われるはずはなかろう。

本書では、研修と技能実習が一つの制度のなかにあることが問題だとしている。そして政策提言として、純粋な技術移転に関する外国人研修制度は活かしつつ、別個に外国人労働者の導入を検討し、労働ビザで入国させるべきだとしている。2つの目的を持った、ある意味、人手不足の中小企業救済としか思えないような現行制度を改め、別々の2つの制度(研修制度と労働者制度)に分けるべきだとしている。

では、本書に問いたい。
外国人研修制度として必要なものはなんだろうか?
本書では、研修制度を受け入れる企業の条件として、従業員数20人に対して1人の研修生としているが、従業員数が多ければ、まっとうな研修が行われると言いたいのであろうか。本書の提言通りいけば、僕のケースでは、従業員数は10名となり、研修生の受け入れはできない。僕ではまっとうな研修ができないというのであろうか。企業体の大きさが研修ができるかどうかの判断基準ではないであろう。
また研修制度に求められるものは何であろうか?
本書では、「大手企業などが中国で新しい工場を立ち上げるときに、その生産ラインのキーポイントに就く人たちを日本に呼んで、事前に研修させることはある。そういう人たちは、正真正銘の研修生と言えよう」と書いているが、自国の生産体制を強固のするためという意味では、国内で安価な労働者として扱われる研修生と、海外で安価な労働者をもとめて企業が出ていくという2つのケースの間に、どれだけの差があるのだろうか。甚だ疑問を感じる。研修生たちの自国の発展や開発に対する自治を強化うるための研修でなければならないと、僕は考える。結局、本書は国内の法律と制度の差を突っつくだけで、相手国の発展や開発については、それほど気を配っていないのが読み取れる。国内だけではなく、研修制度の延長上に存在する相手国での開発にまで踏み込んだ議論をし、それを反映させるような形で、研修制度に対する提言を行ってほしい(批判をするなら、とことん議論してほしい)。
C.K.プラハラード 著 スカイライト コンサルティング 訳 『ネクスト・マーケット』:「貧困層」を「顧客」に変える次世代ビジネス戦略.2005年.英治出版株式会社.

1日2ドル以下で生活をする世界の「貧困層」を市場として開拓しよう、という本。
と、要約してしまえば、ただ単に、貨幣経済のより一層の浸透と市場主義的な発想で、書かれた新たな従属論的関係を構築させようという本にも思えてしまうが、たぶん本書の意図はそうではないだろう。

これまで多くの資金が「援助」という名の下で、貧困層解消のために投入されてきたが、ほとんど効果を上げていないと、著者は指摘し、「大企業の投資力を、NGOの知識と取り組みや、支援を必要としている地域社会に活かせないか?他にはない解決策を共創することはできないのか?」を出発点に、企業の投資力・資源・活動範囲を活かして、世界の貧困層を購買力のある中間層に変えようという試みが、本書の意図するところであろう。

貧困層と言える人々は日々の生活に追われ使えるお金がない、と見るのは先入観だ、と著者は指摘している。確かに「購買力は、先進国に住む人々とは比較にならないが、人口の多さからいえば貧困層はかなりの潜在的購買力を持っている」(p37)と著者は言う。また貧困層は、途上国ないといえども物価の高い環境で生活している傾向が非常に強く、それらは「地方での独占状態や、モノや情報を満足に入手できない状況、不十分な販売網、昔ながらの強力な中間搾取業者の存在の結果である」(p37-38)と指摘している。
確かに本書の事例におけるITCのケースの場合、インターネットを利用した農産物取引(農家はパソコンを購入)においては、既存の市場による搾取にあっている農家の構造的貧困の解消に一役買っている。またマイクロクレジットなどの小規模金融商品も、その一助となるであろう。こういった事例から考えれば、貧困の構造が解消されることにより購買力が向上し得るといえることもあるであろう。

だがしかし、自給できていたはずのものを購買させ、ただ単に消費するだけの存在に貶めてしまうケースはないのだろうか。我々のもつ先入観を払しょくさせ、途上国の貧困層こそがネクストマーケットだとする著者の主張は、その行き過ぎた先にあるであろう金銭的な価値基準のみでの発展を批判しきれはしない。その意味では、本書はバンダナ・シヴァの対極にあると見てもよいだろう。確かに、本書のケーススタディで伝えらていることは、企業側のイノベーションによりグローバリゼーションの本当の意味での恩恵を、貧困層の人々も受け取れるようになっている。前記したように構造的貧困などには、本書のアプローチも大いに有効であろう。また貧困層が抱える特有の問題にも、企業のもつ技術は大いに役に立つであろう(ヨード欠乏症事例など)。しかし、人々の生きる歓びに対して、本書のアプローチは毒にもなりえる部分があることに無批判のままである。

人々の生きる歓びとは、その基本は「自治」であろう。本書のアプローチは、構造的な搾取の解体や金融資源に対するアクセスを容易にする面で、個人やコミュニティの「自治」向上に益しているであろうが、自給できていた存在を金銭的な従属関係におく可能性があることを忘れてはならないだろう。自治の力を失わせる大きな力としてグローバリゼーションがあることも頭に入れて、本書を読まれたい。
船瀬 俊介 著 『悪魔の新・農薬「ネオニコチノイド」』.2008年.三五館.

最近、僕のブログに「ネオニコチノイド」というキーワード検索で訪れる人が多くなった。はてな?と思い、検索すると本書に行き当たった。僕はネオニコチノイド系の農薬を使用している。ので、これは読んでおかねば、と思い、手に取る。

本書では、ネオニコチノイド系農薬(殺虫剤)の危険性を訴えている。
特に、ミツバチに対する影響が大きく、帰巣本能を狂わし、巣箱からハチがいなくなる現象が多発していると警告する。その事例として、フランスにおいて、ミツバチの大量死とネオニコチノイド系殺虫剤「ゴーショ」との因果関係についての事例が紹介されている(第8章)。2006年4月29日、フランス最高裁は、ミツバチと「ゴーショ」の因果関係を認め、その薬剤の全面禁止の判決が出されている。

本書では、有機リン系殺虫剤の次世代殺虫剤としてネオニコチノイド系殺虫剤が登場したと紹介している。低毒性として登場したネオニコチノイドの毒性や残留性、魚毒性、さらには水質汚染の度合が高いと鋭く批判している。さらには、もっとも汚染原因になっているカメムシ防除に使われるネオニコチノイド系の農薬を無意味だと批判する。サイロ選米で光学センサーによって斑点米を弾いてしまうのであれば、1等2等3等の格付けは必要ない、と指摘している。等級が必要かどうかや、カメムシ防除自体が農薬産業との癒着かどうかは議論が残るだろうが、少なくとも、農家からの買い上げ時の等級は、かならずしも小売り米の価格に反映されていない状況なので、ある意味著者の批判は的を射ている。

著者は、受粉を媒介するハチが居なくなれば、農業収益が減少し、農業の壊滅になり、それがひいては食糧危機になると危惧する。ネオニコチノイド系に限らず、農薬の散布から脱却し、自然農法などの技にシフトすることを提案している。

数点、異論がある。
まず、ネオニコチノイド系の殺虫剤は半径4㎞四方に拡散する(通常農薬は100m)という記述について。ミツバチへの影響として4㎞四方の話をしているのだと思うのだが、それは薬剤が拡散して影響を及ぼしているのか、無味無臭でミツバチが無警戒に農薬で汚染された水などを巣に持ち帰るために引き起こることなのか、詳細な記述がない(ミツバチの行動範囲は、3㎞四方程度)。そのため、ネオニコチノイドの農薬が、あたかも4㎞四方を汚染するような書きぶりが目に付く。こういった正確ではない記述は、読者の不安感を煽るだけであり、本書の立ち位置をよく表している。僕は現場で、ネオニコチノイド系の殺虫剤「モスピラン水溶剤」を22ℓ噴霧機で使用しているが、数メートルも離れていない圃場の無散布区は、害虫の食害にあっている(放っておくと、作物は全滅)。薬剤が4㎞四方も拡散するのであれば、こうした事態もあり得ないはずではないだろうか。拡散するのはミツバチが運ぶからなのか、それとも薬剤がそこまで飛ぶのか不明なまま。散布の仕方の説明も無く、情報の出し方が正確ではない。

次に、海外の論文を引用してネオニコチノイド系の農薬の毒性を鋭く非難している記述について。海外の論文で取り上げられているのは、ネオニコチノイド系の一つの化学物質である「イミダクロプリド」。その毒性を引用しながら、ネオニコチノイド系すべての化学物質の毒性を語るのは、あまりにもお粗末としか言いようがない(p128の箇所)。イミダクプリドでの結論を引用し、本文において、さりげなくネオニコチノイドに言葉をすり替えて批判しているのは、意図的なのであろうか。それとも著者が化学系の知識に乏しいからであろうか。英文の専門書から毒性を考察する力があるところをみると、著者はわざと議論をすり替えて、読者の不安感を煽っているようにも読めてしまう。悪意を感じる。

さらに、有機リン系農薬からネオニコチノイド系農薬への転換について、ある専門家の意見を紹介し、除虫菊成分のピレスロイド系というすばらしい農薬への転換の方が重要と紹介している。しかし、合成ピレスロイド系農薬はすでに90年代にかなり登場していて、どちらかといえば、有機リン系→合成ピレスロイド系→ネオニコチノイド系と進んできたといえるのだ。しかも、過去の合成ピレスロイド系殺虫剤は、害虫による抵抗性獲得がかなり進んでしまっている。なぜいまさら合成ピレスロイド系なのか、不可解でもある。農薬の開発にかなりの資金が投入されており、そのため企業は毒性をあまり公表せず、農薬の販売を優先させる、と農薬開発の構造的問題を著者はとりあげているが、もしかしたら、著者がインタビューをした合成ピレスロイド系の農薬を紹介した農薬専門家は、合成ピレスロイド系農薬の利権にかかわりがある立場かもしれない、と逆に勘ぐってしまう。情報の出し方が偏っているため、読者に不信感を与えており、憶測が絶えない。

また、2006年以来ネオニコチノイド系殺虫剤「ゴーシュ」を使用しなくなったフランスでは、ミツバチへの影響は改善されたのかどうか、その点も現状を紹介すべきであろう。すでに禁止になって1年以上経つのだ。その経過報告と因果関係が気になるのだが、それについての記述は一切ない。

本書の終わりには、農薬会社や農水省へのインタビューが書かれている。そこでは、都合の悪い情報をひた隠しにする農薬会社や無知な農水省役人という具合に、描かれていて非難されているだが、本書においても、著者にとって都合の悪い情報については一切記載されていないのだ。僕から見れば、著者も同じ穴のムジナである。

ネオニコチノイド系の毒性について、考えるきっかけにはなる本だけに、公平な記述が無いことに、ますます怒りを感じる。都合のよい個所を批判するだけの書は、なにも生まない。もっともっと勉強と研究を重ね、農家の農薬について考える書となるようなものを書いて欲しい。また農薬の毒性だけを取り出して、それを批判し、自然農業の提案だけでは、現代の農業か抱えている構造的問題の解決にはならない。もう3,4歩踏み込んで議論してほしい。それができないのなら、不安を煽るだけの情報が偏った本は書かないほうが良い。
ヴァンダナ・シヴァ 著 山本 規雄 訳 『アース・デモクラシー』:地球と生命の多様性に根ざした民主主義.2007年.明石書店.

本書は、シヴァの思想の集大成と呼ぶべき書であろう。多岐にわたって論じられてきたこれまでの論文(単著・共著も含む)が、地球生命体の民主主義という多様性への肯定思想の下に、本書に収斂されている。その根底には、生きるために必要な最小限の資源の利用自由の確立がある。

シヴァは、生命中心の「経済」「民主主義」「文化」を訴えている。その中でも、種子、食糧、水に焦点を当て、一部の大企業や利権者による囲い込みにより、多くの人々が貧困に追いやられ生命の危機に瀕している、と訴えている。しかしそれらは、どちらに利用権があるのか、といった2項対立的ではなく、一方的な囲い込みによるモノカルチャー化していく現状を批判しつつ、多様性の中でこそ我々は存在するのだ、とするパラダイム転換をシヴァは促している。

生命中心の経済の章では、市場経済・生命維持の経済・自然の経済の3要素のバランスが崩れ、市場経済優先になっていることを批判する。資本と労力の投下により、市場経済価値が生まれるとしているが、市場経済は自然の労力を認識していないため、本来は自然の労力に大きく頼っているはずの水などの資源を、資本が囲い込みすることを可能にしている批判する。「水を山から降ろし、海までの何千キロもの道のりを運び、蒸発させ、再びそれを地球に戻している自然の労力を認めようとはしないのです。」(p85)とシヴァの批判は明快だ。その批判の中でシヴァは、自然の経済が基礎となし、それを優先する経済のあり方を提案する。そしてその自然の経済を決定的に壊すことなく営み続ける生命維持の経済、つまり、小農的な営みを市場経済よりも優先させるべきだ、とシヴァは指摘している。

さらにシヴァは、生命中心の経済の章の中で、ハーディンの共有地の悲劇を偽りの悲劇と批判する。ハーディンに見えていないものは、それは、「共有地の存在そのものが、じっさいの共同管理と所有を前提としている、ということです」(p103)という。競争が社会の原動力となっているわけではない、という批判をしている。これは社会心理学者の山岸俊男氏の著書『社会的ジレンマ』:「環境破壊」から「いじめ」まで(2000年)の結論と合わせて考えると、より世の中について解るであろう。山岸は、社会を構成するほとんどの人が、「みんながやるから自分もする」(みんなが主義と山岸は名づけている)という態度で行動をしていると指摘している。つまり競争が社会を動かす原理ではなく、一部の人間が共有地の法を破り、資本の投下を重視し、自然の経済を貪るかたちで競争を生み出したため、現在のような狂喜な競争が、みんなが主義の中で蔓延しているのかもしれない。だとしたら、われわれが本当に目を向けなければいけないのは、市場の経済ではなく、自然の経済であり、それを維持し育む多様性の中で生きる小農の営みであろう。

生命中心の民主主義の章では、これまで人類が長きにわたり選別してきた種子の利権を、一部の大企業がパテントを取ってしまっている現状をするどく非難している。遺伝子組換え等の技術により、子孫を残すことのない種子が登場したことで、農民の多様性は失われ、モノカルチャー化していくと批判する。そしてその単一化された農業が、安定性の面でも、生産力の面においても、在来の小農的な農業よりも劣ると指摘している。市場や一部の大企業が中心となる制度よりも、民衆の生命中心の民主主義を訴えている。

生命中心の文化の章では、小農的な有機農業が、近代的な農業よりも生産性が高いことをシヴァは指摘している。食糧生産というカロリーや量的な問題だけでなく、それを生産する視点にもシヴァは考察する。家父長主義によって作られた資本主義により、生産を司る女性的な部分が排除されていると指摘している。生命の持続と分かち合いを保証していた女性中心の世界観、知識体系、生産体制を取り戻すことが重要だと、シヴァは語っている。

私が、自家菜園と食をつなげて農を考える時、シヴァのいう「人間としての女性」を感じる。それは性ではなく、その眼差しなのであろう。生産と再生産の繰り返しの中で、持続させつつも育んでいく小さな菜園とわれわれの生命との関係が、男性的なものではないことを私も感じることがある。シヴァは、そうした眼差しについて端的に語っている。伝えるための言葉を与えてくれたという意味で、至極重要だと思う。

シヴァの思想は多岐にわたる。が、その根本は、多様性を認め合うその眼差し、に収斂されるのではないだろうか。良書。
守田 志郎 著 『米の百年』.1966年.御茶の水書房.

守田志郎の「農業は農業である」以前の書。
「農業は農業である」以降は、守田は思索的な書を書き続けるのであるが、それ以前に、学術的な研究本を数冊書いている。本書はその1冊と言っても良いだろう。
自由で、それでいてブレが無く、農民のすぐそばで思索を続けた守田の思想的基礎が、ここに読み取れることが出来る。

本書は、江戸後期から明治大正昭和、そして戦後までの米に関する書である。農業の技術形態だけでなく、農業構造や農業政策の変遷、そして流通、消費地、銘柄、品種等、ありとあらゆる米に関することを、マルクス主義の視点から考察している。本書の大半は、明治から戦前までの、大名による領有を否定した地租改正を行いながらも、地主による土地支配を公認した歪みある社会制度の中で、農業の近代化を推し進めた悲劇を考察している。

各時代の農業構造と米の価値の変化を、それに関わる国家、地主、小作、米商人といったアクター間の関係を分析することで、米の全体像を浮かび上がらせている。小売や商人の価値感、地主の利益、国家政策と戦争などが複雑に絡み合って、実際の生産者である零細自作農や小作たちは翻弄され続ける。

米の品種選びでは、自作農にとっては、作りやすいこと、多収穫であること、味がよいことなどであるが、米商人にとっては、消費地段階での流通の中で、それまでは玄米で買った米の容積にたいして、どれだけの容積の白米がとれるかが基準となっていたのである。明治30年以降には、流通の近代化に伴い(地方銀行による手形決済・鉄道網による陸路輸送への転換・電信網発達による情報取引関係の敏速化)、銘柄取引が確立し、米商と地主の利益に不一致が生じ始める。市場の発展による米銘柄の確立の中で、地主による銘柄米への働きかけも、小作の価値観としては、小作料を米で取られる制度の中で、市場での価格が高い安いは関係なく、耐病・耐肥のつくりやすくしかも多収の品種を選ぶ傾向があった。さらに消費者にとっては、値段と食味もさることながら、炊きぶえする米が好まれていた。市場と流通だけが近代化していく中で、国家制度によって支えられた前近代的な生産体系(地主による支配を公認している点)は、農業の正常な近代化を著しく妨げる結果となったことを守田は指摘している。これらのアクター間での価値観の差異が、大正以降に盛んになる小作闘争へとつながっていく。

戦争によって、国家によって支えられた地主の権力は崩壊し、小作闘争も戦争期間中に潰されてしまうのだが、敗戦を契機に、農地解放が行われるのである。流通と市場に対し、自作農家がようやく直接前面に立てるようになるのである。本書では、戦後の米事情の中で、稲作の機械化への批判を繰り返している。それらの批判の多くは、現在ではあまり通用しないものばかりなのであるが、それは逆に、その頃の批判が知らず知らずのうちに、すでに現代では共有された価値そのものとなっているのかもしれない。ただし、機械化が進む中で、それに合わせた価値の平準化が進み、小農の離農が進んだ、という批判は、ある程度当てはまるだろうが、それでもなお、第2種兼業農家として農外セクターでの収入を農業セクターに投資しながらも機械化を続けてきた大多数の農家個人が持つ農へ価値については、守田の指摘では、捉えることができない。戦後の機械化と農家の兼業化とその価値観を考えるのであれば、暉峻衆三の「日本の農業150年」(有斐閣)が適当であろう。

本書の真価は、農業構造の歪みが是正されていない場合、農業の近代化政策は、零細自作農・小作農の農の営みに歪みを生み出すという指摘である。もはや日本的問題ではないのかもしれない。しかし、食糧危機を煽るこの時代に、海外への農業援助の重要性を声高に唱える人々がおり、それらの多くが農業の生産性向上による近代化を推し進めようという論調なのである。そして途上国と呼ばれる多くの国では、農業構造は国家に支持され、歪められた形で存在しているのである。かつて緑の革命によって、多くの農民がマージナルに追いやられた経験も、本書はそれ以前に書かれていたので、歴史に学ぶことさえできれば、あるいは回避できた悲劇だったのかもしれない。第2の緑の革命的な悲劇を生まないためにも、ただ単純な農業生産性向上を目指すべきではないだろう。多くの人に、本書と守田の眼差しに学んで欲しいと愚考する。
岩田 進午 著 『「健康な土」「病んだ土」』.2004年.新日本出版.

最近、土についてよく考える。連作が続くベビーリーフ栽培の中、畑の土に疲れが見え始めている。ベビーリーフは畑の回転率も高く、換金性も高いのだが、その分、畑の土を疲弊させる。毎年、大量の堆肥を入れてはいるが、果たしてそれでいいのだろうか、と疑問に思うことがある。そこで、図書館で出会った本書を読むことに。

本書は、土について化学的・物理的な要素だけでなく、人と土の関わりについても解説された本である。また、多くの土壌関係本とは違い、難解な化学的説明を出来るだけ省き、平易な文章で書かれている。

本書は、人間中心主義ではなく、ディープエコロジー的な立場から土と人との関係を眺めている。著者は、土の研究を通して、農耕は自然の摂理から反する立場をとっている。産業革命以来の基本思想を、「人間にとっての効率性」とし、収量増加と労働生産性の向上の中で、土をただ単なる養分の器としてしか評価しない視点を批判している。「土のはたらきをより深く知り、自然の摂理に沿い、自然の力に依拠する営みへの思いを強めることが大切なのです。要は、目先の利便性、経済性のみから技術を評価するのではなく、生態系や土のはたらきに対する影響なども考慮に入れ、総合的視野にたって対策を進めることが必要なのです。日本の農業技術の伝統が、土を単なる養分の器と見なし、農業イコール養分供給という考えに偏りがちであった歴史的事実を考えるとき、このような視野にたつことは、とても大切なことなのです」(p166-167)。

本書が卓越しているのは、土の肥沃度について書かれた箇所であろう。
肥沃度に関して、ミクロな視点では、土中の生物多様性による安定した団粒構造とそれらが生み出す土粒子径のバラつきが、土の物理的・化学的なバラつきによる多様性を生み出し、肥沃度と強い関係があると指摘している。またマクロな視点では、農耕地でのバラつきとして、耕すことへの意味を再考し、不耕起栽培を取り上げ、その農法を自然の力(土の進化の過程)の助けを借りて成立する栽培法と評価している。筆者は、植生の変移を通して肥沃度を増していく土、といった土の進化の過程を解説し、その視点から、耕起することによって、土の進化のベクトルを逆転させてしまうと指摘している。耕起は土壌中の物理的・化学的・生物的単一化を目指すもので、「自然の摂理に真っ向から立ち向かい、地力の低下から脱出する道を、自然に任せるのではなく、人間の働きかけによって成し遂げようとする栽培法」(p125)と批判している。不耕起栽培において、一見土壌表面の硬さが耕起栽培のそれよりも硬いイメージで、植物の根の伸張に負のイメージであったのだが、筆者は伸張根の太さの硬度計による実験結果を引用し、決して不耕起栽培の方が土がより硬いわけではないことを証明している。「人間のスケール感覚で発芽・根ばりが困難だと判断された状態でも、実は、何らの抑制を受けることなく、根の伸張が可能であることを予想させます。”土の硬さは根に聞け”というわけです」(p120)

本書の意図とは離れてしまうのだが、均一性や単一性よりもバラつきの多い土がより肥沃であるという指摘は、内山節が指摘する「関係性のゆらぎ」にも大いに通じるところがある。モダニティ(近代性)の1つの基本思考として、効率性から生まれる均一性と単一性を批判するものは、人間中心主義からの見方から多様性への肯定へとつながるのであろう。それら多様性自体も、言説化された均一的なものではなく、それこそ「バラつき」「ゆらぎ」などにみられるそれら不安定な中の安定に求められるような気がする。

著者の基本的な座視に大変共感した。
ただ、最終章の土はみんなの宝物では、消費者と生産者といった2項対立的な描き方であり、多様な農を支える小農的考えには指摘が無かった。「農家の方々の労苦を消費者たちが実感できる社会を形成する運動に、消費者が自主的に参加し、その運動を成功させることが不可欠」(p176)と結論付けているが、価格保障や農業に誇りを感じられる社会づくりではなく、消費するだけの存在を生み出したのがモダニティの負の面だとすれば、皆が農ある暮らしをまさに自分の手の中にある実感をとりもどすことこそが、大切なのではないだろうかと愚考する。

相川 明子 編著 『土の匂いの子』.2008年.コモンズ.

本書は、園舎を持たず、自主運営で青空保育を実践し続ける「なかよし会」の記録である。

我が娘の通う保育園で、園舎の増改築を自主的に行う運動をしている。その中で、賛成側からも反対側からも園舎の意義について、それで保育の質が向上するのかどうか、が議論された。結果的には、保育の質向上につながるとして、園舎増改築の運動は現在進展中である。しかし、今一度、保育にとって何が必要なのかを考えたいがために、この本を手に取る。また、園児による体験田んぼを主催するに当たって、土との経験が子どもたちにはどう影響があるのか、それも知りたくて、この本を読む。

本書は、4部の構成となっている。園舎を持たず、自然溢れる谷戸(鎌倉)で、その自然と戯れながら1日を過ごす子たちを描いた第1章「子供が育つ」。自主運営でカリキュラムから保育当番、そして畑作り、など保育活動に参加する親たちを描いた第2章「親が育つ」。そして自然溢れる谷戸が、行政により公園に整備されていく中で、その自然を保全しようと「なかよし会」は運動体へと変化をとげる。さらには、その公園の保全ボランティアとして父母たちが社会へ新たな関わりを見つけていく第3章「社会とかかわる」である。最後になかよし会に入っていた園児OBアンケートが、第4章として紹介されている。

どの章も写真を多用しており、しかもインパクトの強い写真ばかりで、子どもの能力の高さを改めて思い知らされる。頭か足先まで泥んこになったり、虫を鷲掴みしていたり、素っ裸で谷戸を走り回っていたり、もぎ取った木の実をくわえていたり。自然とのかかわりの中で、五感をフルに使い、大きく成長していく様が捉えられている。そこには、汚れたら大変、や、怪我したり病気になったりしたら、などという親の先回り的な心配は微塵もない。子どもはこう育つのだ、という強いメッセージを本書からは感じる。

また青空保育による自然とのかかわり以上に、本書では、父母による自主運営、もしくは運営に主体的にかかわることで、かかわった人間が大きく育つことを強調している。私はこの点に刮目したい。運営にかかわることで、保育が誰かに預けて自己の時間を作るだけの消極的な意味合いから、保育を通して関わり合いを深め、そのコミュニティの成長と共に自己の成長にもつながっていくという発展的な意味合いとなっている。子育てで人生を二度生きることができる、というメッセージは、強く心に残った。そして自主的な関わり合いが身についた親たちは、社会にも同じように積極的に参加するようになる。

なかよし会は素晴らしい。しかし、この会は、ある意味理想の形ではあっても、それが現社会の中で、すべての人に受け入れられる形かどうか、という面で疑問は残る。青空保育や自主運営面では、何の疑問もないのだが、保育者以外に、保育当番を父母が順番で受けるシステムは、フルタイムの共働き家族にはそもそもこれらへの参加は非常に困難であろう。また消極的な意味合いとして、保育を自己の時間を作るため、と上記したが、保育に預けるというのは、そういう意味合いも大きいのだ。週に3回だけの青空保育では、参加できる家庭が限定されてしまうであろう。また病児保育や未満児保育、夜間保育など、現在の社会構造の問題であろうが、現にそういう親たちの悲痛なまでのニーズに、この会はどう答えていくのか、それに疑問が残る。理想的なものだけに目を向けて、参加できる人だけを吸い上げていくのであれば、私はやはりもろ手をあげては賛成できない。

園舎が絶対視されている保育園の増改築運動のなかで、なかよし会の有り様は、一石を投じるものであろう。また五感をフルに使い自然の中で過ごすことの素晴らしさや、それに親たちが主体的に関わることで、自分の成長にもつながっていくという点で、大変面白い本である。しかし保育という過程だけを切り取ってみれば、本書は面白いのだが、矛盾と歪みを含んだ現在の社会の中で、本書の理想はどこまで、幼い子どもを持つ親たちを受け入れられていけるのか、その点に疑問は残った。本書を通して、その点がはっきりしたことが、私にとっては大きな成果である。
福井 勝義 編 『近所づきあいの風景』:つながりを再考する.2000年.昭和堂.

本書は、「つきあい」を対象に、様々な集団・共同体・コミュニティを人類学者の視点で観察/考察した論考集である。

8つの論考があるが、地縁によるつきあいにフォーカスを当てたものは少なく、何かしらの場があり、そこに関わる形での「つきあい」を考察している。同郷の会、インドネシアにおける華僑のつきあい、ハワイでエイサーをおどる人たちのつきあい、アフリカのある民族における離散集合のつきあい、などなどである。生産様式から生まれてくる地縁的定住型の、いわゆる農村などにおける「近所づきあい」ではなく、本書が分析しているものは、明言はしていないが、ある価値を共有できる「場」に適度に(かつ自由に)関わることで、自己のアイデンティティ確立や生活に必要と感じられる価値を得られる「つきあい」のように思える。古典的な近所づきあいではなく、生産様式にも左右されず、自由に離散集合を繰り返す現代社会において、それでもなおなぜ「つきあい」が重要なのか、それを各論考で通底した焦点としている。

最終章では、各論者が議論を繰り広げている。そこで福井が、つきあいには地縁・血縁とあるが、「時縁」を強調している。時間原理によるつきあいのことで、ある時間を共有した仲間による「近所づきあい」の重要性を示唆している。ただし議論の中では、その場合、その時間を共有した「場」が必ず必要であり、その意味では、時間原理とは言っても、ある特定の「場」がつきあいを生み出す媒体となるように結論付けられている。この「場」がこれまでの地縁原理とは違う「場」であることは、つきあいを考えていく上で重要な指摘であろう。

何か価値を共有したと感じられる「場」で、それを媒体として、民族性や文化、地縁・血縁を飛び越えて、幾重にも生まれてくる「つきあい」。そのつきあいについて考察を深められる一冊。

田谷 徹

Author:田谷 徹
農民です。

青年海外協力隊として3年(農業指導)、大学院生(ボゴール農科大:農村社会学専攻)として2年、計5年インドネシアにいました。

あれこれ寄り道・みちくさしましたが、再び農民にもどりました。これからは日本でぼちぼちやる予定です。

生産と生活が渾然一体となった農の営みを実践する毎日を送っています。

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